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UP DHARMA DOWN.jpg

 2008年、タイのバンコクで様々なアーティストによるフリッパーズ・ギターの『Three Cheers For Our Side ~海へ行くつもりじゃなかった』のトリビュート・アルバムが話題になったのも記憶に新しいように、インドネシアのジャカルタではネオアコ系のバンドの音源に多く出くわすことがあったり、東南アジア界隈にて、グランジ、パンク的な音を出すバンドも増えてきてもいるが、中間層と敢えて限定すると、そこの層のネット・リテラシー能力や咀嚼の速さ、奏でる音楽の豊富さには驚かされることがある。まだ、世界的には新興国と称されるものの、その経済成長とともに舶来の音楽や文化がしっかりと絡まりながらも、美学を追求してもいるからだ。


 今回、取り上げるフィリピンのマニラをベースにするUP DHARMA DOWN(アップ・ダーマ・ダウン)は2004年から活動を始めたのもあり、キャリア的には短くなく、世界でも一定の評価も得ているバンドとして、これからますますの飛躍も期待されている。


 メンバーは、ヴォーカルとキーボードを請け負う紅一点のアーミ・ミラー、80年代のUK、ニュー・ウェーヴ的な清冽なギターを響かせるカルロス・タナダ、ベースのポール・ヤップ、ドラムのイアン・メイヤーからなる4ピース。サウンドの特徴としては、プリファブ・スプラウト、ブルー・ナイル辺りのメロウネスとブルー・アイド・ソウルの彩りにエキゾチックな旋律が柔和に結ばれる不思議な質感を持つ。コールドプレイキーンなどのバンドが持つ叙情性、アトモスフィアを包含しているところもある。


 ときに艶めかしいAOR的な振れ幅まで備えながらも、詰め込まれたというよりも、隙間の多い音響工作にギターのノイズ、ベース、ドラム、エレクトロニクスがしなやかに且つシンプルに「引き」を見せる。無論、そこではアーミ・ミラーの歌声の美しさも大きく、シャーデーのような穏やかな包容性もある。


 調べてみるに、バンドのオフィシャルHPではティアーズ・フォー・フィアーズのカート・スミス、ブルー・ナイルのポール・ブキャナン、ノー・マンのティム・バウネス、BBC UKのマーク・コールから賛辞のコメントが寄せられており、もう十二分に認められてもいるのがうかがえ、このサード・フル・アルバム『Capacities』も満を持して、ということになるだろう。


 具体的に、作品に触れていこうと思う。


 9曲というサイズながらも、1曲目の「Turn It Well」のMVでのムードからも伝わってくるものがあるように、前作の『Bipolar』に偏在していたビート主体のものから少しダビーで実験的な要素を孕んだもの、整合性よりも音楽的な語彙を増やそうとしていた様子からは舵を切り、どことなく夜の香りと気怠さがほのかに漂い、コンパクトにかつメロディアスに絞られた印象を受ける。リリックも彼ららしい、淡さとアンニュイさがある。


《Tonight We Stand By The Door / Waiting For Amends / I've Lived All This Time For Love / Tonight You Come》(「Park」)


《I'm So Tired Of Your Innocence》(「Night Drops」)


 なお、触れておかなければならないのはポール・ブキャナンが参加した曲「Feelings」を含めて英語詩だけではなく、「Luna」、「Indak」、「Kulang」、「Tadhana」はタガログ語で歌われているということだろうか。


 タガログ語とは、フィリピンの中で用いられる言語の一つであり、英語とともに当該国で公用語として用いられているものである。スペイン語やマレー語、アラビア語などの影響も受けつつ、発語感は滑らかさがある。語族的には、オーストロネシア語族。台湾、東南アジア、太平洋の島々、マダガスカルまで広がり、言語間の近似性があるために、文法的なものや語彙に関しては配列性を掴めば、理解しやすいものでもある。タガログ語にオリエンタリズム的な色眼鏡は寧ろ必要なく、長い歴史の中で育まれてくまれてきた豊潤さと音韻の合わさり方のスムースさに注視すべきだとも思う。実際、初めてこのアルバムを聴き通しても、分断はさほど感じないだろうとも察する。


 これだけ多くの情報が並列して入ってくる時代になっても、いまだ知らないものばかりだ。限りある想像を越えてゆくように、音楽は多くの国で芽吹き、可能性は溢れていることを教えてくれる一作だと思う。



(松浦達)

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ねごと 5.jpg

 ここ最近のねごとは一気に大人びた印象をあたえるが、そんな彼女達の成長から生じる余裕を『5』は醸しだしている。前作の『ex.Negoto』は、ファースト・フル・アルバムということもあり、疾走感と前のめりなグルーヴが印象的だった。しかし本作は、精密とも言えるバンド・アンサンブルが目立つアルバムだ。


 「sharp ♯」「Re:myend!」などの既発曲には前作と地続きの側面もあるが、その他の曲群は、展開、音色、リズムといった細かい所にまで気を配ったものが多く、本作に至るまでの間に吸収したであろう技術が反映されている。アルバム全体を通してトリッキーなアレンジが施されており、聴き手を飽きさせないサービス精神は前作以上。さらには90年代USインディー・ロックを彷彿させる「メイドミー...」のような曲もあり、そのヴァラエティー豊かな内容は、ウェルメイドなポップ・アルバムとしてよくできている。しかし、こうした奔放さが、本作においては仇になっているように見えなくもない。


 例えば、本作には「たしかなうた」というロック・バラードが収録されている。これまでのねごとからすると、少し毛色が異なる「たしかなうた」は、ライヴハウスよりもスタジアムが似合いそうなスケールを感じさせ、ねごとの新たな側面を開拓しようとする4人の意図も窺えるが、正直、迫力不足なのは否めない。タイプとしては、オアシスの大名曲「Don't Look Back In Anger」系のアンセム・ソングに入るが、こういうタイプの曲は、送り手側がある程度の経験を積んでいないと、強い説得力を宿すのは難しい。


 ねごとは元々、メンバー全員の豊穣な音楽的背景が自然と反映されている曲を作ってきたし、それが他のバンドとは違う個性としてひとつの武器になっていた。だからこそ、本作ではその武器に磨きをかけることで、ねごとの音楽性を確固たるものにする選択肢を選んでもよかったのではないか? もちろんこの先、ねごとが順調にキャリアを積み重ねていけば、「たしかなうた」は強い説得力を持つアンセムになりえる。しかし、現時点ではその説得力が足りないように思えるし、そんな「たしかなうた」を本作に収めたことで、無理に背伸びしている印象を聴き手に抱かせてしまうと思う。



(近藤真弥)

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きのこ帝国『eureka』.jpg

 まず最初に告白しておくと、きのこ帝国にとって初の全国流通盤となった「渦になる」を初めて聴いたとき、お世辞にも愉快とは言えない感情を抱いてしまった。あれは一種の拒絶反応、例えば、今まで見たことがない存在に遭遇したときの気持ち悪さに近いものだったと思う。佐藤(VoG)の自意識過剰な言葉と、それを助長するシューゲイズ・サウンドとメロディーは、拭いきれない居心地の悪さを筆者に感じさせるものだった。


 しかし、それでもつい聴いてしまう、無視できない音楽をきのこ帝国が鳴らしているのもまた、事実なのだ。少なくとも、こうして聴き手の心を掻き乱し、本音を暴露させる以前の表現行為、何度触れてみても1ミリも興味を持てない粗雑な表現行為と比べれば、きのこ帝国の音楽はとても興味深く、惹きつけられるものだ。そう考えてしまうのは、触れると反射的に拒否反応を示してしまう表現にこそ新たな可能性があり、また、その反応自体を面白がる筆者の質ゆえなのかもしれないが...


 まあ、それはともかく、きのこ帝国の音楽が聴き手の心を根底から揺さぶり、すでに作りあげられた価値観に挑んでくるものであるのは確かだ。だからこそ、今では筆者にとってきのこ帝国は、"見逃したくない"と心の底から思わせるバンドのひとつとなっている。


 そして、そう思わせる所以の存在感を、『eureka』はまざまざと見せつけてくれる。従来のシューゲイズ・サウンドを引きつぎながらも、そのサウンドスケープは深みを増し、より多くの感情とそれにまつわる機微を多く含む作品となった。しかし、その結果として聴き手を蹂躙するような圧殺的アトモスフィアではなく、一種の心地良さをもたらしてくれるのだから、素晴らしい。


 その心地良さを象徴するのが「ユーリカ」だ。この曲は、荘厳なサイケデリアが特徴のシューゲイザーだが、そこにあるのはマイ・ブラッディー・ヴァレンタインの幻影ではなく、『Dummy』期のポーティスヘッドや、『Mezzanine』期のマッシヴ・アタックに通じるヒリヒリとした陶酔感である。そして、この陶酔感はおそらく、オープニングに「夜鷹」を収めることで増幅されている。


 太陽が登りかける深夜と早朝の間の風景が目に浮び、ひんやりとしながらも温もりを感じさせる音像が美しい「夜鷹」は、その音像に佐藤のスポークン・ワーズが乗った瞬間、風景がより立体的になり、まるでFPS(シューティング・ゲームの一種)をやっているときのような、あたかもその風景を自分が見ていると聴き手に錯覚させる。そういった意味で、「夜鷹」には聴き手の"自己同一化"を促す機能があり、それはジェームズ・ブレイク 『James Blake』と類似するものだ。


 言ってしまえば本作は、そんな「夜鷹」の余韻を最後まで引きずりながら聴くことになる。12曲目とはガラリと変わり、激情をそのまま吐きだしたような「春と修羅」が3曲目にあってもそれは変わらない。むしろ、「夜鷹」の余韻のなかに「春と修羅」があり、これらを経て「ユーリカ」にたどり着くからこそ、本作における「ユーリカ」の存在が際立つのではないだろうか? もちろんひとつの曲として聴いても「ユーリカ」は素晴らしいが、他の8曲と混ざることで、「ユーリカ」は真価のすべてを解き放つことができる。


 それにしても興味深いのは、「風化する教室」にある風通しの良さだ。物悲しさを漂わせる歌声が耳に残るのだけど、同時にきのこ帝国の"余裕"も感じとれる。それはアルバム・タイトルが示すように、きのこ帝国は向かうべき場所を"見つけた"から...かもしれない。だとしたら、本作の印象的なジャケットの目は聴き手側の一人称視点であり、そこには、"これから向かうべき場所へ行く私たちを見守ってほしい"というきのこ帝国からのメッセージが込められている、というのは考えすぎか? 



(近藤真弥)

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AUTECHRE『Exai』.jpg

 初めて、オウテカのライヴで踊ったとき、いわゆる、音色からなる楽理から身体性が逸脱し、恐慌的になる感じがとても心地良かった。


 体系化されず、ズレと分散、圧度が内在化される強い音のしなりが暗闇の中で認識できる音を越えて、一回性の非限定性に痺れる感覚とでも言おうか、具体性ではない抽象性の連関から零れる電子音とストイックで彫像的なフォルム、そこには例えば、エイフェックス・ツインのライヴで感じる痙攣的な悪寒と快楽は違う、重厚な感覚への刺激があった。


 2010年の『Oversteps』はそう考えると、彼らのスタイルがある種、確立もされており、音から浮かぶ行間、映像、独特の美学はオウテカ以外の何物でもない、そんなアンチ・メロディアス、硬度だけが高められた色味から、この新作『Exai』での2枚組、2時間を超える作品への架橋はどう捉えられるのだろうか。演繹して考えてみるに、これまでの軌跡をなぞりながらも、「混種」を思わせるとも感じられた。混種とは、アンドレ・ブルトンがアーシル・ゴーキーに関して語ったエクリチュール、つまりは、抽象内に具象がウロボロスの蛇のように喰い合いながら、そのフレームを敢えての物質主義的に表象してみせているような、そんな変拍子と奇妙なサウンド・レイヤーに彩られた無数の電子音が安易な出口を堰き止めている印象を受ける。


 周囲からのもっともらしい意味付けを拒否するような曲名群、「prac-f」、「vekoS」、「deco Loc」もこれまで通り「らしい」が、"アンティルテッド"にしない分だけといおうか、じわじわと原基配列の妙を指す意味と意味を抜ける不規則にして尖ったデザイニングを見せる音響は融和してもいる。


 今作は1枚目と、2枚目の明確な区分はあるようでないかもしれないが、1枚目は既存のオウテカ像を更新してゆくような要素も孕みつつ、2枚目は前衛性がより極められている感触も受ける。10分を越える曲もそれぞれにある。それでも、全体を通じて散らかったイメージをもたらせず、何度も繰り返して聴きたくなるのは彼らが常に通底している空気そのものの振動、と抽象的時間の構造を内破してゆくような思考の外部に「音」/「楽」があり、その様は例えば、ピエール・シェフェールの『音響オブジェのソルフェージュ』で展開される半ばの聴取者への放棄を奪回せしめる固有性を持っているともいえるからかもしれない。


 IDM、エレクトロニカ、ビート・ミュージックのカテゴリー名を軽く抜けて、オウテカという固有名がなぞられた充実作をこうして出す行為性そのものが美しく、ヘッド・ミュージックとしても最高度のヘドニズムを訴求する。



(松浦達)



【編集部注】『Exai』は2月27日リリース予定。

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guchon『45House Mix』.jpg

 最近"45ハウス"というジャンルをよく目にする。簡単に説明すると、33回転のレコードを45回転でプレイして曲を繋げていく、"ジャンル"というよりは"行為"だと認識しているのだけど、筆者もここ最近聴きはじめたばかりなので、正直詳しいことは知らない(D.J.Fulltonoツイートによると、大阪ではゲットー・ニュー・ウェイヴと呼ばれているそう)。そのうえで、サウンドクラウドなどにアップされている"45ハウス"のミックス音源を聴くかぎり、すごく面白いと思う。ハウスだけでなく、様々なジャンルがミックスされていて、シカゴのジャックな感覚と、ネットを介して過去と現在を行き来するようになった"今"の感性が入りまじっている。


 この"45ハウス"に関して、ジュークと日本語ラップが邂逅した『160or80』に曲を提供するなど、日本のジューク・シーンで活躍しているぐちょん(guchon)は、「個人的にはテクノの中にまだハウスもトランスもジャングルもIDMも内包されていたあの頃感を今のノリで解釈する最高のジャンルだと思ってます」とツイッターで発言しているが、様々な音楽的要素が45回転というフィルターを通すことで繋がってしまう"45ハウス"は、"インディー=ロック"という図式が成立しなくなったインディーの現状、そして、そのインディーとも交わり、他ジャンルへの影響力を発揮しつつあるジュークの隆盛など、あらゆるジャンルが混在した溶解的サウンドが目立つ現在の音楽シーンに促される形で、注目を集めているのかもしれない。


 そんな"45ハウス"の良さを上手く表現している本作を聴いて思ったのは、異なる音楽が交わる瞬間そのものに興奮する者なら、誰でもコミットできるのではないか? ということ。それこそ、《Not Not Fun》や《100% Silk》を中心とした、テン年代以降のバレアリックなインディー・ダンスにハマる者、それからセカンド・サマー・オブ・ラヴ期のアシッド・ハウス、デイヴ・ハスラムの言葉を借りれば、「ハウスやテクノが聴けただけじゃなく、ヒップホップのレコードや、ニュー・オーダー、それに、イタリアのプロダクション・チームが作ったユーロ・ディスコの曲、なんでも聴けた」(※1)時代に熱狂した人たちまで、数多くの人を巻きこめるような気がする。ゴルジェもそうだけど、こういう奔放なノリが日本で受けいれられている状況は見ていて本当にわくわくするし、ひとりの音楽ファンとして嬉しいことだ。



(近藤真弥)




【編集部注】『45House Mix』はguchonのサウンドクラウドからダウンロードできる。




※1 : ピーター・フック著『ハシエンダ マンチェスター・ムーヴメントの裏側』282頁より引用。

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ブロードキャスト―.jpg

 2010年に発行された平倉圭氏の『ゴダール的方法』での解釈論や示唆した内容は興味深い部分があったと思う。全体を通読すると粗さも感じたが、再帰と意図を逸れた連結、映像と音楽のズレと「間」に潜む生成文法、そこでの文法が輻射するイメージの破片は寧ろ類似と揺らぎの中で、不明瞭な知覚の緊張と受苦を感じさせること。そういう文脈で考える導線を敷けば、視角はときに変わり得ると思うからだ。


 もはや老舗になったUKのレーベル《Warp》に属するアーティスト、例えば、エイフェックス・ツイン、オウテカ、スクエアプッシャー、クラーク、プレフューズ73などの一時期の作風、敢えて90年代後半から00年代半ばと区切ってもいいだろうか、そこで展開されたIDM、エレクトロニカをベースに同期から目まぐるしく非・同期性を帯び、畳み掛けられる音像には一種の「受苦」と聴覚の幅を広げてゆく、そんな背反的な快感が併存していた。


 その中でも、ブロードキャストは甘美にして不穏の漂うサイケデリアを基軸に、エレクトロニクスとノイズ、そして、トリッシュ・キーナンのアンニュイで、ニコやフランソワーズ・アルディを彷彿とさせる無比なボーカルが狭間で振れる心地良さがあった。そして、音そのものの解像度が静かに歪んでゆくような不安は特有のものが包含されており、ときにモンド的に、スペーシーに、スウィートなメロディーを主にしたポップネスまで自在に、実験性と前衛性を跨ぎながらも、難解さを迂回する柔和で捻じれたサウンドが研磨されてゆく過程は常に興味深かった。バンド体制であった当初からその後はメンバーが減り、トリッシュとマルチ・インストゥルメンタリストのジェイムズ・カーギルのデュオとしてプロジェクト名のような体裁になっていたが、トリッシュは周知のように、2011年に42歳の若さで亡くなってしまう。


 その彼女の死へは多くのミュージシャンから哀悼の意を寄せられ、いまだにミュージシャンズ・ミュージシャンとしてブロードキャストは不世出の存在であるともいえるが、この『Berberian Sound Studio』はピーター・ストリックランドの同名映画内の劇中映画「The Equestrian Vortex」用として当初は作られながら、結果的には全体に使われるサウンドトラックであり、全39曲というヴォリュームで短尺のものも多いが、手触りとしては彼らのオリジナル・アルバムとしても捉えられる音響美が存分に内包されている。また、トリッシュの生前に作られたブロードキャストとしての作品の意味も大きい。


 スペーシーなシンセ、劇中の会話の加工、アンビエンス、細かく行き交う電子音の粒子、ドローン、サイケデリア、ダヴ、グリッチ、ノイズ、賛美歌のようなドリーミーな旋律、仄かに浮かぶトリッシュの声までが渾然一体となって、映画そのものを見るように、一つのコンセプチュアルなアルバムとして捉えることができるような、そんな充実した内容になっている。メロウながらも危うい彼岸を思わせるサウンドは、昨今のチルウェイヴやアンビエントの揺蕩いとは一線を隔て、彼らのこれまでの来歴と轍を今の温度に刻む確かな何かがあり、独自の文法生成からのイメージの断片群が類似と揺らぎを聴き手に訴求する。


 例えば、フィルム片が切り取られたあとの無音映画に混じる外在する雑音、その片を集めた非・連結な内在する緊張の音そのものが立ちのぼる瞬間も含めて、もしも、この作品を通じてブロードキャストという名前を初めて知ったならば、また、久しぶりに名前を聞いたとしたならば、過去のカタログも是非、巡って欲しいとも思う。


 彼らの蒔いた種は世界に確実に伝承されているのを感じる、芳醇な作品になっている。



(松浦達) 


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グナワディフィージョン―.jpg

 昔のこと、ビロードの上に春が来るとき、それは多くの民主化運動の隆盛とともに、カオスが紛れ込んだ気配が孕んでいた。昨今のアラブの春を巡り、彼らの祖国たるアルジェリア独立50周年の夜明け前に、一度は2006年に15年間の活動を終え、解散したバンドが10年振りに回帰せしめた気概にまず胸が打たれる。


 紛れもなく、グナワ・ディフュージョンの新しいオリジナル・アルバムとして聴くべき作品自体は充実した内容になっている。当初は、グナワ・ディフュージョンとして作られるのではなく、中心メンバーたるアマジーグ・カテヴのソロとして用意していたともいうが、こうして上梓されると、グナワ、シャービ、ラガなどを跨ぎ、軸はロックとして鋭さを保っているという意味でレヴェル・ミュージックと大衆のための祝祭性、ハレを用意せしめているのは意趣深い。


 また、アラブの諸国で連関して起こる問題とは歴史的背景、一部集権のシステムを差し引いたとしても、<反>への副文脈が蘇生されるまでのタイム・ラグの下、時代が持つ多国籍的な共犯性を暴こうとするサブ・スキームは看過できない。


 そもそも、「ワールド・ミュージック」という便宜、恣意的なカテゴリーの中、90年代からフランスのマグレヴ(北アフリカ諸国)という出自の不世出のミクスチャー・バンドはマヌ・チャオやバルカン・ビート・ボックスの影に隠れがちでもあったと言えるかもしれない。オリエンタリズム的な色眼鏡で対象化をはかられることもあっただろうに、バンドとして『Shock El Hal』(日本語タイトル、『時代の棘』)に至る経緯は歳月だけが解決しえない、今の温度に適合するためのグルーヴと熱量に溢れている。これまで以上に、キーボード、エレピ、DJ的なセンスが入り、現代性にアップデイトされているためか、土着性を昇華し、スムースかつジャジーに研磨されているが、果たして、この「洗練」をしてグローバリズムへの内部化への道筋と言えば、精緻には違い、内破の構造に近い気もする。


 アラブの春は、遠い春だったのか、文献を幾ら読んでも、例えば、現地に行っても、分かり得ない重みがあるが、その重みをこうして音楽に等価交換、アウトプットして、中指を立て、あくまで高尚に抜けない剛毅な意思に縁取られた響きが巡り、そこで、聴衆たちは踊ることができる。その意味の方が大事なのだと感じるからだ。


 先進国、欧米流の手法が「全部」でも、「部分」でもなく、また、「帝国」と呼ばれる概念が」ネグリ=ハートを援用した上でのいま起こっているのは、主権たるネーションが「帝国」というグローバルな支配権に統合される過程かもしれない、と捉えるには9.11から時間は流れてもいる。ネットワークのようにシナプス的にグローバル化が地表化し、そこでの国家の決定権は実は「誰にもない」という問題意識に対しての鏡像の模写を行なう意味付けからマルチチュードという概念は前景する。


 マルチチュードのモデル化が為される意味の附箋を貼れば、<反>さえも帝国に内包されるディレンマはありはしないか、という疑義は問われ続けるべきだとも思う。


 音楽とは、あくまで社会的制約から自由を目指す。


 荒野に立ってしまう要素を含んだとしても、その荒野で何らかの祭祀は行なわれるだろう。この作品から見える自由は、どんな環境、場所で呼吸をしている市井へ寄り添い、また、政治意識が高い、高くないを別次に仮置き、自然と猛る音で空気を揺らす。ここで展開される音像に感応するだけで、春を待つことができる想いは強まる。



(松浦達) 

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水中図鑑「ふれるところ、ささるとげ」.jpg

 加瀬透(Gt/Bv/Vo) 片岡徹弥(Vo/Gt) 河辺志音(Vo/Ba) 鈴木麻祐子(Dr) 中村文子(Key/Bv/Vo)による水中図鑑のファースト・デモ「ふれるところ、ささるとげ」を聴くと、"音楽を残すことの意味"について、ナンセンスとわかっていながらも考えてしまう。


 いまや誰もが発信者となれるし、そのためのツールも数多く生まれている。それらのツールに対する需要は、情報が行き交うスピードが速くなればなるほど増していき、ツイッターやタンブラーなど、ここ日本でも"一般的"と言えるほどの広がりを見せている。こうした状況は、最先端とされる事象や現場を紹介する者、また、それを追いかける者にとっては都合のよいものだと思う。しかし、行き交うスピードが加速されればされるほど、その過程でこぼれ落ちてしまったり、見過ごされてしまう"ナニカ"が増えていく。


 "ナニカ"に当てはまるのは、なにも音楽だけではない。"感情" "風景" "言葉"、さらには"人"など、実に様々である。そして、現代において"音楽を残す"ということは、失われつつある"ナニカ"を記録するための行為としてその重要度が高まっているように見える。もちろんその重要度は昔からあるという指摘も予想できるが、現在におけるその度合いの高まりは、過去に例がないのではないか。だからこそ、ワイルド・ナッシングヴァクシーンズなどに見られる、"ノスタルジーという感覚そのものに向けられた好意や憧れ"が、多くの人を惹きつけるのかもしれない。


 この"感覚そのものに向けられた"というのが重要で、これは"昔は良かったのに"みたいな懐古主義者の戯言ではなく、すさまじい速度で行き交う情報を崇め、追いかけ、偏執的に集める過程で見失いがちなもの、もしくは、すでに忘れてしまった者へ向けられた"哀しみ"、または、忘れる前に目を向けさせようとする"願い"だと思う。


 そんな"願い"を込めた音楽が、ここ最近増えているように見える。筆者が聴いたなかでは、シャムキャッツ『たからじま』七尾旅人『リトルメロディ』、前野健太『オレらは肉の歩く朝』、カナタトクラス「クウシュの夢」cero『My Lost City』ミツメ『eye』などがそうだ。これらの音楽は、"音楽的に古いか新しいか"というより、"何を鳴らし歌うか"にベクトルを向け、大切にしている。その時の自分にしか抱けないであろう情感や思いの残滓をかき集め、それらを音楽に封じこめることで、新たな価値観の提示を試みようとしているのだ。この方法論はおそらく、当たりまえだと思っていた現実が一瞬で吹き飛ぶことを知ってしまった人が多くいる今だからこそ、必要とされているのかもしれない。


 桑沢デザイン研究所のクラスメイトが集まって結成されたという水中図鑑も、そういった"何を鳴らし歌うか"にベクトルを向けたバンドだと思う。初期のスーパーカー、『Isn't Anything』期のマイ・ブラッディー・ヴァレンタイン、ナンバーガール、ソニック・ユース、ジーザス・アンド・メリーチェインなどを想起させるシューゲイズ・サウンドにモラトリアムな初期衝動を乗せて放つような音楽性は、お世辞にも新しいとは言えないし、斬新と呼べる音でもない。プロダクション的な粗もいくつか散見される。しかし、"今"という名の最大瞬間風速を見事に閉じこめている点で本作は、多くの人に聴かれるべき音楽の輝きを獲得している。そして、日常的風景を描きながらも、その日常における自身を内観するような歌詞も素晴らしい。とてもシンプルだが、平易な言葉で感情の機微を表現しており、聴き手の心に最短距離で届く。


 そんな本作は、早川義夫が言うところの、「歌の本質は、悲しみを忘れさせるためにあるのではなく、悲しみを忘れさせなくするためにある」(早川義夫著『ラブゼネレーション』より引用)という考えに近い場所で鳴っていて、それゆえ、このまま順調に活動を続けていけば、いずれ"過去"になってしまうであろう情緒がノスタルジーを響かせている。その点でも本作は、"今"聴かれるべきだ。大人になるとは失うこと。その失われる前の姿が克明に刻まれているのだから。



(近藤真弥)



【編集部注】本作は水中図鑑の公式サイトからダウンロードできます。                                                            また、CD-Rはライヴ会場でのみ入手できます。

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菊地雅晃.jpg

 1曲目「Potency」は太いウッド・ベースの音だけがまっさらな空間にゆっくりとその存在を刻み付ける。そこに、アナログ・シンセの電子音が乗り、ドラムがリズムを取り出す。非常にミニマルな導入だ。そして、スペーシーなシンセ・サウンドが空間に静かに幕を下ろすように滑らかに広がってゆく。フルートのサウンドはどこか郷愁的なメロディを奏でながら曲線を描く。この曲の、いやこのアルバム全体のポイントとなってくるのはこのそれぞれの楽器の音色だ。アルバム全編を覆うこれらの音色はフュージョン的、AOR的ということである程度一括でき、それは多少大まかではあるがおそらく間違いない。しかし、「今」、このサウンドを聴くとこれはある種のノスタルジアを自然とそのサウンドの表現の中に内包する。


 数年前、「チルウェイヴ」というムーヴメントがあった(その影響は今も大きい)。それはインターネットを足場として起こったポピュラー・ミュージックにおけるムーヴメントで、中心的な発信源というのは地理的には存在しえなかった(無論、地域的な繋がりがありはしたものの)。音楽性も何かとバラバラで共通項を見いだすことがなかなか困難なこともあるこのムーヴメントであるが、1つ顕著な共通点をあげるとすればそれは「ノスタルジア」なのだ。その「ノスタルジア」の対象は80sエレポップに存在していたチープなシンセサウンドであったり、ディスコ・ビートだったり、リヴァーヴがかったヴォーカルであったりとこれまた多様なのだが、とりあえず(大雑把な要約ではあったが)このムーヴメントにおいて「ノスタルジア」が象徴的に機能していたことは間違いない。


 また、同時期に、英米を中心として、フィル・スペクターによるウォール・オブ・サウンドや、ザ・ビーチ・ボーイズの音楽の意識的な模倣(無論これはチルウェイヴと同期的なものでチルウェイヴと完全に分離できるものではない)など、60sのポップ・ミュージックへの「ノスタルジア」も数多く散見された。このように、ゼロ年代からテン年代にかけて、ポップ・ミュージックの世界で非常に過去への目線が強かったことは間違いない。そしてその過去を愛でる「ノスタルジア」について、音楽メディアを中心に様々な議論がなされ、我々の耳(我々には誰が含まれるのかは難しい問題ではあるが)は「ノスタルジア」という言葉や、それが内包されている音に対してある意味では非常に敏感になっている部分がある。


 それが、「今」という時代の、リアルタイムのポップ・ミュージックを追ってきた人々の耳であるととりあえず考えると(筆者ももちろんそうである)、この作品『On Forgotten Potency』に対する評価はなかなか難しいものとなってくる。


 先ほども書いたようにこのアルバムの全編に漂うのは80sのAORやフュージョンなどである。最終曲「Chan's song」はハービー・ハンコックのカヴァー曲であり、ここでは大々的にヴォコーダーが取り入れられているなど80s的な演出が徹底して施されており、このアルバムにはテーマとしてある種の「ノスタルジア」が共通項として存在していることは明らかである。このアルバムに収録されている曲たちは極めて完成度が高いものばかりで、ヘッドフォンで聴くと非常にそれが良くわかるのだが、その音色の処理は細部に至るまで極めて緻密に調整されている。そしてそれが生み出している音の空間には非常に居心地の良いノスタルジアが漂っていていつまでもそこに浸っていたい欲求に駆られる。


 だが、我々は本当にこの「ノスタルジア」に浸ってよいのだろうかと、その音空間に散りばめられている快楽に誘惑されればされるほど、思わずにはいられない。この思いは「チルウェイヴ」をリアルタイムで追っているときにも全く同じ感覚を覚えた。ノスタルジックな音像を掴んだ上で刺激的な音楽を創り上げたアクトなど、本当に一握りでほとんどのアクトはベタに「ノスタルジア」に拘泥しているように見え、聴き手としてその音と向き合った時、そこにはどこか言いようのない悲しみを覚えずにはいられなかったのも事実である。


 ノスタルジックになるのが悪いと言っているのでは断じていない。過去を振り返るのが悪いと言っているわけでもない。ここで書きたいのは「音楽にとって過去と向き合うとはいったいどういうことなのか」という極めてシンプルな、筆者自身のここ数年にわたる問いである。このアルバムの評価の難しさは筆者自身がこの問いに答えを出せていないからだ。音楽がこの先何を鳴らすことができるのかという問題を考える際に避けることのできないこの問いの重要さを、このアルバムは改めて思い出させてくれた。



(八木皓平)

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STOROBOY.jpg

 思わずダンスしたくなるギターの甘美な響きと極上のサウンドに満ちた1stミニ・アルバム。80年代のバンド作品の趣を持ち味としつつも、メランコリックなメロディーや胸躍るロック・チューンが満載。これまで彼らが受けてきたあらゆる音楽的影響が見事に実を結んでいるんだと思う。


 そして押しつけがましくなく、背中を押してくれるような肯定性がアルバム全体を包んでいることも大切な要素。ソウルフルじゃないけどエレクトリックなニュアンスが印象的なARAKIの歌声を泳ぎ回らせたり、タフなギターを前にグッと出したり、楽曲ごとのフォーメーション取りも巧みだし、本当、新世代ロック・バンドの真打ち登場!! なのです。


 抜群の楽曲センス、独特のルーズ感のあるグルーヴも素敵です。(おそらく)彼らが子供のころ全盛期だった、ニューロマンティック、シンセ・ポップ、ニュー・ウェイヴ。先達へのオマージュと見せかけて、周到に張り巡らせた独自の音楽を開陳する大胆不敵さ。これから先何が飛び出すか、もうこのドキドキの虜!!



(粂田直子)