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Betamaxx『Sophisticated Technology』.jpg

 80sリヴァイヴァルが起きている! と鼻息を荒くして語っても、大仰に驚く人はいないでしょう。これまでにも80sリヴァイヴァルは何度か起きているし、"何をいまさら"なんて具合に、80sというキーワードに食傷気味な方もいるかもしれない。


 しかし、それでも80年代の音楽に惹かれ、その影響を反映させた作品は今でも数多く生まれている。流行には目もくれず、ひたすら"好き"を追求するその姿、筆者の目にはとても面白く映ります。もちろん揶揄などではなく、素直に面白いと思えるのです。何より"好き"をモチベーションに生み出された音楽は、コンセプトや時代性を一枚一枚剥ぎ取られても、時の流れに耐えながら確実に残っていく。そして、その残った音楽をリアルタイムではない者が引き継ぎ、時には音を鳴らし、作品として残す。そうした繰り返しの末、本作『Sophisticated Technology』のようなアルバムが生まれたのは、とてもロマンティックであり、文化の面白さを示していると思います。


 かつてソニーが販売していた家庭用ヴィデオ・テープ・レコーダーの名前を掲げるベータマックスは(こちらは"X"がひとつ多いけど)、アメリカはピッツバーグ出身のアーティスト。そんなベータマックスが鳴らすサウンドなんですが、モロに80年代エレ・ポップ、それも『Speak & Spell』期のデペッシュ・モードに通じるシンセ・サウンドを基調としている。そこにイタロ・ディスコのいなたい近未来的サウンドスケープとベース・ライン、さらにはオールド・スクール・エレクトロやハウス・ビートも顔を覗かせる。ひとつの要素で満足しない折衷的感性は、やはり2013年の作品であるということか。


 もうひとつ興味深いのは、バンドキャンプでダウンロードできる本作のタグに、昨今盛り上がりを見せる"シンセ・ウェイヴ"の名があること。多くの者はシンセ・ウェイヴと聞けばおそらく、《Minimal Wave》やそのサブ・レーベル《Cititrax》がリイシューしている、80年代ニュー・ウェイヴのエクスペリメンタルな作品群を思い浮かべるのだろう。まあ、本作の1曲目「Breakthrough」は、そのリイシュー群に通じるドローンの要素を見いだせなくもない。しかし、基本的にダンサブルなシンセ・サウンドを終始鳴らす本作は、やはりエレ・ポップと言ったほうが、少なくとも便宜的な面では妥当でしょう。


 ただ、本作のサウンドがシンセ・ウェイヴ・ブームを通過したうえで生まれたものならば、それはそれで興味深い。チープさを逆手に取った秀逸なジャケット・デザインは、80年代ディスコのレコード・ジャケットでよく見られる色使いを想起させながらも、どこか宇宙を見つめているピュアな開放感に覆われたサウンドを聴いてしまうと、サイボトロン「Enter」やモデル500「Classics」のジャケット・デザイン、いわゆるデトロイト・テクノの系譜も見えてくる。もしくは、ドリーミーなカーテンを纏っていたチルウェイヴの残滓が、80sの皮をかぶって新たな白昼夢を紡ぎだしたのか・・・。いろいろ想像が尽きない。



(近藤真弥)



【編集部注】『Sophisticated Technology』は《Telefuture》のバンドキャンプでダウンロードできます。

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 アナログ・レコードが再評価されているのと同じだ。新しいことについて書こうとして最も古いことに行き着いた。奈良出身、三重在住のベッド・ルーム・アーティストSayoko-daisyの話である。彼女はサウンドクラウドで素晴らしい曲を多数発表している。しかし新作を上辞するチルウェイヴの雄ウォッシュト・アウトのように、インターネットでいきなり爆発的に注目されたわけではない。リアルな現場で、様々な地域のたくさんの人々が偶然交差し情報が行き交った結果、今この作品がある。その核となるのは彼女の歌声と表現したい衝動。それがなければ広がらない。


 本作「Need Them But Fear Them」は、インスト含む5曲入りEP。セルフ・タイトルの前作が細野晴臣に影響された歌謡テクノ・ポップ集だったのに対して、本作は一転、ダークな打ち込みビートで、豊潤なメロディーをあえて解体、断絶している。クラブ・ミュージック、ジャズ、クラシック、はたまたハード・ロック、様々な要素が顔を出す。一方でウィスパー・ヴォイスに感情は徹底的に抑制される。ためにためてラストのタイトルトラックでついに闇を切り裂くメロディーが発動する。しかしその題名は「私は他者を必要とする。しかし同時に他者を恐怖する」。通して聴くことで見えてくるのは『風の谷のナウシカ』の荒涼とした世界。しかしこの世界で我々は生き続けなければいけない。


 彼女は幼少期より音楽に親しみ作曲もしていたという。何が理由かは分からない。10年間音楽から遠ざかり過ごした時期を経て2012年から急にまた憑かれたように作曲を開始。同時期に奈良のレコード・ショップ・ジャンゴでアナログ・レコードを漁り出す。ジャンゴ店長が偶然彼女の音源をネットで聴きCDリリースを勧めた。回りまわって音楽ライターの松永良平の目に留まりCDジャーナルで取り上げられ話題になる。京都のベテラン・ミュージシャン、バンヒロシに招かれライブをしたり、下北沢モナレコーズ店長行達也とのユニットLaylaで共作曲を無料配信したり、名古屋のガールズ・バンドCRUNCHとのはっぴいえんどカバーEPでは『風街ろまん』収録「暗闇坂むささび変化」を歌い、原曲のマンドリンの音色をキーボードで再現している(このコラボレーションは彼女らが『Heavenly Music』ツアーで実際に同曲の演奏を聴き、細野晴臣と会話したことに触発されているよう)。なお今後の作品では逆に生ギターをサンプリングするアイデアもあるという。奇しくもウォッシュト・アウトと同じ道を歩んでいる。


 前作の収録曲半月の街で、彼女は自らを古い顧みられることのない人形に例えていた。自分と周囲の友達のためだけに作っていた、そんな彼女の音楽はリアル/ネット双方で様々な人々を通して広がりつつある。人と直接会い話をすること、お互いを理解しようとして時に笑い合うこと。その積み重ね。原始的な方法かもしれない。でも最も強力なのだ。風景構成法の発案者であり文筆家、精神科医の中井久夫はこんなことをよく書いている。


「僕のことをあいさつで患者を治していると馬鹿にする人もいるけど、当たり前のあいさつや握手が一番大切なんです。相手を人間として認めているということですから」


 いくらネットが発達しても人と人との出会いは重要だ。実際に出会えなくとも、芸術を生み出し伝えていくためには真の感情の交流は必須だろう。



(森豊和)



【編集部注】本作は下北沢モナレコーズ奈良レコード・ショップ・ジャンゴで購入できます。また、Sayoko-daisyさん個人でも通販で販売しています。



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 ニュートンはかつて太陽系の模型を作ったが、中央に金メッキの太陽を配置し、周辺の惑星は各位置に所在し、レバー操作で、各惑星が軌道に沿ってゆっくりと動き出すというものだった。それを見た英国の天文学者のハレーは、その模型の精巧性に唸ったものの、模型を越え、複雑にして精巧さを保つ本当の太陽系、宇宙とはやはり人間の叡智を駆使しても届かないものだとも気付いたという。


 思えば、プラネタリウムというものも当初はルネッサンスを経て、18世紀を跨ぎ、部屋の天上にレールを敷き、中心に太陽を置き、その周囲を惑星が多くの歯車で正確にまわる運動儀が開発されることで原型を為し、"プラネタリウム(planetarium)"という造語が付されるまで長い時間を擁した。"planet(プラネット)=惑星"と"~orium(~オリウム)=場所"の合わせ言葉。そこから、惑星以外の星も表現し、今現在のプラネタリウムへは更に変節と改良が加えられてゆく。


 本来の宇宙そのものの宏大さと、疑似的な宇宙を希求する人間の欲求の差異。自然と人為の鬩ぎは、想像力を強化させることもあるとしたならば、プラネタリウムという場所で得る感覚はトレースされた果てない宇宙への好奇心なのかもしれない。


 さて、おそらく、このEPのジャケットからまず、これまでのデデマウスが孕むノスタルジアと同時にヴィヴィッドなひろがりを期待する人は多いかもしれない。「faraway girl」からおよそ1年、今後は定例になるかもしれない、プラネタリウム・ライヴに向けた、会場限定EPとしての第2弾「to milkyway planet」。


 今年を振り返ってみても、昨年の自主レーベル《not》から通算4枚目となるアルバム『sky was dark』も引き続き高い評価と注目を受け、初プロデュース作たるThe Selection of DE DE MOUSE Favorites performed by 六弦倶楽部 with Farah a.k.a. RF『Vol.1』と加速を重ねるなか、サンリオピューロランドにおける「キキとララの星空の旅」の劇盤プロデュースも行なった。その間隙を縫い、膨大な量の各地でのイヴェントやライヴ活動にも暮れ、こうした音を紡ぎ、届けるというのはもはやワーカホリックといった域よりも、デデマウスという存在が常に前を向きながらも、自己刷新を常に試みているようなマッドな熱量を感じる。


 「天の川へ」というタイトル、提灯、燈籠、煌びやかな夏の空気感をおさめたジャケットと6曲のバランスは統一感と多彩性を持ち、構成的にもEPながら物語性も汲まれている。


 例のカットアップ・ヴォイスと眩い電子音が有機的にいびつに絡み合い、少しずつ宇宙の淵へと運んでゆくような壮大な「milkyway planet」から、彼自身の内省性がほのかに浮き出る「nobody's place」におけるミニマルにシェイプされた音像に至るまで鮮やかに、これまでの自身の像を残映させ、更新してゆく。


 彼が作り上げるスタジオ・ワークと、ライヴでの乖離をして、スタジオ・ワークが端整だという訳ではなく、スタジオ作の方が導路がはっきりしていると言おうか、ライヴでは整合美よりも無軌道でラフなインプロヴィゼーションに魅力が発現するときがあるゆえに、こうして纏まったコンセプチュアルな内容で魅せる際の彼の集中力と構成力は美しい。マウス・オン・マーズや、デッドマウス、オヴァル辺りがふと忍ばせる人懐っこさを思わせる3曲目の「old friend's song」はタイトルそのままに、簡素ながらも音の重なりや掛け声のようなエフェクト・ヴォイスが行間を盛り立て、オリエンタルな雰囲気を醸す。"旧友のための唄"。直訳すればそうなるが、昨年の「faraway girl」EPに比すると、彼岸感よりも受け手が各々に近接にかつ密に平衡的な感覚に寄り添うビートと曲展開が目立つように思える。ただ、近接に各々の感覚に寄り添うと言っても、空、その先の宇宙を見上げたときに皆が感じる"それ"に近いと言おうか、花火大会でもいいが、同じものを違う人たちが違う場所で視るというマジカルな瞬間は、その実、貴重なもので、音楽を共有する、共に聴くという行為もそういうことであり、プラネタリウムという装置で彼の音楽がシェアされる場所における帰一性というのも掛け替えのないものなのだと思う。


 だからこそ、スペーシーで少し無愛想で不規則な変拍子が刻まれる7分を越える4曲目の「farther shore」で、冒頭からの流れは、静かに不穏かつ神経症的なものに移ろう。空がそのまま星を映さないように、夜がずっと暗闇を描かないように、咲く花火が儚く散るように。《Warp》レーベルの諸アーティスト、オウテカやスクエアプッシャーなどから受けた志が活きた、エレクトロニカ的要素が強く、途程でドラムンベース的に持ち崩れたりする曲内で、脈拍をはかり直すように、ズレた心地で聴き手の感性を散逸させる。冒頭から陶然と浸れないでもない音世界はしかし、不穏なままではなく、やわらかく、そのまま収斂、昇華するように、後半の2曲へとつながってゆく展開は流石といえる。「milkyway planet」から「to milkyway planet」の"to"までの距離。


 誰もがデデマウスに求めるだろう稚気や蛮性、ロマンティシズムや彼岸性も包含し、この「to milkyway planet」では、衒いのない彼の精神性とトリップさせられる音の快楽がより増している。確実に研ぎ澄まされてゆく音風景が"milkyway planet"と称されるのかもしれず、ならば、いつかは彼岸の少女へ想いを馳せ、郊外の空の暗さのなかの光を想っていたアーティストは今、空を見上げて、その向こう側の限りない可能性と煌めきを信じようとしている、そんな気もする。8月、9月と各地を巡るプラネタリウム・ツアーとこのEPは並走しながら、あまり夜空を見上げることも、星を数えることもなくなった人たちもやわらかく包み込むことだろうと思う。


 プラネタリウムや現実の空で感じる星とは、過去の光を今に届けている。その過去にあっただろう光の眩しさを、優しく果敢無くデデマウスは音に変える。



(松浦達)



【編集部注】「to milkyway planet」は、8月16日からはじまる《to milkyway planet tour》より発売開始になるライヴ会場限定発売です。



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 再結成したデサパレシドスの3rdシングル「Te Amo Camila Vallejo / The Underground Man」がリリースされた! デサパレシドスは、ブライト・アイズのコナー・オバーストが中心になって2001年に結成されたポスト・ハードコア・バンド。初期のブライト・アイズにあったコナーの震えるような叫びとハスカー・デュやリプレイスメンツのようなアメリカン・ハードコア/ガレージ・パンクが渾然一体になったエモいサウンドが最高にカッコ良かった。2002年には、《Saddle Creek》から1stアルバム『Read Music / Speak Spanish』をリリースしている。


 ちなみに、バンド名である「Desaparecidos」を(アルバム・タイトルに従って)スペイン語の自動翻訳機にぶち込むと...「missing person; classification for soldiers did not return from the battlefield and their status is unknown」って出てくる。「Desaparecidos=The Disappeared:戦闘中の行方不明者」という意味。バンドのスタンスが伝わってくる。彼らは1stアルバムのリリース後、小規模なツアーに出たけれども、その年にあっさりと解散。コナー・オバーストはブライト・アイズへ、メンバーもそれぞれのバンド活動へと戻っていった。


 解散前のデサパレシドスの活動期は、コナー・オバーストがブライト・アイズとして『Fevers And Mirrors』(2000年)と『Lifted Or The Story Is In The Soil, Keep Your Ear To The Ground 』(2002年)をリリースしていた中間にあたる。宅録から始まったブライト・アイズが、アメリカン・フォーク・ミュージックを2000年代の声にアップデートして、『Lifted』とそれに続く『I'm Wide Awake, It's Morning』(2005年)でボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンと並び称されるようになるちょっと前。その頃、アメリカはブッシュ政権の真っ只中だった。ブライト・アイズは、2004年にケリー候補とブッシュがぶつかるアメリカ大統領選挙への投票を呼びかける"Vote For Change"ツアーにも参加。R.E.M.やボス、パール・ジャムらと一緒にステージに上がっている。そして、シングル「Lua」と「Take It Easy(Love Nothing)」がナショナル・チャートのトップを飾り、ブライト・アイズの名は揺らぎないものとなる。...けれども、その大統領選ではブッシュが勝利したことはご存知のとおり。オバマの登場までには、それから4年を要することになった。


 その後もコナー・オバーストは、2枚のソロ名義のアルバム・リリースやブライト・アイズとしての活動を精力的に継続。ブライト・アイズは、2011年の8thアルバム『The People's Key』で休止したみたいだけれども...、翌年には正式にデサパレシドスの再結成がアナウンスされ、Webサイトも新たに立ち上げられた。そして、2012年8月に約10年ぶりとなる復活シングル「MariKKKopa / Backsell」をリリース。「MariKKKopa」は、アリゾナ州「Maricopa(マリコパ郡)」のスペルをKKKに置き換えて、ヒスパニック系の移民問題(アリゾナ州では新移民法が成立)を取り上げながら、人種差別を糾弾するパンク・ソング。そう、デサパレシドスは以前にも増して明確な意思を持つ「パンク・バンド」として甦った。


 そして、この3rdシングルのタイトル「Te Amo Camila Vallejo」は、「カミーラ・バジェーホが好き!」という意味。カミーラは、2011年に勃発したチリ学生運動のリーダーだった女性。政治活動には不釣り合いなほどの美人で、多くのメディアを賑わせている人物とのこと(ジャケ写に注目!)。ひとつひとつの言葉やアメリカと南米の政治情勢などは、日本に住んでいる僕たちには伝わりにくいことかもしれない。けれども、ブライト・アイズの(現時点での)ラスト・アルバムを『The People's Key』=「民衆のキー(音調)」と名付けて、音楽の力による調和を歌ったコナー・オバーストが2013年の今、こんなにも怒り狂っている。チープでやたら騒々しいシンセと焦燥感に満ちたギター・リフ。何かに急かされるようなサウンドなのに、アンセミックにすら聞こえる。コーラスの一節が、痛切に響く。


《Oh Camila / You Put A Fire In My Heart / I Don't Know What's Going To Happen / But I Want To Do My Part》


「きみは僕の心に炎を灯してくれた。何が起こるかわからないけれど、僕は僕のやるべきことをやろうと思う」ー 何かのきっかけとなる行動があり、それを歌うパンク・ソングがある。怒るべきこと、声を上げること。そして、やるべきこと。今の日本はどうだろう?



(犬飼一郎)


【編集部注】デサパレシドスのHPから購入できます。


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『対音楽』を巡るプロジェクトと言おうか、昨年の中村一義を巡る状況は目まぐるしく、基本、マイペースを貫く彼が一気呵成に動き出した感があった。簡単に遡行するに、まず、シングル「運命/ウソを暴け!」でのベートーベンの大胆な援用の下、相変わらず作り込まれたサウンド・デザイン、簡潔な言葉に複層的な意味が汲み取れる歌詩、あくまでポップを敬愛する彼らしい人懐っこいメロディーと10年振りのソロ名義という大仰な冠詞を抜きに、15年目のキャリアを重ねたリ・スタートとこれまでが混じり合う感覚があった。そして、『対音楽』というアルバムに内包された要素には、2011311日以降の世に向けた彼のステイトメントのようで、壮絶さと美しさが入り混じり、ベートーベンの誰もが知るだろう有名な旋律も昇華されていた。但し、作品としては素晴らしかったにしても、多くの人に届いた、拓かれたとは言い難い部分は多少なりとも付随していたのは否めない。


「君にとって音楽はどういう存在でしたか?


 という問いかけを、何よりも音楽の力を大切にしていた中村一義自身がここでするということ。つまり、その時点で音楽は存在し得ず、存在が音楽していた気配が前景し過ぎていたのかもしれないという捻じれ。例えば、アドルノの文化と野蛮(自然)の関係をあの日以降、考えた人もいるかもしれない。あの日以降、詩を書くことは野蛮だ、とも。天変地異含め、多くの事柄が押し寄せるなか、「自然」は「文化」と連関の糸目が解けそうになったところもあると思う。「文化」は自然過程への内在から脱出し、これから距離を保持し、そしてそれは、否定的に言えば、自然から疎遠になることであり、哲学的には「疎外」と称す。中村一義は『対音楽』において、徹底的に音楽と、自身と向き合い、それを示すように、あくまでボーナス・トラックとして、最後にベートーベンのピアノソナタ第八番「悲愴」に沿い、ライヴ・テイクとしてピアノと声だけの「僕らにできて、したいこと」を紡いだ。とても、「個」的な繊細な痛みが滲む曲だった。


《ただ、救われた私が誰かを想う。》

(「僕らにできて、したいこと」)


 筆者もそうだが、偶然にも生き延びた、救われたという日々が胸を時おり詰まらせていた。なおこの曲は、2011623日に録音されており、まだまだ、何もかも整理しきれない時期だったと思う。ゆえに、『対音楽』での中村一義は、内部の想いの錯転が外部に通じる風を探すように、あなたの向こう側の誰かを想おうとする生成プロセスを踏んだともいえる。文化的な意味での「疎外」に映った錯覚を持った人もいるかもしれないということだ。「自然」に安心を持っていた人たちは、連関とともに、「文化」の在り方を再考するための時間は苛酷な振り返りもあっただろうし、ルフェーブル的な古ロマン主義として文化産物を捉えた人もいたのではないだろうか。だからこそともいえないこともなく、彼はこの作品のリリース後、Base Ball Bear、サニーデイ・サービスと組み、ライヴ・ツアーを行ないながらも、『対音楽』を軸にするというより、ソロ、100s時代の新旧の曲が入り混じり、フラットでもっと軽やかなものになっていた。そんな、集大成たる12月の武道館公演では、Base Ball Bear、サニーデイ・サービス、くるりから岸田繁と佐藤征史、100sというゲスト、膨大な機材をステージに並べ、ようやく今日の地続きの「明日」を歌った。


 その「明日」から始まっているのが、この新曲「魔法をかけてやる!!」になる気がする。100sの町田昌弘と二人で、全国のライヴ・ハウスをトークや弾き語りセッションで巡るなごやかな《まちなかオンリー!》のために書き下ろされたというが、そのツアー・コンセプトや内容のラフさや、今年になってからの活動は普段着のような佇まいで音楽に対峙しており、深刻にならざるを得ない瀬で、逆説的に音楽が日常、明日に溶け込んでゆくような感覚も受ける。


 過去には、ラヴィン・スプーンフルのエヴァーグリーンな佳曲へのオマージュ的な「魔法を信じ続けるかい?」をファースト・アルバムたる『金字塔』で示し、その後、100sとしての今のところの区切り的な『世界のフラワーロード』で、「魔法を信じ続けているかい?」と要目に"魔法"という言葉を彼は用いてきた。ただ、それは前述の「君にとって音楽はどういう存在でしたか?」との問いかけと近似的な魔法の効力を聴き手に投げかけるものでもあったが、今回は主体的に「魔法をかけてやる!!」に変わり、今、ウォームな空気を運ぶのは感動的にも思える。


 あくまで、現在においては弾き語りリハーサル・ヴァージョンとはいえど、骨格はしっかり見える。小気味よいメロディーに映るのは、このツアーに基づいたまちのことや"234"という軽やかな掛け声。魔法をかけにきた「私」、旅のモティーフ、ブレス的に置かれた"ラララ"の箇所まで少し肩の力が抜けながらも、脱力ではない、空気感を味わえる曲になっている。これがまた、しっかりした形で中村一義の新しい曲のなかに並ぶことを想うと、『対音楽』からの歳月の長さ、深みをふと回顧する。あなた、涙、魔法、シンガロング部分、そして旅。この「魔法をかけてやる!!」からはとても近い彼の声が聴こえる。


《誰かが泣いてたなら、魔法をかけてやる。明日も旅に出る。》

(「魔法をかけてやる!!」)


 再び、彼は今日の地続きの明日を歌うようになった。それが何より嬉しい。



(松浦達)



【編集部注】トーク&弾き語りライヴ《まちなかオンリー!》ツアー来場者への限定配信

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 頼れる父親がいるから子どもは何度でも安心して転べる。失敗しても立ち向かうことができる。両親も近所のおばさんも頑固な髭のおやじも、町ぐるみで子ども達を抱える環境があればなお素敵だ。


 同じ内容を精神分析の世界では難しい専門用語やロジックを駆使して長々と説明する。それも必要だ。しかしこの曲はわずか4分で明快に伝えきってしまう。怒髪天feat.キヨサクによるNHK総合アニメ『団地ともお』主題歌のことだ。


 「団地でDAN!RAN!」は西城秀樹「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を思わせる、運動会の行進曲のような勇ましい4つ打ちダンス・ビート。一度聴いたら頭から離れないサビのフレーズに恥ずかしげもなく弾きまくるギター・ソロ。アニメ・ソングとは本来こうあるべきで、誰でも口ずさめる親しみやすさと大衆性は怒髪天の最大の武器だろう。しかもMONGOL800のキヨサクが参加し交互にボーカルをとっている。フジロックやライジングサンといった数万人規模のフェスに出演し武道館公演を来年に控える怒髪天と、言わずと知れた国民的ロック・バンドMONGOL800のヴォーカリストの共演。それが原作漫画に合わせて作ったアニメ・ソングだというから痛快だ。


 怒髪天は稀な経歴を持つロック・バンドである。1984年札幌で結成。1991年メジャー・デビューするも1996年活動休止。1999年活動再開。2004年再メジャー・デビュー。結成4半世紀を経た今になって最も注目されている。紆余曲折あるその生き様は、しかし『団地ともお』の世界観とリンクする。増子直純の人間性、遍歴はまるで原作者小田扉の作品に出てくる主人公のようでもある。


 漫画の世界ではあるまいし、メジャー落ちしたロック・バンドが急にこの世界から消えてしまうわけではない。生きていくためには時に日雇い労働でもやってしのがなくてはならない。生活は続いていく。


 苦汁をなめた日々に培われた経験が、子ども達のためのアニメ・ソングという場で惜しげもなく発揮されている。かっこわるくてもぶざまでもちゃんととるべき責任をとる大人が今の日本にどれだけいるのか? 増子直純はそう問いかけているようだ。


 児童精神科医である佐々木正美の著作『子どもへのまなざし』を最近読んでいる。医学書ではない。初めて子育てをする人に勧めたい読みやすく面白い本だ。


 この厳しい世界で生きていくためにはエリクソンがいう「基本的信頼」が必要だという。乳幼児期に大人がどれだけかまってくれたかで世界に対する安心感が決まる。ミルクを与えられず放って置かれるのはもちろん、おもちゃをたくさん与えられて親が別事をしているのも形を変えた虐待だ。良くも悪くも大人が真剣に向かい合い相手をすることで基本的信頼が根付く。しっかり甘えることができる体験は世界への信頼につながる。すると成長して自立できるのだ。


 薬物依存症になる人々の一部にこの基本的信頼を持たない人達がいるという。ダルク女性ハウス代表でありエレファントカシマシの熱狂的ファンでもある上岡陽江は、それを「応援団を持たない人々」と表現する。子どもの頃に適切な距離で変わらず接してくれる大人達がいなかったから対人関係が下手なまま成長し、その苦しみへの自己治療として薬物に手を出すという構図。


 ロック・ミュージックも含むアート全般が時に基本的信頼を確立するためのもがきだったとしたら? 長きに渡り薬物依存に苦しんだビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンは父親との間に深刻な確執が存在したという。


 パオロ・ヒューイット著『クリエイション・レコーズ物語』はアラン・マッギーのこんな言葉で締めくくられていた。「母さん、ぼくはもう大丈夫だよ」。


 ボスニア戦災孤児救済のチャリティー・アルバム『HELP』に参加した際にオアシスのノエル・ギャラガーはこう語っていた。「大人どもはどうでもいい。けれど孤児になる子ども達のことを思うとホロリとくるよ。俺達もみんな子どもだったんだから」。


 もしもロックンロールが世界から見捨てられた孤児に向けた音楽だとしたら、「団地でDAN!RAN!」はまさしく最高の強度を持ったロックンロールであり同時にみんなのうた(アンセム)だ。


(森豊和)

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 トラックスマン 『Da Mind Of Traxman』RPブー『Legacy』など、ジューク・シーンにおける要注目アーティストのアルバムはひとまず出揃った、と思っていたのだけど、このことをまず、『The Abstract View』という必聴レベルのアルバムを届けてくれたK・ロックに謝らなければいけません。申し訳ない。


 K・ロックは、トラックスマンも所属する《TEKKDJZ》のクルーであり、数多くいる若手のなかでも最注目のアーティストとして、ジューク・ファンのあいだで抜群の人気を誇っている。なぜか日本のポップ・ソングをサンプリングした曲も作っていて、きゃりーぱみゅぱみゅの「PON PON PON」をネタにした「Wierd Connection」(※1)は、ネットを中心にかなり話題となった。


 しかし、K・ロックがネタありきのトラックを生み出しているのかといえばそうではなく、フットワーカーを踊らせるのはもちろんのこと、ホーム・リスニングに適したメロウな側面もあるトラック群は、ジューク入門にうってつけな親しみやすさがある。ジュークと聞くと、変則的なリズム・パターンを持ち、特に4つ打ちに馴れた者からするといまだに敬遠されがちな音楽だが、ソウルフルかつディープな本作は、そうした者たちも引き込めるキャッチーさが際立っている。この側面はK・ロックが持つ最大の武器であり、トラックスマンやRPブーといった、日本でも高い認知度を誇るトラックメイカーとの明確な違いである。


 また、本作を聴いていて興味深いのは、ジュークでありながらも、ヒップホップの要素が随所で顔を覗かせる点だ。例えばトラックスマンは、「毎日のように(J・)ディラのアルバムのサンプリングネタと抜き方、そしてフリップやチョップの方法をマネしまくった」(※2)と語るほどにヒップホップの影響を受け、それはトラックにも反映されているが、K・ロックの場合、その影響がより色濃く出ている。さらに「Want A Be」は、サンプリング・ヴォイスをヴォーカリストによる歌に変えても、ひとつの良質なポップ・ソングとして成立する構成になっており、今後K・ロックが歌モノを作っても不思議ではないと思わせ、いわばポップ・ソングとしての側面を覗かせる。K・ロックはクリス・マッコイという名義でヒップホップを作っているが、このことも本作におけるヒップホップ的要素や歌モノ要素と関係しているかもしれない。全曲にラッパーとヴォーカリストをフィーチャーしたK・ロックのアルバム、というのもぜひ聴いてみたい。



(近藤真弥)




※1 : 現在はK・ロックのサウンドクラウドから削除されていますが、《Radio-Alternator》のサイトにアップされているミックスで聴くことができます。


※2 : ミュージック・マガジン2012年7月号掲載 トラックスマンのインタヴューより引用。

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 サンフランシスコ出身のデヴィッド・スペックによるソロ・プロジェクト、パート・タイムは、ニュー・ウェイヴ直系の感性からか、よくアリエル・ピンクと比較される。一見妥当なようで、ある意味それは筋違いではないだろうか。


 しゃがれた脆い、しかし色気あるヴォーカルとメロディー・センスは確かに似ている。しかしシングル「Night Drive」を聴いて、私が真っ先に連想したのはワム!の「Last Christmas」だった。自分の真摯な思いを反故にして無残に捨て去った恋人へのあてつけ。夏と冬の違いはあれ同じフィーリング。


 アリエルが様々な過去への憧憬を歌いながらも、現在の自分自身のエゴを巨大化させ、全世界へ放射していくのに対して、デヴィッドはひたすら過去の恋愛に固着し、あるワン・シーンを反復し、ついには純化させていく。狂おしい情念はパッション・ピットのそれに近いかもしれない。


 今作もウォッシュト・アウト、ベスト・コーストウィークエンドらのデビュー作を送り出した《Mexican Summer》より、11年の1st『What Would You Say?』に続いてのリリース。《Burger》からのカセット『Saturday Night』、日本の《Sixteen Tambourines》から7インチ・カットされた「Night Drive」といった変則的なリリースを挟んで。


 最近こういったファン泣かせのフィジカル・リリースが実に多い。そうでないと海外ではもう買ってもらえないからか。そういえばレコード・ストア・デイの姉妹編でカセット・ストア・デイというのも行われるようだし。


 現在こちらで公式ストリーミングされているが、30代の人は幼い頃ラジオで流れていた80'sポップスの面影を見出すかもしれない。記憶の奥底に焼きついているまさにそこを刺激する。でも40代以上にはお子様向けと揶揄され、20代以下には単なるリバイバルと一蹴されるかもしれない。前作に比べギター・ポップ風味が増したとはいえ、一聴お手軽なエレ・ポップに聴こえる。はたしてどうだろうか。


 歌詞もメロディーも「僕はピエロだから一人ぼっち」というムードを一貫して表現している。風変わりな行動ゆえに疎外されていく状況。恋人は遠く離れていく。先述したワム!のジョージ・マイケルが後年レコード会社に対し訴訟を起こし、様々なトラブルを抱えていく様とオーヴァー・ラップする。


 先ごろ出版された村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』で、ワム!はヒロインの語る「ぱっとしない10代の日々」の象徴として使われている。だいたい以下のように。


「学校というシステムになじめず、私は全然目立たない存在で、ワム!のCDは全部持っていた。ボーイ・フレンドなんて影も形もない。でも心を打ち明けられる親友が2人くらいいた。だからその時代を乗り越えられたのかもしれない」


 パート・タイムはまさにピンポイントにある世代のノスタルジーを想起する音楽だ。一見、80's黄金期の華やかなりし日々を忠実に再現しているようで、「この美しい世界は今はない(もう去ってしまった)」という事実をあらかじめ内包する。デヴィッドは損なわれた何かを強迫的に再現し続けている。



(森豊和)


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 瑞々しい爽快感と溢れでる初期衝動が詰まっている。東京は高田馬場を拠点とする6人組バンドcarpool(カープール)の音楽を一言で表せば、そんなところだろうか。本作は彼ら彼女らにとって初の全国流通盤なのだが、まず、その"速さ"に驚かされる。本作に収められたすべての曲が2分台であり、軽快な曲展開もまるで一瞬の出来事のように過ぎ去っていく。鉄琴やキーボードが混じることで、ほんの少しトイ・ポップ的な可愛らしさを覗かせる瞬間もありながら、キャッチーなメロディーに寄り添うギター・サウンドが耳に残る曲の構成は、聴いていて清々しくカッコいい。


 また、ロマンが迸る歌詞にも惹きつけられる。全3曲とも、端から見れば青臭いように思える言葉選びが目立つかもしれないが、そうしたつまらない視線などにかまう必要はない。音楽が持つ魅力のひとつとして、いままで見たことがないよう景色を見せてくれる、いわばスタイルや日常を飛び越えてしまうような圧倒的想像力が挙げられる。それはジャンルを問わずに当てはまるものであり、だからこそ筆者は、音楽には常に夢があってほしいと願っているのだが、おそらくcarpoolも、音楽に夢を見ているのではないかと、本作を聴くと思ってしまう。


 そうした夢見がちな姿は、現在においてナイーヴに映ってしまうのだろうか? いやいや、夢見ることが難しくなりつつある時代に本作のような音楽を鳴らせるからこそ、carpoolのサウンドには強度が宿っている。楽しいことは決して楽ではない。それでもcarpoolは音楽を楽しむかのように、颯爽と歌を紡いでみせる。音楽のポジティヴな可能性を信じている者は気に入るはずだ。



(近藤真弥)

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 コード9のバックアップもあり、デビュー当初から大きな注目を集めてきたアイコニカ。おそらく、彼女のことをベース・ミュージック・シーンのアーティストと見ている者も多くいるだろう。まあ、それは間違いではないし、実際彼女のディスコグラフィーには、ダブステップを下地にしたトラックが多く並んでいる。しかし、本作『Aerotropolis』は、アイコニカ史上もっともベース・ミュージックの要素が減退した作品であり、より高い折衷性と音楽的彩度を獲得した飛躍作だ。


 まず、本作において際立っているのは、初期のシカゴ・ハウスを想起させる荒々しくもディープなグルーヴ。それは「Manchego」などで顕著に表れており、しかもソフト・メタルズ《100% Silk》周辺の、いわゆるインディー・ミュージック側から解釈したハウスに通じるものだ。


 また、ジェシー・ランザをフィーチャーした「Beach Mode(Keep It Simple)」は、グライムスやマリア・ミネルヴァなどのベッドルーム・ポップに近い質感を持っている。実を言うと、こうした質感はアルバム全体にわたって見られるもので、アイコニカの変化をわかりやすく示していると思う。


 そういった意味で本作は、コード9やブリアルよりも、アイタルディスクロージャーといった、ダンスフロアとライヴ・ハウスを跨ぐアーティストたちの領域に近いアルバムだ。おそらく、本作においてアイコニカが試みたのは、ダンスフロアに軸足を置きつつも、自身の音楽性をさらに拡げ、ポップ・ソングとも比肩するキャッチーさを獲得することではないだろうか? その試みは同時に、すべての音楽が特定の場所に閉じ込められることなく、あらゆる場所で鳴り響き届く可能性がある現在の面白さを浮かび上がらせている。


 そんな現在の面白さを内包する本作は図らずも、いまだセクショナリズム的に音楽と戯れる狭隘な音楽リスナーの想像力に挑むような作品となっている。



(近藤真弥)