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MEMORY TAPES.jpg

 チルウェイヴとは鑑みるに、そもそも、10年代に入り、持ち上がってきたタームで定義的には不精確なところもある。サウンド的には微睡むような特徴的なシンセ、ディレイのきいた甘美なサウンドスケープ、更には、どことなく、ローファイでベッド・ルームから零れだしてくるようなある種の逃避たる行為性であったかもしれず、ヒプナゴジック・ポップ(≒入眠作用のある音楽)と評される側面どおり、その揺れる音像の中に意味がある、そんな印象も受ける。


 加え、現代らしくネットを介しての拡がりが背中を押し、ライヴ・パフォーマンスそのものよりも呈示されるサウンド自体の精度、何らかの失われたムーヴメントだったのかもしれない気がする。しかし、ウォッシュト・アウト、スモール・ブラック、ネオン・インディアン辺りのアクトと並び、セカンド・フェイズに入ったと思われるトロ・イ・モアが新作にて踏み込んだ端整で流麗なメロウでジャジーな世界観と比肩してUS、ニュージャージー出身のデイヴィ・ホークのソロ・プロジェクトことメモリー・テープスの1年半振り、3作目となる新作『Grace / Confusion』において磨かれた音世界は、明らかにチルウェイヴ「以降」の、しかし、濃霧の中にコクトー・ツインズからスクリッティ・ポリッティ辺りの80年代的な音響美、アンビエンスと細かいビートの狭間を行き交う稚気と穏やかな内省が少し深まり、ただ、どことなく漂う淡くも美しいメランコリアが根をはり、前作『Player Piano』の仄かな明るさとポップネスを想像していると、覆されるところがある。


 彼岸的でありながら、サイケデリアに攪拌される冒頭の「Neighborhood Watch」、まるで、デデマウスのような子供の嬌声のカット・アップにシンセがたおやかに絡む「Thru The Field」の流れで掴まれる感触は、これまで通りの心地良さもあるが、柔和なフックがある。同時に、彼の繊細なヴォーカリゼーションが彩味を加えており、長尺の曲を含めて一気に聴き通せる内容になっていながらも、タイトルが優美(Grace)と混乱(Confusion)で引き裂かれているとおり、最終着地点はそのどちらでもない、茫漠な気配が前景化するのも興味深い。


 これまでの文脈通りのチルウェイヴ、ヒプナゴジック・ポップと捉えるにはメモリー・テープスたる記名性が浮かび上がり、確実に新しい一歩を刻印という意味で、これからこのサウンドを巡って、どういった定義、更新がされてゆくのか、新しい時代の始まりの新しい音楽の息吹を感じる。


 最後に、幾重にも重ねられた優美なサウンド・レイヤーとトライバルなリズムが残る6曲目のタイトル「Follow Me」が象徴的だという気がする。微睡んでいる中で見る現実は、ずっと醒めないままで、夢から抜け出たあとに、もう一度、ビート(鼓動)が脈打ち始める。



(松浦達)

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BURIAL「Truant」.jpg

 ブリアルという存在のほとんどは、彼が生みだす音楽を聴いた者の副次的イメージで形成されている。それはブリアルの高い匿名性ゆえだと思うが、そんなブリアルの在り方は、音楽はひとりひとりの捉え方によって違う形を見せるものであり、それらすべてが一側面であることを思い出させてくれる。人々にどう受けいれられ、価値を与えられるかなんて、誰も制限できない。


 それは作り手も例外ではない。作り手は、受け手が音楽を聴いた際の考えや思いに対して疑問を持つことはできても、否定し排除することは難しい。言ってしまえば、聴き手の頭のなかにある音楽も作品なのだ。


 だとすれば、すべてをわかりあうなんてことはありえないのかも知れない。ただ、この壁にぶち当たり諦念を抱いてしまうか、それとも"わかりあえないことをわかりあおう"と前向きに捉えるかで、歩む道は分かれるはず。そして、頑なに匿名性を保ち、聴き手の解釈が入りこむ余白を生みだすブリアルは、後者ではないだろうか。つまり、それぞれの解釈によって多様化が進み、そのことで生じる可能性をブリアルはポジティヴに捉えている。謂わば"思考のひとり歩き"に対して寛容で、そうした状況が音楽という文化に豊穣さをもたらすと考えている。


 こうした考えは、アンディー・ストットシャックルトン、それからジェームズ・ブレイクらが断片となることで、徐々に広まっているように見える。いま挙げた者たちは、音楽の記号化に抗うような溶解的サウンドスケープを描き、己の残り香を消し去って音楽そのものになろうと試みているからだ。この試みから筆者は、ブリアルの遺伝子を感じとってしまう。


 というわけで、ここまで書いてきたことは、2012年の年末に突如届いたブリアルの全2曲入りシングル「Truant」以前の風景だが、本作はその風景と地続きになっている。ブリアルにしてはユーフォリックな仕上がりだけど、深層意識に潜るディープな世界観や、幽霊の如く漂うヴォイス・サンプルは健在だ。とはいえ、「Rough Sleeper」にはこれまでのブリアルが見せなかった側面もある。


 まず、闇から光へ向かうような高揚感。光の先を見せてくれるわけではないが、光から遠ざかるような音を鳴らしていたこれまでのブリアルからすると、明らかな変化だと言える。そして何より、ビートが力強い。もちろん従来の繊細美も相変わらず存在している。しかし、12分50秒あたりから鳴らされるテンション高めのビートは、抑えきれない凶暴性を発露しているようで、何度聴いても惹きつけられてしまう。多くの者は、"怠け者"という意味深なタイトルを掲げた「Truant」に興味を抱くのかもしれないが、今後のブリアルを考えるうえでは、「Rough Sleeper」のほうが興味深い音を鳴らしている。あの凶暴性には、そう思わせるだけの異質な雰囲気がある。



(近藤真弥)

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KEN STRINGFELLOW.jpg

 2012年の年末、僕はこのアルバムを繰り返し聴いていた。ケン・ストリングフェロウ、その名前は音楽好きにとって当然「ポウジーズのケン」であったり、アレックス・チルトンの伝説的なパワー・ポップ・バンド、ビッグ・スターの復活に正式メンバーとして一役買った男としても思い出されるだろう。そして『Reveal』や『Around The Sun』、『Accelerate』など、後期のR.E.M.では準メンバーとして、レコーディングやツアーに参加していたことも。クッキーシーンのアーカイブを辿ってみると...、やっぱりあった! モンゴルのロック・バンド、ハンガイ(HANGGAI)のプロデュースもケンの仕事だった。他にもニール・ヤングからハーフ・ジャパニーズのジャド・フェアとのコラボレーションまで。「ケン・ストリングフェロウって誰よ?」っていう人も自宅のCDやレコードのクレジットをチェックしてみれば、彼の名前を見つけられるかもしれない。その活動は本当に多彩で(もちろん、僕もすべては追っかけきれていないけれど)素晴らしい作品ばかり。


 「さて、職人気質の良い仕事もアレだけど、そろそろオレも...」と思ったかどうかは知らないけれど、ソングライター/フロント・マンとしての活動も活発になってきた。2011年にはポウジーズの7thアルバム『Blood / Candy』をリリース。バンドとしては、約5年ぶりの来日公演も実現した。そして、ソロでは(ミニ・アルバムやコラボ作を除くと)8年ぶりとなる4thアルバムが国内盤としてリリースされた。


 『Danzig In The Moonlight』と名付けられたこのアルバムは、月明かりに照らされた町と海のアート・ワークが印象的。『ダンシング・イン・ザ・ムーンライト』ではなくて、『ダンジグ・イン・ザ・ムーンライト』だから、間違えないように! ダンジグとは、元ミスフィッツのグレン・ダンジグ...とは関係なくて、ポーランドの港町の名前。"ダンチヒ"が正式な読み方だけれども、英語では"ダンジグ"とのこと。なるほど、ティム・バートンの映画みたいにちょっぴりダークなビジュアル・イメージがぴったりの14曲(国内盤はボーナス・トラック4曲収録の全18曲)が並ぶ。従来のケンは、パワー・ポップ/ギター・ポップというイメージが強いけれど、このアルバムは奇妙なユーモア(ダジャレ!)と異国情緒(レコーディングはブリュッセルのICPスタジオで行われた)が表現されたタイトルそのままに、バラエティ豊かな仕上がりとなっている。


 流麗なストリングスと音数を抑えたピアノに寄り添うようなメロディから、意外な展開で一気に聴かせる「Jesus Was An Only Child」でアルバムは幕を開ける。続く「110 Or 220v」はソロのニール・ヤングを思わせるカントリー調。アコースティック・ギターとハーモニカの響き、曲をリードするリム・ショットの軽やかなビートが心地良い。壮大なピアノ・バラッド「History Buffs」とアコーディオンが楽しげに鳴り響く「You're The Gold」のコントラストも鮮やか。ソウルフルなアレンジと歌声を聴かせる「Pray」には年季の入ったファンもびっくりするはず。「4 am Birds - The End Of All Light / The Last Radio」は、なんと狂ったバカラック(!)みたいな組曲。そして「Doesn't It Remind You Of Something」には、ザ・ヘッド&ザ・ハートの女性シンガー/バイオリニストのチャリティー・ローズ・シーレンが参加。アコースティックなサウンドに抱かれたロマンティックなデュエットも聞きどころのひとつ。


 耳を澄ませば、人懐っこいメロディの向こう側にR&B、ビートルズ、カントリー、AOR、そしてポスト・ロックまでもが息づいていることに気付く。これだけアプローチの違う楽曲を纏め上げる手腕にこそ、今までのソングライター/アレンジャー/プロデューサーとしての経験が活かされているのだと思う。"ダンシング=踊る"ではなくて、月明かりの中をゆっくりと散歩するようなミドル・テンポの曲調がどれも優しい。年は明けて2013年になったけれども、僕はこのアルバムをこれからもずっと聴き続ける。ヘッドフォンから聴こえる曲たちは、見慣れた夜の町を月明かりのように少しだけ明るく照らしてくれるから。ポップ・ミュージックという魔法、2013年はそれをライヴで体験したいな。ケン・ストリングフェロウの来日が実現しますように! それが新年の願い事。



(犬飼一郎)

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FALTY DL『Hardcourage』.jpg

 《Not Not Fun》や姉妹レーベルの《100% Silk》などが中心となって、去年爆発的な広がりを見せたインディー・ダンスだが、筆者もその爆発に引きこまれたひとりだ。インディー・ダンスの何が面白かったのかを振り返ってみると、様々な音楽を解体し再構築することで、新たな文脈/歴史を築こうとする熱意みたいなものを感じたからだと思う。


 90年代初頭のハウス・ミュージックとバレアリックな熱狂を纏い、アマンダ・ブラウンやアイタルといった、元々ダンスフロアとは程遠い音楽を鳴らしていた者が中心にいたのも面白かった。インディー側のダンスでも、ダンス側のインディーでもない、あらゆる要素がそれぞれの定義を曖昧にしながら交わっていくインディー・ダンスという音楽は、90年代から布石が打たれ、その後のネット文化によって加速された"過去/現在" "古い/新しい"といった価値観の無効化を決定づけるトドメを祝福的に鳴らしていたし、こうした状況を肯定する者は、インディー・ダンスに寄り添うような音楽性を機微ながらも滲ませていた。


 その機微が本作にもある。本作は、フォルティーDLことドリュー・ラストマンによる《Ninja Tune》移籍後初のアルバムで、UKガラージ、ダブステップ、ハウスといった音楽を再解釈し、それらを有機的に混ぜあわせていた従来の感覚を深化させた内容となっている。初期IDMを彷彿とさせるサウンドスケープのなかを、力強いビートが突き進む「Stay I'm Changed」は、ドリューが新たなフェーズに突入したことを告げるに十分なオープニング・トラックであり、続く「She Sleeps」も、耽美なグルーヴが心地よい陶酔感を生みだしていて、ドリューの新たな側面が窺える。


 「She Sleeps」ではフレンドリー・ファイアーズのエド・マクファーレンをゲストに迎えているが、フレンドリー・ファイアーズといえば、《Ramp》などからリリースを重ねるステイ・ポジティヴとたびたび共演していて、そういう意味では《Ramp》周辺と言えなくもないのだけど、ドリューも実は《Ramp》からリリースをしている。偶然とはいえ、ドリューとエドのコラボレーションに《Ramp》という共通点を見いだせるのは面白い。《Ramp》はベース/ビート・ミュージックを語るうえで欠かせないレーベルだが、その点で本作は、これまでの様々な潮流が集う作品でもある。


 さらにはアンディー・ストットゲリー・リードと共振するインダストリアルな質感を取りいれるなど、トレンド・セッターとしての審美眼も発揮している。とはいえ、流行の音楽的要素をただ寄せあつめたのではなく、それらをアルバムという表現フォーマットに上手く落としこんでいるのはさすが。そして、溶解的音楽が展開されている本作は、トレンドだけでなく、これからの音楽の在り方も示している。



(近藤真弥)

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 4人組のパンク・バンド、ザ・メンのサード・アルバムとなる本作『Open Your Heart』を聴けば、初めてロックンロールに触れて真っ白になった時の記憶が蘇る。とことん痺れ、この作品を聴いた誰もから、ロックは死んだだとか、生きているだとか、よく分からない言葉を発する口は消え失せて、ぐうの音も出ないであろう。ロックにまつわる哲学性や神格化など、どうでもよくなる。


 鬼気迫る轟音の熱は冒頭曲「Turn It Around」からして沸点に達し、聴き手の鼓膜をまっすぐ刺す。ダイナソーJrがマイ・ブラッディー・ヴァレンタインの『Loveless』を訳も分からず強引に真似てしまったようなサウンドは、触れれば破裂してしまう程の迫力があり、どこをどう聴いても飼いならされた音はない。四方八方から聴き手に掴みかかるギター・ノイズ、スティックが折れそうな程のドラムの鳴りがラモーンズのように痛快に突き抜ける。空気を斬るようにファズが飛び交い、シャウトが強靭に響く。とにもかくにも破れかぶれだ。このバンドは安全なロック・ミュージックに流れない。むしろ安全なロックってなんだ? という勢いなのだ。「分かってほしい」ではない。「分からせてやる」という意気込みが、ひたすら強く鳴っている。


 ブルックリンのバンドではあるのだが、ジーザス&メリー・チェインやスワーヴドライヴァー、デヴィッド・ボウイなどの音楽性を取り込むというUK志向。しかし、ザ・メンは取り込みつつも、ハードコアやカントリーなどとごちゃ混ぜにして鳴らしてしまう。溢れ出てくるアイデアを設計図なしで振り撒いているのだ。その意味で、ザ・メンの勢いとは、同じくブルックリンのバンドであるTV・オン・ザ・レディオとはタイプが違い、様々な音楽要素をごった煮のまま何のためらいもなく吐き出せるところにある。その原初性に僕は震えた。


 意識的に雑然としたさまを雑然と鳴らしているのかもしれないと思ったが、しかし、彼らの音楽に計算性はない。どのような音楽要素も取り込めるのだろうが、そのポテンシャルの高さを自分たちでは整頓できず、整頓できない不器用さが潔くそのまま表れている。しかもマンサンのような妖艶さすら熱として鳴らす。それが聴き手の体温を一気に上げ、端的に言って、かなり燃える。何らかの分析を必要とする音楽はあるが、分析する必要のない音楽や、情報を必要としない音楽があるのも確かで、まさに『Open Your Heart』がそれなのだ。「ロックを聴くことって、打ちのめされることだよね」というドン・マツオの言葉が頭に浮かんだ。


 音楽に飲み込まれたいと思ったら本作を手に取ればいい。こういった思考では追いつけない作品が生まれるから創造は未知の領域を広げ続ける。聴けば、リスナーにとって、自分が知識で音楽を聴いているのか、感覚で聴いているのか、あるいは別の何かで聴いているのかというような自分の聴取スタンスがくっきりと表れるだろう。ある意味、踏み絵のような作品と言える。ちなみにこのバンドについて、アジアン・カンフー・ジェネレーションの後藤は将来性のあるバンドだと言っている、という噂を聞いた。仮にそうならば、僕は違うと思う。ザ・メンは今しか生きることのできないバンドだ。「今」にしか賭けることができない。その「今」という瞬間に少しでも近づきたい一心で、ザ・メンはロックを鳴らす。鳴らさずにはいられないのだ。このサウンドに痺れなければ嘘だと思う。



(田中喬史)

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 ロシア出身、現在はアメリカを拠点に活動するシンガー・ソングライター、レジーナ・スペクターに駄作なし。彼女が作品を発表するたびに「相変わらずの傑作」の声があがる。それもそのはず、彼女には100曲以上のストックがあるとのこと。アルバムのコンセプトに沿って曲をアレンジし、自分の気分に沿って思うままに歌い、ピアノを鳴らす。どの曲もハズレがない。では、本作『What We Saw From The Cheap Seats』のコンセプトやレジーナの気分は何なのかというと、自分自身との向き合い、だと思う。


 前々作『Begin To Hope』と前作『Far』はレーベルの違いもあるのだろうが、整った作品だった。それはそれで良かった。特に『Begin To Hope』は今も愛聴している。ただ、前作、前々作に比べれば、本作には装飾された音がなく、レジーナの素が出ている。つまり、荒さがある。狂気と美は紙一重とは言われるが、その境目を彼女は綱渡りしているかのようだ。


 時として彼女は狂気に似た苦みを歌う。ヒステリックなギター・サウンドやヒューマン・ビートボックス、ノイズ、おぞましいほどのうめき声を交え、しかし、それでも平静でいようと、ポップでありたいと、願うような歌がある。だが平静ではいられないという葛藤。音色にはざらついた感触もあり、葛藤という、自己と向き合うことで生まれるダイナミックなグルーヴから目をそらせない。


 ある意味、歌うことで自分を救っているところがあると思うのだが、レジーナの凄いところは自分自身との向き合いというものを、自己相対化の目で軽やかなポップ・ソングにしてしまえることだ。ピアノの静謐な音色やトランペットの柔らかい音色はそれゆえ。彼女は自身の苦みをも美と見立てる。彼女が生み出す美に聴き手は乱れるが、しかし、親しみやすいという不思議。水中をさ迷う「All The Rowboats」のMVが印象的だ。「Don't Leave Me(Ne Me Quitte Pas)」と聴き比べてみるとポップ性において物凄い落差があり、これは人間の感情そのものじゃないかと思えてくる。


 そう思わせるのは、彼女のリアリティと僕らのリアリティが繋がっているから生じている。いつだって人の情緒は不安定にぶれている。いつ歪んでもおかしくない日常の中に僕らはいる。この作品は僕らの気分そのものであり、現実だ。聴いていると、まるで事故に出会ってしまったかのように胸が締め付けられてしまう、とてもポップな音楽なのに。『What We Saw From The Cheap Seats』が鳴り止んだその時は、自分がどこにいるのか分からなくなった。ここには圧倒的なリアリティが宿っている。本作は「相変わらずの傑作」ではない。「見違えるほどの傑作」だ。


 誤解を恐れず言えば、おそらく、本作に心の底から揺さぶられるリスナーは何かを失った人々だと思う。そして、自立を望んでいる人々だと思う。音楽には、部屋の隅でうつむいている人々を動かす力があり、人を立ち上がらせる。この原稿を書いている時点では、政治の話題が盛んに交わされているところだ。どういうわけか、本作によって動かされる気持ちとは、今の国民の気持ちとリンクする。今、立ち上がらなくていつ立ち上がるのかと。そんな凄みのある本作が、拡大解釈されがちな「希望」の文字を、「目標」の文字に塗り替える。



(田中喬史)

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 2004年にリリースされた『The Holy Bible』の10周年スペシャル・エディションに長文を寄稿したキース・キャメロンは、その長文のなかではっきりとこう書いている。


 「私にとってマニックスは、世界中でもっとも偉大なロックンロール・バンドでも、私とは折りが合わない虫の好かないロックンロール・バンドでもない」


 そして本作、『Generation Terrorists 20th Anniverasary Edition』に、これまた長文を寄稿したサイモン・プライス。彼はウェールズ出身のジャーナリストで、マニック・ストリート・プリーチャーズに関するバイオグラフィー『Everything : A Book About Manic Street Preachers』の著者だが、その彼ですら、『Generation Terrorists』については「博物館に収蔵されるに相応しい作品でもない」と述べている。しかし両者とも、マニックスに対する情熱と好奇心はとてつもないものがあり、それはふたりの文章からも伝わってくる。そう、マニックスは、聴き手を"シニカルの箱庭"から連れだすバンド、つまり、安易な共感や馴れあいを拒絶する者たちなのだ。この姿勢をマニックスは今でも保ちつづけ、多くのファンは、そんなマニックスを愛している。


 オリジナルに最新リマスターを施したCD1、そのオリジナルのデモが収録されたCD2、そしてジェームズ、ニッキー、ショーンのメンバー3人だけでなく、彼らの関係者も貴重な証言を寄せているドキュメンタリー『Culture, Alienation, Boredom And Despair - A Film About "Generation Terrorists"』などを収めた映像集のDVDで構成される本作は、マニックスが愛される理由と本質を明確に示すものになった。特に『Culture, Alienation, Boredom And Despair - A Film About "Generation Terrorists"』は、目から鱗の新しい発見がたくさんあり、制作時の心境や状況、レコーディング秘話などから見えてくる様々な側面は、マニックスを再考察するための刺激で満ちあふれている。


 それは、かつてマニックスが口にした有名な宣言、「30曲入りの2枚組アルバムを1枚だけ作り、それを世界中でNo.1にして俺達は解散する。」「上手くいかなかったらその時も解散だ。」というハッタリ(彼らが今も第一線で活躍していることからもそれは明らか)すらも、マニックスの行動パターンを読み解く言葉として咀嚼しようと試みた者がいたからだし、マニックスがバンド生命を現在まで維持してこれたのも、そうした者たちの支えによるところが大きいのではないか。まあ、それ以外の者たちは、ギターの腕前が一向に上達しないギタリストをセヴァーン橋(イングランドとウェールズの境を流れるセヴァーン川に架かる橋。自殺の名所として知られている)に導いたことで鬱憤を晴らせたのかもしれないが・・・。


 とはいえ、様々な挫折や矛盾を抱えてもマニックスの輝きが失われることはなく、そしてその輝きの礎となる要素は、『Generation Terrorists』の時点で形作られている。ジェージ・オーウェル、カミュ、ウィリアム・バロウズなどの言葉を引用し、スローガンが書かれたシャツを戦闘服の如く身にまとう攻撃性はもちろんのこと、ビーチ・ボーイズやディスコを取りいれた『Know Your Enemy』で見られる折衷的センスは、パンク、ハード・ロック、バラード、さらにはヒップホップにまで手を伸ばした本作でも見られる。


 変化を恐れず、向上心を持って活動してきたマニックスは決してスマートではないが、泥臭くとも、聴き手の心を揺さぶりつづけてきた。だからこそ彼らは、常にコミュニケーションを求めてきたし、そのためならばリスクも厭わなかった。そのせいで批判を受け、結果的にリッチー・エドワーズという犠牲を払うことになってしまったが、それでもマニックスの音楽には、目の前の日常と向きあう際のヒントがたくさんある。そして、日常の元となる社会から距離を置く者が多くなった現状では、そのヒントが重要な意味を帯びている。


 そういえばリッチーは、テレビ番組のインタビューでこんなことを言っていた。


 「昔良かったから今も良くなくちゃいけないという考えは間違ってるよ。むしろザ・スミスのように、いかに自分達の文化がダメになっているかを歌う方が正しいんじゃないかな。世の中が変わっていくことを受けとめなくちゃダメさ」


 本当にその通りだと思う。




(近藤真弥)

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 大きな成功を収めてきたインディー・レーベルはそのレーベル特有のカラーを持っていることが多く、そのカラーはレーベルに関わる人間たちやその設備によって規定される。《モータウン》ならばソングライター・チーム、ホーランド=ドジャー=ホーランドが書いた楽曲をファンク・ブラザーズが演奏することで生まれる「モータウン・サウンド」、ジャズの老舗レーベル《ブルーノート》ならばアルフレッド・ライオンによるプロデュース、ルディ・ヴァン・ゲルダーの録音技術、フランシス・ウルフによる写真、リード・マイルスによるレコード・ジャケットなどのチームワークである。他にも《4AD》での設立者アイヴォ・ワッツ=ラッセルとデザイナーチーム23 Envelopeのコンビネーションや、《ファクトリー》におけるハシエンダなど枚挙に暇がない。


 2006年にジェレミー・アール(ウッズ)によって設立されたインディー・レーベル《Woodsist》のレーベル・カラーとして挙げられるのは、レーベルのハウス・スタジオとなっているリア・ハウス・スタジオである。このスタジオは元々ジェレミー・アールも在籍していたミネガーのメンバーたちが住んでいた家で、そこに録音機材などを持ち込むことで、住居兼レコーディング・スタジオとなった建物だ。日々の生活と共存している状態でレコーディングが行われており(ギタリストが料理を作っている最中に、ドラマーが録音をしているといったことが日常茶飯事だ)、ミュージシャンたちは非常にリラックスした環境でレコーディングができるようになっている。粗く、ざらついてはいるが同時に暖かみのあるリア・ハウス・スタジオ・サウンドはホーム・レコーディングの一つの粋と言っても良いだろう。このサウンドの暖かみは、同じローファイと呼ばれるバンドでも、例えばぺイヴメントなどのクールでざらついた音の粗さの対局をいくものだ。また、このスタジオの運営者であり、リアル・エステイトやブランク・ドッグス、ヴィヴィアン・ガールズ、ウィドウスピークのプロデュースもしている現ウッズのドラマー、ジャーヴィス・タヴェニエルは、「全てのプロセスは常にラモーンズのレコードとの対話から始まる」(ALTERED ZONES)という発言をしている。本稿で紹介するザ・ベイビーズを聴けば非常に良くわかるのだが、このリア・ハウス・スタジオ・サウンドの思想背景の一つにラモーンズのサウンドがあるということに疑いの余地はない。


 このように、ある意味では極めて伝統的なローファイ・ミュージックの系譜をなぞりながら佳作を産み出し続ける《Woodsist》レーベルは、ジャンルの名前が生まれては消えてゆくあまりにも移り変わりが早すぎるアメリカのミュージック・シーンの中で異彩を放っており、それはこのレーベルに在籍しているヴィヴィアン・ガールズ、ウッズ、ノジーやレーベルから巣立っていったリアル・エステイト、ウェーヴス(Wavves)、カート・ヴァイルという名前たちがそれを証明している。


 ザ・ベイビーズはこのレーベルの看板バンドであるウッズのベーシスト、ケビン・モービーとヴィヴィアン・ガールズのギタリスト、キャシー・ラモーンが中心となって結成したバンドである。フォーク/カントリーをベースとしながらエクスペリメンタルなサイケデリアを奏でるウッズとチルウェイヴ以降のアメリカのミュージックシーンの影響を多大に受けながら、ひねくれたガレージ・ポップを鳴らすヴィヴィアン・ガールズの子供はどんな音楽を響かせているかというと、先ほど述べたようなリア・ハウス・スタジオ・サウンドの極致と言ってもよいような温かみのあるアナログなサウンドで(ザ・ベイビーズの1st、2nd共にこのスタジオでレコーディングされている)、そこにグッド・メロディがこれでもかというくらいに凝縮されたガレージ・ミュージックだった。1stアルバム『Babies』で響かせたその音にはラモーンズだけではなく、13thフロア・エレベーターズ風のサイケデリアが漂っており、またローファイ・ミュージックについて言及する際にしばしば持ち出される『C86』(1986年にNMEがリリースしたカセット・コンピ)にも似た、楽しげではあるがどこか儚いギター・ポップに満ちていて、一口にガレージ・ミュージックと言ってもそこには様々な文脈が予め織り込まれており聴けば聴くほどにその魅力にひかれていく。


 彼らにとっての2ndアルバム『Our House On The Hill』をまず一聴して感じるのは前作と比してクリアになったそのサウンドだ。これはおそらくプロデューサーが前作を担当していたジャーヴィス・タヴェニエルからロブ・バーバト(キャス・マコモスのバック・バンドでもあるダーカー・マイ・ラヴのメンバーであり、ザ・フォールにも一時在籍。ラ・セラのプロデュースもしている)に代わったことが大きな要因だろう。バンドの音楽性に大きな変化は見られないが、前作よりも遥かにサウンドにメリハリが出て、アレンジも丹念に練られているという印象を得た。ザ・ベイビーズの最大の良さであるメロディーが前面に出るような彼のプロデューシングがこのアルバムを素晴らしいものにしたことは間違いない。キャシー・ラモーンがヴォーカルを担当している「Baby」「See The Country」を聴けばそれが本当によくわかる。柔らかに叩かれるドラムスの上で鳴らされるざらついたギターに、キャシー・ラモーンのどこかたどたどしいヴォーカルが乗ることで立ち上がってくる官能的なサウンドに思わず背筋がぞっとしてしまう。文字にするとこれほどまでに単純だが、そこに感動を宿らせるのがローファイ・ミュージックであり、時間だけは持て余した、しかしそれ以外は何も持っていない者たちが発明した音楽の美しさなのだろう。ケビン・モービーが弾き語る「That Boy」のため息のような、先ほど思いついたメロディをなんとなく歌ってみたような彼のヴォーカルを聴くと、その認識は決して間違いではないように感じる。


 先日発売された『モンチコンのインディー・ロック・グラフティ』に載っているジェレミー・アールへのインタビューによると《Woodsist》レーベルの経営は昨今の音楽業界の不況の影響をそれほど受けず、「そこそこ大丈夫」であり、彼は音楽に関する仕事のみで生活してゆくことが可能となっているような状態のようだ。このレーベルから、リア・ハウス・スタジオから生まれる音楽を求めるリスナーがそれだけ多く存在していることを喜ぶと同時に、さらにたくさんの人々に届くことを願ってやまない。



(八木皓平)

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 ヘヴィーな世界観を構築する音像のなかで、透き通った力強い歌声がドラマティックに響きわたる。瑞葵(ヴォーカル)、馬場義也(ベース)、久慈陽一朗(ギター)、吉田大祐(ドラム)の4人によるバンド、イツエはそんな音楽を鳴らしている。


 ファースト・ミニ・アルバム「いくつもの絵」が大きな話題を集め、その後の全国ツアーではライヴ・アクトとしての力量も見せるなど、着実に評価を得てきたイツエだが、疾走感あふれるグルーヴ、聴き手の心を捉えるまっすぐな言葉といった従来の魅力を深化させた本作は、その評価をさらに高め、より多くの人にイツエの音楽を届けるキッカケとなるのではないだろうか。


 特に興味深いのは、速射砲のように次々と放たれる言葉だ。波の音で始まる「海へ還る」や、《土に帰る》というフレーズが出てくる「はじまりの呼吸」、そして全4曲とも"巡り"のイメージを聴き手に抱かせるあたりは、古代中国に端を発する自然哲学の五行思想を想起させる。しかし言葉は、難解ではない美しいものが並んでおり、その抽象度も手伝って、聴き手の感情移入を誘発する。トゲトゲしさと同時に温かい包容力があるのも面白い。


 サウンド面で惹かれたのは、「はじまりの呼吸」。表現者としての葛藤を歌ったと思われる歌詞も秀逸だが、ニュー・ウェイヴやポスト・パンク的サウンドが印象的なこの曲は、本作中においては爽やかとも言える曲となっていて、イツエの優れたメロディー・センスが如実に表れた曲だと思う。筆者には、マニック・ストリート・プリーチャーズ『The Holy Bible』に収められてもおかしくないように聞こえた。もちろんリッチー・エドワーズばりの強迫的閉所感はないものの、心情が素直に表れている点などで、『The Holy Bible』と共通する"ナニカ"を見いだしてしまった。


 とはいえ、イツエが描きだす世界観は借り物ではなく、イツエにしか鳴らせない音楽を生みだそうとする4人全員の熱意も本作からは伝わってくる。そういう意味では流行に迎合するバンドじゃないけど、それでいいと思う。



(近藤真弥)

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 本稿の主役であるDSTVV「Molly Soda EP」についてだが、バンド自体はもちろんのこと、音源リリースに至った経緯も謎だらけ。わかっているのは、シカゴ在住のザイン・カーティスなる男が主宰するレーベル《Teen Witch Fan Club》にとって本作がリリース第1弾であること。そしてDSTVVとは、サンフランシスコ出身の男女デュオで、ふたりの音楽はインダストリアル・グランジゲイズと呼ばれていること。それから、タンブラー(Tumblr)というメディア・ミックス・ブログ・サービスを使った活動が話題になっていることくらい。


 インダストリアル・グランジゲイズという名の通り、初期衝動であふれたノイズを力いっぱい鳴らしているのがDSTVVの特徴だ。一聴した瞬間はスレイ・ベルズを想起したけれど、聴きすすめるうちに、その歌声とヴォーカル・スタイルも手伝って、ソニック・ユースから脈々と続くUSオルタナの最良な要素も見えてきた。メタリックな質感はあるものの、"インダストリアル"と聞いてイメージする音ではないのが、正直なところ。しかし、猪突猛進の如く突っ走るグルーヴは、音を鳴らすことの快楽を見事に体現している。まあ、展開のヴァリエーションはもう少し増やしたほうが面白いとは思うけど。


 本作に収録された曲群のタイトルも興味深いものとなっている。「Ariel's a Punk」「Do Skateboards Take Wavves」など、昨今のポップ・ミュージック・シーンで活躍するアーティストを引用しているが、そのなかでも特に目を引くのは、本作のタイトルにもなっている「Molly Soda」だ。モリー・ソーダ(Molly Soda)は、タンブラーを使った活動で話題を集める女の子で、ブルックリン発の人気ストリート・ブラント《Mishka》にピックアップされるなど、ネット上だけに留まらないアイコンとして注目されている。DSTVVの他にも、ネット時代が生みだしたヒップホップ集団、同性戦隊ディオールレンジャーがモリー・ソーダをネタにしていることからも、彼女に対する注目度の高さがわかる。


 本作はタンブラーを中心としたネット・カルチャーの産物と言えるが、このカルチャーは基本的にネットを通して繋がることで大きくなっているため、その全容を把握し説明するのは難易度の高い行為と言わざるをえない。本作をリリースする《Teen Witch Fan Club》周辺で言えば、ティーン・ウィッチ(ザイン・カーティスがDJをする際に使用する名義)としてザイン・カーティスがベルリンのメディア《Electronic Beats》で取りあげられ、それをキッカケにヨーロッパでも《Teen Witch Fan Club》の名は知られるようになり、このことがおそらく、ロンドン在住のキール・ハー(この人もタンブラーがキッカケで注目されたアーティスト)が本作に参加するキッカケになったと思うのだけど、このような人脈は底なしの様相を呈している。


 さらに《Teen Witch Fan Club》周辺の特徴として、過去と現在の折衷を目指していることがあげられる。ほとんどの音源はカセット・リリースであり(本作もカセット・リリース)、ザイン・カーティスが中心となって発行され、コミュニケーション・ツールとして人気を集める《Teen Witch Magazine》というジンは、約50ページの紙媒体だ。タンブラーで繋がり集まった者たちが過去のフォーマットを掬いあげているのはなんとも興味深いし、面白いのは、そこに消費主義に対する徹底した憎悪や怒りがないこと。むしろ使える部分だけを抽出して、積極的に取りこもうとすらしている。


 ちなみに《Teen Witch Magazine》は、日本でもおなじみ初音ミクや、タンブラーで披露するファッション・コーディネイトが支持されているジェイミー・ライアン・ディーというゲイの若者をフィーチャーするなど、文化的ハブの役割を担っているようだ。アメリカのティーン向けアイドル雑誌として知られる《Tiger Beat》へのオマージュが随所で見られ、荒いテクスチャマッピングの3DCGを前面に押しだしたヴィジュアルでイナタい雰囲気を演出し、それを面白がっている節がある。


 ここまで書いてきたことから見えてくるのは、自己同一化を求められる共犯と、気に入らないものに対する剥きだしの抵抗といった二元論では捉えきれない"繋がり"だ。それは図らずも、あらゆるカルチャーが共生する場を作りあげ、本作もその場を形成するひとつの側面かつ入口となっているが、筆者はこの新たな"繋がり"に興奮を覚えずにはいられない。そしてその"繋がり"は、グライムス《Pitchfork Music Festival》におけるライヴでモリー・ソーダをダンサーとして出演させたように、どんどん広がりを見せている。この新手のネット・カルチャーが、多くの人の目に触れる日は近いのかもしれない。




(近藤真弥)