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 列車や飛行機をモティーフにした音楽作品は多い。例えば、今年の来日公演も喝采を受けたクラフトワークによる『ヨーロッパ特急』、砂原良徳の『Take Off And Landing』など、ひとつの旅をするように、実際の音までサンプリングされた上で、臨場感を作りあげる作品。いまだに子供は大きな空に想いを凝らし、大人は仕事にしろ、プライベートにしろ、乗り物そのものは勿論だが、「移動」の間における列車や飛行機の時間は特別なものなのかもしれない。


 今年の宮崎駿の長編映画『風立ちぬ』でも、武器を乗せない飛行機を模索する航空技術者の堀越二郎が印象的な形で描かれ、または、自身の幾度とない実験の果ての発見、結果が想わぬ形で悪利用されて悩んできた過去の科学者たちの軌跡を想い返さずとも、これまででは空想的でさえなかった場所まで乗り物は繋げてくれることになった現代は功罪あれども、筆者は悲観的にはならない。ただし、アメリカの建築家でグラフィック・デザイナーであり、情報社会に関する著書も多いリチャード・ワーマンが言うところの「世界の半分がインストラクションで出来ている」としたら、そういったものの理解の本質は遷移にあるともいえる。遷移とは、時代の速度と体感速度のトレードオフのようなニュアンスでも捉えられないだろうか。海外で旧い旅客列車で何時間も揺られる選択肢を取る構法の裏で、そこにはビークルを介した個の想像力がその瞬間に置き去りにされているのだとも思いもする。


 ヴァン・ダイク・パークスが1955年に初めてアメリカを鉄道で横断した旅の想い出に準拠した、あくまで架空のサントラ盤としてこのたび、日本でも手に入りやすくなった今作『Super Chief~Music For Silver Screen』から撥ねるのはまさに、車窓から見える緑の木々や岩山、レールの軋む音、旧き良き時代(という言葉も苦手だが)の時間の流れ、移動中の微睡み、車内でのアクシデントまで、そんな想い出の断片が遷移する理解に並走する。なお、日本でも手に入りやすくなったというのは、今春のレコード・ストア・デイで限定LPとしてリリースされていたのだが、すぐに売り切れてしまったのもあり、日本にも入荷されなかった背景がある。ヴァン・ダイク・パークスといえば、『Songs Cycled』のリリースもあり、音楽の豊潤さをあらためて届けている存在だが、ここでの彼は映画音楽家と想像豊かなストーリーテラーとしての側面を兼ね揃えている。
 

 "オーケストラル・ポップ"と銘打たれ、シカゴとLAを結ぶ旅客列車"スーパーチーフ"で西を目指す少年、そこで、起こる幾つもの出来事。「Go West Young Man」「The Dining Car」「Into The Gloaming」と曲名からそのまま伝わってくるものもあるが、30曲を通じて、何度も出てくるメイン・テーマと小品が結ばれ、浮かんでくる情景はアメリカという題材につねに向かい合ってきた彼の挑戦心のようなものであり、ルーツ・ミュージックや教会音楽、ロマンティシズムが幾重にも折り目をつけながら、例えば、アルマンド・トルヴァヨーリ、エンニオ・モリコーネなどが映画音楽で時おり忍ばせる、幻想的かつ実験的な構成の音楽に対する敬虔さも可視できる。


 また、20世紀のアメリカにて、アーロン・コープランドが残したものも大きかったが、それは古謡や、教会音楽からエミリー・ディキンソンの詩などをフックし、アメリカ音楽のひとつの礎を築いたといえる人物であり、個人的に彼のアーウィン・ショウの劇音楽として書き下ろされた『静かな都会』で木霊するノクターンには今も魅せられる。そのコープランドの血脈を着実に受け継ぐヴァン・ダイク・パークスはこの架空映画の中で、しばしば少年に彼自身の現在の感慨を投射しようとする。それは1955年の、過ぎ去ったアメリカへの何かしらの想いではなく、音楽を通じれば、旅客列車、旅を途程にして、また、今のアメリカに近付けるのではないかと感じさせるもので、この作品から拡がるイメージは聴き手に様々な解釈を促す。その個々の解釈どおり、音楽を乗せた列車は進んでいけば、未踏のどこかに辿りつくのだとも思う。



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 ポスト・コロニアル的な観点から現代の多文化次元主義について翻訳しようとすると、どうしても難渋な複眼性を帯びざるを得ない。近代以降は、伝統が何かしらの権力装置に強制された上で「標準」を課され、それをネーション内に組み込んでしまい、それをまた集態的に受け入れざるを得ない磁場が少なからずあり、ナショナリティ、自然性、固有性は回復可能なのか、という憂慮も持ってしまうからだ。


 そこで、哲学者のデリダのいうところの「絶対的翻訳」、または透明な普遍性、一般化に対する抗いへの言葉がどう生まれてくるのかに意識は募るが、安定した言語、文法や人工的に均質された何かへの視座は厳しい要素を孕むのも道理であり、たとえば、フォルクローレを考えるとき、ラテンアメリカ諸国の長い歴史に培われた民俗性に根付く大衆のための音楽をそのまま、ブレなく翻訳し、伝えることは不可能にも思える。


 このマリアナ・バラフは、アルゼンチンのフォルクローレをベースにフュージョンやロック色を取り入れ、アルゼンチン音響派との共振もありながら、オリジナルの文体を作ってきたアーティストだが、留意しておくに、アルゼンチン・フォルクローレとは、国内で白人が人口の大半を占め、地域によって多少の差はあるものの、そこでは基本的にスペイン系の特徴といえる6/8拍子が多く、ガウチョの音楽とリズムの影響も見える。


 マリアナ・バラフは、1970年にアルゼンチンの首都ブエノス・アイレスで生まれ、サックス奏者のベルナルド・バラフを父に持ちながら、ジャズだけではなく、広汎な音楽への好奇心を拡げてゆく。若くしてアルゼンチン・フォルクローレのパイオニアであり、研究家としても有名なレジャ・バジャダーレスになによりも敬愛を示しているが、レジャといえば、フィールド・レコーディングからペドロ・アスナール、リト・ネビアなどとの交流を含め、多岐に渡り、アルゼンチン・フォルクローレの複数翻訳を試みたアーティストだった。その継承者として彼女の名前を見受けることもある。


 彼女は02年のファースト『Lumbre』の時点で、既にある一定の文法を保っているが、それは伝統と現代的な即興のケミストリーと言おうか、ただ、ラフなサウンド・プロダクションはまだまだこれからを感じさせたが、07年の『Margarita y Azucena』では緻密に作り込んだサウンドに欧州などからも高い評価を受けるようになる。


 しかし筆者としては、端整にアルゼンチン・フォルクローレを礎に、ジャズや西欧諸国の音楽とのソフィスティケイティッドをはかる作品群に、冒頭のように翻訳の困難を感じてもいた。どんどんクロスオーヴァーしてゆくのはいいが、ポスト・コロニアル的に伝統が透明化し、ポピュラー化してゆくのは勿論、是非はあるだろうが、彼女のポテンシャル的にそのバランスが拮抗したものを作りだせるのではないかと思っていたからで、この5作目となる『Sangre Buena』で、THE BOOMが沖縄やブラジルに、デーモン・アルバーンがマリに、ピーター・ガブリエルがアフリカに巡ったように、その逆位相にアルゼンチンからメトロポリタン的に複数翻訳可能な新しいポップスを届けるのに成功していることはなにより喜ばしい。"フォルクローレ"という括りで、まだこの音楽を捉えるにはスムース過ぎるがしかし、1曲1曲に込められた意図を汲み取ると、これが契機となり、アルゼンチンの元来のフォルクローレに世界中から、いや、アルゼンチン本国のアーティストたちに目を向けてほしいというような忖度もできる。


 1曲目は、アルゼンチン北部とボリビアのフォルクローレのリズムであるティンクを使った軽やかな「La Hora」。あなたを巡る、優しい言葉を歌声が攫う。2曲目は踊りだしたくなるガトのリズムを用いた、大御所たるチャケーニョ・パラベシーノのゲスト参加もあり、彼の「OLA!」の掛け声、ヴァイオリンの響きまで今後、ライヴでも盛り上がりそうな雰囲気を受ける。今作は多くの伝統的なリズムにより細心を払い、1曲内のテーマもはっきりしているがゆえ、どこから聴いても感じられるものがあり、ラブ・ソングはむろん、日常的なもの、詩的なものまでバランスよく配置されているのもいい。


 彼女の父がサックスで参加した6曲目のストレートなポップ「Especial」における、少し憂い気味に愛的な何かの不思議に関して歌う情感と、「Sangre Buena」のラスギー・ドブレのリズムに伸びやかに同じく愛的な何かへの逡巡を投げかけるシンプルな2曲に特に心魅かれたが、要は、リズムのアルバムであり、アルゼンチン・フォルクローレの再更新をはかるアルバムにして、やはり、リアナの「声」のアルバムとも思ったからである。マリアナの「声」を翻訳するには、おそらく、難解な翻訳装置も理論もいらないだろう。この作品はそういう意味で、グローバル・ポップスとしても秀逸でありながら、表層だけをなぞっていては何も見えない、そんな奥深さもあるオルタナティヴさを持っている。



(松浦達)


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 ロックンロールとは、ずっとユース・カルチャーの中心であり、若者が「大人にならないでいられる」ための免罪符だったのか。ディアハンターにとって5枚目のアルバム『Monomania』は、ガレージ・ロックに回帰しながら、ヘヴィーな精神的内面に迫った内容となっている。この内容から察するに、かのブラッドフォード・コックスに安易な考えはなかったのだろう。


 ドアーズというバンドを想い返してみる。今でこそ、ドアーズに刻印されたのは"ユースフル"という言葉で、それは若々しく、背伸びして大人を装う、小さな大人の代弁者であったことを意味しており、そこには、1950年代のいわば親殺し的な、エルヴィス・プレスリーなどの影が落とされていた。

しかし、彼は小さな大人の代弁者ではなく、"子供の振りをした大人"だったのかもしれない。ドアーズの「The End」は11分以上を越えるが、モティーフは、実の父を殺し、母を娶ったオイディプス神話をアレンジしたものだった。


 ロックンロールにおいては「未成熟」であることが極めて重要視され(「初期衝動」という言葉の乱発)、それがジャーナリズムを増長させていることは間違いない。そこではある種の「成熟」が疎まれる。その「成熟」が賛否両論を呼んだ作品として挙げられるのは、去年上梓されたダーティー・プロジェクターズの新譜『Swing Lo Magellan』だ。


『Swing Lo Magellan』は過剰なまでに音がそぎ落とされていたアルバムだ。だが、これは唐突な変化ではなく、『Rise Above』『Bitte Orca』と順に聴いてゆけば、それが意図されたものだとわかる。彼らはアルバムを重ねるごとに、音数を減らし、ビートを際立たせ(『Swing Lo Magellan』におけるビートはヒップホップを意識しているようだ)、メロディーを洗練されたものにしていった。つまり、近年における彼らの志向には"シンプリティー"というものが確実に存在しており、その一つの帰結として『Swing Lo Magellan』という作品がある。そこで得た成果は極めて洗練されたフォルムで、『Rise Above』に存在していたサウンドにおける遊戯性=幼児性が削ぎ落とされ、非常に美しい成熟が聴き取れる。


 このアルバムでは、そのシンプリティーがフォーク・ミュージックのファクターを孕んでおり(タイトル曲「Swing Lo Magellan」など顕著な例だし、フロントマンのデイヴ・ロングストレスはボブ・ディランからの影響を強く受けている)、「成熟=フォーク」という退屈な図式を生み出している部分もあるため、この「成熟」に諸手を上げて賛成というわけにもいかない。だが、ここまで「成熟」したものを聴くと、やはりその美しさには感動させられるし、一時期持て囃されたブルックリン・シーンにおける著名なアクトたちが軒並み失速しているなかで、これほどまでに高い完成度の作品を提示したことは賞賛に値する。


 今作を一聴したとき、冷めやらぬ興奮とともにふと頭の中を過ったのは、実は『Swing Lo Magellan』という、『Monomania』とは音楽性が似ても似つかぬ作品だった。『Monomania』はまさしくNYパンクだ。フロントマンのブラッドフォード・コックスがこの作品を「a very avant-garde rock & roll record」と表現したことからは、ぺル・ウブが自分たちの音楽を「avant-garage」(アヴァンギャルド・ミュージックとガレージ・ミュージックから影響を受けた音楽という意味)と表現したことが嫌でも想起される。しかし、そういったアヴァンギャルド性がこのアルバムに満ちているわけではない。『Monomania』はディアハンターがホワイト・トラッシュ的にガレージ・ロックをやったらこうなるだろうという、極めてシンプルなアルバムだ。


 彼らの過去作を聴けば、ディアハンターがNYパンクの血脈にあるという指摘は今更かもしれない(ブラッドフォード・コックスはラモーンズを敬愛している)。しかし今、改めてそのことを指摘する必要を感じるほどに、『Monomania』の中にはNYパンクが存在しており、それはディアハンターというバンドが持つ表現の核にあるものだと思う。そして、今作ほどそれを感じたアルバムは彼らのディスコグラフィーにはなかった。だから、このアルバムはディアハンターの本質が最も剥き出しになったものだと言えるのではないか。


 5枚目にして、ガレージ・ミュージックという本質がシンプリティーとして剥き出しになるのは興味深い。そういった常に「未成熟」とも言える部分はディアハンターが持ちうる最大の特徴のように思える。ノイジーなギター・サウンドやヴォーカル・エフェクトが多く聴ける今作の中でも、ディアハンター特有のセンチメンタルなメロディーを聴取できるのは、そのセンチメンタリズムが彼らの「未成熟」さと分かちがたく結び合っているからだろう。


 そもそもNYパンクは、音楽的な成熟とはほとんど無関係と言っていいところにその特徴があった。それはロック・ミュージックのフォーマットに、思いつく限りのアイディアを片っ端からぶち込んで、闇鍋状態にし、新しい何かを求め続けるムーヴメントであったといえる。この「音の闇鍋」は決まった形を取らず、煮えたぎるままに様々な形をとり、「完成」や「成熟」とはほぼ無関係に、可能性だけがそこで脈打っていた。そういった「未成熟」であり続けることの喜び、ユーモアを『Monomania』からはひしひしと感じた。そして重要なのは、ここでの「未成熟」はあえての完成を放棄しているということだ。このアルバムは極めて洗練された「未成熟」の産物で、「成熟」と表裏一体である。前述したように、このアルバムを作るために彼らは200曲以上のデモを作成したという。だから、ここに収められた12曲における「未成熟」さは、極めて「成熟」的な身振りから産まれたものだ。


 このアルバムを聴いたとき、『Swing Lo Magellan』を連想したのは、あのアルバムにあった「成熟」が『Monomania』と全く対極的であり、また同時に「成熟」から枝分かれしたものだと感じたからだろう。美しく成熟することと、不定形のまま未成熟であること。2000年代初頭から活動を続け、ピッチフォークを中心に高い評価を受けてきた2つのバンドが、対極的でありながらも同じルーツを持つようなアルバムを上梓してきたのは面白い。そこで、『Monomania』は若者に向けられているが、小さな大人のためであるともいえる。


 先に、『Monomania』はNYパンクのようだと書いた。しかし今作は、NYパンクの中で産まれていた可能性の萌芽、ロックンロールにおける歴史のきざはしをまんま産み出しているわけではない。だが、『Monomania』を"子供の振りをした大人"へ向けてのタペストリーと考えると、その身振りは極めてトラディショナルで、刹那的で、あまりにも優しく、ディアハンターというバンドが紡ぐ音楽の美しさが伝わってくる。



(八木皓平)

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 夏まっさかり。一服の清涼剤にグッド・ミュージックはいかが? そんなキャッチ・コピーが浮かぶ30曲入り無料コンピレーション。90年代オルタナから最新流行のエレクトロまで様々な楽曲が詰まっている。


 ミュージシャンの出身地も日本から海外に及ぶ。美濃国(岐阜)のネット・レーベル《Tanukineiri》がレーベル内にとどまらず立候補を募り作り上げたアーティスト・サンプラーだ。ユニークなのがそれぞれ参加者が飲み物をイメージした楽曲を用意していること。《Tanukineiri》が陶器の通販も手がけていることにかけている。陶器の器を購入して音楽を聴きながら飲んでほしいということだろう。飲食は一般的なテーマであり誰にでも受け入れられやすい。無料配信のインディー・ダンス・ミュージックとつなげたのは上手い(美味い)。首謀者の野田は「アンダー・グラウンド・カルチャーを集約させ世に出したい」と発言している。


 さて肝心の楽曲に移ると、どの飲み物を選び、どう表記し演奏するかが各人の性格判断のようになっていて興味深い。それぞれのアーティスト紹介はウェブ上で読むことができるため一部のみさらっと紹介する。レーベルの中核であるエレクトロ・プロデューサーHouse Of Tapesが直球どポップな楽曲を提供したのを筆頭に、少し味見して気に入るようなシングル向けチューンがそろっている。このサイケデリック・ドローンは!? と引っかかった億兆.PKNY.αが実はLOVELY SNOOOPY LOVEのメンバーによる変名だったり。JAPAN TIMESで紹介された女性SSW may.eのレーベルへの置き土産が収録されていたり。DUMMYSelf Blownといった海外サイトで紹介された仙台の若手プロデューサーhiroto kudoや、USのTiny Mix Tapes2013年上半期ベスト30に選出された名古屋のジューク・プロデューサー食品まつり a.k.a. foodman等、まだまだ紹介しきれない、興味が尽きない面子だ。一般公募という性質上、多少玉石混交になる傾向は否めない。しかし新しい可能性をとりたいのだろう。実際通して聴きごたえのあるコンピレーションとなっておりカオス故の不思議な統一感さえある。


 レーベル・オーナー野田はまた「過去の産物を残すことにもロマンを感じてもらう、クリエイター自身が経営する力をつけてもらう、生活を売る」といったテーマを掲げている。そのために他業種のクリエイターとのコラボやイベント開催など様々な展開を積極的に模索している。生活のためだけなら本業に徹すればいいのだ。ロマンが重要なのだろう。今後どんどん音楽がタダになって誰もが世界中にアクセスできる状況で、コンピレーションを下手に作っても珍しくない。どうしたら多くの人の目に留まるか、どうしたら商品を買ってもらえるか、ますます大変な命題になっていく。ここからは私の推測だが、本業の陶器販売を行いながら音楽に携わることもしたい、という思いが苦肉の策でこういったレーベル形態を生んだのだろう。時間もお金も若さも、環境に余裕があって活動する人が良い作品を生み出せるとは限らない。「窮鼠猫を咬む」ではないが、制約のなかで生みだされたポップ・ミュージックこそしばしば時代に残る傑作となるのだ。今後の《Tanukineiri》の動向に注目したい。彼らは周囲をあざむく狸寝入りから今やっと目覚めたばかりなのだろうから。



(森豊和)



【編集部注】『TANUKINEIRI  DRINK  SAMPLER』は《Tanukineiri》のサイトでダウンロードできます。


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 これはちょいと不思議な音楽だ。「エイプリル」では、パンキッシュなギター・サウンドが前面に出てきたかと思えば、「クラスメイト」のように、童謡に近い心地よい譜割りとキャッチーなメロディーが聴き手を惹きつけるアンセミックな曲もある。一聴しただけですぐに覚えられるポップ・ソングも書きながら、「遠くへ行きたい」などは間で聞かせる曲展開を見せており、こうしたワンパターンではない豊穣な音楽性もハラフロムヘルの魅力だ。


 バンドのホームページには、「「パンクバンドをやろう。」という意思のもとサポートベースを加えた5人での活動を開始する」と書かれているが、筆者からすると、ハラフロムヘルの音楽はニュー・ウェイヴ、もっと正確に言えば、細野晴臣がプロデュースしたこともあるチャクラの要素を感じる。特に、まるで変臉のように次々と場面が移り変わる歌詞を、伸びのある奔放な歌声でもって乗りこなすタテジマヨーコの姿は、チャクラのヴォーカルである小川美潮を想起させる。


 さらに歌詞はというと、これまたとてつもない飛躍を披露するものとなっていて、さながらシュルレアリスムである。例を挙げていけば、《毛細血管ちぎれそう 細胞分裂はじまりそう》(「エイプリル」)、《歌えよ歌え 声高らかに 頭のアンテナ引っこ抜け》(「遠くへ行きたい」)、《ここからは戻れない 宇宙のゴミになって》(「東京昆虫博物館」)などなど。全体的に、どこかへ飛び出そうとする願望が現出しているように見える。


 こうした言葉選びのセンスから察するに、歌詞は語感を重視しているのではないだろうか? もちろんどこまでもナンセンス、それこそ電気グルーヴの歌詞とまではいかないが、それぞれの言葉はバラバラに見えるのに、なぜかひとつの物語を聴き手なりに思い浮かべることができるのは、帰納的に言葉を積み上げ、聴き手の想像力を巧みにいざなう世界観が終始貫かれているから。


「13歳」というタイトルを掲げた本作は、25歳となった筆者からすると懐かしの青春時代、特に「クラスメイト」や「アイスランド成東」などはその当時を思い出させる歌なのだが、そんな「13歳」というタイトルには収まりきれない狂気を時折感じさせるのも、本作の興味深い点であり、面白いところだ。先述のどこかへ飛び出そうとする願望もそうだが、その願望が現実逃避に振り切れていない、いわばイライラは積もっているが、それをギリギリのところで我慢しているがゆえの支離滅裂さ。それが本作では狂気となって現れているのかもしれない。このままでも十分に聴きごたえのあるバンドなのは間違いないが、今後その狂気をどう扱い表現するかによって、バンドのサウンドと世界観はがらりと変わるはず。どんな方向性を目指すにしろ、この先が楽しみなバンドであるのは確かだ。



(近藤真弥)




【編集部注】「13歳」はハラフロムヘルのライヴ会場で購入できます。

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 ミニマル・ミュージックというカテゴライズは特に、現代音楽のなかでもテクニカル・タームとして多くの難解な用語が用いられてきたが、いざ、その音楽と向き合うと、とても拓けた何かとオルタナティヴ性を含んでおり、むしろ、ジャンルを越えてゆく軽やかさを視ることができる。


 例えば、スティーヴ・ライヒに関しては、竹村延和からケン・イシイといった世界でも活躍する日本のアーティスト、さらにはコールドカットやハウィー・Bといった面々にもリミックスされ、なおかつ、クラブでもライヒの曲の断片を聴くことが多い。特に、1971年の『Drumming』や1988年に作曲された『Different Trains』に関しては、近年の再評価は高まっており、前衛とコンセプチュアルの双方を兼ね揃えた存在として、現在進行形で注視されている。


 そしてフィリップ・グラスに関しても、もはや冒頭の"ミニマル・ミュージック"というカテゴリーを越えた動きが活発である。フランスでナディア・ブーランジェに師事し、サミュエル・ベケットの影響下で「時間軸」を元にした音楽空間を作り上げていった轍には、アインシュタインの概念までも包括していた。しかし彼の場合は、デヴィッド・ボウイの『Low』『Heroes』をシンフォニー化するなど、決して高尚に抽象的な場所に留まらず、ポピュラー・ミュージックへの接近も果たしてきた。ウディ・アレンの映画音楽もそうだが、誰もがよく知る映画音楽のクレジットに彼の名前がふと見受けられる。昨年話題になったのは、そのグラスのリミックス集『REWORK_Philip Glass Remixed』だが、その面々は見事にオルタナティヴとポップネスを持ったアーティストばかりだったのも記憶に新しい。


 タイヨンダイ・ブラクストン、ノサッジ・シング、ダン・ディーコン、ヨハン・ヨハンソン、ピーター・ブロデリックなど、どのリミックスもそれぞれのアーティストの色が出た興味深いものだったが、やはりベックによる「NYC: 73-78」が鮮やかだった。


 思えば、近年のベックは『Song Reader』という楽譜だけのリリース、また、一夜限りのデヴィッド・ボウイ「Sound And Vision」のカヴァー企画など、むしろ現代音楽家としての側面を強めていたところがあり、90年代の「Loser」から『Odelay』で見せた軽やかさと、パフォーマンスの見事さを憶えている者としては、少し寂しくもあったのは否めない。


 基本は、フォーク、ブルースへの深いルーツ意識がありながら、ブルーグラス、ヒップホップ、ファンク、MPB、電子音楽など数えきれないほどの音楽エッセンスを都度、漂流、ミックスし、それをポップに昇華させてきた過程は、彼のディスコグラフィーを振り返るとよく分かる。ナイジェル・ゴドリッチと組んだ98年の『Mutations』では、アコースティックながらメロディー・センスとリリックの妙が透き通った音像に映えた作品で、『Odelay』的なイメージは全くなく、SSWとしての彼の気骨が凛然と残っていたのを憶えている。往年のプリンスへのオマージュともいえた、世紀末の終末観を笑い飛ばすかのような99年の『Midnite Vultures』、セルジュ・ゲンスブール『Histoire De Melody Nelson』への敬愛も伺え、優雅なストリングスと端整なサウンドスケープに比して、赤裸々な告白と痛みが滲み、逆説的に生身のベック自身が投影された印象も受ける02年の『Sea Change』。その後は00年代もスタジオ作とともに、ライヴ活動、プロデュース、リミックスなどマルチに幅を広げてゆき、今のところのスタジオ作としての結実は08年の『Modern Guilt』になるのだろうが、10年代に入ってからの核たる作品が届いていないのは残念だ。存在感と影響力は褪せないものとしても。


 しかし、ようやく、彼はシーンへ戻る道を巡ろうとしている。2枚のアルバム制作を同時に進めているとの情報や、先日に急遽リリースされた「Defriended」は、トイボックス・ファンクとでも言おうか、雑多な音が鳴り、不規則なリズムと捻じれた音響工作、スペーシーでアシッドな"らしい"曲だった。そこから間髪入れずに、この「I Won't Be Long」も届いたが、個人的に『Mutations』期の美しいメロディーと、ヒップホップ的なリズムに乗ってくる彼のしゃがれた声まで、これから/これまでのベックとしても興味深く、ポップ・フィールドにスムースに染み入る佳曲だと思う。


 10年代に入ってから、90年代を彩ったアーティストたちは各々、独自の方法論で歩みを進めているが、ベックが前線に戻ってくることは現在、ことのほか、大きな意味を持つのではないだろうか。「I Won't Be Long」で、ふと曲の持つ叙情性を対象化せしめるガラスを切り裂くようなギター・ノイズを聴くと、そういう想いに強く駆られる。そして、最後に繰り返される《silently we go》というフレーズも感慨深い。そういえば、彼は過去にこんな歌を残していた。


《Listen to the voice on a radio wave / Somebody needs you,somebody who's far away(筆者拙訳:ラジオ電波からの声に耳を傾けてみて / 誰かがあなたを必要としているよ / 遠くにいる誰かが)》

(『The Information』収録の「Movie Theme」)



(松浦達)


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 インドのポピュラー・ミュージックといえば、日本では『ムトゥ 踊るマハラジャ』の映画のヒットのイメージからボリウッド的な華やかなイメージや伝統的なラーガなど持っている方も居ると察せられるが、国連人口基金『世界人口白書2011』の発表では12億4,200万人で、中国に次いで世界二位であり、国土の広さ、多様な民族性、言語等を含め、インドという国で捉えるには限界があるのは当たり前だが、難しいところであり、音楽に関しても、A.R.ラフマーンという桁違いのセールスを認知度と誇る現地のアーティストが居れば、ヘナート・モタ・アンド・パトリシア・ロバートのように別国からインドの奥行きの深さに魅せられ、それを作品にするアーティストも少なくない。旧くは、かのビートルズのインドへの傾倒を思い出しても早いように、あらゆる角度からインドの音楽は捉えられるが、このジャイプール・カワ・ブラス・バンドが面白いのはジプシー・ブラス、つまりはルーマニアのタラフ・ドゥ・ハイドゥークスやファンファーレ・チョカルリア、マケドニアのコチャニ・オーケスターなど日本でも人気のあるバンドとの共振が確実に見えるということで、ブラス・バンドのルーツたる軍属楽隊としての要素やオスマン帝国の起源を遡及せずとも、先入観なしに聴けば、いかにも、ヨーロッパ的なセンスが表前する。


 この『Dance Of The Cobra』は、グループとしてのスタジオ作では、実に16年振りとなるリリースになるので、彼らの説明を少し入れたい。リーダーのハミード・カーン・カワは、インドの北西部ラジャスターン州ジャイプールで生まれ。地元の音楽大学を出て、タブラ奏者として注目されるなか1984年に渡仏し、フュージョンや様々なエッセンスを混ぜ合わせてゆくことになるが、諸説あるものの、そこで故郷たるラジャスターン州は"ジプシー"のルーツとも言われるのもあってか、自然とジプシー・ブラスへと想いを固める。そこで、1995年に結成されたのがこのジャイプール・カワ・ブラス・バンドになる。なお、ハミードはムサフィール(・ジプシーズ・オブ・ラジャスターン)というグループも率い、また、双方で世界各国を巡り、女性ダンサーやジャグラーも混ざる、その華やかで賑やかなステージ・パフォーマンスは評価が高い。ゆえに、スタジオ録音作よりも動画サイトやライヴで彼らを知ったという人も多いとも思う。


 1997年の『Fanfare Du Rajasthan』から今作までの間に、彼らに対する評価やハミードの認知度も高まっていったのは主にヨーロッパ諸国の口コミや多数のライヴ・ツアーの結果も大きいが、ボーダーレスになってゆき、誰でも色んな音楽にアクセスできる時代背景が確実に後景化するだろう。今作はアレンジメントや楽曲の幅が本当に広く、やはり、ジプシー・ブラスらしく祭祀色も強く、要は典礼、ハレのための音楽としての側面も勿論あるが、ハミードのコンポーズ能力の高さが随所に伺え、複雑なリズムからブラス、シタール、弦、パーカッションなど多様な楽器の鳴りまである程度は計算されていながらも、即興の妙と不思議な展開が全体を単調にさせない。また、ジャイプールの伝承曲、トラディナショナル・カヴァーとオリジナル曲が半分ずつ収められたバランスも良い。


 まず、冒頭の「Piya Tu Ab To Aaja」の勇壮なブラスからマーチング調にじわじわと楽器が重なり、拡がってゆくサウンドスケープに引き込まれる。そして、誰もが踊りだしたくなるような軽妙さを持つ3曲目の「Gore Gore O Banke Chhore」、ハミードの作曲、音響構築面でのオリジナリティーが浮き立つ7曲目の「Mera Dil Hai Dilruba」から、8分近い大作ながらジェットコースターみたくうねるメロディーが耳に残る「Thumri Baaja」辺りのダイナミクス、男性ヴァーカルの跳ねた歌声が印象深い12曲目の「Yeh Kali Aankhen」まで、息をつかせぬほど一気に聴き通せる構成は見事だといえる。


 確かに、こういう音楽はライヴで体感してこそ、というところはあるかもしれず、少し端整な音像そのものにオリエンタリズム的な想いを持つ向きも分からないでもないが、スタジオ作としても完成度の高い内容になっていることは特筆しておきたい。



(松浦達)

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 うだるような暑さをかき消す一陣の風。初来日は震災直後の2011年5月。「今だからこそ希望を届けたい」。彼は様々なインタビューでそう語っていた。時代の寵児ウォッシュト・アウトことアーネスト・グリーンは、伝統的なソウル・ミュージックヘ回帰しようとしている。一過性のネット・ムーヴメントではない、本来の意味で生活に息づく歌を作り始めようとしている。


 新作のタイトル『Paracosm』とはパラ・コスモ。つまり辺縁の宇宙、仮想宇宙といった意味になる心理学用語だ。子どもの頃の空想の万能感、例えば砂遊びでお城を作っては壊す過程で一国の盛衰がイメージのなかで起きている、長い歴史が幕を降ろすそんな感覚。タイトル・トラック「Paracosm」でアーネストは恋人と二人で作る理想の世界について歌っている。アルバム全体にわたって外部ミュージシャンの協力による様々なアコースティック楽器の導入、古いキーボードやサンプラーでヴィブラフォンやハープの澄んだ暖かい音色を再現、冒頭では鳥の声や自然音をサンプリング、それらによって彼が生み出した王国の厚みを増している。


 チルウェイヴとはニュー・ウェイヴなシンセ音にシューゲイザーの音像をかませた逃避的な音楽ジャンルとされる。逃避というイメージで私が真っ先に連想するのは、諸星大二郎『妖怪ハンター』の「生命の木」という作品だ。東北の山奥に住む隠れキリシタン達は、キリスト教のなかにあっても異教徒であり永遠に天国に行けない。しかし彼らを救うもう一人のキリストが現れ光の十字架と共にみんなを連れ出す。行き先は「ぱらいそ(ポルトガル語で楽園の意味)」。パラコズム=パライソ? 無論こじつけだ。しかし「Weightless」はまさにこの世界観に聴こえる。晴れ晴れしい顔でみんな上昇していく。


 YMOの細野晴臣は諸星大二郎の熱心な読者だという。YMOがテクノ・ミュージックからしだいに肉体性を帯びていったように、ウォッシュト・アウトもベッド・ルーム・ミュージックから自然のなかへ、デジタルからアナログ(生演奏)へと回帰していく。アーネストは偉大なソウル・シンガーの系譜に連なりたいのかもしれない。昨年はフリートウッド・マック・トリビュートにも参加した彼は、新作のレコーディングに際して60年代後半から70年代にかけての音楽を聴き込んだという。特に影響を受けたレコードはヴァン・モリソンの『Astral Weeks』。ビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』にも感銘を受けたという。アーネストが現在住むジョージア州アセンズはR.E.M.の出身地だ。だからというわけではないが、R.E.M.がメンバー脱退を経て製作した『UP』『Reveal』といった後期の傑作群も私は個人的に連想した。そういえばこれらの作品も『Pet Sounds』に影響を受けている。R.E.M.が「今日は世界の終わり。みんなそんなこと知ってる。けれどいい気分」と歌ったフィーリングは無意識を通して彼に受け継がれてはいまいか?


 具体的な何かを指しているのではない。日本だけではない。今、世界中のいたるところで危機的状況は続いている。そんななかでまだ人々は権力を求め自己顕示欲を肥大させ、他者を攻撃し否定し傷つけ合っている。我々一人一人の心のなかで様々な物が奪われ、破壊され、汚染され続けている。「Great Escape」でアーネストはみんなで身を隠そうと穏やかに、しかしはっきりと宣言する。村上春樹の無意識を象徴するキャラクター、羊男のように。「震災直後だからこそ日本に行かなければならないと思った」と語る彼が奏でるからこそ説得力がある。


 もちろんアーネストは妻と共にアメリカの片田舎で平和に暮らしている。しかしある意味では彼と彼を包む世界の大切なものは破壊されてしまったのかもしれない。『Paracosm』はそれを復元しようとする試みであり圧倒的に前向きな逃避だ。



(森豊和)

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Yusaku Harada『Souls』 のコピー.jpg

 それにしても本当に面白い時代になったものだ。デジタルかと思えばアナログ。レコードかと思えばカセットである。筆者が生まれた頃はすでにカセットは過去の産物であった。時を経て2013年。何が起きている?


 2000年代はネットレーベルの時代であった。資金が無くても無限に複製・入手可能なインターネットが、在庫という概念をぶっ壊した。それを経験した2010年代において、アナログ限定生産というオプションは無限コピーとはまったく対極に位置するチョイスだ。しかし現代において、デジタルコピーとフィジカル愛は必ずしも対立するテーマではない。むしろそれらはパズルのピースが合わさったように絶妙な相性を見せている。Yusaku Haradaのディスコグラフィーはその意味で非常に興味深い。《MiMi Records》からリリースされた『2011』は文字通り彼の2011年の初期作品をまとめたものだが、オウテカを筆頭とした《Warp》勢や青木孝允を擁する《PROGRESSIVE FOrM》、ニョルフェンをリリースした《分解系レコーズ》など、2000年代に栄えたグリッチ・エレクトロニカ~IDMの影響を受けていることがうかがえる。そしてこの時期の音楽性が彼の出発点となっている。


 2012年に《on sunday recordings》からリリースした『A』(特に3曲目の「Vertigo」)からつづく《ALTEMA Records》からリリースした『ALTEMA』にかけて、彼の音楽は徐々に"有機質"へと変化してゆく。人の声が多用され、幾何学への美意識からヒューマンタッチへと移り変わってゆく。そして今作は関西の《Day Tripper Records》から――それまで拡散していた音楽性を凝縮したかのように――カセット・テープでのリリースとなった。Seihoこと早川聖朋の関心が宇宙への憧憬を経てヴァーチャル・セックスへとフォーカスしたように、原田悠作の探究心もまた人間の魂="soul"へと向けられた。


 まず第一に、送られてきたカセットには愛が込められている。ひとつひとつ丁寧に手作りされた一点もののジャケットには、zipファイルにはない手で触れられる温もりがある。サウンドもどこか物質的な構造で、「Fake it」「Tape Tape Tape」では彼の初期作品を思い出させるアンビエントな電子音やグリッチーな音粒を充満させた空間に、ファンキーなベース、ソウルフルなボイスが鳴らされる。このあたりはフライング・ロータスと交流のあるハドソン・モホークが創設に携わったグラスゴーのレーベル、《Lucky Me》のようにチルウェイヴ情勢に目を配らせながらファンクやR&Bをビート・ミュージックに組み込んだ例を意識しているのかもしれない。


 そして、そうした音塊の群れが偶発的に飛び出してくる。ジャズでヴォーカルが即興でメロディーを変形させることを"フェイク"というが、まさにそういうことだろう。何度繰り返し聴いても次にどんな音が飛び掛かってくるのか予想できない。


 4曲目の「J.J.J」が格好いい。鋭利で棘のある音色選び、ヴォイスの俊敏な出し入れ、オーケストラやアコギも交えたダンス・ミュージックとしての意外な機能性、展開の多彩さ、カオティックな情報量に押しつぶされそうになった瞬間にさらっと音をシャットダウンするタイミング。力強いがマッチョイズムではなく、細過ぎもしない、アーバンなムードも備えている。Yusaku Haradaの音楽の魅力は、こういった多くの情報量に裏打ちされたカオスとそれをまとめあげる編集能力、そして他のアーティストにはない意外な展開であろう。


 日本国内のクラブ・ミュージック・シーンに漠然とした不安が漂いつつあったなかで、ネット・レーベルによる大型イベントや最近の関西の盛り上がりが国内エレクトロの未来に希望の光を照らしたことは言うまでもないが、《Day Tripper Records》はそうした趨勢で『Souls』のような文脈を持ち合わせた作品をリリースしたことが意義深い。


 筆者はここで「CDはダメだ」とか「データが一番だ」とか古くさい断言めいた言葉は言いたくないが、発売から一週間も経てば中古屋の棚に並んでしまうような量産型の商業音楽とは違った、何年も持ち主に愛されうる音楽を今のインディーズでは求めている人がいる。Yusaku Haradaはそんな人の願いを『Souls』に込めた。




(荻原梓)

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 音楽だけでなく、映画や文学なども含めたあらゆる文化には、政治やジャーナリズムでは掬いきれないマイノリティーな側面に対して寛容であってほしいと願っている。もちろん、何かを絶対的な価値観とし、それ実行に移し実現させる"強さ"も、ある部分、それこそ政治やジャーナリズムでは必要だと思う。しかし、その"強さ"は時に、その他の小さい萌芽を排することにも繋がる。だが、その小さい萌芽を大事に思う者も当然いるわけで、だからこそ音楽は、現在も発展を遂げながら、人々のあいだで受け継がれている。


 そうした音楽にも、わざわざ殺伐とした"アンチ"や"カウンター"を持ち込み、批判なき否定を蔓延させてしまうのはどうなんだろうと、ここ最近思うことが多くなった。少し陳腐な言い回しになってしまうが、人はそれぞれ性格も違えば、生まれ育った環境も違う。当たりまえと言えば当たりまえだが、そんな当たりまえなことを多くの人が忘れているように見える。何も、ひとつのナニカに集う、いわば全体主義的な枠組みにすべてを強引に当てはめる必要などないのではないか? そもそも、似た者同士だけで作られた"集団"や"繋がり"の馴れ合いに何の価値があるのだろうか? 似た者同士ではないからこそ、"繋がり"には価値があり、尊い。ここ数年のあいだでよく見かけるようになった、いわゆる"ポスト・シティー・ポップ"という音楽は、そういったことを我々に示している気がする。もっと言えば、"わかりあえないことをわかりあおう、そして、そこから始めよう"。こうした一見ネガティヴな諦念のように見えて、その実、前に進むための希望として求められているのが、"ポスト・シティー・ポップ"と呼ばれる音楽ではないか。


 カナタトクラスはキャッチーなメロディーを書けるし、日常に潜むドラマティックな場面や瞬間を切り取る歌詞も秀逸。そんなカナタトクラスの音楽を聴いていると、ほんの少し人生が色鮮やかになり、簡単な用事を済ますためだけの外出でさえ、目の前の景色が晴々とし、楽しい気分にさせられる。わかりやすいマッチョな強さがあるわけではないが、風が吹けば一瞬で消し飛んでしまいそうな感情の残滓を描くその姿は、十分な強度を持っている。そういった意味でカナタトクラスは、ポスト・シティー・ポップと呼ばれるに相応しい資質と音楽性を備え、何よりロマンがある。


 とはいえ、ポスト・シティー・ポップ云々について知らなくても楽しめるのが、本作の良いところ。特に1曲目の「風物詩」は、ザ・ラーズやブライアン・ウィルソン、スピッツなどに通じる要素が散りばめられたメロディーとアレンジが光り、その豊穣な音楽的背景を感じさせるサウンドは、聴き手を一瞬で虜にする。


 しかし、海外の音楽にかぶれるわけでもなく、かといって安易に流行を取り入れるわけでもない。あくまでカナタトクラスは、繊細な言葉で歌を紡ぎ、甘美なメロディーを鳴らし続ける。そうした姿勢が生み出すのは、紛れもなくカナタトクラスにしか鳴らせない音楽だ。先述したように、カナタトクラスは"ポスト・シティー・ポップ"と呼ばれるに相応しく、実際にそう言われることも多いと思うが、仮にそうしたタグがなかったとしても、カナタトクラスの音楽は誰かにとって大切なものになりえたはず。そんなカナタトクラスの音楽的ポテンシャルを、本作は明確に示してくれる。



(近藤真弥)