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 思春期の少年と妙齢の女性が同居する深谷彩の歌唱を軸に、ギター、ベース、ドラム、キーボードの基本編成にくわえ、サックス、フルート、フィドル、チェロなどのやわらかな響きが要所を彩る。名古屋のチェンバー・ポップ・ユニット、レミ街が奏でるのは、世界各地のフォーク・ミュージックや祭囃子といった素材を、『宇宙 日本 世田谷』期のフィッシュマンズに通じるダブや、フライング・ロータスなどのビート・ミュージックの感覚で再構成したような音楽だ。


 レミ街のコンポーザー/キーボード奏者である荒木正比呂の原点は、幼い頃、兄にもらったカセット・テープに録音されていた『風の谷のナウシカ サウンドトラック はるかな地へ・・・』とその関連作だというが、久石譲がミニマルな現代音楽を志向していたように、レミ街の新作も最小限の打ち込みから出発してダンサブルな生演奏をくわえていく過程を経ているようだ。


 そして、これは一笑にふされるかもしれないが、本作を聴いて私の脳裏によぎったのは、各地の伝統音楽を保存するノアの方舟、その船上から世界の有り様について演奏するイメージだった。たとえば、アルバムのラストを飾る、「よろこびの歌」と題されたバラードの〈白い君の心が浸水しそうなほどに〉という歌詞は大洪水後の世界を想起させるし、7曲目の「Country Calling」という、草原を旅するジプシーの様子が目に浮かぶアイリッシュ・トラッド風ナンバーが、水泡とともに届くようなダビーな音響で海の中をイメージさせる別ヴァージョン「Country Calling Recalling」として13曲目で再演されることも、その思いを強めてしまう。聴く者によっては、この世界の現状、そのなかで生きる我々ひとりひとりの罪を暴かれるような気持ちになるかもしれない。


 その一方で、鳥の鳴き声のようなサンプリングにストリングスの響きが重なり、涼しげな森の中にたたずんでいるような気持ちにさせる「Safety touch」など、聴く者を優しく包み込むような曲も配置されている。そして、リード・チューンである1曲目「CATCH」では、シンプルなギター・リフが輪廻のように繰りかえすなか、松本隆作詞の『風の谷のナウシカ』テーマ・ソングと同じ〈やさしくつかまえて〉という一節が歌われ、一瞬のブレイクが訪れる。レミ街は、無駄な関わりをオミットしたうえで残った大切なナニカを表現している。



森豊和)

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 ご存知、Fun.(※クッキーシーンの表記ルールに従い以下、ファン。の表記で統一させていただきます:笑)のヴォーカリスト、ネイト・ルイスのソロ・アルバムがついに登場! まず、このタイトル『Grand Romantic』にグッときた。〝Grand〟という言葉が持つ響きと意味が良い。「そびえ立つ」とか「壮大な」って感じ。そして、そんな形容詞を受けとめるのが〝Romantic〟。つまり、「壮大なロマンティスト」ってこと。かつてのザ・フォーマットからファン。での世界的な大成功まで、活動のスケールと知名度がどんなに大きくなっても、芯の部分では変わらない彼の音楽性にはぴったりだと思う。とびきりポップだけど、胸が締めつけられるような切なさも残す歌の世界。そんなイメージは、色とりどりの薔薇や風船、不気味なマスク、骸骨に囲まれて物憂げな横顔を見せるジャケットにも見事に表現されている。


 世界を見渡してみても、日本の空気を肌で感じ取ってみても、〝ロマンティック〟とはほど遠い。過去への憧憬だとか、未来への展望だとか...。その両方を明るく語れる人を僕は知らない。皮肉でも何でもなく、それが「今、ここ」だ。


 そんな「今、ここ」にありながら、初めてのソロ・アルバムに『Grand Romantic』と名付けることは、ネイト・ルイスの固い決意表明のようだ。現実逃避の絵空事ではなく、大きさや重さ、手触りがしっかりと実感できるほどの〝ロマンティック〟。その想像力とその先にあるものこそが、今いちばん必要なのだということ。


 活動中のバンドのメンバーがソロ作品をリリースする場合、バンドでの音楽性とは一線を画した表現を追求することが多い。ミニマル・テクノをベースにDJ的な視点/手法を取り入れるトム・ヨーク(アトムス・フォー・ピース)とか、ストロークスよりも生々しくダーティーなジュリアン・カサブランカス(+ザ・ヴォイズ)とか。そして、ファン。からもギタリストのジャック・アントノフが一足先にソロ活動をスタートさせている。パワー・ポップなバンドっぽさを感じさせるブリーチャーズ(祝!サマソニ出演)名義での活動からテイラー・スイフト(!)の楽曲プロデュースまで、かなり順調な様子。僕たちにとっては、バンドとの距離感から生まれる意外性も楽しみのひとつだ。


 けれども、ネイト・ルイスの場合はそれほどファン。とはかけ離れていない気がする。一度聴いたらすぐに歌えそうなメロディ、「これは絶対にライヴで盛り上がるね!」と胸が高まるドラマティックな展開、そして何よりも、ありったけの力を込めたあの大きな歌声。でも、それが不満かと言えば、まったくそうじゃないのがこのアルバムの素敵なところ。ファン。の延長線上にありながら、よりソングライティングの質を極めてゆく感じ。むしろ、ファン。で到達したコマーシャリズムをも真っ向から受け止めようとしている姿勢が清々しい。実験的/冒険的の名を借りたマニアックさなんて、やっぱり〝ロマンティック〟じゃないのだ。タイトル・ソング「Grand Romantic」を聖歌隊のコーラス風にアレンジした静謐なイントロに導かれて、アルバムは幕を開ける。


〈Step Right Up For The Grand Romantic / Always Tragic Broken Bones〉


 どうやらこの壮大なロマンティストは、悲劇的に傷ついているらしい。誰かに助けを求めるほどに。そんな厳かな雰囲気も束の間、不意打ちを喰らわすようにいつもどおりのネイトの陽気な歌声が飛びこんでくる。やっぱり(笑)クイーンを思わせるスタジアム級のアンセム、キラキラしたダンス・チューン、ピアノとストリングスが繊細なヴェールを織りなすバラードなど、バンドの課外活動なんかじゃないことが明確な本気の楽曲が連発される。レッチリのジョシュ・クリングホッファー(レッチリ加入前にザ・フォーマットのセカンド&ラスト・アルバム『Dog Problems』(2006)にも参加。ふたりともブレイクしたね!)をはじめ、ウィルコのジェフ・トゥイーディー、ロジャー・ジョセフ・マニング Jr.らがコラボレーションに名を連ねる。そのなかでもやっぱりいちばんワクワクさせられたのは、裏ジャケットに〝FEAT. BECK〟のクレジットを発見したとき。ベックと共作/共演した「What The World Is Coming To」は、間違いなくこのアルバムを特別なものにしている。そして、個人的にはここ数年で耳にしたなかでもトップ・クラスの名曲だと思う。


 ベックといえば、今年2月のグラミーで最優秀アルバム賞を受賞した『Morning Phase』(2014)の陰に隠れてしまった気がするけれど、その少し前にリリースされた『Song Reader』(2012)も素晴らしかった。『Song Reader』自体は、もともと楽譜として発売された変則的なアルバム。それを様々なミュージシャン/バンドがレコーディングして、ようやく「聴くことのできる」アルバムになったもの、という経緯が面倒くさい(笑)。そこに登場するメンツがまた豪華で...って話はさておき、ネイトは『Song Reader』にファン。として参加している。そこに収録されている子守唄のようなワルツ「Plaese Leave A Light On When You Go」を聴いたときには、ベックの曲作りの巧みさとファン。との相性の良さに驚いた。まるでファン。のオリジナルのように聴こえたから。


 そして今度はネイトが恩返しをするように、ベックを招いての共演だ。「What The World Is Coming To」は、何の変哲もないヴァース/ブリッジ/コーラスという構成の曲だけど、そのシンプルさゆえに曲のクオリティーが際立っている。ベックの『Sea Change』(2002)や『Morning Phase』にも通じるアコースティックな響きが心地良い。ソングライティング、そして歌本来の力強さ。それこそネイト・ルイスがこのアルバムに求めていたことなのだろう。そしてもう一度、「Grand Romantic」に耳を傾けてみる。


〈I Don't Wanna Live With The Grand Romantic / Grand Romantic Anymore〉


 あれれ、意外とあっさり〝壮大なロマンティスト〟は否定されている。それがあきらめなのか、厳しい現実への最初の一歩なのかは、このアルバムを聴く人それぞれに委ねられているのだと思う。そしてアルバムはビートルズ/ポール・マッカートニーっぽいメロディーを持つ「Brightside」で静かに幕を閉じる(国内盤はボーナス・トラック1曲追加)。喜びと挫折、出会いと別れに彩られた『Grand Romantic』。ひょっとすると、それは「今、ここ」そのものなのかもしれない。最後には、そう気づかされる感動の1枚。フジロック2日目、ソロでのパフォーマンスにも期待しよう!



(犬飼一郎)

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 「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」とは、作家の山崎ナオコーラだったか。確かに彼女の小説は、どれもが平易な言葉で描かれている。題材も日常的なものがほとんどで、たとえば松山ケンイチと永作博美主演で映画化された『人のセックスを笑うな』(2004)は、1組のカップルが別れるまでの様を描いただけの作品である。しかし彼女の作品がすごいのは、そうした平凡と思われる日々にも興味深い驚きはたくさんあり、その驚きを見つけ楽しむためのコツが隠されているところだ。気にとめることが少ない雑談や、街を歩いているときに漂う匂いなど、コツはあらゆる場所にあることを教えてくれる。そんな彼女の作品が、筆者は大好きだ。


 実を言うと、5人組バンドnever young beach(ネヴァー・ヤング・ビーチ)のファースト・アルバム『YASHINOKI HOUSE』を初めて聴いたとき、山崎ナオコーラの作品が脳裏によぎった。『若者たち』(1995)期のサニーデイ・サービスを彷彿させる、たおやかで心地よいサウンドに乗せて紡がれる言葉が、驚くほど平易だったからだ。それでいて、文学的な詩情もある。〈伸びた髪が 風に吹かれてなんだかちょっと邪魔に感じたけど 金もないし 束ねて忘れる〉(「どうでもいいけど」)という一節なんて、わざわざ歌にするほどのことではない一幕とも思えるが、こうした言葉がいくつも連なると、色鮮やかな景色が目の前に現れるのだからなんとも不思議。このような不思議は、『AFTER HOURS』以降のシャムキャッツに通じるものを感じさせるが、シャムキャッツが「象さん」(2014)という曲で3.11以降の状況を見つめたうえで〝現実〟を歌ったのに対し、never young beachの言葉はどこか現実味がない。〝現実〟というよりは、他者への興味が薄い〝自分にとっての現実〟を歌っているように聞こえ、いわゆる逃避願望が色濃いのだ。これは、2000年代後半から数年間隆盛を誇ったチルウェイヴに見られた逃避願望と共振するもので、そういった意味で『YASHINOKI HOUSE』は、2010年代に生まれるべくして生まれた、モダンなポップ・ミュージックと言える。


 だが、どこか現実味がない本作を聴いていると、一抹の不安が生じてしまうのも正直なところ。最近、本作を聴きながら外でのんびりしていると、安倍政権の安保法制に反対するデモが目の前で始まるという場面に出くわしたのだが、このとき、目の前の緊張感あふれる現実と、本作の逃避願望が驚くほど断絶していることに、小さくない違和感を抱いてしまった。その瞬間、本作がもたらしてくれた恍惚感は一気に冷め、筆者はiPodの停止ボタンを押し、イヤホンを外した。


 これは本作が悪いというわけではなく、筆者が本作の楽しみ方を心得ていないせいだろう。しかし、そのうえで言わせてもらえれば、本作の逃避願望に心の底からコミットするのは難しいし、もっと言えば、逃避願望にコミットしている場合か? という気持ちもある。言われなくてもわかるようなことばかり撒き散らす説教くさい歌は嫌いだし、そんな歌にみんなが感動して涙するという画一的な光景も苦手だ。ましてやその感動を、〝さあ泣いてください〟とばかりに押しつけてくるヤツなんて...ファック。


 とはいえ、否応なしにハードな現実と向きあわざるをえない世情において、本作の逃避願望はあまりにもナイーヴすぎるし、夢がなさすぎる。ザ・ストリーツ『A Grand Don't Come for Free』(2004)や、ケイト・テンペスト『Everybody Down』(2014)、あるいはKOHH(コウ)『MONOCHROME』(2014)のように、ハードな現実からの逃避願望を描きつつも、そのハードな現実と向きあわなければいけないということも描いたような、表現としての味わい深さと強度も見られない。それでも本作と心中したいなら、すればいい。ただ、いま必要なのは〝逃避〟の表現ではなく、〝変化〟を求める理想と夢が込められた表現ではないか? 



(近藤真弥)

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 元BiS(ビス)のテンテンコと滝沢朋恵によるユニット、フロリダ。彼女たちのことを知ったのは、去年11月に桜台POOLで開催されたイヴェント、Tokyo Zinester Gathering 2014(トーキョー・ジンスタ・ギャザリング)にて。このイヴェントに出演したときの彼女たちは、全身黒ずくめという出でたちで、どこかゴシックな雰囲気を漂わせており、同時に得たいの知れない不気味なオーラをまとっていた。しかし音のほうは、誘眠性が高いトリッピーなもので、そこまでダークな印象を受けなかった。ジャンルでいえばインダストリアルやミニマル・シンセということになるのだろうが、色でいえば〝黒〟よりも〝白〟を連想させる音像は、キャッチーですらあった。こうしたヴィジュアルとサウンドのギャップに魅せられた筆者は、「これまた面白いユニットに出逢ってしまった」と、心躍らせた。


 そんな彼女たちによるファースト・ミニ・アルバムが、本作「FLORIDA」である。動物園でフィールド・レコーディングした音も使用して作られた本作は、端的にいえばポスト・パンクだ。聴き手を酩酊にいざなう反復ビート、シンプルでドライなシンセ・サウンド、そこにポエトリー・リーディングに近いヴォーカルが乗るというスタイルは、スロッビング・グリッスルを想起させる。とはいえ、『Chill Out』(1990)期のKLFに通じる静謐でたおやかなシンセ・サウンドが映える「DOLINE」などは、やはり〝黒〟というより〝白〟をイメージしてしまう(そういえば、KLFは1991年に『The White Room』というアルバムを出していたか...)。


 また、彼女たちが意図したのかは不明だが、本作のサウンドは、ヘレナ・ハウフやブランク・マスなどに代表される、ここ1~2年で盛んになってきたEBM再解釈の潮流と共振するものだ(ブランク・マスはニュー・ビートの要素も強いが)。それこそ、Modern Love(モダン・ラヴ)やBlackest Ever Black(ブラッケスト・エヴァー・ブラック)が中心となったインダストリアル再評価のブーム以降といえる音。


 ただ、今いくつか挙げた例と彼女たちでは、明らかに異なる点がある。それは、彼女たちのサウンドがキュートだということ。こうした側面は、彼女たちの可愛らしい声質によってもたらされたものだと思うが、この可愛らしい声質に、やりたい放題の歪でディープなサウンドが交わると、キャッチーなポップ・ソングになってしまうという魔法が発動するのだからなんとも摩訶不思議。この魔法が、本作を魅力的な作品にしているのは間違いない。




(近藤真弥)

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 少し前からインターネット上でよく名前を見かけるようになった。最近であれば、今年のワイト島フェスティヴァル(ぼく的にはレディングやグラストより全然古い、それこそジミ・ヘンとかが出ていたという印象しかなかったのだが、今年のラインアップは結構よさそうだった)に出ただの、ブラック・グレイプのツアー(ショーン・ライダーは今年前半ハッピー・マンデイズとしてのそれも、このバンドとしてのそれもやっている。なんて働き者なんだ!)のフロント・アクトを務めただの...。


 マンチェスターで結成された、そんな現状5、6人組バンドによるファースト・アルバム。わざわざ和訳しないけれど、タイトルも最高にかっこいい。大体バンド名がいいよね。偽名とか通称という本来の意味以上に、最近は別のニュアンスで使われることが多いってことは、5~10年以上パソコンを使いたおしてきたひとには(これまた)説明不要だろうが、一応解説しておこう。エイリアスとは、アプリケーションやファイルにダイレクトで飛べる、いわゆるアイコンではなく、あいだにもうひとつかませた感じでコンピューター上に表示される、二次アイコンとでも言うべき存在。


 そんな名前でエレクトロニック・ポップをやっていたら、まあ普通、おもしろいとは思わなかった気もするのだが、彼らの場合、本格的ロックンロール。ポップかつアンセミックなメロディーを、ディストーション・ギターがサポートするタイプの音楽。ただ、このアルバムを聴いて(バント名ともあわせて)興味深かったのは「実写映像作品やライヴを体験することを三次元体験と呼び、アニメ映像作品を観ることを二次元的体験と呼ぶのであれば、後者に近い」と思える、サウンドのまろやかさ。そう、なにも「荒れくるう」ばかりがロックンロールじゃない。そして数ヶ月前にネットで見て驚いたのは、ブライアン・エプスタインのもとでプロモーションを学び、60年代にローリング・ストーンズやスモール・フェイセスも手がけた、まさに生きる伝説的なレコード・プロデューサー/マネジャー、アンドリュー・ルーグ・オールダムが彼らのことを褒めていた。これは、さすがのぼくも本物の証...と感じてしまう。


 これで結成わずか6ヶ月後というステップの軽やかさにも驚かされる『Revolt To Revolt』は、チェリー・レッド傘下に一昨年設立された、359ミュージックからのリリース。キュレーターをアラン・マッギーが務めるレーベルだけに、そしてバンド名も考慮するのであれば、こんな言い方も許されるだろう。90年代の初期オアシスとブラーの「いいところ(筆者の好きなところ)」を融合させたみたいな感じ?


 アランの名前が出てきたところで、そちら系のファンには応えられないであろう情報も、最後にお伝えしておこう。レコーディングはグラスゴーにて、元ティーンエイジ・ファンクラブのポール・クインおよびグラスヴェガスの教会録音盤「A Snowflake Fell (And It Felt Like a Kiss)」も手がけた重鎮ケヴィン・バーレイとともにおこなわれた。一聴の価値、おおいにあり!



(伊藤英嗣)

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 ハドソン・モホークは、音楽を〝古い/新しい〟という二項対立から解放してみせた。それは、彼のデビュー・アルバム『Butter』(2009)を聴けばわかるはずだ。このアルバムで彼は、ヒップホップを基調に、プリンスに通じるセクシーなファンク、サイボトロンを代表とする80年代エレクトロなど、さまざまな音楽を血肉としたうえで、〝ハドソン・モホークのグルーヴ〟を生みだした。ただ過去の音楽を焼きなおしただけでもなく、最先端とされる音楽をなぞっただけでもない、まさに唯一無二のポップ・ミュージックが『Butter』にはたくさん収められていた。ゆえにこのアルバムは、いつ聴いても古びた印象とは無縁である。そんな『Butter』は、面白いポップ・ミュージックを作ろうと試みる者たちにとって、重要なヒントでありつづける。


 そのような作品を残した彼が完成させたセカンド・アルバム、それが本作『Lantern』だ。結論から言うと本作は、『Butter』を優に超える傑作であり、2010年代を代表する1枚だということ。やってることは、『Butter』の頃と比べてもたいして変わっていない。相も変わらず、音楽を〝古い/新しい〟という概念で捉えることなく、あらゆる音楽を自由奔放に血肉としている。


 では、本作のどこが『Butter』を優に超えているかというと、先に書いた自由奔放さが深化している点につきる。『Butter』をリリース以降、ルニスと結成したユニットTNGHT(トゥナイト)、さらにはカニエ・ウェスト主宰のGOOD Music(グッド・ミュージック)とプロデューサー契約を果たし、ドレイク、カニエ・ウェスト、プッシャーTといったアーティストのプロデュース業など、多岐にわたる活動を経ているからか、本作には壮大なスケールがある。この点は前作になかったもので、こうなったのはおそらく、本作に至るまでの活動で得た自信とスキルをすべてつぎ込んだからだと思う。その結果として、RLグライムを連想させるド派手なトラップの要素が色濃く表れている。


 こうした側面は、いわゆる〝売れ線〟と揶揄されるのかもしれない。だが、それのどこか悪いというのか? むしろ、『Butter』で見せてくれた自由奔放さと捻りが効いたビートの刻み方を貫きつつ、大型フェスでも堂々と鳴り響くトラックを作りあげたことに、盛大な拍手を送るべきだろう。少なくとも、〝アンダーグラウンド〟だの〝インディー〟だのというレッテルを言い訳にした粗悪な音楽よりは数段マシだ。それに、ゲストのアントニー・ヘガティーやミゲルといった異才をひとつのアルバムに溶けこませるセンスや、ベッドルームでひとり音楽に浸る者も惹きつけられるメロディアスな側面も健在なのだ。つまりハドソン・モホークは、元来の魅力を深化させつつ、その深化した魅力をより多くの人に届けるための進化も実現させたということ。


 そうした本作は、ハドソン・モホークがあらためて、不可能だと思われがちな〝広く深く〟は可能であると証明した傑作として、色褪せることのない輝きを放ちつづけるだろう。



(近藤真弥)

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 障害を指す用語は、公共電波において自主規制されることがある。重度の知的障害を指す白痴もその対象だが、大胆にもそれをバンド名に掲げる佐賀出身の3人組がいる。白痴は、女性ドラマー村里杏、ギターのはらひろ、ベースのまるの全員が交互にヴォーカルをとり、学校の終業を告げるチャイムの音をはじめとしたおもちゃのようなエフェクトと、誰もが知る童謡や70年代の歌謡曲のメロディーをごちゃまぜにぶちこんだジャンク・ポップを展開する。あふりらんぽやDODDODO(ドッドド)、Limited express(has gone?)(リミテッド・エクスプレス・ハズ・ゴーン)といった、関西ゼロ世代やその周辺と共振する感性だ。


 そんな白痴が、ファースト・ミニ・アルバムにあたる本作「チンドンDINGDONG! ~みのくるいマーチ~」を発表した。同じ九州出身のMO'SOME TONEBENDER(モーサム・トーンベンダー)「未来は今」を連想させるベース・リフからはじまる3曲目「食欲」、キャンディーズ「春一番」のパンク・オマージュのような「ウグイス」と続き、運動会の行進曲としても有名な「ボギー大佐」の替え歌の一節、〈サル、ゴリラ、チンパンジー〉を村里杏が元気よく叫んではじまる「人間」は、世に流通するパンク・ソングの大半は先人の猿真似に過ぎないと断言するかのようだ。他にも、ジャズのような展開からハード・ロックへなだれこみ、最後は水の流れる効果音で締める「おもらし」など、奇々怪々な曲が並ぶ。Number girl(ナンバーガール)を好むバンドマンからBABYMETAL(ベビーメタル)のファンまで、幅広い層にアピールするかもしれない。


 ところで私は、ドラマー村里杏のソロ・ライヴを観たことがある。その日の彼女はドラムではなく、キーボードとサンプラーを駆使して歌い踊っていた。特に印象的だったのは、曲間の語りで彼女が「神様、願い事がもし叶うなら、私はサファリパークに行きたい!」と唐突に叫んだことだ。深い意味はないアドリブだったのかもしれないが、前後の発言の文脈から、「馴染めないこの社会を捨てて荒野を目指そう」という意思表示に聞こえてしまった。こういった先が読めないパフォーマンスは、戸川純らによるゲルニカや、最近フランツ・フェルディナンドとFFS名義で共作したアメリカのバンド、スパークスなどを想起させた。


 そのスパークスに影響を受けたというクイーンのフレディ・マーキュリーは、ペルシャ系インド人の血を引き、当時イギリス領であったザンジバルから戦火を逃れイングランドに移り住んだ過去を持つ。白人のコミュニティーからも黒人のコミュニティーからも疎外され、帰属する場所がないために、彼は伝統的なオペラの定型を破壊した「Bohemian Rhapsody」を作ったのかもしれない。


 私は、白痴の音楽からも共通する精神性を感じる。古今東西の歌の形式を破壊し再構築した本作は、彼らなりの〝流れ者の狂詩曲〟なのだろう。



(森豊和)

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 2008年にデビュー・シングル「Sick Panda」をリリースしたマヤ・ジェーン・コールズ。彼女がダンス・ミュージック・シーンで大きく飛躍しはじめたのは、「No Sinpathy」というフロア・ヒットを飛ばした2012年ごろだったか。これ以降の彼女は、初のフルレングス・アルバム『Comfort』(2013)を発表し、ロンドンの有名クラブFabric(ファブリック)のDJミックス・シリーズ『Fabric』にも登場するなど、まさに飛ぶ鳥を落とす勢い。オリジナル作品では、音の抜き差しが絶妙な渋いディープ・ハウスを展開しているが、そうした抜き差しの巧さはDJプレイも同様。フロアの雰囲気を瞬時に把握し、繊細なEQ操作で音を変化させていく。そのおかげで、〝いつ曲が切り替わった!〟と驚くこともしばしば。セオ・パリッシュのようなラフで激情的なプレイも大好きだが(実際、セオがエレクトラグライド2013で披露してくれたDJプレイを浴びながら、筆者は泣いてしまった)、知性的かつ抑制的な彼女のDJプレイも、心を躍らせてくれる。そんな彼女のプレイが生みだす程よい昂揚感をまとったグルーヴは、クール・アンド・ビューティフル。凛とした鋭いカッコよさがある。


 その凛とした鋭いカッコよさは、彼女がノクターナル・サンシャイン名義で発表したアルバム『Nocturnal Sunshine』でも健在。とはいえ本作は、彼女お得意のディープ・ハウスではなく、ダブステップを基調にした音楽性が特徴だ。しかも面白いことに、2000年代半ばごろのダブステップ。具体的に例を挙げると、ダブステップという言葉が出回りはじめたころに発表されたコンピレーション『Grime 2』(2004)、ダブステップをメインストリームに引きあげたグループ、マグネティック・マンの一員でもあるベンガの『Diary Of An Afro Warrior』(2008)、デトロイト・テクノとベーシック・チャンネルをダブステップに接続してみせた、2562『Aerial』(2008)といったあたりの音。このように本作は、これまでダブステップ(そしてベース・ミュージック)を熱心に追いつづけてきた者からすると、懐かしみを抱かせる内容だ。


 また、もともとダークでひんやりとした質感が目立つサウンドを特徴とする彼女だが、この側面がノクターナル・サンシャイン名義ではより強調されていることも特筆しておきたい。だが、そのダークさは重苦しいものではなく、毒々しさは薄い。ゆえに本作は聴きやすさがあり、多様化が進む現在のベース・ミュージックにいざなう招待状として、あなたに届くはずだ。


(近藤真弥)




【編集部注】『Nocturnal Sunshine』の国内盤は、7月22日にHostessから発売予定です。

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 『Homely』(2011)、『100年後』(2012)、『ペーパークラフト』(2014)と、ここ最近のOGRE YOU ASSHOLE(オウガ・ユー・アスホール。以下 : オウガ)のアルバムは、聴き手の想像力に訴求するコンセプチュアルな姿勢を強く打ちだしていた。その姿勢は、筆者からすると現実世界と深い繋がりを感じさせるもので、特に『ペーパークラフト』収録の「見えないルール」などは、支配されているという自覚を抱かせないまま社会にとって都合の良い行動をするよう仕向ける、いわゆる〝環境管理型権力〟に侵食されつつある世情の不気味さを表現していた。こうした現実世界に対する批評性は、『Homely』以降のオウガを理解するうえでは見逃せない側面であり、筆者を含めた多くの受け手も、その側面を重点的に語ってきたと思う。


 しかし、オウガにとって初のライヴ・アルバムとなる本作『Workshop』は、その側面にばかり注目しすぎたのでは? と受け手に自問させる作品だ。アルバムでは、受け手の深読みをいざなうコンセプトや言葉で武装するオウガだが、ライヴになると、音の気持ちよさを追求する快楽主義的な側面も顔を覗かせる。プログレッシヴ・ロック、ファンク、クラウトロック、AOR、ニューエイジ、アンビエント、ポスト・パンクなどなど、多くの要素が溶解したサウンドスケープは、受け手をグッド・トリップに導く恍惚感で満たされている。それはさながら、音楽による宇宙旅行だ。


 とはいえ、そんな宇宙旅行を見せてくれる本作は、とある一夜のライヴ演奏を収録しただけの作品ではない。というのも本作、ライヴ演奏の音源を下地にしながらも、スタジオでのポスト・プロダクションを経て完成に至った作品なのだ。言うなれば、ライヴというその場限りの固有性と、〝アルバム〟という形あるものだからこそ込められる、時代や場所を越えて人と人を繋げる超越性が共生している。ゆえに本作は、過去や現在という時間軸から解き放たれた、とても不思議な聴感覚をもたらしてくれる。それこそ、ここではないどこかへ連れだしてくれるナニカ....と言えれば楽なのだが、それは単純な逃避願望でもなさそうで、だからこそ本作を何度も聴いて、あーでもないこーでもないといろいろ考えてしまう。そうした思考のなかでハッキリしたのは、〝すごく気持ち良い音!〟ということだけ。まあ、本作に限って言えば、それだけで十分なのかもしれないが。


 音といえば、本作を聴いて強く思ったことがある。それは、出戸学(ヴォーカル/ギター)は素晴らしいヴォーカリストだということ。お世辞にも、〝技術的に巧いヴォーカリスト〟とは言えない。だが、曲ごとに適切な歌い方を把握し、それを歌声としてアウトブットできるという意味では〝上手いヴォーカリスト〟だと言える。他にこのような特徴を持つ者といえば、ニュー・オーダーのバーナード・サムナーになるだろうか。バーナード・サムナーも技術的に巧いヴォーカリストではないが、曲に自分の歌声を適応させるのが抜群に上手い。それゆえ、さまざまな音が鳴るなかでも強い存在感を発揮し、聴き手に強く印象づける支配力がある。そのせいで、ザ・ケミカル・ブラザーズ「Out Of Control」や、808ステイト「Spanish Heart」など、バーナード・サムナーがヴォーカルで参加した曲のほとんどは〝ニュー・オーダーの曲〟に聞こえてしまうのだが、こうした強烈な支配力が出戸学の歌声にもある。どんな曲であっても、出戸学が歌えばそれは〝オウガの曲〟になる。そんな強みを持っていたからこそ、オウガは着実に進化しながら、活動10周年を迎えることができたのだと思う。



(近藤真弥)

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 よく考えてみれば、ちっとも不思議なことじゃないのかもしれない。でも、やっぱりこのアルバムに満ちあふれる瑞々しさには驚かされた。ポール・ウェラーの音楽をずっと聴き続けてきた僕にとってはそうだったし、初めて彼のアルバムを手にする若いリスナーにとってもそうであれば良いなと思う。〝モッドファーザー〟ってイメージが「カッコいい!」と思えるのならOKだけど、もしも「古くさい...」って印象で遠ざけてしまうのならもったいない。ちょっと少なめの全9曲(国内盤はボーナス・トラック2曲追加)にギュッと凝縮されたソリッドでカラフルなサウンドは、そんな固定観念を軽やかに飛び越えてゆくはずだから。


 人気絶頂のザ・ジャムをあっさり解散させたあとにスタイル・カウンシルで「My Ever Changing Moods」と歌ってみたり、ブリット・ポップ全盛期にリリースされた3作目のソロ・アルバム『Stanley Road』(1995)では、力みがちに「The Changingman」だと宣言してみたり。思えばポール・ウェラーはいつだって〝Change〟に自覚的だった。それこそが本質的な意味でのモッズ(Moderns=新しもの好き!)たる所以。変わるものと変わらないもの。サウンドにもルックスにも現れるその絶妙なバランス感覚は、昔も今も研ぎ澄まされたままだ。


 前作『Sonik Kicks』でのニュー・ウェイヴ、エレ・ポップからクラウトロックまでもを取り入れたアプローチも新鮮だったけれど、この『Saturns Pattern』はさらにその先を行く感じ。特定の影響源にフォーカスするのではなく、ひとつひとつの曲に多彩なサウンドがスムースに溶け込んでいる。コズミックなガレージ・ロック、サイケデリックなR&B、ソウルフルなグラム・ロックという具合。『Saturns Pattern(土星の縞模様)』だなんて、宇宙まで飛んで行っちゃう感じとか折衷的なセンス、そして臆することなく〝Change〟を続ける姿勢は、どこかデヴィッド・ボウイとも重なり合う。ふたりの音楽的な出自がモッズだってことも感慨深い共通点だ。


 クレジットに目を向けると、2002年の『Illumination』以降(前作も含めて)いくつものアルバムをプロデュースして、近年ではポール・ウェラーの右腕的な存在感を発揮してきたサイモン・ダインの名前がない。それも〝Change〟のひとつ。サイモンに代わってプロデューサーに起用されたのはジャン・スタン・カイバート。彼がポール・ウェラーのアルバムをプロデュースするのは2005年の『As Is Now』以来。とはいえ、その間もミキサーやエンジニアとして深く関わってきた人物だ。エレクトリック・ギターを中心に据えながらも浮遊感のあるキーボード・サウンドと骨太なグルーヴで緻密なレイヤーを描くアレンジは、ニュー・オーダー『Get Ready』(2001)やオアシス『Don't Believe The Truth』(2005)など、90年代からエンジニア/プロデューサーとして様々なアルバム制作に携わってきた彼が大きく貢献しているのだろう。


 Playボタンを押すといきなり、時空歪み系のシンセとそれを引き裂く爆音ギターが耳に飛び込んでくる。この「White Sky」のループを手がけたのは、ノエル・ギャラガーのセカンド・アルバム『Chasing Yesterday』にも参加しているアモルファス・アンドロジナス。そして、デヴィッド・ボウイの「Suffragette City」みたいなテンション高めのロックンロール「Long Time」でギターを弾きまくっているのはザ・ストライプスのジョシュ・マクローリーだ。10代でシーンに登場したポール・ウェラーは、かつての自分と同じ年頃のジョシュに何を叩き込んだのかな? とかね。一方ではザ・ジャムが4人組(!)だった頃のギタリスト、スティーヴ・ブルックスが「In The Car...」と「These City Streets」に参加。もちろん、オーシャン・カラー・シーンのスティーヴ・クラドックも(今回は3曲だけだけれど)ツボを押さえたプレイでバックを支えている。


 そして、ポール・ウェラーはタイトル・ソング「Saturns Pattern」でやっぱり〝Change〟だと、「すべてを変えてしまえ」と歌う。


〈Change It All / It's Saturn's Turn / Cut It Clean / The Pattern's Good〉


 過去と現在と未来が交差する座標に『Saturns Pattern』は、鮮やかに浮かび上がる。それはまるで、クラブの薄暗がりの中で視界を眩ませるミラー・ボールのようだ。この〝土星〟は、僕たちの頭上で音楽を乱反射させる。フロアで鳴り続けてきた音楽への敬意も忘れてはいない。このアルバムは昨年他界したふたりのミュージシャン、イアン・マクレガン(元スモール・フェイセス)とフランキー・ナックルズに捧げられている。



(犬飼一郎)