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ビビオ―.jpg

 文化人類学の用語に、ハイコンテクスト/ローコンテクストという二分律がある。前者は、社会的に何らかのコンテクストがシェアされることで、文化や意味が発現する「間合い」、「空気感」とでも言おうか。


 別に、"平和"と言わなくても、平和概念が遍く共有されている場合のコンテクストは上位設定されているのも道理で、後者になってくると、前提たるものを言語化して確認し合うのみならず、暗黙が暗黙でなくなる。たとえば、エルヴィス・プレスリーがロックンロールを舞台でスイングしてみせた時代、それは良識・保守層からはローコンテクストだと見なされた訳だが、今、彼がおくった悲愴な人生と若者の自由への一つの附箋と引き換えた条件性を悪く言えるのかどうか、となると、ハイ・アンド・ローの間を通す翻訳能力の多寡で決められるような気がする。


 ビビオことスティーヴン・ウィルキンソンが、前作『Mind Bokeh』において従来の手法よりはローコンテクストに寄ったのは、タイトルにも入っている"ぼかし"という概念導入により、IDMやフレンチ・エレクトロ、フォークトロニカ、果てはチルウェイヴの断片までをもオーガニックに編み込みつつ、どこか今そのものへの退行も見えたからかもしれない。


 その点、新作『Silver Wilkinson』について、「春から夏という感じがする」と彼自身が述べているが、春が穏やかな始まりと終わりが混濁した躁性と華やかな侘び寂びを帯びる季節のひとつとしたら、『Silver Wilkinson』はイギリスの夏のひととき、眩さ、高い太陽、湿り気と夕暮れの仄暗さに、ふいに雨が嵐のように降ったり、雲間から光が差す、そんな都度のフィーリングが個人的に脳裏をかすめた。


 また、今作がユース・ラグーンことトレヴァー・パワーズが新作で披露した音風景との近似性を見せるのは、異常気象が続く世界でなくなりつつあるともいえる季節感を意識するために、テーマに囚われず、夢、無意識に潜ること、つまり、パーソナルな内奥に還り、それが反転しての架空の季節を炙り出せしめるしかない、そんなところも散見できるからだ。


 冒頭から滋味深くも、サンプラー、キーボード、シンセ、エレピやギターを組み合わせ、ときに彼の声や感性そのものを機械的に二次加工していきながら、漣のように寄せては返す独特の音時間が作られ、ふと、消失する。だから、聴き始めてゆくと、穏やかで有機的に凝った曲の構成に引っ掛かるよりも、微睡みを誘うような派手さがない中に混ざり合う音同士の繊細な重ね合わせに意識が漂流してしまうのかもしれない。そこでは、ニューエイジからアンビエントの気配を感じることもできる。


 余談だが、昨今、ブライアン・イーノが音楽治療に乗り出したという報があり、医師との共同作業の上、英国の病院で音の効果と治癒効果をはかる2つの部屋を作った。「音楽治療」となると、言葉の響き的に大層だが、音楽は不眠や不安、ときに日常の忙しさの中で思わぬ鎮静作用や意識への融和作用をもたらすのは感覚として咀嚼できるかもしれない。病院の待合室で流すアルバムとしてビル・エヴァンス『Waltz for Debby』の人気が高いという話も分からないでもなく、ハイコンテクストをローコンテクストに無言語的に置換する何かのひとつに、音楽はときにある。


 冒頭にならい、ハイコンテクストには、空気や太陽の粒、雨、風のそよぎまで、どこかの国で誰もが感じるものも含まれているとしたならば、いつの間にか、大気汚染や嵐、塵に混じったそれらに、マスクや警戒の気持ちで構えないといけないという時世における今作は、コンピューターを用いながらも、淡やかな自然を筆致する。音は、人間が名づけずとも、その前にもずっとそこにあり、体系、略式化されるものではないように。そういう面からしても、12弦ギターの響きが美しい佳曲「À tout à l'heure」について、家に籠っているのがもったいないほどの天気で思わず、いくつかの機材とともに庭に出たという彼のコメントも興味深い。


 多くのサウンド・レイヤーを適度な曲尺でカットし、半ばシームレス的に結びつけてゆくのが7曲目の「You」で、それまでと違って硬質なビートが刻まれ、コモドアーズのバラードをカットアップし、サンプリングして作ったというとおり、毛色が少し違う展開が入る。5、6年前の曲とのことだから、このアルバムの中でもニュアンスはやや齟齬がありそうなものの、アルバムの構成を断つということもない。


 新作が近いボーズ・オブ・カナダをはじめ、ローン、ヘリオス、ausなど多様な因子を感じる音ながら、ビビオの場合は、もっとガジェット的にエクレクティックにヒップホップとIDMの接点の昇華が得意な印象もあったが、ここでは日本の俳句の発想に得たという無限に拡がりかねないイメージにあえての制限を置き、ソルマージュ的に、既に鳴り得るだろう音の抽象性と非を保ち、季節や自然の移ろい、花鳥風月、それらに揺れる機微に音楽で名称づけていこうとする具象的行為が見事に結実している。


 音風景から浮かぶ情景は、色彩豊かに眼前ににじみ、聴き手の自由な想像をかき立てる。



(松浦達)

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L.E.D.『in motion』.jpg

 7人の音楽猛者、L.E.Dの2年振り3rd フルアルバム。詩情豊かなダブと多彩なビート・フォーム、ある意味図々しく這い回るベース、それらがスモーキーに薫る期待通りのサウンドだ。


 今作に収録されているのは、豪華ゲストの歌声。Salyu、降神の志人があなたの午後11時を彩ります(午前6時もイケます!。ボーカルに強さと個性溢れる彼らなのに、ちょうど良い塩梅で音とクロスしていることが本当にかっこいい! エレクトロニカやシューゲイズ、ファンクを消化しつつもロック、ヒップホップ、はたまたポップなムードまで感じさせるのはゲストによるところも大きいのかも知れない。


 こんな自由さ、また、天衣無縫な自然さこそ、L.E.D.らしさそのもののような気がするが、2年前と全然変わってないやん! と嬉しく思いつつ、この開放感はこれまでよりもずっと大きな笑顔が似合ったりする。ほんと、幅広く機能しうる彼らの今の音の魅力を存分に楽しめる1枚。



(粂田直子)

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星野源―.jpg

 ここまで短期間で劇的に変わったアーティストも日本では稀有だと思う。以前に、「くだらないの中に」というシングルのレヴューを書いたのは2年ほど前で、ただ、この作品後、奇しくも、天変地異や多くの艱難が世を攫った。だからこそ、なのかもしれない、誰も視界に映る当たり前を「当たり前」と捉え直す行為自体が貴重になり、くだらなさの中で笑うように生きることも、君が笑うことも、魔法がないと不便なことも、絡み合う二人の匂いを取り戻す歳月が流れてしまったとも思える。


 俳優や文筆家など多彩な面を持っている星野源だが、歌手としては、2011年は前述の「くだらないの中に」、そして、『エピソード』というセカンド・アルバムでの着実な評価も受けながら、地道な足取りを崩さない歩みを進めていき、存在感を確実に強めた。一気に巷間にアピールした分岐になったのは、2012年のストリングスが大胆に取り入れられた華やかなポップ・ソング「夢の外へ」だろう。CMソングとしてパワー・スピンされ、映像でも彼の姿を観ることが増え、また、サービス精神過剰と思えるDVDなどでのパフォーマンスも含めて、ひとつの枠、好事家の中での共犯性を越えて、多くのリスナー、アーティストからの支持を受けるようになり、一気呵成に、ワーカホリック気味な彼は加速してゆくことになったが、その飛躍の年を締めくくるシングル「知らない」では彼岸性と、物寂しさも極まっていたような気もする。


 その彼岸性には穏やかに濃厚な死の気配も含み、徹底的に自分自身と向き合うことで、内奥へ潜り、その他大勢を「景色」にさえかすめてしまう要素も包含されていた。個人的に、その後、くも膜下出血で倒れたという事実もなかなか嚥下できず、周囲が過大に結びつける"星野源"像はきっとなんらかのイメージの残映や断片なのではないか、という感覚も持っていたのが正直なところだ。病から復帰するポップ・スターとしてのイコン性のナラティヴと、音楽的な充実が鮮やかに重なった、先ごろのサード・アルバム『Stranger』も素晴らしかったが、このシングル「ギャグ」に垣間見える明るい暗がり、行間の切なさ、道化的なメタファーに心が動かされるものがあった。


 スイング感が心地良いポップネスを帯び、ホンキートンク的なピアノが撥ね、ハンドクラップが合う表題曲。ホンキートンクといえば、ラグタイムを崩したピアノ奏法で、アメリカの大衆的なバーで愛されたスタイルであり、そう考えると、"大衆音楽のために"半ば殉教しかけていた彼は、"大衆のための"音楽を楽しんでやることに帰一したような感触がある。ゆえに、重々しく対峙するよりも、軽快で賑やかな雑踏、車のカーステレオ、FMなどが似合うような雰囲気も表前し、多くの人が行き交う狭間に衣擦れのように馴染む、そんな色みがある。おそらく、ここ2年ほどの星野源に求めていた「何か」が欠けていると感じる人もいるかもしれないし、もっと彼に「意味」を求めたい人には肩透かしを受けるかもしれない。それでも、この「ギャグ」はとても哲学的で、今の温度が備わっている感覚をおぼえる。


 《ギャグの隙間に 本当の事を 祈るみたいに隠して》

 《誰かが作る 偽の心を 腹の底から信じて》

 (「ギャグ」、以下同)


 ギャグの隙間の「本当」を隠し、偽の心を信じようとする所業。フラットな文脈ならば、逆説的だと両義は捉えられるが、彼の場合は、本当/嘘の安易な二分線を越えて、それっぽい紛いものの真実ならば、嘘に積極的に騙されてみよう(信じてみよう)とする。


 このシングルのクレジットの、"ありがとう!"の枠の一番、最初に細野晴臣氏の名前が刻印されているが、自身の著書『働く男』でも敬愛を示しているのは彼の音楽性や佇まいを見ていると、自ずと浮かぶ存在かもしれない。"僕にとって最も神に近い、大好きな普通の人"という形容を使って、彼は細野氏を讃えていたものの、今、彼こそが「普通」という、在り得ない概念の結び目を日常を通して体現する一人でもある、と思えてしまう。ゆえに、普通である存在が"Stranger(異邦人)"としてのそれを皮肉にも示唆してしまうのかもしれない。シンプルで滋味深いながらも、ヘヴィーな後味が残る2曲目の「ダスト」と併せ、このシングルが照らす死生観と極北的な視点、他愛のない描写が綯交ぜになった何気ない音楽の肌触りは、日常で見落としがちな大切な何かも視える。


 《救われた記憶も 聞いたことのない声も 胸の中に響く また逢えるように》


 ポップ・ソングは遠く離れたどこかの名も知れぬ誰かと誰か、と偶然にも繋げてしまう、そういうマジカルな瞬間がここにもあると思う。



(松浦達)

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DIIV-Oshin.jpg

 今年のフジロックでの出演が発表されて、一部では熱狂的な反応を生んでいるというダイヴ。ビーチ・フォッシルズのギタリスト、ザッカリー・コール・スミスのソロ・プロジェクトとして2012年にこのアルバムでデビューを果たしたバンドで、ドラムを叩いているのは元スミス・ウェスタンズのコルビー・ヒューイット。そんな彼らが作り出すサウンドは、ノスタルジックで、ドリーミーで、イノセントで、ただひたすらに気持ち良く浸れるギター・ミュージック。


 わたしがこのバンドに夢中になった理由はその潔さだ。この音楽に野心や複雑さは一切持ち込まれていない(本業のバンドが別にあるのが主な理由かもしれないけれど)。ルート弾きのベースの上でギターの音色が重なる美しい瞬間が、畳み掛けるように襲ってくるだけのアルバム。これをインディーの名盤と言わずして何と言う。


 往々にして、個人に長く愛されるアルバムというのはこういうもの。最近はバンドで飯を食っていこうという考え方も変わってきていて、好きなことをバンドとしてやりながら、お金を稼ぐ仕事を別に持つことが当たり前になってきている。そのやり方もまた、正しい時代なのだ。ビーチ・フォッシルズの活動で十分に生活が成り立っているのかどうかは分からないけれど、ダイヴにはそういうお楽しみゆえの突き詰め方を感じることができる。でも、こういうバンドが長く続くと奇跡が起こるよ。ファースト・アルバムは最初の奇跡になりつつあるから、このあとも続けて、この世界観が進化した先にどんな風景が待ち受けているのか、僕たちに見せてほしい。


 ライヴではすこし早めのテンポで演奏するそうなので、そりゃ苗場では天にも昇る心地がするに違いない。人間の耳に一番心地よく響く音を探求している(?)コールくんのギターを、ぜひ聴いてみてほしい。



(長畑宏明)

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ULTRADEMON『Seapunk』.jpg

 ここ1~2年のあいだでよく見かけるようになった"シーパンク"というジャンルだが、特定の音楽を指す言葉ではなく、ファッションなども含めたムーヴメントを表す総称のように思える。


 音楽的にはレイヴ・ミュージックのハイな部分を抽出し、それを土台にダブステップやLAビート・ミュージック、それから80年代のオールド・スクール・エレクトロといった要素をぶちこんだような印象を受ける。そういえば、友人が「Seihoの『MERCURY』はシーパンク」と言っていたが、筆者からするとシーパンクは、ラスティーハドソン・モホークからの影響を多分に含んでいるように聞こえる。異論はあるかもしれないが、筆者がシーパンクを聴いて真っ先に思い浮かべたのは、いま挙げたふたりのアーティストである。


 ヴィジュアル面では初期《Transonic》のコンピレーション・アルバムのジャケット(これこれなど)を想起させるデザインが多く、いわゆる90年代的なセンスを醸しだしている。あえてチープさを強調したCGからは、そのチープさを面白がっている節も見受けられるが、秀逸なデザインになるとそれがスタイリッシュに見えるのだからびっくり仰天。古いか新しいかではなく、面白いか面白くないかという判断基準を重視するポスト・インターネット世代が中心のムーヴメントだからこそ為せる業なのだろう。


 ここまで書いてきたことから推察すれば、シーパンクは音楽的にもヴィジュアル的にもあらゆる要素や文化を折衷させることが前提としてある。これと類似する前提を持っていたムーヴメントといえば、90年代末期から2000年代始めに隆盛を極めたエレクトロクラッシュを思いださせるが、エレクトロクラッシュは意識的にファッション性を打ちだし、その結果として、フォトグラファーや俳優までをもサポート・メンバーに迎えたフィッシャースプーナーのような集団が現れたりもした。こうした流れは、音楽ジャーナリストのポール・モーリーをスポークスマンとしてメンバーに迎えいれたアート・オブ・ノイズにまで遡れるかもしれない。


 しかし、時代の流れや状況に促される形で発生した側面もあるシーパンクと意識的だったエレクトロクラッシュを接続し、そこからアート・オブ・ノイズにまで遡るのは少々無理がある。意識的だったエレクトロクラッシュと、環境に規定された無意識をベースとするシーパンクは断絶しているのでないか? 無意識と意識的の差はかなりデカイと思うし、無意識がゆえの偶発性を持ち、それが従来の文脈や歴史からの逸脱に繋がっているのがシーパンクの面白いところだ。


 その逸脱に寄与した重要な要素がネットであるということに異論はないと思う。事実、シーパンクの多くは、サウンドクラウドやバンドキャンプといったデジタル・リリースが主流だ。だがついに、初のオフィシャルCDがリリースされた。それが本作である。


 本作を作りあげたのは、ウルトラデーモンことアルバート・レッドワイン。シーパンクの第一人者とされていて、過去にはなんとジョセフィーヌ・コレクティヴというバンドのキーボーディストとして《Warner》と契約していたそうだ。しかしわずか18歳で独立し、ファイアー・フォー・エフェクト名義を経て、現在のウルトラデーモンに改名してからは、シーパンクのイメージやサウンドを形作り今に至っている。


 そのアルバートが上梓した本作は、様々な音楽的要素が入り乱れたものとなっている。1曲目の「Chatroom With Enya」は、TR-808風のドラムが淡々と4つ打ちを刻み、それこそ、初期のティガを想起させるエレクトロクラッシュ風味に仕上がっている。さらには『Epiphanie』期のパラ・ワンに近い雰囲気を漂わせる曲もあり、他にもベース・ミュージック、スクリュー、トラップといった要素も取りこむなど、2000年代以降に登場した音楽を網羅的に吸収したようなサウンドが本作の特徴となっている。言ってしまえば、圧倒的なオリジナリティーを聴き手に刻みこむような作品ではない。


 だからといって、音楽的につまらないとするのは早計だ。そもそも過去の音楽を現在の価値観に沿って解釈すること自体は価値ある行為だし、その行為を通して多様な音楽的要素を折衷させ、それをフレッシュに響かせる才能を持つアルバートはもっと評価されてもいいアーティストだ。さらに言えば、そんなアルバートの才能こそが本作の醍醐味である。


 そう考えると本作は、アティチュードとしてのシーパンクを提示した作品であり、もっと言えば、シーパンクはアティチュードであるというアルバートの主張なのかもしれない。だとすれば、本作の寛容性あふれる雰囲気と奔放な音楽性にも納得がいく。それこそゴルジェのように、自分なりの解釈で多くの人がコミットできるムーヴメントなのだろう。実際シーパンクの周辺では、DSTVVのレヴューでも触れたザイン・カーティスの名を目にすることもある。そういった意味でシーパンクは、ネット以降の状況における新たな文化創造とコミュニティー形成のメカニズムを上手く生かした好例としても興味深い。



(近藤真弥)

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『Bankrupt!』.jpg

 ムック版のクッキーシーンにて彼らの来歴については書いたこともあるが、個人的に、彼らがこれだけの世界的にポピュラリティーを得るバンドになるとは想像していなかった。また、ライヴを観るたびにジャンクで決して演奏は巧いともいえず、フランスらしいスマートさとスノビズムに宿る何かは、かの国のボリス・ヴィアンからセルジュ・ゲンスブール辺りの精神的系譜を思うと、直情径行なところが可視できながら、ただ、憎めない、捻くれ者たちが集ったバンドという印象を拭えずにいた。


 振り返るに、ガレージ・ロック・リヴァイヴァル、またはポスト・ロック、エレクトロニカが求心性を高めている中での00年の『United』における時間感覚が明らかに消失したと思しきプロダクションと、80年代的な煌びやかさ、ゴスペル、アーバン・ポップスまでをもひとつの作品に押し込んだ力技はすぐにシーンに受け入れられたという訳ではなく、日本では特に、タヒチ80辺りのセンスがフランスの音楽のイメージ造成に付与していたのも否めなかった。セカンド『Alphabetical』での、反動としてのやや装飾過多で内省的ともいえる内容、06年のサード『It's Never Been Like That』はベルリンへの渡航を契機に、ヨーロッパ的なものを求めようとし、生身のままのバンド・サウンドながら、音の角は矯められており、品の良さも漂う繊細なロックンロールを提示していた。


 そして、第52回グラミー賞にて最優秀オルタナティヴ・ミュージック・アルバム賞を受賞し、今やフェスでもヘッドライナーをつとめるポジションにもなり、世界中で愛される存在に押し上げた09年の前作『Wolfgang Amadeus Phoenix』。


 さて、そんな中、この約4年振りとなるこの『Bankrupt!』は、何かしら過剰でいびつな、同時代性はほぼ無関係に、成功した同じ轍を踏まない、彼ららしい作品になっているのは流石だといえる。


 前作からすぐにレコーディングに入ったというが、ニューヨーク、ロンドン、イタリア、パリなどバンドは別々の場所で過ごし、インターネット上のやりとりで楽曲をブラッシュ・アップしながら、結果的には2011年の春、カシアスのフィリップ・ズダールとパリに集まり、24ヶ月に及ぶレコーディングの果てに結実した。そのアイデアの断片は輸入盤のデラックス・エディションで聴ける71曲の未発表曲、デモなどを収録した中からも伺えるものの、本編が10曲とコンパクトに絞られることで、支離滅裂になりそうな帰着点の瀬戸際を縫っているのが分かる。


 リードとして発表された1曲目の「Entertainment!」から煌びやかなシンセが「Too Young」を彷彿させたが、それ以上の過度さで展開され、ディスコ・ポップのような華やぎを牽引せしめている。ただ、そのPVが北朝鮮と韓国をモティーフにしたものであったり、歌詞にしても、《What You Want And What You Do To Me / I'll Take The Trouble Let You Have My Mind(君が欲していること、君が僕にすること、君の頭のトラブルを引き受けていくよ》、《I'd Rather Be Alone(ひとりでいる方がましだね)》というフレーズも残るなど、一筋縄でいかない。


 音楽的な部分での影響では80年代に活躍したフランス人のジャクノ(JACNO)をトーマスは挙げているが、全体を通じて、80年代的なサウンド・メイクが際立っている。AORからブルー・アイド・ソウル、ニュー・ウェイヴの濃厚な色に幾重に織り込まれたエレクトロニクス、ズダールらしいアイデアが散見される。


 3曲目の「S.O.S. In A Bel Air」はこれまでの彼らのポップ・エッセンスが凝縮されたような佳曲であり、旧来のファンも喜ぶのではないかと思う。また、クールなバンドという巷間のイメージを逆手に捉えたバウンシーなR&B調の4曲目の「Trying To Be Cool」では、あえて《I'm Just Trying To Be Cool(僕はクールになりたいだけさ)》と歌う。ミニマルで繊細なサウンドスケープが詰めこまれた7分弱のタイトル曲「Bankrupt!」をひとつの分岐として、後半は少しトーンを抑え目にセクシュアルな気配も立ち上がってくる。10曲目の「Oblique City」では疾走感のあるギターポップで鮮やかに幕を引くのも見事だと思う。


 しかし、今、2013年において、この作品と比肩するものが見当たらない、弧然と、ある種、不気味な躁性とカオスが表前化したものになっているのは面白く、同時に、音楽と文学の対位も密に感じさせる。人工性と慣習から逃れるべき言葉と、その言葉を成立せしめる潜在性。アルバム・ジャケットのアンディ・ウォーホールのキャンベル・スープの絵のようなアートワーク。ありふれたもの、看過してしまいそうなものに、もう一度、"秘密"の埋め込みを試行すること。例えば、ドラッカー・ノワール、ブルジョワ、コカ・コーラのロゼッタ・ストーンなど意味深いフレーズが今作内には見受けられるが、彼らなりのイロニーと切実な想いが混濁し、既存の「固定」意味から、聴き手の想像力の「可塑」へ仮託される。


 人気バンドになった今でも、フェニックスとは、時代感覚や周囲の期待を傍目に、オルタナティヴとポップネスを共存させ、自由に自分たちの好きな音楽を追求するバンドなのだと感じさせてくれる1枚だ。



(松浦達)

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 may.eを名乗る女性シンガーソングライターに出会ったのは、サウンドクラウドを徘徊しているときだった。その出会いはほんと偶然なんだけど、心にスルリと入ってくる歌声(ラップをしている曲も最高!)を聴いた瞬間、見事にやられてしまいました。


 オリジナル楽曲はもちろんのこと、ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「Stephanie Says」や、マイ・ブラッディー・ヴァレンタインの「When You Sleep」といったカヴァー・ソングにも惹かれた。既存の曲に新たな命を吹きこめる澄んだ歌声は、もっと多くの人に聴かれてほしいと心の底から願っています。


 とはいえ、そんな筆者の願いは本作『Mattiola』をキッカケに叶いそうな気がする。そう思わせるくらいに本作は良盤なのです。


 本作はmay.eにとってのファースト・アルバムにあたるもので、通販で買えるCD盤(現在は申し込みを締め切ったそうです)についてくるmay.e執筆の解説によると、「このアルバムはストーリー仕立て」だそうだ。確かに歌詞を読みすすめていくと、ひとりの女性が抱いた淡い恋心と、それによって生じる苦悩や幸福が鮮明に描写されているのがわかる。届いたCDに同封されていた手紙には、「私の日記のようなもの」と書かれていた。ということは、本作の物語にはmay.eのパーソナルな領域が少なからず反映されているのだろう。それゆえ本作を聴くと、他人の心を覗き見したような気持ちになってしまうのかもしれない。全曲may.eの部屋でレコーディングされ、さらにはiPhoneまで持ちだした宅録環境もそれを助長する。


 音楽的には、リヴァーブを多用したドリーミーなアシッド・フォークだ。ビーチ・ハウスに通じるモダンなドリーム・ポップの要素を感じさせながらも、ティム・バックリィやHarumi(そういえば、Harumiのアルバム『Harumi』をプロデュースしたトム・ウィルソンは、ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのプロデュースもしている)などがちらつく、いわゆる60年代末から70年代の雰囲気を醸しだしている。このあたりの折衷的センスは今っぼいと思う。


 それから筆者の耳がおかしいと言われることを承知で言えば、本作を聴いて想起した作品のひとつに、トッド・ラングレンの『Runt』がある。1970年にリリースされた『Runt』は、1曲目の「Broke Down And Busted」が耳に入ると、聴き手と作品の距離が一気に縮まる不思議な親密感を持っているが、この親密感が本作にも存在する。音楽性はまったく違うけれど、だからこそ筆者は、本作と『Runt』をダブらせてしまったのかもしれない。



(近藤真弥)




【編集部注】『Mattiola』は《Tanukineiri》のサイトからダウンロードできます。

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DAVID GRUBBS.jpg

 「かつて宮殿が建っていた平原」、そう名付けられたデイヴィッド・グラブスの新譜をくり返し聴いている。僕が彼の名前を知ったのは、やはりガスター・デル・ソルでの活動を通じてだった。初めて聴いたアルバムは『カモフルーア』。シカゴ音響派だとかポスト・ロックと呼ばれるジャンル/ムーヴメントが注目を集め始めていた90年代後半のことだ。ジョン・マッケンタイアが率いるトータスやシー・アンド・ケイク、ジム・オルークのソロ・アルバムや数々のプロデュース・ワークなどなど...。現代音楽やジャズ的なアプローチを規範とした緻密なサウンド・プロダクションと知的な佇まい。静謐さと過剰さの巧みなバランス感覚。そして、周知のとおりデイヴィッド・グラブスとジョン・マッケンタイアの源流にはハードコア・パンク・バンド、バストロがあった。それは、僕にとって70年代後半のパンクからポスト・パンクへの流れをリアル・タイムで体験しているような感じだった。あからさまに何かの"アンチ"になっていないところが00年代に移り変わる頃の気分にぴったりで、「音楽はまだまだ進化するんだな!」ってワクワクさせられた。


 ガスター・デル・ソルの解散からソロになっても、デイヴィッド・グラブスには一貫したスタイルがある。それは彼のヴォーカリストとしての歌ごころ。僕が彼の音楽を大好きになった理由でもある。「音響派」って括られるバンドやミュージシャンの多くがインストをメインにしているけれど、デイヴィッド・グラブスは決して歌をあきらめない。「実験性」という名目で、声やメロディをサウンドのひとつのパーツとして扱うこともない。しかも、その歌声は朴訥だとさえ思えて、ちっともクールじゃない。ヴォーカリストとしては、技巧的ではなくて情緒的。けれどもそれが(今ではちょっと古びてしまった)「音響派」というタームからもはみ出して、個性と普遍性を両立させている。聴くたびに色彩を変えるサウンドと歌とのコントラストは、ソロとして6枚目となるこのアルバムでも鮮やかだ。


 実験的なサウンドに普遍的な歌を重ね合わせるというアプローチ。「実験的」って言葉は敷居が高くて、聴き手を限定してしまうことがあるのも事実。「革新的」やら「冒険的」って言い換えても同じこと。けれども、そこに誰の耳にも入り込みやすい「歌」を重ねてみたらどうなるだろう? 実はそれこそが二重の意味で実験的なのかもしれない。ポピュラリティを得ることもできるだろうし、音楽的な表現力の可能性もグンと広がるはず。たとえば、ジェームズ・ブレイクが1stアルバムで静かに歌い始めたときのように。ダンス・ミュージック・シーンのド真ん中を突っ走るアンダーワールドでも言葉を連射していたカール・ハイドが、ソロ・アルバムで儚いメロディを聴かせてくれたように。デイヴィッド・グラブスとはキャリアもジャンルも違うけれども、僕はこのふたりを思い出したりもした。


 "失われた何か"を連想させるタイトルどおり、アルバムにはゆったりと時が流れている。決して懐古的でも、悲観的でもないところがカッコいい。ヴォーカルが入っている4曲はどれもポップで、ちょっと笑えるし。「I Started To Live When My Barber Died(僕の床屋が死んだとき 僕の人生は始まった)」だとか「The Hesitation Waltz(ためらいワルツ)」だとか、なんのことやら! もちろん、サウンドも相変わらず最高だ。シンプルなアコースティック・サウンドから、人懐っこいメロディ、その出自を彷彿とさせるハードコア・ノイズや不穏なドローンまでが自由に飛び交う。「かつて宮殿が建っていた平原」では、デイヴィッド・グラブス自身の歩み、そしてポスト・ロックという音楽の過去と現在と未来が交差しているかのよう。ジャンルを飛び越え、歌い続けるデイヴィッド・グラブスの「実験」音楽は、今でも僕たちの既成概念を揺さぶる。それはとても心地良い刺激だ。このアルバムが多くの音楽好きの耳に届きますように!



(犬飼一郎)

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マッドエッグ『キコ』.jpg

 音楽を聴いたときの衝撃は、そのままの形をとどめることはない。初めて聴いたときの衝撃を味わおうと、何回も聴いているうちにその衝撃は薄くなり、興奮の度合いも下がっていく。とはいえ、これは決して嘆くことではない。ほとんどの音楽に当てはまることだし、興奮と衝撃を味わった過去の記憶は聴き手のなかに刻まれる。それに、過去の記憶に触れるための導線として繰りかえし聴かれるのだから、やはり"残す"という行為は尊い。


 しかし、ごく稀に、いつの時代、場所、状況で聴いても新鮮な気持ちにさせてくれる音楽も存在する。それはどういう音楽なのか? もちろん人それぞれ異なるが、その音楽は聴き手にとっての大切な宝物として、おそらく死ぬまで鳴りつづける。筆者にとって、マッドエッグの音楽とはそういうものだ。最新作である『Kiko』を聴いて、その思いを強くした。


 前作『Tempera』から約11ヶ月ぶりのアルバムとなる本作は、聴き手が見ている風景をガラリと変えてしまう音が詰まっている。過去の作品群では、フライング・ロータス以降のビート・ミュージックからの影響を感じさせるなど、他の音楽と共振するわかりやすい要素が目立っていた。しかし本作においてマッドエッグは、孤高とも言える境地に達している。ダブステップ、ヒップホップ、ブレイクビーツ、UKガラージなどを徹底的に溶解させ血肉とした音楽性には、他ジャンルと交わることがない孤独感を漂わせながらも、確固たる独自性を獲得した風通しの良さがある。


 だが、何よりも興味深いのは、多彩な音色が内包する豊穣な風景である。これまでもマッドエッグは、懐かしさを抱かせるノスタルジックなアトモスフィアや、先鋭的な音から生じるSF的風景を見せてくれたが、過去から現在、それから未来までをも自由に行き来する本作には、そのすべてがある。音に込められた感情も、喜怒哀楽には到底収まらない多様なものだ。さらに言ってしまえば、音が歌っているようにも聞こえる。こうした作品を作りあげる才能を開花させたマッドエッグは、トラックメイカーというより、シンガーソングライターなのかもしれない。くるくる回せば絵柄が変わる万華鏡のように華やかな本作は、そう思わせるだけの才気が迸っている。それにしても、この才気はどこまで伸びていくのか? それを考えると恐ろしくもあり、楽しみでもある。



(近藤真弥)

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AUFGANG.jpgのサムネール画像

 おそらく、多くの人に待望されていた一枚だとも思う。先ごろの来日公演も記憶に新しい、ピアニストのフランチェスコ・トリスターノ、00年に彼とNYのジュリアード音楽院時代に出会ったラーミ・ハリーフェ。ラーミ・ハリーフェといえば、レバノンの作曲家にしてウード奏者の父、マルセル・ハリーフェとの活動としても有名だが、ピアニストとしての評価も近年、高まっている気鋭の一人。そのラーミの幼馴染みが、フレンチ・エレクトロを代表するユニットたるカシアスに属し、ときにフェニックスでドラムも負うエイメリック・ヴェストリヒ。この三人による2ピアノ、1ドラム形式を取りながら、エレクトロニクスも含め、ダンサブルで肌理細やかなグルーヴを生み出すグループがアウフガングである。05年のバルセロナのソナー・フェスティバルを機に作られたというから、キャリアも8年ほどになる。


 セッション的には三者三様、設計技師のような緻密な感性も溶け込み、まだ固まりきっていない部分があったものの、この『Istiklaliya』は、そういった欠落を十二分に埋め合わせた快作となっている。ブラント・バラウワー・フリックのようなディープ・ミニマル的なトランスをもたらす曲もあれば、ジャズとテクノのクロスオーヴァーに果敢に挑んでいた初期のジャザノヴァのEPに通じる温度から、どことなく、アシッド・ジャズ的なノスタルジーを感じる人もいるかもしれない。


 電子音そのものがオーガニックで粒だっていなく、そこに流麗なピアノの音色が重ねられることで、しなやかに音空間が拡張される。これが《InFine》からリリースされていることも興味深い。思えば、独ミュンヘンの《Compost》がシリーズ・コンピレーション『Future Sound Of Jazz』をリリースしていたとき、当時のオーナーたるマイケル・レインボースは、その際の"ジャズ"とは既存のジャズのスタイルそのものを負っているのとは違い、それはあくまで、ジャズが輝かしかった60、70年代に奮闘していたミュージシャンの気高い精神性を意味すると言っていたが、トリスターノ自身もクラフトワーク、ジャン・ミシェル・ジャールの影響を受け、また、カール・クレイグと組んだ作品を出すなど、テクノ・ミュージックへの薫陶とカヴァー・センスはテクノ界隈でも認められている。それでいながら、ドイツの《Grammophon》という由緒正しい老舗のレーベルから、ブクステフーデ、バッハをヤマハCFXで再解釈した作品を出すという、まさに既存のスタイルを負うのではなく、温故知新、気高い精神性のもとで、歩みを進めている。


 今作は、9曲とゴースト・トラック「Overture」を入れて、55分ほどの自在な音絵巻が繰り広げられる。冒頭の「Kyrie」は、アンダーワールドの02年の『A Hundred Days Off』あたりを彷彿させる柔らかさとバウンシーなムードがフロアやライヴで映えることを既に確約しているとも思える佳曲。ツイン・ピアノがビートを刻むように熱を帯びてゆく次曲の「Balkanik」では、エフェクトの効果もあり、6分弱とは思わせない鮮やかなグルーヴが宿っている。無論、IDM的側面が強い「Abusement Ride」のような曲もあるが、そこでは朗々とヴォーカリゼーションも披露され、どこかデモーニッシュで不穏なままにリプレゼントされる。


 サイケデリックでトリッピーなムードが本作に通底するのも、ひとつの要因に挙げられるかもしれない。表面上はテクニカルに、スムースに組み立てられているように聴こえるが、「内実」では、奇妙な前衛的な実験と試行が何度もおこなわれている気配が残る。これまでの彼らは、それがライヴ以外の録音物では収まっていない感じもしていたが、断片的ながらも、確実に皮膚感覚に突き刺さる。


 現代音楽的なセンス下のケージ、ライヒから、ザッパが持つドロドロと煮込まれたアヴァンギャルド性、そこに、昨今のモダン・クラシカルの趨勢を織り込み、偶然と抽象性をアート的に高めたという感覚との共振。また、タイトル名も「African Geisha」や「Diego Maradona」など、野放図なところもあるが、その曲名から浮かぶ中での音楽を想像して聴くと、そうとも捉えられない。


 雪崩れるように、獰猛に音や構成が内破されてゆく8曲目の「Stroke」などは、否応なく昂揚する音そのものの快楽性も高い。奇妙なリズム展開、80年代前半のエレクトロ要素さえ感じるガラージ・サウンド、ここまで挙げてきたように、多くの音楽遺産の語彙群からのインスパイアも感じられるがゆえに、散漫なイメージを持つかもしれない。ただ、何も先入観を持たずに対峙すれば、多彩なイメージが輻射される。それでいいと思う。プログレッシヴに求心性を増した今作からアウフガングは真っ当に傍流を往けるのだという気がするからだ。まさしく、今そのものの時間論を越えるダイナミクスが詰まっている今作に喝采を送りたい。



(松浦達)