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The Japanese Popstars『Disconnect : Reconnect』.jpg

 アンダーワールドやケミカル・ブラザーズ、それからオービタルなど、スタジアムを揺らすことができるダンス・アクトの系譜を受け継ぐバンド。一言で言えば、ザ・ジャパニーズ・ポップスターズとはそういう存在だ。前作『Controlling Your Allegiance』は、ザ・キュアーのロバート・スミス、エディターズのトム・スミスといったヴォーカリストを迎えた多彩なゲスト陣が目を引くアルバムだったが、本作は「Matter Of Time」に参加したグリーン・ヴェルヴェット以外は目立ったゲストもなく、太いボトムと強烈な出音を聴き手にアピールする、ストイックな内容となっている。


 プログレッシヴ・ハウス界で名を馳せるジョン・ディグウィードのレーベル《Bedrock》からのリリースということもあり、「Out Of No Where」などはプログレッシヴ・ハウスの要素を取り入れているが、収録曲のほとんどはスケールの大きさが際立つダンス・ミュージックで占められ、音楽フェスといった野外でこそ本領を発揮しそう。お世辞にも最先端かつ先鋭的とは言えないサウンドながら、クラウドを盛り上げるツボを心得たトラック・メイキングの巧妙さは、ローラン・ガルニエやフランソワ・ケヴォーキアンに気に入られるだけあって、さすがのレベルにある。


 そんな本作を聴いて、アンダーワールド「Born Slippy」やファットボーイ・スリム「The Rockafeller Skank」が席巻した90年代をリアルタイムで過ごした者は、ある種の古臭さ、もっと言えばダサさを感じてしまうかもしれない。だが、ザ・ジャパニーズ・ポップスターズの3人は、そんなことは関係ないとばかりに敬愛するアンダーワールドやケミカル・ブラザーズへ通じるサウンドを鳴らしてみせる。もはや、ダサいかどうかという時代ではないのだ。ザ・ジャパニーズ・ポップスターズは自身の嗜好に従った結果、こんなにも熱狂的なアルバムを完成させることができた。そのあたりのことを、本作に対して距離を置く懐古主義者は考えたほうがいい。



(近藤真弥)

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一十三十一『Surfbank Social Bank』.jpg

 去年リリースされ、シティー・ポップの傑作として高い評価を受けた『CITY DIVE』もそうだったが、一十三十一の最新作『Surfbank Social Club』もまた、スタイリッシュなアーバン・サウンドのなかで、映画的なロマンティック・ストーリーが紡がれている。とはいえ、都会の夜をイメージさせる『CITY DIVE』とは違い、本作では"海"の景色が目の前に広がっている。季節でいえば夏が似合う爽やかな空気を運んでくれるアルバムだ。


 そんな本作を、多くの人はシティー・ポップとして聴くのかもしれない。しかし、最近注目を集めている、シティー・ポップと呼ばれる多くのインディー・バンドたちの音楽と本作のあいだには、明確な差異がある。例えばシャムキャッツなどは、死ぬまで終わることがない日常に楽しみや面白さを見いだし、そこで生きようとするタフネスを希望としている節がある。だが本作は、80年代半ばから90年代前半にかけて隆盛を誇った、かつてのトレンディー・ドラマみたいな世界観を鮮やかに描いた非日常的な作品である。その世界観は『CITY DIVE』、続いてリリースされたカヴァー集『YOUR TIME ROUTE 1』を経由することで、より彩度を高めている。おそらく、この世界観にコミットできるかどうかで、本作に対する姿勢が変わってくるはずだ。


 もしかすると、本作の非日常性に、箱庭的な息苦しさを感じる者もいるかもしれない。いまや、夢を見ることすら難しいハードな時代となってしまった。そのなかで、ロック的な物語は賞味期限切れとなり、自分の日常と接続できる親近感を持つ音楽が求められるようになった。それでも物語をあきらめきれない者は、ももいろクローバーZのようなアイドルに熱をあげるのかもしれない。それこそ、「オアシスみたいなロック・ストーリーに熱狂した人たち」である。この熱狂において重要なのは、送り手と受け手のあいだで交わされた共犯関係であり、そこに物語を見いだすことで、連帯感を密なものにしていく。たとえそれが、いずれ終わりがくる幸福だとわかっていても・・・。これはこれでいいと思うが、筆者はどうしても、先が見えている船に乗りこむ気にはなれない。


 だが本作は、そんな筆者の頑さをゆっくり溶かし、その"夢"に身を投じたいとすら思わせてくれる。一十三十一が《もう一度だけその気にさせて》(「LAST FRIDAY NIGHT SUMMER RAIN」)と歌った瞬間、本当にその気になってしまう。もちろん、「ENDLESS SUMMER HOLIDAY」なんてありえないのだが、アルバムを締めくくるこの曲が終わると、ふたたび1曲目の「surfbank social club 1」を聴いてしまう自分がいる。文字通り"ENDLESS"。不思議と飽きないし、何回も聴いてしまう。しかも、非日常から日常に戻る反動によって生じる虚無感がまったくない。なぜだろう?


 これはおそらく、日常と非日常のはざまを行き来する、巧みな言葉選びが光る歌詞ゆえだと思う。ラヴ・ストーリーの体裁を持った歌詞が多く、思わず頬を赤らめてしまう甘い言葉が次々と飛び出してくるが、それが一十三十一によって歌われると、まるで魔法のようにキラキラとしたまばゆい言葉になり、日常と非日常の境界線を曖昧にしていく。


 クニモンド瀧口、Kashif、Dorian、さらにはgrooveman SpotにLUVRAW & BTB、Avec Avecが参加したサウンドも、押し引きの上手さが際立つ秀逸なものだ。ディスコ、ファンク、R&Bなどがスマートに交わる豊穣さも素晴らしい。一十三十一というヴォーカリストを理解したプロダクションも、シンプルかつ的確。


 もしかすると、本作を繰り返し聴いてしまうのは、『Surfbank Social Club』というコンセプトのなかに、玄人な音楽ファンも満足させる高い音楽性と親しみやすいメロディーが込められているからかもしれない。勢い重視のエクセス・ミュージックも面白いが、本作のように、あくまで音楽性というコアを失わずにエンターテイメントする矜持は、もっと多くの人に触れてほしい。



(近藤真弥)

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ダンスドラッグロックンロール2.jpg

 昨年出版された『ダンス・ドラッグ・ロックンロール 誰も知らなかった音楽史』の第2弾が早くも登場! この『ダンス・ドラッグ・ロックンロール』シリーズは、いわばクボケンさんのライヴ盤。渋谷のLo-Piというおしゃれなバーで開催されている"クボケン's Rock Bar"というトーク・ショーでの語りをメインに、今回は阿佐ヶ谷ロフトAや東大構内の学生食堂での熱弁(←「本書あとがき」より)も含めて1冊にまとめたもの。こんなに早く2冊目が出るとは思っていなかったので、びっくりしたしとても嬉しかった。


 1作目の『誰も知らなかった音楽史』は、クボケンさんが撮影したリアム、ストーン・ローゼズ、プライマル・スクリームのボビー、そしてマイブラのモノトーンのポートレイトに、オレンジ色の"ドラッグ"というキーワードが躍る表紙がやたら刺激的。内容はもちろん、ロックとダンス・ミュージック、そしてヒップホップがどれだけドラッグと深い関係を持っているかについて描かれている。今まで(特に日本では)あまり語られてこなかったけれども、いつの時代もユース・カルチャーは、ドラッグと切り離すことはできなかったという事実。音楽シーン(カルチャー全体と言い換えてもいい)が移り変わる瞬間にドラッグが果たしてきた役割は、日本に暮らす僕たちが想像するよりも遥かに大きい。決してシリアスになりすぎず、かと言って誰かの受け売りでもない。クボケンさんが80年代に渡英してから今日まで、実際に体験したり感じてきたことを「クボケンさん自身の視点と言葉」で綴っていること、それが何よりもリアルだ。70年代後半のパンク/ポスト・パンクからセカンド・サマー・オブ・ラヴ、そして現在までのポピュラー音楽史としても楽しめる。なかでも、特に印象的だったのは・・・。おっと、僕が喋りすぎちゃいけないね。まだ読んでいない人には、ぜひ手に取ってもらいたい1冊だから。


 そして、第2弾となるこの『"写真で見る"もうひとつの音楽史』は、またもや表紙がカッコいい。グリーンのフォントと帯が目印。ジェネシス・P・オリッジ(スロッビング・グリッスル/サイキックTVのリーダー。「性差を超える人々」と題された章で大きくフィーチャーされている)からスティーヴ・アルビニ、そしてクリストファー・オウエンスまでがコラージュされている。このデザインからもうかがえるように、今回はクボケンさんが撮り続けてきたバンド/ミュージシャンの写真が多め(特にエイリアン・セックス・フィーンドの面構えは必見!)で、ドラッグ関連のあれこれはもちろん、ロックの歴史を彩ってきた様々なムーヴメントとそれを支えてきた人々、そして社会的にはマイノリティーとされてきた存在にまでしっかりと目を向ける。本書のまえがきから、クボケンさん自身の言葉を引用したい。


《第1弾を僕がいちばん愛した80年代~90年代から今のロックへの流れを説明した本とするなら、この本は、そうした音楽が生まれた背景、ロックの原風景、50年代、ビートルズ、ウッドストック、パンク、そしてまたもう一度現在のロックまで取り囲んだ本になったと自負しています。》


 僕が行ったあるトーク・ショーでクボケンさんは、本書にも収められているウッドストックにまつわるエピソードを紹介してくれた。ドキュメンタリー映画『ウッドストック 愛と平和と音楽の3日間』をみんなで観ながら。キャンド・ヒートの演奏中、メンバーにタバコをたかるファンの姿。一時停止と巻き戻しをくり返しながら、「こいつは、間違いなくクスリでトンでるで!」だとか「ステージに上がってきてもOKなんて、今なら絶対にあり得へん!」だとか、おもしろ可笑しく突っ込む。会場は何度も爆笑に包まれる。また、別の回では、バズコックスやトム・ロビンソン・バンドを紹介しながら、パンク/ポスト・パンク・シーンでのゲイの存在について熱く語ってくれた。「反逆的/暴力的」とステレオ・タイプに受け止められがちなパンクのなかで、セクシャリティーを超えたラヴ・ソングを歌う。その行為こそが、パンクのもうひとつの側面であること。


 音楽を体験する、という意味でクボケンさんのトーク・ショーはライヴだ。音楽雑誌をめくっても、インターネットで検索しても見つからないエピソードの数々。音楽を通して、人を深く知ってしまう。音楽を"愛して"しまった人なら、きっと経験したことがあることだと思う。結局は、どう生きるかとか、どう楽しむかってこと。『ダンス・ドラッグ・ロックンロール』は、そのことを僕たちに知らせてくれる。3コードのシンプルなパンク・ソングのように。真夜中に鳴り響く4つ打ちのダンス・ミュージックのように。



(犬飼一郎)

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Carl Craig『Masterpiece』.jpeg

 これまでに数多くのミックス作品をリリースしているカール・クレイグ。なかでも、『The Kings Of Techno』における「The European Perspective」は特別なミックスである。名前の通り、アート・オブ・ノイズ、ニッツァー・エブ、リエゾン・ダンジェルーズといった、カールに影響をあたえたヨーロッパ出身のアーティストたちを中心にフィーチャーしながら、YMOやカノなども選曲する幅広さは、カールの豊穣な音楽的背景を示すものだった。カールは、フランシスコ・モラ・キャトレット、クレイグ・テイボーンと組んだインナーゾーン・オーケストラ名義で、フリー・ジャズとテクノを溶解させたアルバム『Programmed』を発表しているが、このアルバムを作るうえで重要な役割を果たした折衷感覚のルーツに触れることができるのも、面白い特徴のひとつだ。


 本作『Masterpiece』は、過去にフランソワ・ケヴォーキアンやアンドリュー・ウェザオールといったDJが登場した人気ミックスCD・シリーズ。3枚組の大ヴォリュームであることも売りのひとつで、フロアでプレイする際のセット・リストを反映させたCD1、カールに影響をあたえたアーティストの楽曲群を収めたCD2、カールの未発表曲を集めたCD3で構成される本作も例外ではない。


 まずCD1では、BPM130以下のトラックを中心としながら、エジプシャン・ラヴァー『Egypt Egypt』といったオールド・スクール・エレクトロも織り交ぜるなど、カールの巧みなプレイ・テクニックと遊び心を堪能できる。わかりやすいメリハリをつけた展開は、コアなクラブ・ファンには少し物足りないように感じられるかもしれないが、そのぶん幅広い層に好まれる可能性を秘めている。随所でダンス・ミュージックの新しい潮流を示しながらも、基本的には万人にアピールするミックスだと言える。その点では、カールのロング・セットで味わえるディープネスが欠けていると言えなくもない。それでも、良質なミックスであることに変わりはなく、このCD1のためだけに本作を手に取る価値はある。


 CD2は、リズム・イズ・リズム「Icon」というテクノ・クラシックを選びつつ、プリンス・ジャミー「256K Ram」、マディ・ウォーターズ「Mannish Boy」など、興味深い曲もピックアップしている。「The European Perspective」と同様、カールのバックボーンを知るうえで最適な1枚だ。自ら主宰するレーベル《Planet E》からリリースした、トライブ「Livin' In A New Day」を混ぜてくるあたりもちゃっかりしていて、高い彩度を持つ選曲は素直に楽しめる。欲を言えば、この多彩さをもっと自身のトラックに反映させてほしいのだが・・・。


 そしてCD3は、先述したようにカールの未発表曲のみで作りあげられた、いわばオリジナル・アルバムと言っても差し支えない内容だ。その内容はというと、エクペリメンタルなドローンを基調としたサウンドスケープが印象的で、踊れる曲を期待している人は肩透かしをくらうと思う。さらに言えば、こうした中途半端な内容になるのであれば、もっと時間をかけて別のアルバムとして発表する道もあったのではないか? カールがやりたいことの断片を覗けるラフなスケッチとしては楽しめるが、ひとつの作品としてはあまりにも雑すぎる。去年カールス・デイヴィス名義でリリースされた「Last Decade EP」を想起させる消化不良な後味は、少々キツい。



(近藤真弥)

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CHRONOVALVE.jpg

 ロバート・キャパの著書『ちょっとピンぼけ』は多くの方も知っていることと思うが、そのなかで高尚な写真論が展開されている訳でもなく、基本、回想録であり、その筆致から醸されるキャパそのものの人柄といおうか、そういったものが戦地というシリアスな状態においても、仄かな諧謔や不安定な感情が鬩ぎつつ、伝わってくるものに魅せられるのかもしれない。


 今や、どんな国や場所、または特別な環境でカメラのシャッター音のようなものが頻繁に聴こえるようになった。自然に溢れた場所でも、誰も居ないかのような場所でも。もしかしたら、ただ、その景色をそのまま視る、聴く行為よりも「記録」しようとする倒錯さえ生まれているのではないか、というくらい記念品みたく、あらゆるものが保存されてゆくが、大量に保存された写真や記録は果たして、どこを遊泳するのか、停まらない時間下で、置いていかれてしまう憂慮もおぼえる。


 以前に、完全防音が為された部屋で、ミニマル・ミュージックの幾つかを聴く機会があった。ラ・モンテ・ヤングやテリー・ライリーといった名の知れたアーティストから、無名の実験的ともいえないでもない、本当に、単音がひたすら奏でられる音楽といってもわからないようなものまで。時計も外部音もなく、じわじわと反復とサウンド・レイヤーが緩やかに変わる。そのなかで明らかに普段の体感時間は変わり、いつもならば、1時間をもっと短く生活のなかで切り取ってしまっていたのが、その時間はとても贅沢なものだった。


 現在、アンビエントやドローン・ミュージックが眠りを誘うのではなく、現代音楽と交錯し、ポスト・クラシカルへと、更にはクワイア・ミュージック、時間芸術との位相連鎖を見せてゆくような傾向がある。


 しかし、アンビエント・ミュージックがサティーを経由した環境との連鎖を見せながら、ときに、外音さえも包含する機能性を持っていたならば、ここでも書いたミュゼットザ・クロイスターズなどの作品のように、聴き手に拓かれたところがあった気もする。マイク・インゲブレットソンのソロ・プロジェクト、クロノヴァルヴのデビュー作『Trace Of Light』はジャケットのタイムレス感もそうだが、少々、カテゴライズの網を抜けてくる面白さと不気味さがある。音像の変化の仕組みがサイケでもあり、その音の細かな刻みを安易に幻想的というには、あまりに彼岸を思わせ、ときに怖さも感じる。


 思うに、一時期のチルウェイヴに括られていたアーティストたちがソウルやR&B的に、または、ビートやリズムの細部に拘りだし、さらに個々の内在的な音楽語彙により読み替えをしてゆくなか、ベッドルーム・ミュージック(この言葉ももはや、恣意的になってきているが)ではなく、外側へと接続されてゆくスムースな進歩と言えないでもない作品も生まれているが、こうしたシンセに声のハーモニーを重ね、トリップさせるような狙いは明らかに聴き手を巻き込もうという訳ではなく、意図の演出も見えないのが不思議である。それでも、冒頭にキャパの著書の例を出したように、決して難解な音楽ではなく、甘い旋律に心が動かされる瞬間もある。タイトルのような"とある光の辿った足跡"を追いかけてゆくようで、マイク自身の回顧録を紐解いている気分にもなる。曲名にあるとおり、「The Gravity Of Dreams」「Memories Still With Us」、そして、「Into A New Future」という言葉のイメージに引っ張られたまま、非可逆な時間と並走する。


 なにかと刺激的な音楽も溢れているが、こういう音楽もじわじわと多くの人に発見されてゆくことを望みたい。



(松浦達)

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SUN KIL MOON & THE ALBUM LEAF 『Perils From The Sea』.jpg

 スロウコアを代表するレッド・ハウス・ペインターズの結成からキャリアをスタートし、15年近くにわたり活動を続けているサン・キル・ムーンことマーク・コズレックと、ポスト・ロックの雛型といえるサウンドを確立させたトリステザに所属し、アルバム・リーフとして活動するジミー・ラヴェル。歩みがそれぞれひとつのシーンを生み出したと言っても過言ではない、そんなふたりのコラボレーション・アルバムが今作である。


 このシンガーソングライターとエレクトロニカ・アーティストという組み合わせを見るに、今年に入り活動を再開したポスタル・サーヴィスを連想し、10周年記念盤もリリースされた00年代を代表する名盤『Give Up』のようなケミストリーを期待する人も多いのではないだろうか。それは冒頭の「What Happened To My Brother」でひとまず裏切られる。アルバム・リーフの特長でもある、温かみのある電子音は奥に隠れ、印象に残るのは無機質な反復音。思わず一抹の不安が胸をよぎる。マーク・コズレックの、哀愁を帯びた歌声と並んで大きな魅力でもあるギターが排されているのも残念ではあった。しかし、2曲目以降を聴き進めていくうちに不安は杞憂との思いが強まっていき、教会音楽のようなイントロから始まる5曲目の「Ceiling Gazing」でそれは完全に払拭される。マーク・コズレックのギターを代弁するかのような、温度感を伴った電子音がギターに代わり歌声を引き立てることに成功している。ラストの「Somehow The Wonder Of Life Prevails」では、ともすれば手探りとも思えるような1曲目から一転、この作品を2人で生み出せたことへの喜びすら感じさせる、芳醇さに満ちている音が展開されている(この曲のみピーター・ブロデリックがストリングスで参加している)。


 歌詞は、前作までのサン・キル・ムーン作品のそのまま延長線上にある、曲毎にとてもプライベートで具体的な物語が構成されている。歌のメロディーも、そのままギターをつけてサン・キル・ムーンとしてもおかしくないもので、ジミー・ラヴェルがこれを如何に生かしたトラックを産み出せるか、という、各々の役割を弁えたうえでのコラボレーションの形であったようだ。ただ個人的には、マーク・コズレックのギターが導入されているのが「Caroline」「Here Come More Perils From The Sea」の2曲のみであり、その2曲のギターと電子音の絡みがやはり何より美しく、アルバムのなかでも白眉と思えてならず、これがもし全編に渡りバック・トラックを2人でもって手がけていたなら・・・と想像が膨らみつつ、少し残念に思えてしまったところでもある。


 ポスタル・サーヴィスの『Give Up』が2人のケミストリーが結晶化されたような作品だとするならば、『Perils From The Sea』はコラボレーションの過程ごと克明に収めた、まるで久しぶりに会った友人同士がぎこちなさから打ち解けてゆき、別れの心地良い名残惜しさまで見せてくれる、そんな作品である。そして出来るならば、再度の邂逅が訪れ、また2人を目撃したいと願う。



(藤田聡)

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デヴィッドリンチ―.jpg

 街の雑物に塗れながら、そこで瞼を下ろさずに新たな形式で"文学"的実存を体現していた故・色川武大の著に『唄えば天国 ジャズソング―命から二番目に大事な歌』がある。章ごとに例えば、「イズント・ジス・ア・ラブリィ・デイ」や「シカゴ・ザット・タドリング・ダウン」などのジャズの決して本流とはいえない曲名を付し、幼少期からのアメリカのカルチャーへの雑想を書き連ねている。野放図な想像力、大人の遊びめいたフェイク、そして、物悲しさ。そもそも、外れ者が、正義と相対していたという一元論は無効だとしても、誰もが「マイ・フェイバリット・シングス」に酔う瀬は味気ない。


 デヴィッド・リンチのセカンド・アルバム『The Big Dream』はこの時代に同期する作品として捉えるにはあまりに滋味深く、派手な意匠もなく、ビート・メイクも最新のものではない。ただ、そういった判断は尚早といえるのは何度も聴き込むほどに、淡白に思えたアルバム自体が立体的に、また、新たな色や響きを孕んでくるからでもあり、音楽の本懐とはその瞬間に消費されるだけでなく、こうした意味を醸す要素も大きい。


 当初は、ウィッチ・ハウス的な共振が伺えると以前のレヴューで書いたが、その後のファースト・アルバムではエレ・ポップに軽やかにかつカジュアルな側面も見せたのも周知のとおりだろう。そして、この当該作品をして時代の趨勢とは(あらかじめ)非=関係であり、リンチはそのまま、ひとりの寓話師として、歌手としては寧ろオーソドックスな類いの性格を持っていたように思えてしまう。


 ただ、発想やフレーズ群が映像的であり、音楽的に凝るものではない分だけ、ジョニー・キャッシュの後年におけるリック・ルービンと組んだアメリカ・シリーズで見せた凄みやランブリン・ジャック・エリオット『A Stranger Here』などに通じる何かも感じる。広大無辺なアメリカにおける大きな夢(The Big Dream)の破片が静かにさんざめく。


 参加メンバーは至ってシンプル。彼のスタジオ・エンジニアのディーン・ハーレーが各楽器、イコランジングまでをメイン・サポートし、リンチが歌とギターを担っている。(注:リッキー・リーが客演した曲やリンチの息子がギターで参加している曲もある)。ミディアム、または、スローなテンポの曲が大半をしめ、ハーレーによるスペーシーな音響や巧みな手腕も活き、音数は限りなく少なく、メロディーによってはスイートでノスタルジックさえおぼえるトラディショナルな曲も含まれている。そこに、彼の鼻にかかった声が"歌う"というよりも、崩し気味に言葉を置くように、ときにトーキン・スタイルで乗ってくる。フォーク、ブルーズ・ミュージックの系譜に沿い、彼の撮る映画のような不可思議な手触りも残す。


 先行曲の「Are You Sure/Star Dream Girl」で垣間見えたように、明瞭な詩はロマンティシズムと刹那の優しさが閃き、マッドな感覚も挟み込まれる。もしかして恋に落ちたのかい、という問い、"Star Dream Girl"の夢を見ようとする彼ら、光や最後の伝言、曲ごとに登場者、「私」が変わってゆくようで、彼自身そのものであるかのように、黄昏と素面な感性が反射する。老境に差し掛かってきた彼の人生の来し方に聴き手はさまざまな想いも馳せられるが、それを時おり翻すようにシニカルに、虚無に離すようなところまで"らしい"内容になっている。映像作家、映画監督としての彼もそうだが、より歌手としての今後に興味が湧く充実した内容になっていると思う。


 外れ者が傍流を往き続けた先に、誰しもが内在的に抱える、普遍にして真ん中の叙情と交叉する、そんな証左なのかもしれない。



(松浦達)

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Clouds『Ghost Systems Rave』.jpeg

 マイ・ブラッディー・ヴァレンタイン『Loveless』、エイフェックス・ツイン『Selected Ambient Works 85-92』など、これまでに多くの孤高的作品が生まれ、他の音楽とは似ても似つかない存在感を示してきた。しかし、こうした作品たちも、時が経つにつれて聴き手の耳に定着する。さきほど例として挙げた作品をいま聴いたらどう感じるだろう。おそらく、衝撃よりも耳馴染みの良さを抱くはずだ。


 とはいえ、それは決して悪いことではない。もちろん作品の質が落ちたわけでも、時代遅れの代物になったわけでもない。その衝撃にヤラれたアーティストによる作品を経由して聴くのがほとんどなのだから、当然の結果である。"誕生→吸収→拡散"の繰り返し。こうして音楽は常に前進してきた。"誕生"の衝撃は"吸収"の段階で音楽的正史(とされているもの)に組み込まれてしまう。これを人は"文脈"や"歴史"と呼んでいる。


 だが、ネットが一般化して以降、その"文脈"や"歴史"は複雑になり、入り組んだものとなった。絶対的権威であった音楽的正史やトレンドは存在感を失い、聴き手の個人史的音楽体験が重要度を高めつつある。それゆえ、グライムスディスクロージャーのような折衷的センスを持つアーティストが人気を集め、チルウェイヴ以降に生まれたクラウド・ラップ、シーパンク、ヴェイパー・ウェイヴといったインターネット・ミュージックが注目されている。90年代から始まった細分化はとどまるところを知らず、"シーン"という言葉も、ジャンルによるタグ付けも形骸化させるに至っている。その結果、多様な価値観が認められる状況が生まれ、音楽にまつわるあらゆることが曖昧になった。一寸先は闇。明日のことすら予測できないのが現在だ。


 そうした現在は、曖昧模糊でスッキリしないものではある。しかし、そんな状況に面白さを見いだす新しい感性も出てきている。それが先述のグライムスやディスクロージャーであり、日本で言えば《Maltine Records》である。筆者はこれらの感性を肯定したい。少なくとも、わかりやすさだけを求める単純化によって誰かがハブられるよりはマシだと思う。人間は、"右向け"と言われても素直に向けない複雑な機微を持つ生き物だ。その機微が拠り所とする居場所が多くある現状は素直に嬉しいと思える。クラウズのファースト・アルバム『Ghost Systems Rave』を聴いていると尚更だ。


 スコットランド出身のクラウズは、フェイク・ブラッドが主宰するレーベル《Blood Music》から2010年にリリースした「Liquid」で大きな話題を呼んだ、文字通りの若手である。その後はティガ主宰の《Turbo》から数多くのEPを出しているが、今年4月にはブルックリンの新興レーベル《Fifth Wall》より「Man Out Of Dubs EP」をリリースするなど、フットワークの軽さも披露している。《Resident Advisor》のインタヴューによると、ダフト・パンクジャスティスといったアーティストに影響を受けたそうだが、本作はここ数年再評価されているインダストリアル・テクノの要素が色濃く出ている。「The Rights Of Artificial Life Form」はフィルター・ハウスに夢中だった『Homework』期のダフト・パンクを感じさせるが、基本的にはブラワンやサージョン、レジスなどと共振するハードなダンス・ミュージックが多く収められている。


 しかし、細部に注意して聴いてみると、「Modular Scarf」にはジェフ・ミルズに通じるグルーヴがあり、ブラック・ライオット「A Day In The Life」のシンセ・サウンドを想起させるレイヴ・チューン「Future 1」、さらに「Future 2」はビッグ・ビートの匂いを醸し出すなど、クラウズの背後にある豊穣な音楽的要素を見つけることができる。クラウズのサイトにアップされているミックスでは、アンディー・ストットやエイフェックス・ツインの他にジェームズ・ブレイク、ゴッドスピード・ユー!・ブラック・エンペラー、パンダ・ベアも選曲されているが、このことからも、クラウズの貪欲な雑食性が窺い知れる。


 少々変わった曲名群も興味深い。「Topless Female Nudity」というジョークみたいなものもあれば、グルジアの民族のひとつを指す「Khevsurian」なんてタイトルもある。さらに恒星周りの領域を意味する「Roche Lobe」、ブラックホールとされている天体の名称を掲げた「GX 339-4/V821 ARA (About 1500)」と、宇宙にまつわる曲名も散見される。クラウズはよほど宇宙が好きなのかもしれない。だが、何よりも驚かされるのは、偏執的に快楽を追求したサウンド・プロダクションだろう。もはやクラウズ(雲)という名前のイメージとは真逆のベクトルすら感じるが、本作にはふわふわとした緩慢さは一切なく、徹底的にねじ曲げられたアーティフィシャル・サウンドがアルバム全体を支配している。


 そういった意味で本作におけるクラウズは、人間臭さを排した不純物100%の音を作りあげながら、同時に享楽主義者を喜ばせる肉体性も確保している。とはいえ、この相反すると思われているふたつの要素を混在させるのは、そう難しいことではないのかもしれない。例えば、アンドリュー・ブルームによる著書『インターネットを探して』が示すように、普段はあまり意識しないものの、仮想空間だと思われがちなインターネットは、データ・センターなどの物理的施設によって管理された空間である。あなたがいま本稿を読めているのも、膨大な数のケーブルやら中継点を通って目の前にある端末に表示されているからだ。インターネットという仮想空間の裏には、汗水たらしてケーブルを設置する作業員の姿があり、システムを順調に機能させるため日々働くオペレーターやエンジニア、つまり、"人"がいる。とてもシンプルな事実だが、このことを意識するだけで、具体性や現実感が浮かび上がり、今まで見ていたものとはまた違った壮大な光景が見えてくる。


 これを現在の音楽の在り方に置き換えれば、曖昧模糊でスッキリしない状況にも人は確実に存在するという認識に至る想像力さえ持てば、点としてある多様な価値観を線で繋ぎ、活発な双方向性が確保された新しい場所を生み出せるのではないか? いわば、再解釈と再定義の可能性。そんな可能性にクラウズは挑んでいるのかもしれない。だからこそ、大勢の人で溢れるダンスフロアだけでなく、ストリーミング配信されるビートに合わせひとりベッド・ルームで踊る者も含めた"Ghost Systems"で"Rave"する。本作において"Rave"は、どこかでおこなわれている特定のパーティーだけを指すのではなく、もっと大きな、言ってしまえば我々が住むこの世界全体を捉える言葉として掲げられている。



(近藤真弥)

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溶けない名前「おやすみA感覚e.p」.jpg

 うらたにうらん(ヴォーカル/キーボード)、イトウリュウタ(ヴォーカル/ギター)、ソガベナオキ(ベース)、ニワキヨシ(ドラム)、おやすみAちゃん(イメージ/モデル)による溶けない名前を知ったのは、バンドキャンプでダウンロードできるデモ音源がキッカケだった。物悲しい目つきをしたおやすみAちゃんが印象的なジャケットはもちろんのこと、「刺したい」「ソーダ室へ行こうよ」というアンニュイな雰囲気を感じさせる曲名にも惹かれた。"歌謡シューゲイザーバンド"を自称することからもわかるように、溶けない名前の音楽性はノイジーなギター・サウンドを基調としている。そこにイノセンスをまとったメロディーが乗り、聴き手の心に深く突き刺さる繊細な歌声が言葉を紡いでいく。


 それはファーストEP「おやすみA感覚e.p.」にも変わらず核としてあり、しかもさらなる発展を遂げている。本作は、「ロボットと詩集」「ヰタ・マキニカリス」の2曲に、先述のデモ音源の再録を加えた計4曲となっているが、そのなかでも稲垣足穂による短編集の名前から引用した「ヰタ・マキニカリス」は、溶けない名前らしいタイトルだと思う。稲垣足穂といえば、独自の性愛論やエロティシズムを展開したことで知られている人物。読み進めていくうちに、ジェンダーの境界線が曖昧になっていくような世界観を打ち出した著作群は、今でも魅惑的な雰囲気を放っている。実を言うと、溶けない名前の歌にも、そんな稲垣足穂に通じる世界観がある。うらたにうらんとイトウリュウタの歌声は、共に男女の枠組みを越えた中性的響きを持っているが、この響きに身を任せていると、徐々に目の前の日常がねじれ、常識として定義されていたはずの価値観が転覆するような錯覚に襲われる。


 また、「ロボットと詩集」は、漫画家の業田良家による『新・自虐の詩 ロボット小雪』や『機械仕掛けの愛』を想起させる歌詞が面白い。業田良家のように直接的な社会批判を主張しているわけではないが、ロボットという存在を通じて人間の機微的感情があらわになっていくさまは、いま挙げた作品群と類似するのではないか。とはいえ、感動的な部分もある『新・自虐の詩 ロボット小雪』『機械仕掛けの愛』とは違い、《いいわ許してあげる 仲直りの握手しましょ あーあ、つぶれちゃったね》と儚く歌われて幕を閉じる「ロボットと詩集」は、異なる存在が交わることの難しさを表現しているように聞こえる。特に《つぶれちゃったね》のインパクトは凄まじい。思わず、骨が粉々に砕けた人間の手を思い浮かべてしまった。そういった意味では、一種のグロさを感じさせる曲でもある。このグロさの根源が本作で明らかにされることはないが、このまま順調に活動を続けていけば、その根源を見ることができるかもしれない。次作を楽しみに待ちたいと思う。



(近藤真弥)




【編集部注】「おやすみA感覚e.p.」はライヴ会場とディスクユニオンで販売しています。

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 ディスクロージャーによる待望のファースト・アルバム『Settle』には、ダンスフロアを揺らすのはもちろんのこと、ベッド・ルームでひとり寝そべるキッズを立ちあがらせる熱狂があり、カップルを楽しい夜のひとときに導くBGMとしても光輝く、つまり、最高にファンキーで楽しいダンス・ミュージックが詰まっている。正直、《Moshi Moshi》からリリースされたデビュー・シングル「Offline Dexterity」の先鋭性をいまだに忘れられないのも事実だが、こんなくだらない執着はきれいさっぱり捨て去ってしまおう。そう思わせるほど、本作はダンス・ミュージック史に向けられたピュアな愛情がほとばしっている。


 まず、"ヒップホップ・プリーチャー"としてアメリカでは有名なエリック・トーマスのスピーチが乗る「Intro」から、そのスピーチを引きついでのハウス・トラック「When A Fire Starts To Burn」という流れ。リスナーを『Settle』にいざなう招待状としてあまりに完璧すぎるこの冒頭は、スピーチ部分が何度もサンプリングされてきたリズム・コントロール「My House」を想起させ、これまでに生まれた数多くの偉大なダンス・クラシックに対するリスペクトを表しているように聞こえる。もちろんそのリスペクトはアルバム全体の作風にも表れていて、R&B色が強いUKガラージやヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェア以降のモダン・ハウスを基調としながらも、初期のジュニア・ヴァスケスを思わせる享楽性、さらにはそのジュニア・ヴァスケスが88年にオープンしたパーティー《Sound Factory》周辺の匂いを漂わせ、もっと細かいところだと、「White Noise」のリズムはシカゴ・ハウスに通じるラフな質感を湛えている。おまけに「Stimulation」ではNYハウス的スネア使いを披露するなど、ダンス・ミュージック史が築きあげてきた数多くの遺産を担ぎだし、聴き手の心を高揚させる。しかもフレンドリー・ファイアーズのエド・マクファーレンを招いた「Defeated No More」においては、キャッチーなポップ・ソングを生みだす高いソングライティング能力が遺憾なく発揮されているのだから、素晴らしいとしか言いようがない。


 とはいえ、「White Noise」ではアルーナ・ジョージのアルーナ・フランシスと組み、「Latch」には新人のサム・スミス、さらに「Confess To Me」ではジェシー・ウェアといった新進気鋭を迎えていることからもわかるように、過去から引用すると言ってもそのままやるのではなく、現在でも通じる要素だけを抜きだし、それを現代的要素と上手く混ぜあわせている。そうすることでディスクロージャーは"過去"を塗りかえ、懐古主義の罠を見事に回避する。この点はサヴェージズグライムスにも見られる感性だ。過去の音楽から"今"でも使えるところだけを拝借する、いわば"抽出的音楽"は、ディスコ・パンクに括られることが多いLCDサウンドシステム!!!ザ・ラプチャー、それからハウス・ミュージックのダークでドラッギーな部分を取りだし肥大させたアート・デパートメントなど、これまでも散発的に生まれてはいたが、2010年代以降はその方法論があまねく共有され、一般化したように感じる。ジャンルを問わずにフレッシュな"抽出的音楽"がつぎつぎと飛びだしてくる現状を見ていると尚更だ。本作はそうした現状が生みだしたポジティヴな成果であり、だからこそ、多くの人々を熱狂の渦に巻きこんでいく。


 だが"抽出的音楽"の本質自体は、今までになかった新しいものではない。その本質の正体はマイク・ピッカリングが「あそこがただのクラブだったことなんかなかった。(中略)バンドが出ることもあったし、アート・インスタレーションがおこなわれることもあった」(※1)と回想するセカンド・サマー・オブ・ラヴの震源地となったクラブ《Hacienda》以降に広がったDJ的観点と価値観であり、この観点と価値観が発展しながら行き着いた場所こそ"抽出的音楽"のように思える。《Pitchfork》の編集長マーク・リチャードソンは、《Wired》のインタヴューで「いまの読者はジャンルにもはやこだわらない。インターネットの時代になってそれはますます加速している」と、現在の音楽の在り方について述べているが、そうした"こだわりの無効化"が始まった大きなキッカケのひとつは《Hacienda》の登場ではないかと推察する。そして、《Hacienda》以降にはデジタル音源の普及、iPodの誕生、YouTubeの登場によってストリーミング重視に傾く聴環境など、テクノロジーによるパラダイム・シフトが何度か起こることで、"こだわりの無効化"は加速していった。グレイトフル・デッドの故・ジェリー・ガルシアが残した、「テクノロジーは新しいドラッグだ」という言葉が驚くほど的確であることを示しながら・・・。


 その結果として生まれた新しい世代が、ディスクロージャーを名乗るローレンス兄弟なのだ。しかしそのローレンス兄弟の背後には、満面の笑みを浮かべながら踊り狂うニュー・オーダーの姿があり、その姿を見守りながら葉っぱを巻くロブ・グレットンやトニー・ウィルソンもいる。いわばローレンス兄弟は、過去の輝かしいクラブ・カルチャーを携えた伝道師でもあり、そんな兄弟による作品がイギリスのアルバム・チャートで初登場1位を獲得したのは本当に凄いことだと思う。ダンス・ミュージック復権云々といった小さな話ではなく、2010年代以降の音楽に顕著な過去/現在/未来を混在させるセンスがわかりやすいかたちで示されたという意味で。革命はすでに起こっている。



(近藤真弥)



【編集部注】『Settle』の国内盤は7月10日リリース予定です。



※1 : ピーター・フック著『ハシエンダ マンチェスター・ムーヴメントの裏側』282頁より引用。