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 『Footwork On Hard Hard Hard!!』『160 OR 80』といったコンピレーション・アルバム、それからサタニックポルノカルトショップの『AtoZ!!!!!AlphabetBusterS!!!!!』、クレイジーケニーの『Absolute Shitlife』など、シカゴのジュークを独自の視点から発展/進化させた作品が日本から立て続けに生まれている。


 イギリスではジュークがポスト・ダブステップ的に解釈され、ブルックリンからはスラヴァの「Soft Control EP」といったインディー・ダンスと交雑したジュークも出てきているが、正直に言うと、日本におけるジュークの盛りあがりと比べればまだまだである。例えば、先月新宿ロフトでおこなわれた《SHIN-JUKE Vol.2》がそうだったように、異なる要素が交わる瞬間の興奮とダイナミズムという点では、日本のジューク・シーンは群を抜いて面白い。そうした日本のジューク・シーンの面白さが、本作『Syrup Gang』にはあると思う。


 本作を作りあげたドーピオは、それぞれ京都と大阪に在住している2人組のユニット。そんな彼らが生みだす音楽はジュークだけでなく、LAビート・ミュージック以降のビート感覚も持ちあわせており、インテリジェンスの高さを窺わせるサウンドスケープも秀逸だ。そして、ひとつひとつの音に込められた遊び心はコーネリアスを想起させる。すべての曲が洗練されており、尚かつアッパーなグルーヴが耳に残ることもあって、筆者はピクニック・ウーメンのジュークを想起してしまった。また、本作はコズミックなアトモスフィアを醸しだしているが、このアトモスフィアには、スペース・ディメンション・コントローラーに通じるSF感がある。こうした世界観も本作の聴きどころだと言える。


 強いてお気に入りを挙げるとすれば、「Aspara」だろうか。この曲のダイナミックな展開は、熟練のジャズ・ミュージシャン達によるジャム・セッションを思わせる。それから「Redlips」も特筆しておきたい。本作のなかでは最もシカゴ産ジュークに近い音を鳴らしているが、エレガントな音色とビートは何度聴いても心地よい。ジュークの良さであるラフな質感を残しつつ、同時にドーピオなりの独自性を確保することにも成功している。



(近藤真弥)

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 元来、アメリカにおける"フォーク・リヴァイバル"とは、伝承された民衆の歌を発掘する文化活動に準拠し、或る意味で高度に職業的になった音楽家たちによって形成され、予め作られてしまうかのようなシーン、拡がってゆく大文字のポップスではない「小声」の連なりに副文脈がある。昨今では、動画配信、バンド・キャンプ、サウンド・クラウドなどを通じ、「小声」でもダイレクトに世界中にアクセス出来るようになった分だけ、新しい時代のフォーク・リヴァイバルには、トラディショナルなものだけではなく、アシッド・フォーク、フリー・フォークといったものも混成されつつ、ネット上だけではない確かな紐帯が見えもする。


 近年、考えてみても、世界的にブレイクしたマムフォード・アンド・サンズを筆頭に、UKのエミー・ザ・グレイト、韓国のSAGITTA、イスラエルのNOA BABAYOF、中堅に差し掛かってきたデヴェンドラ・バンハートやジョセフィン・フォスターまで、世界各地で、その国の伝統やルーツ・ミュージックへの畏敬を保持しつつ、歌い手の内的感情が繊細に音楽によって紡がれ、それが多くのリスナーに「共有」される、そんな美しさも表出してきている。


 つまりは、過去からもあったことだが、大型フェスやイヴェントで誰もが入り込めるビッグ・アクトやパフォーマンスの傍らで、シンプルなサウンドと小声に耳をすませている人たちの姿も弾き合うことなく、真っ当に併存するようになったということかもしれない。


 そんな中、NYのシンガー・ソングライターにして、まだ28歳のウィリー・メイソン(WILLY MASON)の約5年振りとなる通算3作目『Carry On』が届けられたが、毅然と引き締まった作品になっており、素晴らしい。ボブ・ディランやジョニーキャッシュを思わせる声とも一部メディアでいわれるものの、個人的にはレイ・ラモンターニュ辺りのスモーキーさに、渋みが加わった声という印象も受ける。今作のアレンジメントはとてもシンプルで、控えめなシンセ、打ち込みのドラム、エレキ・ギターが挟まれながらも、彼の声が前面に、そこにアコースティック・ギターが添えられるという曲が多くを占める。


 背景には、2007年の前作『If The Ocean Gets Rough』がバンド・サウンドを基調にしたややデコラティヴなものになっていた、その反動もあるのだろうか、ロンドンの彼の自宅の地下室で、フランツ・フェルディナンドなどを手掛けたダン・キャリーとともに作り上げたという経緯も含めて、「抜けの良さ」と「実験性」が程よく相克もしている。それでも、後者の「実験性」は、単調になりがちなサウンドスケイプに亀裂を入れるようなささやかな試みであり、曲の構造そのものを内破するほどのものではない。


 一気に聴き通せてしまうこの『Carry On』だが、敢えて、ピックするならば、3曲目の「Talk Me Down」でのオルタナ・カントリー調の柔和なメロディーに、硬質な音が背面を彩り、彼のファルセットが冴える佳曲になっている。また、哀愁と麗しさをそなえた伸びやかな声が心に刺さる5曲目の小品「Show Me The Way To Go Home」、弾むリズムとチープ電子音が混ざる、軽快な7曲目「I Got Gold」、12曲目の「If It's The End」におけるダウン・トゥ・アースなブルーズ、とこれまで以上に彼のルーツ・ミュージックへの絶妙な距離感と敬意が表されているのみならず、「うた」そのものが響く。


 誰もが歌える、知っている「うた」も今の時代、大事な要素だが、こういったささやかに、フォーク・ミュージックの歴史をなぞり、刷新してゆく作品の意味も看過出来ない。



(松浦達)

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 2008年には、オリジナル・メンバーでのフジロック出演という"復活"を印象づけるサプライズはあったけれども、肝心の新作リリースに関しては、いまいち曖昧なまま。そして、何度か「ついに!」と思わせては消える過去2作のリマスターに取りかかっているというウワサ。それからまた4年も待たされて、昨年5月に『Isn't Anything』『Loveless』『ep's 1988 - 1991』のリマスター盤がリリースされた。当然、オリジナルとは比べものにならないほどの音質。それは、20年以上も続いた不在の歳月で降り積もった"伝説"や「もう継続的な再始動はないのかな...」という"諦観"という名の分厚い雪をとかすには充分な熱量を放っていた。リマスター盤を聴いた僕の心にノスタルジアはなく、想像をはるかに超えてクリアになった音像をひたすら耳で追いかけた。幾層にも織り重なるギター・サウンドのレイヤーには、聴くたびに新たな発見がある。1曲の中でも刻々と表情を変えるベースとドラムの雄弁さに気付く。そして、"儚い"と形容するにはエロすぎるメロディー。そのどれもが、シンプルに"今の自分を楽しませてくれる"という意味でリアルだった。そんなふうに僕は3枚のアルバムを聴いた。そう、大好きなバンドのニュー・アルバムに興奮するように。


 そして今年の2月8日、新木場スタジオコースト。数日前には、22年ぶりとなるこの新作『m b v』が彼らの公式サイトからCD/LP/ダウンロードという3つのフォーマットの組み合わせでリリースされたばかり。すべてのタイミングがかっちり噛み合った今がその時。リマスター盤に刻み込まれたサウンドこそケヴィン・シールズ自身が求め続けてきたものだとしたら、それが2013年の今、どう鳴らされるのだろう? 待望の新作からは何曲がプレイされるのだろう? "再結成"バンドのライヴを見物、というお気軽さはこれっぽっちもないのが自分でもびっくりだ。ちぎり取られたチケットの半券といっしょに赤紫色の耳栓を受け取る。そう言えばマイブラは、やたらと"轟音"だとか"爆音"だなんて言葉で語られることが多いけれど、僕はそう感じたことはない。むしろ、アタックから残響まで、サウンドの隅々に意識を張り巡らせる繊細さと、時には猛り狂うガレージ・バンド然としたアンサンブルとのバランスこそが魅力だと思っている。リマスター盤(特に『Isn't Anything』)を聴いて、その思いを深めた。今回のツアーが始まった時から「You Made Me Realise」の15分を超える"ノイズ・ビット"のウワサは耳にしていたけれど、本当に耳栓を配るなんてね!


 開演予定時刻から30分ぐらい遅れて、新木場スタジオコーストのステージにケヴィン、ビリンダ、デビー、コルムが現れた。僕はフロアの中央あたりで、ポケットの中の耳栓を握りしめて身構える。やっぱり、この4人だからこそのマイ・ブラッディー・ヴァレンタインなんだな、と胸を高鳴らせながら。やがて、あの印象的なシンセのループが鳴り響き、鮮やかなストロボとシンクロする一音一音に会場全体が飲み込まれる。僕にとって1991年以来となるマイブラのライヴは「I Only Said」で幕を開けた。全身をバネのように躍動させるデビー、ヘヴィメタル・ドラマーのようにありったけの力を込めて叩きまくるコルム。想像以上にワイルドで、エネルギーに満ちあふれた2人に釘付けだ。ケヴィンのナーヴァスな表情はサウンドに集中しているからかな? ビリンダは相変わらず妖艶なオーラに包まれている。壁と天井への反響も計算されたかのようなフィードバック・ノイズがぐるぐると宙を舞い、重量感たっぷりの低音がフロアを揺さぶる。そして、その2つが渾然一体となった瞬間、空気そのものが振動するのを感じた。「鼓膜、意外と大丈夫!」って思っていたけれど...、やっぱりラストの「You Made Me Realise」で耳栓を装着してみた。


 今まで、色んなバンドのライヴに何百回と足を運んでいるけれど、演奏中にどんどん音がでかくなっていくなんて初めて。「マイブラだからねぇ」って片付けられない事実だと思う。ライヴでの"音の鳴り"は周知のとおり、会場や機材、メンバーのコンディション、PAのテクニックなど、様々な要因によって大きく左右される。通常の(常識的な)やり方なら最大公約数、つまり「今できるベスト=聴きやすい」音作りを目指すはず。その逆を選んだとしても、ただ単に大きくするだけなら、音は割れる。それがノイズ(雑音)になる。けれども、マイブラは違った。どんなにボリュームを上げても"割れない"音が鳴らされていた。大きな音を鳴らすのではなくて、音の"解像度"を上げるということ。バンド演奏という行為はアナログだけれども、その発想はデジタルだと思う。音の密度を人間の処理能力の限界まで引き上げる。音を"聴く"のではなくて、"感じる"ことができる領域まで。


 で、ようやくこの『m b v』のこと。すでに色々なところで「音が小さい」だとか「ミックスが粗い」だとか言われている。しかも、それがこのアルバムの"評価の分かれ目"みたいなニュアンスで。とんでもないことだと思う。マスタリングのテクニック云々、ケヴィンが一人で仕上げたから云々...。なんて貧弱な想像だろう。「これからマイブラを聴いてみようかな!」と思っている若い人たちや「久々に聴いてみるか!」と楽しみにしている往年のファンの耳を塞ぐような行為には辟易する。僕もこのアルバムを初めて耳にした時には、籠っているように聴こえる低音が気になった。ましてや、リマスター盤とあのライヴのあとではなおさらだ。でも、耳にひっかかるこの"何か"こそが、このアルバムの魅力であり、個性だと感じた。そこにケヴィン、そしてマイブラの意図があるのだと思う。


 ケヴィンがほぼひとりで作り上げた『Loveless』をついに4人でレコーディングできたかのような前半。そして、先日のライヴでこのアルバムから唯一プレイされたポップでかわいい「New You」をはさんで、後半の3曲では彼らの獰猛な一面が牙を剥く。チープなシンセと怒濤のガレージ・サウンドが猛り狂う「In Another Way」、ジャンクなリフ一発でひたすら押し切る「Nothing Is」、ラストの「Wonder 2」は地響きのようなドラムンベース! 何度も聴いてみて気づいたのは、このアルバムは"音量が均一"じゃないということ。アルバム丸ごと1枚、そして1曲の中でもサウンドが揺らいでいる。


"This album has been recorded as an analogue album. It was recorded on 2 inch 24 track analogue tape and mixed onto half inch analogue tape and mastered with no digital processing involved."


 こんなふうに公式サイトの音源購入ページにわざわざ記載されていることからも、ケヴィンがアナログでのレコーディング/ミキシング/マスタリングにこだわり抜いて制作されたことがうかがえる。あえてデジタル・レコーディングを選ばなかった理由は、爆音で聴いてみたらわかるはず。ライヴと同じように音の"解像度"は変わらない。発想はデジタルだけれども、手法はアナログという逆説。すべてのロックンロールが無意識のうちにでも内包してしまう"グルーヴ=うねり"ではなくて、"揺らぎをコンロールする"というマイブラだけが辿り着いた境地。バンド名そのものがメッセージともいえるアルバム・タイトル。真っ赤な血が蒼く浮かび上がる静脈のようなアート・ワーク。明確な意志とぬくもりがある。音楽シーンというちっぽけな時代の流れとは無縁だけれど、リマスター盤とライヴでの試行錯誤を経た今だからこそ生み出された自由奔放なサウンド。僕は大傑作だと思う。



(犬飼一郎)



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 まず、ルルルルズという捉えどころのないバンド・ネームと言っていいのだろうか、敢えて意味を避け、語呂を優先したかのようなところに面白さがあり、そこに集うメンバーも多岐に渡る。


 オーガニックなサウンドにIDM的な意匠が混ざるPawPawのボーカルのモミ、ベースに以前、ここで書いた良質なコンピレーション『Cue Fanfare!』にも参加していたMiyuMiyuの高木美沙子、ヴァオリニストとして多方面で活躍する許斐美希、くろみつときなこに所属し、静謐にして柔らかなピアノを見せる奥野大樹、ドラムスの酒井一眞、と多種多様なバック・グラウンドを持つ若い気鋭が揃い、そこに、近年、ユメオチでコンセプチュアルに喫茶ロック的な風合を新しく再構築したともいえる、ギターとキーボードを担当する行達也が加わる。


 このデビューとなり、挨拶代わりでもある3曲入りのEP『点と線』は、そういう意味ではこれからどこにでも進める可能性を孕み、もはや、どこかへの漂流を予め定めているようなインプロヴィゼーション的な展開、沈黙にこそ音が鳴っている節がある。空気公団のような素朴で透いたトーン、モダン・クラシカルの波を自在に泳ぐ、そんな調和と非・規定を往来する。


 早速、先ごろにライヴで観たとき、バンド・アンサンブルが噛み合った瞬間に可視化出来る音像の奥行きがある、というよりも、それぞれのパフォーマンスの鬩ぎ合いの中に、ふと雑味が混じり、弦が、ピアノが、ときに、静謐が、空間位相を滑る際にダイナミクスが感じられた。そして、「声」だけが置いていかれるような心地もあった。


 昔、浅井健一、UA、TOKIE、椎野恭一というビッグ・ネームで結成されたAJICOというバンドがあったが、あのバンドが鳴らしていたサウンドはそれぞれのキャリアや持っていたサウンド・ヴォキャブラリーを解きほぐし、異化作用をもたらせていたような気がしたが、全くキャリアやスタイルは違えども、個人的に、そういう感覚の鬩ぎを想い出すところもあった。ルルルルズにおいては6人の個性の強さとまだまだ秘めているポテンシャルを引き出し合うところもあるだけに、「融和」ではなく、「異化」を目指す試索が見えるということかもしれない。


 さて、具体的に、曲に触れてゆくに、ポスト・ロック的ながらも、シティー・ミュージックのスムースな輪郭もなぞる1曲目「All Things Must Pass」は、都会的な刹那いリリシズムが冷ややかに滲む。


《All Things Must Pass 浮かんでは消える日々の泡立ち いつかはきっと忘れてしまう君や僕のこと》(「All Things Must Pass」)


 しかし、「All Things Must Pass」という題目だけで反応する方は多いだろう。かのビートルズのジョージ・ハリスンの1970年の偉大なるソロ・アルバム名。その大文字の隠喩を忍ばせ、全く違う景観へ運ぼうとし、今の時代の温度にフォーカスを合わせようとする。そのまま、たおやかで弦の響きが美しい2曲目の「夜を泳ぐ」ではミニマルなリズム、反復と細かな差異、世界中のチルウェイヴ、ベッドルーム・クワイワの趨勢とのシンクもうかがえる、か細いモノローグが、所在なさげに結び目を探す。その結び目とは、おそらく都市音楽というものがもはや架空的な何か、であり、ぼんやりとした不安の集積と膨大な情報の網をかい潜らざるを得ない現代の社会生活下にて、ささやかな孤独同士を連結させる。


 都市における孤独の連結はゆえに、「点」であり、その点を「線」で結ぶべく、3曲目の「点と線」は現時点における彼らの明確なステイトメントだといえるだろうか。7分を越えながらも、冗長さもなく、弛まぬ引き算の構成、隙間が活かされたアレンジメント、それぞれのプレイヤビリティはここでは、牽制し合うわけではなく、撥ねつつも混ざる。


《人はどれだけの時間が経てばこんなものさと言えるの 人はどれだけの思いを抱えて生きて行けばいいの これからのことなんて知らない》(「点と線」)


 新しいバンドの始まりにしては、すでに過ぎてゆく痕跡、あまたの過去の音楽的語彙群が刻印され、それを進行形で悼むように、美的価値へアタッチメントするように、ジョン・ケージの言うところのチャンス・オペレーションさえも内包せしめている気配と、演奏や聴取行為そのものの蓋然性を収めた作品という気もする。


 つまり、この録音物はあくまで録音のときの呼吸の重なり合いが活かされ、ライヴやセッションでの音響などによる「不確定性」から、残響、湿度、温度、場所、ニュアンスなどで変容をするのを確かめるためのスケッチ集という側面もあるともいえる。聴取のために保った位置により、このルルルルズから届く音楽の茫漠、曖昧さはある聴衆にとっては、嬉しく受けとめられるかもしれないが、まだ入り口に立ったバンドが沈黙に沿う一回性の、音楽として、これは始まりでさえないとも思う。



(松浦達)

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 自分が行ったことのない場所や届かないであろうものを想像するときに、音楽はとても視界を拡げてくれる。例えば、90年代後半のトーレ・ヨハンソンの手掛ける一連の音が僕にはそういったものを支えてくれた一部といえるかもしれない。カーディガンズ、BONNIE PINK、クラウドベリー・ジャム、そして、カジヒデキ。アコースティックな質感を保ち、清涼感と透き通ったポップ・センスが煌めくアレンジメントには、彼の出身地たるスウェーデンに気持ちが運ばれること。


 ストックホルムの景観、そこに根付く文化、間接的にでも映像を通じても伝わってくる静かにあたたかい数々の市井の息吹。また、現地の合唱集を聴いたり、イングマール・ベルイマン、ボー・ウィデルベルイなどの映画監督の作品を集めた特集を映画館で見たり、北欧雑貨や衣装のデザイニングに魅せられたり、多くのところから影響を受けた。


 今回、カジヒデキは「スウェーデンの冬」をコンセプトに作品を上梓したが、彼の重ねてきた長いキャリアでも変わらず、と言おうか、どれだけ時代が速く流れているように見えようが、芯が通っているのは流石だといえる。思えば、近年に夏のイヴェントで観た彼はあの佇まいで97年のヒット曲「ラ・ブーム ~だってMY BOOM IS ME~」を新曲やカバー曲と挟み、歌っていたが、全く不思議な感じはしなかった。


 映画『デトロイト・メタル・シティ』でのフィーチャー、リディム・サウンターとのコラボレーション、また、レビュワーや一音楽愛好家としての側面も昨今の再評価の後景を支えながら、この『Sweet Swedish Winter』はアーティスト、カジヒデキの新作として捉えるだけではなく、ポップ・ミュージックそのものの一瞬に宿るマジカルな躍動が時代など、関係なく収められているのは特筆すべきだろう。


 公式HPのブログでも、《「Sweet Swedish Winter」をもっと深く理解して戴く為に》という記事に本人の意図や想いが綴られているが、まず、出発点は01年の『Café Scandinavia With Love』の続編的なものを作ろうとしたと記されている。01年のその作品は過去曲のリ・アレンジを含めたインストゥルメンタル主体の、当時のカフェ、ラウンジ・ミュージックに呼応したそのタイトルどおり、柔らかく、心地良い音楽集だった。ただ、そこからカフェ文化やその取り巻く状況が多様的になり、コンセプトとして12年前のそれを引き継ぐのではなく、もっと自身の想い出や記憶と結びつけたひとつの作品として呈示できないか、という旨から少しずつ着想が拡がっていったという。


 結果として、"スウェーデンの冬"を巡る10篇の短篇小説集のようなものになっており、風通しのよさとともに、ノスタルジックさも少しは帯びながらも、触れると溶けそうな淡雪のような繊細な音が弾み、今の音が鳴っている。なお、バックをKONCOS、曽我部恵一バンドが支え、多彩な曲調、隙間を活かしたアレンジメントに絶妙なハーモニーやピアノ、エレクトロニクスなどが混ざり、音風景を変える。


 1曲目はこのアルバムの契機になったというフリーホイールの「Sweet Swedish Winter」のカバーで始まる。原曲も美しい佳曲だったが、比すると、カジヒデキの声が乗ることで、別種のものとして生まれ変わっている。ポスト・パンク、ネオアコが自身の根底のスピリッツにあると言うように、曲ごとにアズテック・カメラ、ペイル・ファウンティンズ、トラッシュキャン・シナトラズなどの影が過ぎりつつ、近年のテムズ・ビート・シーン界隈のラリキン・ラヴからヴァンパイア・ウィークエンドまでのセンスも消化されている節もある。そういったいわば、タイムレスなものと、同時代的なセンスを備えた、今作でのグッド・メロディー・メイカー振りはますます冴え渡り、どんな場所、どんな世代の誰でもがふとしたときに聴いても、清冽にして美しい空気が貫かれているのは嬉しい。


 歌詞も鮮やかで、スウェーデンの伝統的なお菓子で、日本でも認知度が高まっているセムラをモティーフにしたものから、これもまた、スウェーデンでは欠かせないサウナ、フレーズ群にも、トラム、いつものコーヒーショップ、カフェラテ、黄色い帽子を買いにいくこと、僕らが一緒に作った歌、と散りばめられている。


 最終曲は、冒頭からベルが鳴りながらも、「99%のクリスマス」と記されているとおり、1%を残す。ただ、その1%によって、スウェーデンの冬、その情景が幻像ではなく、誰もの傍らに感じられるかもしれない。


 カジヒデキは円熟せず、これからも走り続けるだろう、そんなことを感じる力作だと思う。



(松浦達)


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INC.『No World』.jpg

 アンドリューとダニエルのエイジド兄弟(双子だそうです)によるインクは、冷徹に現実を見つめるリアリストなのだろうか? デビュー・アルバム『No World』を聴いていると、そう思えてならない。確かに、妖艶な耽美的ヴォーカルは聴き手を口説きにかかるような甘い香りを発している。しかし、そのヴォーカルを支えるビートが、そっけないくらいに乾いているのだ。


 曲そのものはよく出来ている。徹底的に音を削ぎ落としたミニマルなプロダクションだが、ベロシティーや音色といった細かいところにまで神経が行き届いており、ひとつひとつの音を丁寧に鳴らしているのがわかる。


 そんなウェルメイドな本作が醸しだすのは、孤独感である。この孤独感によって、聴き手は内面と向きあうことを促されるのだ。促されるまま内観を試みると、まあ、見たくもない側面を認識することになる。人が持つ醜悪とされている部分というか、強いて言うならそれは、聴き手自身の"エゴ"なのかもしれない。例えば、他者に対して向けられた排他的感情とか、人間関係におけるポジション・ゲームとか、日常を生きるうえで遭遇する理不尽としか思えない行為のほとんどは、自己利益を優先する"エゴ"がキッカケであることが多い。本作を聴いて見えてくるのは、そういう類いの"エゴ"である


 とはいえ、本作は"エゴ"を"悪"としているわけではない。むしろ、この世から"エゴ"をなくすことなどできないし、だからこそ、エゴを抱えながら生きていくというポジティヴな諦念が根底にある。少なくとも本作は、ここ最近よく見かける凡庸なドリーム・ポップとは違い、甘美な風景で聴き手を欺くような真似はしない。甘さのなかに厳しさや痛みを残しているし、その結果として、本作は甘さ、厳しさ、痛みが共立した歪なポップ・ミュージックとなっている。


 そうした歪さは、本作にスピリチュアルなフィーリングをもたらしている。だがそれは、肉体からの解放というより、肉体が内包する精神や魂といったものを深く掘りさげた結果だと思う。それゆえ本作は、人工美的サウンドスケープを描きながらも、生々しい響きを持っているし、その生々しさは写実主義的ですらある。そういった意味で本作は、現実と幻想が入り乱れるカオスなアルバムとも捉えられるし、スピリチュアルなフィーリングも、肉体的な束縛を感じさせる点では心解脱的である。


 筆者には、そんな作風が時代のムードと重なって見える。抜けださなければいけないサイクル、もしくは抜けだしたいサイクルがあるにも関わらず、そこから逃れられないという現実。価値観の多様化が進み、その価値観を誰もが発信者として主張できるようになったはずなのに、目の前の風景は変わらないという現実。こうした現代が抱えるジレンマを、本作はポップ・ミュージックという形で描写しているのかもしれない。



(近藤真弥)

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 プルリエントことドミニク・フェルノウは、自身のレーベル《Hospital Productions》を中心に活動し、ヴァチカン・シャドウ名義などでも良質な作品を残しているアーティストだ。


 そんなドミニクがプルリエント名義でリリースした本作『Through The Window』は、メタリックなレトロ・フューチャー・サウンドが印象的で、インダストリアルの要素が顕著に表れている。そして、漆黒の宇宙空間を描くサウンドスケープは、目の前の現実とは違う別世界を創造しようと試みている。


 だが、ここ最近よく見かける甘美なドリーム・ポップとは違い、本作の別世界はユートピアというより、ディストピア的である。こうした作風になったのは、ブラワンことジェイミー・ロバーツの台頭などがキッカケで再び注目を集めている、インダストリアル・テクノの動きが関係しているかもしれない。《Resident Advisor》に掲載された『インダストリアルテクノの革命』の執筆者であるアンガス・フィンレイソンは、記事のなかでこう述べている。


 「今自分たちが置かれている世界の影響を受けたものではないかとつい勘繰りたくもなってしまう。(中略)現在の音楽シーンにまん延する破滅と憂鬱は経済破綻と政治システムの腐敗に幻滅している現代社会を映し出しているのかもしれない。」


 もちろん政治的意義を見いだすことに慎重な意見もあるが、見いだせるだけのナニカがあるのも事実なのだ。


 チルウェイヴ以降に数多く生まれた"甘美なだけ"のドリーミー・サウンドは、"現実から目を背けるだけの一過性の快楽"という壁を乗りこえることはできなかった。例えば、ニコが歌うヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「Femme Fatale」や、囁きに近い歌声が漂うジーザス・アンド・メリーチェインの「Just Like Honey」は、甘美なメロディーを奏でると同時に現実の厳しさも歌っていた。描いている状況はそれぞれ異なるが、決して"甘いだけ"ではないのだ。


 しかし、だからこそ、世紀を越えて聴き継がれているのではないだろうか? "甘いだけ"では、その甘さにコミットできない者は排除されてしまう。だが、甘さのなかに厳しさを描くことで、より多くの感情と機微を内包させ、その結果として多くの人が共有できる"普遍性"を獲得できる。この"普遍性"は、価値観が多様になった今だからこそ必要なのかもしれない。


 本作は、"甘美なだけ"のドリーム・ポップが溢れる現状は退屈だと言わんばかりに、甘い夢で覆われてしまった音楽シーンに対する痛烈なカウンターとして、もっと言えば、批評的(そして批判的)視点として機能する。この機能はインクなども備えているが、本作はその機能に特化した急進的かつスペーシーなテクノだ。



(近藤真弥)

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THE CLOISTERS.jpg

 最近のロンドンの《Second Language》はモダン・クラシカルのみならず、優良な音楽を届けるレーベルとして存在感を着実に高めている。リリースされる作品そのものも素晴らしい内容のものが多いのもさることながら、蛇腹折りのジャケット、アートワーク、装丁、細部などパッケージングものとしての肌理の通った美意識も感じる姿勢も頼もしい。


 例えば、《Second Language》のカタログに並ぶ、ピアノ・マジック、リチャード・モウルトなどの作品でもIDM、ドローン、アンビエント・ミュージック、現代音楽までの幅を決して難解に抽象的に呈示するのではなく、心地良い音の実験とその過程を抽出するかのようで、例えば、ある時のシガー・ロスが運ぶ風に彼岸ではなく、陶酔をおぼえた経験を持つ方や、ラ・モンテ・ヤングの決められた時間軸を消失したかのような音の漣に感応したことがある方ならば、この『The Cloisters』にも堪らないものがあるのではないだろうか。


 プリンス名義をはじめ、あのレジェンドともいえるUKサイケ・フォーク・シンガーのマーク・フライとの共同ワークスなど多岐にわたるプロジェクトに関わってきた、英国南部の海辺の町ドーセットに在住するマイケル・タナーのこの新名義たるザ・クロイスターズのセルフ・タイトル作。


 クレジット欄にはレコーディングとミックス期間に2008年から2012年と記されており、4曲で42分弱、そのうち、2曲は17分半、15分半という長尺のトラックであり、緻密な構成と冗長にしすぎない巧みな音色の配置に相当な神経が巡らされていることはしっかり聴覚を研ぎ澄ませると、分かってくる。


 客演アーティストたちのハープ、ハーモニウム、ヴィオラ、チェロから静かに控えめに弾むピアノ、爪弾かれるギター、一部のフィールド・レコーディングが為されたのもあり鳥の囀り、遠くに木々の葉の擦れ合いまでが渾然一体となった音は透き通った麗しさに満ちている。


 1曲目「Riverchrist」は、なだらかに音に色が加えられ、ときに静謐さえも包含しながら、視界をじわじわと拓けさせ、刷新させてゆく。2曲目の「The Lock Keeper」では、角のないピアノの音色をベースにふと残像のように、幾つもの音や環境音が入り込む小品。自然の中に居るかのような始まりからの3曲目「Freohyll Nocturn / Hymn」では弦が活かされながら、自分のその日常に音楽が寄り添い、鳴っているそんな近さがあり、高踏さはない。それでも、マジカルな音絵巻が展開されるのもあり、壮大さはあるが、畏まったところはない佳曲になっている。


 懐かしさや郷愁、"在るはずもない"慕情、そんな言葉を附箋してもいいくらい、このアルバムに内包されている何かは人間が元来持っていて、忘れてしまったかもしれない、感情の内側を刺激してくる。


 逃避のための、微睡むためのそれでもなく、幾重にも重ねられ、それぞれの楽器や音色自体が空間や位相を慮るように、音楽と、日常を往来する引き延ばされる時間の狭間に足せばいいのは一生活者たる聴き手自身だという気もする。4曲目の「A Pelagic Recital」を聴いていると、たまたま自分が机に置いたコーヒーカップの音さえもそこに取り込まれる、そんな感じにさえなる。


 飽和気味にもなりつつあったモダン・クラシカルの趨勢にひとつの楔を打ち、新しい地平の向こうを見渡す充実した一作だと思う。



(松浦達)

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OGRE YOU ASSHOLE.jpg

 不世出のバンド、ゆらゆら帝国を比較に出すのも精緻には違う、彼らのオルタナティヴな佇まいは唯一無比になってきたともいえるが、ただ、その歩み方をときに彷彿させるように、音の抜き差しの妙と日本語の発語、語彙までシェイプされてゆく在り方は一旦、昨年の『100年後』で極まった気もした。


 『100年後』のリリース・ツアーでもライヴ・パフォーマンスでも、過去曲も良かったが、ミニマルなリズムとサイケに浮遊するような新曲の持つ彼岸的な風情にトバされる快感が先立った。例えば、録音物として1曲30分ほどの作品をリリースしても今の彼らだと至ってフラットに捉えられる気がする。また、これまでサポート・メンバーだったベースの清水隆史が正式メンバーとなり、新しい四人体制となった中、次のアクションが気にもなっていたが、或る意味では企画盤の側面もありながらも、オリジナルとしても堪能できる今作『confidential』には確実な手ごたえとともに、進んでゆく意思が底流する。


 限定で発売されていた2枚の12インチ「浮かれている人 Twilight Edition EP」、「dope EP」から4曲、過去曲の再録音といっても、完全にリ・ワークといってもいいだろう4曲が収められた、アルバム単位での構成の精度が高まっていた近年の流れを一旦、保留しつつ、音楽的語彙をさらに披瀝せしめる、そんな多彩な内容になっている。


 まず、既に12インチで聴いていた人も居るだろうが、1曲目の「真ん中で」、8曲目の「バランス」では2010年のミニ・アルバム『浮かれている人』に入っていた原曲の外装を取り外し、前者はデモーニッシュに潜航するコーラスと、ミニマルな反復がメインになっており、後者はボッサ的にラフで緩やかなムードが漂っている。2005年の『OGRE YOU ASS HOLE』からの「また明日」は牧歌的な拓けたポップネスに再構築されながらも、刻まれるフレーズはミニマルで音響にも隙間が活かされており、そこに、不穏な歌詞が朗々と届く。


 同じく初期にあたる「バックシート」も今のモードの沿い、AOR調のスイートな様相に変化し、というように、初期からこれまでの軌跡をあくまで進行形のセンスと感性で捉え直しているせいか、完成度が高いあまり、その分だけ今後の心配もあった『100年後』の、その後も伺えるような要素も散りばめられており、この作品から入ってみる人がいても、全く問題ないとも思う。


 それぞれの曲に自在な色を帯びているが、特筆すべきは、『homely』に収録されていた「フェンスのある家」の変化かもしれない。トライバルなリズムにノイズとホーンが獰猛に鬩ぎ合うエレクトリック期のマイルス・デイヴィスを思わせる美しさが残るもので、聴いていて、とても心地良い。


 全編を通して、昨年にototoyの企画で出戸学氏が好きなレコード紹介をするUSTREAMをふと想い出した。そこでは、ファウストやノイ!といったクラウトロックから、ヨ・ラ・テンゴのベーシストのジェイムズ・マクニューのソロ・プロジェクトDUMPがNYパンク、GGアリンの「NYC Tonight」をディスコ調にかつポップにカバーしたもの、アーサー・ライマンまで全体的にムーディーかつ静かにビートが跳ねる曲が多く、メンバーも古いレコードを聴き漁っているというのもあり、その感覚が今作にもトレースされてもいるのかもしれない。


 冷ややかなイロニーと虚無。その背後に狂気めいた不気味さが渦巻いていたデカダンな美意識を備えた彼らも歳月とともになだらかに削ぎ落とされるように、予感としての「なにもないこと」をあくまで音楽で追求するようになってきた、そんな中で、外部からではなく、自らの内部から血を入れ替えようとする試みが功を奏した今作では、その「次」への道が既に整備されてゆく感覚をおぼえる。


《人気のない 朝になってく 視覚はないよ 日に溶けるかい 朝になってく 近くはないよ》(「バランス」)


 近くは、ない。


 彼らの音楽と存在がこうして研ぎ澄まされてゆくのは何よりも頼もしい。



(松浦達)

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 ネットによって様々な垣根や壁が崩壊し、あらゆるカルチャーが異質なものと交わる可能性を孕んだ現在において、予想もしていなかった場所から面白い表現が生まれてもいちいち驚かなくなったが、インドネシアはボゴールを拠点とするバンド、トウキョウライトの音楽を聴いたときはさすがに驚いてしまった。


 インドネシアには、多くの大手日系企業が進出しているし、現地の大学には日本語学科があったりもする。また、日本のポップ・カルチャーをインドネシアに紹介する《CLAS:H》によるコスプレ・イベントが盛りあがりを見せるなど、日本とインドネシアは何かと関わりがある。それでも、現在の日本インディー・ミュージックと共振する、ジャストな音楽性を携えたデビューEP「Hello」におけるタイムラグのなさは、もっと注目されてもいいのではないか?


 肝心の音のほうは、ファンクネスを前面に押しだしたグルーヴが特徴的で、音の隙間やタメを重視しているが、こうした姿勢からは、R&Bやヒップホップの要素が窺える。この点は、シューゲイザーの影響化にあるサウンドを鳴らしがちな日本のインディー・バンドとは一線を画していると思う。


 そして、見た目とはかけ離れた(と言っては失礼だけど)、色気を漂わせるヴォーカルも魅力のひとつ。少し掠れた憂いのある歌声はバンドのサウンドとも相性がよく、聴き手を惹きつける存在感もある。初聴したときは、一瞬ブレッド・アンド・バターを想起してしまったが、バンドのフェイスブックには、U2やフー・ファイターズと並んで、椿屋四重奏、ザ・バンド・アパートの名前が「影響を受けたもの」で挙がっている。なるほど、これはまだまだ引きだしがありそうですね。今後の活動が楽しみ。



(近藤真弥)




【編集部注】「Hello」はトウキョウライトのバンドキャンプからダウンロードできます。