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Cassette Club 3.jpg

 相も変わらず、ネットやレコード・ショップで面白いダンス・ミュージックを探しもとめているが、なぜだか最近、カセット・リリースの作品に〝面白い!〟と感じるものが多い。クッキーシーンで取りあげた作品でいえば、ノイ・バランスケイタ・サノヘレナ・ハウフなどなど。レーベルでいえば、いまや多くのリスナーから注目される存在となった1080pを始め、Where To Now?(ホウェア・トゥー・ナウ?)、Hylé Tapes(ヒュレー・テープス)、Bootleg Tapes(ブートレグ・テープス)、J&C Tapesといったところか。これらはすべて、カセットを中心にリリースしている。


 とはいえ、カセット・リリースだから、ダンスフロアで流れることはほとんどない(mp3のダウンロード・コードなどがある作品は別だが)。つまり、カセットでリリースされているダンス・ミュージックの多くは、DJが使いやすいようにと作られたものでもなければ、フロアライクなものでもない。言ってみれば、ひとりヘッドフォンをしながら音楽に浸ったり、ベッド・ルームでささやかに踊りながら楽しむような者に向けて作られている。それは〝みんなのダンス・ミュージック〟というより、〝あなたのダンス・ミュージック〟という親近感のあるものなのだ。この親近感こそ、ここ最近カセットでリリースされているダンス・ミュージックのほとんどに共通する、魅力のひとつだと思う。


 なんてことを考えていると、またひとつ興味深いカセットが手元に届いた。名はズバリ、『Cassette Club 3』。以前レヴューを書いた『#Internetghetto #Russia』(2014)と同じくらい秀逸なタイトル。『Cassette Club 3』は、オーストラリアのカセット・レーベルMoontown(ムーンタウン)からリリースされたコンピレーションで、収録アーティストもオーストラリアを拠点に活動する者が選ばれている。


 そのなかでも特に興味深いトラックは、フォー・ドアの「Refresh」だ。一定の間隔で淡々と刻まれるヘヴィーなキックに、妖しげでドラッギーなシンセ・サウンドが聴き手を飛ばすそれは、さながら『Frequencies』(1991)期のLFOである。明るいトラックではないが、深淵の底を這いずるようなグルーヴに筆者は心を奪われてしまった。


 そして、ルイ・マルロの「Divvy In The Rear-View」も出色の出来。「Refresh」と同様、ダークで妖しげな雰囲気を漂わせているが、「Divvy In The Rear-View」はシカゴ・ハウスの要素が色濃いビートを特徴としている。アシッディーかつトリッピーなサウンドと、高い中毒性を生みだすヴォイス・サンプルの使い方も秀逸だ。


 また、ポエトリー・リーディングとミニマルなビートで構成されたカルリ・ホワイト「You Can Drive」も、ポスト・パンク好きの筆者としては見逃せない曲。聴いているとヤング・マーブル・ジャイアンツを連想してしまうのは、筆者だけだろうか?



(近藤真弥)




【編集部注】『Cassette Club 3』はMoontownのバンドキャンプで購入できます。

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スリーフォード・モッズ.jpg

 最近、イギリスのロックをいろいろ聴いていると、政治/社会問題に言及した曲(あるいはそうしたニュアンスを含んだ曲)を見かけなくなったなと思う。もちろん、マニック・ストリート・プリーチャーズは健在だ。プライマル・スクリームのボビー・ギレスピーも、イギリス保守党政権による労働組合取り締まり政策案に、「これはもう階級戦争としか言いようがない。もし、この法案が成立すれば、労働者たちによるストライキは実質不可能になるだろう」(※1)と怒りの声をあげ、そうした姿勢を作品に反映させることも多い。だが、いま挙げた者たちは、すべて40~50代だ。それより下になると、曲のなかで政治/社会問題に言及することが極端に少なくなる。もはやイギリスのロックに、強烈な反骨精神を求めるのは難しいのかもしれない。


 とはいえ、〝イギリスのポップ・ミュージック〟にまで範囲を広げれば、強烈な反骨精神はいくつもある。たとえば、共産主義者として知られる作家グレアム・グリーンの小説と同名のパーク『The Power And The Glory』(2014)には、英首相デーヴィッド・キャメロンと英財務大臣ジョージ・オズボーン(現在は筆頭国務大臣も兼務)を指した「David & George」という曲があるし、ケイト・テンペスト『Everybody Down』(2014)は、高騰する都市部での生活費に苦しみながら、それでも何とか生きる若者たちの殺伐とした心情を鮮やかに描いてみせた。さらにはジャム・シティーも、最新作『Dream A Garden』(2015)で、〝ブロークン・ブリテン〟と言われるイギリスの現況を悲観的に表現した。


 そうしたなかでも、ジェイソン・ウィリアムソンとアンドリュー・ファーンによるスリーフォード・モッズは、とりわけストレートに怒りを表明していると思う。〝Fuck〟などの卑語は当たりまえ。英語が堪能な者であれば、思わず顔をしかめたくなるかもしれない。ふたりとも現在40代半ばで、音楽活動歴もそれなりに長いのだが、大きな注目を集めたのはここ2~3年のこと。サウンドは、ひたすら同じパターンを刻むビートに、ひたすら同じリフを奏でるベースという、極めてシンプルなものである。そこにジェイソンの暑苦しいラップを乗せることで、スリーフォード・モッズ・サウンドの出来上がり。一言で表せば、ヒップホップとポスト・パンクを掛けあわせたミニマルなサウンドスケープとなるのだろうが、正直、サウンド面に革新性はないし、卓越したプロダクション技術が見られるわけでもない。ざらついた質感の音粒は筆者の好みだし、反復による高い中毒性も面白いとは思うが。


 では、スリーフォード・モッズの魅力とはなにか? ずばり言葉だ。本作『Key Markets』では、エド・ミリバンド元労働党党首や、ニック・クレイグ元自由民主党党首を血祭りにあげている。しかし、それが無慈悲に聞こえないのは、言葉に込められた怒りの矛先が、常に強者、もっと正確に言えば、多くの犠牲と抑圧を強いたうえで調和を保とうとする権力に向けられているからだ。どんなに言葉が汚く、どんなに攻撃的で過激だったとしても、スリーフォード・モッズは弱者やマイノリティーに刃を向けたりはしない。そこがスリーフォード・モッズの上手いところであり、大きな注目を集めることができた理由のひとつでもある。強者側(権力)からすれば、本作は耳が痛くなる言葉で埋めつくされた作品に聞こえるだろう。だが、そんな強者側に抑圧され犠牲を強いられた者たちからすれば、明日を生きるための糧になるような笑えるユーモアと、弱者やマイノリティーをしっかり捉える眼差しという優しさが込められた音楽に聞こえるはずだ。もちろんそこに、怒りもあるのは言うまでもない。こうした、ギリギリの状況でもユーモアと優しさを保てるタフネスは、ゲイ・ライツのアクティヴィストとしても有名な俳優イアン・マッケランが、コメディー番組(※2)で過激なゲイネタを浴びても成立するイギリスならではと言えるかもしれない。


 そして筆者は、このような表現を可能にするセンスこそ、多くの人が持つべき強さだと思う。言うなれば、イメージが武器となるメディアという戦場において、世界中の人々を笑わせたチャップリンがなぜヒトラーに打ち勝つことができたのか? ということ。ユーモアと優しさを失った強さは、単なる弱さでしかないのだ。


(近藤真弥)



※1 : NME JAPANの記事『プライマル・スクリームのボビー・ギレスピー、デモを犯罪化するイギリスの法案に激怒』より引用。



※2 : 英BBC『Extras』のこと。イアン・マッケランはシーズン2の第5話にゲスト出演。

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Kuedo ‎- Assertion Of A Surrounding Presence.jpg

 クエドことジェイミー・ティーズデールのファースト・アルバム『Severant』(2011)は、実に素晴らしい作品だ。ローランドのTR-808というドラムマシーンを大々的にフィーチャーし、アフリカ・バンバータに通じるエレクトロや、当時はまだ物珍しいスタイルだったジューク、さらにはデヴィッド・ボウイ『Low』(1977)を連想させる冷ややかなシンセ・サウンドも見られるなど、多くの要素が詰まった作品だ。ジェイミーはかつて、ローリー・ポーターと組んでいたヴェクスドというユニットでダブステップ黎明期を盛りあげた男だが、ソロ作品では、ダブステップやベース・ミュージックの要素をあくまで〝ひとつのパーツ〟として扱い、主にIDMやアンビエントの要素を強く打ちだしてきた。ゆえにダンスフロアに適したプロダクションでありながら、ホームリスニングでじっくり味わうタイプの作品に仕上がるという良質な折衷性を実現してきた。そういった意味でクエドの音楽は、幅広い層に受けいれられる可能性を秘めている。ただ、その可能性が〝秘められている〟ままなのが、難点といえば難点だった。


 しかし、そんなクエドの難点は、最新EP「Assertion Of A Surrounding Presence」では解消されている。まず、本作で目を引く曲は、「Case Type Classification」。ジュークに通じるビートと低音が効いたトラックで、ダンスフロアで抜群の威力を発揮するだろう。わかりやすい展開はなく、音の微細な変化でグルーヴを生みだす手法は決して派手とは言えない。だが、執拗に反復されるキックと、その周りを飛びまわる磨きぬかれた音だけで、平熱の高揚感を作りあげる手腕は実に見事。リヴァーブやディレイといったエフェクトの使い方も秀逸だ。聴くたびに新たな発見があり、ダンスフロアだけでなく、ベッド・ルームでひとり集中しながら楽しみたい曲でもある。


 そして、本作を語るうえで見逃せないのは、「Border State Collapse」や「Eyeless Angel Intervention」でうかがえる、インドネシアの民族音楽ガムランの要素だ。特に「Eyeless Angel Intervention」は、もろにガムランなフレーズを衒いなく用いており、そこに冷たくも耳心地がよいシンセ・サウンドが交わることで、ミニマルかつ神秘的なサウンドスケープを描いてみせる。この曲は、クエドがネクスト・レヴェルに突入したことを告げる、本作のなかでも屈指の良曲。


 また、すごく嬉しいのが、「Event Tracking Across Populated Terrain」でローリー・ポーターとコラボレーションしていることだ。そう、先に書いたローリー・ポーターである。ヴェクスドは事実上活動休止状態なだけに(それゆえジェイミーも〝元ヴェクスド〟と紹介されることが多い)、このコラボレーションはヴェクスドのファンにとって嬉しいニュースになるはずだ。


 こうした嬉しいトピックもある本作には、ダンスフロアはもちろんのこと、ベッド・ルーム、通勤通学中の電車内などなど、あらゆる場面で通用する全方位型のサウンド・プロダクションが施されているし、そのぶん聴きごたえもある。ただ、車の運転中に聴くのはオススメしない。本作の鋭くも気持ちよい高揚感に身を支配されると、最悪の場合ハンドル操作を誤り大事故に繋がりかねないからだ。それほどまでに本作の高揚感は、美的かつ陶酔的なのだ。そういった意味で本作は、〝死〟と隣りあわせの危険な魔力をまとった作品とも言える。



(近藤真弥)

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Ykiki Beat『When The World Is Wide』.jpg

 2010年代に入って、自身のルーツに意識的だったり、あるいはルーツを示すことに躊躇しない音楽が増えてきた。たとえばスカイ・フェレイラの『Night Time, My Time』(2013)は、彼女が好んで聴いてきたプライマル・スクリームやジーザス・アンド・メリーチェイン、さらにはクラウトロックの要素が明確に表れたポップ・アルバムであり、ホット・チップの最新作『Why Make Sense ?』(2015)は、R&B、ファンク、ハウスといったジャンルへ向けた敬意を折衷的な音楽という形で表現している。いま挙げたふたつのアルバムは、過去の音楽を引用しつつも焼きなおしに留まっていない秀逸な作品であり、〝新しさ〟を強迫的に追求しないことで新鮮さを獲得している。その新鮮さは、〝好きなものは好き〟という姿勢にも見えるが、このような姿勢によってもたらされる軽やかさが、2010年代のポップ・ミュージックにおいてはデフォルトなのかもしれない。


 そう考えると、Ykiki Beat(ワイキキ・ビート)のデビュー・アルバム『When The World Is Wide』は、2010年代のポップ・ミュージックそのものである。彼らの音楽には、実にさまざまな要素が表れている。本作は、ザ・ストロークスやフォスター・ザ・ピープルといった、2000年代以降のバンドに通じるメロディー・センスが随所で見られるが、リヴァーブが深くかかったドラムとノイジーなギターによる甘いメロディーが印象的な「Vogues Of Vision」は、ジーザス・アンド・メリーチェイン「Just Like Honey」を想起させるなど、バントにとってのルーツと思われる要素が垣間見れるのも興味深い。また、ダンサブルなディスコ・ビートにラップが乗る「Never Let You Go」は、彼らが持つ引きだしの多さを象徴する曲だと思う。


 そして、ひとつひとつの言葉をハキハキと発するNobuki Akiyama(ヴォーカル/ギター)の歌唱法は、イギリスのポップ・ミュージック史を飾るヴォーカリストたちを思いださせる。具体的には、ブラーのデーモン・アルバーン、フランツ・フェルディナンドのアレックス・カプラノス、カイザー・チーフスのリッキー・ウィルソンなどなど。これらのヴォーカリストたちの歌い方を、筆者は〝唾吐き系〟と勝手に呼んでいるのだが、Nobuki Akiyamaの歌い方もまさしく唾吐き系。特に、「Never Let You Go」の〈オオオオッオッオウ〉と歌うところなんて、〝イギリスのロックじゃん!〟と言いたくなってしまう。


 こうして、それぞれの曲を細かく聴いていくと、音楽に詳しければ詳しいほどあれやこれやとたくさんのバンドを思い浮かべてしまうのだが、本作がすごいのは、そこまで音楽に詳しくない人でも楽しめる親しみやすさがあるということ。それを可能にするソングライティング能力の高さも、今年アルバム・デビューを果たしたバンドたちのなかでは群を抜いていると思う。奥深さと幅広さを兼ね備えた素晴らしいバンドがまたひとつ現れたことに、盛大な拍手を。



(近藤真弥)

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M.E.S.H. 『Piteous Gate』.jpg

 ドイツのダンス・ミュージック・シーンで名が知れた存在といえば、マルセル・デットマンを擁し、ベルリンのテクノ・シーンを牽引するレーベルOstgut-Ton(オストグットトン)、ザ・フィールドギー・ボラットの作品をリリースしているケルンのKompakt(コンパクト)、さらにはエドワードやプリンス・オブ・デンマークといった先鋭的なダンス・ミュージックを取り扱うGiegling(ギーグリング)などだろう。


 しかし、筆者はここにもうひとつくわえたい。それは、メッシュ、ロティック、カブラムの計3人によるJanus(ジャニス)というクルーだ。おそらく知名度でいえば、PAN(パン)やフィンランドのBlack Ocean(ブラック・オーシャン)などからリリースを重ねるメッシュと、Tri-Angle(トライアングル)から傑作EP「Heterocetera」を発表したロティックのふたりに軍配が上がるかもしれない。だがここでは、紅一点のカブラムに字数を割きたい。


 彼女は今のところ、いくつかの曲やDJミックスなどを発表しているにすぎないが、昨年DFA(カセットは1080p)からリリースされた、ダン・ボダンのアルバム『Soft』収録の「Reload」をリミックスしたりと、他のふたりとは少々毛色が違う活動をしている。くわえて、スウェーデンが拠点のStaycore(ステイコア)による、クドゥーロやグライムなどさまざまなビートが集められたコンピ『Summer Jams 2K15』にも参加し、その横断的な活動は3人のなかでも群を抜いている。こうした、老舗レーベルのDFAからStayCoreのような新興レーベルまで行き来できる、Janusの折衷性と寛容さはもっと注目されていい。いまのところ、アンディー・ストット 『Luxury Problems』(2012)以降、着実に発展を続けるインダストリアルとベース・ミュージックの接合という文脈においてメッシュやロティックが注目されている程度だが、そうした流れに組みこまれるだけでは終わらないポテンシャルがJanusにはある。


 さて、Janusについて長々と書いてしまったが、そのJanusに所属するメッシュが初のフル・アルバムを上梓した。『Piteous Gate』というタイトルの本作には、先述したJanusの折衷性と寛容さが反映されていると思う。昨年発表された「Scythians EP」では、ベース・ミュージックの要素が濃い豪快なサウンドで筆者を驚かせてくれたが、本作ではその要素が後退。かわりに、ミュージック・コンクレートの影響が滲みでたコラージュ・サウンドを展開している。それゆえ、反復による高い中毒性や音の強度で圧倒する力強さはほとんどないが、音が鳴っていない無音の空間も活かした、繊細かつ大胆なサウンド・プロダクションは素晴らしいの一言。そうした意味では、ダンスフロアでの即効性よりも、ホーム・リスニングでじっくり味わいながら楽しむ遅効性が特徴の作品と言える。この点も、ダンスフロアだけに留まろうとしない野心、それこそ本稿で繰りかえし述べている折衷性と寛容さそのものだ。


 とはいえ、幅広い層に届く訴求力が薄いのは、本作の秀逸な電子音が持つ欠点だと言わざるをえない。それでも、じわじわと迫るサディスティックな緊張感をまとうサウンドスケープは、必聴レヴェルだ。マスタリング・エンジニアにラシャド・ベッカーを迎えた人選もグッド。



(近藤真弥)

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PAYOLA.jpg

 まず初めに、声を上げること。いや、まず目を向けるだけでもいい。7月15日午後8時半すぎ、僕は国会議事堂の周辺にいた。いま、未来のことを考えるのなら、もっと正確に〝2015年〟と付けくわえるべきなのかもしれない。数千人とも数万人ともいわれる群衆の中で時おり声をあげ、原始的なビートに合わせて身体を揺らし、周囲の喧噪とわずかな沈黙に耳を傾けていた。湿気を多く含んだ夜風が本格的な夏の到来を告げている。とても暑く、とても長い夏になりそうだ。


 「なんか、夏祭りみたいだな」とか「いや、夏フェスかな」とか。警察の誘導に惑わされながらも先へ進む。少しだけ違うのは、行きかう人々の多くが、うちわやライヴ会場マップじゃなくてプラカードを手にしていること。若い人、女性の姿がいつもより多いような気がする。〝いつも〟だって。2011年以来、政府に「No」と言う行動が自分にとって〝いつも=Usual〟っていう感覚になってきているなんて、感じ悪いね。


 デサパレシドスが13年ぶりにリリースしたセカンド・アルバム『Payola』を、こんなタイミングで耳にしたことを僕は偶然だとは思えない。


 ブッシュからオバマへと政権が移り変わる時代のなかで、ボブ・ディランと並び称されるほどになったコナー・オバーストは、2011年の『The People's Key』を最後にブライト・アイズとしての活動を休止している。そして、入れ替わるようにデサパレシドスが再始動した。自主制作盤としてリリースされた3枚のシングル、「MariKKKopa / Backsell」(2012)、「Anonymous / The Left Is Right」(2013)、「Te Amo Camila Vallejo / The Underground Man」(2013)はタイトルからも読みとれるとおり、どれも明確な政治的スタンスを持つ。フォーク、カントリー・ミュージックの素朴さと大衆性を受けつぐプロテスト・ソングから、ゲリラ的な即効性と強度を持つパンク・ロックへ。何かに急かされるように。


 「オキュパイ・ウォール・ストリート(ウォール街を占拠せよ)」に象徴される富裕層と中/低所得者層との格差、ハッカー集団「アノニマス」の活動、移民問題、ウィキリークスによるアメリカ外交公電の流出事件、銃犯罪、音楽業界の暗部...など、このアルバムに収録されているすべての曲が、現在のアメリカが抱える社会問題をテーマとしている。しかも、『Payola』というタイトルは、「番組で曲を流してくださいね」と音楽関係者がラジオDJに渡す〝賄賂〟を意味する。検閲済みの文書をモチーフにした硬派なアートワークとは裏腹に、ひねくれたユーモアも忘れてはいない。


 正直に言えば、日本で暮らす僕が「やっぱ、アメリカやばいでしょ」とか語れるほどの理解はない。けれども、そのサウンドに耳を傾けると、やはり心を突き動かされる何かがある。まずは一般認識だけでもいい。想像力は刺激されるはずだから。〝わかる〟ふりをすることよりも、〝感じる〟こと。そうすれば、大人も学校もテレビも新聞も、インターネットでさえも教えてくれなかったことに気づく。それが音楽を、それがパンク・ロックを聴くってことだ。


 ブライト・アイズでは抑え気味になっていたコナー・オバーストのエモーショナルな絶叫が聴こえる。フガジ、ハスカー・ドゥ直系のUSハードコアな乾いたディストーションが炸裂する。その一方で、初期のウィーザーやカーズっぽいチープでポップなシンセがシリアスさを和らげる。プロデュースは、コナー・オバーストの活動を長年支え続けてきたマイク・モギス。全14曲、約40分を一気に聴かせるソリッドでタイトなサウンドが最高にカッコいい。ブライト・アイズ、デサパレシドスの前作をリリースしていた古巣Saddle Creek(サドル・クリーク)を離れ、バッド・レリジョンのブレッド・ガーヴィッツが創設した老舗パンク・レーベルEpitaph(エピタフ)からのリリースというのも本気さが伝わってくる。


 政府に「No」を言うことすら日常的になってきた今、すべての問題を〝わかっているのか?〟 なんて問いなおしている場合じゃない。2015年にデサパレシドスが鳴らすパンク・ロックが気づかせてくれるのは、より早く(速く)、より大きな声で、できるだけ多く、できるだけ遠くにまで、思ったままを伝えることの大切さ。〝怒り〟そのものを表明することよりも、まずは意思を持って行動するということだ。



(犬飼一郎)

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Keita Sano Holding New Cards.jpg

 〝いま、もっとも面白い音を鳴らしている人は誰?〟と訊かれたら、まっさきに名が挙がるうちのひとり。それがKeita Sano(ケイタ・サノ)だ。


 Keita Sanoは、岡山を拠点にするトラック・メイカー。彼のことを知ったキッカケは、ブルックリンのMister Saturday Night(ミスター・サタデー・ナイト)からリリースされた3曲入りシングル、「People Are Changing」(2014)。粗々しい質感の音が紡ぎあげる、中毒性が高い心地よいグルーヴは非常に興味深いものだった。3曲ともビートはシンプルな4つ打ちだが、ひとつひとつの音に遊び心がたっぷり込められているおかげで、繰りかえし聴きたくなってしまう。そうした「People Are Changing」の面白さは、ホーム・リスニングだけでなく、ミラーボール煌めくダンスフロアでも抜群の効果を発揮する。そう考えると「People Are Changing」は、ダンスフロアとベッド・ルームをまたぐ秀逸な折衷性と順応性が光る作品とも言える。


 このような「People Are Changing」の素晴らしさは、Keita Sanoの魅力そのものだ。それは、セカンド・アルバムとなる『Holding New Cards』を聴いてもわかるはず。本作はハウス・ミュージックを基調にしており、この点は「People Are Changing」とも類似するが、音の使い方はこれまで以上に豪快で面白い。


 まず、1曲目の「Fake Blood」。どこか郷愁を抱かせるシンセが印象的なこの曲は、音が縦横無尽に飛びまわる。音楽用語でいうところのパンニングが本当に面白い。リスナーを本作の音世界にいざなう極上の招待状としては十分すぎるほどの驚きで満ちている。


 また、2曲目の「Onion Siice」は、ハウス・ミュージックが多い本作のなかでは異彩を放つジャングルに仕上がっている。最初は音数が少ない淡々とした曲調だが、2分30秒以降は次々と音が交わり、トランシーな雰囲気をまとっていくという展開がなんともたまらない。そして、4曲目の「Everybody Does It」は、Keita Sano流のベース・ミュージックとも言える曲で、音が大きくなったり小さくなったりするという大胆な内容。この曲も筆者のお気に入りだ。


 それから、ムーディーマンを彷彿させるヴォイス・サンプルの使い方が印象的な「Search」、ミスター・フィンガーズの肉感的かつ艶やかなトラックに通じる「Happiness」、ハンドクラップとリムショットにTB-303風のサウンドというもろアシッド・ハウスな「Escape To Bronx」の3曲も、特筆に値する出来だ。3曲ともハウス・ミュージックで、そういった意味ではこれまでのKeita Sanoにもっとも近い3曲だと言える。



(近藤真弥)



【編集部注】『Holding New Cards』は、カセットとデジタルのみです。共に1080pのバンドキャンプで購入できます。

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The ‎Chemical Brothers『Born In The Echoes』.jpg

 トム・ローランズとエド・シモンズによるケミカル・ブラザーズは、アシッド・ハウス、テクノ、ヒップホップ、サイケデリック・ロックなどの要素が入りまじった革新的サウンドを携え、90年代のイギリス音楽シーンに颯爽と現れた。その90年代にふたりがリリースした3枚のアルバム、『Exit Planet Dust』(1995)、『Dig Your Own Hole』(1997)、『Surrender』(1999)は、ポップ・ミュージックの進化と拡張を促した。そして、この3作品の頃が、ふたりの全盛期だったと思う。


 では、2000年代のふたりはどうだったのか? 筆者からすると、どうもピリッとしない退屈なアルバムを量産していた時期ということになってしまう。「Star Guitar」(2002)や「Galvanize」(2005)など、曲単位では秀逸な作品を残し、ライヴ・パフォーマンスも相変わらず壮大で素晴らしいものだったが、アルバムとなると、どこか迷走気味でスリルに欠けていた。もちろんこれは、90年代にふたりが鳴らした折衷的サウンドとそれを可能にしたセンスが、多くの人にとって馴染み深いものになってしまったことも一要因としてあるだろう。いわば2000年代のふたりは、〝過去の自分たち〟という壁を前にもがいていた。


 そして、2010年代。ふたりは『Further』(2010)というアルバムを発表した。この作品で最初に目を引いたのは、それまでの恒例であった大物ゲスト・ヴォーカルがいないこと。時代の潮流には目もくれず、ディープでアグレッシヴなテクノ・サウンドが展開されていることも驚きだった。さらには清々しい解放感も漂わせるなど、声を大にして〝快作!〟と叫びたくなる内容で、筆者も久々にふたりのサウンドを聴いて興奮した。『Further』以降のふたりは、映画『Hanna』(2011)のスコアを手掛け、トムはエロール・アルカン主宰のPhantasy Sound(ファンタシー・サウンド)からシングル「Through Me」(2013)を発表したりと(このシングル本当に最高だから聴いてほしい!)、面白い活動をいくつもおこなっている。


 そうした活動を経て作られた最新アルバム、それが本作『Born In The Echoes』だ。まず興味深いのは、Qティップ、アリ・ラヴ、セイント・ヴィンセント、ケイト・ル・ボン、ベックといったゲスト・ヴォーカル陣だが、正直、彼ら彼女らが参加した曲はどうでもいい。そのほとんどが毒にも薬にもならない〝まあまあレヴェル〟のポップ・ソングであり、そのなかでもシンプルな4つ打ちに合わせてベックがアンニュイな歌声を披露する「Wide Open」は、本作のシャープでストイックな雰囲気に水を差している。シングルとしての発表ならアリだと思うが、そもそも曲自体が安直で聴きとおすのも困難な出来。シングル・リリースされたところで、筆者の口からは辛辣な言葉しか出てこないだろう。


 だが、そうした欠点以上に際立つ魅力があるのも確かで、たとえば6曲目の「Just Bang」。ヴォイス・サンプルとラフな質感のビートが際立つミニマルな音像を特徴としており、さらにTB-303風のアシッディーな音が飛びだしてくることも手伝って、『Exit Planet Dust』期のサウンド・プロダクションを彷彿させるのだ。もちろん、そのプロダクションをまんま再現しているわけではなく、これまでの長い活動で培ってきたスキルが上乗せされている。それは、自ら『Exit Planet Dust』期の音を更新した曲、あるいは風変わりなセルフ・カヴァーとも言いたくなる内容。『Exit Planet Dust』自体は、いま聴くと少々古臭さが否めないアルバムだ。しかし、そのような作品に通じるサウンドを本作で鳴らしたのは、『Further』を作りあげたことで、〝好きな音を素直に鳴らせばいい〟という自信がふたりのなかに芽生えたからではないか? 本音を言えば、その自信をもっと前面に出してもよかったと思うが、そんな自信の一端に触れるために本作を聴くというのも一興だ。ただ、そうした自信の一端を垣間見せるのが、「I'll See You There」「Just Bang」「Reflextion」など、すべてインストの曲というのも複雑な気分だが...。


 それでも、『Further』から地続きの解放感とアグレッシヴさが健在なのは嬉しいかぎりで、『Further』とそれ以前のサウンドを接合しようと試みた意欲にも惹かれてしまう。とはいえ、本作が〝ただの秀作〟となるのか、それとも〝偉大なる失敗作〟となるのかは、ふたりの〝次〟にかかっている。



(近藤真弥)

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Druid Cloak『Lore- Book Two』.jpg

 よく、〝何でもあり〟という言葉を聞く。音楽レヴューにおいては、いろんなジャンルを取りいれた音楽に使われる言葉だが、実際聴いてみると、言うほど〝何でもあり〟ではないことのほうが多い。確かに今は、あらゆる時代の音楽にアクセスできる。そのなかで、さまざまな音楽を聴いている人も少なくないだろう。


 だが、それを音にして表現するとなれば、そう簡単にはいかない。特に、物語性が求められがちなアルバムというフォーマットでは、〝何でもあり〟というコンセプトのもと好き勝手やっても、散漫で聴くに耐えない作品になってしまうことも多い。だからこそ、こうした散漫さを上手く回避し、ライト・リスナーから玄人まで誰もが楽しめる〝広く深い〟作品は、それだけで興味深いものとなる。最近リリースされた作品のなかでは、シャミール『Ratchet』ハドソン・モホーク『Lantern』などがそれにあたるが、この2作品がすごいのは、〝広く深い〟ことがこれからのポップ・ミュージックにおける前提としてしまいかねないほどの影響力を持っていること。たとえばハドソン・モホークは、ファースト・アルバム『Butter』(2009)でも〝広く深い〟音楽を響かせたが、続く『Lantern』では、その〝広く深い〟音楽を深化という形で、さらに強度を上げることに成功してしまった(アントニー・ヘガティーとミゲルをひとつの作品内で共生させられる者など、他に誰がいるだろう?)。この成功が示すのは、『Butter』が見せてくれた〝広く深い〟ヴィジョンは偶然の産物ではなく、秀逸な感性とそれを表現できるある程度の技術さえあれば、再現可能だということ。


 このような作品が生まれ、また、そんな作品の感性と共鳴する〝広く深い〟作品が他にも多く作られている2015年は、のちに振りかえったときに、ポップ・ミュージックの聴き方がまたひとつ拡張された重要な年として認識されるかもしれない。作り手としては、受け手を満足させるためのハードルが上がるのだから、ますます大変になるだろう。しかし、受け手にとってはますます面白くなるだけ。無責任を承知で言えば、受け手にあたる筆者としては、その高いハードルを作り手がどう乗りこえていくのか楽しみだ。


 と、これまた〝長すぎる!〟と怒られそうな文量を前フリに割いてしまったが、ドルイド・クロークのセカンド・アルバムとなる本作『Lore : Book Two』も、〝広く深い〟作品となっているので、どうしても語っておきたかった。どうかご容赦を。


 ドルイド・クロークは、アメリカを拠点に活動するアーティスト。ライアン・ヘムズワース主宰のSecret Songs(シークレット・ソングス)からリリースしたシングル、「The Battlecry」がキッカケで注目を浴び、レーベルApothecary Compositions(アポセカリー・コンポジションズ)のオーナーとしても、興味深いビートが詰まった作品をいくつも取りあつかっている。


 そんなドルイドの音楽は、ヒップホップとベース・ミュージックを基調としながらも、そこにさまざまな要素を溶けこませている。そうした特徴は本作でも健在だが、ヘヴィーでスロウなグルーヴを強調している点はこれまで見られなかったものだ。さらに、ひとつひとつの音がラフでざらついていることもふまえると、『Luxury Problems』以降のアンディー・ストット、あるいはハビッツ・オブ・ヘイトとしても活躍するハッパなどに通じる、インダストリアル・テクノとベース・ミュージックが溶解したゴシックなサウンドとも言える。


 また、本作にはゲームの影響もうかがえる。それは1曲目「Throne Wars」や3曲目「Obsidia Chroma」で響きわたるシンセなどに見いだせるし、そもそも1曲目の曲名自体、世界的に有名なオンライン・ゲームと同名である。おまけにドルイド・クロークの〝ドルイド〟は、ゲームや映画の題材としてもよく用いられるケルト神話が元ネタ(ちなみにドルイドのツイッターアイコンは、天野喜孝によるファイナルファンタジー3のイラストだ)。このように本作は、音楽以外の文化からも強い影響を受けている。


 こうした音楽以外の要素も目立つ雑多な表現は、良くも悪くも、ポップ・ミュージックがその他多くの娯楽と並列になり、もっと言えばポップ・ミュージックに〝だけ〟強い興味を向ける人が少なくなった現在だからこそ生まれたものだといえる。だが面白いのは、そうした表現がポップ・ミュージックの進化と拡張を促しているということ。そして、この〝ポップ・ミュージックの進化と拡張〟という点において本作は、『Lantern』に匹敵する。幅広い層に届く訴求力では少々劣ってしまうが。



(近藤真弥)

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沖ちづる「景色」.jpg

 女性シンガーソングライター、沖ちづるのことを知ったのは、去年の秋ごろに観たライヴだった。2014年春から本格的に弾き語りでのライヴ活動を始めたという知識以外は何も得ずに観たそれは、拙さを残すパフォーマンスではあったが、どこか孤高の雰囲気を漂わせるものでもあった。また、撫でるようにギターを弾く姿も印象的で、しかもその姿が家の前をよく通る野良猫の仕草みたいだったから、思わず笑ってしまった。そのような姿に魅せられ、会場で売られていたミニ・アルバム「はなれてごらん」(ライヴ会場限定販売の作品。現在は販売終了)も購入。それからは、不思議と彼女の歌声が頭から離れなくなり、ふと気づけば「はなれてごらん」を再生してしまうという日々が続いた。


 そうした日々を送っているうちに、彼女はファースト・シングル「光」をリリース。このシングルのジャケットでは、どこか遠くを見つめる彼女の横顔を拝めるが、たくさんの作品が棚に並ぶCDショップのなかでも、そのジャケットは一際目立っていた。というわけで購入したのだが、表題曲に登場する次の一節を聴いて、筆者は沖ちづるの才気にあらためて感嘆した。


 〈君の声を 私の声を 醜くていい 醜く歩け 信じろ自分を 信じろ声を わたしが君を見つけるから〉(「光」)


 この曲、先に書いた「はなれてごらん」にも収録されているが、何度聴いても色褪せない名曲だと思う。繊細ながらも芯が通った力強さがある。その力強さは、言うなれば表現者としての覚悟なのかもしれない。


 そんな感嘆をもたらしてくれたファースト・シングルから約4ヶ月、彼女は新たな作品を作りあげた。それは、「景色」という名がつけられたミニ・アルバム。本作は全5曲で約14分という短い作品だが、そこに込められた情緒は色鮮やか。


 まず、1曲目の「景色」。彼女は基本的に身のまわりのことを歌にしているが、そのうえで言ってしまえば、この曲には3.11以降の日本を覆う、〝絶対的なものなどありはしない〟という空気の影響が少なからずあると思う。特に、〈このさきまつのは だれもいないかもしれない このさきみるのは うつくしい海ではない〉という一節を聴くと、津波で流されてしまったさまざまな存在に想いを馳せてしまう。また、全体的に諦念を漂わせるのも興味深いが、そうした曲に「景色」と名付ける感性に、他の人には見えづらい側面が見えてしまう鋭さと、それゆえ生じる孤独感が滲んでいるところも目を引いてしまう。このような諦念や孤独感はもしかすると、無鉄砲に夢や理想を追い求めることが難しくなった日本の世情も関係していると思えるが、どうだろう? いずれにしてもこの曲は、〝今〟に通じる同時代性をまとうと同時に、その同時代性を抜きにしても、多くの人の心に響く普遍的なナニカを持った名曲であるのは確かだ。


 一方で彼女は本作において、〈やさしいきもち ことばにできるでしょう〉(「わるぐちなんて」)とも歌ってみせたりと、諦念や孤独感だけを吐きだしているわけではない。さらに「街の灯かり」では、〈いつか終わるから嘆くこともないよ いつか失うから捨てることもない〉と言葉を紡いでいる。なんだか、どうせ死ぬからこそ好きなことをやっていこうという、彼女なりの励ましのようにも聞こえる。この「街の灯かり」も、本作に収められた曲のなかでは群を抜く名曲。そして筆者からすると、〈この先はつらい日々が始まる でもこうなるはずじゃなかった季節は終わった だからこれが本当の始まりなんだ〉という名フレーズが飛びだす、ザ・ストリーツの「Empty Cans」に通じる価値観を感じさせる曲でもある。


 本作での彼女は、こうあってほしいという理想を掲げることもなければ、ああなりたいという夢を熱く語ることもない。そのかわり彼女は、本作に触れた人を自分なりの夢や理想へ向かわせるささやかな希望を見せてくれる。そしてその希望は、誰にでもわかる言葉で紡がれた、彼女にしか歌えない歌に乗って、私たちに届けられる。こういう歌を、もっともっと聴きたい。



(近藤真弥)