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New Order『Live at Bestival 2012』.jpg

 2012年4月、ピーター・フックのインタヴューに立ち会うことができた。ザ・ストーン・ローゼズ:ロックを変えた1枚のアルバム』用におこなったため、基本的にはストーン・ローゼズに関する話が多かったものの、時折ハッピー・マンデイズ、そしてニュー・オーダーについても触れるなど、いろいろ饒舌に語ってくれた。サングラスをしているせいで目の動きはわからなかったが、仕草や語り口には、2007年にニュー・オーダーからの脱退を宣言しながらも、いまだ完全には割り切れていない複雑な気持ちが滲み出ていたように思う。インタヴューでは、「今はもうニュー・オーダーもやってないし、仕事を探してるんだけど(笑)」と、半ば"過去"のようにニュー・オーダーの名を口にしていたが、でもその"仕事"とはニュー・オーダーのことではないか? 日射しが強い外でインタヴューをしていたせいか、インタヴューが終わるとすぐさま上半身裸となってケータリングの食事にありつくピーターを見てそう思った。


 本作『Live At Bestival 2012』は、ニュー・オーダーがベスティヴァル2012という音楽フェスティヴァルに出演した際のパフォーマンスを収録したライヴ・アルバム。結論から言うと、最高の内容だ。中年太りのキューピーちゃんと化したバーナード・サムナーの歌声は、今でも多くの聴き手に響く哀愁を漂わせ、つたなく聞こえるエレクトロニック・サウンドも、よくよく聴くと最新のプロダクションが取り入れられているのがわかる。特に「586」のパフォーマンスは、ラウドなギターにエレクトロニック・サウンドが上手く馴染み、シンセの音色もポルタメントなどのパラメーターを微調整することで常に変化させるなど、細かいところにまで手が行き届いている。こうした質の高い演奏に応える観客の声も熱気を帯びており、感動的な瞬間がいくつもある。


 しかしそこには、膝までぶら下げベースを弾きたおすピーター・フックの姿はない。イアン・カーティスの自殺によりその歩みを止めたジョイ・ディヴィジョンから現在のニュー・オーダーに至るまでのストーリーを知らない者にとって、本作に収められた熱狂の記憶は至福として受けとめられるものだろう。だが往年のファンからすると、ピーターの不在という現実をまざまざと見せつけられる苦みとなってしまう。


 ピーターのニュー・オーダーに対する愛情はとても深く、だからこそ喧嘩別れという形でニュー・オーダーから離脱してしまったのだろう。だからといって、ピーター抜きでニュー・オーダーを続けるバーナード・サムナー、スティーヴン・モリス、ジリアン・ギルバートがニュー・オーダーに愛を注いでいないかと言われたら、決してそうではない。本作を聴けばわかるように、3人はニュー・オーダーという名の物語を背負い、その物語に魅了されているファンたちの期待も裏切らないよう努力している。


 かつてイアン・カーティスは、「Love Will Tear Us Apart」で次のように歌った。


《ぼくらはやり方を変え 別の道を進みはじめる そんなときに愛は ふたたびぼくらを引き裂く》


 このフレーズはそのまま、現在のピーター・フックとニュー・オーダーの関係に当てはまる。



(近藤真弥)

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ASIAN KUNG-FU GENERATION.jpg

「勉強はできない、かといってスポーツもできない、まるでのび太だ。だが、そんなのび太でも、フジロックやサマーソニックに出れた!」


 2003年8月名古屋クラブダイアモンドホール、ZIP-FM主催イベントにおける後藤正文のMCだ。本人も覚えていないかもしれないが力強い宣言。藤子・F・不二雄の漫画『ドラえもん』といえば、ファンが描いた2次創作の最終回で素晴らしいものがある。そのあらすじを簡単に書くと、ある日、ドラえもんが突然動かなくなる。のび太はドラえもんを再起動させるために必死で勉強して科学者となり、未来の世界でドラえもんを発明する、ドラえもんの生みの親は実はのび太だった! というものだ。強引すぎるかもしれないが、後藤正文が作ったドラえもんこそ、地球の未来を考える新聞THE FUTURE TIMESではないだろうか。これは各地のレコード店を中心に2013年9月現在も最新5号が無料配布されており、『ザ・レコーディング at NHK CR-509 Studio』のリリースと相まって、複合的に彼のメッセージが届けられる。


 スタジオ一発録りの本作は、デビュー作から時系列に沿ってヒット曲中心に選曲されている。本編ディスクはベックのカヴァーLoserで終わっているが、ベックがこの曲をヒットさせたのは1994年。後藤が聴いたのは翌年、東京で浪人生活を送っていた頃だという。彼の原点の一つであるこの曲を、今の彼らの音楽性で、現在の社会情勢のなかでアップ・デートして演奏する。換骨奪胎というか、日本のメジャー・フィールドで伝わりやすいものに変えている。ボーナスDVDの映像は、大規模フェスの場を一つにするアンセム「ループ&ループ」に始まり、燃え上がるギターリフに決意を秘めた「それでは、また明日」から、2012年の最新オリジナル・アルバム『ランドマーク』収録曲中最も問題作な「AとZ」で終わる。古代文明の儀式で打ち鳴らされるようなビートに呪文のようなヴォーカル、サビはパッション・ピットみたいに炸裂し広がっていく。元々はエモ・コア・バンド的な爽快さがウリだった彼らは、分かりやすいメロディーはそのままに少しずつ進化してきた。その経過記録を単なるベスト盤ではなく再録という形で提示している。現在形の有効性を示した上で、過去音源を定額制音楽サービスに開放する流れだ。


 最近のインタビューで、後藤正文はサザンオールスターズのような国民的バンドになりたいと語っている。時間の経過をスパーンと取っ払う音楽、普遍的に歌い継がれる音楽をつくりたい、と。一方で『THE FUTURE TIMES』においては基本的に聞き手に徹している。餅は餅屋だ。専門の学者、識者にインタビューする。そしてレーベル兼音楽サイト《only in dreams》 を立ち上げ海外ミュージシャンを紹介したり、積極的に国内インディー・バンドを支援している。最近でもスカートや吉田ヨウヘイgroupのような一般的にはまだ無名なバンドにまで注目している。彼らの現在の活動。その中心となるテーマは「シェア」だという。《only in dreams》等で彼らが勧めるマイナー・バンド、海外の音楽に注目が集まり、『THE FUTURE TIMES』を通して彼らが選び、伝えたい思想が広がっていく。今すぐ利益を生むことではなく、未来へ向けての土壌作りだ。かつて君と僕の半径5メートル圏内を歌った彼らは、その5メートルの平和を守るために、外の世界を相手取る。後藤正文は過去から学び、現実的なヴィジョンを構築する。いつまでも情熱だけでは済まされない。今ある世界を作ったのは我々ひとりひとりだ。我々は自ら変わることを選べる。


 ここまで書いて気づいたのだが、これはそのまま今のASIAN KUNG-FU GENERATIONの歌詞が持つ世界観ではないだろうか。後藤正文が発明したドラえもんは『THE FUTURE TIMES』ではなく、ASIAN KUNG-FU GENERATIONそのものだった。子ども達の未来をつないでいく。音楽は時間も空間も越える。様々な大切なことを伝えるタイム・マシンだ。




(森豊和)





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King Krule『6 Feet Beneath The Moon』.jpg

 ヤックを脱退し、最近新たにヘブロニックスというプロジェクトを始めたダニエル・ブルンバーグは、かつてケイジャン・ダンス・パーティーとしてアルバム『The Colourful Life』を作り上げた。この作品を残して、ケイジャン・ダンス・パーティーはその命を散らしてしまったが、あの刹那的とも言える溢れんばかりの輝きは、今でも筆者の心奥深くに残っている。2008年のサマーソニックで見せたライヴ、あのステージ上でいかにも神経質な振る舞いを終始貫くダニエルの姿は、ケイジャン・ダンス・パーティーの終わりを暗示していたのかもしれない。だが同時に、ダニエルが抱える抑えきれない創造性と危うさも溢れ出ていて、「こういう人のことを"天才"というのだろうな」と、筆者は感慨深く想ったものだ。それほどまでにケイジャン・ダンス・パーティーというバンド、そしてダニエル・ブルンバーグという男は、綱渡りの如く不安定で、それゆえ美しかった。


 イギリス出身のキング・クルールことアーチー・マーシャルも、そうした揺らぎから生じる美しさを感じさせる。19歳とは思えないあまりにも渋すぎる歌声には、若々しさを覆い隠してしまうほどの老練さがありながらも、若者らしい軽やかな空気も漂っている。あからさまに暗くはないが、無根拠な前向きさに溺れることもない。いわば曖昧模糊。この曖昧さから聴き手はマーシャルの揺らぎを感じ取り、彼のパーソナルな領域に足を踏み入れる。本作『6 Feet Beneath The Moon』とは、そういうアルバムだと思う。


 また本作は、ジャズやブルースの要素が滲むダビーなサウンドスケープ、レゲエからの強い影響を感じさせる過剰なエコー、そして「Foreign 2」で見られるブリアル以降のポスト・ダブステップ的音像など、実にさまざまな要素が混在している。かつてマーシャルは、ズー・キッド名義でサイケデリックが振りかけられたフォーキー・サウンドを鳴らし、さらにDJ JDスポーツとしても興味深いヒップホップ・トラックを数多く作っており、その豊穣な音楽的嗜好が本作にも反映されたのだろう。


 ちなみにDJ JDスポーツでは、UKガラージのタグがつけられた「Pints Theme」という軽快なトラックを制作している。お世辞にも出来が良いとは言えないトラックだが、マーシャルがダンス・ミュージックの影響下にあることを知れるので、ぜひ聴いてみてほしい。マーシャルは、マウント・キンビーの最新作『Cold Spring Fault Less Youth』に収められた「You Took Your Time」「Meter, Pale, Tone」でヴォーカルを務めているが、それが半ば必然だったこともわかるはず。ジェームズ・ブレイクもそうだが、マーシャルもまた、ダブステップに感化されたシンガーソングライターなのだ。


 とはいえ、本作における最大のアピール・ポイントは、やはり"孤独"として響く儚いマーシャルの歌声だ。まるでここ数年の七尾旅人みたいなアコースティック・サウンドが光る「Boder Line」や、ヒップホップの要素が色濃い「Bathed In Grey」では、その"孤独"と儚さがさらに際立つ。共同プロデューサーにジ・エックスエックスサヴェージズとの仕事で知られるロディー・マクドナルドを迎えていることもあって、本作は"声"が前面に出ているが、この人選も"孤独"と儚さを引き出すことに繋がっているのかもしれない。


「Easy Easy」のMVが示すように、本作で歌われていることのほとんどは、マーシャルにとって身近な風景である。にも関わらず本作の歌が筆者に届いたのは、声そのものが持つ温度、もっと言えばマーシャルが持つ世界観と視点の魅力ゆえだろう。


 現実に対する冷めた気持ちを奮い立たせるように歌うマーシャルの姿が刻まれた本作は、いわば "若さゆえの情緒不安と才気の横溢が交わる奇跡的な一筋の光" 。十分すぎるほどの眩しい輝きを放っている。



(近藤真弥)




【編集部注】『6 Feet Beneath The Moon』の日本盤は9月11日リリースです。

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BONODORIRECORDS .jpg

 蒸し暑い外の日差しを避けるように、エアコンの送風が心地良い。夏の真っ只中の8月18日、日本のネット・レーベル《Ano(t)raks》の初イベントが下北沢モナレコーズで開催された。レーベル発足以降、数多くの日本の新進気鋭のインディー・バンドをフックアップしてきたこのレーベルが、遂に、生の現場に乗り出した。


 去年東京のインディー・バンド、モスクワ・クラブの主導で編纂されたコンピレーション『Ç86』を聴いたとき、その若く瑞々しいサウンドの裏に潜む「これからは俺たちの時代だ」という滾る野心に共感を超えた凄まじい衝撃を感じた。少し経って《Ano(t)raks》がバトンを受け取るように『Soon V.A.』をリリース。そのスタンスは海を渡って海外からも評価を得た。その後《Ano(t)raks》は順調に成長し発足から一年余りで、すでに日本を代表するネット・レーベルになったと言っても過言ではない。


 いま、音楽をはじめとした表現一般は、インターネットにより言葉や土地の壁を悠々と飛び越え世界に伝わる。それが当たり前となって久しい2013年の我々に必要なのは、やる気のただ一つに尽きる。衝動。一念発起。誰もが嫌いなこの精神論じみた言葉が、いま何よりも重要なキーワードなのだ。何か面白いことをやれば必ず誰かが見つけてくれる。技術とかセンスなんてあとからついてくるんだ、やってしまえ!


 それはそうと、初期衝動の塊のようなレーベル《BON ODORI RECORDS》が公開したコンピレーション『夏の終わり EP』は、夏の終わりと同時にネットリリース時代の本格的な幕開けを告げている。オフィシャルサイトのレーベル紹介には、こうある。


「BON ODORI RECORDSとは高校生が適当に立ち上げたTwitter発祥のマルチインターネットレーベルです イラスト、音楽、映像、基本なんでもありです こういうことがしてみたい!自分の作品を公開して欲しい!という方はBON ODORI RECORDSまでご連絡ください」


 何か発言すれば非難を浴び炎上するリスクを孕んだ、周りと歩調を合わせて全員マエナラエのこの監視社会において、《BON ODORI RECORDS》の素晴らしさとは、一歩前へ踏み出そうとする溢れ出る表現欲求の発露への絶対的な信頼と肯定にある。何かを作りたい、叫びたい、世に問いたい、という剥き出しの強いリビドーを押さえ切れない人がいるのなら、来い、と。その証拠にサイトの「Art」項には、『夏の終わり EP』の清涼感とは180度異なるエログロ作品も掲載されている。『夏の終わり EP』で興味を持ち、爽やか系を期待して訪れた人は面食らうだろう。


『夏の終わり EP』の音楽性はコンピレーションなので様々だが、『Soon V.A.』期の《Ano(t)raks》を彷彿とさせるトゥイーやシューゲイザー、ネオアコといったインディー・ポップやヴォーカロイド、フォーキーな作品など、そのどれもが若くて眩しい。なんというか、みんな本当に純粋でストレートなポップスなのだ!


 少し驚いたのはmagaoによる4曲目の「夏色ディストーシャン」。ヴォーカロイドは詳しくないが、この曲のようにヴォーカロイドをギター・ロックに落とし込むと意外にインディー然としたサウンドにぴったりとハマるというのは発見だった。日本の宅録の象徴として、ヴォーカロイド・シーンをこういった形で取り込むのは個人的には"もっとやれ"だ。『夏の終わり EP』を聴いたほとんどの男性が恋をしたであろうrasolpaによる6曲目「君が見える夏休み」、そしてあの8月18日にモナレコーズで素晴らしいライブを披露していたTourist & Soundtracksによる最後の「みなとまち」を聴くと、ああ終わってしまったのか、夏が・・・となれる。アルバムを締めくくるのは、波の音とカモメの鳴き声だ。


《Ano(t)raks》が初のイベントを行い、新たな道を切り開きだした矢先にこのような動きが現れたのは面白い。ceroミツメといった東京インディーの盛り上がり、絶賛で迎えられた森は生きているのファースト・アルバム、SNSでの容易なコネクション作り、そして有り難いことに、こういったインディー・シーンを支えるモナレコーズやココナッツディスク吉祥寺店、Jet Set、サンレインレコーズなどのレコード店があり、それらが皆、手を繋いでシーンを作り盛り上げている。さあ、叫びたい奴は叫べ!



(荻原梓)



【編集部注】「夏の終わり EP」は《BON ODORI RECORDS》のバンドキャンプでダウンロードできます。

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ダスティン・ウォング.jpg

 ポスト・クラシカルが過渡期にある今、また、アカデミズムに基礎を持たずに、実験のための実験と呼べる現代音楽はネットを通じてもそうだが、ムーヴメントとして結実しては枝分かれしている。例えば、グリッチ、マイクロ・ウェーヴ、サインコアなどの音響集態から逸れてゆくポスト性に対して、名称付けをするには多くのバグが含まれていたのも道理であり、バグ込みの音楽を補整するために、テクノロジーは進歩したのかもしれず、そのテクノロジーに翻弄されるように、ヴェイパーウェイヴの扉を叩いた世界中の人たちはそこに何を見たのだろうか。


 イタリア未来派の画家にして、作曲家のルイージ・ルッソロはイントナルモーリという"調律された騒音機械"を実演用に作り上げたが、それは未来へ向かうための生活に寄せたインダストリアルな要素を込めようとしたものであり、オリジナルは第二次世界大戦のために現存しないが、模倣されてゆくための多様性を用意せしめたといえた。このダスティン・ウォングの場合は、イントナルモーリではなく、エレキ・ギターと多くのエフェクトでミニマルに、非・調律的なアブストラクトなサウンド・レイヤー内に騒音を巡らせる。


 ダスティン・ウォングは、嶺川貴子との共作盤『Toropical Circle』でも見事なサウンド・ワークを表象していたのもあるが、兎に角、様々な場所で彼の名前を見ることも、彼の音を聴く機会も多かったと思う。


 日本にも、朝霧JAMなどでたびたび来日し、ビーチ・ハウス、ダーティー・プロジェクターズとのUS、日本ツアーにも出演し、足元に並ぶ膨大な数のエフェクト群を駆使し、ギターで数十分に渡り、陶然とした音を構築してゆくさまは体感した人なら分かるかもしれない。


 少し彼の来歴に触れると、ダスティン・ウォングはハワイで生まれ、2歳の時に日本へと移住している。そして、ハイティーンの頃には友人のユタカ・ヒューレットとともに、Delawareというバンド/デザイナーとして活躍し、立花ハジメとLow Powersのメンバーでもあったエリと、モバイルフォンの着信音を用い、歌うバンドThe Japaneseを結成するなどもしていたが、大学進学で渡ったボルティモアで結成したポニーテイルというバンドは世界的な評価が高かったのもあり、そこで一気にダスティンの知名度が上がったといえる。


 しかし、これからというなか、ポニーテイルは2011年9月に解散し、彼はソロになる。ソロになってからは、前述のとおり数多くのライヴや客演を経ながらも、スタジオ作としては2012年の『Dreams Say, View, Create, Shadow Leads』でトリップ感とドリーミーさを兼ね揃えた自由とラフさ、風通しの良さが凝縮された興味深いものを上梓したが、ただ、その作品内では、個人的にはドゥルーズが言うところの、「優れた音楽は繰り返し演奏される他なく、詩は暗誦される他ない」という示唆に添えば、記号/本質の狭間の中で本人自身の類似反復を感じてしまうところにもどかしさを感じた。要は、彼の特色、本質というものがライヴでは即興的なところで、横道に逸れてゆく細部に面白さを感じていただけに、スタジオ作でどうも端整になってしまわざるを得ないところ、その音楽言語(ロゴス・ムジコス)を再写できないか、ということに帰結する。


 この5枚目となる『Meditation Of Ecstatic Energy』は、そういう意味で転機作でもあり、音響の奥行き、実験のための実験ではない、特異性をモノにしつつある手応えを感じる。1曲目の「The Big She」から金属的なギターとアンビエンス、ループが聴覚を刺激してくる。彼の声もエコーのように撥ね返る。以前のスタジオ作よりも、プログレッシヴな要素が前面に押し出され、構成は複雑になっている。5曲目の「Out Of the Crown Head」では反復される音を追いかけてゆくと、トランシーな感覚は初期のバトルズを彷彿とさせるところもある。時おり比較に出されるマイク・オールドフィールドなどとの近似もあるが、元来、パンクやオルタナティヴ・ロックがルーツにある彼だけに、静/動の二分線など明確に敷かず、雑多に溶かし込んでゆく。また、11曲目に「Japan」というタイトルがあるとおり、日本に住んでいた過去、造詣も深いだけにメロディーには和的な人懐っこさも垣間見える。


 現象学的な"非=停止"を促す放浪的な佇まいを備えた美しさも含め、ヘッド・ミュージックとしても発見が多いだけでなく、ライヴではまた違った形でパフォーマンスされるだろうことを思うと、ここからまた化けていきそうな予感に満ちている。



(松浦達)

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Ropes「Usurebi」.jpg

「生きていてよかった」、そんな言葉が口をついてでた。心が洗われるとはまさにこのことだ。戸高賢史のギター・エフェクトがアチコの声を増幅し丁寧に包み込む。2人だけのユニット、そして必要十分、それがRopes。大阪の《FLAKE RECORDS》からの両A面7インチ「SLOW/LAST DAY」を経てのミニ・アルバム「Usurebi」は、奈良のレーベル《THROAT RECORDS》から。2人はそれぞれ長い音楽歴のあるミュージシャンで、所属レーベル等も興味は尽きないが、まずそれよりも音を聴いていきたい。


 全ての作詞はアチコが手がけ、作曲は3曲が戸高、1曲がアチコ、残り1曲がRopes名義となっている。1曲目、遠くで列車の走る音から始まる「メトロ」。幻想的なギター・エフェクトに相まって、夕暮れ、缶蹴りや鬼ごっこをして遊んだ幼い頃の記憶、おしゃまなあの娘の呼ぶ声が聞こえてきそうだ。2曲目のタイトル・チューン「Usurebi」は本作中、最も現在に近い地点で鳴らされているように思う。戸高のギターも素で鳴らされている。アチコのヴォーカルは痛みと後悔を帯びる。怯えて、焦がれて、嘘ついた、といったフレーズがいちいち刺さる。この曲の作曲のみアチコ単独となっている。次曲「意味」で、アチコの声を支え浮遊するギターに耳をすませば、若かったあの頃に帰れる気がする。しだいに高みに昇っていく。この曲の作曲はRopes名義。そして4曲目、鍵盤とノスタルジックなギター・エフェクトが降り積もる雪をイメージさせる「snow」。雪はすべてを浄化していくかのよう。歌われる恋も、この世界で生きるための様々な厄介ごとさえも。その流れを汲んだ最終曲パノラマ、ひとつひとつ湖面に落ちる水滴のようなギターに、私はボートをこぐ櫂を思い描く。星へ向かう舟。レディオヘッドの「Pyramid Song」を連想する。Nothing to fear(怖れるものは何もなかった)。


《THROAT RECORDS》を運営する奈良出身、在住のオルタナティヴ・ロック・バンドLOSTAGEの音楽性は、戸高の所属するART-SCHOOLにも通じる、グランジを通過した激しいギター・サウンドだ。実際、両バンドは尊敬し合っている。ヴォーカルのアチコはon button downでの活動や石橋英子とのコラボレーションに加え、ART-SCHOOLのギター2人、Downyのリズム隊2人の計5人で結成したKARENのヴォーカルとして多岐に活動。そのKAREN解散後、アチコと戸高のみで新たに組んだのがこのRopesだ。戸高はPhantom FXという独自のエフェクター・ブランドを立ち上げている。本作のクレジットはアチコがヴォーカルと鍵盤、戸髙がギターとその他となっているが、おそらくほとんどの音はギターで創られていると想像する。不思議な侘び寂びを感じさせるエフェクト。


 ART-SCHOOL加入直後の頃、戸高賢史に聞いたことがある。元々自身のバンドでヴォーカルもとっていたという彼だ。ソロはしないのか? と問うと「え? レッチリのジョン・フルシアンテみたいに?」と戸惑った顔で、しかし不敵に笑っていた。その彼はいまやART-SCHOOLで木下理樹を支えるバンド・サウンドの要だ。とはいえ木下がメインで作詞作曲をこなすART-SCHOOLと異なり、Ropesは戸高とアチコが対等のユニットである。『Usurebi』には戸高の繊細で誠実なメンタリティがよりダイレクトに反映されている。また、静と動は必ずしも対立する概念ではない。コインの両面のように両バンドの活動は補強しあっているように思う。KARENからこの2人編成に移って正解だったのだろう。バンドとしてのケミストリーもいいが、アチコの歌声を生かすことを第一に考えれば、戸高のギター1本のほうが何倍も映える。



(森豊和)






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MOBY「A Case For Shame」.jpg

 彼ほどのビッグ・ネームにもなれば、細かい導線や戦略を敷かずとも、届く力はあるだろうに、モービーのフェイスブックを見ていると、頻繁に写真や真摯なメッセージを残し、ツイッターホームページ、ライヴの動画配信、フリー・ダウンロードの枠まで含めて、如何にSNSのコントロールを上手く的確に行なうかのひとつの例を感じることがある。


 2011年の『Destroyed』におけるまろやかな音像と、鋭角的、好戦的ではなく打たれるビートは、いつかのレイヴ・シーンで歓待された「Go」における明けない夜に向けた煌めいたミラー・ボールのまわるクラブの下からキャリアを長く重ねてゆくなか、ライヴ後のホテルに帰ったときの孤独な落ち込み、疲弊、そこからツアーの合間や休暇中に触れる自然や生物、空気、そういったものに魅せられるように、音楽性のみならず、知見も"広さ"を増していったのを示す途程の作品だった。


 モービーの場合、"広さ"とは強みであり、浅学的な広さではなく、誰もが足を踏み込めるおおらかな音楽とも置換でき、いまだに世界中で色んな形で流れ、愛好される彼の代表曲のひとつ「Porcelain」はテクノ、アンビエント、電子音楽、ヒーリング・ミュージック、多様な解釈があろうと、あの薄い電子音の漣にピアノと声が水墨画みたく曲に馴染む、そこに優しさや癒しを感じる方たちは国境を越えるのもわかる。伝えないと伝わらないが、伝え方によってはどれだけの解釈が起こってもいいということであり、アーティスト・エゴがほのかに消えるようなモービーの曲のなかに、画家ピカソの『マ・ジョリ』を想い出すことがある。人間の輪郭はなくなり、向こうが透けて見える画角の中に入っている断片。


 また、《BrooklynVegan》の企画だが、2012年の彼の選んだベスト・アルバムには、いかにもなゴンザレスやローレル・ヘイローと並び、ライアーズ、ブリアルの名前が挙がっていたのも彼のアンテナを思わせる。振り返るに、2008年に『Last Night』のような少し野暮ったさも孕んだダンス・アルバムをリリースしても、周囲は受け止めた訳で、モービーというアーティストは決して斬新にシーンを攪乱せしめようとするような位置に今はいないともいえるかもしれないが、彼のその時代における感性をフックし、届ける力はそのベスト・アルバムの選出内にも入っていたコールド・スペックスと組んだこのシングル「A Case For Shame」でも発揮されている。


 コールド・スペックスはロンドンをベースに活動するカナダ出身のフィメールSSWで、2012年の『I predict a Graceful Expulsion』はフォーク・リヴァイバルの趨勢と重なり、シンプルながら、美しい内実も合わさり、各方面から注目され、これからの活動がより期待される気鋭。その歌声は若くして、渋みとソウルフルな余韻が残り、往年のエミルー・ハリスのような、しわがれたブルージーさもある。その彼女が全面にフィーチャーされたこの曲のMVでは、水、モービー自身、熊やうさぎの着ぐるみ、モンスターなどが粗めの映像のなかでゆらゆらと揺れ、そこに水中に差してくる光のレイヤーと彼女の声がシンクロしてくる、簡単にいえば、最小限のサウンド・アレンジメントに徹したソウル・ミュージック。


 10月に控えている新作『Innocents』では、ザ・フレーミング・リップスのウェイン・コイン、スクリーミング・トゥリーズのマーク・ラネガンなどの参加もアナウンスされているゆえに、まだ全体像は見えないが、前作からの流れを考えると、よりスムースでユーフォリックなものになっているような気がする。


 なお、この曲のリミックスも印象的なものが多く、特にアルト・ジェイのトム・グリーンによるリミックスは、雨と雷の音が含まれ、ビートの震え、ダブステップ的な要素が加えられており、期待に違わぬアグレッシヴな出来となっている。モービーのサウンドクラウドからダウンロードできる「Honor Detroit Remix」では、実験性と壮大な盛り上がり、音の壁で塗り潰されてゆく後半の展開は圧巻でもある。シングル一曲として他のバージョンと比較することで、立体的になる感覚もおぼえる。


 最後に、曲そのものも良いが、込められた歌詩にある《I will not shame / You today》とは、彼からの世界で今を生きてゆく多くの人(=あなた)へ向けた切なる希いの断片なのかもしれない。



(松浦達)

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010FRANZ FERDINAND『Right Thoughts, Right Words, Right Action』(Domino Hostess ).jpg

 女の子が踊り、軍人も涙するダンス・ミュージック。疾走感と懐かしさの奇妙な同居。祭囃子や80年代SFのテーマ曲みたいなシンセに、つんのめり痙攣しながら疾走するギター・カッティングとビートのいびつな調和。引きこもりの青年が転じてヒーローになる、少年漫画の王道を行くような物語性。オーケー、言ってしまえば今回もそれだけ。フランツ・フェルディナンドはどこまで行ってもフランツ・フェルディナンドなのだ。


 トーキング・ヘッズやロキシー・ミュージックをよく引き合いに出されるが、この独特な感触は、他の人が見過ごすような細かいことを、延々と考え続けた末に行き着いたシンプルさかもしれない。難しいことを簡単にまとめたともいえる。中心人物のアレックスはNMEのインタヴューで、スコットランドの作家アラスター・グレイの小説『Lanark』が本作のテーマとして重要だったと語っている。内向的な人間が社会と向き合い自身をさらけ出す勇気を持つことについての壮大で引き込まれる物語だ。クッキーシーンのインタヴューでは、僕らの曲がアニメ映画『ピューと吹く! ジャガー いま、吹きにゆきます』に使われたのは最高にクールだとも発言していた。主人公ジャガーは、音楽で世界を支配しようと企む秘密結社で育てられ、超常的な音楽の才能と引き換えに感情を無くし自分の殻に閉じこもっていた。しかし育ての親による捨て身の愛情のおかげで彼に感情が戻る。これはアレックス自身の過去にあてはまりはしないか? 江口寿史の 『ストップ!! ひばりくん!』でデヴィッド・シルヴィアンと忌野清志郎が言及され、冨樫義博の『幽遊白書』では戸川純が後半の雰囲気を示す重要なキーワードとして使われていたように、音楽とある種の物語は相互補完する。


 またアルバム・タイトルは仏教における八正道という教えに影響されたという。快楽と苦行の両極端を否定した適切な行い(Right Action)のことだ。鳥山明の国民的漫画『ドラゴンボール』に例えるのを許してほしい。孫悟空とベジータは最後の戦いに備え精神と時の部屋という亜空間で修行する。ひたすら筋力増強を唱えたベジータの態度はフランツでいえば2作目に相当する。一方で特別なことはしない、基礎鍛錬が大事だと考えた孫悟空は3作目の考え方に近い。3作目『Tonight』では心臓の鼓動である80前後のBPMを意識し、再び楽曲の基本構造を強化した。その結果、何をやってもフランツになる完璧な自信と基礎体力を得た。アレックスは言う、アティチュードが大切だ。過去のミュージシャン、地元の友人達から様々なことを吸収した。彼らへの敬意を忘れない。人々を食い尽くそうとする魔人を、全世界の仲間から集めた勇気の元気玉で討ち果たした孫悟空のようだ。スコットランド、グラスゴーの音楽シーンにおいて同胞や後輩と影響を分かち合っている。彼らはとても博識で理屈っぽいことを考えるけれど、最終的には本能と勘を優先させる。それは理性に裏打ちされている。自分はしょせん道化だと言い切れる人間は信用できる。「ユー・ウィル・ビー・オーライ!」、アレックスは宣言する。君もきっと大丈夫だ、と。



(森豊和)

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Rhucle.jpg

 Rhucleの作品は、音楽と呼べるぎりぎりの場所でリスナーを誑かすように華麗に舞っている。いや、もっと正確に言えば、些細な日常音と普段われわれが聴こうとして聴く類いの音楽には境がないのだと言っている。波も、雑踏も、映画のワンシーンも、美しいヴァイオリンの旋律も、毒にも薬にもならないポピュラーミュージックの破片も、彼にとってはすべて同じ"音"なのだ。


 しかしこう書くと、彼の作品はジョン・ケージの表現行為やブライアン・イーノのアンビエントのようだが、そうではない。両者の哲学は、本来は音楽の外側にあったものを内部へと侵蝕させる芸術であっただろう。それによって音楽の範疇はたちまち肥大した。


 Rhucleの行為はその逆である。今まで音楽と呼ばれていたもの、あるいは音楽となり得た音たちを、外へ外へと押しやり音楽から遠ざけようとしている。それは、音楽に疲れた一人の人間の拒絶反応ともとれるし、無邪気に音楽を楽しめていた二度と戻れない時代への憧れともとれる。


 無邪気に音楽を楽しめていた時代――。


 "群衆協奏曲"と名付けられた4曲目「Throng Concerto」では、流麗なヴァイオリンの演奏を遮るようにまったく関係のない効果音や邪魔なノイズが挿入される。妨害は曲が進むにつれて増してゆき、最終的に人間の喋り声が支配して次のトラックへ移ってしまう。まるで、ひとつの曲に集中しようとしても集中しきれない現代人の散漫な意識を、音楽が、音楽らしきものへと成り果てる様子で表現しているかのようである。


 40秒ほどの2曲目「Cosmic Chorus Through The Over Head」では、小鳥のさえずりをバックに馬が駆け抜ける足音とフューチャリスティックで淡白な女性の歌声が響くのみで、そこにあるのは種の無常観と、音に対する幾ばくかの冷めた視線だ。彼は何も主張しない。叫べとも楽しめとも言わないし、踊れとも、悲しくなれとも言わない。そんな真っ白な(というより真空な)気分で聴かされる7曲目「Hawaii's Guest Room "Chicken's Boiler"」の、このあっけらかんとしたハワイアンの中身の無さったらない。この無味乾燥のハワイアンに象徴される、音を心から楽しまない冷徹なアティチュードが、この作品全体を覆う空気となっている。どんな情感にも迎合しない、どこか真理を悟ってしまった人の心を覗きこむ望遠鏡のような音楽、とでも言うべきか・・・。


 しかし、こんな調子で流れる10トラックの後に待っている「The Night Cataract」に、筆者は不覚にも心を奪われてしまった。こんなにも楽観的で、超現実的で、ロマンティックで、根拠の無い過度の幸福感に癒される自分自身に驚いた。これが自分の求めている音なのだろうか、これが聴きたかった音なのだろうか?


 人は、どんなに喉から手が出るほど欲しかったものでも手にしてしまった瞬間に価値を見出せなくなってしまう時がある。音楽を外へ外へと遠ざけ、あとに残ったユメかウツツかもわからない白昼夢のような音の残像に、Rhucleは、そして我々は、救いを求めている。


 『The Space Theory Of The Dreams And Phantasms In A Small Box』="小さな箱の中の夢と幻想の空間理論"


 Rhucleはこのアルバムにそんなタイトルを付け、彼の求める"夢と幻想"を300円のカセットテープに収めた。冒頭とは逆の結論を書こう。この小さな箱の中には真の意味で"音楽"が詰まっている。そしてもう一度ひっくり返す。


 Rhucleの考える本当の音楽とは、何だろう。



(荻原梓)




【編集部注】『The Space Theory Of The Dreams And Phantasms In A Small Box』のデジタル・ヴァージョンはRhucleのバンドキャンプでダウンロードできます。

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STEVEN TANG『Disconnect To Connect』.jpg

 1980年、アメリカで『アルタード・ステーツ/未知への挑戦』という映画が公開された。ケン・ラッセル監督によるこの映画は、アイソレーション・タンクの開発者である脳科学者ジョン・C・リリーがモデルだとされており、劇中にはアイソレーション・タンクを使用するシーンもある。おおまかなストーリーは、ウィリアム・ハート演じる精神心理学者エドワード・ジェサッブが生命の根源を探るというもので、その過程で幻覚剤を用いた実験もおこなうため、ヴィジュアル的にエキセントリックなシーンが頻出する。


 こうしたドラッギーな映像演出は、1996年に公開され話題となった『トレインスポッティング』でも見られるが、『トレインスポッティング』の監督であるダニー・ボイル、そして先述のケン・ラッセルは共にイギリス出身の人物。イギリスといえば、エクスタシーというドラッグを広く普及させるキッカケとなったセカンド・サマー・オブ・ラヴの震源地。なぜイギリス人は、生命の根源だったり本質に近づこうとしたがり、あるいはこれらの要素が多分に含んだ表現を多く生み出すのか? こうしたことは、日本で生まれ育った筆者には完全に理解することは難しいが、"生命"を追究する過程でコミュニケーションに強い興味を持ち、その取っ掛かりとして喜怒哀楽などの感情、さらにはセックスといった事柄に触れるのは自然だと思う。実際『アルタード・ステーツ/未知への挑戦』には、ケン・ラッセルの手によってかなり歪になってはいるものの、エロティックな性愛描写が頻繁に登場する。キス、愛撫、なんでもいいが、生活を営むうえで多くの人がするであろう愛情表現は、人という生き物の本質に近づくための入口なのかもしれない。


 シカゴに住むアジア人アーティストのスティーヴン・タンによって作られた本作『Disconnect To Connect』は、ハンブルクに拠点を置き、ヨーロッパのハウス・シーンで絶大な存在感を放つレーベル《Smallville》からリリースされていることもあり、ラリー・ハードやドリーム・2・サイエンスの流れを受け継ぐ、ロマンティックな雰囲気漂うハウス・ミュージックが収められた作品となっている。スティーヴンは、1998年の「Windy City」を皮切りに上質なシングルを作り続けており、アーティストとしてのキャリアは10年以上になるが、なんと本作がファースト・アルバムだそうだ。しかもResident Advisorのニュースによると、全収録曲のうち「Interstice」「It's Perceived As Sound」「Brink Of Dawn」の3曲は、1999年~2000年頃に完成したトラックらしい。とはいえ、本作においてこの3曲が古びた印象をあたえることはなく、むしろそのコールドスリープ的な過程を経たことによって、本作にSFチックな壮大さをもたらす重要な曲となっている。


 それぞれオープニング(「Interstice」)、6曲目(「It's Perceived As Sound」)、そしてラスト(「It's Perceived As Sound」)と、アルバム全体の流れを司るリンクマン的な位置に収録されているのも見逃せないポイントだろう。そうすることで本作は、我々が身を置いている時間軸から軽々と逸脱しているからだ。森は生きている『森は生きている』もそうだが、本作もまた、どの時代に生まれた音であり作品なのか、聴き進めていくうちに曖昧となり、終いにはわからなくなる。それは結果として、恍惚感で覆われたサウンドスケープにつながり、本作におけるまどろむようなシカゴ・ハウスのリズムが生々しく、さながら生きた心臓の鼓動みたいに思えてくる。


 そういった意味で本作は、良質なハウス・ミュージックが詰まったアルバムという枠から遥かに飛躍し、聴き手にある種のフロー体験をもたらす変性意識的アルバムとして、妖しくも甘美な魅力を放っている。



(近藤真弥)