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Section 25 『Love & Hate』.jpg

 音楽、いや、この世にあるすべての"表現"に言えることだけど、世に解き放たれてすぐには理解されなくても、時を経て多くの人に注目され、崇められることはよくある。


 例えばヴェルヴェット・アンダーグラウンドがそうだし、あとはカルト的扱いだったジョイ・ディヴィジョンの名が、2000年代に入ってから音楽雑誌などで目にする機会が増えたり(そういえば、ポスト・パンク・リヴァイヴァルなんて現象もありましたね)。だからこそ、"表現"を"残す"という行為は尊いのかもしれない。


 もちろん、すぐさま広がっていく即効性の高い"表現"を生みだせる才能も素晴らしい。しかし、即効性はなくとも、自分のやりたいようにやった"表現"がまるで時限装置の如く後世で爆発するのも、"残す"という行為が持つ可能性であり、ロマンなのだ。


 そしてセクション25もまた、そのロマンに取り憑かれたバンドなんだと思う。当然バンドとしてはもっと売れたかったろうし、多くの人に聴いてもらいたいのだろうけど。だが、2004年にジェニー・キャシディー、2010年にはラリー・キャシディーを亡くしながらも、このふたりのあいだに生まれた娘であるべサニー・キャシディーをヴォーカルに迎え、今年2月には『Dark Light』という名の新作を発表するその執念とでも言おうか、必死にしがみつこうとする意地を感じてしまうのは気のせいだろうか?


 "金のためでしょ?"なんて思う人もいるだろう(まあ、それもあるでしょう)。それでも、90年代はほぼ音沙汰なしだったとはいえ、こうして長く活動しながら作品を発表しつづけることの大変さを考えたら、光を当てたくなるのが心情なのです。


 というわけで、本稿の主役『Love & Hate』に話を移します。もしかすると、いま"えっ?"と思った方もいるかもしれません。ええ、それもわかります。なぜなら本作は、筆者が生まれた年の88年にリリースされた4thアルバムなのですから。でも本作は、先頃リイシューされた最新盤。ジャケットには新しいデザインを採用し、リマスタリングも施されている。ボーナス・トラックには、バーナード・サムナー(ニュー・オーダー)とドナルド・ジョンソン(ア・サーテン・レイシオ)がプロデュースした「Crazy Wisdom」や、収録曲の別ミックスが収められている。


 肝心の内容は、驚くほど現在にしっくりくるサウンドが詰まっている。《100% Silk》や《L.I.E.S.》周辺のパレアリックな折衷感覚にコミットできる者なら、すぐにでも気に入るはずだ。デビュー当初は、ジョイ・ディヴィジョンよりも暗いと言われたダークなポスト・パンク・サウンドが印象的だったセクション25だが、ラリーとジェニーがセルフ・プロデュースを務めた本作では、抜けの良いあざやかなシンセ・ポップを鳴らしている。最近のバンドから例を挙げれば、キープ・シェリー・イン・アテネと近いかもしれない。ビート感覚は、ダブステップを通過したキープ・シェリー・イン・アテネと比べればさすがに時代を感じてしまうが、多彩な音楽的要素が入り乱れる作風は、見事なまでに"今"と共振している。


 なので、過去の作品だからと食わず嫌いせずに、まずは聴いてみてください。あらゆる要素を混在させた音楽が当たりまえとなった今、たまにはそうした現況の礎のひとつとなったバンドに触れてみるのも、大事だと思います。



(近藤真弥)



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PROUDLYPRESENTS.jpg

 一概にインドネシア音楽といっても、"邦楽"が幅広く包含するように、ケチャに代表される祭祀性を帯びたものばかりではなく、当たり前にロックも歌謡曲もジャンルを問わず、多くの数が入り混じっている。


 先ごろ、田中勝則氏の選曲のもとリリースされた『インドネシア音楽歴史物語』では、現地の音楽の歴史のみならず、レコード会社、プレス工場まで微に入り、細に入り解説が加えられていた素晴らしい内容だったが、1920年代から1960年代までの録音群を聴くだけでも、ラテン音楽からロックンロールまで多くの要素因が混在していき、逞しくなってゆくのが分かる。


 そもそも、世界で最初のポピュラー音楽が芽生えたのはカリブ、南アジア・東南アジアだといわれている。大航海時代におけるヴァスコ・ダ・ガマ率いるポルトガル船団はアフリカのみならず、インド、そして、インドネシアのジャワ島やマルク諸島へと巡った。目的は香辛料。その後を考えると、侵略やそういったものの爪痕のみではなく、文化的痕跡も散見されるが、ポルトガルがインドネシアの音楽と融和し生み出されたもののひとつにクロンチョンは欠かせない。


 ジャカルタの街を歩いていると、よくストリート・ミュージシャンたちに出会うことがある。フルート、ヴァイオリン、ギター、ベースを基本とした独特の節回しで歌われるクロンチョンは、いまだに風土にしっかり根付いており、たとえば、日本でも有名な「ブンガワン・ソロ」などを聴くと、ファドなどに通じる言葉にできない慕情が胸をよぎる。


 インドネシアは1万8110もの大小の島からなり、海が間をはさんでいる。そして、首都ジャカルタを擁するジャワ島に多くの人口が集まっているのもあるが、各島々に文化や慣習がしっかりと伝承もされている。それも何かの折に紹介できれば、と思うが、インドネシア内のロック・シーンではノアのようなスケール感とオリエンタルな叙情を持ったバンドが確実な存在感を示しながら、アンサ&セリガラみたく楽団的に今の姿勢としてフォルクローレを舞うもの、シティー・ミュージック的なセンスがウケているカルヴァン・ジェレミーなど、多様に洗練化された音楽が混在していて、非常に面白くもある。


 クラブ・シーンでは、"ファンコット"というもの体感した方もいると思う。ファンコットとは、00年代から盛り上がり始めたハウス・ミュージックにインドネシアのダンドゥットなどが合わさり、より機能的になっていったもので、今ではネット上にもポスト・ファンコット、あまりに多くの要素群を詰め込んでいるものもあり、具体的なジャンル名を指すのは難しくなっている。


 さて、今回紹介するのは、プラウドリー・プレゼンツ。2010年に結成された、スマトラ島はメダン出身の男性6人グループ。ファリド(ギター/ヴォーカル)、ザイン(ギター/ヴォーカル)、ジャック(キーボード)、ラマ(ベース)、フィノ(ギター)、ヨシュア(ドラム)の3ギター編成で、まだ20代前半ということもあり、演奏はラフで荒々しく、ガレージ・ロック的なところから、いかにもなハード・ロック的な音楽的語彙がある。90年代のヘルメット、ディジー・ミズ・リジー辺りのサウンドを想起する人もいるかもしれない。起伏のあるキャッチーなメロディーにドラマティックな展開。今、これだけ、衒いのないまっすぐなロックを敢えてやるバンドが出てくるというのが興味深く、しかも、日本でミックスとマスタリングが行なわれたという。


 本作はファースト・アルバムということで、自分たちが好きな音楽エッセンスを詰め込んだ、未知数のところもあるが、スタジオ盤ではどうも端整に思えた音像もライヴで聞くと、性急さと若さゆえの不安定さが味になっているところもうかがえた。そういった生々しさをパッケージングすることで、また新しい魅力が浮き出そうな気もする。なお、個人的には、シングル・カットされた「The Mighty Comes」のようなファストでパンキッシュなものに彼らの"今"が刻まれているように感じる。


 経済成長とともに、情報過多的ともいえる趨勢がインドネシアを覆うなか、ロックの持つ混種的な意味性も急進的にならざるを得ない状況がある。そんな兆候のひとつを示すバンドかもしれない。



(松浦達)

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PLASTIC GIRL IN CLOSET.jpg

 岩手県在住の3人組の4枚目。元々轟音ギター+美メロを男女ツイン・ヴォーカルで聴かせる彼らだけど、デビューから3年、当然、以前のままの彼らではない。今作は紅一点ベーシスト、須貝彩子をメイン・ヴォーカルに据えたガールズ・ポップ・アルバムに仕上がっており、ファーストの頃とは違い、良い意味で頭で計算しながら作っていることが分かる。


 瞬発力で曲を作ったり、偶然作った曲が名曲になったり、っていう初期衝動にはかなわないという思いもあるが、それに寄りかからず、冷静に慎重に作られたものはやはり、かっこいい。そして、キャッチーなメロディーへの純粋なこだわりは彼らの基本だと思うのだが、幸運というよりも必然。今作で発揮されているメロディー・メーカーとしての才能を聴けば、そう納得するほかない。


 普遍的な歌の強さ。その色褪せることのないメロディーの美しさにエレクトロの輝きをさらりと加え、打ち込みの要素を前に出したことで、今まで以上に洗練されたものになっている。シューゲイザー経由ポップ・ロック行き。先の長い、でも、輝かしいその道が、彼らの目にははっきりと見えているはずだ。



(粂田直子)

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印象派「Nietzsche」.JPG

 2011年に「HIGH VISION/ENDLESS SWIMMER」をリリースし、2012年は「SWAP」と、サウンドクラウドやバンドキャンプで矢継ぎ早に発表されることが当たりまえになりつつある現在にあって、何ともゆったりとしたペースで活動を続けている印象派。「SWAP」リリース後は、ハンサムケンヤが主催するイベント《RadioHandsome NIGHT !》に出演するなど、ライヴもいくつかこなしていたそうだが、作品の制作に関するニュースはほぼ皆無。らしいと言えばらしいが、そろそろ新たな作品を出してもいいんじゃない? と思っていたところに突如届けられたのが、印象派にとっては初の1stミニ・アルバム「Nietzsche」である。


 これまでも彼女たちは、確信犯的に聴き手の想像力を掻きたてるような姿勢を時折見せてきたが、今度は「Nietzsche(ニーチェ)」ときた。ニーチェといえば、哲学者として知られているのはもちろんのこと、随所にアフォリズムを使用するその文体も高い文学的価値を得ている。確かに本作の歌詞は散文的手法を巧みに取りいれたものが多いし、断続的に言葉が紡がれる「[Nietzsche's] HEAT BEAT」は、モラリストの要素も見え隠れする。


 「[Nietzsche's] HEAT BEAT」には聴き手の考察心をくすぐる小ネタも多くあり、例えば《ナイフとフォーク 豆腐店と峠超えのコラボレーション》という一節は、おそらく漫画『トリコ』と『頭文字D』のことではないか? "ナイフ"と"フォーク"は、『トリコ』の主人公トリコが持つ技の名前で、『頭文字D』の主人公である藤原拓海は、親が経営する藤原とうふ店で働きながら、峠を舞台にレースをする走り屋の青年。車つながりでいえば、同曲に登場する《ケン&メリー》は、日産スカイラインのCMに使われたBUZZの「ケンとメリー ~愛と風のように~」という曲を指している、かもしれない。《はっぱしようよ》なんてのも登場するが、筆者からするとどうしてもマリファナを想像してしまう。こうして考えてみると、本作に収められた「SWAP」以上に、「[Nietzsche's] HEAT BEAT」はストレートかつ毒のある曲だと思う。さらに「OUT」では、グーグルマップのルート検索で出た経路案内らしきものを早口で読みあげたりと、本作の歌詞は奔放な遊び心を発揮したものが多い


 サウンド的には、ザ・ラプチャーLCDサウンドシステムといった、いわゆる初期《DFA》を思わせるディスコ・パンクにニュー・レイヴ(懐かしいね!)、そこにジャーマン・エレクトロや80年代ニュー・ウェイヴをふりかけ、これらの要素をキャッチーにまとめるポップ・センスが光る。他にもラウドなギター・リフでグイグイ引っぱっていく「HIGH VISION [VersionB]」は、どことなくレッド・ツェッペリンの匂いを醸し出し、「OUT」のトランシーなサイケデリアはボアダムス『VISION CREATION NEWSUN』を想起させるなど、引きだしはたくさんありそう。


 90年代の音楽から影響を受けたサウンドが多く見られる現在において、2000年代前半の音楽的要素を素直に反映させているのは興味深い。もしかすると、2000年代の音楽も"過去"として参照されるものになりつつあるのだろうか? ウルトラデーモンの『Seapunk』もそうだが、本作もまた、過去/現在/未来が混沌とフラットに共立する"今"に通じるセンスを含んでいる。



(近藤真弥)


【編集部注】「Nietzsche」は6月19日リリース予定。

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These New Puritans『Field Of Reeds』.jpg

 今作を自然的変化というには過度とも思える。ジーズ・ニュー・ピューリタンズは、00年代後半のニュー・エキセントリックと括られたシーンの中でも、一際スタイリッシュにポスト・パンクを纏い、耽美的で英国的な翳りを持って鋭角的な存在感を兼ね揃えていた。ファッション、アート界からの称賛もあり、ややイメージ先行だったところもなきにしもあらずといえた08年のファースト『Beat Pyramid』から、自然音と伝承へ回帰し、深い森の中に帰るような10年のセカンド『Hidden』では、音楽メディアから賛美の声があがったのも記憶に新しい。


 不穏なコーラスにループ・エフェクト、更には和太鼓や金管、木管楽器などを取り入れ、BPMを落とし、より深遠なサウンド構築を優先したなかで、彼らは「We Want War」と歌ったが、視界を拡げる音風景に聴覚を刺激する本質的な差異が伴っていない、そんな印象も受けた。


 例えば、仏の哲学家、美術史家であるジョルジュ・ディディ=ユベルマンは数多くの著書のなかで「イメージ」を巡る数多の痕跡に対して、イメージの断片は全体性を安易に流通せしめてしまい、非=交換性を貶めることになってしまうと懸念を示している。


 つまり、イメージの可読行為が他リソース群との共振、差別化により、構成しないからであり、認識を阻害するのはときに想像力であるのかもしれず、彼らが『Hidden』で求めた(とされる)「戦争」はまさしく、現代の「それ」ではなく、想像内での疎外された異地を意味するとしたならば、当初から、ジーズ・ニュー・ピューリタンズというバンドは現代という時間感覚から錯誤した異端者である定めだったとも察せられる。


 ひとつのイメージですべてを切り取ろうとするのではなく、複数をモンタージュ化して、イメージさえも逸らす所作を選ぶこと。ゆえに、今作はチェンバー・ポップ的な曲やクワイワ風の曲が並び、ピアノとホーンが牽引してゆくアンビエンスが際立つ。カテドラル内での残響が似合うような、反復を軸にじわじわと重ねられるサウンド・レイヤーのなかに漂う木霊のような声の破片も含めて、時間芸術のような節もある。


 特筆するに、9分を超える4曲目の「V(Island Song)」ではポスト・クラシカル的にかつ、ジャック・バーネットのボーカルが幽玄に揺蕩い、ミニマルなリズムがヒプナゴジガルに怪しげな雰囲気を作り上げ、6曲目の「Organ Eternal」ではタイトル名どおり、オルガンの音色が主軸に置かれながら、子供の嬌声がふと混じってきたり、荘厳さと不気味さを往来する。9曲という単位ながら、53分ほどに渡る音絵巻は、全く違うバンドのものとして、もしくは映画のサウンド・トラックのように感じられるかもしれない。ボン・イヴェールことジャスティン・ヴァーノンが参加していたヴォルケーノ・クワイア辺りのカームな空気感を思わせながら、あの"声"がないこと、また、昨今のチルウェイヴ的な趨勢とリンクするには、そういった流れが確実に変わっていることからすると、この2013年という時間軸からは異端に浮く。


 興味深い内容だが、やや爛熟されたイメージと音像への意味目的そのものが想像過多になっているように感応してしまう。



(松浦達)



【編集部注】『Field Of Reeds』の国内盤は6月26日リリース予定。

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Mount Kimbie『Cold Spring Fault Less Youth』.jpg

 時の流れは本当に早いもので、ドミニク・メイカーとカイ・カンポスによるマウント・キンビーの名盤『Crooks & Lovers』が発表されてから3年近く経つ。3年前の彼らを語る際の捉え方としてもっとも多かったのは、"ブリアル以降のポスト・ダブステップを象徴するユニット"かもしれないが、だとすれば、"ポスト・ダブステップ"という枠組みにおける彼らのことを、異端的に見つめる者もいただろう。


 というのも、彼らはダブステップから離れた場所で音楽を生みだしていたし、そもそもポスト・ダブステップ自体が、音楽性が固定化していくダブステップとは距離をおいていた音楽、いわばダブステップの大波から逃れるためのシェルター的側面があった。ダブステップとポスト・ダブステップは、文脈的には繋がっていても、それぞれが持つベクトルは違うものだといえる。


 言ってしまえば、彼らはもちろんのこと、同じくブリアル以降の存在として注目を集めたジェームズ・ブレイクにとって、"ポスト・ダブステップ"というタグは、多くの人に誤解をあたえる"ありがた迷惑"だったのかもしれない。一要素としてダブステップを取りいれてはいたが、彼らやジェームズ・ブレイクの音楽は、決して"ダブステップそのもの"ではないからだ。事実、ジェームズ・ブレイクは最新作『Overgrown』にて、ベース・ミュージックの要素を減退させ、より"歌"を際立たせるサウンド・プロダクションに至っている。


 そしてマウント・キンビーもまた、本作『Cold Spring Fault Less Youth』において、"歌"を前面に押しだしている。『Crooks & Lovers』をリリースして以降、音楽フェスやライヴハウスで演奏する機会が多くなり、さらにはスタジオ中心の制作環境になったからだろう、本作は明らかにライヴという場を想定した音作りが目立つ。生音の割合が増え、彼らはヴォーカリストとしてその歌声を披露する。甘美なメロディーは、丁寧かつ繊細なアレンジを華麗に纏い、そのアレンジも、ここ最近のJ-POPばりにさまざまな試みがなされている。


 クラウトロック、アンビエント、ジャズ、ヒップホップなどを雑多に混在させた作風からは、彼らがもともと持っていたフットワークの軽さにさらなる磨きがかかっていることを窺わせる。それゆえ、いささか散漫な印象を抱いてしまうのは否めないが、これが音楽を生みだすモチベーションの高まりゆえの結果ならば、前進するための過渡期として受けいれられる。


 また、キング・クルールが参加した「You Took Your Time」「Meter, Pale, Tone」の2曲は、キング・クルールの渋みあふれる歌声を上手く音像に溶けこませるプロダクションの妙が光り、コラボレーションが最良な形で結実したことを知らしめる絶品ポップ・ソングに仕上がっている。3人でアルバム1枚を作ってほしいと思わせるくらいの出来で、この2曲のために本作を手に取るのもアリだと思う。



(近藤真弥)

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HOW TO DESTROY ANGELS『Welcome Oblivion』 校正.jpg

 ハウ・トゥー・デストロイ・エンジェルス(以下HTDA)はマリクイーン・マーンディグ、トレント・レズナー、アッティカス・ロス、ロブ・シェリダンによるバンド。トレント以外のメンバーの存在が見えにくかったナイン・インチ・ネイルズ(以下NIN)に比べ、女性ヴォーカルという個性がある。


 ちなみに今回カタログ番号が"Sigil 04"となっているが、"Sigil"とはHTDAの作品にだけ冠された記号で、NINの"Halo"と同等のバンド固有のナンバリング・クレジットになっている様子。それはこの名義である程度の数をリリースしようとしているとも取れるし、トレント・レズナー・アンド・アッティカス・ロス『The Girl With The Dragon Tattoo』でもマリクイーンが4曲ヴォーカルを取っているなど、HTDAが現在のメイン活動であることが窺え、女性ヴォーカルの作品を作りたいというトレントの意向が更に強くなっているのではと思わせる。


 デビューEPより更に暗く、迫り来る恐怖があるのもトレントの成せる業だと思う。アルバムは全体的にスロー・テンポだが、中盤の「How Long ?」では厚みのあるコーラスが新鮮だ。NINでは聴いたことのないポップ・ソングとしてのアプローチでもあり、『The Girl With The Dragon Tattoo』で披露したブライアン・フェリーのカヴァーなど過去のルーツに繋がっているように思える。そんな中でもジョイ・ディヴィジョン~ニュー・オーダーのベース・ラインに似ている節が出てくるのは、かねてから影響下にあることを公言していた彼らしいサウンドで、この曲は不協和音が並ぶなかでは唯一のきれいなコードである。


 否、きれいな、とは言っても美しいのとは少し違う。トレントの場合むしろ不穏な音の方がはるかに美しいわけで、逆にそれを一番感じさせたのは「Strings And Attractors」という曲の、サントラにもNINにもなかった不思議なコードだった。こうした新たな側面が見られるのは非常に嬉しいし、もちろん今までのトレント特有の乾いた不協和音の連続にも感動させられる。


 自分の中にあるものを吐き出す手段として激しい曲調でシャウトをしていたNINだが、今のトレントにそれは必要ないのだろう。荒ぶるギター・サウンドも当然ない。トレントがこれまで見せてきた凶暴性は、今はただ静かにゆっくりと浸食していく液体か何かのように感じられ、「Ice Age」という曲があるように、氷で覆われた世界さながらだ。だから敢えて言えば、ただスロー・テンポというだけでなく、そもそもNINで見せている激しさがない作品になっている。落ち着いているという意味ではなく、例えるならオウテカの作品に似た冷たさがある。


 マリクイーンは元々自由な表現をする人なのか、トレントがさせているのか、同じ女性が歌っているはずなのに曲によってその表情を大きく変える面白さがあり、女性ヴォーカルをプロデュースするかのように素材として考えている節も窺える。そしてメンバーであるロスがNIN後期作品を手がけているのに対し、ミキサーのアラン・モルダーは初期作品を手がけており、その2人が関わった結果、初期作品のドライなサウンドが色濃くなっているのは興味深いところ。ある意味では原点回帰しつつ、しかし同じものを作りたくないという意図的なものなのだろうか。そういったことも含め、まだこの先の可能性を秘めたプロジェクトだと言えよう。



(吉川裕里子)

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Daft Punk『Random Access Memories』.jpg

 「世代と言葉の壁を超えて人々の心に直接訴えかけるのは、音楽とアニメに共通する素晴らしい魅力だ」

(2ndアルバム『Discovery』のライナーノーツより引用)


 この言葉は、ダフト・パンクの大ヒット曲「One More Time」のMVを制作するにあたって、彼ら自身が残したものである。人によっては青臭さを感じるであろう、言ってしまえば、子供心を持った夢見がちな大人の言葉。だが彼らはこれまで、その夢で見たことを次々と実現させ、それを可能にする先見性と行動力があった。


 それがもっとも明確に表れているのは、2001年にリリースしたアルバム『Discovery』だろう。このアルバムは、トッド・エドワーズや先日他界したロマンソニーことアンソニー・ムーア、さらには松本零士などを巻きこみ、ハウス、ディスコ、メタル、AOR、ファンクを大胆に溶解させた、さながらポップ・ミュージックの一大絵巻といった様相を呈していた。


 驚くべきは、『Discovery』はリリース後も進化する作品であったということ。リリース当時もかなり話題になったが、『Discovery』にまつわる重要なコンセプトのひとつに、"Daft Club"というのがあった。"Daft Club"とは、リスナーのメール・アドレスと名前、そして『Discovery』に同封された"Daft Card"なるものに書かれた16桁の番号を"Daft Club"のサイトにアクセスし入力することで入れる、いわばインターネット上の遊び場みたいなもの。その遊び場では、ダフト・パンクの未発表曲といったコンテンツに触れることができ、今でいうフェイスブック的性質を持つコンセプトであった(そういえば『Discovery』には、「Face To Face」なんて曲も収められている)。


 その"Daft Club"が生まれた当時は、音楽データの圧縮技術が大きな注目を集めだし、ある程度未来を予見できる者からすれば、音楽の在り方が変化することで生じる問題を憂う状況にあったと、当時13歳だった筆者の記憶には残っている。とはいえ、そうした状況にあっても筆者は、ダフト・パンクの壮大な実験に心を躍らせていた。文字通り、「Why don't you play the game?(ゲームに参加しない?)」(※1)とダフト・パンクに誘われ、まんまと参加したわけだ。実際、インターネットの可能性を提示してみせた"Daft Club"には、とてもわくわくさせられた。


 一方で、その実験精神をプリミティヴに爆発させた2005年の『Human After All』は、不評で塗れるアルバムとなってしまった。今でこそ、ニュー・エレクトロの隆盛を先取った作品として評価されているが、リリース当初は酷評のほうが多かった。確かに、約8週間という短い期間で制作されたがゆえのパンキッシュなワン・アイディア勝負の作風と、「The Brainwasher」「Technologic」「Television Rules The Nation」に顕著な社会批評的側面は、『Discovery』からの流れをふまえればあまりに唐突過ぎたかもしれない。しかし、彼らがあそこまで反骨精神をあらわにするのは珍しいし、だからこそ『Human After All』を愛聴していたのだけど・・・どうやら世間様は違ったみたい。


 何はともあれダフト・パンクは、自身の実験精神と好奇心に従いながら活動してきた。ライヴ・アルバム『Alive 2007』に結実するツアーや、映画『Tron : Legacy』の音楽を担当したときも同様だ。その結果、彼らは常に何かしらの新たな視点や価値観を提供してくれる、いわば開拓者としての側面が色濃くなっていった。


 そんな彼らが完成させた、『Human After All』以来約8年ぶりとなる本作『Random Access Memories』は、その開拓者としての側面は影を潜めている。もちろん、ほとんどの曲で生演奏が大々的に導入されたのは、彼らにとっては新たな試みだ。ファレル・ウィリアムズ、アニマル・コレクティヴのパンダ・ベア、ザ・ストロークスのジュリアン・カサブランカスといった現代のスターたちを揃えながら、ジョルジオ・モロダーとナイル・ロジャースというリヴィング・レジェンドも招きいれる大胆さは、挑戦的と言っていい。


 だが、肝心のサウンドはというと、これまでの彼らが生みだしてきた作品群と比較すれば、自身の音楽的嗜好に忠実なサウンドである。ジョルジオ・モロダーが参加した「Giorgio By Moroder」におけるプログレッシヴ・ロックな展開など、実験的試みもいくつか散見されるが、基本的にはオーセンティックなディスコが全編に渡ってフィーチャーされ、そこに彼らが共に愛聴する70年代ソウルやモータウン・ミュージックを随所に挟みこむような形だ。


 先行シングルの「Get Lucky」がそうだったように、奇を衒うトリッキーなエフェクト使いやイコライジングは少なくなり、親しみやすいメロディーと生演奏によるオーガニックな響きが強調されているのも特徴的。言ってしまえば、本作における彼らはまっすぐなポップ・ソングを作ることに腐心している。しかもそれは、"良い曲は揃っているが派手さはない佳作"と言われかねない作品を生みだしてしまうリスクを孕む姿勢だ。事実、本作には『Homework』の初期衝動も、『Discovery』の華やかさも、『Human After All』の鋭利なインパクトも存在しない。


 とはいえ、その内容だけを見て本作の評価を決めてしまうのは、あまりにも拙速ではないだろうか? 本作のもっとも重要な点は、ロボットになってまで、テクノロジーの発展とシンクロする形で自身の頭の中にあるヴィジョンを現実化してきた彼らが、初めて開拓意識を脇に追いやり、時代の空気に沿うコンセプトを掲げているということだ。


 アルバム・タイトルの『Random Access Memories』、これはコンピューターに使われるメモリの一種"RAM(Random Access Memory)"の複数形だが、このタイトルは、そのRAMの機能と類似するかのように、ネットを通してさまざまな時代/文化にアクセスでき、そこから知識やデータを得られる現在を分かりやすく示唆している。これだけでも容易に示唆を感じとれるが、"世代的に幅広い参加アーティスト群"というトピックを付けくわえることで、彼らはその示唆をことさら誇示しているようにも見える。


 だとすれば、本作を作りあげるうえで彼らが至った心情も、なんとなく想像できる。おそらく彼らは、音楽の在り方が変化している"今"の大部分を肯定している。もっと言えば、その"今"こそが、KISSのポスター、地球儀、ラジオに囲まれた部屋(そう、『Homework』の中ジャケットで見られるあの部屋だ)で見ていた風景なのだ。しかし同時に、その風景が具現化しつつある現実を見て、一種の哀しみ、戸惑いを抱いているようにも感じる。


 これまでの彼らは、ソニー・エリクソンのCMに「hello」と登場し、iPod/iTunesのCMでは「Technologic」が使用されるなど、テクノロジーの発展と拡大に多少なりとも寄与してきた。だがその結果彼らは、自分たちの"感情"をすり減らしてきたのではないか? あくまで自身の音楽的ルーツと嗜好に従う本作を聴いているとそう思えるし、だからこそ、本作における"ダフト・パンクとテクノロジー"という関係が、現実世界の"人間とテクノロジー"を表すメタファーとして浮かびあがってくる。


 テクノロジーの発展により、日常を過ごすうえでの利便性は向上し、コミュニケーションも容易くなったのは間違いない。例えば、クラブやライヴハウスでツイッターのタイムラインと向きあいながら音楽を楽しむ光景は、もはや当たりまえであり、そのことで新たな繋がりが生まれ、コミュニケーションの幅も広がったのは事実である。


 だがそんな状況を彼らは、素直に楽しむことができないのだろう。本作が従来のホーム・スタジオではなく、いくつかの本格的なレコーディング・スタジオを使用して制作されたこと、それから「Get Lucky」の歌詞で描かれた、生身の人間同士がパーティーで出会い惹かれあう様子などから察するに、彼らは現代には"肉体性"が足りないと考え、その"肉体性"を本作に収められた音楽で取りもどそうとしているのかもしれない。だからこそ彼らは、オープニングに「Give Life Back To Music」を選び、この曲に哀愁混じりのノスタルジーをヴォコーダー・ヴォイスと共に仮託した。


 正直、今の時代に生まれて心の底から良かったと思える筆者からすれば、彼らのノスタルジーはいささか頑固に見えてしまうが、ロボットになってから初めて窺わせる彼らの人間臭さは、そんな筆者を惹きつけるのに十分な説得力がある。


 ダフト・パンクを名乗る2体のロボットは、抗えない喪失の哀しみを思いだすよう促している。



(近藤真弥)



※1 : 『Discovery』に収録された「Digital Love」の歌詞より引用。

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吉田ヨウヘイgroup.jpg

 私たちは、あらゆる万物に名前を付けて、わかりやすく理解できるものに変化させている。子どもの頃は感覚で捉えていた物事にも、ちゃんと名称があることを成長とともに理解し、まるでパズルのピースをはめるかのように感覚と言葉を合致させてゆく。


 けれども、大人になってからも言葉では説明しがたいものだってある。言葉では説明できないというか、その状況を表すであろう言葉がたくさんありすぎて、どの言葉がしっくりくるのかわからない。"雨"という漢字をひとつとっても、五月に降る雨を"五月雨"といい、夏の夕方に短く降る雨を"夕立"というように、日本人の感性は情緒豊かであるゆえに、はっきりとしない四季の狭間で揺れ動く天気だったり、心の奥底にある実体の見えないうごめく感情だったり、そういう曖昧なものはいつだって言葉にできない。ただ、そういうものはだいたいニュアンスで感じ取っていたり、本能で理解していたりする。


 吉田ヨウヘイgroupは、「ユーレイ」の歌詞にある一節、《静かにすれば感じられるだろ 少し張り詰めた辺りの気配を 椅子が軋む音、微かに増えた湿気 もう少しかな、声は出さないで》を聴くとわかるのだけど、そういう"言葉に出来ないもの"を柔らかい歌い口で丁寧に歌っている。


 ここで指す"言葉にできないもの"というのは、不幸な状況に陥った時に神様を信じるとか、友達から好かれているという見えない信頼とか、将来良いことがあるように祈るなどといった、一種の"信仰心"を「ユーレイ」に例えて歌っているのではないだろうか。


 柔らかい歌い口と先述したが、《大きな借金を背負ってないのとかも》といった、なんだこれは? と、考えさせられる面白い歌詞が所々にあり、さらにはダーティー・プロジェクターズを彷彿させる華やかな女性コーラスに、pre-schoolの再来かと感じさせるキレッキレのギター。そして、タイトル『From Now On(これから)』の由来となった、工藤礼子と工藤冬里のデュオ・アルバムのような、すっと沁み入る歌声に優しく寄り添うピアノ。ポップスとジャズが融合された吉田ヨウヘイgroupのサウンドは、音源もいいのだけど、まもなく開催される企画ライヴで是非体感してほしい。これからの活躍が非常に楽しみだ。



(立原亜矢子)

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 DJという存在は、編集的手法を駆使することで、新たな解釈や文脈をあたえる創造者である。過去の音楽にまとわりついた価値観を塗りかえ、聴き手の固定観念や先入観を取り払い、新しい視点を示してくれる。


 もちろん、その場だけの雰囲気を作りあげることもDJの役割だし、立派な創造的行為だ。しかし、常に音楽の可能性を追求しているDJは、雰囲気を作りあげつつ、実験精神に基づいたチャレンジングな姿勢を忘れない。踊り狂う人々の予想を、期待を、感性を良い意味で裏切り続けながら、次々と曲をスピンしていく。こうした駆け引き上手なDJによるミックスは、プレイに身を委ねる心地よさを生みだしながらも、聴いていてヒリヒリとする先鋭性を突きだしてくる。これは文字通り、スリルに満ちた"飴と鞭"といったところだが、これがDJプレイを楽しむ際の醍醐味だし、だからこそ、マジカルな空間を求め、今でもパーティーに足を運びつづける。


 レディオ・スレイヴことマット・エドワーズは、そんなマジカルな空間を作りだせるDJであり、同時に数多くのオリジナル・トラックを生みだすことで、テック・ハウス・シーンを牽引してきた。さらにジョエル・マーティンとのクワイエット・ヴィレッジでは、レゲエ、ソフト・ロック、AORといったさまざまな音楽をサンプリングし、チルなサイケデリアを醸しだしていたりと、その豊富な音楽的引きだしは多くの人に認められているが、それはマットの最新ミックスCD『Balance 023』でも堪能できる。


 本作はダンサブルなCD1と、ディープかつチルアウトなCD2の2枚組となっているが、特に聴いてほしいのはCD2だ。初っ端から坂本龍一「Only Love Can Conquer Hate」が聞こえてくるCD2は、ヴィンセント・I・ワトソン「Hidden Behind The Eyes」、ポルティコ・クァルテット「Laker Boo」などの新しめなトラックがある一方で、ハービー・ハンコック「Nobu」、フレンチ・ディスコ・クラシックのリンダ・ロウ「All The Night」といったオールド・スクール・トラックを織りまぜることで、あらゆる時代を奔放に行き来するマットの横断性が際立っている。ジャンル的にもダウンテンポ、ハウス、ヒップホップ、ディスコ、ジャズなどを巧みに溶解させ、それゆえ生じる甘美なアトモスフィアで聴き手を包んでくれる。


 また、DJとしてのテクニックが光るCD1と比べ、CD2は選曲のセンスがより剥きだしになっているのも素晴らしい。ビートを繋げていくのがCD1だとしたら、曲が持つ空気を馴染ませながら紡いでいくのがCD2とでも言おうか、その紡がれ方があまりに流麗なもんだから、適温の海に身を投げだしたような陶酔感に襲われる。


 そして、本作を必聴の域に押しあげている重要な要素が、マットの音楽に対する寛容な姿勢だ。この姿勢は、それぞれ異なる背景を持つ者たちが、ひとつのフロアに集まり踊るというクラブ・カルチャーの懐の深さを聴き手に見せてくれる。もちろん人には好き嫌いがあり、すべての人を受けいれろと言われても無理なのは承知。しかし、せめて自分とは違う他者の存在を認め、そのうえで共存していくことはできるかもしれない。強引に他者と交流させる必要はないが、いつでも他者と交流できる環境はあってもいいのではないか? そうした考えをクラブ・カルチャーは一側面として孕んでいるが、そんな一側面をマット・エドワーズは本作において表現しているように聞こえる。そういった意味で本作は、クラブ・カルチャーが持つ最良な部分を教えてくれる作品だと言える。



(近藤真弥)