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バッファロードーター+.jpg

 今年は何かと節目になるアーティストが多いが、シュガー吉永、大野由美子、山本ムーグの三人からなるバッファロー・ドーターも結成から20年目を迎えるという。個人的に、コーネリアスやチボ・マット、シーガル・スクリーミング・キス・ハー・キス・ハーなどを並列に聴きながら、日本内の音楽というものが、そうではない境目を溶解してゆく感覚をおぼえていた90年代後半に、彼らの音に出会ったのを明確に憶えているのもあり、意趣深い。思えば、ビースティー・ボーイズが立ち上げたインディー・レーベル《Grand Royal》とバッファロー・ドーターが契約したときの熱量と共に。《Grand Royal》がフックしたのは良質な音楽だけでなく、ストリート・カルチャーやマガジン・カルチャー、そこに集まった共同体と言おうか、自由に幅を広げていった。


 時代の空気とも合致していたのだろうが、無邪気にかつ水平に多くのものをミックスして、ハイ・センスや知性如何に限らずとも、楽しさと表現の自由を社会にぶつけてゆく時代の香りの芽吹きがそこにはあった。《Mo'Wax》を立ち上げたUKのジェームズ・ラヴェルもそうだが、90年代の半ばからDIY的に国境や言語を越えて、価値観や感性が共有されることで拡がる瀬が確実にあったと思う。今のような同軸上に多様な価値や情報量に膨大なものが逆・適応してしまう状況とはまた違い、輸出されてくる多くの雑誌、フリーペーパー、ZINE、CD、レコードなどが並ぶレコード・ショップの熱気を前にするだけでもその"未知"に胸躍った人も少なくないだろう。


 そこで、98年の彼らのまさしく、『New Rock』というタイトルの作品から聴こえてきた可塑的なサウンド。ニュー・ウェイヴ、アンビエント、ノイエ・ドイチェ・ヴェレ、当時のアセンズ、エレファント6との共振も伺えるリーチの広さは斬新だった。"何でもアリ"なようで、底流に独自の美学やあまたの音楽への敬意が感じられるところも含め、センス的なものだけでは決してない雑食的ながら、アートな佇まいには痺れた。


 一転、02年の『I』は、反復をベースにしながら、しなやかにサウンド・アトモスフィアが拡がってゆく緻密な音像と構成、エレクトロニカ的な要素もありながら、そこに生楽器の融和が美しいバレアリックな作品だった。その後の03年『Pshychic』におけるセッションを重視にしつつも、自己充足に終わらない姿勢など、都度のライヴもそうだが、つねづね、実験と自己への刷新を持って、対峙するバンドであり、こうして活動が続いてきたという轍そのものが頼もしく思える。


 90年代後半のある種の"社交場"として活発だったレーベルやカルチャーが何かと厳しい状態に、それぞれ分派してゆくなか、彼らも次第に独自の道を歩んでゆくことになったのは自明だったといえるが、この20周年記念となる『ReDiscoVer. Best, Re-recordings and Remixes of Buffalo Daughter』は題目から推察できるような、記念的なベスト、アンソロジー、回顧録といったものではない。それには、過去に何度もレーベルを移籍してきた関係で使えない音源があるなど、そういった部分を自分たちやその他のアーティストたちとともに、あくまで今の形でのバッファロー・ドーターをアップデイトしようというものだ。


 新録曲は3曲で、これがまた、面白い。「New Rock」を環ROY&鎮座DOPENESSによるKAKATOの『KARA OK』内の「インザハウス」にてビートジャックしていたものを、今回は正式なコラボレーション曲として冒頭を飾り、いきなり魅了される。続く2曲目の「Beautiful You」は20thヴァージョンとして、日暮愛葉と有島コレスケが参加している。もう1曲は、意外にもレコーディングにおいては初共演となるコーネリアスとの「Great Five Lakes」の20thヴァージョン。旧友ともいえるアーティストや新しい世代との繋ぎ目が鮮やかに巡る。


 なお、リミックス・ワークには、ビースティー・ボーイズのアドロックが担当した遊び心溢れたもの、最近、多くのアーティストのリミックス・ワークを手掛ける大阪在住のトラック・メイカーAvec Avecによる2曲が収められている。もちろん、オリジナル音源からもチョイスされているが、私的に『I』から、「Discotheque Du Paradis」「Volcanic Girl」の2曲が選ばれているのが嬉しい。ライヴ音源も含め、全14曲。時系列も横断しつつ、まったくバラバラながら、ノスタルジックな何かを感じさせず、聴いていて、奔流のようにイメージの束が前景化するのも興味深い。まるで一枚の絵を描くように、音が重ねられる過程、そう、ここには彼らの紆余曲折と果敢な挑戦心に満ちた、長い20年の、あくまで、過程が感じられる気がする。


 長い軌跡を振り返るには、届かないところもあり、ただ、このわずかな14篇のフラグメンツから原基を想起してみるための、エネルギーと全体像への誘惑がある。そして、らしい、粋な試みといえる附属している真っさらな、書き込み可能なCD-Rには個々自在に彼らのこれまでの音を詰め込んでみるなり(ときにこれからを考え、沈黙を録音させておくのもいい)、自分なりの曲リストを作ってみて、過去、現在、未来に尽きぬ想いを馳せるのも一興だと思う。


 彼らからのアイデアに満ちたこの作品は、20年を迎えた自分たちに向けたひとつのけじめのようでトライアルでもあり、多くのファンやアーティストへの感謝の花束とともに、更に進むためのささやかな便りのようなものかもしれない。だから、畏まって受け止めるのではなく、フラットに楽しみ、コンセプトたる「再発見」をたどればいい気がする。



(松浦達)

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 アジアにおけるシティー・ミュージック(大きすぎる語だという気もするが)という括りは何層ものバイアスが掛かる気もするが、日本に入ってくる情報だけでなく、現地でのライヴハウスでフラットかつ知的に音楽を楽しむユースたちや色んな年齢層の方と話していると、UKでもUS、日本の音楽にも憧れや愛好はあるけれど、自分たちの街でやれることもある、と言われることも増えた。韓国のホンデ・シーン、ジャカルタのネオアコ・シーンなど面白いものは尽きないが、近年の経済発展が著しい台北でも、独自のインディー・シーンが形成され、多くのバンドが生まれている。そもそも、現地のライヴハウスには日本や欧米の人気バンドがブッキングされるのは常であり、カルチャーとしてもかなり貪欲に雑食的に拓けてきているのは知っている人も多いかもしれない。


 日本でも人気の透明雑誌や良質インディーズ・レーベル《風和日麗(A Good Day Records)》の界隈、フィメール・ヴォーカルの腊筆(Labi Wu)による歌唱も印象的ながら、ミニマルな反復をベースにした壮大なインストゥルメンタルをみせ、多彩なバンド・サウンドが特徴的な5人組バンドの草莓救星(We Save Strawberrys)、甘美なメロディーと浮遊感が心地良いフランデ、蠱惑的なアンドレアのステージ・パフォーマンスも鮮やかなポスト・パンク/ニュー・ウェイヴの血脈を受け継いだ3人組マイ・スキン・アゲインスト・ユア・スキンなど、沢山の良質なアクトが犇めいているが、このたびはセカンド・アルバムとなる『Urban Canyon』の日本盤もリリースされ、今後より活躍が期待されるポテンシャルを持ったステイクールというバンドを紹介したいと思う。


 ステイクールの結成は2006年になる。メンバーは作曲、キーボード、ドラム、ジャンベを請け負うスタンリー(陳品先)、ヴォーカル、アコースティック・ギター、作詞担当のウィル(洪璽開)、エレクトリック・ギターのブライアン(游睿威)、ベースのミッシェル(呂明憲)、ヴィオラのトレイシー(蔡純宜)、ヴァイオリンのポンポン(彭乃芸)の男女混成6人グループ。まず、影響を受けたバンド/アーティストに、ジェイソン・ムラーズ、ダニエル・パウター、マッチボックス20、ライフ・ハウス、スウィッチフットの名前が並ぶところから想像できるとおり、とてもオーセンティックなロック、ポップスの香りが要所からしながらも、コールドプレイの持つ大きさと叙情もある。それでも、ステイクールというバンド名とは裏腹に結成当初にて兵役を終え、25〜26歳の青春真っ只中という年齢ではないゆえに、疾走感や衝動よりも、オールディーズからバカラック辺りの褪せない時代への憧憬と、エヴァー・グリーンな音楽への意思がハーモニー・ワークの端々から伺えるところが興味深い。全体的に透き通った空気感、チェンバー・ポップ的な曲に視える残映が美しくもある。


 そして、ウィルのほぼ英語詩で紡がれた内容も日常の延長線に繋がり、センチメントなささやかな匙加減が良い。例えば、恋人との距離感、星や川、海といった自然、パソコン越しの景色、旅というモティーフに引っ掛かるいくつもの季節の断片、それらを丁寧に組み上げてゆくなかで、世界の、アジアの、台北という一都市の、とある若者たちの生き方の交差点を描く。


 Urban Canyon="都市峡谷"というアンビヴァレントな題目に対して、ウィルはメンバーそれぞれが台北という都会で育った人だが、世界中のどこへ行っても、大都市は車も人も多くて、忙しい。でも、ときに立ち止まって考えることがある、という意味で、「都市」と「峡谷」の二義を置いたのだという。


 だからなのだろうか、楽曲的には都市のなかで気忙しく生きる人も出てくるが、少しの"いとま"にて気まぐれな夢や細やかな気遣いを見たりしている風景に馴染む、そんな箇所が散見される。それは世界のどんな都市で生きる人たちとそうは変わらない、何気なさで。朝起きて、服を何か決めるような躍動と、それで街へ出るときの、少しの不安、倦怠と愉しさ、誰もが通底する心情に、打楽器の軽快なリズム、弦楽器の残響、カラフルなメロディー、サポート・メンバーを含めた暖かなバンド・サウンドが寄り添う。そして、ほんのわずかな先へと気持ちを鼓舞させてくれる。今作の充実した内容、そして、ライヴも含めて、これからは日本のみならず、ステイクールの歩みはより強かに刻まれてゆくだろう。



(松浦達)

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 骨太でありながら包容力に満ちた演奏で常にファンを魅了している、ギター2人、ベース、ドラムの4人組インスト・ロックバンド、レガ。彼らが眼鏡市場のCM「鯖江モード篇」用に制作したのがこちら(CM用に作った曲なので、広告という意味そのままの「ad」というタイトルにしたらしい)。


 眼鏡産業が盛んな福井県鯖江市の職人たちが、手仕事で物を作っていく様や鉄を打つ硬質な音、頑固な気質や情熱をイメージして作られた曲だけあって、一層成熟して豊かになった音楽性を披露している。本作を聴けば、彼らが己を誇示する力をめきめきとつけてきたことがよくわかるのだ。


 ロックがもともと持っていたオルタナ成分をグッと押し進めたハイブリッドなサウンド・アプローチ。ギター・プレイを存分にフィーチャーしつつも、強烈に印象に残るドラミングが凄い。そして、ミドル・テンポな楽曲ながら、持ち味の疾走感を失うことはなく、さらに、風格さえ漂うメロディーの成熟ぶりに驚かされる。人の弱さではなく強さに焦点を当てた、ハード・ボイルド小説のようなムード、時空間の感覚を麻痺させるさまざまな肌触りのサウンド・・・。独自の音楽話法を確立させた傑作。



(粂田直子)




【編集部注】「ad」はライヴ会場限定シングルです。

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「高尚なお芸術など犬にでも食わせてしまえ!」と彼らが言ったかは分からない。何の話かってチャーリー・ボイヤー・アンド・ザ・ヴォイヤーズのデビュー・アルバムのことだ。


 本作はスコットランドの伝説的バンド、オレンジ・ジュースのエドウィン・コリンズがプロデュースしている。大御所がプロデュースしていると聞くとまず「金とコネだろ」と思ってしまう。そういうケースが実に多いのだ。音楽をビジネスとして捉えた場合ある意味当然かもしれない。政治でもあるまいし公正さは要求されない。ましてや理想を追い求めていたら食っていけなくなってしまう。


 だがプロデューサーがエドウィンとなると話は違う。現在に至るまでインディー・ロックに絶大な影響を与え続けているバンド、オレンジ・ジュースの解散後、しばらく彼は不遇期を経験している。それを経てソロで大ヒットした時に山ほど来たプロデュース依頼を、しかし断り続けたという。金はあったほうがいいけど、だからって同じようなヒット狙いなんかできないから。


 前置きが長くなったが、このチャーリー・ボイヤー・アンド・ザ・ヴォイヤーズはUKの名門《Heavenly》からデビュー。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやテレヴィジョンの系譜に連なるアート・パンクとしてUKメディアから絶賛されている。ガーディアンでは「サヴェージズが好きならお勧め」という煽り文句でパーマ・ヴァイオレッツやテンプルズらと共に取り上げられていた。


 NMEで2013年7月現在ストリーミングされているが、聴いた印象はむしろT・レックスやスウェードのような色めかしさ、躍動感を感じる。良い意味でのアホっぽさというか生命力と初期衝動。アート・パンクという言葉から来るインテリっぽさをあえて避けているような。色々知ってはいるけど結局気持ちいいロックンロールがやりたいんだ! というような。エドウィン・コリンズが今春発表した、老成しているのに若々しい活気に満ちた新作『Understated』に通じる雰囲気で、それは決して偶然ではないだろう。いやむしろ影響下にある!


 ダニー・ステッド(ベース)、サム・デイヴィス(ギター)、サミル・エスカンダ(ドラム)、ロス・クリスチャン(キーボード)を率いるフロントマン、チャーリー・ボイヤー(ヴォーカル/ギター)は、昨年まではエレクトリシティー・イン・アワ・ホームズのメンバーとして活動。ポスト・パンクを通過したファンク・サウンドは日本でもFile UnderやBig Loveのような輸入レコード店で猛プッシュされ来日公演も果たしている。09年にはニールズ・チルドレンのベーシストとしても活動。それらを経て彼が新たに結成したのがチャーリー・ボイヤー・アンド・ザ・ヴォイヤーズである。


 よく指摘されるリチャード・ヘルやジョナサン・リッチマンといった先達からの影響や、盟友であるトイやザ・ホラーズとの共鳴を探るのもいい。しかし彼らの良さはむしろ経験を経た末にたどりついた無邪気な愚直さにあるのではないか。先述の2バンドから受け継がれたアート・パンク要素をあえて崩した快楽的なギター・リフや懐かしくもダサいオルガン・フレーズが我々を70年代のイギリスへトリップさせる。そう、彼らが犬に食わせたのは過去の自分達自身かもしれない。



(森豊和)

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 2013年にもなって、インディー・ミュージック側からイタロ・ディスコの更新通知が届けられるなど、誰が予想できただろう? ソフト・メタルズによる『Lenses』は、リヴァーブとディレイを少々施されたミニマルなサウンドスケープを描きながら、過去を現在にサルベージしてみせる。


 1曲目の「Lenses」は、シカゴ・ハウスのリズムを刻みながら、TB-303風の音色を持ち込むことでアシッド・ハウスも取り入れた、まるでキマイラのようなポップ・ソングだ。2010年リリースのEP「The Cold World Melts」でもアシッド・ハウスの要素は散見されたが、よりダークな音像に接近することで、アシッド・ハウスが持つ酩酊感を見事に浮かび上がらせている。ここ最近、インディー・ミュージックにもジュークが流入することで、"シカゴ"というキーワードのもとにさまざまな文脈が集っているが、その"シカゴ"と共振する点も「Lenses」の面白いところだ。そういった意味で本作は、《Software》などからリリースされてもおかしくない作品だと言える。


 しかし、何よりも驚かされるのは、冒頭で述べたイタロ・ディスコの要素である。特に、近未来的な雰囲気を漂わせるシンセとシークエンスのなかでいなたい女性ヴォーカルが漂う「Tell Me」は、チルウェイヴを通過したイタロ・ディスコそのものではないか! 「Hourglass」も、まるでジョルジオ・モロダーがプロデュースしたかのようなサウンド・プロダクションが際立つ曲であり、先頃『After Dark 2』という興味深いコンピレーション・アルバムをリリースしたレーベル、《Italians Do It Better》に通じる音楽性だ。おまけに「On A Cloud」は、ヒューマン・リーグをアップデートしたミニマル・エレ・ポップに仕上がっており、「In The Air」は『Speak & Spell』期のデペッシュ・モードが2013年にタイム・スリップして作り上げたような、いわゆるハイ・エナジー以前のシンセ・サウンドを妖しく鳴らしている。ダニエル・ミラーなどが好きな往年のニュー・ウェイヴ・ファンも泣いて踊りだすのではないだろうか? アルバム全体を覆うアーティフィシャルな空気は、モデル500やサイボトロンが描いたSF的世界観と類似するものであり、いわば初期のデトロイト・テクノを纏っている。ドレクシアのミステリアスな妖気も少し滲ませながら。


 そんな本作は、2013年から直接80年代にアクセスしたかと思えば、次は00年代に行ってみたり、はたまた90年代に遡ったりと、あたかも奔放な時間旅行者を思わせる作品だ。これまでの作品群を軽々と越える折衷性は間違いなく"今"だが、その折衷性によって編まれたサウンドは、過去の匂いを漂わせている。"死んだ" "終わった"と葬られたあらゆるトラッシュをカットアップ/コラージュし、ポップ・ソングとして蘇らせるそのさまは、さながら古の鍊金術師を思わせる。音楽についていろいろ言われる現在だが、こうした作品に出会える"今"は本当に楽しく、何より面白い。そして、自分の嗜好に忠実であること。素直に"好きなもの"を発露するだけで、十分な強度を持つ表現は可能だと本作は証明している。


 それにしても、本作がダンス・フロアに向けられた"ダンス・ミュージック"としてだけではなく、ライヴ・ハウスでも映える姿が容易に想像できる"インディー"としても捉えられている事実は、見逃すことができない重要なポイントだと思う。LCDサウンドシステムザ・ラプチャーがディスコ・パンクという名のビッグバンを引き起こしてから10年近く経つが、このビックバンは2000年代の10年にわたっておこなわれたジャンルの溶解の大きなキッカケとなり、その途中で溶解が止まりかけながらも、フレンドリー・ファイアーズなど溶解をふたたび促すバンドが出てきたおかげで、完全にストップすることはなかった。それゆえ、2010年以降は《Not Not Fun》が《100% Silk》というダンス・ミュージックに特化したサブ・レーベルを設立し、アイタルディスクロージャーといった、ダンス・フロアとライヴ・ハウスの両方を射程に置くアーティストも注目を集めている。ネットとリアルを接続したストリーミング・チャンネル《Boiler Room》も、2010年以降の音楽を語るうえで重要な存在だ。


 ヴァンパイア・ウィークエンドのクリスは、「いわゆる『インディー』って呼ばれるサウンドが1つじゃなくなってきてる」(※1)と述べているが、こうした変化は"インディー"に限らず、"ハウス"や"ロック"などにも起きているのだろう。もちろん本作も、クリスの言う「変化」によって生まれた成果のひとつである。



(近藤真弥)




※1 : 音楽雑誌『yajirushi』の18頁より引用。

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ムーン・レイ.jpg

 2010年前後に、エレクトロ・スウィングと呼ばれる潮流が出て、世の中に受け入れはじめたとき、個人的にあまり歓待できなかった。それは、一部ではあるが、クラブ・ジャズとカフェ・カルチャーをハイブロウに折衷させた00年代の空気感とは違い、少し粗雑でインスタントな明るさを感じさせたのもある。


 そもそも、スウィング自体には多義あるが、ひとつには、ジャズの歴史下では、1929年の世界大恐慌を経て、じわじわと景況が回復しだした頃のNYを中心にした白人のヴォーカルとビッグ・バンドが鳴らしはじめた演奏スタイル、つまり、モダニズムに繋がってくる前夜のものをいい、そういう意味であれば、モダニズム"以降"の、しかも、やや大味な打ち込みやエレクトロと時代を越え、強引に「接着」させようとした際の異化は、革新というよりも刹那的な要素を孕んでいたとも思えた。


 ただ、奇しくも、2010年代に入る空気感のなかには、そんな刹那性を受け容れる磁場が確かにあったとは思う。00年代を折り返し、一定層が細部への降下、リヴァイヴァルへのメタ認知から転じて、ベタな身体知への希求や閉じた共犯言語的な何かへと向く回流があらわれだしていたのもあり、その回流の一端として、エレクトロ・スウィングは正面を切って、時代錯誤気味に、大きな音でカフェやクラブで流れていた。そこには、ノスタルジアや長い音楽的な歴史背景への配慮よりも、"ムードとしてのオプティミズム"みたいな集合意識の支持もあったような気がする。そして、2010年代が進み、世界のみならず、日本もカオティックな情勢に傾ぐなか、このチュー・チュー・パニーニのように、エレクトロ・スウィング"以降"において、より小文字な音楽に等価交換したといえる、リンディー・ホップへと対峙しているのは興味深い。


 リンディー・ホップとは、1920年代にニューヨークのハーレムの黒人たちのなかで生まれ、1930年代に流行ったダンス・ステップのこと。語義由来は、創設者のショーティー・ジョージとビッグベンが、リンドバーグが大西洋横断に成功したニュースの見出し(リンドバーグがホップした)からなり、タップ、ブレークアウェイ、チャールストンなどをベースに人気を博したもので、リンドバーグそのものの人気や存在の翳りもあったのか、リンディー・ホップの名称は80年代を経た、リヴァイヴァルのうえで今に至る間、1930年代ではベニー・グッドマンによるジッターバグに取って代わられ、更にはジャイヴなどへとも継承されてゆくことになる。


 そんな、スウィングほどの大文字ではない、リンディー・ホップを今に再定義しようとするのは、クセはないが、滑らかな歌声を魅せるドイツ出身のフィメール・ヴォーカリスト、ネリー・コースターと、ギター、トランペット、トロンボーン、チューバを演奏するポーランド出身のラディック・フェイドクを中心とするドイツ、オランダを主活動とするユニット。ちなみに、この『Moon Ray』の録音もそうだが、ライヴでは基本、ピアノのローマン・バビック、ベースのニールス・エムフォースト、ドラムのパトリック・フリングストのクインテット編成で行なわれる。当初は、まさにヨーロッパにおけるリンディー・ホップのダンス・パーティーの小さなシーンから始まり、こうして、地域性を越えて、じわじわと拡がりが出てきているということは、彼らの音が一概に狭いジャンルや国柄を越えてくるものがあるということだろう。


 聴く人が聴けば、淡くジャジーなグルーヴが心地良い、または、昨今のオーガニック・スウィングの流れのひとつという浅薄な印象論に帰すかもしれない。ましてや、エラ・フィッツジェラルドの歌唱で有名な「A Tisket A Tasket」、ナット・キング・コールの「Straighten Up And Fly Right」などスタンダードな曲と呼ばれるものが俎上に置かれているのもあり、古いレコードに改めて針を落とすような気分にもなり、匿名的な音として十把一絡げにジャズ・コーナーやカフェ・ミュージックの棚に並べられる杞憂もないでもない。


 ただ、個人的には、わざわざジャケットに"lindy hop approved"を付し、アレンジメントの細部をよく視たときの変性が気になる。特に、後半9曲目の1942年のアンディ・ラザフとピアニスト、ラッキー・ロバーツによる「Massachusetts」から最後の、ジョージ・シアリングによって作られたスタンダード・ナンバーである1952年の「Lullaby Of Birdland」に至る流れは、とても現代的な響きをもって心の琴線に届いた。


《Lullaby of birdland whisper low / Kiss me sweet, and we'll go(バードランドの子守歌がかぼそくささやいたら / 私にくちづけを そして 私たちは行きましょう(筆者拙訳)》

(「Lullaby Of Birdland」)


 あらゆるアレンジやカヴァーがなされ、スイートな場所や、部屋、ベッドルーム、雑踏で数え切れないほど、流れただろうラブソングがこの『Moon Ray』を通して最後に聴こえてくると、じんわりと今のこの、日々刻々の行間を縫い、優しく響く。元来のリンディー・ホップの持っていた刹那的なダンス・ステップを踏んでいる間に、ある瞬間、日々は、夜はあっという間に明けてしまう。しかも、何かをしているようで、何もしていないように。

 

 これは、現代における、ほんのささやかな社交のための音楽なのかもしれない。社交といっても、ゲオルク・ジンメルのような精緻な定義ではなく、正装したり、構えたり、コミュニティにこもることなく、もっと軽やかに、ほんのわずかな時間と小さな音にも五感を預ける余裕があれば、誰かと繋がれる、そんな。



(松浦達)

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The Watermark High「Murmurs EP」.jpg

 まず、迫力のあるジャケットに目を惹かれる。カットアップ/コラージュで作られたそのジャケットは、サンプリングを主体に作られた本作「Murmurs EP」を見事にヴィジュアルとして表現しきっている。


 本作を作り上げたのは、南アフリカはヨハネスブルグを拠点に活動するザ・ウォーターマーク・ハイ。彼の音楽を一言で表せば、おそらくビート・ミュージックということになるのだろうが、おもちゃ箱のようにキラキラとしたそのサウンドスケープは、まるで歌っているかのようなポップ・ソングとしてのキャッチーさを獲得し、単一タグでは括れない音楽的彩度がある。


 全5曲のすべてが弾けるような躍動感をこれでもかとアピールし、トロピカルなサウンドと奔放なサンプリング・センス、それからダイナミックなビートなど、本作を組成するあらゆる要素が瑞々しさを放っている。荒々しくも刺激的な響きをもつ音色、そして自身の感性をそのまま音に変換したような感覚的かつのびのびとした作風は、アンリ・マティスやモーリス・ド・ヴラマンクといった、いわゆるフォーヴィスム周辺の絵画作品を彷彿させる。いわば本作は、"音を鳴らしている"というよりは、"音を描いている"と言ったほうが適切なサウンドを創造している。


 それが顕著に表れているのが、1曲目の「Life's That」である。地を揺るがすほどの強烈なビートが印象的に刻まれながらも、優雅で上品なサウンドが次々と飛び出してくる。ブームや固定化したスタイルとは無縁の場所からこうした作品が生まれてくること、また、そうした作品に出会えたことを嬉しく思えるような本作は、あらゆる"音楽好き"の心に届くはずだ。



(近藤真弥)



【編集部注】本作はザ・ウォーターマーク・ハイのバンドキャンプでダウンロードできます。

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ミツメ「うつろ」.jpg

 いまや、日本のインディー・ミュージック界においてもっとも注目されるバンドのひとつとなったミツメ。しかし、彼らはその飄々とした態度を変えることはない。セカンド・アルバム『eye』をリリースしてからおこなわれたライヴをいくつか観たが、そこにはいつものミツメが佇んでいた。変に観客を煽るわけでもなく、淡々と曲を演奏していくその姿は、まるで空気のようである。しかし、それゆえ筆者は、ミツメの音楽に自然と手を伸ばしてしまうのかもしれない。空気だからこそ、聴き手の心にスッと寄り添い、ときには温もり、ときには励ましをあたえてくれる。


 それは最新EP「うつろ」でも変わらない。ただ、「うつろ」である。その言葉は、誰もが抱えているどこかネガティヴな側面をイメージさせる。しかし全4曲の本作は、暗い雰囲気を漂わせる作品などではない。むしろ、聴いていて心地よさを感じる音像は、陽性なフィーリングを纏っている。


 過剰な装飾とは無縁のギター・サウンドが全編にわたって印象的に鳴り響くさまは、ほんの少しサイケデリックではあるものの、オレンジ・ジュース、アズテック・カメラあたりを想起させるイノセンスと爽やかさが際立つ。そこに、ビーチ・ボーイズに通じるサーフ・ポップの要素を振りかけることで、燦々と輝く太陽を振り向かせる人懐っこさも生み出している。どこか内観的だった『eye』と比べると、本作はよりオープン・マインドな姿勢を窺うことができるものだ。


 とはいえ、そんな本作を聴いて思い浮かべるのは、やはり喜楽に一抹の寂寞が滲むような風景である。例えば、大勢の人が踊り狂うパーティーのなか、その輪から離れてひとりスマートフォンをいじっている女性だったり、あるいは、学校での休み時間、外で元気に遊ぶ子供たちに後ろ髪を引かれつつ図書室で読書に勤しむ少年とか。もっと言えば本作は、その女性や少年と類似する部分を持つ人に向けられた作品のように聞こえる。いわば、狂騒に馴染めない者たちのために作り上げられたユートピア。それが「うつろ」なのではないか?


 逃避的な言葉が並ぶ歌詞もそうした推察を助長させ、同時にそのユートピアがどこへ向かっているのか、とても楽しみに思わせてくれる。筆者の目からは、かつてフィッシュマンズが歩んだ日常に潜む非日常への道をなぞっているように見えるのだが・・・。とにかく次を待ちたいと思う。



(近藤真弥)

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オブリヴィアンズ―.jpg

 着実にキャリアを重ねてきているディアハンターの素晴らしい新作もそうだったが、ガレージ・ロック的にラフに、しかし、サウンドの骨格だけ軋ませて投げ出すようなアーティストの姿勢が地表化していることが散見されてきた。それは、ソフィティケイティッドされ、やや情報過多になってしまった音楽や現実逃避的なものを求める流れへの反動か、それとも、シンプルなコードで今、言えるフレーズを野放図に伝える原点回帰の道か、00年代のリヴァイヴァルのような何かではなく、今のガレージ・ロックとはもっとアクチュアルに、混沌たる時代の空気感とある一定の磁場とシンクするような気がする。


 例えば、アイルランドの新鋭、ザ・ストライプスもリズム・アンド・ブルーズ、60年代的なクラシカルなムードをベースに若さゆえの衝動といった安直な言葉ではなく、若さが内包する背伸びした老成のような知性、視点から幾つものアーティストに敬意を払い、リファレンスしている。チャック・ベリーは元より、ドクター・フィールグッド、エディー・アンド・ザ・ホット・ロッズ、ストーンズ、ヤードバーズなどの面々。そのなかに、おそらく混ざってきても全くおかしくない、メンフィスのオブリヴィアンズの1997年以来、実に16年振りとなる新作『Desperation』がクールで、とてもいい。ほぼ、1分から2分台の曲が並び、原初期のロックン・ロールの躍動をベースに、サイケデリックなオルガンの入った曲にはドアーズの影もちらつく。勿論、デルタ・ブルーズから、70年代後半辺りのパンク、腰にくるようなグルーヴを持った曲まで、さすがホワイト・ストライプスや多くのアーティストに影響を与えてきただけの引き出しと多彩さはあるが、基本、ロックンロールの愉しさを謳歌しようとしている3人の姿が浮かんでくるのが微笑ましい。


 そもそも、オブリヴィアンズとは、90年代に活動していたグレッグ、エリック、ジャックからなるスリーピース。90年代後半からの活動休止後もソロ・ワークを進めていたのもあり、こうして3人で集まると、やはり戻ってきたという感覚はあるものの、それぞれがオブリヴィアンズという傘の下で、再び音を合わせてみよう、そんなところが強くうかがえる。クイントロンやミス・プッシーキャットの客演も花を添え、聴いていて、ただ、昂揚してしまう。


 ポール・バターフィールド・ブルース・バンド「Lovin' Cup」のカヴァーも絶妙で、30分ほどの間、ロックン・ロールの熱に飛ばされる。割れた音の端々から聴こえる咆哮、メッセージ性、少しのミスなど無関係な勢い、心地良いコーラス・ワーク。これまで、彼らの名前を知らなかったとしても、このジャケットや音は年齢や人を選ばないと思う。


 何か時代を背負っているとか新しい実験に挑むとか、そういったものや小難しさとは違う場所で、ひずんだ衝迫にただ、魅せられてみるのもいいのではないだろうか。



(松浦達)

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 《Kompakt》の名を聞いてまず思い浮かべるのは、ザ・フィールドのような、柔和さと温もりを宿したトランシーなエレクトロニック・サウンドだと思う。特にギー・ボラット『Chromophobia』や、ザ・フィールド『From Here We Go Sublime』が立て続けにリリースされた2007年頃、いわゆる"シューゲイズ・ハウス"と呼ばれていた音が注目を集めていた時期に《Kompakt》を知った者なら、尚更だろう。いま挙げたふたつのアルバムは、往年のテクノ・ファンだけでなく、シューゲイザーの文脈を経由することで、多くのロック・ファンを取り込むことにも成功している。


 だが、ここ最近の《Kompakt》は、そのロック・ファンをレーベルのルーツに導くようなリリースが続いている。例えば、マイケル・メイヤー「Mantasy Remixe 2」といった作品は、ザ・フィールドやギー・ボラットをキッカケに《Kompakt》の深い森へ足を踏み入れた者を意識しつつも、やりたいことをやるという、レーベルの設立当初から現在まで変わらず根底にあるシンプルなアイデンティティーを発露している。それは先述のイメージではなく、長年レーベルを支えてきたファンに捧げられた愛情のようにも見える。とはいえ、もともと流行とは距離を置いたリリースによって支持を集めてきたレーベルなだけに、こうした孤高の道を行く方向性は、大仰に驚くことではない。


 ケルシュのデビュー・アルバム『1977』を聴いても、それは変わらない。しかし、それでも本作をプレーヤーに乗せ、繰り返し再生してしまうのは、聴いていると感慨を抱くからだ。ケルシュことルーン・ライリー・ケルシュは、デッドマウスとイモージェン・ヒープによる「Telemiscommunications」のリミックスを手掛けるなど、メジャーなフィールドで活躍している才人。それゆえ、冒頭の「Goldfisch」「Opa」にはEDMの要素が少なからず入り込んでいるものの、アルバム全体を支配する抜けの良い恍惚感と多幸感は、《Kompakt》が売りとしているサウンドそのものである。しかもそれは、"シューゲイズ・ハウス"以降のものではなく、ヴォイト・アンド・ヴォイトやマイケル・メイヤーといった、黎明期から《Kompakt》の屋台骨を支えてきたアーティストに通じる質感なのだ。この質感から窺えるのは、大きなトレンドの波が押し寄せても揺るがない力強さと自信。もちろん幅広い層に訴えかける音楽性も本作の売りではあるが、それ以上に、レーベルを運営するうえで積み上げてきた努力と膨大な試行錯誤に思いを馳せてしまう。そんな本作は、《Kompakt》ファンにとって最高のプレゼントになるはずだ。



(近藤真弥)