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 ネット上でまとめサイトが増えたのもあり、個々人の凄まじいツイート的な感想や情念のようなものさえ、ツリー状に束ね上げられているのを見ると、中りもするものの、基本、衣食住、健康、そして、「性」を巡る周囲での当たり前と思える要因が、人気が高く見受けられる


 そんな中、女子会、女性は強くなった、メス化する社会などと多くの言葉も往来しながら、なぜかそういった際に私は、パスクァーレ・フェスタ・カンパーレが監督した、1967年のイタリア映画『女性上位時代』を想い出す。


 その映画内容の女性「上位」というのは旧弊的な縦割のマチズモ的な男性社会の縛りの中で自由を手に入れ、性的/社会地位的上位性を獲得するという「含み」を持ったもので、そこで「隠匿」されていたのは、"フェミニズムの波"ではなく、おそらく、カトリーヌ・スパークを通して可視化できた幻像なのかもしれず、社会的性をジェンダーと置き、また、生物的性をそのままでセックスと置換し、そこの結び目をどうするのか、という討議はこの2013年でも曖昧になってくるサブテクストが表出する。


 さめざめ、こと主体の笛田さおりの表現はポップながらも少し直截的であるがゆえに、多くの誤謬も批判も同調も巻き起こしながら、こういった一億総評論家的に、ネット、SNSで繋がってしまう趨勢で、何らかのスラングで語られてしまう磁場があったのも否めなかった。


 メロディーからアレンジメントは、とても歌謡的で古き良きJ-POP文法に沿った、遍く郊外型書店でも有線放送でも耐久可能な響きを持った拓かれ方を持っている。また、彼女自身の声もメジャー・デビューというのと無関係ではないかもしれないが、それにしても、先ごろ4月だったか、深夜に、京都市内の寂れた古書店に、ふと日々の疲弊と紛れ込んだときに流れてきた「愛とか夢とか恋とかSEXとか」は、反則のように心の機微を攫ったのを想い出す、とても、デッドエンドな情景。


《愛とか夢とか恋とかSEXとか 嘘とかずるとか頑張る意味とか もういやだ もう疲れた もう誰も信じない 愛とは夢とは恋とはSEXとは あたしにとってなんだろう》

(「愛とか夢とか恋とかSEXとか」)


 とても、大きな、誤解を生みかねない言葉が切々と響きながら、店内に明らかに倦怠を持て余したような上下ジャージの女の子や居場所を探しあぐねているような少年が居たりするのは道理で、自身はさめざめが「性」に向き合い、そこで倦怠を誠実に記すことに「生」を感じもした。


 このたび、『さめざめ問題集』という過去の曲群などをコンパイルした名刺的ベスト・アルバムがメジャーからリリースされるにあたり、より多くの人たちに、さめざめの存在は伝わることになるのか、ならないのか、また、彼女はメディアで子宮頸がんを告白するなど混乱した状況が既にある(筆者注:子宮頸がんに関しては早期発見であり、手術も無事に終えているとのこと)。


 「コンドームをつけないこの勇気を愛してよ」「ズボンのチャック」などのタイトル自体が何らかの好/悪を既に分けてしまいそうだが、笛田自身がさめざめを巡るフレーズに対してインタビュー形式で意味を応える配信用の付録「さめざめ単語帳」では、至極真っ当で誠実な感性が垣間伺える。


 「愛とか夢とか恋とかSEXとか」は、渋谷駅の東横線の乗り換え改札口を渡ったときのいちゃつく安物ドラマを"している"カップルに舌打ちをしながらも、満員電車内で「自分はこのままでいいのだろうか」という嫉妬、被害妄想、孤独、自省が結実した上で、曲になると言っており、いわゆる、避妊具ながら、最近はドラッグ・ストアやコンビニでも簡易に並んでしまっているコンドームというものに関して、"大人になった日常"の延長線上にあるようなものだという言及をする。また、旧来的な言葉、ズボンのチャックにしても、秘匿の前に立つ精神的禁忌性の快楽に置き換えるようなニュアンスを含む。


 亡き澁澤龍彦は、今や認知も為され、名が残った学者・作家だが、彼はサドをアカデミックに取り上げると、アカデミズムからは村八分を受けた。『悪徳の栄え』にしてもそうなのだろうが、なにかしら、日常にもっともらしく明るく埋め込まれているスローガンどおり、世が廻ることはあったのならば、非常に退屈なものになってしまうだろう。ジョルジュ・バタイユを主にして「エロティシズムの社会化」という意味がサドを経由し、はかられたこともあった。


 例えば、サドは『悪徳の栄え』内で、「悪徳こそ人間に固有なもの、それにくらべれば、美徳は利己主義のファルスのようなものだ」なんてことを記している。エゴ、本能と社会性の拮抗は、つねに不自由に制約条件だけを仮定している。日曜日の昼間から新婚の方が出てくる長寿TV番組では、朗らかに「性」が語られるが、つまり、ヒトという生物の因業とはそんな高度化・抽象化したところで、プリミティヴに反転し、それを窃視的に各々が「耳打ちし合う」ことは際立っている。


 後次にて付加される"社会的な性"、と、そこを内側から再定義、蹴破る生々しい性的衝動。それが少しの弾みでは、犯罪が絡むようなことになるのかもしれず、永遠に解決しないような煩わしささえも用意するとしても、さめざめは「みんなおバカさん」という曲で、自身の執着心や孤独に振り回されながら、逆切れのようなテンションで、攻撃性でみんなに対して"おバカさん"と言う。


 但し、「バカばっか」と伝えるがしかし、伝わらないのは、「そういうあなたがバカでしょう」っていうループが郵便性を帯びてくるからだ。


 敷衍するに、「あなたがバカだと思います。」という伝達を、宛先を指定して送ったとしても、届かない。もし届いていたとしても、開封前に漂流してしまうという不完全な構造がいびつに現前する。その構造内で、ただし、誤配的に、宛先じゃない複数的な「幽霊」へ向かってしまう可能性が出てきてしまうのは常ゆえに、だから、さめざめが多少、露骨で直截的な言葉で性的な表象をしても、メタではなく、ベタ認知で「イタさ」を嗤う人たちが居るのだろう。


 さめざめは、とても「真っ当」で「生真面目すぎる」と想ってしまう自身の感性もある。何気なく、ファッション・ホテルに無機的に枕元に置かれている避妊具、ポップ・アップの形式で、広告で浮かんでくる婚活の名の下の綺麗な方々、また、真面目そうな男性の方々、年収や条件の書かれたもの、街を歩いていると、同じ時間に、同じ場所で出会うなんとなく綺麗な女性の方、そして、"I Will Die For You..." 思うに、恋人を喪うことが世界の破局を迎えるかもしれないといういつかの"セカイ系"という概念は、今は少しいびつな文脈が置換され、双方に悲劇の登場人物であるかのような結末をときに過程として備えること。


 「あたしがいなくなれば」という曲では「自己」の喪失、全否定、嘆きをディプレッシヴに突き詰める。身体、心、言葉、あなたという他者を経て、再び「孤」に還らざるを得ない人間の業といいましょうか、そこで、ただ、「ふざけるなよ」という叫びが堰を切ったように発せられるのはひとつのクライマックスだろう。


《ふざけるなよ》


 それは、いつかには通じ合っていたかもしれない「幽霊」への手紙だとしたら、もしかしたら、彼女が投函した手紙の宛先は指定されていなかったのだろうか。同性同士の嫉妬や悪意を晒し、軽やかに語呂も合わせて歌うような曲でも、情念は迸りながら、着地点は切なく残響する。


《あたしがいなくなって あなたは哀しむかな やっと あたしのこと 愛してくれるかな あたしは馬鹿だよ 信じていたんだよ》

(「あたしがいなくなれば」)


 「不在たる性」へ向けた、絶対的で一方的な信頼。女々しいという言葉が死語になりつつある瀬にて、「あたし」はあなたであり、私なのかもしれず、女性ではない主語なのかしれないディレンマ。


 悪徳は、健康的なもっともらしい倫理を剥ぐために機能するのか、ただ、剥がれたあとも「仮面」があるのが今という複層的な時代にて、多重に「ポーズ」が装われてしまう中で、何が真実か、事実かさえも藪の中に掠れる。


 "さめざめ"というネーミングもだから、如何にもと思ってしまい、孤独を誤魔化しがちな今において、「問題集」を提示する姿勢はとても果敢な錯綜という気がする。「生」とは「性」や「業」が絡み合いながら、なんらかの虚しい夜があけたときに、朝が来て、またなにも変わらず残り香だけが、漂流させてしまう。


 この一歩目はまだ、多くの先人たちの「性」から「生」の間を縫う翻訳作業の途中過程に過ぎない。



(松浦達)

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 こいつは凄い。最初の音が鳴った瞬間、興奮と緊張が入りまじった不思議な感覚に襲われる。これがおそらく、よく言われる"ヤバイ"というものなんだろうけど、ジューク/フットワーク・シーンの重要人物RPブーのアルバム『Legacy』は、その"ヤバイ"匂いを発している。


 RPブーは、フットワーク・スタイルを明確に固めたトラック「Baby Come On」を生みだし、「Off Da Hook」といったアンセムも残すなど、トラックスマンと比肩する絶大なリスペクトを集めるレジェンド、みたいな背景を押さえたうえで本作を手に取るのも悪くはない。


 しかし本作には、ジューク/フットワークについて何も知らない者が聴いたとしても、シンコペーションを多用したリズムとヴォイス・サンプリングによって生じる奇怪なグルーヴに触れるだけで、聴き手を虜にする魔力がある。言ってしまえば本作は、ジューク/フットワーク云々というところからとてつもなく飛躍した狂気的かつ未知なビートを宿し、そんなビートを平然と鳴らしてみせるRPブーはマジ狂ってる。


 筆者からすると、3分以上のジューク/フットワーク・トラックは長すぎると感じることもあるが、RPブーは尺など関係なくトラックに十分な破壊力を宿し、さらにはクラウトロックに通じる反復の美学も難なく取りこんでしまう。全曲合計約65分の本作に収められたトラックはすべて3分を超えているが、それでも退屈することなくあっという間に聴き終えてしまうのは、音の抜き差しによって曲を組みたてるミニマル・テクノ的手法で、ラフな質感のサウンドを上手く扱っているからだ。その結果、『Strange Weather, Isn't It ?』以降の!!!が強く打ちだす粘着質な酩酊感と類似するグルーヴを獲得している。


 この方法論を如実に反映させたのが、3曲目の「Red Hot」。最初は少ない音数で進行していくこのトラックは、1分10秒あたりからクラップが入ると、そのテンションが徐々に沸点へと向かっていく。そして、1分50秒を過ぎたころに鳴らされるホーン・サンプリングがキッカケとなり怒濤の展開になだれ込んでいくのだが、それゆえ生じるダイナミズムが荒々しくもあり、同時にディープな色気を漂わせているのだから、素晴らしいとしかいいようがない。こうしたトラックを多数収めた本作がリリースされてしまった今、この先も生まれるであろう数多くのジューク/フットワーク・トラックは、とてつもなく高いハードルと比べられることになるのかもしれない。


 そういった意味で、RPブーはまたひとつ、世界中のトラックメイカーに厄介な挑戦状を突きつけたと言える。



(近藤真弥)


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 以前にレヴューを書いたDSTVVに関わる《Teen Witch Fan Club》や、ウルトラデーモンを中心とするシーパンクなど、ネット以降における新たな文化創造とコミュニティー形成のプロセスを経た表現は本当に面白い。これらの動きは、様々な文化を渡り歩く軽やかさと全能感を携え加速しているし、「もはや自分が孤立した個人であるとは感じなくなり、自らが、急速に統合するグローバル・ネットワーク、すなわちめざめたグローバル・ブレインの神経細胞の一部であることを知る」(※1)状況をもたらしている。青臭いことを言えば、すでに革命は起きていて、あとはそれに気づいたうえで行動すればいいんじゃないかとすら思える。おそらく、ニューヨークのバンドであるアナマナグチも、そうした状況を愉快犯的に楽しんでいるのではないだろうか?


 アナマナグチは、海外版ファミコンのNESやゲームボーイを駆使した音楽性が特徴で、いわゆる8ビット/チップ・チューン・サウンドを鳴らす4人組バンドである、というと、ニッチな層に好まれるバントと思うかもしれないが、いやいや、彼らのサウンドには実に数多くの音楽的要素が混在している。ロックを基調としながらも、EDM、エモ、さらに「Japan Air」ではJ-POPを大胆に取りいれるなど、あらゆる音楽にアクセス可能となった"今"の恩恵をフル活用した爽快さを纏っている。さらに彼らのメロディー・センスには、聴く人を選ばない親しみやすさがある。


 しかし何より面白いのは、彼らのオタク的側面が爆発した曲名群。「Endless Fantasy」というRPGのタイトルみたいなものもあれば、ネット上で行われている音楽フェスの名称である「SPF 420」。大友克洋原作のアニメから引用したであろう「Akira」。たぶん"暴走族"の「Bosozoku GF」。さらには顔文字を掲げた「(T-T)b」もある。こうした感性は初期のハドーケン!に通じるものだが、アナマナグチはそこからさらに飛躍した過剰さを持っている。真面目な話、これが現在(いま)なんだと思う。



(近藤真弥)




※1 : ピーター・ラッセル著『グローバル・ブレイン』の第5章「進化する現代社会」130頁より引用。

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 2013年初頭、1月下旬に突如、ザ・ポスタル・サーヴィスが活動を再開することを発表した。オフィシャル・ホームページは当初こそ、「THE POSTAL SERVICE 2013」とデカデカとロゴと2013年とだけが表記されていたが、すぐに展開が始まり、公式に活動再開をアナウンスすると同時に、米コーチェラや西プリマヴェーラ・サウンドなどの大型フェスに出演すること、米国中をまわるツアーに出ることもアナウンスした。それだけでなく、彼らが2003年に、唯一残していたオリジナル・アルバム『Give Up』の10周年記念盤をリリースすることも発表すると、にわかに、ポスタル・サーヴィス周辺は騒がしくなっていった。


 10周年記念盤として、改めてリリースされた『Give Up』はオリジナル・ヴァージョンの10曲に加えて、新曲2曲、これまで2003年から2005年にかけてリリースされていた「Such Great Heights」「The District Sleeps Alone Tonight」「We Will Become Silhouettes」という3枚のシングルのB面曲、スタイロフォームなどのアーティストによるリミックス、ベン・ギバードによる「Recycled Air」の弾き語りヴァージョン、ザ・シンズとアイアン&ワインという《SUB POP》レーベルでの盟友のカヴァーを収録している。10周年記念盤と言えど、リミックス曲やザ・シンズ、アイアン&ワインによるカヴァーも実はそれぞれB面曲としてシングルに収録されていたので、実質的な未発表のテイクは少ないものの、これからポスタル・サーヴィスを聴き始める入門リスナーにとっては良い入り口として機能するだろうし、今までおよそ10年間、ポスタル・サーヴィスを愛聴してきたリスナーにとっても新曲は聴き逃せないだろう。何より、ポスタル・サーヴィスの、復刻版と言えど10年振りにリリースされるアルバムは1人のファンとしても嬉しいものだ。


 この、ディンテルことジミー・タンボレロの打ち出す、あどけなく無邪気な電子音とベンの紡ぐ美メロ、そして美声に彩られた『Give Up』は、ムック誌『Cookie Scene Essential Guide POP&ALTERNATIVE '00s 21世紀ロックへの招待』でも書かせていただいたとおり間違いなく、インディー・ロック×エレクトロニカ=インディートロニカの金字塔的作品の一つであるのだから。


 往時のポスタル・サーヴィスのインタビューで、ベンは「(ポスタル・サーヴィスとしてのリリックは(当時の)デス・キャブ・フォー・キューティーのものと比べて)よりプライベートにそっている」と答えていた。なるほど、たしかにオリジナル・アルバムを改めて聴き返しても、「The District Sleeps Alone Tonight」などは、ベンの当時のガールフレンドがワシントンD.C.に移ったことを受けて書かれていたり、「This Place Is A Prison」などの歌詞はカスケード山脈やピュージェット湾などシアトルの地名が出てきたりして、より彼のプライベートの景色から紡がれた言葉がのせられていることが伝わってくる。


 そこで、デス・キャブ・フォー・キューティーとして彼が一昨年にリリースした現時点での最新のオリジナル・アルバム『Codes&Keys』を考えてみると良いかも知れない。『Codes&Keys』も、また(『Cookie Scene Essential Guide POP&ALTERNATIVE 2011 21世紀ロックの爆発』に書かせていただいたように)時に、深淵を覗き込んでいるかのようなサウンドに合わせて、それまでよりもいっそう、ベンのプライベートの心境によった歌詞が綴られていた。そこで新曲として収録された「Turn Around」および「A Tattered Line Of String」を聴いてみると、その『Codes&Keys』を通過した後の、2003年のそれよりも圧倒的に深く厚いサウンドとともに、美メロで口ずさまれるベンの歌詞は、イノセンスを保ちきれなかったことを示しているかのようで面白い。


 昨今の彼のプライベートで最も大きな出来事と言えば、シー&ヒムとしても活動している女優、ゾーイー・デシャネルとの別居、そして離婚が挙げられる。もちろん、それが彼の曲に影響を与えたと断ずるのは早計にすぎるが、一つのコンセプトとして、よりプライベートの心境によった歌詞を綴ることを挙げていたポスタル・サーヴィスでの活動において、それが何らかの形で表れているのではないかと考えてしまうのも事実ではある。それゆえに、無邪気なポップセンスの上で跳ね回るエレクトロニカのエッセンスはそのまま、より厚くなった音の数とベンのヴォーカルに彩られる新曲2曲はそれほど意外ではないものと言えるだろう。


 また、収録されたB面曲、ザ・フレーミング・リップスのカヴァー「Suddenly Everything Has Changed」などは、(シングル「The District Sleeps Alone Tonight」に収録されたオリジナル・ヴァージョンとは)イントロの入りが違う別テイクのものが採用されており、こちらも、オリジナル・ヴァージョンよりも出だしから、奥深い憂愁の中を探索するかのようなアレンジになっていることも微小な差異ではあるが注目したい。


 そして、未発表として収録された、「Recycled Air」のベンによる弾き語りヴァージョンは、シアトルの名ラジオ局、KEXPにて収録されたものである。多くの地元アーティスト、例えば、ザ・ポウジーズなどが『Blood/Candy』の新曲を当初、披露していたのもKEXPであり、サーファー・ブラッドなどの地方のインディー・ロック・バンドがシアトルに来た時はスタジオ・ライブも敢行されるKEXPにおいて、改めて、ポスタル・サーヴィスの曲がプレイされたのは感慨深い(なお、僕は2010年にシアトルの名門ヴェニュー、クロコダイル・カフェにて行われたベンのソロの弾き語りライヴでデス・キャブ・フォー・キューティーの曲と同時に、ポスタル・サーヴィスの曲を聴くことに恵まれていた。ただし、その際はデス・キャブ・フォー・キューティーとしてのニュー・リリースを控えていたこともあってか、ポスタル・サーヴィスが活動を再開するという素振りはほぼ一切見られなかったと言って良かった)。


 ポスタル・サーヴィスはおよそ10年の時を経て、戻ってきた。10周年記念盤としてリリースされた『Give Up』はこれまでの彼らの総決算であると同時に、収録された新曲も含め「今の」ベンの心境が表出しているように感じる。それは、たしかに、10年前の彼らのような弾けるポップ・センスよりも「深い」ものになってはいるが、ベンがイノセンスを讃えた電子音を再び身にまとうことで、より吐き出せるようになった結果とも取れるのではないだろうか。



(青野圭祐)

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 正直、ジェニー・ベス(ヴォーカル)、ジェマ・トンプソン(ギター)、エイス・ハッサン(ベース)、フェイ・ミルトン(ドラム)による女性4人組バンド、サヴェージズが日本で受けいれられるのかわからない。


 ザ・キュアーやデペッシュ・モードなど、サヴェージズのようにダークな雰囲気を醸しだすバンドが日本でも評価されている例はあるものの、いま挙げたバンドたちのサウンドではなく、ルックスだけを引用したバンドが日本では多く見られるからだ。そこから派生し発展した、いわゆるV系と呼ばれるバンドのなかにも好きなバンドはいるし、ファッション面でいえばゴスロリなども、嫌いではない。


 だが不思議と日本では、ニュー・ウェイヴに出自を持つダークなバンドがなかなかウケない。先程のデペッシュ・モードにしても、欧米ではスタジアム・クラスのバンドとして認知されているが、日本ではマニアックなバンドという印象を持たれている。だからこそ、サヴェージズが日本の音楽ファンに親しまれるのか心配になってしまうのです。だって彼女たちの音、すげえカッコいいんだもの。


 イギリス出身のせいなのか、彼女たちを語るうえで引きあいに出されることが多いのはジョイ・ディヴィジョンである。その気持ちもわからなくはない。エイスが単一のベース・ラインをひたすら弾きたおし、そこに乾いた音を鳴らすフェイのドラムが交わることで生まれるトランシーなグルーヴは、ジョイ・ディヴィジョンを想起させるものだ。しかし、激しく鳴らされるジェマのノイジーなギターは、抑制美を抱かせるジョイ・ディヴィジョンのギター・サウンドとは似ても似つかない音だし、呪術的かつ情念的なジェニーのヴォーカルも、よく言われるようにスージー・スーを思い出させる。彼女たちに"女版ジョイ・ディヴィジョン"のレッテルを貼る者は、デビュー・アルバム『Silence Yourself』に潜む高い音楽的彩度を見逃しているのだろう。


 とはいえ、ここまで書いてきたことから、彼女たちは70年代末~80年代前半当時のポスト・パンクをそのまま演っているのではないか? そう思う人もいるかもしれない。だがそれは違う。確かに彼女たちの音楽には、先述のジョイ・ディヴィジョンをはじめ、バウハウス、マガジン、スージー・アンド・ザ・バンシーズといったバンドの要素がちらついている。しかし、これらのバンドから現在においても通用する要素を抽出し、それを混ぜあわせ血肉とする感性はモダンなものだと言える。


 さらに本作のサウンドに注意深く耳を傾けると、ガレージ・ロックやサイコビリーの要素も紛れこんでいるのがわかる。この点も、彼女たちがポスト・パンクだけに影響を受けているバンドではないことの証左となっている。


 このような音楽を生みだすセンスは、強いて挙げればザ・ホラーズのセンスと類似している。そう考えると、次作ではがらりと音楽性を変えた作品を提示してくるかもしれないし、本作を聴くかぎり、それを可能にする引きだしも数多く持っている。トレンドに擦りもしないサウンドを提示してくるあたりも、ジェニーのカリスマ性と相まって異端的存在感を聴き手に抱かせる。


 また、ジャケットのアートワークで使われている文章にも注目してもらいたい。「Shut Up」のMVの冒頭でもスポークン・ワーズとして披露されているこの文章からは、「服従は沈黙です。服従は答えてくれません。服従は抑制された状態です」(※1)という言葉を残したアーシュラ・K・ル=グウィンに通じる力強さがある。


 彼女たちがル=グウィンと同様にフェミニストであるかは不明だが、ジェニーの男性的なルックス(初めて見たときは男だと勘違いしてしまいました)は、女性的な感覚の中にある男性的な部分を発露し、それが結果として、どちらにも属さない中性的かつ孤高のアイデンティティーに結実した迫力を発している。


 なので、"こういう音なら昔◯◯がやっていたよね"みたいなことを言いだしそうな干からびたおじさんおばさんなんか無視して、順調に活動を続けてほしいと願うばかりでございます。



(近藤真弥)



※1 : アーシュラ・K・ル=グウィン著『世界の果てでダンス』収録「ブリン・モー大学卒業講演」より引用。

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 『RV8』と略されているものの、"Rhythm-Variations"の8パターンを収めた作品といえば如何にもだが、彼は2009年に《Raster-Noton》から「Rn-Rhythm-Variations」を出している。そこでは、リズムとグルーヴの多要素性を詰めようとする意欲があったが、今回のアルバムで個人的に想起したのは、例えばリッチー・ホウティンの『DE9』のような、リズムが静かに位相を揺らし、グルーヴを生み、電子音だけだと単調に思えてしまう内的な音風景がじわじわと変わってゆく心地良さだった。


 安易にフロア・コンシャスというにはヘッド・ミュージックというところもあり、ただ、ヘッド・ミュージックとしてはビートの微積分的な刻みは鼓動を打ち抜き、簡潔で素っ気ないイメージもある。なおかつ、マスタリングが砂原良徳ということで、粒だった電子音のひとつひとつが"音としての政治性"さえ孕む。ミックスCD的ながらも、ミニマリズムとテクノイズを縫合する様は耳に、そして、身体性に響く。


 AOKI takamasaは今や、日本を越えて世界中で高く評価されている。高木正勝とのユニットSILICOMや、作曲者としての多彩さ、ライヴ・パフォーマンス、坂本龍一からサカナクションのリミックスまでをも手掛け、彼そのものの記名性を軽やかに刻印するなど、何処かで彼の名前を見たことがある人もいるだろうと察する。


 オリジナル・マテリアルとしては『Private Party』から4年以上、リミックス集の『Fractalized』からも3年ほどの歳月が流れているが、ただ、レコード・ショップでもIDM、現代音楽、アヴァン・ポップ、ときにポスト・クラシカルの棚に彼の名前はずっと見受けられ、国外問わず各地でのライヴ、DJ活動も盛んだったからだろうか、不在感は感じないものの、"待望の"という冠詞は相応しいと思う。


 世界水準の才人としてのポジションを保持しながら、04年のパリ、08年のベルリン移住、2011年には帰国し、大阪をベースに日本というフィールドに対象化の視点を00年代において貫きながらも、安易なグローバリズムや、昨今の"グローカル"とは安直に与しない姿勢と、写真家としてのアクティヴな側面は言語や文化を越境し、原基としてのマルチチュードを体現しているかのようでもあった。


 こうして書いてゆくと、ストイックで気難しそうな藝術家体質のイメージを受けるかもしれないが、ライヴやDJの現場にいたことがある方ならば、フレンドリーで開かれた雰囲気を感じた、そんな印象をより強化せしめるかもしれない。


 日本のインタビューにおける気さくな大阪弁もそうだが、彼本人のマルチカルチャリスティックで既定の柵から自由なさまは、軸は大阪という、カウンター・カルチャーが根差しやすくも、併せ、それぞれのユニティを作りやすい場所での暗黙の横断知を弁えている気がする。例えば、シンガポールやパリなどの都市での人種のメルティング・ポットの中心部で沸き立つ生命力や熱気、エントロピーを感じられるように、大阪という都市も、アンダーグラウンド・シーンの充実もそうだが、総体エネルギー量と怜悧な批評眼と、独特の気概が程よく張りつめているところがある。


 さて、『RV8』が抜けの良さを感じさせるのは、海外に住んでの日本のフロア、クラブにおけるルールの堅牢さと、礼儀正しさをしっかり見据えているからこその自由を提示しようとしているからだと思う。近年の風営法、公権力の規制の問題も含め、日本におけるクラブ・シーンはよりカジュアルになっているのか、といえばそうではない事例もあり、ゆえに、その分だけ、「一瞬」をシェアできる刹那的な昂揚や現場主義の礼讃の向きもある。


 彼はヴァーチャルではなく、その一夜の解放感を『Private Party』のときよりも音そのもので示そうとしている。刹那に、鳴っている音で踊る楽しさ、その楽しさが生み出すつながり。


 ネット越しのコミュニケ―ションや交流もいいものの、名も知れぬ/知らぬ者同士がダイレクトにひとつの場で、身体知や息吹を交わし、リズムに各自が体を揺らせ、ビートに躍動し、グルーヴに飲み込まれる、そんなひと時に添い、柔らかに酔わせるべく、本作は8つだけのパターンに決して限らずに、凝り固まった決まりごとだらけの空間を自在に音で解きほぐす気がする。そこには、畏まった共底言語はおそらく、要らないとも思う。



(松浦達)

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 現在、USでこうしてポピュラー性とオルタナティヴのふたつの引き裂かれた要素を折衷させた訴求力を兼ね揃えているSSWもなかなかいないような気がする。フォーク・リヴァイヴァルの機運が確かにあるにしても、このアイアン・アンド・ワインの約2年振りとなる新作『Ghost On Ghost』の風通しと見晴らしは良好だが、決して華々しく賑やかなものではないからだ。サム・ビームの声は相変わらず澄みわたり、ふとしたときに初期のジョン・メイヤーを思わせるほど甘く心地良く、そして、ほのかな苦味もキャリアを重ねてきたからこそ、だろうか、感じられる。


 今作には、ストリングスとホーンのアレンジャーとしてロブ・バーガー、プロデューサーにはブリイアン・デック(モデスト・マウスなど)が参加している。加えて、ボブ・ディラン・バンドのベーシストとして名を馳せるトニー・ガルニエも脇を支え、細部にまで行き届いたアレンジメント、着想の妙が通底している。


 もしかすると、今作からアイアン・アンド・ワインを知るという方もいると察するので、簡単な説明を加えておきたい。


 アイアン・アンド・ワインとは、USのサム・ビームという一人の男性のステージング・ネームであり、プロジェクト的なものではなく、基本、SSWとしての性質を帯びる。キャリアは10年を越え、今作でオリジナル・アルバムとしては5枚目を重ねてきたのもあり、中堅の域に達してきたが、アメリカン・トラディショナル・ミュージックからMPB、レゲエ、多くの国の音楽を摂取したメロディー・メイカーとしての手腕は世界的な評価も高く、キャレキシコとのコラボレーション作品を出すなど、USインディー・シーンでは、フリート・フォクシーズやバンド・オブ・ホーセズ、ザ・ディセンバリスツなどと名前が並べられもする、孤高にして不思議な立ち位置にいる存在といえる。


 しかし、当初の《Sub Pop》から、USでは《Warner》、それ以外の地域では《4AD》へとレーベルを移籍してからは、よりソフトにポップに、拓かれた要素が前景化しているせいか、元来のUSにおける50年代の終わりから60年代にかけて盛り上がったフォーク・ソングの在り方そのものを再考せしめる内容になっているとも感得できる。当時に於けるロックとは、大学など無関係な中層以下といえるだろうか、庶民たる若者の音楽、フォークはカレッジ・カルチャー、若いインテリ層により、二分化していたという状況があった。しかし、かのボブ・ディランは中産階級層が喝采を与えていたフォーク・ソングにエレキを持ち込み、その溝が錯転、無化さえしてしまったことは周知だろうか。ウィリー・メイソンの新作の際も少し書いたが、今、多くの国や場所で散見されるフォーク・リヴァイヴァルとは、ルーツと伝統音楽への測位をはかりつつ、そういった伝統が持つ歴史の過重力からときに遠心性を持つことがままある。時間軸を曲げた、現代的な語彙に置き換える移行の捻じれ。


 ゆえに、このアルバムでは、要所でバーバンク的要素がうかがえ、冒頭の「Caught In The Briars」ではメロディーそのものの美しさの裏側に、かなり自在で実験的にホーンや色んな音色が鳴っており、最後はジャジーに崩れたりもする。あたかも、かのレニー・ワロンカーの影を踏むように、キャラバンやアソシエーションなどの幻想的でノスタルジックな断片がクラシカルなフレーズとともに見え隠れするように。


 そして、他の曲群でも、ジェームス・テイラーを彷彿させる端整な唄から、まるで、シー・アンド・ケイクのような変則的リズムが映えた、ポスト・ロック、哀愁を帯びたリリカルな面にはエリオット・スミス、ジェフ・バックリィなどのSSWとしての資質が多彩に反射しては耀く。他者を想うことの大切さ、恋や愛的な何かをめぐったシンプルなリリックも含めて、全編を通じ、尖りや暗さよりも陽だまりの中での暖かさ、彼自身の人柄が音に顕れたといえる優しさに満ちているのも特徴的だろう。


 思えば、日本ではまだそこまでの規模とはいえないが、ここ近年で世界的にブレイクしたバンドの筆頭格、マムフォード・アンド・サンズは伝統音楽やルーツ・ミュージックを掘り下げながらも、現在進行形の躍動として届けることで「みんなのうた」にしてみせたが、アイアン・アンド・ワインは異なる文脈から、世の縁近くで、音楽になにかしらの切実な意味を求める人たち、ひとりひとりに歌いかけるような道を往く。


 おそらく、そうして口ずさまれる唄はおのずと多くの人たちを巻き込み、いずれ、誰かの唄になってゆくのではないだろうか。そもそも、みんな、なんて言葉には自家撞着がある。同じ歌を聴いていても、同じ感情になることなど有り得ないからだ。だから、サミュエル・ビームはそれぞれにとっての"喜び(Joy)"を求めてゆくんだよ、と美しく小さな声で歌い、旋律を水面に落とされた石が示す波紋のように広げてゆく。


 聴く人たちの日々の傍らに寄り添う、何気ない宝物のような作品なのではないか、と思う。今後の一層の活躍を期待せしめるには十二分な内容になっている。



(松浦達)

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 ナイジェリアで生まれ、レバノンで育った女性DJ/プロデューサーのニコル・モウダバー。これまでにも彼女は、「Let Go」「Hair」といったフロア・ヒットを連発し、カール・コックスやテクネイジアのミックスにも取りあげられるなど、売れっ子と呼ばれるにふさわしい評価と人気を得ている。


 それでも、イビサ系のコンピレーション・アルバムにピックアップされることもあるせいか、玄人なダンス・ミュージック・ファンにはいまいち浸透していない印象を受ける。


 確かに、分かりやすいメリハリをつけた展開でアゲていく手法は、ディープにハマりたいタイプの人にはピンと来ないかもしれない。しかし、《Drumcode》からリリースされたファースト・アルバム『Believe』は、玄人な方々からも支持されるのではないでしょうか?


 トリッキーな仕掛けや派手な音色はほとんどないが、ひとつの音を鳴らすタイミングや丁寧なイコライジングなど、細かい部分で曲に起伏をあたえるテクニックは、トラックメイカーとしての確かな実力を示している。また、全体的にダビーでクールな音像を創出しているのも特徴的で、ファンクションとレジスによるサンドウェル・ディストリクト、ほどではないが、ダンス・ミュージックが持つドラッギーな部分を上手く抽出し、ダークなアトモスフィアを醸しだしている。ジャケットのアートワークも含め、とても完成度が高いアルバムだと思う。



(近藤真弥)

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 このアルバムのプロダクションやソングライティングのセンスの良さは僕が言うまでもないが、個人的には一人の女性とのラブ・ストーリーを題材に一枚のアルバムを作る、というコンセプトをいま実践することに強く共感した。まるで失恋したときに起こるフラッシュバックのように、同じフレーズがアルバムのなかで何回も聴こえてくるところや、あるいは喜怒哀楽をそのままあらわにしたようなアルバムの流れは、クラシックだが、近年稀にみる素晴らしい表現方法だ。


 聴きこむたびに新たな発見があり、ついつい無理やりな妄想(このフレーズはこういう意味なんじゃないか、のように)を働かせるのが楽しくて仕方ない。たとえば、映画『エターナル・サンシャイン』が、シーンの細部に目を凝らせば、それらのほとんどが何かのメタファーになっているように、このアルバムは一人の女性と深く恋に落ち、まるで自分たちの短編映画が出来上がっていくような過程をサウンドで表現している。


 今作は、クリストファーがバンドを脱退した理由がそのまま強い原動力となって制作されたアルバムでもある。彼はバンドにあるべき奇跡的な化学反応を最後までガールズに感じることができなかった。端から見れば、大傑作ばかりリリースしていたガールズというバンドは、実はかなり脆い構造になってしまっていた。クリストファーとチェット以外は一時的にバンドに参加していただけだし、それはそれでサウンドフリークのクリストファーにとっては理想的、というか必要な環境ではあったと思うけれど、一方で感情を排したような作業に彼は心底うんざりしていた。だから、彼はよりパーソナルに、シンプルに、音を研ぎ澄ませて、ガールズの頃とはまったく異なる趣のアルバムをリリースした。


 もしかしたらガールズに心酔していたファンの半分くらいは、聴かないアルバムなのかもしれない。クリストファー自身もあるインタビューのなかで、「誰もこのアルバムに注目していない」みたいな話をしていたけれど、ここまで自意識のなかに深く入り込んでストーリーを作り上げたからこそ、リスナーが心に抱えるあらゆる体験に響く作品となった気がする。つまり、そのストーリーが鮮明で具体的になればなるほど、今作を聴いたリスナーの想像力の翼は大きくなる。


 ちなみに、このアルバムにはアコースティック・ヴァージョンが存在する(オフィシャル・サイトで無料ダウンロードできます)。いかにこのアルバムに収録された楽曲が名曲ばかりか、胸が痛くなるほどよく分かる。



(長畑宏明)

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 ここ最近"シティー・ポップ"と呼ばれる音楽が多くのリスナーを惹きつけている。筆者も惹きつけられたひとりだが、レヴューをした作品で愛聴しているのは、cero『My Lost City』カナタトクラス「クウシュの夢」シャムキャッツ『たからじま』などなど。とはいえ、これらの音楽を"シティー・ポップ"の一言で括ってもいいのだろうか?


 というのも、これまでのシティー・ポップと呼ばれていた音楽のほとんどは、都会的かつ煌めいた風景を描き、ある種の幻想を聴き手に抱かせるものだと思うから。しかし、現在のシティー・ポップと呼ばれている音楽は、都会に憧れ、無邪気に幻想を抱くだけではない。


 例えば、"ベッドタウン・ポップ"を自称する失敗しない生き方の音楽は、その自称が示すように、綺麗に整備されただだっ広い道路に囲まれたショッピング・モールがポツンとある、都会でも田舎でもない、電車にそこそこ長い時間座っていれば賑やかな繁華街に行けるような場所を想起させる。言ってしまえば、失敗しない生き方の音楽には都会に対する憧れや幻想はなく、むしろ憧れや幻想を客観的に捉え、それゆえ生じる微妙な距離感をポップ・ソングに昇華している。


 失敗しない生き方は極端な例だとしても、2010年代に生まれたシティー・ポップと呼ばれる音楽のほとんどは、多少なりとも微妙な距離感を孕んでいるように聞こえる。これはおそらく、価値観が多様になり、また、ネット以降の現在、自分の嗜好に沿った音楽を簡単に見つけることができるようになったからだろう。なにも、コミットできない"僕たち私たちの音楽"を求める必要なんてない。いまや世界中に隠れていた音楽が可視化され、"僕の私の音楽"を容易く手に入れることができる。


 こうした状況に対し、"僕たち私たちの音楽"のもとに集まり共有することで得られる興奮に慣れきった者は、戸惑いを抱くのだろう。だが面白いことに今、価値観が多様になり、"僕の私の音楽"を手に入れられるという"現在"に多くの人が集いつつあるし、そこに集う者たちは自分にはない価値観に触れ、面白がっているようにも見える。もしかするとそれは、みんなでひとつの楽しみを共有することから得られる連帯感ではなく、それこそ、「全員が一人の女性を愛すことがないように、全員が同じ思想を持つことは、嘘なのである」(※1)と考える者が増えている現況がもたらした、新たな繋がり方、共有の方法なのかもしれない。


 もっと言えば、こうした新たな繋がり方や共有の方法が目指しているのは、都会も田舎も関係ない、ましてや出自や思想も関係なく人々が触れあえる風景ではないか? サウンドクラウドやYouTubeに日々アップされている小さい歌声(七尾旅人ではないが、それこそ『リトルメロディ』)が瞬く間に広がっていき、その過程を誰もが目撃者として追える現状にジャストなタイミングで投下された本作『Subterraneans V.A.』を聴いていると、そう思えてくる。


 本作は、これまでにも『Soon V.A.』『Upwards And Onwards V.A.』といった話題のコンピレーション・アルバムをリリースしてきたレーベル《ano(t)raks》の最新コンピである。参加アーティストは収録曲順に、マンタ・レイ・バレエ、失敗しない生き方、にげたひつじ、Friendly Spoon、Layla、Ayuzaki Ami、鎌倉克行(so nice)、Basil、森は生きている、so niceの計10組。すでに名が知られているアーティストから、これから多くの人に聴かれるであろうアーティストまで、ヴァラエティー豊かなラインナップとなっている(ちなみにso niceは1975年結成の大ベテラン! アルバム『Love』は名盤です)。


 そして本作は、《ano(t)raks》のコンピ史上もっともコンセプチュアルな作品だと言える。まずはジャケット。いまや娯楽としての需要が高いとは言えないボウリング場と、ジージャンを着て座る美人さんがフィーチャーされている。メイクなどから察するに、この美人さんはモダンな女性だと思うが、ジージャンは労働用上着としてのルーツまで遡れば80年以上の歴史があり、ボウリング場は1970年代の第一次ボウリング・ブームをふまえれば、日本の昭和を想起させる(ボウリング自体の歴史は紀元前にまで遡れる)。いわば、さまざまな時代の文化にアクセスできるようになった"今"をスタイリッシュに暗喩したデザインとなっている。


 収録曲が多様性に富んでいるのも、本作のコンセプチュアルな一面を際立たせる。『Soon V.A.』『Upwards And Onwards V.A.』は比較的統一された雰囲気があったものの、本作は、森は生きているの「帰り道 dub mix」にはじまり、ジャジーなラウンジ・ポップに仕上がっている失敗しない生き方 の「月と南極」、さらにはBaBeといった80年代末のアイドル・ソングを思わせる(小川美潮を擁したチャクラ的なニュー・ウェイヴっぽさもある)Laylaの「パラレル」など、彩度が高い内容となっている。


 本作に収められた曲はどれも秀逸だが、筆者の私的好みで言えば、Laylaの「パラレル」が心にズッパシきた。先述した曲調はもちろんのこと、それ以上に筆者の心を打ちぬいたのは、歌詞に登場する以下の一節。


 《きっと幻なんだけど どうせ僕らも同じもの こんな世界は手のひらで Uh 転がそう》


 この一節は、SNSで手軽に人と繋がれる現状に諸手を挙げて同調しない醒めた視点がありながらも、そのうえで"今"を肯定する複雑な気持ちを見事に表現している。ネットが介在しない文化なんてほぼありえなくなった時代のアンセムとして響きわたってもおかしくない。



(近藤真弥)




【編集部注】『Subterraneans V.A.』は《ano(t)raks》のバンドキャンプからダウンロードできます。


 ※1 : 早川義夫著『ラブ・ゼネレーション』の増補版「あとがき」より引用。