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コボタウン―.jpg

 20世紀初頭から第一次世界大戦の混沌期に、世界中であまた、今に伝承されるポピュラー・ミュージックが各国で「意訳」された。例えば、アルゼンチンのタンゴ、キューバではソン、カリブの諸島、特にはトリニダード・トバゴで発達したカリプソ。カリプソとは、言語的な意味性よりも4分の2拍子のリズム、また、コミュニケーション・ツールとしての「機能」が音楽的側面だけではなく、文化的諸相に共振し、なおかつ、音楽が根源たる自由を希求するものとしての強度を確保したものとして、今でも世界中のカルチャー、アーティストに影響を与え、カリプソを根脈としながら、混在した音楽要素を巻き込み、鋭くも豊潤な稔りを残し続けている。もしも、音楽のイメージにピンとこなくても、ジャマイカ系アメリカ人のハリー・ベラフォンテの「バナナ・ボート」はどこかで聴いたことがあるかもしれないが、マイティー・スパロウ以降の、ソカなどのよりダンサブルな傾向が近年は色濃く、人気を博してもいる。


 このカナダはトロント出身のバンド、コボ・タウンはセカンドとなる『Jumbie In The Jukebox』において、生演奏で、現在の温度での基本、オールド・スタイルともいえるカリプソを奏でる。コボ・タウンとは、2004年に結成された7人組で、そのバンド名の由来はトリニダードの首都であるポート・オブ・スペイン周辺の海岸沿いについたニックネームといえるもの。ヴォーカル、作詞・作曲も担うフロントマンであり、トリニダード出身の白人、ドリュー・ゴンサルヴェスが率いる他メンバーはジャマイカからスロヴェニア、中国系インドネシア系、無論、トリニダードからまでと幅広い。アーティスト写真を見ても分かるように、ボーダーレスな風情を漂わせ、世界中のフェスやイヴェントでも、開放的なムードを与えるライヴ・パフォーマンスも行なっている。


 06年のファースト・アルバム『Independence』では、確かな演奏スキルと絶妙なカリプソ解釈、レゲエ、ズークといった音楽を攪拌し、音楽の躍動そのものを伝え、その作品を契機に、北米だけではなく、欧米諸国などにもグループとしての認知度が一気に高まった。そこから、スタジオ作品としては、間隔は空いたものの、待望のセカンドとなる今作ではプロデューサーにイヴァン・ドゥーランを招き、充実した内容になっている。イヴァンといえば、プロデューサー、ミュージシャン、《Stonetree Records》のレーベル・ディレクターとして活躍し、ベリーズのガリフナの音楽を広めるだけでなく、そのレーベルからの"プンタ・ロック"の筆頭格たるアンディー・パレシナの『ワティーナ』では07年のWOMEX(The World Music Expo)にて賞を取るなど、多岐に渡った活動そのものに注視されている。


 本作は、怜悧にルーツ的なカリプソをさらになぞりつつ、レゲトン、現今のベースメント・ミュージックとして話題のムーバートン風のリズムが要所にうかがえるところがいかにも"らしい"。イヴァンの参加もあってか、視角的にカリブ海音楽そのものへの深みが増し、元々高かった各メンバーの確かな演奏技量やセンスが巧みに絡み合いながら、堅苦しさを全く感じさせない隙間を活かしたサウンド・ワークが活きている。そして、楽しく穏やかな曲調が多い中、ふと混じってくるマイナー調の切ない「Diego Martin」、真摯な歌詞が胸を打つ「The War Between Is and Ought」、と多少の試行も浮かびもする。但し、これまでの彼らを知っていなくても、先入観を抜きに対峙すれば、バンドというよりも"楽団"的ともいえる雰囲気がカリプソをベースにオーディエンスにダンスを訴求する、そんな愉しさが真っ先に伝わってくること自体が大切だとも感じる。カリプソという音楽が歴史に埋もれず、現代になお、受継される理由の一端も見える作品だと思う。



(松浦達)

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水中図鑑「ふれるところ、ささるとげ」(Rallye).jpg

《現代のアメリカのコメディ映画について話そうとすると、こんな言葉でさえぎられることがある。「誰もジョン・ウォーターズの毒には及ばないじゃないか」「そもそもアメリカのコメディなんて、モンティ・パイソンの深遠さを超えていないじゃないか」確かに彼らは偉大である。でもそういう決めつけって「ボブ・ディランとビートルズを聴けば他のロックなんか聴く必要ない」って言っているロック親父とどこが違うのだろう。》

(長谷川町蔵 著『21世紀アメリカの喜劇人』234頁より引用)


 遅ればせながら、ライター/コラムニストとして活躍する長谷川町蔵の著書『21世紀アメリカの喜劇人』を読ませてもらった。冒頭で引用した一節からもわかるように、この本は過去にリスペクトを捧げながらも、現在活躍しているアメリカのコメディアンについて書かれている。コメディー映画とそれに関わる人たちに対する愛情が滲み出ていて、心の底から手に取って良かったと思える内容だ。コメディー映画に関する深い見識はもちろんのこと、長谷川町蔵というひとりの人間の本質が垣間見れる点も面白かった。


 書きだしから"関係ない話?"なんて思った方もいるかもしれないが、水中図鑑のファースト・ミニ・アルバム「ふれるところ、ささるとげ」を聴いていると、どうしても『21世紀アメリカの喜劇人』のことが頭をよぎってしまう。なんとなく、水中図鑑にも"決めつけ"がまとわりついているように見えるからだ。水中図鑑を語る際によく引き合いに出されるのは、はっぴいえんど、スーパーカー、ナンバーガールといったバンドである。的確だとは思う。確かに水中図鑑の音楽性は、ソニック・ユースなどのUSオルタナ、『Isn't Anything』期のマイ・ブラッディー・ヴァレンタイン、初期のスーパーカーが持っていたキラキラとしたメロディー・センスなど、過去の素晴らしき音楽たちの要素を多分に含んでいる。加瀬透による文学的な歌詞もはっぴいえんどを想起させるものだ。しかし、こうした点だけを取りあげ、"だったらはっぴいえんどを聴いたほうがいい" "スーパーカーを焼き直しただけ"みたいなことを言う者たちが少なからずいる。どうしても過去を取り入れた音楽を許せないのだろうか? だが、そうした者たちには、ライターでカメラマンの久保憲司による、ハドーケン!『Music For An Accelerated Culture』のレヴューに登場する一節を送りたい。


《ロックとレイヴを混ぜる事によってフェスの王者となったプロディジーだが、ハドーケン!はそんな歴史は関係ないとばかりに、純粋にプロディジーの音楽を、現在にはないかっこいい音楽として鳴らしたことが、時代を越え、今の新しいロックンロールとして、そのグライムぽい歌詞とともに新しいパンクのように聴こえた》

(『ブリティッシュ・オルタナティヴ・ロック特選ガイド』247頁より引用)


 この一節は、"なぜいまこの音なのか?"という観点から音楽を聴いたときに初めてわかる面白さを教えてくれる。筆者はこの面白さを肯定したい。もちろん今までになかった音が生まれる瞬間も素晴らしいとは思う。しかし、影響元である音楽をカタパルトにして、そこにありったけの衝動と言葉を乗せて発射された音楽も、何物にも代えがたい価値と新鮮さを宿しているものだ。こうした泥臭い実直さというのも悪くはない。その実直さは、時としてマニック・ストリート・プリーチャーズ『The Holy Bible』のような、誰にも作れないであろう傑作に繋がることだってあるのだから。


 実を言うと本作は、水中図鑑が以前ファースト・デモとしてリリースしたものに、柴田聡子との仕事で知られる君島結をエンジニアに迎えて再ミックス/再マスタリングが施された代物。ファースト・デモは「あそびの心をしらない」「飛び込め!!」「夏への扉」「縁日」「ふれるところ、ささるとげ」の全5曲だったが、本作はさらに「スローダイブ」「スイミング」を加えた全7曲入りとなっている。他の5曲も細かいところのサウンド・プロダクションが変わっており、ファースト・デモが手元にある者も十分の聴きごたえを味わえるはずだ。


 ファースト・デモについては以前レヴューを書かせてもらったので、本稿では新曲の「スローダイブ」「スイミング」を中心に書いていくとしよう。まず「スローダイブ」は、タイトルからシューゲイザー・バンドのスローダイブを思い出す者もいると思うが、筆者はイントロを聴いた瞬間、"セックス・ピストルズの「Anarchy In The UK」をシューゲイズ・カヴァーしたのか?"と思ってしまった。とはいえ、そんな筆者の想起を掻き消すかのように、サイケデリックなスパイスが効いている轟音にすぐさま襲われるのだが・・・。面白いのは、轟音のなかにマッドチェスター・サウンドの要素が紛れこんでいる点で、ストーン・ローゼズの2ndアルバム『Second Coming』に通じるグルーヴも見え隠れする。その点で「スローダイブ」は、イギリスのロックが積みあげてきた歴史と共振する曲だと言える。


 一方の「スイミング」も、シューゲイズ・サウンドを基調とした初期衝動が印象的だが、こちらはナンバーガールやbloodthirsty butchersの匂いが漂う、とても日本的なオルタナティヴ・ロックだ。本作のなかではもっともパンキッシュなサウンドが鳴っており、ザ・ブルーハーツの影がちらつく曲でもある。そして「スイミング」を聴く際は、歌詞にも注目してほしい。現在の水中図鑑が持つ最大瞬間風速を克明に刻んだ言葉で紡がれているからだ。特に《サイダーの泡みたいに 透明な音、鳴らしてみたい!》というラインは、青臭いとバカにするであろうシニシズムを遥か彼方に吹き飛ばす情熱を煌めかせながら、聴き手の心にゆっくり沁み渡る。


 それにしても本作は、夏の雰囲気を感じさせる曲が多い。全7曲中4曲に"夏"という言葉が登場する。水中図鑑は"夏"に対する何か特別な思い入れでもあるのだろうか? そんな本作を聴くと、佐藤多佳子の小説『サマータイム』や、あさりよしとおによる漫画『なつのロケット』を読んだ後に残る、爽快さに甘酸っぱさが縒ったような舌触りを思い出す。言葉が単純化され、その過程で機微的感情が無駄なもの、無意味なものとして棄てられていくことも多い現在だが、本作はこうした世の流れに抵抗するかのように、人が持つ言葉では説明できない感情を丁寧にすくい取る。これはシャムキャッツcero、それから最近注目を集めているカナタトクラスや森は生きているといったインディー・バンドにも共通することだが、水中図鑑もまた、人は複雑な生き物であることを前提としながら、音楽を生み出しているように見える。だからこそ本作には、この世に存在する言葉を尽くしても語りきれない多彩な感情があるのではないだろうか。その多彩な感情とメンバー全員のなかに積もった表現欲求が奇跡的融合を果たして生まれたのが、水中図鑑というバンドなのかもしれない。



(近藤真弥)

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ギュライ―.jpg

 2006年にトルコのオルハン・パムクがノーベル文学賞を受賞し、トルコという場所に巡る文化のみならず、イスラム圏を巡る周辺環境には日本含め世界から注視されてきたが、昨今のデモの報道、その捉え方などを鑑みると、いまだ遠い国のような、オリエンタリズムをとおした濃厚な色眼鏡がかかってしまうところも感じる。音楽にしても、その多様性をして、明瞭に解釈されているのかというと疑念が残る。疑念といっても、タルカンやセラタブ・エレネルのような世界的に活躍しているポピュラー・アーティストもいる。また、トルコの古典音楽の芸術性の高さは世界のアーティスト諸氏を魅了し、音源群のコンパイルは次々と為されている。リュートや笛などの諸楽器で奏でられるそれは、今やアラビック・ポップスなどと混ざり合いながら、よりカオティックにグローバル化している気配も出てきており、興味深い事柄も多い。また、東西の交差点としてヨーロッパ的な装飾とアジアの土着性を昇華してきた過去の轍を辿っていけば、マルチカルチュラリズムという題目下で様々な問題が検討される余地は今こそ山積しているといえる。反比して、モノカルチャラリズム的に、純然と自国の音楽文化を護ってゆく趨勢もありながらも、サイレント・マジョリティーがしっかり下支えしていた伝統や文化の概念性が一定の"もてる層"の作為によって変えられてしまう、そんな瀬も世界各国でないとはいえず、トルコもそういう要素は一部、地表化もしてきている。


 例えば、人類学者がマルチカルチュラリズムを批判する際における文化と権力の装置性の境界については、現在ではややナイーヴすぎる要素もあるかもしれない、ということだ。差異、違いを"違い"であることを認証し合いながら、共存してゆくことと、予め規定されたと思しきパラメータ内での同じような"違い"を共有してゆくことの差分は認知しないといけない。ただ、政治的背景以外にも経済的与件等も合わさり、現代を巡る国家間の境界のみならず、ネーションステートは寧ろどこに帰一するのかと考えるならば、そこは国家間を通じての包摂、排除の認識と再定義の意味はより深く絡まる。


 この才媛ギュライの7年振りとなる最新作にして、00年からの"Damlalar"シリーズとしては11年振りとなる『Damlalar III』を聴いていると、トルコ民謡であるハルクと呼ばれるものを軸にしながら、アクチュアルに胸を打ち、トルコ音楽というものの多様性だけでは語り尽くせない言語を越えた得も言われぬ切なさ、痛み、懐かしさをおぼえる。そして、これまで書いたようなマルチカルチャラリズムを巡る隔靴掻痒たる思考にヒントも付与してくれる。"ハルク"の特徴の複雑な変拍子、独特の旋律に、悲哀がこもり、ときに鬼気さえ帯びる彼女のハスキーな歌声がシビアなテーマをまるで哭くようになぞり、歌われる。望郷、貧困、報われない恋、生きる悲しみ。


 バック・サウンドにはバーラマというリュート、弓で弦を擦り、音を鳴らすケメンチェ、木管楽器のズルナ、葦笛のネイなど伝統楽器の音色も目立つが、エレキ、アコースティック・ギターやパーカッション、キーボードのアレンジメントもあり、いかにも民謡的な、というよりも立体的でモダンな印象が強い。1曲目の「Al Eyvanda Han Kalmad」からサウンド・アンビエンスが美しい8分に迫る壮大な世界観が拡がり、時おり挟まれるキーボードの柔らかなタッチが澄みきった空気を倍化させる。7曲目の「Zalim Dunya」などはそのメロディーやアレンジメントだけを捉えると、ベイルートことザック・コンドンが歌っても遜色がないような、そんな感じも個人的にうける。全体をとおして、"ダムララル"過去二作と比しても、一番、洗練されているような気がするとともに、より新たなリスナーを獲得するのではないだろうか。ギュライの今作はおそらく、世界のどこで誰が聴いても感じる根源的な何かがある。こうして、音楽は世界を近くさせ、言語や国境線を越えた感情を揺さぶる。



(松浦達)

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BOARDS OF CANADA『Tomorrow's Harvest』(Warp : Beat).jpg

 まさかボーズ・オブ・カナダの新作が出るとは思ってもみなかった。2005年の『The Campfire Headphase』から実に8年振りのリリースとなるが、唯一無二だからこそ年月が経ってなお愛されて止まない。


 ゆったりとしたビートで、より壮大なスケールのサウンドに仕上がっている今作は、今までのどのアルバムとも似ていないが、雰囲気としては2006年のEP「Trans Canada Highway」の延長線上にありつつ、ダーク・アンビエント的な一面が重なり、見たことのない不思議な世界が繰り広げられている。


 自然の中に囲まれたような永遠と開放感が、これまで奏でてきた"歌"を否定する。今までは彼らなりの"歌"があったけれど、それが今作ではあまり感じられない。メロディーがないわけではないのだが、それよりも音の重なり合いの方が重視されていて、それこそアンビエントの神髄とも言えるし、既存のイメージにとらわれないエレクトロニカの可能性を示している。


 今、世の中におけるエレクトロニカの存在は縮小し、テクノでもロックでもポップスでも、とにかく歌(ヴォーカル)が氾濫するようになってしまった。彼らの音楽はポピュラリティーに対するアンチテーゼではないだろうか。今のマーケットに一石を投じるならば、彼ら自身の持つ普遍性すら殺すしかなかったのかもしれない。


 それでも美への執着はあり、今作では力強さや生命力さえも一つの美しさではないかと思う。以前多かった声のサンプリングも今回は少なく、言葉を持たない音楽そのもののパワーを強く感じさせられる(中盤の「Palace Posy」での声は鳥肌モノだけれど!)。もちろん高音の心地よさも健在ではあるが、いつもの"不安定な高音"ではなく、しかし浮遊感のあるボーズ・オブ・カナダらしさもなくしてはいない。


 今作は特に、ボーズ・オブ・カナダをどう思っていたか、何に惹かれていたかによって印象が人それぞれ違うだろうけど、"Tomorrow's Harvest"というからには自らの過去にとらわれずこれから先の新たなステージを見据えているのだろう。実りはすぐそこにやってきている。


(吉川裕里子)



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Les ANARCHO「OKANE WO MOYASOU」.jpg

 2013年にリリースされたポップ・ミュージックのなかではかなり刺激的な1枚だ。レ・アナーコは、共に漫画家として知られている長尾謙一郎と大橋裕之が中心の武蔵野コード進行研究会が新たに掲げたバンド名らしいけど、これ以外の情報はほぼ皆無。YouTubeにアップされている「Okane Wo Moyasou」のMVの概要には、「吉祥寺が生んだ噂のおちゃっぴ~5人組」と書かれているが、こんな悪ノリプロフィールが残っているくらいだから、本当に5人組なのかはちょっと怪しい。まあ、アニメ『けいおん !』から生まれた放課後ティータイムが人気バンドとなり、TWIMYのような"実存"の根本を揺さぶる存在がもてはやされる時代だ。レ・アナーコも、実は架空のバンドであった、なんてこともありえる。


 しかし、実在するのかどうかみたいな話は、正直どうでもいい。百貨店のカタログギフトで使われる写真みたいなジャケットをまとい世に出回っているという事実そのものが重要なのだ。いわば本作は、"ただ目の前にある"という数少ない確かな事実をふまえ、いかに自発性と想像力を駆使してコミットするのかを聴き手に問う挑発的作品である。


 そういった意味で本作は、甘美なディスコでコーティングされた「Okane Wo Moyasou」、歌謡曲チックな哀愁を漂わせる「チャイナブルー」、そして何度聴いてもビートルズのアウトテイクにしか聞こえない「Dream」といった曲群が醸しだす心地よさに、未来派やダダイズムの要素を込めた作品だと言えるのではないか? 未来派やダダイズムが絶対的な権威と化した"過去"や"伝統"に反駁したように、本作もまた、ますます複雑化していく社会と資本主義のシステムに挑む反骨精神を感じさせるからだ。


 と、こうして真面目に書けば笑う人もいるだろう。だがそれでも筆者は、本作のロマンに惹かれずにはいられない。それにポップ・ミュージックは、そうしたロマンを仮託されてきた音楽でもあるのだ。まさかストーン・ローゼズやMGMTを忘れたわけではあるまい。


 さらに重要なのは、先述のMVでお金を燃やす明確な描写が登場するということだ。例えば資本主義の虚無をシニカルに批判していたヴェイパー・ウェイヴのほとんどが、セイント・ペプシなどを除けば皮肉の海に沈んでしまったのとは違い、レ・アナーコはシニカルではいられない現状に呼応するかのように直接的かつ分かりやすい表現方法を選んでいる。それが「Okane Wo Moyasou」のMVであり、タイトル曲におけるディスコ、つまり"踊る"ことなのだ。レ・アナーコは傍観者的シニシズムの皮を被りながら、その傍観者の喉元に鋭利な批判精神を突きつける。



(近藤真弥)

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BLACK JAZZ CONSORTIUM『Codes And Metaphors』.jpg

 90年代初頭のアメリカは、多くの素晴らしいハウス・トラックを生みだしていた。今でこそ、ハウスと聞けばイギリスを思い浮かべる者も多いが、91年にオープンしたロンドンの有名クラブ《Ministry Of Sound》も、オープン当初はシカゴやニューヨークからハウス系のDJ/アーティストを頻繁に招いていたことからもわかるように、90年代初頭のアメリカはダンス・ミュージックのメッカであった。


 しかし時は流れ、その盛りあがりも下火になっていくと、USハウスはスポットライトからどんどん離れていった。しかも、ただでさえトレンドの入れ替わりが激しいダンス・ミュージック界だ。このまま二度とUSハウスが大きな注目を集めることはないのではないか...。そう悲観する者もいただろう。だが、2000年代も終わりに差しかかった頃、新潮流のUSハウスを世界に向けてアピールするDJジャス・エドが人気を集め、シカゴからはアミル・アレクサンダーという新鋭が登場。そしてこの波に便乗してか、あのトッド・テリーが自身のレーベル《Freeze》を復活させるなど、ここ最近のUSハウスは新たな盛りあがりを見せている。


 その新たな盛りあがりの中心にいるアーティストのひとりが、本作『Codes And Metaphors』を上梓した、ブラック・ジャズ・コンソーティアムことフレッドPである。彼のセルフ・レーベル《Soul People Music》から過去にリリースされた『RE:Actions Of Light』『Structure』の‎2枚は、すべて手作りのCD-R媒体で流通し、しかもプレス枚数が極端に少なかったことから、すぐさま完売し廃盤となった(※1)。そのせいもあってフレッドPは、USアンダーグラウンド・ハウス界のカルト・スターとして祭りあげられている節もある。


 とはいえ、そんな周囲の評価や視線に惑わされることなく、フレッドPは黙々と素晴らしいハウス・ミュージックを我々に届けてくれる。それはもちろん本作でも同様だ。本作は3部作としてリリースされた「Codes And Metaphors 1」「Codes And Metaphors 2」「Codes And Metaphors 3」をまとめたコンパイル・アルバムだが、スピリチュアルなアンビエンスが漂う甘美な音像は多くの人に味わってほしいし、そのためにも比較的手に入りやすい本作をキッカケとするのも悪くはない。


 これまでフレッドPのことを熱心に追いかけてきた者は、繊細な音像と温もりのあるキックが心地よい「Melody Off Key」を気に入るかもしれないが、筆者としてはデトロイト・テクノに通じるシンセ・ワークをまとった「Tokyo Electric」、それから《Panorama Bar》的ディープ・ハウスにアシッド・ハウスを接続した「Be And Not Know」などに顕著な撹拌的感覚に注目したい。というのも、この撹拌的感覚に基づいたフレッドPの音楽性には、2010年代以降のインディー・ダンスの旗手としてライヴ・ハウスからダンス・フロアまで賑わせた《100% Silk》以降の流れがあり、さらには《Software》や《L.I.E.S.》あたりと類似する感性も見いだせるからだ。ネット以降に注目されたアーティストのほとんどが単一タグでは括れない溶解的サウンドを鳴らしているように、フレッドPもまた、あらゆる時代の音楽や文化にアクセスできる現在の恩恵を受けているアーティストなのだろう。そういった意味で本作は、"USハウスの良盤"といった狭隘な括りではなく、音楽の在り方と聴き方が大きく変化した現況に少なからず影響を受けたモダン・ミュージックとして幅広い層から支持されてもおかしくない。



(近藤真弥)




※1 : 『Structure』は《P-Vine》によって日本盤のみのリイシューがおこなわれている。

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環ROY『ラッキー』.jpg

《期待も 心配も 未来と言えたならば いますぐリライト》

(「Kids」)


 彼の近作を振り返ってみよう。2nd『Break Boy』は日本におけるヒップホップやそれを取り巻く状況への苛立ちを直接的に表明したが、それは私が以前レヴューで書いたように『島宇宙内部でのみ消費され、拡大することは無く、「一過性のエンターテイメント」として消費されることになってしまう』、一言でいえばテンプレートに陥ってしまっているという欠点を持っていた。続く前作『あっちとこっち』ではそういった直接的な表現は一切取り除かれ、ラブソングという形式を用いてヒップホップについて歌っていた。それは普遍的なフォルム(=ラブソング)によって包まれた穏やかなレジスタンスであり、『Break Boy』よりも力強く、また広がりを持って(それこそ「あっちとこっちに」)彼の日本のヒップホップへの思いが強く伝わってきた。


 そして、環ROYというアーティストの特異性は彼のアルバムだけ聴いていてはわからない。むしろ、彼の本質はアルバムの「外」にこそあると言える部分も少なからず存在する。そのため、彼のアルバム「外」での活躍についても少し記す必要があるだろう。これは環ROYの2013年のライヴ・スケジュールなのだが、コラボ相手の幅の広さには驚くばかりである。4月だけのラインナップを見ても、蓮沼執太、U-zhaan、戸高賢史(ART -SCHOOL、KAREN、Ropes)とコラボレーションをし、5月まで見ると世武裕子がいる。


 このような活動を知れば、彼が日本のヒップホップへの現状に苛立ちを覚えたくなる理由もわかる気がする。彼はあまりにも自由であり(そしてその自由さがヒップホップの本質であると彼は信じている)、だからこそ、いつしか作り上げられてしまった「日本のヒップホップ」という枠内の中で不自由さを感じていた(その感覚はおそらく今も続いているだろう)。


 では、彼にとっての4thアルバム『ラッキー』の内容に踏み込んでゆこう。


 まず、一聴して感じるのは、各楽曲のトラックメイキングの素晴らしさだろう。今作は、三浦康嗣、蓮沼執太、Himuro Yoshiteru、戸高賢史、ゴンドウトモヒコの5人がそれぞれトラックを提供している。そして、私見ではこのアルバムの骨格を形作っているトラックメイカーは三浦康嗣、Himuro Yoshiteru、ゴンドウトモヒコの3人と言える気がする。


 冒頭2曲「ワンダフル」、「Kids」、後半の「いまここ」を手がけている三浦康嗣のトラックは、瞬くように明滅する電子音、アップリフティングなシンセ、暖かく差し込まれる生楽器の音色、それらを包み込むストリングスなどが巧妙にエディットされており、このアルバムにおいて「ハレ」の雰囲気を醸し出している。「ハレ」と言っても、誰もが共有できる心が持ち上がるもの。今回、取材で彼は、頑張ってライト(軽く)してみた、だから、『ラッキー』というタイトルにした、と言っているが、今までになく、トラックメイキングの開かれ方と呼応してリリックも誰もに、響く言葉が選ばれているように思える。おそらく、街でふと流れていても、やわらかく言葉が心に引っ掛かるような、例えば、以下のようなリリックは平易に美しくも響く。


《話が出来なくても ここからは聴こえるよ だから話し続けよう 聴こえてるでしょ》

(「そうそうきょく」)


《離れた所から 眺めているならば みんな忘れてるさ だけど楽しくするんだ》

(「little thing」)


《この瞬間をきっかけにすれば 忘れてただけで思い出すと 変わらないもの 見えてくるの どこにいても思い出せるのならきっと あたりまえも光りだすよ》

(「電車」)


 シンプルなタイトルに優しい言葉、誰もがそれをどうとらえてもいいという意味で、『あっちとこっち』で書いた"ポジティヴィティー"という概念がより突き詰められている。しかし、それは楽観や無邪気な明るさではなく、どうしてもシリアスに、また、共犯言語内でムラ化してしまう中で音楽が交換されてしまう瀬に、あくまで衒いのない感情をのせること。だから、恋愛を巡る曲や苦悩や不安も示す曲や音像もあり、例えば、「台風」、「VIEWER」を手がけているHimuro Yoshiteruは三浦とは逆に、「ケ」のサウンド・メイキングを担っている。鈍く、ずるずると進んでゆくようなチップチューンを思わせる電子音や不穏さをわずかに帯びたレイヤー。


《昨日別れ際に君は泣いていた なかった事にできれば楽なのにな》

(「台風」)


 これだけ多様なトラックメイカーやミュージシャンが各トラックを手がけているにも関わらず、これほどまでに一体感を感じさせるヒップホップ・アルバムも無いだろう。それぞれの個性が反映されながらも、トラックメイカー全員が申し合わせたかのように、エレクトロニカを基調とした端正な、そしてトラックを提供してきたことには驚きを感じるし、今、環ROYのラップを乗せたいトラックということについて各トラックメイカーがある種の統一的な見解を示しているということも非常に興味深い。上のように「ハレ」と「ケ」で提示した見方は多少図式的に見えるかもしれないが、アルバム全編を通してある種のストーリーを感じたとすればこのような構成が存在しているからだろうし、しっかりとした「流れ」のある作品になっていることがよくわかる。ここまでコンセプチュアルなフォルムをまとったヒップホップのアルバムというのもなかなか見当たらないのではないか。


《気付けばいつのまにか 夜が来て次の朝が来ちゃう だから怖がらないで 用意をして次の朝を歌う》

(「いいやつ」)


 この極めて優しいアルバムを前にどういう感情を持てばいいのだろう。いや、「優しいアルバム」などという言葉に抵抗感を覚える方もいるかもしれない。私も「優しい」などという使いどころが難しい、繊細な形容詞を音楽に対して使用することは基本的にはしないようにしているつもりだが、このアルバムに対しては思わずその言葉を使いたくなる。そしてこの「優しさ」がこのアルバムの本質であり、現在の環ROYの表現の核に位置するものなのだろう。


 今作において、『あっちとこっち』から彼のその姿勢はまったくブレを見せず、それどころかより完成度を上げて、そして、静かにその歩幅を、街を歩き往く人たちに合わせてきた。このアルバムのラストナンバー「YES」は前作からの彼のテーマ(と私が考えている)"ポジティヴィティ"についての彼なりの一つの答えだ。


《なにげに鏡をみたら なぜか自分ではなくて 君であることにある日気が付いた 不思議だけど幻じゃないよ すがたかたち何もかも違うけど そこにいたのは僕だった》


 僕はここまで美しい日本語ラップのリリックを読んだことが無い。心からそう思えるほど「YES」のリリックは比類なき輝きを放っている。今、あえてでも強がりでもなく、このような素晴らしいリリックで「YES」とラップできるミュージシャンは環ROYだけだろうし、それは日本だけに限った話ではないだろう。日本語ラップに「NO」を突きつけ、常にシーンの外に居続けた男がたどりついた言葉が「YES」だったというのはなんとも感動的だ。きっと彼はヒップホップの枠組みを震わせながら、これからも様々な形で「YES」を歌い続けるのだろうし、そうあって欲しいと心から思う。慎ましげで、優しく、それでいて力強いこの傑作が、日本のヒップホップの土壌で生まれたことが嬉しくてたまらない。


《はじめましてそしてさようなら 涙がこぼれ光がこぼれる それからのYES》



(八木皓平)

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CZECHO NO REPUBLIC「Festival」(.jpg

 奇縁は結実するということか、今年2月の《Hostess Club Weekender》で来日したヴァンパイア・ウィークエンドと、彼らのエッセンスを継承しているバンドとしては日本でも屈指だろうチェコ・ノー・リパブリックの対談が「成立」したということはエポックだったと思う。


 ヴァンパイア・ウィークエンドは3rdアルバムとなる新作にて、アメリカン・トラディショナルへの近接を示しながらも、過去に孕んでいたトーキング・ヘッズからアフリカン・ポリリズム、多文化次元主義を嚥下したうえで、オルタナティヴが「真ん中」を射抜くことを示した。「ゲゼルシャフト(利益主義社会)」に対し、「ゲマインシャフト」という共同性を持ち込んだ不可思議な捻じれがそれでも、70年代後半のニューヨーク・パンクのように芸術・本質的価値を奪回しようとしていたことのエッジを立っていたとするならば、ロンドン・パンクが経済的与件や制約階級制と結びついていた輻射が、昨今の日本で、空元気的なムードとは、インフレ・ターゲット論や気分としての景況上昇予感と結い目を合わせるような気さえおぼえてしまう。


 2013年での風景の奥行きはまさしく視えなくても、シビアな戦時下に置かれているとはいえる。他地域の紛争、隣国圏域のアジア、アメリカ、さらには多くの要素因子が繋がりあったグローバリゼーション下で、孤島化しつつある日本という問題だけではなく、「第三の道」が模索出来なくなってきたという集合的無意識は後景に浮揚する。


 "権利<責任"、"排除<包括"、そして、競争を平等に付与するのではなく、機会を与えるということ。ゆえに、プライマル・スクリームが新作の『More Light』で叫んだ咆哮とはバレアリックでもエクストリームな自由主義でもないと思った。ひとりの人間が世に累積される多くの懸念や憂慮事に「OK」と言うにあたっての必要十分条件を、轍やキャリアを踏みしめ、おこなったともいえるからだ。


 まず、グループ組成型リゾームを伸ばしていけば、自ずとそこで「断絶」が生まれる。それを越境する大きな言葉はあるのだろうか、チェコ・ノー・リパブリックは昨年の作品「Ivory」でフォークロアに何かしらの希求を辿り、おだやかな祭祀性は、"森の中での密やかな契り"を思わせた。


 今年になり、既存メンバーの武井優心(ヴォーカル/ベース)、山崎正太郎(ドラム)、八木類(ギター/コーラス/ヴォーカル)に、紅一点のタカハシマイ(コーラス/シンセ/ギター/パーカッション)、砂川一黄(ギター)が正式に加入し、五人体制になってからの新しいリ・スタート、決意表明のようで、今の日本のシーンでは確実に浮くであろう「Festival」というシングルをリリースするのは決してジェット・ラグでもなく、これまでの彼らを知っている人にとっても、裏切られることのない内容になっていると思う。


 内容そのものは素晴らしかったフェニックスの新作でさえ、多くのリスナーをより訴求した上でも、噛み合いにくかったかもしれないこの時世にて、表題曲「Festival」はタイトルどおり、昨夏に野外フェスに参加した昂揚をソングライターの武井自身が俯瞰気味に、なおかつこれまでのサウンド・ボキャブラリーを圧縮したトイボックス・ポップに昇華している。「A-Punk」的にシンセの音色から疾走感まで、3分ほどの間に転調や微妙な歌詞のズレ、タカハシマイのコーラス・ワークまでが渾然一体となりつつ、深刻さを敢えてカラフルに避わしてゆく。《ほんのちょっと子供に戻ろう》《笑って輪になって僕ら踊ろうよ 大丈夫 アイラブユー 間違いなんてない》という全能的なフレーズを縫い、いつかのフラワー・ムーヴメント、ヒッピー・イズムの再定義さえも現代的に求めてきたバンドとしてはやはり、広大無辺な夢を見る。


《僕らまたきっとここで笑って会えるよ 大丈夫 さぁ帰ろう またね 夢を見たよ 宇宙の中》

(「Festival」)


 また、と、きっとに離反しての「大丈夫」と「夢を見ていたこと」。思えば、彼らは初めからどこかニヒリスティックで有り得ない概念に夢を見ては内省し続けてきた。森、虹、短い休暇、恐竜、伝統寓話、撹拌されたサイケデリックな時期のビートルズのように、ときにOK GOのPVのように、ニュー・エキセントリックからブルックリン・シーンの趨勢のなかでのノリと煌めきを同時にアップデイトして、翻訳したような様は独自の道を歩んでいるように見え、参照点の多さを指摘される向きもあったが、メンバーの変遷と着実なライヴ評価も経て、ワン・アンド・オンリーになっていることを感じる。


 昨年の「IVORY」にシークレット・トラックで入っていたタカハシマイがメイン・ボーカルを取る「ファインデイ」も今回、正式におさめられているが、「ペニー・レイン」をスキップするような極上のポップネスにコーディングされている。雨模様の日を拒む願望の主人公、美しい晴れを求める唄。でも、《嘘泣きの美しさ》とも示す。バランス的にこの3曲から溢れ出る軽やかさとユーフォリアはこれまで以上に鮮烈であり、ただ、「箱庭」の中での構造内でもがいている印象も受けるかもしれない。


 それはつまり、総ての五感を融かす壮大な何かがある訳ではなく、フェスのような場所でも基本は独りの集まりであることで、より大多数の現場の夢想と連結できる想像力を刺激している節があり、だから、「Festival」と「ファインデイ」に挟まれ、「1人のワルツ」という曲が浸透圧を保つ。カントリーのような晴れやかな曲調に「孤独」をなぞるリリックを武井があっけらかんと歌う。


《友達もいない 恋人もいない 勉強は嫌い 運動出来ない 何もない僕の横で今日も音だけ鳴ってた》

(「1人のワルツ」)


 音だけが鳴っていた、という場所からほんのわずか根源的な不安をひととき寝かせて、ハンドクラップとシンガロングを求めようとする姿勢とは、どうにもイロニカルだが、だからこそ、世に溢れる「絶対負」を反転せしめる。


 こんな荒業をできるバンドはなかなかいないが、曲が鳴りやんだ途端、また、すぐに「日常」に引き戻されるという意味でも、真っ当なハレとケの感覚を備えていると思う。過剰にも思えるコーラス・ワークと煌びやかなメロディー、アレンジメント、出会った瞬間に眩い光を醸される曲の多彩な表情。


《ごらん もともと傾いたワールドなんだ》

(「Festival」)


 傾いた道を昇るのも、くだるのも各々の責務なのだとは思う。均質化されてゆく価値観の細部へ希いを託そうとする、ここでの祭祀性は内在的な「孤」を掬い上げられる人も多くいるだろう。



(松浦達)

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 彼らはまだ高校生のときにファースト・アルバムをリリースしたからか、彼らの音楽のイノセントな部分にはまだ誰も触れられずにいる。つまり、社会との軋轢や、人間関係に起因するストレスを、この音楽から感じ取ることはできない。いまは自分が住んでいる世界と、ほかの誰かが住んでいる世界をつい混同しがちだが、もちろん、全員の見ている景色はまったく異なる。ましてや、今作のように1曲目から早速60年代のセピア色の(いまだから夢のようだと思える)世界を連想させる「3AM Spiritual」のような曲が飛び出してくれば、彼らがいま生きている世界とはどういうものなんだろう、という妄想をしないわけにはいかない。


 彼らのサード・アルバム『Soft Will』は、彼らが大人になる過程でハイになって、その向こう見ずな行動によって過去を台無しにしてしまう切なさみたいなものがよく表れている傑作だ。たとえば、「Only Natural」の重い低音のギターと、ふわふわと宙に浮かぶ光の欠片のようなキーボードの対比。ティーンならではの倦怠ではなく、ここには一人前になった青年の悲哀があるように思えるのだ。メロディーもすべて素晴らしい。変な言い方だけど、まるで"何十年も前に一世を風靡した人気ポップ・バンド"の盤を聴いているような気持ちにさせてくれる。このトリップ感が、ほかの凡庸なポップ・バンドにはない。


 僕は彼らのことを勝手にハンソンのようなバンドだと思っている。彼らの生きていく過程そのものがバンドのサウンドを決定づけるドラマであり、それが唯一、リアルなものだ。一際ポップで明るい「Varsity」で締めくくられる構成も素晴らしい。人生はそういう風であってほしい、というメンバーのささやかな願いが感じられる。



(長畑宏明)

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 パスピエのメジャー・ファースト・フル・アルバム『演出家出演』、これはかなり好きだ。正直、『ブンシンノジュツ』『わたし開花したわ』『ONOMIMONO』を聴いての印象は、しっかりとした音楽理論に基づいた良質なポップ・ソングを鳴らすバンドでしかなかったし、飛びぬけた特色がなかなか見えにくいバンドだと思っていた。言ってしまえば、何かしらの作業中に流すBGMとして愛聴はしていたものの、作業の手を止めさせ1対1で向きあわせる引力を感じることはなかった。


 しかし本作にはその引力がある。デビュー当初から顕著だった、匿名性とチラリズムを上手く活用したプロモーション同様、本作もまた、バンドが飛躍するための過程におけるひとつの基点として作られており、そこにはパスピエの綿密な計算を窺うことできる。


 「フィーバー」のMVで初めてメンバーの実写姿が披露され(顔は確認できないが、これも意図的に隠しているのだろう)、最新のアーティスト写真ではほぼ全身を明らかにするなど徐々にその露出度を高めているが、この流れと同期するかのように、本作はポップ・アルバムとしての高い音楽的彩度を獲得している


 これまでのパスピエは、チャクラ、プラスチックスといった80年代初めに活躍した日本のニュー・ウェイヴ・バンドの要素を、現在のJ-POPに通じる複雑なアレンジで纏ったような音楽を鳴らしていたが、本作ではその面白さを引き継ぎつつ、『Low-Life』期のニュー・オーダーのサウンドをアップデイトしたような「シネマ」、シンフォニアな展開が面白い「カーニバル」など、パスピエの幅広い音楽性を顕在化させた曲が多く収められている。


 アルバム全体としても、さまざまなジャンルを跨ぐフットワークの軽さを見せながら、勢いを殺すことなく曲が矢継ぎ早に展開され、あっという間に聴き終えてしまう。1度聴いたら忘れないキャッチーなメロディーは聴き手の心と耳に突き刺さり、なおかつ何度も聴きたくなる中毒性を携えている。曲自体の完成度も高く、それを多くの人たちに響かせることができるバンドの力量も素晴らしい。この力量が過去の作品と比べてよりわかりやすく出ているのは、ライヴで演奏することを意識したアレンジが多いのも関係している。それゆえ本作は、パスピエ史上もっともバントとしての姿が目に浮かぶ作品であり、そう思わせるだけのアグレッシヴさがある。


 また、そうした作品に聴き手をコミットさせる秀逸な歌詞も光っている。具体と抽象のはざまを上手く突いた言葉は余白を作りあげ、聴き手の想像力を活性化させる。チャクラの「いとほに」を思いださせる「△」のように、言葉のリズムで遊んだような歌詞もあるが、基本的には平易な言葉を巧みに組みあわせることで多彩な表情を演出している。


 そして、本作をiPodのシャッフル機能で聴いて思ったのが、本作は正しい曲順以外の曲順で聴いてもアルバムとして成立する流れを見いだせるということ。これはおそらく、それこそLCDサウンドシステムが「Losing My Edge」で歌ったように、YouTubeを介して音楽史のあらゆる時代にアクセスでき、その積み重ねによって聴き手のなかに"個人史としての音楽的文脈"が形成され、そこに依拠した聴き方が遍く広がった"今"をパスピエなりに意識した結果なのではないか? だからこそ、多くの聴き手を誘引するためにパスピエは、音による聴覚的刺激だけでなく、ヴィジュアル・イメージやアートワークといった視覚的刺激も活用しているように見える。もちろんこうした芸当は、誘引した先に"魅力的なポップ・ソング"というもっとも重要な核がなければ意味を成さないが、パスピエはその"魅力的なポップ・ソング"を作ることができる。


 とはいえ、本作において何よりも興味深いのは、大きな伸びしろが際立つ点だ。本作も十分に高い完成度を誇るが、それ以上にまだ明かしていない引きだしの多さに興奮させられる。『わたし開花したわ』『ONOMIMONO』『演出家出演』と、タイトルに回文を使いつづける遊び心はまだまだ発展していくはず。そうなれば、過去の膨大な量の音楽を参照する"データベース・ミュージック"が当たりまえとなり、点を繋げる編集能力に長けたバンドやアーティストが多く見られるようになった現在の奥深くに潜む普遍性、いわば点を繋げた"先"を炙りだせると思うのだが...。これからが本当に楽しみなバンドである。



(近藤真弥)