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YO LA TENGO.jpg

 ヨ・ラ・テンゴほど作品を重ね、キャリアが長くなるほどに再評価軸がぶれ、また、再定義されるバンドも興味深いと思う。1997年の『I Can Hear the Heart Beating As One』は〈Matador〉レーベルを代表し、90年代のUSインディーのマスターピースに数えあげられながらも、その後のフォロワーが増えてゆく様とフェス、映画音楽で見せる鮮やかな音響工作の妙は確実に、ネオ・サイケやシューゲイズの域を越えて、ザラついた音像の中でのロック/ポップスの再更新をおこなうという意味のエッジを歩き続けた。


 そして、今作においては、黄昏にストリングスの揺らぎが巻き付いた曲の美しさからジョン・マッケンタイアらしいミニマルなソフト・ロック的な意匠のものまで、幅広く、散漫さよりもタイトに締まった全容を示している。ジャンクなガレージ・ロックもジャジーで柔和なスイング・チューンに混ざる破片のような愛に近似したフィーリング。過去二作に沿い振り返れば、フリー・フォークとの共振にヴェルヴェッツの背徳の馨りがフィードバック・ノイズに掻き消される、そんな麗しさと故郷たるホーボーケンへ戻るまでの寄り道で、アメリカーナを巡回することもありえただろうに、そうではない舵取りも伺える。


 そもそも、ヨ・ラ・テンゴとは1984年、ニュージャージー州ホーボーケンにて結成され、既に30年近い経歴を持つオルタナティヴ・バンドであり、ジョージア・ハブレイ、アイラ・カプラン、ジェイムズ・マクニューの三人からなる。この『Fade』は前作以来、約3年強の歳月、つまり、2010年代に入ってからの世の激動の間で「沈黙」を経て実に13作目となるスタジオ・アルバムなのだが、決して時代を反映させる音楽ではなく、音楽から時代を解放させるかのような、しなやかな動態性と閃きが充溢している。いわば、大人の「ロック」たる懐の深さがあり、ジャケットの壮大な樹木の絵が示唆するように、後味の悪くないメロディアスなうねりを感じさせ、そこに自然の風や陽光を借り、彼らのときに奇妙に螺子の抜けたアンサンブルが空気の色彩を変える。


 過度なバイアスやこれまでのキャリアを鑑みての大言壮語も付加せずとも良いと思う、フラットに良いヨ・ラ・テンゴの新譜がこうして届いたというだけで、幸せなことかもしれない、と感じるからだ。90年代の彼ら、00年代の彼ら、今の彼らを知っているにしても、ここから視える景色は悪くないと思う。


 ヴェルヴェッツ、ソニック・ユース、ベック、シー・アンド・ケイク、フリート・フォクシーズまでの時代を跨ぐ「本案」、「正史」ではなかったかもしれない音楽の血脈をトレースして、透き通ったハミングのようなサウンドスケイプに、そして、あくまで軸はぶれないダウン・トゥ・アースな音の響き。長年の友人たるジョン・マッケンタイアが参加したことに派生しての音の粒の丸みが矯められた、バーバンク的なサウンドを彷彿とさせる室内楽的な「Before We Run」のような曲が映えているのはあるが、小声のパンク「Paddle Forward」、枯れたフォーキーな渋みが宿る「I'll Be Around」、加え、国内盤に入っているトッド・ラングレンのロウなカバー「I Saw The Light」に至るまで、彼らのか細く折れそうながらも、貫かれてきた自然体の姿勢は相変わらず際立っている。


 これまでどおり、演奏がとても素晴らしいとか、時代的に革新的なことをしているとかではない、音楽が持つ大らかさと自由を体現しているという文脈で、存外にこういう作品には出会うことは少なくなった瀬だけに、彼らの在り方はより貴重な意味を帯びてくるような気がする。


 ノスタルジックに凛然と、甘美な音楽の稔りを感じさせる一作になっていると思う。



(松浦達)

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Satanicpornocultshop『AtoZ!!!!!AlphabetBusterS!!!!!』.jpeg

 長い活動歴を持つサタニックポルノカルトショップだが(以下サタポ)、2011年から突如ジューク/フットワークに傾倒して以降はジュークを量産し、ここ約2年間でEPを7枚、アルバムを2枚リリースしている。そのEP/アルバム群からチョイスしたトラックを集めた2枚組ベスト・アルバムが、本作『AtoZ!!!!!AlphabetBusterS!!!!!』である。


 ジューク/フットワークに傾倒してからの音楽性は、正直一言で表すのは難しい。例えば、同じくジュークが盛りあがっているイギリスの場合、"一要素"としてパーツ的に取りいれたり、ジェームズ・ブレイクのようにエクスペリメントな視点から解釈を試みようとするのがほとんどで、シカゴ産ジュークにあるボディリーな快楽性や土着的要素はかなり薄いと言える。それに比べると日本のジュークは、よりシカゴに忠実というか、シカゴ産ジュークが持つ快楽性を抽出し、それを独自解釈したものが多い。エイフェックス・ツインも泣いて逃げだすであろうハチャメチャなビート、一度聴いたら耳にこびりつく強烈なベースやシンセが特徴的なサタポのジュークも、シカゴ産ジュークの快楽性を"独自解釈したもの"だと思う。


 そしてサタポは、独自解釈の過程で様々な音楽的要素を吸収し、それらをぶっ飛んだセンスで見事に切り刻んでいるが、このセンスに皮肉のようなものを感じとってしまうのは深読みがすぎるだろうか。80年代エレ・ポップ、UKガラージ、オールド・スクール・エレクトロ、ヒップホップ、ハウス、ダブステップなど、その"音楽的要素"はいくらでも指摘できるが、そうした批評家の当てっこ合戦をあざ笑うかのように、サタポは溶解的ジュークを鳴らしている。その溶解は"言われてみればそうかもしれない"というレベルにまで達しており、それは論理に白旗を振らせると同時に、"面白ければそれでいい"という究極の快楽主義に聴き手を導いてくれる。言ってしまえばサタポは、"面白いかそうじゃないか"という単純明快な志向を極め、それをエンターテイメントに昇華しているのだ。


 サタポのジュークは、デカイ音で聴いてなんぼのフロア仕様なのは間違いないのだけど、音楽で遊ぶことの面白さを教えてくれるものでもある。だからサタポのジュークは、ジュークを追いかけている者はもちろんのこと、ジュークを知らない者でも"楽しい音楽"として聴ける。そんなトラックが44曲も詰まった本作は、日本のジューク・シーンが実らせた素晴らしい成果のひとつである。



(近藤真弥)

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OKLobby『Resort』.jpeg

 レーベル《同窓会》を主宰し、去年の年末に渋谷WOMBでおこなわれたイベント《大ネットレーベル祭》でも素晴らしいパフォーマンスを披露してくれたフード(Fo0d)の別名義によるアルバム『Resort』。フードとしても、『Amusement music』という良質な作品を去年リリースしたが、本作では、テン年代以降の要素を混ぜあわせた、温もりあふれるポップ・ミュージックに仕上げている。


 収録曲のなかで特に興味深いものを挙げると、まずは1曲目の「Brainwash」。スクリュー・ヴォイスやクエドなどに代表されるシカゴのジュークを独自解釈したようなジューク、いわば換骨奪胎の換骨奪胎をしているのが面白い。アルバム全体としては、チルウェイヴ以降のドリーミーなサウンドスケープが目立つものの、ビートや音色のヴァリエーションが豊富で、さらにはダンサブルな展開を作りだせるグルーヴもあり、聴き手を飽きさせない。そして、10曲目の「mind resort Scidaria」に代表される子供のチャントなど、随所にユーモアを散りばめているのも素晴らしい。


 そういえば最近、《Pitchfork》に"The New Electronic Brooklyn Underground"という興味深い記事が掲載されたけど、本作に込められた感性は、この記事でピックアップされているアーティストたちに通じるものがある。もちろん現在のブルックリンはテクノやハウスといった"エレクトロニック"色が強いし、"インディー=ロック"という図式を見事に壊した、いわゆる《DFA》をキッカケとしたジャンルの溶解と地続きのものだ。しかし、その溶解の成果として、サファイア・スロウズ(Sapphire Slows)やタクワミ(Taquwami)といった、先述の溶解と共振するアーティストが日本からも現れているし、《Cuz Me Pain》や《Diskotopia》など、面白いレーベルも出てきている。


 そしてこれらは、音楽性というよりも、溶解を楽しめる感性でもって繋がっているように見える。だからこそ、その溶解を象徴する動きであるインディー・ダンスにしても、そこにはハウスもテクノもあれば、ロックもアンビエントもあり、そこへ新たにインダストリアルやジュークも流れこんでいるのではないか。その点においても、本作はモダンなポップ・ミュージックとして多くの人に聴かれるべきだ。



(近藤真弥)




【編集部注】本作はOKLobbyのバントキャンプでダウンロードできます。

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PAIR.jpg

 音楽とは不思議なもので、10~20年前に聴いていた音楽を再び聴くと、当時の記憶がよみがえる。そこに記憶の美化はなく、そのままの記憶と今の気持ちの同居がある。山田杏奈とLlamaの吉岡哲志のユニット、ペアのファースト・アルバムとなる本作『Pair!』は、そういった聴き手の中でいつまで生き続ける特別な作品になるだろう。紅茶が似合いそうで、南米音楽もアシッド・フォークも取り込んでいる軽やかなポップ・ソング集だけれど、いかにも「様々な音楽要素を詰め込みました!」という声が透けて見えないサウンドはさりげなく、たおやかだ。


 本作での山田杏奈の凛とした歌声と吉岡哲志の淡い歌声は、感情の抑制や昂ぶりを訴えてくるものではなく、平静を保つ歌の美しさを浮かび上がらせ、フルートやスティールパン、トロンボーンなどの音色が歌声に導かれ、自然に歌に寄り添っている。柔らかい音響が効いた楽曲の全てはあっさりと聴き手を包み、漠然としていた気持ちがメロディーに沿いながら膨らんでポジティブな形を帯び始める感覚が浮かぶ。フアナ・モリーナやシー・アンド・ケイクにも通じる滑らかさ。鮮烈で劇的な音はないが、その分、構えずとも耳にするりと入ってくるという、聴き手との距離をなくした音のすべては、幼い子供が笑顔になり、大のおとながふと涙する。そんなやさしさがある。


 ただそれだけではなく、純粋に作品性が高い。京都在住の吉岡哲志と、東京在住の山田杏奈が、データのやり取りで曲も歌詞も均等に創作した本作に、記号としての「東京」「京都」はない。ジャケットに見えるように、どこか奇妙で、朴訥としていながら色彩豊かな架空の場が音の中で柔らかく在る。それは人々の記憶の集積による郊外なのかもしれない。ROVOの勝井祐二や岡部洋一などが参加しているからだろう、すっと引き込まれる別世界のリアリティがあり、いわば聴き手は鑑賞することのみならず、音に気分や気持ちというものを、あけすけになって預けられる。それは音に酔っている自分に酔うこととは違う。どうしようもなく好きな音楽に自分を預けられる包容力が『Pair!』には強くあるからこそ、なのだ。本作に全面参加した益子樹は、そういった余白を作る術に長けている。それはスーパーカーの『Highvision』でも実証済み。


 聴き手が入り込める余白、包容、ということに関して言えば、少し前ならチルウェイヴだったかもしれない。しかし、それらに没頭するのは現実逃避に近かった。本作はそれとは違い、聴き手の気分がそのまま反映され、刻印され、時代を問わない。『Pair!』は「音への心酔」という言葉の解釈を変えてしまう作品だと思う。ツジコノリコ+竹村延和の『East Facing Balcony』のように。


 本作は過去の足跡を見詰めながらも今を呼吸し、今という瞬間を記憶として形にする音楽だ。聴くたびに昨日を思い出す。そうすることで今日のサウンド・トラックとして生き始める。音楽は聴き手の記憶を雄弁に語ることをあらためて示すものであると同時に、今を映すものでもあることを示した一枚。ラストに収録されているキャロル・キングのカヴァー「君の友だち」での懐かしさを感じる音使いが、曲が進むにつれ、ゆっくりと今の音に歩み寄ってくるアレンジが象徴的だ。人は過去があるから今を歩める。そんな声が聞こえる音が小気味よく楽しく鳴っているから嬉しい。



(田中喬史)

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LINDSTRØM & TODD TERJE「Lanzarote」.jpg

 本作は、インテリジェンスあふれる音楽性で多くの人々から高い評価を獲得し、コズミック・ディスコの旗印としてシーンを牽引してきたリンドストロームとトッド・テリエのコラボレーション・シングル。


 だから本作を聴く前は、ふたりの音楽性に共通するロマンティックなムードが漂っているのかな? と想像していたんだけど、いやいや、ここまで快楽的なディスコに振りきってくるとは思わなかった。しかも、これまたふたりの音楽性に共通するコズミック的サウンドスケープではなく、ニュー・オーダー「Blue Monday」のような、ポスト・パンク側から解釈したダンス・ミュージックであり、洗練されたシンセは、ファン・ファンやボビー・オーランドなどを想起してしまうハイ・エナジーすれすれの音を鳴らしている。


 そしてトドメは、世界各国の都市を連呼するだけの享楽的ヴォーカル。このヴォーカルには、《僕らはパリで暮らすんだ》という傍から見たらどうでもいいことをポップ・ソングとして歌ったフレンドリー・ファイアーズに通じるセンスがある。2010年代以降のインディー・ダンスと共振する要素も取りいれているし、これは多くの人にウケるのではないか。知性ある者がおバカを真面目にやると面白いことになるという好例。



(近藤真弥)

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JIMANICA.jpg

 作曲といえば、ギターやピアノで曲を作る場合が多いのだろうし、今ならば、コンピューターの場合も多いのだろう。しかし、ドラマーがドラミング感覚で作った曲がここにある。それは優美であり、上品でもあり、官能的ですらある。淡くスウィートなメロディーの反復によって、たちまち聴き手を引き込んで、一瞬たりとも休まず走る、ジマニカのサード・アルバムとなる本作『Torso』。この音楽からは不思議と土着的なものが感じられない。無論、それは良い悪いの問題ではなく、リズムとメロディーの関係性をあぶり出している。


 同じメロディーであってもリズムが変化することで、曲の雰囲気はガラリと変わってしまうという側面を射抜いた上での曲が全編貫かれ、ドラマーならではの曲調によって、多種多様のリズムが静謐な音響の中でたおやかに、自由に、泳いでいる。その上に乗るメロディーはミニマルではあるが、リズムの規則性を排することで表情は移り変わり、活き活きと躍動し、かつ、土着性が最も表れるリズムを操っているがゆえに無国籍性を生み出している。


 それはアクフェンの『My Way』を思わせるものなのだが、しかし、ゲスト・ヴォーカリストの歌声を弾けさせるというよりは、曲に溶け込ませるリズム感覚は異端。そこにおいてはd.v.dや、やくしまるえつことd.v.dとしての活動、ワールズ・エンド・ガールフレンドデデマウスでの活動によるところが大きいのだろう。しかも歌声を素材とし、音響にしてしまう。それ自体は珍しいことではないが、声だろうと電子音だろうと、メッセージ性を抜き取って、音が持つ自由度を解放しているから音としての純度が高い。


 salyu×salyuと比べるならば、同じく歌声を活かした音作りではあるけれど、ジマニカの場合、全ての音を並列に捉えたことで匿名性が生じている。麓健一が「音の美しさを求めるのならば、感情や、歌詞に意味を宿してはいけない」と語っていたのを覚えているが、ジマニカが求めている音楽とは、それに近いのではないか。そうして鳴る軽快なメロディーとリズムは分別されていない。いわば、音の一切が分別されていないから広がりがあり、透き通っている。青空のように広がる本作の匿名性のエレガンス。それは「Walking Behind」のMVにあるように、日常で静かにたゆたう。



(田中喬史)

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Jake Bugg『Jake Bugg』.jpg

 アコースティック・ギターをつまびきながら歌うジェイク・バグという少年の醒めた目つきからは、ジェイクが持つ芯の強さを窺えるが、同時に哀しみも湛えているように見える。そんなジェイクの目つきには、筆者に強い興味を抱かせるのに十分な説得力があった。


 もちろんグッド・メロディーが光る楽曲の素晴らしさは言うまでもない。アニメ『シンプソンズ』の劇中歌として流れた、ドン・マクリーン「Vincent」がキッカケで音楽人生に足を踏みいれたジェイクの音楽性は、よく言われるように、ボブ・ディランやドノヴァン的要素が強いフォーク・ミュージックを土台とするもので、いわゆるプレ・ロックのそれに近い。だが、こうした音楽性を形成するに至ったのは、他にもドン・マクリーンの楽曲を探そうとユーチューブで検索し、その過程でバディー・ホリーなどの音楽史に名を残すシンガーソングライターたちを聴いていたからという、2010年代のアーティストらしいキッカケである。これは、モーニング娘。のmp3を買いあさっていたカインドネス、J-POPやK-POPからの影響を公言しているグライムスと同様の思考回路がジェイクにも備わっていることを示すエピソードだ。


 とはいえ、14歳の頃からギターを弾くようになったジェイクにとって、ギターを手に取ったことは幸運であり、宿命だったのかもしれない。でなければ、ギター・ミュージック以外の要素も混在させたストーン・ローゼズはともかく、頑固なロック信者であるノエル・ギャラガーまでジェイクを猛烈にプッシュすることはなかったはず。ましてや、"ギター・ミュージックは死んでいなかった" "ギター・ミュージック復活"などといった謳い文句と一緒に、メディアが祭りあげることもなかっただろう。まあ、それはそれでいいが、ギター・ミュージック云々に当てはめてジェイクを語ろうとする者の多くは、ジェイクが持つ本質から目を逸らしているのではないかと思ってしまう。


 ではその本質とはなにか。それは、ジェイクが歌うリアリティーに、多くの人が共有できる風景があることだ。もちろんジェイクはイギリスに住む若者だし、日本に住む筆者とは違う文化のもとで生活してきた。歌っていることも、ジェイクにとってパーソナルな事柄がほとんどであり、巧妙に隠されているとはいえ、階層があるにもかかわらず階層意識を持たない日本人からしたら、下層階級から見た日常を描いたジェイクの歌に心の底から感情移入できるはずがないのだ(例えば、2011年に起きたイギリス暴動を"対岸の火事"として捉える人がほとんどだったように)。


 それでも筆者は、ジェイクの歌に、例えばdaokoといった日本の10代による音楽と共通する"ナニカ"を見いだしてしまう。このふたりには"リアリティー"という共通点がある。しかし、その他にもうひとつ、共通点を見つけるならば、それぞれにとっての"リアリティー"を見つめた結果、どうしても拭いきれない疑問や冷たい現実と向きあうことになってしまったということだろう。そして、この拭いきれない疑問や冷たい現実をもたらす主因は、実は同じものではないか。そんな考えを、切実度が高いジェイクの歌を聴くと巡らしてしまうし、だからこそ、多くの人がジェイクの歌に引き寄せられる。


 「Two Fingers」を聴けばわかるように、ジェイクは"生きるための音楽"を鳴らしているが、そういった意味でジェイクの歌は日常に根ざしたものだと言えるし、"音楽は音楽"と切り離したがる考えとは相容れないものだ。しかし、そんな音楽を鳴らす少年に多くの人が惹かれ、極東の島国に住む我々にも突き刺さり、覚醒を促しているというのは事実なのだ。この事実は、絶対に見過ごすべきではない。



(近藤真弥)

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 20代前半、旅行でポルトガルに行ったとき、休憩のパーキング・エリアで哀愁に帯びた、また、少しコブシのきいた声とシンプルなバック・サウンドで歌謡性と大陸的な大らかさを感じるような曲が流れていた。爪弾かれるポルトガル・ギターの響きには、得も言われぬ慕情もあった。現地の方に聞くと、ファドという音楽だよ、と教えてくれた。そのパーキング・エリアでファドのカセット・テープやCDを早速、買ったが、よく聴いていたのはアマリア・ロドリゲスだった。ファド歌手といえば、というほど有名で偉大なアーティストだが、彼女の声や伝承歌の解釈から迫力、その背景の寂寥まで胸を打つものがあった。現地のガイドの方が「ファドは大衆酒場などに集まる、どちらかというと、裕福ではない人たちが愛した始まりがあります。彼らはファドを聞きながら、お酒を飲むのです。日本では演歌に近いかもしれません。」と言った。


 説明どおり、始まりはそうだったが、ファドはソフィスティケイティッドされてゆき、ブラジリアン・ジャズ、ボサノヴァ、文学性を取り入れるなどポップ、ワールドワイドに革新されてゆく中、コンテンポラリー・ポルトガル・ファド・シーンの才媛MARIZA(マリーザ)は新作『Fado Tradicional』にてタイトルに沿い、原点回帰した。つまり、ポルトガル・ギター(ギターラ)、クラシック・ギター(ヴィオラ)、アコースティック・ベースだけを軸に、1920年から1950年のファドの隠れたクラシックを取り上げ、一部の歌詞(詩)に新しく曲を付けるといった、試みからしても、彼女の伝統に対しての気骨が見える内容に帰一しているのは意義深いと思う。


 例えば、リスボンのカフェにも銅像がある著名な詩人のフェルナンド・ペソアの詩に曲をつけた「Dona Rosa(Fado Bailarico)」は2分ほどの中に、ペソアの詩情を彼女の緩急自在な声が骨組みだけのアレンジメントの中で泳ぐように、今の温度にファドという音楽が辿ってきた歴史を預けているムードも感じる。


 ここで改めて振り返っておこうと思う。ファド(Fado)とは、庶民の心を代弁する歌、英語での"Fate"に派するものとして「運命」や「命」の意味も包含するとも言われている。むろん、諸説はいくつもあり、比較的、周知になっているのは、大航海時代にポルトガル人たちが当時の植民地であったブラジルへ連れて行ったアフリカ人の奴隷たちが踊っていたどこか物憂く、悲しげな舞曲(Fado)が、港町たるリスボンに逆輸入されたというものだろうか。ブラジル音楽にも"サウダージ"という日本人では形容し難い慕情があるが、ファドも起源のときから続く故郷を予め失ったような切なさと艶めかしい踊りで明けない夜の憂きを乾かし、そして、場末の酒場や売春宿を経て、時代の変遷とともに舞台芸術の域まで、というのは他の伝統音楽にもよくある歴史の痕跡といえるかもしれない。


 アマリア・ロドリゲスが作詞した曲やジャイメ・サントスといったビッグ・ネームの曲もありながらも、12曲はスタンダードと呼べるものではないチョイスになっているが、彼女の切々と感情豊かな歌唱力が時代を越えて、埋もれていたともいえるファドの伝統歌を現代にしっかり蘇生させている。


 どうしても、歴史に翻弄されてしまう「うた」はそれでも、唄い手の意思により少し先の未来へと渡され、これからの世代へと継がれてゆくのだろう。ファドの深い歩みを知るための一つの入口にもなり得る作品だと思う。



(松浦達)

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 ザ・ミルクはリッキー・ナン(Vocal)、ダン・ル・グレスリー(Guitar)、ミッチ・エイリング(Drums)、ルーク・エイリング(Bass)から成る4ピースバンドであり、ドクター・フィールグッド、デペッシュ・モード、ザ・プロディジー、ブラー、クーパを輩出してきたエセックスからの新人バンドである。そんな彼らが昨年上梓した記念すべきデビュー・アルバムが非常に優れた出来になっていたので本稿で紹介させていただきたい。R&Bバンドと形容されることもあるザ・ミルクの音楽性の根本にあるのはモータウン、スタックスといったオールド・スクールなソウル・ミュージックと、1950年代のロックン・ロールである。そしてそこにエレクトロニカ、ヒップホップなどが奇妙なセンスでブレンディングされ、極めてユニークな音楽性が形成されている。ザ・ミルクの影響源の広さは彼らのホームページを見れば非常によくわかる。そこには彼らがボビー・ブランド「Ain't No Love In The Heart Of The City」、ケミカル・ブラザーズ「Galvanize」、スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズ「Ooh Baby Baby」をカバーしているセッション動画があるのだが、これらは彼らの音楽性を象徴するような、興味深く、そして極めて納得のゆくチョイスだ。このクオリティの高いカバーを聴けばこのバンドがいかにそれらの楽曲を、ひいてはそれらの楽曲が該当しているジャンルのうまみを熟知しているのかが良くわかる。


 それではアルバム「Tales From The Thames Delta」の話に移ろう。一曲目「Broke Up The Family」はアグレッシヴなドラム・ビートと太くうねるベースが織り成すグルーヴの上で、叩きつけるようにピアノを弾きながらシャウトするリッキー・ナンが印象に残る(リトル・リチャードの名前が頭をよぎった)、鮮烈なナンバーとなっており、全編にわたり爆発的なエネルギーが漲っているこのアルバムのスタートを切るにふさわしいナンバーとなっている。この曲を聴けばこのバンドの最大の聴きどころがナンのヴォーカル(その唸るようなヴォーカル・スタイルはジョン・フォガティを彷彿とさせる)とエイリング兄弟の、ビートを重く確実に刻みつけてゆくようなドラムと、うねるように、そして滑らかにそれに絡み付いてゆくベースによって構成されるリズム隊であることがよくわかるだろう。三曲目「(All I Wanted Was)Danger」はまさにキラー・チューンと言えるこのアルバム中最もキャッチ―なナンバーである(PVも笑えるので観ていただきたい)。イントロでホーンが高らかに鳴らされるのだが、それがスタイル・カウンシル「Shout To The Top」を彷彿とさせ、クスリとさせられる。「Nothing But Matter」はレゲエ、スカの影響が色濃いナンバーで、この曲からはバンドが持っている別ジャンルの音楽に対する柔軟さと咀嚼力(もちろんレゲエ、スカに対する教養があった可能性もあるが)を伺い知ることができ、そしてその柔軟さが悪ノリとなって面白い結果を出したのが「Kimmi Kimmi」におけるヴォーカル・エフェクトだろう。バンドの音楽性の核が非常に強固なので、サウンドにおける遊びが遊びのままで終わることなく、その全てが曲の味付けとして機能しており、デビュー・アルバムでここまでの完成度に達していることに驚きを隠せない。


 もう少しザ・ミルクの音楽性についての言及を続ける。このアルバムを初めて聴いたときに連想したのはUKが誇るスター・プロデューサー、マーク・ロンソンが手掛ける一連の作品だ(特にエイミー・ワインハウス、アデル、ザ・ライク)。モータウン、スタックスなどのR&Bをベースに様々な音楽をミキシングする彼のセンス(彼のサウンドをレトロモダンなど表現するメディアもある)はザ・ミルクと非常に類似している部分があるように思える。こうしたマーク・ロンソン的なレトロモダンのセンスがザ・ミルクにも感じられるのは、彼らの力によるものだけではなく、おそらくアルバムのプロデューサーにブラッド・バルーを起用したのが大きな要因の一つだろう。ブラッド・バルーは盟友ダム・サーチとともに、イギリスが誇るプロダクション・ユニット、ザ・ネクストメンをやっており、ファーサイド、パブリック・エネミー、プランBなどヒップホップ・アクトを中心にプロデュースをおこなってきた。そのため、本稿の冒頭でも少々言及したが、このアルバムにはヒップホップの要素(それも少々オールド・スクールな)が少なからず導入されている。「Broke Up The Family」の中盤や「Hometown」の最後の30秒でなされている奇妙なエディット、「B-Roads」でのスクラッチの導入。また、リズム隊のビートにヒップホップを感じるのはエイリング兄弟がザ・ルーツの影響を多大に受けているというだけでなく、ブラッド・バルーのエディットによるものであると考えて間違いないだろう。ザ・ミルクの持つレトロな部分を上手くモダナイズすることができたのは彼の力によるところが大きいはずだ。だからマーク・ロンソンやその他のレトロモダンと言えそうなアーティストたち(例えばジェイミー・リデルやメイヤー・ホーソンなども当てはまるのではないか)と彼らが異なる点はヒップホップ色が濃厚なところであるとひとまず言えるだろう。


 このレビューを終える前に二つ言わなければならないことがある。一つ目はこのアルバムの収録曲「Picking Up The Pieces」に超豪華なゲスト、イギリス人俳優イドリス・エルバがポエトリー・リーディング風なラップで参加しているということだ。『プロメテウス』のキャプテン・ジャネクの役を演じていたのが記憶に新しい。人によっては(というか筆者はホラー好きなので)『28週後...』のストーン准将を思い出すかもしれない。また、彼はアンジー・ストーンやファット・ジョー、バスタ・ライムスなどのPVにも出演している。


 そしてもう一つがこのアルバムのテーマである。このアルバムに収録されている曲たちは、ザ・ミルクのメンバーたちが育ってきたエセックスでの悲喜こもごもの日々について歌われているものがほとんどである。それを象徴するような「(All I Wanted Was)Danger」のリリックを引用してこのレビューを終えることにする。


《俺は危ないやつになりたかったんだ 少しはマシなんだって感じたかった。 なぁベイビー、なんで俺はマシになる必要があったんだ? 忘れられないリズムを刻んでくれないか 人生ってやつは公平にできてるのさ》



(八木皓平)

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JACK DICE「Block Motel」.jpg

 最近はダブステップもメジャーになってしまい、ディープなトラックが減ってしまったという言説をたまに見かけるんだけど、メジャーになるのはそんなにいけないことなんでしょうか? ダブステップに限らず、アンダーグラウンドで人気を集めたものがメジャーになった途端つまらないものになるなんてこと、ないと思いますよ。例えばヒップホップやロックを見渡しても、確かに水増ししただけの作品がないわけではないが、それでもディープな面白い音は数多く生まれているし、これらが評価される場もある。


 まあ、いつの時代も、一部のマニアは文化の発展を妨げるというある種のクリシェなんだろうか。"売れること自体が悪"みたいなね。過去と現在の距離が縮まり、それによって十人十色なルーツが生まれ、さらにはこうした状況を楽しめる寛容性を備えた者が増えているのだから、何も"排除"することはなかろうと思う次第です。ダブステップ自体、その寛容性を祝福するように様々な音楽的要素を取りこみ、ブロステップやファンキーといった分派を生みだした音楽だし。もちろん好き嫌いはあってもいいですけどね。


 というわけで、本作はダブステップの新たな側面を開拓する可能性を秘めたユニット、ジャック・ダイスのファースト・シングルである。ジャック・ダイスは、バーミンガムを拠点とするレーベル《Type》の主宰ジョン・トウェルズと、クラウド・ラップ・シーンの注目株メイン・アトラクションズのマネージャーを務めるウォークマスター・フレックスによるユニット。


 ジョンのベース志向が反映されたダブステップを土台に、フレックスが持つヒップホップの要素(特にサウス・ヒップホップ)が交わり、そこにミニマル・テクノやインダストリアル(これはここ最近の《Modern Love》が強く打ちだしている要素だ)がドロドロと流れこむような音響空間は、聴き手を時間という概念から解放するトリッピーな空気で満たされている。何度も聴いているうちに、アクトレス『R.I.P』やアンディー・ストット『Luxury Problems』を想起したんだけど、これらのアルバムよりもジャック・ダイスの音は乾いていて、とてもヒンヤリとした質感がある。この乾いた音には、パレ・シャンブルグに代表されるノイエ・ドイチェ・ヴェレと接続できるものがあり、そういった意味で本作はポスト・パンク的解釈のもと鳴らされたダブステップと言えなくもない。


 特にオススメしたいのは、「Mister Frosty」だ。コールドな音粒が生みだす地を這うようなグルーヴと、時折挟まれるあえぎ声のようなヴォイス・サンプリングが交配しながら進んでいく展開は、死と隣りあわせの妖艶な雰囲気を醸しだしている。これは文字通り、"ヤバいブツ"である。



(近藤真弥)