reviews

retweet

JAMES BLAKE『Overgrown』.jpg

 ここ最近、音そのもの、声そのものが持つ響きを尊重した音楽に惹かれることが多い。例えば、甘美な歌声の響きを前面に出すため、必要最低限の音だけを選び抜いて鳴らすインクの『No World』がそうだ。


 極論を言えば『No World』は、声のアルバムである。シンプルなリズムも、ミニマルなプロダクションも、すべては孤独感を醸しだすあの甘い歌声のためだけに存在している。そんな『No World』が漂わせるのは、人間味あふれる温もりや情感だったりする。声を極端に際立たせるプロダクションは、バランスを考えれば完璧なプロダクションではないだろう。しかし、そのアンバランスさが、声が孕む人間性を引きずりだす。不完全なプロダクションだからこそ、同じく不完全な生き物である人間の姿を描写できる。そこに聴き手は自身の姿を見いだすのだ。声や音の響きに注意を向けている音楽は、そうさせるための余白を残し、その余白に聴き手の想像力をいざなう巧妙な仕掛けを施している。


 こうした音楽が多くなったのは、やはりジェームズ・ブレイクによる『James Blake』の影響がデカイと思う。このアルバムは、『No World』の雛型と言える音楽を鳴らしているからだ。とはいえ、歌声に多くの加工を施し、送り手の存在感を薄めようと試みた『James Blake』は、声のアルバムではなく、音のアルバムであった。しかし、『Overgrown』におけるジェームズは、声のアルバムを目指したようだ。


 本作を聴いてまず目を引くのは、前作と比べて歌声のエフェクトが減っていることだ。そんな歌声からは、ジェームズ・ブレイクという男のパーソナリティーを垣間見ることができる。もしかすると、《Pitchfork》のインタヴューで語っていた、世間の自身に対するイメージに違和感を抱いていることと無関係ではないのかもしれない。さらに、ブレているジェームズの顔が印象的だった前作のジャケットから一転して、本作ではひとり佇むジェームズの姿を収めたジャケットにしたのも、ひとつのメッセージだと推察できる。つまり本作は、送り手の意識が明確になった、文字通り"ジェームズのアルバム"であるということだ。


 そして、歌声に比重をおいた本作のプロダクションは、肉体性からの解放を狙ったと思われる前作と比較すれば、再獲得の歓びを窺わせるものだ。サウンドも、EPで見られる狂気を抑え、先述の歌声が持つパーソナリティーをより顕在化させるため、黒子のような立ち位置にある(実験を楽しむ遊び心が爆発した「Digital Lion」のような曲もあるが)。


 それはウータン・クランのRZAが参加した「Take A Fall For Me」でも変わらない。むしろこの曲は、RZAがトラックの雰囲気に寄り添うラップを披露していることもあって、声が際立つ本作の重要なエレメントになっている。RZA(それから「Digital Lion」に参加したブライアン・イーノ)をアルバムの世界観に引きずりこめたのは、本作がそれだけ強い引力を持っているということだろう。


 それにしても、本作で見られる再獲得の歓びは何を獲得して湧きあがったのか? 筆者なりに考えてみたのだが、ジェームズが積極的に顔を見せてくれる内容から察するに、本作はエゴを肯定したうえでの人間回帰なのではないか? ゴースト的な前作から肉体的な本作に至ったことを考えれば、あながち的外れではない気がする。それに本作は、「Our Love Comes Back」という名の曲で幕を閉じるのだから(日本盤はボーナス・トラックが最後に収録されている)。



(近藤真弥)



【編集注】『Overgrown』の日本盤は4月10日リリース。


retweet

高橋徹也.jpg

 現今、高橋徹也の動きに注視がじわじわとだが、集まっているような機運を受ける。カタログは廃盤になっているものも多い中、ライヴでの盛況と評価、リクエストで成立したベスト・アルバム『夕暮れ 坂道 島国 惑星地球』、ライヴDVD+CD形式の『The Royal Ten Dollar Gold Piece Inn and Emporium』、そして、この約7年半振りとなるオリジナル・アルバム『大統領夫人と棺』。


 ここで初めて、彼の名前を知る人も多いと察するので、駆け足になるが少し説明を加えておこうと思う。デビューした90年代後半のシーンとは、ようやく日本語でのオルタナティヴ性が芽吹き始めてきた動きがあり、その中でも、高橋徹也というアーティストの存在はある種、特異であり、総てが「早すぎた」といえるかもしれないが、それは後付けの問題で音楽は同時代性、普遍性に常に引き裂かれる。


 96年のデビュー・アルバム『Popular Music Album』での、ザ・スタイル・カウンシル、フリッパーズ・ギター、80年代のソウル・マナーに沿ったポップ・センスが開花した様と端整なヴィジュアル・イメージでより巷間に呈示される何かはあった。先日の京都でのライヴでは、今作から「サマーパレードの思い出」が今の新曲群とまったく違和なく繋がっていたのは興味深かった。


 そのライヴでも行なわれつつ、アルバムにも入っていながら、リ・カットされたマキシ・シングル「真夜中のドライブイン」からオリジナリティは磨かれてゆく。彼のソング・ライティングとしての手腕は確かなものがあるが、バランス感覚の危うさが映えた97年の「チャイナ・カフェ」というマキシ・シングルのジャケットでは彼がスーツ姿で意味もなく、穴を掘っている。MVでも出てくる、生産性なき、意味なき穴掘り。その穴に落ちるのは自身だったともいえるし、穴さえ掘ることが出来たらよかったのかもしれない。そのシングル内には、曲調も、ジャジーでムーディーな「ナイトクラブ」、80年代的な煌びやかなポップ・メイキングに中華風のリズムが撥ねる「チャイナ・カフェ」、ギスギスした骨身のロックンロール「最高の笑顔」、フィッシュマンズ以降のアンビエントを汲んだ「ナイト・フライト」と総花的な音楽語彙が包含されている。なお、クレジットにはサックスで菊地成孔の名前があり、今は亡き、東京スカパラダイスオーケストラのドラマーの青木達之など錚々たるメンバーが名前を連ねていた。


 その後、98年のセカンド・アルバム『夜に生きるもの』はメディア露出含め、或る層にとっては記憶に刻印されている一枚かもしれない。社会属性的にマイノリティと呼ばれる層への目配せ、勝ち負けを抜きに実存としての敗者の美意識。それを「夜」という暗喩下、「生きるもの」として、混乱で視界を変える。ギターロック、ねじれたポップ・ソング、美しいピアノ・バラッド、そして、彼はなぜか"人の住む場所"へ急ぐ、という生物性の再定義を行なう。考えれば、非遺伝情報の水平伝搬における、知覚系多細胞生命体、俗に言われる、動物での現象への、便益を享受する「ヒト」とは、そのまま無防備に捉えるべきなのか、というと、個人的に精緻には違うかもしれないという気がする。そこでの、伝達の逆再生もときには要るからだ。だから、「人の住む場所」、という感覚は腑に落ちるところがある。それでも、この奇妙さは最終的な着地点としてはあくまで"ポップ"な聴後感を残す。例えば、スガシカオ、斉藤和義がときに描くものと、そんなに居る場所は変わらない。


 続く『ベッドタウン』はよりコンセプチュアル「静かさ」が追求されたようなところがある。静かさ、これは、今作の通奏低音として感じる。


《あまりにも静かすぎて気づかない ゆるやかな郊外の人の流れ/さからうことが出来ない僕の 切り離された国 ここはベッドタウン》(「ベッドタウン」)


 02年の『NIGHT & DAY, DAY & NIGHT』内にも「静かになりたい」という曲がある。


《静かになりたいな 頭の先から足の先まで 冷たくなりたいな 眠っているように》(「静かになりたい」)


 00年代も寡黙ながらも、着実に作品をリリースし、ライヴを精力的に行なっていた。目立ったところでは、02年の『NIGHT & DAY, DAY & NIGHT』でのたおやかなメロウネス、04年の『REFLECTIONS』の編み込まれた眩さ、05年の『ある種の熱』。


 彼は、『夜に生きるもの』、『ベッドタウン』という作品群の延長線上にあるのが05年の『ある種の熱』だと言っている。分からないでもなく、当時の作品と共通するいびつな倦怠と不穏なムードが充満している作品だが、その頃より成熟と頽廃的な上品さも感じられる良作だと思う。ジャズ、ダブ、ソウル、アンビエント、ディティールまで凝られた音響工作。美しくも折れそうなメロディーと、か細くセクシャルな声、それらを解体するかのような切っ先の鋭い日本語詩のフレーズ片は今聴いても、色褪せない。


 さて、8枚目となる本作『大統領夫人と棺』では、本人がオフィシャル・ブログにて詳細に語っているので良ければ、参照にして欲しいが、サウンド的にはベースの鹿島達也、ドラムの菅沼雄太、ピアノ、シンセの上田禎という名うてにして彼を知っている方なら馴染みのプレイヤーをベースに、表題曲ではエレピで佐藤友亮が加わった、ほぼ一発録音でレコーディングされている、シンプルにして、装飾がより削ぎ落とされ、行間をむしろ活かしながら、音楽的に澄み切った純度は高まっている。


 例えば、フランスのアルファ・レーベルの諸作、モダン・クラシカルの背景には、録音に拘りながらも、古典への再解釈、現在進行形の再定義、更新をはかっていたところがあったが、今作でも、彼自身が直截的に言及していたジョニ・ミッチェルのみならず、シルヴァン・シャヴォー、キース・ケニフ、ニコラス・ベルニエなどの最近、台頭しているアーティストの共振も感じ取れた。


 彼らは、コンセプチュアルに作品を構成立て、ときに一篇の小説のようなサウンド・タペストリーを描く。ブックレットに「棺」と呼ばれる散文が載せられているが、寓話性が高いながらも、何かしら内相に降りてゆく意味があり、一曲目の崩し気味に歌い始める「ブラックバード」では《静まり返った空の向こう 渡る鳥の群れ》を追う。


 また、今作では、自然の描写がメタファーとしても残るものが多いのも特徴だろう。不穏な空、日没、台風、海流、雪原、紺碧の空、春の風、急な雨、夏の風、そこに君や僕、ときに鳥、コヨーテ、船などが行き交う。過去の「ベッドタウン」、「空と海の間(昼と夜の間)」辺りを彷彿させる曲もある。とくには、中盤の「Key West」、「雪原のコヨーテ」、「不在の海」の連作的なインストゥルメンタルをベースにしたところに、静かさの外縁を俯瞰しているように感じるのもあるのかもしれない。


 表題曲「大統領夫人と棺」は、その中でも異質な熱を醸す。ポエトリーリーディング調に捲し立てられるまるで南米文学のマジック・リアリズム的な詩にアフロ・ポリリズミックなリズムに支えられ、残映が撥ねるもの。


 基本、どこか第三者的な立ち位置、語り部的な場所からの視線が漂う中、最後の「帰り道の途中」ではミクロな"個"に還る。そこでの彼は、こう紡ぐ。


《季節はいつの間にか装いを変えて 人の心さえ変えてしまう 僕はまだ帰り道の途中》(「帰り道の途中」)


 いつでも過ぎゆくものに敏感でいた彼は、今もまだ途中であるのが嬉しい。


(松浦達)

retweet

KINGDOM『VIP Edition』.jpg

 まずはジャケットに目を向けてほしい。まあ、ほとんどの人はクエスチョン・マークを浮かべるかもしれないが、こうしたセンスは、グライムスDSTVVといったポスト・インターネット世代に共通するものだ。ポスト・インターネット世代についてはグライムス『Visions』のレヴューでも書いているが、簡単に言えばポスト・インターネット世代とは、過去/現在/未来、果ては様々なジャンルやカテゴリーを自由に行き来しながら情報を集め、それらを自分なりの文脈で解釈し表現する者達、ということになるだろうか。


 だとすれば、本作のジャケットはポスト・インターネット世代の感性を見事なまでに反映させている。CDJ、スニーカーなどがごちゃ混ぜになったデザインは、容量オーバーのハードディスクが耐えきれなくなり、爆発したようではないか。しかし、その爆発によって多彩な音楽性を伴った本作が生まれた、と解釈できなくもない。そして、「ごちゃ混ぜ」という点では、1997年にコールド・カットがリリースした『Let Us Play !』に通じると思う(ジャケットの感じもなんとなく似ている)。『Let Us Play !』のアートワークにはCGが用いられているし、強引を承知で言えば、コールド・カットの片割れマット・ブラックは、元コンピューター・プログラマーだ。つまり、コンピューターとインターネット。ポスト・インターネット世代の感性にルーツがあるとすれば、コールド・カットはそのルーツのひとつではないか?


 本作はキングダムの未発表曲や、ミックス・テープ・オンリーだった音源などをまとめたレア・トラック集だが、収録されているのは興味深いトラックばかり。ヒップホップやR&Bの要素を取りいれた強烈なベース・チューンもあれば、秀逸なミニマリズムが光る曲もあり、キングダムの巧みな音作りを知るには最適なアルバムだ。さらにはアッシャーの「Appetite」、シアラの「Goodies」といった大ネタを使ったトラックまである。こうした躊躇のなさが、好奇心が肥大しやすいポスト・インターネット世代の面白さだ。



(近藤真弥)

retweet

弧回.jpg

 「こかい...」かな? 僕も初めは読めなかった。よく見ると、孤独の"孤"でも"狐(キツネ)"でもなく、弓状の曲線を意味する"弧"と"回る"という言葉がひとつになっている。弧回と書いて-koe-と読む。なるほど。漢字ならではの視覚的な印象と"こえ=Voice"とも受け取れるその響きにイメージがぐんと広がる。しかも、アルバム・タイトルは『纏ム(まとむ)』だ。コトバに対する生真面目だけれども、しなやかな感性はこのアルバムを手にしたときから伝わってきた。


 弧回の中心メンバーは大島輝之。僕はこのアルバムをex. guitarと名付けられた彼のソロ・ユニットでのライヴ会場で手に入れた。ex. guitarは"元ギター"というその名のとおり、ネックがもげてボディだけになったストラトとエフェクターを使った即興演奏。鍋のフタやらハサミやらマイクロ・スピーカーやらをピックアップにちょこんと乗せると...マイブラも真っ青なフィードバック・ノイズが! 予測不能のスリルとユーモアさえも感じさせるパフォーマンスにぐっと引き込まれた。大島輝之はソロでのエクスペリメンタルなアプローチを始め、大谷能生と植村昌弘とのユニット sim(シム)など数々の活動で知られるギタリストだ。


 物販コーナーで彼自身から「聴きやすいですよ(笑)」と勧められたのが、弧回の1stアルバム『纏ム』だった。「歌ってます!」とのこと。ジャケットを見つめてみる。真夏の暑さに揺れる陽炎のような情景。まるで時間が止まってしまったみたいだ。懐かしさと新しさ、どことなく不穏な静謐。僕が体験していないはずの日本人としての遠い記憶が呼び覚まされる。


 このアルバムの音像にぴったりなジャケット・デザインだと思う。大島の優しげなヴォーカルとアコースティック・ギターを中心に、石橋英子やジム・オルークと活動を共にする波多野敦子のヴァイオリンが豊かなメロディを添える。千葉広樹のコントラバスが翳りのある低音を響かせる。弧回は、この3人で2011年に結成された。そして、ゲスト・ドラマーとして山本達久が全面的に参加。エクスペリメンタル/ノイズという従来の大島輝之のアプローチとは大きくかけ離れたアコースティック・サウンドが新鮮だ。独特のコード感を持つメロディが耳に、心にすっと入り込む。けれども、優しいだけじゃない。不意を突く曲展開に、大島輝之の奔放な実験精神が眠ってはいないと気付かされる。耳をすませば、ノイズは遠雷のように鳴っている。


 少ない言葉で紡がれるアコースティック・ミュージック。後期のガスター・デル・ソルを思わせる遊び心や七尾旅人が『ひきがたり・ものがたり Vol.1 蜂雀』で描いた詩世界にも通じる、どこか夢うつつな日常。2011年3月以降、音楽だけに限っても"聴ける歌と聴けない歌"があることは、決してナイーヴなことじゃないと僕は思う。それほど日常は変わってしまったのだから。エクスペリメンタルにしろ、ノイズにしろ、音そのものだけで突き進んできた大島輝之が選び取った言葉とメロディは、儚くも切実に僕たちの日常に寄り添う。今の日本だからこそ生み出された最良の音楽のひとつ。唯一のカヴァー・ソングがトッド・ラングレンの「I Saw The Light」なのも示唆的だ。どうしようもないこの国、この時代へのラヴ・ソングは、まだ大声で歌われはしない。



(犬飼一郎)

retweet

YOUTH LAGOON.jpg

 いわゆる、チルウェイヴに属していたといえるアーティストのネクスト・フェイズが興味深いことになっている。メモリー・テープス、トロ・イ・モアを筆頭に、それはライが示すようなスウィート・ソウル・ミュージックへの近似をときに示すように、一概にヒプナゴジカルでノスタルジックな「何か」ではなくなってきている。


 チルウェイヴ自体がネットを媒介にしたか細い糸のようなベッドルーム・ミュージックをフロアー、もしくはリスナーのヘッドホンに連結したようなところがあっただけに、創作性としてはよりそれぞれが分岐してゆくのだろうとも察するが、今や、多方面に音楽の好奇心を伸ばすベックも当初はベッドルームから音を綴り、今や死語かもしれない、ジェネレーションXのスラッカーズ・アンセムたる「Loser」を産んだ。


 補足するに、ジェネレーションXとは、アメリカのケネディ政権からベトナム戦争時代に生まれた"失われた世代"と一部では言われもするが、今や国、時代背景は違えども、ロスジェネ、いわゆる、日本でも格差や貧困問題に対峙しなければならない若年層のヴォリュームは看過出来ないところまで来ている。その世代はバブルも知らなければ、あったはずの富裕たる日本/舶来のカルチャーに忘失と無関心も包含されているところもあるが、ネットや映像などを通じるなど、メディア・リテラシー能力は凄まじく高い。ただ、そのリテラシー能力とは現実を捌くスキルと近似するか、といえば、精緻には違う気もする。現実を担保に置いた上でよりベッドルームへ還る、そのベッドルームから発信される無限の自己表現が対象化されているともいえるからかもしれない。


 ユース・ラグーンは当初からチルウェイヴの括りというよりも、個の実存不安がそのまま吐露され、音楽にかろうじて接続される危うさが魅力的でもあり、トレバー・パワーズという一青年の混沌と繊細さが青白い血管のように浮き出ていた。ゆえに、好き嫌いはわかれたが、彼にとっては「作品を出す行為」そのものが浄化であり、報われる何かであったのではないかという気さえする。


 1年半振りとなり、プロデューサーに敏腕のベン・アレンを迎えたセカンド・アルバム『Wondrous Bughouse』でもより揺らぎが増し、聴いていると、前後不覚になるような際どさと微睡みが拓かれずにカット・アップされながら届けられる、そんなところがある。ヴァルネラヴィリティー(攻撃誘発性、内的脆弱性)はアーティスト、表現者にとっては強みだが、ユース・ラグーンの場合は脳内サイケ・トリップのように、夢絵巻的な音像が極められてもいる。


 当初からのリヴァーヴ、残響、不思議な質感は保持されたまま、よりサイケデリックにシンセ、グロッケン、チープなエレクトロニクス要素が絡み、世界のどこかの国に元々、あった童謡のようなメロディーの鮮度は高まった。そこに、あの折れそうな声で「生」(死ではない何か)の周縁を歌う。歌う、というよりも、現代らしく、呟く(Tweet)的なところもある。


 昨今、チルウェイヴとモダン・クラシカル、アンビエント・ミュージックの境目が曖昧になってきているとさえ個人的に思えるのだが、この作品を聴いていると、その境目の無化を如実に感じる。つまり、アンビエント・ミュージックとして、モダン・クラシカル、または、ドローンとしても受容できる細部があり、その「細部」が当初より顕微鏡で覗き込み、拡大した印象も散見できる。


 例えば、2曲目の「Mute」での揺蕩いながらも、着地点を探さない宙空で振れる浮遊感。6曲目の「Dropla」では昨今の"テープ・ミュージック"の隆盛とのリンクも感じ、8曲目の「Third Dystopia」ではタイトル、歌詞内容と反比例してメロディー・メイカー、アレンジメントの妙の洗練を確かにうかがわせる。そして、5分以上の曲が増えたことにより、前作で多少は物足りなかったメロウネスは爛熟しながらも、行間に美しさが込められている節があり、深遠に精神の内側に潜航し、それが逆説的に外へと反転する手前まで来ている。


 「手前」というのは、歌詞そのままから受容するイメージ、またはこのアルバム・タイトル名の"Bughouse"というのはアメリカのスラングで、「精神病院」を指し、そこに"Wondrous"という「実に素晴らしい」言葉が結ばれている狭間にある訳で、冬眠の時代(Year Of Hibernation)を過ぎて、出た外がそういったところではやはり物悲しさも覚えてしまうからだ。


 彼は外に出たが、まだ、何処かの中に居る、その際どさで揺れる一人の青年のドキュメンタリー作品として受け止めるだけの許容は巷間に用意されているのか、その不安も残る。過渡期なのか、折れそうな今を刻印した作品なのか、聴き手側の判断が気になる。



(松浦達)


retweet

Rhye『Woman』.jpg

 価値観が多様になり、あらゆるものがニッチになった影響か、ここ最近、既存の枠組みから逸脱しようとする音楽をよく見かける。例えば、自身の声をあえて機械的に加工し、送り手のパーソナリティーを消しながらもそこにソウルを宿した、ジェームズ・ブレイク『James Blake‎』などがそうだ。このアルバムは、伝統や歴史に忠誠心を捧げるだけではなく、伝統や歴史から現代でも通じる要素を抽出し、それをモダンなポップ・ミュージックにアップデイトしている。


 こうした半逸脱的行為は、アヴァンギャルド、またはエクスペリメンタルと言われることもあるが、『James Blake‎』に対する好意的な評価から察するに、先述の「価値観が多様になり、あらゆるものがニッチになった」という認識が多くの人々の間で共有されつつあるのだろうか? だとすれば、ライによる『Woman』が持つ曖昧さは、とても興味深いものとなる。


 ライが登場した当初、高い匿名性を守っていたこともあって、あの美しい歌声は女性だと思っていた人も多くいただろう。しかしその正体は、デンマーク出身のロビン・ハンニバルと、カナダ出身のマイク・ミロシュによる男性2人組のユニットだった。ヴォーカルはマイクが担当しているそうだが、この事実を知ったとき、驚いた者もいるのではないだろうか? そして同時に、"なぜあんなにも女性的に歌うのか?"という疑問が、心のなかに生じたはずだ。


 本作までにリリースされた「Open」「The Fall」といったシングルのジャケットも、それぞれ女性の体を映したデザインを選んでいることから、本作は女性的な雰囲気を醸しだしているのだろうと、聴く前は勝手に予想していた。しかし、その予想は見事に裏切られた。確かに女性的な雰囲気はある。だがそれは、女性に対する憧れというよりは、ある種の溶解を感じさせるものだった。特にマイクのヴォーカルは、"女性になろう"としているのではなく、"女性に近づく"ことで、性別などの枠組みから解き放たれるための"祈り"に近い境地で歌われている。このことが、先に述べた「曖昧さ」に繋がっていると思う。


 収録曲のほとんどは、ミニマルなプロダクションが印象的なトラックであり、そこにディスコやR&Bなどの要素をスパイスとして振りかけている。お世辞にもサウンド自体は斬新と呼べるものではないが、後述する歌詞の世界観を生かすため、必要最低限の音だけを鳴らしているのが伝わってくるし、ひとつひとつの音が生みだす甘美なアトモスフィアは、多くの人を陶酔的快楽にいざなうだろう。


 歌詞の多くは愛にまつわることをテーマに取りあげているが、注意深く耳を傾けると、恋愛関係における表層的な感情ではなく、その感情の根源を成す機微に目を向けているのがわかる。「Open」 「The Fall」のMVは、本作が内包する機微を上手く表現していると思うが、このMVで見ることができる風景を聴き手の心に作りあげる歌詞なのだ。


 そういった意味で本作は秀逸なラヴ・ソング集とも言えるが、愛の本質を追究する過程で男女関係という構図から軽々と抜けだし、肉体的縛りを克服したかのような"ぼやけた輪郭"を浮かびあがらせている。そして、その"ぼやけた輪郭"は、あたかも"これが本当の自由だ"と言わんばかりに、聴き手をわし掴みにするのだ。



(近藤真弥)

retweet

DJ Koze『Amygdala』.jpg

 前作『Kosi Comes Around』以来8年ぶりとなるアルバム『Amygdala』だが、このタイトルを見たときは少々驚いてしまった。何しろ"Amygdala"とは、日本語で扁桃体を意味するからだ。"なんでまた扁桃体なんてタイトルを?"と思ってしまったのは、言うまでもない。簡単に説明すると、扁桃体とは脳を構成する部位のひとつで、情動や記憶に関する役割を担うとされている。


 だからなのか、本作はどこか懐かしい気持ちを抱かせるアルバムであり、聴き手をディープな世界観に導く潜行的グルーヴは、喜怒哀楽に収まらない多彩な感情を発露している。この潜行的グルーヴに身を任せていると、だんだん夢見心地な境地に落ちていく。これはある種の退行催眠かもしれない。ゆっくり記憶を遡り、ぼやけた過去を見つめ、次第に意識が解体されていく不思議な感覚...。本作は、こうしたスピリチュアルな領域を見せてくれる。


 それを可能にするひとつひとつの音は洗練の極みにあり、綿密に計算され築きあげられた音像美は芸術的と呼ぶにふさわしい輝きを放っている。鳴るべき場所で音が鳴り、不必要な音は皆無に等しい。さらには無音さえも曲の重要な構成要素として生かすDJコーツェのミニマリズムは、リカルド・ヴィラロボスと双璧を成す独自性を獲得している。


 そして本作は、様々な音楽的要素を孕んだモダン・ポップ・ミュージックとしての創造性が光る作品でもある。ハウスやアンビエントといった、これまでの作品における基本的要素はもちろんのこと、ザ・フィールドを想起させるループの美学もあれば、インクやライに通じる甘いフィーリングを彷彿させる瞬間もあるなど、本作におけるDJコーツェは奔放とも言える横断性を披露している。それはカリブー、マシュー・ディアー、アパラット、ダニ・シシリアーノといった数多くの参加アーティストによる外的影響を受けいれた、DJコーツェの柔軟性があればこそ成せるのだと思う。


 さらに面白いのは、本作は聴くシチュエーションを選ばないということだ。クラブはもちろんのこと、ドライヴ、電車、人であふれる街などで聴いても、それぞれ違う景色を見せてくれるはずだ。何かしらの流行りや潮流に属するものではないが、変臉の如く表情を変えるハイブリッド・ミュージックとして斬新な響きを持っている。



(近藤真弥)

retweet

VICENTE AMIGO.jpg

 スペインはグラナダのバーでフラメンコの舞台を初めて観たとき、その舞踏者のステップの反復、フラメンコ・ギター奏者の紡ぐ旋律が哀愁と陶酔を共にもたらせてくれたことを想い出した。特に、"ソレア(Solea)"と称される古典たる曲種にはボサ・ノヴァがもたらすサウダージ、ファドで感じる慕情、タンゴに宿る愛郷心と引き裂かれた喪失感、に近い「何か」があるのでは、と現地の人と話を交わした。つまり、日本人の自分には根源的に分からないかもしれないが、通底する温度には胸が締めつけられる何かがあること。その舞台でも、観客席からはハレオ(掛け声)が飛び、ワイン・グラスやライトの演出とともに、じわじわと場内は熱を帯びていった。


 そもそも、「音楽」の歴史を振り返ることは民族性を巡る諍い、戦争、悲しい事実などの痕を孕むことが多いが、フラメンコの歴史でも重要な役割となったのは、"ヒターノ"というスペイン・ジプシーであり、遡ること、ムーア人というエスニック・コミュニティに伴うものと言われる。掘り下げてゆくと、15世紀の中ごろ、スペイン南部のアンダルシア地方に住みだしたジプシーたちが、その地方に伝わっていた舞踊音楽を彼らなりの意匠で作り上げ、または、彼らの影響の下に演唱され始めたともある。スペイン各地にはいろんな舞踊があるが、フラメンコとは、南部のアンダルシア地方で、ジプシーの関与したものを指すことが多いものの、そもそも、アンダルシア地方は、多種多様な文化、地域との往来が激しく、インド、アラブ、ギリシャなどの音楽、文化が混ざり合う場所として周知かもしれない。


 そこで、フラメンコも「原型」から洗練され、コミュニティ内の小さい音楽から、ショーのための、そして、舞台のための音楽へと繋がるというのは一概に平易なものはなく、先達の苦労、承継者たちの努力、巡る社会環境の状況などが絡み合う。"ヒターノ"にしても、社会内で承認を得て、生きる人たちというよりも逆に社会側から弾かれることもあり、長い間、民族そのものへの迫害も続いたと言われている背景を汲むと、感慨が募る。


 フラメンコでの激しい踊り、圧倒的なパフォーマンスには"ヒターノ"の悲愴にも近い想いが切実に表象されてもおり、"カンテ"と評される「歌」には彼らの来し方が含まれてもいるのを感じ、それは今、グローバリーゼーションの進捗や多くの音楽が洗練と均質化を見せる中でも、核心は変わらずに響く。


 このたび、最新作『ティエラ』を上梓したビセンテ・アミーゴ(Vicente Amigo)は、パコ・デ・ルシア以降といえる伝統への敬意と果敢な挑戦を続けてきた、世界的に活躍するフラメンコ・ギタリスト。おそらく、具体的に作品に触れたことはなくても、デヴィッド・ボウイの前座をつとめたり、1997年のソロ三作目『Poeta』ではフラメンコ・ギターによる協奏曲に挑むなど、そのアティチュードには多くの注目を浴び、また、スティングやミルトン・ナシメント、日本のドリカムに至るまで共演の幅も広く、もしかしたら、意図せずとも、自然と彼の音を耳にしているかもしれない。


 この約3年振りとなる新作の内容は、ベテランのガイ・フレッチャーをプロデューサーに招聘することで、確実に歩みと深化を進めている。


 ガイ・フレッチャーといえば、後期のロキシー・ミュージック、ブライアン・フェリーの作品でもキーボード・プレイヤーとして活躍し、1984年にダイアー・ストレイツの正式メンバーとなり、1985年の世界的な大ヒット作『ブラザーズ・イン・アームス』にも名演奏を刻んだ。近年では、2004年の『サージェント・ペッパー ぼくの友だち』でのサウンド・トラックなど映画、TVのフィールドでも多岐に渡るそのワークスには各分野から評判が高い。


 今作は、ロンドンでの録音、ドラムにダニー・カミングス、フィドルにジョン・マッカスカー、ホイッスル、イーリアン・パイプにマイク・マクゴールドリック。その、マクゴールドックの所属するスコットランド民族音楽をポップに解釈するグループ、カパーケリー(Capercaillie)からアコーディオンのドナルド・ショー、ベースのイーワン・ヴァーナルが参加するなど、ガイの人脈ネットワークがしっかりと伸びている。


 ゆえに、いわゆる、ケルト・ミュージック(とは一概に括れないほど、今は細分化とある種、大文字化が進んでいるが)のたおやかさが混じりながらも、クラシカルにして端整な輪郭を整える淡さが前景する。


 大陸的な慕情とでもいえるのだろうか、フィドルやアコーディオンの翳りを帯びた音色、そこにときに泣いているかのようにも聞こえるあの自在なビセンテのギター捌きとメロディー・センスが混成し、音響そのものもソフィスティケイティッドと併せ、不思議な音風景が滲む。


 傍目には、イージー・リスニング的にも捉えられるところがなきにしもあらずだが、6曲目の10分近い「Rio De La Seda」でのアンビエンスなどは本作が得た白眉たるものともいえるかもしれず、表層的なエキゾチズムと平易に名称づけるには、果敢な実験精神と参加ミュージシャンたちの息吹が溶け合う無国籍のようで、どこかの国でずっと流れ続ける伝承音楽の架空性が意趣深い。


 フラメンコとケルトの血脈が合わさっただけではなく、同時に、誰もが思い浮かべるいかにもな、それら伝統音楽や国境線とも差異がある、艶美さと叙情が詰まっている。



(松浦達)

retweet

screamer.jpg

 そのオリジナリティー溢れるプロダクションでヒップホップやジャズの枠を飛び越え、常にシーンに刺激を与えると同時に裏側からコントロールしてきた2人組、ウーネリーズ。そんな彼らがシングルとしては2枚目となる今作を発表した。


 月を味方につけたようなヴォーカリスト、kimの藍色の歌声、ビートの隙間を埋めていくラップ、これが本当に素晴らしく、メンバー(と言っても2人なんだけど...)が寄ってたかって巻き起こすジャジーでスウィンギーでファンキーな風に乗り、あの山越えてずっと遠くまで飛んでいく。


 新曲3曲+ボーナス・トラックとしてリミックス2曲が収められたボリュームのある今作の中で、一番彼ららしいと思うのが2曲目の「DOMINO」。ねっとりとスウィングするリズムが耳を惹くが、淡々と言葉を積み上げていくkimの声が最高に塩辛い。そして、そこに絡んでいくトランペットが、これまた最高にかっこいいのだ。リアルな説得力と想像力、そこに何かが生まれる前のワクワク感が漲っている。ここもまた日本の最前線。



(粂田直子)

retweet

大森靖子ジャケ写.jpg

 人生、どうしたって上手くいかないことがある。呼吸しているだけでも胸くそ悪いし、とっとと地球なんか終わってしまえって心底思うし、生まれたときから背負った不景気は今の政治のせいだって思いながら心もとない財布の中身を憂い、目の前で幸せそうに歩く酔っぱらいですらも憎しみの対象へ早変わり。


 冷静なときはそんなこと思っちゃいないし、こんなこと思ってもいけない...ってわかるけど、やりきれないときだってある。涙を拭いながら、ああ明日もまた生きなくちゃ、辛くたってなんとかしなくちゃならないなって、月夜に照らされながら強く実感することもある。


 私が大森靖子と初めて出会ったのは、彼女が主催する月例企画だった。初見で感じた素直な感想は、一言で表すなら、「恐怖」でしかなかった。


 ギターを掻き乱し、思いのたけを怒鳴り散らすかのように歌いあげる。乱れた髪の隙間から見える鋭い眼差しで、客席にいるひとりひとりを睨みつけて、てめえの胸倉をつかんでぶん殴ってやる! という気迫すら感じさせる迫真のステージング。だけど、ひとたび歌い終えると、丁寧に「ありがとうございます」とはにかみ、かわいらしい声でMCをする。


 歌わなければこんなに可憐で麗しい女性なのに、中島みゆきのように世を憂いだり、モーニング娘。のようにキャッキャはしゃぐし、演歌歌手のようにどっぷり歌いあげるし、取り乱して怒鳴ったりするし、イタコのようで感情が山の天気だ。


 むかし、小さな犬ほどよく吠えると聞いたことがある。自分自身に自信がないため虚勢を張り、自分を大きく見せようとするあまり、他者をむやみに攻撃して本当の自分を隠す。もしかしたら、誰かの気を引きたくて、注目を浴びたくて、自分を偽っているのだろうか。


 大森靖子って本当は、音楽の力を信じた優しい心の持ち主なんじゃないか?音楽の魔法を信じているから、『魔法が使えなかったら死にたい』って思うんじゃないか。鋭い目で睨みつけるのは私たちを警戒しているからだろうか、見つめる先にはなぜだか哀愁と孤独が見え隠れする。ここに私はいるよ!って、だれかに存在をわかってほしくて孤独を垂れ流しているのだろうか、もしかしてこの人は寂しがり屋なのかもしれないなあ。


 もし人間に、"自分"という名の器があるのなら、彼女はとっくにはみ出してる。抑え切れない激情、悲しみ、孤独、そして煌きが溢れだし、歌へどばっとなだれ込む。彼女は表現者というより、芸術家に近いものを感じる。椎名林檎のような100%作り物の真っ赤な嘘だったら、大人が作りあげたはりぼての女王様だって気づいたうえで私たちは楽しめるけれど、彼女の作品はほんの少しだけ真実が混ざっているから、本当なのか嘘なのか判別がつかない。その私たちの反応をみて、大森は楽しんでいるのではないだろうか。それが顕著に現れているのは、椎名林檎のアルバム『勝訴ストリップ』を引用したジャケット。何かを模倣することで「パクった、パクらない」といった論争に火がつき、いわゆる"文化人"たちの話題となる。やられた、まんまと彼女の思うつぼだ!


 そういえば過去に大森はブログでこんなことを話していた。


 《私こんなだけど、確実に誰かの雑音だけど、誰かに元気をあげれたらいいなって本気で思って音楽をやっているんだよ。だって私はそうだったから。好きな歌、好きな孤独を垂れ流して、なーんだ私だけじゃないんじゃんってラクになれた。そのときの私が好きになれる音楽にしようっていうのだけはいつも心がけている。》(2013年2月15日エントリー「うれしかったこと」 大森靖子ブログ「あまい」より)


 この言葉に物凄く共感した。冒頭で述べた私の洗い流せない感情は、彼女の音楽によってすべて浄化されるし、彼女自身が望んでることを本作は実現できている。私は、あなたが垂れ流す素敵な孤独をとても愛していますよ。どうもありがとう。



(立原亜矢子)