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空気公団『夜はそのまなざしの先に流れる』.jpg

 音楽とは不思議なもので、その時代によって様々な視点から捉えられ、価値も変化していく。それは、ある時間を封じこめる録音芸術としての側面を持つ音楽の宿命であり、可能性なのだと思う。でなければ、多くの人が何かを創造し形にする行為にロマンを抱くこともなかったのではないか。


 このロマンは、なにも音楽だけの特権ではない。例えばフランスの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、ルイ13世から"国王付画家"の称号を得ながらも、一時期は彼の作品がスペインの画家によるものと思われるなど、いわば"忘れ去られた存在"であった。しかし、20世紀初頭にドイツの研究者へルマン・フォスによって再発見され、それをキッカケに、いまでは研究対象として多くの人の興味を惹きつけている。これもラ・トゥールが作品を残さなければ起こりえない世紀を越えた繋がりであり、"残す"という行為の素晴らしさを端的に示している。


 空気公団の1年半ぶりとなるアルバム『夜はそのまなざしの先に流れる』は、"残す"ことの尊さを音楽として見事に表現したアルバムだ。本作は、2012年7月6日に日本橋公会堂でおこなわれた一夜限りのライヴ・パフォーマンスを録音し、それをベースに制作されているが、そのライヴには演劇ユニットのバストリオが参加するなど、スタジオ盤でもライヴ盤でもない、録音芸術の可能性を追求したものとなっている。そうした試みから生まれたのは、"時間"をアルバムというフォーマットに刻みこんだ、いわばタイムカプセルのようなもの。時計の針が進む音で始まる「天空橋に」の存在も、この想像を後押しする。


 そしてなにより印象的なのは、その"時間"が聴き手の過去の出来事や思い出をフラッシュバックさせること。本作は洗練された音で覆われ、前作『春愁秋思』と比べればいささか主観的な空気を漂わせるものの、聴いていて心地よいリラクゼーションをあたえてくれるアルバムであり、聴き手の想像力が入りこむ余白とそれを許容する空気公団の姿勢が伝わってくる。


 それは例えば、「天空橋に」のイントロ~歌いだしからも窺える。音がひとつひとつ丁寧に重なり交わっていくイントロは、山崎ゆかりの祈りに近い歌声が聞こえた途端に、それまで鳴っていた音のほとんどがサッと引いていく。これはハメるタイプのダンス・ミュージックに多い抜き差しの手法だが、こうした手法が本作では散見され、それは物語としての起伏を生みだすと同時に、退行催眠に近い体験を聴き手にもたらすものである。


 もうひとつ、本作を聴いて思うのは、空気公団の作品としてはもっとも"今"に寄り添うものとなったのでは? ということ。そもそも空気公団が15年近くも活動し評価を得ることができたのは、時代や流行とは関係なく自分たちがそのとき表現したい音楽を素直に鳴らしてきたからだし、それは古い/新しいといった価値観とは程遠いものだ。


 だが本作における空気公団は、当たりまえと思っていたことが簡単に壊れる現実を嫌でも実感しなければならない"今"において、原初的な繋がりでもってみんなが集まる場所のように見える。このことは参加ミュージシャンの山本精一、山口とも、奥田健介(NONA REEVES)、tico moonが部外者として空気公団と関わっているよそよそしさを出していないことからも窺え、そしてそれは、空気公団自身が"空気公団である"という自意識をまとっていないことが主因ではないだろうか。だからこそ、退行催眠のように過去の出来事や思い出がフラッシュバックさせられ、それによって聴き手は感情移入し、本作を完成させるピースとなる。この寛容性と呼べるものに筆者は、これまで数多くの人々によって紡がれてきた、音楽という文化の持つ希望を見いだしてしまう。




(近藤真弥)

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すっぱ.jpg

 「ほら、ちゃんとしっかりしなさい。大人なんだから」。そんな言葉を聞かされるたびに、大人ってなんだろうな、と考えさせられ、その度にナンシー関の言葉を思い出す。


 《「大人はちゃんとしているものだ」という考えが大間違いであることに気がついたのは、20歳を過ぎてからでした。》(「何の因果で」角川文庫より)


 そもそも"大人"なんていう基準あるようでないものなんだから、何だっていいじゃないか。でたらめなまま、わからないことだらけのまま大人になったっていいじゃないか。傷つきやすいまま大人になったっていいじゃないか。そんな想いを抱いている人には是非スッパバンドを聴いてもらいたい。どんな姿でいてもいいんだよって、全てを肯定してくれているように思えてくる。


 例えるならば、日本人だと倉地久美夫、外国人ならハーフ・ジャパニーズのジャド・フェア、パステルズのステファン・パステルといった素朴で繊細、そして硬派で、ときどきクレイジーといった、いつも目が離せない子供のようにプリミティブでイノセントな曲調。とはいえ、特筆すべき部分は歌詞にあるのではないかと私は思っている。本作の言葉には、どこか遠い過去に置いてきてしまった素直な感情があるからだ。


 《月が球体だって信じられない / あの月が丸いなんて確かめられない / 空に綺麗な爪が嘘みたいに / ただ浮かんでいるようにしか見えないから》(「キアヌリーブス」)


 "月が丸い"なんて教科書で習ったけど、本当にそうなのか、実物をしっかりこの目でみたわけではないから確信は持てない。けれど、周りがそういっているし、「何で丸いの?」って訊いたら変だと思われそうだしなあ...よし、じゃあここは周りに合わせておくか...なんていう心の葛藤のようなもの、皆さんも一度くらいは持ったことあるのではないだろうか。そういう、「大人になったら口に出しては訊けないこと」も素直に書かれているから、聴いていて安心する。


 「ラブミー0点だー」には、《浮かれていたいのに / 全部気のせいな気がする / ひとつひとつにドギマギして / 減点を回避しようとしている》という一節がある。年を重ねていくと、自分自身の不備を隠蔽したくなる。大人であることに責任を持たねばならないからだ。役回りだけは大人、偉そうに出来る。でも中身は子供といった感じだろう。だが一方で、《素直になりたくて / 素直になれなくて / 素直ってなんだっけ? / 素直になれたって》と胸の内の葛藤を明かし、さらに《年甲斐もなく背伸びしようとしてる時点で / もう0点だー / 0点だー》と、隠蔽しようとした自分を認めてもいる。素直に反省したそんな自分を愛そうってことで「ラブミー0点だー」と名付けたのだろうか。そんなことを考えた。


 この『KONTAKTE』、素直な子供が持っている歪(いびつ)でユーモラス、そしてキラキラ輝く美しさを全て持った大人のよう。いつまでも童心を忘れずに、そんな大人になれたらなあ。そう思わずには居られない一枚だ。




(立原亜矢子)


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GERRY READ『Jummy』.jpg

 BPMやビートの組みたて方など、様々な部分でスタイルがあり、その集合体としてジャンルなんてものがある。しかし最近は、そのジャンルが溶解し、これまで数多くの評論家やアーティストによってあたえられた定義は曖昧になってきている。この曖昧な状況を楽しめるかどうかで、ここ数年の音楽に対する評価が分かれると思うのだけど、《Ramp》のサブ・レーベル《Fourth Wave》から『Jummy』をリリースしたゲリー・リードは、そんな状況の恩恵を受け、楽しんでいるようだ。


 これまでゲリーはベース・ミュージック寄りの音楽を生みだしてきたが、本作ではよりハウス色を強め、《100% Silk》を中心としたインディー・ダンスの潮流に接近している。しかも興味深いのは、インディー・ダンスの多くがシカゴや90年代初頭のハウスから引用しているのに対し、ゲリーはデトロイト側からインディー・ダンスを解釈したような音を鳴らしていて、それゆえ本作は、ムーディーマンなどのデトロイト・ハウスの影がちらついてる。


 とはいえ、インダストリアルに近いザラっとした質感はアンディー・ストットと共振するもので、その点では本作も未踏の地を見据えていると言えなくもない。これは先述のインディー・ダンスに接近した感性も含め、ゲリーの先鋭性を保証するものだ。そんな本作は、"ダンス・ミュージックの最先端"というより、"音楽の最先端"としての斬新さが詰まった1枚である。




(近藤真弥)

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wearenobody.jpg

 ばらばらに散らばっているジャンルの要素を、絶妙のさじ加減で音楽に取り入れて、さも当然といった表情でカジュアルに着こなしてしまう音楽性に恐れ入る。ステレオラブ? タヒチ80? ベック? そのどれとも違うのだけれど、共通しているのは大人の遊び心。クラウトロックやノイズ、現代音楽の色の濃い『Ham』も、パンク/ポスト・パンクの匂いのする『Mega Breakfast』や『Well Done Europe』も傑作ではあったけれども、5作目となる本作『We Are Nobody』もかなりの傑作だ。


 イギリスはロンドン、男女5人組の、このバンドの音楽は実験的とも言えるけど、絶対に彼らは実験室にこもらない。過去の作品の要素も含め、徹底的に音楽を遊び尽くして溢れ出るポップ性がある。ニヒルな姿勢は一切なし。それがこのバンドの立ち居振る舞い。適度に跳ねる心地の良いビートにフレンチ・ポップスを彷彿させる甘い男女の歌声とコーラス、少しチープなシンセがカラフルに楽曲を彩り、淡いグルーヴが生み出され、とろけるようなエコーの使い方も洒落ているからにくい。しかもダンサブルで多国籍な音楽性を貫く。


 多国籍とはいえ、彼らは自国イギリスを愛している。ラストにブラーを思わせるメロディ・ラインの「This Is Sick」を持ってくるところに無意識的な愛国心があるんじゃないか(なんだかこの曲での歌い方はデーモン・アルバーンに似ている)。多国籍な音楽は数あれど、本当にグローバルなアーティストは自国を揶揄しない。本作はそれを踏まえたうえでの多国籍性だ。90年代にブリット・ポップというムーブメントがあったが、それは作為的なものだった。どちらかと言えば、『We Are Nobody』を指してブリット・ポップと表した方がしっくりくる。


 思えばイギリスとは音楽の吸収力が高い。なにせ50年代にモダンジャズで踊っていたのだから。それこそビートルズやクラッシュなどを例えに出せばきりがない。ただ、本当に音楽の深い部分は、そう簡単に国境を超えない。いわば、本作の多国籍性とは表面上のものではある。でも僕はそれでいいと思う。他国の伝統に深く首を突っ込むことには、ある種の礼儀が必要だと思うからだ。このバンドはその礼儀において意識的だと思え、必要以上に突っ込まない。それゆえのステップの軽さが音楽を小気味良くしている。


 ユーモアのセンスも良い。ジャケットにコンドームのイラストを描き、本作を「僕らはただのアレだ」と名付ける、ちょっとしたブラック・ユーモア。そんなところにブラーの『Parklife』や『The Great Escape』と同じような毒のカタルシスを感じた。こういった毒が色鮮やかに音として弾けているのを聴くのは、おかしな痛快さがあって、気持ち良く聴き手に刺さる。やっぱり毒がなければつまらない。バンド側は全然意識的ではないと思うのだが、この作品からは作為的ではないブリット・ポップが訪れる予感が漂っている。そう思えるほど良い。過去の作品の足跡を見詰めてたどり着いた境地が『We Are Nobody』。本作ほどワクワクさせられるポップスはそんなにないよ。



(田中喬史)

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DOMENICO.jpg

 今作は、ドメニコのソロ名義では初アルバムとなる。+2プロジェクトにおける、モレーノ・ヴェローゾ、カシンとのドメニコ+2『Sincerely Hot』があったり、多くの作品、場所での客演、ブラジルの新しい世代の担い手の一人として、名前を見ることは多かったが、改めて、ドメニコのパーソナルを紹介しておきたい。


 本名は、ドメニコ・ランセロッチ、リオ生まれのイタリア系ブラジル人。父は、70年代から活動しているサンバ・カンサォンのシンガー、コンポーザーたるイヴォール・ランセロッチ。併せて、画家や演出家としての側面を持ち、ジャケット・デザインから舞台、照明までも考えるマルチな才人であり、基本はドラムを担当しながらも、様々な音楽的なスキルにも長け、引き出しも交遊録も広い。なお、ソロ名義とはいえ、盟友たる、先述のモレーノ、カシンのみならず、ペドロ・サー、更にはアドリアーナ・カルカニョットなど馴染みのブラジル勢も名を連ね、脇を固めている。


 この『Cine Privê』は、アメリカ西海岸のフライング・ロータス、ビラルなどエレクトロニカからヒップホップの先鋭までを輩出する現在進行形で注視度の高いレーベル〈Plug Research〉からグローバル・リリースされており、そのレーベルの色に適うように、色彩鮮やかな音と幾つもの実験要素が含まれた内容に帰一している。アンビエント色の強い曲にはブライアン・イーノからの血脈が仄かに浮かび、マニー・マークが参加しているのもあるのか、いつかのベックを思わせるマルチカルチャリスティックかつ、どこかファニーなサウンド・メイクも映える。そして、父譲りのサンバをより現代版にアップデイトしたような曲もあり、それでいながらも、総体的にどこか、ラウンジ/モンド・ミュージックのムードが通底している。また、日本でいえば、トクマルシューゴ、コーネリアスなどとの共振性も感じさえもする楽器に混じる多くの奇妙な音色、非・楽器の使い方まで含め、音風景の奥行きにリ・デザインを試みるようなところからして、"真剣な遊び心"が功を奏しているような風趣も要所でうかがえる。


 ミックス、マスタリングはビースティー・ボーイズ、ベック、ジャック・ジョンソンなどを手掛けたマリオ・カルダート・ジュニア。ラフなダイナミクスよりも、サウンドの角が矯められたまろやかさを帯びながらも、不思議とサイケな質感を保つ。


 こう書いてゆくと、いかにも散漫な作品としてとっつきにくい印象を受けるかもしれないが、味わいのある朴訥とした彼自身のボーカルによって多種多様な曲群に一種の制御性、纏まりをもたらせているのは特筆しておきたい。


 思えば、『Sincerely Hot』の際のインタビューで彼は、「楽器それぞれの音が基本であり、そこにセッションを加え、色を付けていき、アイデアがあれば、歌詞をつけて、歌い始める。」、そんな旨を言っており、自分の作ろうとしている音楽はバート・バカラックのような映画のサウンドトラックのようなものかもしれない、との通り、まずは「音」から始まったのは今作でも共通しているといえる。勿論、ブラジル音楽の歴史に対しては、しっかり敬慕を払いながらも、実験/前衛要素を織り込み、自らの声を主軸に置くことで、新しい躍動を得たのは頼もしい。


 音楽が元来、孕む「楽」しみそのものを再発見できる作品だと思う。




(松浦達)

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工藤鴎芽『梔子e.p.』.jpg

 京都を拠点に、独自の道を切り拓いてきたオルタナティヴ・アーティスト、工藤鴎芽の核心には実存そのものの不安や孤独、生、死を巡ったものが多かった。それは彼女の感性として、あらゆるものに鋭敏過ぎるがゆえに、自己を追い込み、その毒が全身にまわってしまう前に音楽として外へ出さないといけない、非・自己への切実さも感じた。このEPのタイトルに付され、1曲目に入っている「梔子」からして印象的で、梔子は園芸用の花としてもよく目にされるが、幾つもの含みがある。果実が熟しても、割れないための「口無し」という和名説。園芸用としても蟻が集まってくるなどで積極的に求められない場合もあること。個人的に、梔子と言えば、江戸川乱歩の『梔子姫』を想い出す。


 乱歩のあまたの作品群の中でもあまり知られていない作品かもしれないが、そのデカダンスとロマネスクは馨るものがある。親の遺産を食い潰すだけの「私」は、30代も半ばを過ぎてしまうと、大抵の世の事にも飽きて、身体の一部がどこかまともではない女性たちが巣食う宋公館を訪れ、梔子姫と出会う、という内容。狂気は正気が基準なのではなく、正気は正気ではない状態と拮抗することで、初めて「狂気」を確認できる。正気と狂気は鬩ぎ合わず、浸食し合うのみで、反転はしない。


 EPとしては、おおよそ1年2ヶ月振り、5枚目となる『梔子e.p.』は、これまでのキャリアを踏まえた手触りはあるが、悲痛さ、叙情と多重録音されたゆえのサイケデリックなサウンド・レイヤー、エコー、空間を切り裂き、叫ぶような動的なヴォーカルから静的な揺れを見せる振り幅まで、「宋江館」での幻惑の出逢いを聴き手に預けるようなものになっていると言えるかもしれない。1曲目の「梔子」から弦の響き、優雅な誘いを促すイントロに、いつものようにザラッとした彼女の声、そこに重ね合わされる亡霊のような彼女のハーモニー、電子音の粒の目が粗く刻まれだしたら、もう終わっている。1分と少しの間に詰め込まれた膨大な情報量と想い。サイケな浮遊感そのものにはニューゲイザーが撒かれた種子の芽吹きを感じる。


 《白い花の咲く季節になれば いつも想い出す事がある / 名前を覚えて / 次を忘れてしまう事》(「梔子」)


 生きていると、憶えてゆく名前は必然的に増えてしまう。手に余るほどに、ただ、その「名前」を憶えたことで彼女は次を忘れてしまうと記す。名前を忘れて、失って次を想い出すのではなく、「名前」に刻まれた白い花、梔子を前に。とても悲しい「過去形」。その「過去形の数々」を包装するには1分ほどの間に膨大なカオスを投げ込まないといけなかったのかもしれない。そのまま、スムースに軽やかなビートに乗る「シーツの中」では、過去の「アメル」にも繋がるR&B的なバウンシーな側面を持ちつつも、世界観では"私と君"を衛星上にメタ的に見ている彼岸性もある。3分を越えて、限りなく沈黙にちかい電子音だけが響く後から、感情が決壊するように、背後のサウンドスケイプも歪みを増し、彼岸の"私"を私が引き摺り下ろす。


 《君は生きてる / 私を生かしてる / 堪らない時だってある / どうしようもない事か》(「シーツの中」)


 3曲目の「コンセント」は、「モンスター」や「MEEK」経由の鋭利で彼女らしい、ざらついたエレクトロニック・パンク。コンセントを前に、プラグで感電してしまおうよというもので、このEPで研ぎ澄まされているオブセッションは、恐慌に陥りかけている感性をせめて音楽で防いでいる、そんなところもありながら、音楽も感性に巻き込まれてしまう、倒錯が生々しい。その、ムードが変わる「"Blind"」。原曲は2002年に既にあった、「恋しい人」。10年前の作品ゆえの素朴さが、このEP全体が持つエッジの中和剤にもなっている。もたるブレイクビート、電子音、宅録を是としてきた彼女のざらついたギターも混じり、「Call Me」、「ねぇ ねぇ」とも似て異なる歌モノ。『Mondo』、『At The Bus Stop』での音響工作、ラウンジ・ミュージックのタクティクスを拡げ、セカンド・フル・アルバム『Mellow Subliminal』の軽やかさと着実にサウンド・ヴォキャブラリーを増やしてきていた轍も視える。


 今の誰もが優しく、憂鬱にならざるを得ない時代で背徳をなぞるのは難しい。何故ならば、背徳/アンモラルに耐えきれない人たちの声が音楽を逆説的に形成する巷間の要請もあるからだ。だから、裏で憎悪や憤怒、嫉妬、悪意がこれまで以上に犇めいている。彼女は、そんな場所から自意識と記憶のリミナル内でかろうじて、正気を保つ。


 《夜の不思議が色に焼けてく景色も / 夢の中でまた憶い出す事はないだろう》(「シーツの中」)


 《街頭の造花 チープな光 隠されていた世界を照らす》(「"Blind"」)


 夜の不思議/色に焼けてく景色、造花/チープな花/隠されていた世界、総て「作り物」の集体。それが照射する悲しみ、憶い出す事はないこと。大文字と本質主義を気取った言葉がしたり顔で、ロラン・バルト的な快楽を示す瀬をロールオーバーして、これまで以上にこのEPでは人間の深層心理に降下してゆく。そこで、この「"Blind"」を新録した意味は分かるような気がする。彼女の視界で、確認できるかろうじての何か。それが隠喩的に「恋しい人」という大文字として描かれるのだが、折れそうな希いの不在がそこには寄り添う。


 《恋しい人 / アナーキーな夢でも / 恋しい人 / 溜め息を鮮やかに弾く / 恋しい人 / 怠惰な喜びから逸れて / 恋しい人 / どうか見届けてよ》(「"Blind"」)


 《恋しい人》のリフレインは相対性理論でいう、遠距離にて霞む。光が遠くに届くほどに遅い速度になること。それを捉えようと試みる行為。スピッツで言えば、「エトランゼ」、「魚」的な、ウミガメの頃にすれ違った感覚を摺り合わせるように。前世、遠く深い記憶に潜るラブソングの残影をかすめ、《昔を忘れて人は行き交う / 夢中だった名前がこだまし始める》のラインで、今、在ること、今、生きることの刹那を嚥下せしめる。


 最後の「幸福な余白」はファースト・ミニ・アルバム「Mondo」に入っている「訪ねる」、「Satisfaction」、「泳ぐ」のマッシュアップに歌が入ったもので、「Mondo」の3曲の印象から離れ、「幸福な余白」という新しい曲になっている。ピッチの少し不安定な彼女の声の揺らぎと衝動と静謐を行き来する捻じれたダイナミクスが合っている。


 工藤鴎芽というアーティストは常にオルタナティヴ/ローファイを標榜し、規範どおりの社会から外れた場所で静かに、ときに激しく音楽を紡いできた。バンド時代を経て、ソロでの内省、量産家としての側面と模索、相応の評価軸が伴わないことに葛藤を抱えていたと思う。


 振り返れば、ファーストEP「I Don't Belong Anywhere」で既に「無所属に尽き」と表明していたわけだが、ジャズ、シャンソン、オルタナティヴ・ロック、IDMを往来し、工藤鴎芽はつまり、改めてディスコミュニケーション、人間が「人間していること」を確かめていたところがある。繋がろうとしても繋がることができない人と人の間に吹く鋭い突風。その突風に傷つきながら、今回は、梔子の花の馨りに耳をすます。


 《雨の通りの噎せ返る様な空気と / 重力に逆らっている》(「梔子」)


 と歌い出されたところで、このEPは"表現物としては"幸せなものになるのが決まっていたのかもしれない。世に溢れる、多くの嘘、悲しみ、賑わい、大文字の言葉、健全なスローガンを背に、梔子の花言葉のように、「幸せ」や「優雅」を彼女なりに描いている訳だから、きっと聴く人によっては、全体を見通せなくても、梔子の馨る気配が届いてゆくのではないか、ささやかに想いを馳せる。しかし、彼女のこれまでを考えても、典雅にして、蠱惑的な毒の誘いに酔えるこのEPもまだ「道程」なのだろう。



(松浦達)

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Magic Touch + Sapphire Slows「Just Wanna Feel」.jpeg

 これはアガる! そして踊れる!!! アイタルとミ・アミを組むマジック・タッチ、《Not Not Fun》や《Big Love》からリリースした作品も高く評価されているサファイア・スロウズがコラボレーションして生まれた作品、それが「Just Wanna Feel」である。


 リリース元が《100% Silk》ということもあり、オールド・スクールなハウス・トラック集となっているが、サファイア・スロウズの魅惑的なヴォーカルが加わることで、多くの人を惹きつけるポップ・ソングの一面も現出させている。


 「Just Wanna Feel」は、かつての《Junior Boy's Own》を思わせる音になっていて、人によっては懐かしさすら抱くであろうアンセム・トラック。イビザの大規模なパーティーで流れてもおかしくない音像と恍惚に満ちたグルーヴは、聴けば聴くほどクセになる享楽性を生みだしている。


 一方の「When I See You」は、憂いを帯びているのが特徴的。こちらも90年代的といえるが、筆者からするもうちょっと遡って、ルイス・A・マルティネーを起用したペット・ショップ・ボーイズ「Domino Dancing」のラテン・テイスト、そしてリズムにはトッド・テリーの跳ねるビートを嗅ぎとることも可能では? と思う。


 とはいえ、これらの"過去"から今でも通じる要素だけを抽出し、それを現在の感性で解釈し接合するあたりは、テン年代のポップ・ミュージックそのものであり、あらゆる音楽にアクセス可能となった今だからこそ必要な"再構築"の好例として興味深いものである。


 その点では文字通り"今"だと言えるのだけど、まあ、そんな難しいことは後まわしにして、フレンチ・タッチの大御所アイ・キューブ(I:Cube)による「Just Wanna Feel」のリミックスや「When I See You(Magic Touch Dub)」も含め、まずは本作に収められた最高のダンス・ミュージックで踊るのが一番だと思います。筆者が言葉で伝えようとすることを、一瞬にして教えてくれるので。




(近藤真弥)

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Falling.jpg

 とりあえず、ジャケットがずるいですよね。ガールズ・ポップ好きにはたまらないというか。条件反射的にレジに持って行ってしまったリスナーも多いのでは。タワーレコードの試聴機にこのアルバムが並んでいたけど、それだけで映えて見えた。皮肉ではなくて、女性ファッション誌に載っていても全然おかしくない。


 この、シアトルの男女3人組バンド、シーポニーのセカンド・アルバムとなる本作『Falling』の音の方はというと、淡い昏睡に導かれるような文字通りのドリーム・ポップ。夢見心地とはこのことだろう。思わず目をつむって音に浸りたくなる。でも、ギターがシンプルではあるものの印象的なフレーズを次々と繰り出し、シューゲイザーを思わせるノイズと相まってしっかり聴かせる。どこかアメリカ南部音楽の要素を匂わせ、フックもきめる。


 先にシューゲイザーと記したけれど、シーポニーのそれはヴィヴィアン・ガールズに通じるギター・ノイズで、中々硬派なところがあり、グランジの香りさえ、ほんのわずかに漂わせているからエスプリが効いている。ベスト・コーストやベル・アンド・セバスチャンを思わせるところもあり、安心して聴けるサウンドだ。


 でも、それらは前作『Go With Me』にもあった。音楽性を音響に求めたバンドにとって大きな変化は難しいとは思うが、僕としてはもっと聴き手に傷跡を残すほどの凄みが欲しかったというのが本音ではある。言ってしまえば、僕も含めて「ジャケットに惹かれた男たちを裏切ってくれ!」というか。「ドリーム・ポップでも悪夢すら見せてくれよ!」というか。グランジの感覚があるシーポニーにはそれができると思う。それこそレディオヘッドやプライマル・スクリームほどの変貌を期待してしまう。聴いていてもジャケットにあるように彼女の顔が見えてこないのは少しもどかしい。


 ただ、それを差し引いても、本作は出来が良い。良作だと思うし、前作と同じ路線を求めていたリスナーも多いと思う。日常を彩るサウンド・トラックとして最適だ。ぽっかり空いた時間を埋めてくれる。しかしサウンド構築が素晴らしいがゆえに、もっと出来るのではないか。アトラス・サウンドのような方向に行けるだろうし、マイス・パレードのような方向にも行けるだろう。アシッド・フォークのような10曲目「Fall Apart」が抜群に良く、それゆえ思い切ってアコースティックな音楽に移行してみてもかなり映えると思う。僕は笑顔でぐしゃぐしゃになったシーポニーを聴いてみたい。このバンドには、それができる力があるのだから。



(田中喬史)

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バキューン.jpg

 「小学生と宇宙」から約7ヶ月ぶりとなる「バキューンEP」は、「ゆとり世代の成長期」というキャッチコピーが本当に的確な、tricotの進化を刻んだ作品になった思う。


 よく言われるマス・ロック的バンド・アンサンブルはさらに磨きがかかり、より豊かな感情表現を獲得した中島イッキュウのヴォーカルは、陰を帯びた色気すら滲ませている。


 バントとしての演奏力もレベルアップを果たしており、疾走感あふれるグルーヴが暴走することもあった従来と比べれば、そのグルーヴを自分たちの好きなように乗りこなせるだけのスキルを身につけつつあることが伝わってくる。それゆえ、手数が多いkomaki♂のドラムも"グルーヴの一部"としてより溶けこんだ印象を抱かせる。個々の演奏力は高いものがあっただけに、それをバントという形にどれだけ還元できるかがtricotの成長に大きく関わると思っていたが、本作を聴く限りでは、そんな筆者の憂いは無用になったようだ。


 しかし、なによりも驚くのは、本作におけるtricotの姿が"底"ではないということ。むしろ本作を聴くことで、かすかに見えていた"底"が見えなくなったしまった。発展途上であるのは確かだけど、その成長曲線はどこまで右肩上がりを描きつづけるのか? それを考えると、興奮すると同時にある種の恐ろしさすら抱いてしまう。



(近藤真弥)

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annna.jpg

 混迷の時代であると人は言う。僕らは毎年、今年は混迷の時代だと言い続け、きっと2013年も混迷と呼ばれるのだろう。が、しかし、混迷の中を生きていて、うつむいたり、はたまた、はしゃいでみたりするのは違うと思う。それらにおいて、山田杏奈はうつむかず、はしゃがず、別の姿勢で音を鳴らす。本作『カラフル』は、混迷を目の前にしても自然体でそれと見詰め合い、聴き手に平静をもたらすシンガー・ソングライター的なエレクトロニック・ミュージックだ。


 明かりが消えた深夜の都市で、たったひとり、歌をうたっているような静けさを感じる彼女の歌声は、地下水脈のような透明度の美しさがあり、すっと耳に入ってきて聴き手の気持ちのもやもやした部分をゆっくりと溶かしていく。角のない歌声とメロディー。静謐なピアノ。それらが添い合いながら音のすべては空間に染み渡る。いつまでも聴いていたいと思える気持ちに満たされるサウンド。色に例えれば水色が目に浮かぶ。わずかな哀感があり、ピアノとミニマルなギターが、山田杏奈の哀感ある歌声に温かさを与え、そのバランスの妙が聴き手の耳をぐいと傾かせる。


 ただ、それだけならば、数多くいるシンガー・ソングライターのひとりとして括られてしまうだろう。しかし、彼女はエレクトロニカ的な電子音や不協和音として響くヴァイオリンを交え、様式美を拒んでいる。瞬時に現れては消える目に刺さるような鮮烈な音色がそこかしこに配置され、突如おとずれる驚きが本作を何度も聴ける作品として活かしていて、じんと沁みる。ミックスとマスタリングを手掛けたROVOの益子樹によるところがあるにせよ、彼女は歌声だけで魅せるアーティストではなく、音使いでも魅せるアーティストなのだ。フォルクローレという言葉が頭をよぎるギター・プレイをも落とし込んだ本作は、エレクトロニカとだけ呼ぶには勿体ない。


 秋口に観たライヴではグライムスのような音使いを魅せ、正直、僕は圧倒された。そこには技術よりも感性があった(技術も凄かったが)。技術で圧倒させられる音楽より、感性に圧倒させられる音楽の方が素晴らしいであろう。山田杏奈の音楽を指して、感性は無限だと言うことは陳腐ではない。デビュー当時からエレクトロニカに触れている彼女のそれは、既存のフォークトロニカへのカウンターとして働いていて、結果的に今を塗り替えている。特に7曲目「ない」は、フリー・ジャズやフォークトロニカ、ブリストル・サウンド、ビート・ミュージックが複雑に入り混じり、何がなんだか分からないがポップであるというジャンル・レス。言ってしまえば、この曲のためだけに買ってもいい。ジャンルに関して言えば、ジャズの歴史やロックの歴史などがあるように、ジャンル・レスの歴史というものの発芽のような曲だ。ポップ・エトセトラやクラムボンらと同じく、山田杏奈の「ない」という曲はジャンル・レスの可能性を照らしているとともに、混迷の時代をもすり抜ける。


 『カラフル』はタイトルどおり、丁寧に水彩画を描くように、繊細かつ必要な音だけで聴き手の自閉の扉を静かに開き、色とりどりの世界を見せるという、時代の気分の重さから光を見せる手腕が素晴らしい。ここには過剰な悲観も過剰な楽観もない。山田杏奈は時代の閉塞感に色を塗る。とても自然に。彼女は本作にて閉塞感すら素材と見立て、あっさりと美として更新し、音を奏でてしまう。


 この音の清涼感に触れることは「シャッター」で歌われる《君の中のシャッターに触れる》ことなのだろう。本作は、あまりにも自然に今と溶け合う。何も約束されていない世の中、そして混迷の中にあって、カラフルと名付ける山田杏奈の審美眼と『カラフル』の音は、わずかな歪さを交えた美として響く。それはとても小さな希望だ。しかし、大きな希望に窒息するより、小さな希望を信じたい。そういう音が鳴っている。



(田中喬史)