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 少年はいつか大人になる。今回シャムキャッツが発表した『たからじま』は、前作までの無邪気で愛らしい少年らしさからは一変。すこし大人びた凛々しい青年のような印象を受けた。正直言って、はじめに聴いたときにはあまり良さを感じられなかった。なぜなのか自分のなかで何度も考えてみたところ、"期待しすぎた"ことが一点と、"シャムキャッツらしくない"と感じたこと、この二点が理由だった。


 "期待しすぎた"というのは完全に筆者の個人的感想でしかないのだけど、じゃあ"シャムキャッツらしさ"って何なのか? という話である。今作は、従来の骨太ロックで荒削りな男らしさであったり、自由奔放なシャムキャッツ然としたものがあまり感じられなかった。はじめて聴いた瞬間、随分と音が綺麗に整理整頓されていたから「あれ?」と疑問を抱き、そして驚いた。しかし、何度も聴くと馴染みが良くなり、ああもっと聴いていたい...! 最高だ...! といったところか。


 一度聴いただけでは良さがわからない、噛めば噛むほど味の出るスルメのようなアルバムだ。そして、以前から持っていた"素朴さ"と、新しいステージへ登りつめようとするポジティヴィティーといった新旧一体となった良さがあり、新たなるシャムキャッツの顔を垣間みることができた。


 そんな、自らの持つ良さを広げていきたいという想いの集大成か? と感じられる今作。去年リリースされたミニ・アルバム「GUM」に入っていた『GET BACK』の段階でもわずかに変化の片鱗は見えていたのだが、今作ではさらに顕著に現れ、ソングライティングを菅原慎一(G/Vo)、大塚智之(Ba)も担当...というように分業化。


 歌詞のほうも、日常生活のなかに潜む、目を凝らさないと気づかない些細なロマンを凝縮した温かでキュンと胸が高鳴る菅原慎一の言葉に、いままでのシャムキャッツにはなかった明確でパキッとイメージしやすい具体的な語彙を用い、エキゾチックなエジプトを彷彿とさせる大塚智之の言葉が加わることで、色彩豊かでどれを食べても美味しい幕の内弁当のようになっている。


 そして、コーラスには藤村頼正(Dr)も参加...ということで、今作を聴くだけでシャムキャッツの変わろうとする意志が理解できる。また楽曲のレンジもだいぶ広がり、彼らの看板曲と言っても過言ではない「アメリカ」に次ぐ弾けるポップなロック・ナンバー「なんだかやれそう」、90年代USインディー・ロックを彷彿とさせ、人間の好きな食べ物のなかの5番目ぐらいにはランクインしているであろうヨーグルトに関して歌う「No.5」、そして平凡で何気ない日常に潜む幸せをふんだんに盛りこんだ「YOU ARE MINE」というように、余すところなく彼らが持っていた良さがこれでもか! と散りばめられている。


 実に3年半ぶりのフル・アルバム。そりゃあ力も入る。しかし、押しつけがましい印象は全く受けず、自然と生活にフィットする。はじめに話した"シャムキャッツらしさ"とは、私のあらかじめ持っていたイメージの話でしかなかったのかもしれない。人間がどんどん成長して、会うたびに印象が変わるのと同じように、シャムキャッツも大きく成長しようとしているのかもしれない。だって、彼らは希望に満ちあふれた未来の待つ"たからじま"へ向けて出発したのだから。



(立原亜矢子)



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 キャレキシコの7thアルバムとなる『Algeirs』がAnti-(アンタイ)からリリースされた。前作『Carried To Dust』までは《Touch & Go》傘下の《Quarterstick Records》に在籍していたけれど、《Touch & Go》の閉鎖にともなってしばらくレーベル契約がなかったことは、フリー・ダウンロードのライヴ・アルバム『Live In Nuremberg』を紹介したときに書いた通り。そして今、トム・ウェイツを筆頭にニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズからベス・オートン、ニーコ・ケイス、そしてケイト・ブッシュまでを擁するアンタイにキャレキシコがその名を連ねることになったのは必然だとさえ思える。レーベル名が示すように"アンチ"であること。英文表記である〈Anti-〉のハイフンが大事。アンチの後ろに何を置くか? 何に対してアンチなのか? 本質的な意味でのパンク・スピリット/インディー(独立性)としての姿勢が、その名によって問われることは言うまでもない。


 ジャイアント・サンドを母体としながら、15年以上に渡って独自のサウンドを追求してきたキャレキシコにはぴったりのレーベルだと思う。ジョーイ・バーンズとジョン・コンヴァーティノの2人が中心となって鳴らし続けてきた音楽には、"オルタナ・カントリー"というカテゴライズさえ不要だってことは、彼らのファンならとっくにわかっているはず。テックス・メックスやマリアッチをブルース/フォーク・ミュージックと融合し、ポスト・ロックにも接近するサウンド・プロダクション。ルーツ・ミュージックを纏いながらも、時間と空間に囚われない自由な発想。彼らは、そのユニット名であるCALEXICO(アメリカとメキシコの境界)が示すように、ボーダー・ラインに対するアンチを貫いてきたといえる。


 聞き慣れない『Algiers(アルジアーズ)』って何だろう? それは、彼らが今作をレコーディングしたニューオリンズにある町の名前とのこと。打ち寄せる波が描かれたアートワークも印象的だ。アルバムはそのイメージどおり、アコギのストロークとストリングスが静かに絡み合いながらうねりを増す「Epic(叙事詩)」と名付けられた曲で幕を開ける。憂いを帯びたメロディは優しいけれど、どこか不穏。ニューオリンズと海っていう組み合わせは、ハリケーン・カトリーナからの歳月を思わずにはいられない。2曲目の「Splitter」は一転して、軽快でポップ。今までの彼らにはなかったほどの明るい曲調とは裏腹に「分配器」とも訳せるタイトルそのままに、現実と理想に引き裂かれる誰かの姿が歌われている。


 今までのキャレキシコの個性を際立たせていたラテン風のメロディや哀愁のマリアッチ・ホーンは、想像以上に控えめ。むしろ、このアルバムで心に残るのは先述した「Splitter」や「Fortune Teller」から「Para」への流れ、「Better And Better」、「Hush」といったアコースティック・ナンバーだ。耳を澄ませてみれば、息を呑むほどに流麗なストリングスと緻密に構成されたリズム・パターンが聴こえる。誰もが口ずさめるような歌の向こうに、彼らがずっと鳴らし続けてきた幽玄なサウンドが結晶している。歌の普遍性を引き立たせるパーソナルな視点は、サーストン・ムーアの『Demolished Thoughts』とそのアルバムをプロデュースしたベックの『Sea Change』のようだとも思う。アプローチの変化、という側面も含めて。


 語りかけるように聴こえるキャレキシコの歌。焼け付くような日差しと砂ぼこり、湿った夜の風が吹く情景に変わって思い浮かぶのは、聴く人それぞれの日常かもしれない。ジャケットをもう一度見返すと、僕たちの国に打ち寄せた「あの波」に似ている、と気づいた。偶然だし、キャレキシコのメンバーは知る由もないことだってわかってる。でも、あのことを歌ったどんな歌よりも、このアルバムが切実に響く瞬間が僕にはある。音楽って、そういうものだと思う。


(犬飼一郎)

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 洞は世の中にばらまかれている絶望論など信じない。虚構を信じることもない。混沌であったとしても、混沌であることが今のリアリティであり、おかしな自分も、おかしなあなたもリアルだと、混迷、混沌を受け入れる。外(社会)で自分の存在意義に迷い、重苦しい気分というものが、自己の発見を内閉へ求めた人々によって生じたのだとしたら、それを受け止めた上で音を鳴らし、重い気分をも受け止める。そうして聴き手に新たな道を、新たな希望を与える音を奏でる。


 本作はとてもサイケデリックではあるけれど、そこに逃避は存在しない。洞は逃避することによって生まれる「新しい道」や神頼みを信じていない。無論、逃避することでいくらか現実を客観視できることはあるとは思うが、それ以上に、サイケデリックな音の中で聴き手が溺れてしまうことを危惧している。だから、本作はあくまでもメロディというポップ・ミュージックには絶対に欠かせないものをとても大切に鳴らす。ポスト・ロックやシューゲイザー、フォークトロニカを通過し、リズム・ボックスやギター、キセルを思わせる歌声がメロディに添い合った時の甘い開放感は素晴らしく、その甘美さはサイケデリックと言ってもいいのだが、しかし、誤って眠剤を飲んでしまったかのような昏睡はなく、すっと気持ちのわだかまりが抜けていき、湿った土の弾力を足の裏に感じながらも歩を進める潔さに打たれる。


 逃避することから逃避するという逆説を唱える本作のサイケデリックとは、ある種の覚醒であり、目覚めだ。素朴で、どこか謙虚で、物陰からこちらを窺っているような音楽で、幻想的とも言えるのに、胸にくるものがある。本作から決意を感じるのだ。この音楽は人の目を覚ますものであるという決意が。それは、長野をベースに地道に活動を続けたゆえの、都市で生まれたサイケデリック・ミュージックへのカウンターなのだろうし、都市で生きる人々への助言として本作は響き渡る。「人としてどう生きたいのか?」と。


「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」、そう中ジャケに書かれている。おそらく坂口安吾の言葉から取ったのだろう。本作には、もろく儚い人間の姿をそのまま描き出している音がある。もろく儚い、あまりにも弱い人間の姿。それは、ともすればネガティブなものとして捉えられてしまう危険性もはらんでいる。だが、僕らは弱さを受け入れ、自覚しなければならないのではないか。洞の音楽の隅々には、そういった聴き手への問いかけが滑らかなメロディー・ラインに沿って流れている。


 弱さを隠して強く振る舞い、掛け声だけの夢や希望を高く掲げ、自分に強さという暗示をかけ続ける人生があるとすれば、それは、ひどく苦しい。もし、生きることが重くなったら、「生きていること自体が不幸である」なんていう言葉がまかり通ってしまう時代に嫌気がさしたら、本作を手に取ってほしい。『発見』というタイトルにあるように、弱さを見詰める強さが発見としてここにある。大切なこととして、温かくここにある。それらは決して慰めではない。人としての強さ、やさしさなのだ。本作はたとえ小さな歩幅だったとしても、僕らの確かな一歩を照らし、新しい道を生み出す灯りだ。音楽は、人を変える。



(田中喬史)

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上妻宏光―.jpg

 大島保克氏の『島渡る~Across The Islands~』で書いたように、伝統とエキゾチズムの相関性、そして、何らかの新しい試みには必ず、毀誉褒貶もそうだが、けもの道が拡がりながらも、切り拓いてゆくことで後進への轍も生まれる。


 例えば、津軽三味線であれば、故・初代高橋竹山氏の音源群や著書を紐解けば、来歴は可視化できるかもしれない。門付けとしての音楽から、「叩き」という奏法をベースにしたパーカッシヴで躍動感が溢れるスタイルへの変容と、民謡として「節」が多くの著名なアーティストが取り上げられ、より巷間に拡がっていった経緯。


 しかし、今、伝統と古典が等価に置かれるのみでなく、古典に対してのエキゾチズム的な思考様式からどういったディスクールが必要かということが試されている時期なのかもしれない。そのディスクールの意訳作業の際に既存の価値観、歴史を踏まえた飛距離が大事になってくるが、伝統はずっと引き継がれてゆくのか、文化的価値としてそういったものはしっかりと護られてゆくのか、杞憂もある。昨今の文楽を巡る問題にしても、エンターテインメント性、演出面だけではない、伝統、歴史の手触りを体感する、そういう当たり前のようで、もはや、当たり前ではない「何か」を問いかけていた要素もあった気がする。文化的なものへの優先価値が実際、厳しくなってきている瀬もあるからだ。


 津軽三味線奏者としては、突出したオルタナティヴな存在であり、世界でも認知度が高く、しかし、同時に津軽三味線への伝統や歴史に真摯な姿勢が高く評価されている上妻宏光氏の企画盤や編集盤を除いては、『蒼風』以来、実に5年振りとなるオリジナル・アルバム『楔―KUSABI―』はこれまで以上に、多くのトライアルに溢れた内容になっている。


 まずは、客演参加アーティスト陣の並びだけを見ても、特異なのが分かる。THE BOOMの宮沢和史氏、バンドネオン奏者にしてタンゴの刷新を進めている小松亮太氏、フラメンコ・ギター奏者の沖仁氏、日本のロック・シーンでも独自の美学を貫き、海外でも評価の高い雅-MIYAVI-、さらには雅楽演奏家の東儀秀樹氏、ヴァイオリン奏者の古澤巌氏といったその分野での言わずもがなの大御所、「ファイナルファンタジー」という世界的に人気の高いゲームの音楽作曲家である植松伸夫氏など錚錚たる名前が並び、レンジが広いながらも、上妻宏光氏のあの自在な津軽三味線の捌きは一歩も退かず、ときにスリリングなグルーヴを産んでいる。


 三味線という楽器が持つ既存のイメージがあるとしたならば、そこを内破していこうという意志の下、新作ではよりタフにして進行形の音楽の可能性を掘り下げている。個人的に、印象深かったのは、雅-MIYAVI-とのセッションの中で帯びてくる熱量の高さが残る「月影」。小松亮太氏のバンドネオンがたおやかに絡む「TMW ~ Tsugaru meets Waltz」では、「津軽音頭」をベースにワルツ調に解釈している。また、エレガントかつ洋装を和装にしっかり取り込んだ風情が漂うスティングの「Fragile」のカバー。エンディングを締めるオリジナル曲「縁の詩(えにしのうた)」ではモダン・クラシカル的な色彩豊かな音空間に彼の三味線が存分に、映える。


 これだけ、各分野の個性的なアーティストが参加しているゆえに、もっと散漫な印象を受けるかと思ったが、全体を通すと、構成の妙含め不思議とコンセプチュアルな側面も浮かぶ。ただ、多くのコラボレーションや津軽三味線奏者としてときにアヴァンギャルドな活動を行なうため、何らかの色眼鏡を持っている人も居るかもしれないが、彼のパフォーマンスを観た際、しっかりと「津軽じょんから節」や「津軽よされ節」など古典への敬慕、独奏が挟まれ、そこはやはり、大きい魅力だと感じる。


 ときに、音響システムを使用せずに民謡を演奏するツアーも行ないながら、アメリカからヨーロッパ、アフリカまで世界を縦横無尽に巡り、東日本大震災後も積極的に支援イベントに参加し、全国の小学校で三味線そのもの、伝統芸能に関しての授業も行なうなど、近年はより「革新」に裏付けられた「伝統」と、文化伝承を堅守する動きも目立つ。


 この『楔―KUSABI―』も、津軽三味線の作品としては捉えるのならば、オルタナティヴなものだと感じるかもしれないが、こういった契機から初めて暖簾を潜り、少しずつ歴史のページを捲ってゆく、そういう行為も大切ではないか、と思う。



(松浦達)

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 《自分に潜んでいた狂気が 首をもたげて 牙をむき出し 両手を挙げる もう手なづけられはしないだろう》(「hypnosis」)


 このアルバムを前にして、否定の、否定は難しくある。ただ、肯定の、肯定にもいけないもどかしさが基軸にある。何故ならば、彼ら自身が半ば意識的にMr.Childrenという巨大な装置性をパスティーシュしているからなのであり、アルバム・タイトル『[(an imitation)blood orange]』という括弧内、括弧で記すように、オレンジの果肉が血のように赤い、さらにイミテーションを置くまどろっこしさから生まれるべくして生まれたアルバムではなく、アレゴリーとして巷間の集合的無意識に作られたものなのかもしれない。


 もはや、Mr.Childrenというメタ/ベタな日本語英語を見ても、ほぼ国内では例のバンドのことを夢想するだろう。サザンオールスターズが国を代表するロック・バンドだと置いたとき、彼らは困るのも道理であり、『Everything』以降の彼らはスタイル・カウンシルやマシュー・スウィートのようなバブルガム・ポップを主軸に、「青い季節のなかでメインストリートへ行こう」、という野心に満ちた爽やかな上昇の道を踏んでゆく気概と努力に溢れていた。そこから、「Cross Road」という地味ながらもブレイク・ポイントとなったシングル(しかし、カップリングはブルーアイド・ソウル調の軽快な「and I close to you」で、1993年のアルバムの『Versus』からのリ・カット曲)で非常に良い形で、当時のJ-ROCKのセンター・ポールに近付き、「innocent world」というダイナミクスとユーフォリアが混ざり合う曲でついには、《mr.myself》と自意識の認定印を押した。当時、今はどの軸に行ってしまったのかさえ分からない小林よしのり氏も絶賛を寄せていた、そんな90年代の覇者の一組であり、自意識の牢獄のなかにこそ、潜るほどに視力矯正が為される、その様態を作品毎でドラマティックに、パフォーマンスでも真摯に魅せる、その客層は当時の若者たる僕や女の子のみならず、少なくない数の「中年男子」も居た。


 考えてみると、言語生成論としてラングのなかには諸差異しかなく、一般的に差異というものの幾つかの実際的辞項があるからこそ、間に入ってくる差異が生じることを前提としているが、ラングのなかに実際的な辞項、諸差異しかない。となると、体系から生じた概念的諸差異、音声的諸差異のヌヴェル・クリティークの文脈で見れば、90年代の彼らは浜田省吾氏、佐野元春氏らの先達の概念的諸差異に「敏感」であったがゆえ、自分たちでどんどん自らを追い込むことになったのは皮肉でもあった。


 歌詞の一つ一つ、元ネタまで精査され、メンバーのスキャンダルが社会を賑わせ、疲弊の色を特に見せていたのがヴォーカルで、主に作詞曲をする桜井和寿氏だったのだろうと思う。少なくとも、デッドかつラフな音質で録音された『深海』で驚いたリスナーも居たことだろうし、これこそが彼らだ、という賛否両論の声もあった。なお、そのツアーでは、『深海』の曲が曲順のまま、演奏されるヘビーなものだった。"終わりなき日常"の中で、若者として生きた誠実な自分探し、自意識肥大の果ての「深海」だったのだろうか。双子作的な『Bolero』を聴いてみても、シングルで持ち上げられる軽やかさはあれども、悲痛なまでの意味論的地平との絶縁へ近付きながら、縁を切れないから、《夢はなくとも 希望はなくとも 目の前の遥かな道を やがて荒野に 花は咲くだろう あらゆる国境線を越え》(「ALIVE」)という極北へ行って"しまった"ところに、個人的に滅入るところもあった。そして、しばしの活動休止。無邪気なロック・スター、メガ・バンドの螺旋階段を昇る過程で浸食されたのは、実は自意識が成立させてしまうロックの因業であったともいえた。だからこそ、自意識で駆け抜けた今、00年代半ばから自己対象化の作業に入ってゆくのは分からないでもない。


 シーンに回帰し、その後、順当に活動を続けるなか、9.11があり、「断線」が挟まれる世に、バンドとしても、桜井氏が小脳梗塞で02年に倒れる。一度、「寸断」されるバンドを巡るナラティヴと軌跡。再帰と迷走を巡っていたそれまでの彼らのバンド・ヒストリーが宙空の上に"Mr.Children"というバンドは滞留しながらも、常に危うさを帯びた場所に居た。


 それゆえに、"君と僕"を巡る壮大なバラッド、「しるし」でのヒットから、『Home』への流れでは既存のファン層が加齢化したのもあるが、並列に、新規参入者のユースやキッズも混じることになり、ファミリー・シートで観る彼らという構造が象徴しているように、00年代の日本の「真ん中のロックとしての仮想敵」に置かれながらも、異端/正統、本流/オルタナティヴの狭間を行った。『Home』の存在は大きく、ロック・バンドとしての役割はここで終えたともいえるかもしれないが、ありふれた日常のありふれた事を拾い上げ、過剰装飾の無い音で投げ掛ける、それだけのアルバムがフラットにそれを「する」ことで、皆の日常に「なる」という「反転」状態が起きたという意味で、このアルバムが持つ不気味なパトスは、彼らを何度目かの前線に戻すことになった。


 彼らの「大文字の日本語」の接続は破綻しているようで、ときに小文字を生きる人間でも「心当たり」にフックをする。そして、巧みなアレンジメント、ヴァース/コーラス/ヴァース形式、キャッチーさ、ドラマティックさを多くの曲が含む。だからこそ、彼らを巡る磁場は徹底的な思考停止性を孕んだ礼讚か、小文字を詰め込んだ距離感を示すジャッジか、どちらにしても「巻き込まれてしまう」というある種の不健康さがある。社会的誠実さ、体制内反体制、勝ちながら負けているフェイクをステージで体現するとき、実のところ、彼らほど「みんなのバンドではない、みんなのための、と錯覚されているバンド」はないのではないか、という気になる。


 亡きコラムニストのナンシー関女史が、日本は、実は八割がたはヤンキー、つまり、勝ち上がり、成り上がり、ブラッド・アンド・スウェットを潜在的にしても愛好していて、そこから外れるファンシー、サブカルという層のマスはだからこそ、有限リソースではないか、というようなことを書いていたが、あながち、ズレはなく、彼らはやはり成り上がりを真っ直ぐに行ったバンドなのだと思う。ただ、レディオヘッドよりはU2的な野暮ったさが魅力でもあり、イロニカルな存在に今も彼らを借置きせしめる。


 あの2011年3月11日の東日本大震災を受けて、初の配信シングルでリリースされた「かぞえうた」からしてもそうだろうし、このアルバムの起点はそもそも、その曲だからだ。近年の彼ららしいスクエアが大きく、ピアノをベースの茫漠としたバラッドの中で模索される"希望の唄"。それをどんどん曲の展開が広がってゆく中で、彼らはかぞえる。


 《かぞえうた さぁなにをかぞえよう こごえそうなくらいうみから ひとつふたつ もうひとつと かぞえて あなたがさがしあてたのは きぼうのうた》(「かぞえうた」)


 今年になり、4月に映画主題歌などをおさめたシングル「祈り~涙の軌道/End of the day/pieces」、さらには01年から10年の主要曲をコンパイルしたベスト・アルバムの二枚が大ヒットし、自らのバンド存在をメタ的に捉えた"POPSAURUS"の2012年版ツアーを敢行し、ap bank fesの複数地開催など、動きが加速する。更に、ドラマ主題歌、CM、TVのためのタイアップとしてどんどん新曲を巷間に見せていった。ゆえに、このアルバムでまっさらに初めて向かい合うことになる曲は、「イミテーションの木」、「インマイタウン」、「過去と未来と交信する男」だけになる。11曲中の3曲。少ないと見るよりも、全容をここで知ることができる曲もあるゆえ、やはり、オリジナル・アルバムになるのだろう。


 はたして、ここまでの流れは08年の『Supermarket Fantasy』からなのだろうか、というと、精緻には違うとも個人的に思う。現在に至るだろう再蘇生をした『Home』というアルバムの存在が大きかったのもあり、また、オリジナル・アルバムでの2年前の前作『Sense』はもっと捩れていた。特に、「擬態」。期待ではなく、擬態。アスファルトに跳ねるトビウオに擬態して、と歌うこの曲はいくら最近の桜井氏がとみに「歌の解釈は皆に任せたい」と言っていても、視差がありすぎた気がした。


 そこで、今作は遂に「主/客」の未分化が彼岸まで進んだと云えるところがある。それは誰しもその歌に入り込めるという訳ではなく、そこでの僕は"僕ではなく"、あなたは"あなたではない"記号等価性が高まったからだ。その間隙を縫い、別離、死や希望などの大きな言葉が芽吹く。そこを意識してか、「常套句」という曲も入っている。


 《僕等はひとつ でもひとつひとつ きっとすべては分かち合えないはしない 互いが流す涙に気付かずにすれ違って 今日も ここにいる》(「pieces」)


 《君が想うよりも 僕は不安で寂しくて 今日も明日もただ精一杯 この想いにしがみつく 君に逢いたい 君に逢いたい》(「常套句」)


 つまり、聴いていて本当に感応点が消失しているような怖さがある。郵便性よりも、もっと、最近の彼らのバンド・サウンドをベースにしながらも、多層的で淡いアレンジメントと例の桜井氏の声、バック・ブレインたる小林武史氏の妙が効いており、聴きやすく入り込みやすいが、聴き直すたびにアルバム・タイトル含め、Mr.Childrenの新作としてリリースした意味が透けて見えてくる。


 例えば、「youthful days」、「エソラ」に並びライヴでも映えそうな、2曲目のバブルガム・ポップ「Marshmallow Day」のカラフルな弾み方が2曲目にして「浮く」位相。しかも、当該曲も奇妙でCMで既に一部が流れていたのもあるが、全体では、恋愛そのものを歌ったにしてはこれまでより語彙が錯乱しており、以下のように、「死」の文字も出てくる。語彙の錯乱、それは音楽的語彙のカオスと近似する。


 《やわらかな体温に触れる時 心は天空を飛んでる Ah そのまま死んでしまえるなら それがいい 君の吐息 甘い雰囲気に埋もれて》(「Marshmallow Day」)


 後半、9曲目のダークな「過去と未来と交信する男」辺りでも、「ニシエヒガシエ」、「フェイク」までの詰められた行間がある訳でもないが、ハレ・サイドのポップ「Happy Song」、シングル曲の「祈り~涙の軌道」で終わる構成も練られているとは思う。


 この『[(an imitation) blood orange]』もこれまでどおり、いや、もしかしたら、以上に、多くの人に届くと察するが、今のMr.Childrenは巨大なヴァニシング・ポイントから日本の真ん中に不気味な擬態、奇謀を預けている。その「擬態」を「期待」に、奇妙な謀を「希望」に読み替えられる集合的無意識サイドの耐度に個人的に関心が向く。


 Mr.Childrenという存在と、彼らが放つ熱量は、「共犯」とかでは間に合わないくらいのレベルでメルロ・ポンティ的な「既に、出来上がった思想」を翻訳する行為を個々に託しているのではないだろうか。リリースされることそのものに意味がある作品だと思う。



(松浦達)

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 "彼らはピストルを手にとらなかった。セックスだけで十分だからである。"と、セックス・ピストルズ好きの中年音楽ライターならそう書くかもしれない。


 マンチェスター出身の4人組バンド、ザ・1975のセカンドEPのタイトル、その名もズバリ「Sex」。あまりにもストレートだ。正直クールとは言えないし、カッコよくもない。しかし、がむしゃらに音を鳴らしている彼らの姿には、惹きつけられるものがある。


 本作に収録された「Sex」のMVを見てもらえれば、その魅力の一端に触れることができると思う。マイケル・ジャクソン、トーキング・ヘッズ、ブラーといった数多くのポスターが壁一面に貼られた部屋で、懸命に楽器を鳴らし、歌う4人の姿が映っている。だが、そんな4人の姿はというと、ちょっとダサい。マンチェスターの街を歩いていそうな普通のあんちゃんそのもの。さらにヴォーカルの髪型は中途半端なスクリレックスみたいだし、陰険かつ嫌みな性格の者にとっては恰好の的、ツッコミどころ満載だ。


 とはいえ、音のほうは本当に素晴らしく、音楽的豊穣さもある。先行で公開された「Sex」は疾走感あふれるロック・ナンバーとなっていて、伸びのあるヴォーカルとイギリスのバンドらしいカッティングを見せる激しいギターがドライヴ感を生みだしている。歌詞のほうはいささか青臭い言葉で綴られているが、それが味となっているのも魅力のひとつだ。


 「Sex」だけを聴けば、勢い重視の退屈なバンドと思えなくもないけど、他の3曲がこれまたなかなかの出来で、引きだしの多さを窺わせる良曲ぞろい。「Intro/Set3」のビートにはダブステップ以降の感覚があり、「Sex」を作ったバンドによる曲だとはとても思えない。エジプシャン・ヒップホップやドラッグスなど、近年のマンチェスターには高いクロスオーヴァー性を持った新進気鋭が次々と現れているが、ザ・1975もそれに続くバンドだということだろう。


 「Undo」はロマンティックなメロディーとスウィートな歌声が交わるR&B風の曲だし、「You」は80年代のUKインディー・ロックを匂わせるなど、その音楽性はヴァラエティー豊か。インダストリアルやエレクトロニック・ボディー・ミュージックの幻影がちらついていた前作「Facedown EP」と比べれば、サウンド面での実験は若干後退しているが、聴き手を驚かせるためのインパクトは十分にある。このバンド、逸材かもしれない。



(近藤真弥)


【編集部注】「Sex」はiTunesで販売されています。

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 わたしはキラーズが大好きだ。キラーズのすべての曲を愛している。ファーストのピュアなネオンの輝きにノックアウトされ、セカンドの骨太なアメリカン・ロックに圧倒され、サードのむせ返るような熱帯夜のグルーヴに酔いしれた。


 とくにサードは凄まじかった。一聴しただけでスチュアート・プライスが手がけたと分かる「Human」は、それまでの彼らの歩みを総括するような傑作だったが、それ以外にもキラーズのまったく新しいアンセムとなった「Spaceman」や、AORの趣さえ感じさせる超名曲「Losing Touch」など、幅の広さという表現では足りないくらいの縦横無尽っぷりを見せつけてくれた。そのアルバム『Day & Age』は、わたしにとっては00年代で一番の傑作である。


 そんな「天井知らず」の彼らにとって、もしかしたら天井になるのかもしれない、というくらいのサードを経た今作がどうなるのか、わたしにはまったく想像できなかった。リリース前のインタビューでは「かなりハードな音になる」とメンバーも話していたが、それじゃあドラマーのロニーのソロ活動(ビッグ・トーク)のようになるかと思ったら、わたしは「ダメダメ!」と振りきりたくなった。あれじゃ、ニッケルバックと変わらないからね(そんなに嫌いじゃなかったけど)。それじゃ、ブランドンのソロ作からの影響があったりするのかな? それはあり得る。カントリーから王道のロック・アンセムまで、ある意味「何でもあり」のソロ・ワークを堪能した彼にとって、そこで得た経験を生かさないわけがない。


 そこで、最初に公開された音源「Runaways」を聴いてみると・・・これはブランドンのソロ・アルバムのファースト・シングルそっくりじゃないか! でも、深みが格段に増している。これはロニーのドラムによる貢献が大きい。ファースト以降の彼らの代名詞でもあるドライヴ感溢れる演奏。それぞれのパートがまったく違った構成を持つ複雑さにも関わらず、両手を挙げて一緒に叫びたくなるほどアンセミック。単なるハード・ロックに陥らない軽やかさまでをも兼ね備えている。これははっきり言って2012年きっての大名曲だ。


 時代の気分はハードに移行しつつある。ここしばらくはストロークスのファーストを雛型にした3分間ポップスが幅を効かせていたが、いよいよシンプル・イズ・ベストの風潮は無くなりつつある。キラーズはまたもや時代の先端に立ってみせたのだ。先端すぎて一部の懐古主義に浸る音楽批評家には嫌われているかもしれないが、キラーズが「Runaways」で獲得した称号は、「正真正銘の世界一のバンド」である。


 ところで、わたしはこのアルバムを初めて聴いたとき、正直失敗作だと思った。「Runaways」以外は大したことないな、こんなシリアスなアルバムは彼らに似合わないと、あまり評価しようとしなかった。だが、これはアホすぎる間違いだった。彼らの作品に対する覚悟は過去3作とは比べ物にならない。もしかしたら、キラーズのファン以外にどう受け入れられるのかは未知数のアルバムかもしれないが、バンドのこれまでのストーリーを知っていればこそ、最大級の称賛を与えないわけにはいかない。つまり、彼らはこれまでのアルバムで試してきたサウンドを全肯定しているのだ。評論家のみならず、リスナーからも芳しい評価を得られなかったセカンドのハードな路線を復活させ、そこにファーストのシンセ・ポップをバランスよく散りばめた。


 サードの"曲の後半で限界まで演奏のテンションを高める"「A Dustland Fairytale」は「A Matter Of Time」として、"キラーズ流AOR"の「The World We Live In」は「Here With Me」として、より逞しく生まれ変わっている。ファンが諸手を挙げて歓迎するキャッチーなシングル曲としては「Miss Atomic Bomb」があり、ブリッジ部分ではあの「Mr. Brightside」のイントロを聴くことができる。こんな完全体のキラーズを聴くことができるなんて。まさにこれはすべてオリジナル曲のベスト・アルバムだ。


 まるでヴァン・ヘイレンかボン・ジョヴィのような「The Rising Tide」、ソロ活動以降、ブランドンがやたらに熱を上げているカントリー調の「From Here On Out」といった新境地も開拓したいま、彼らはどういうバンドとなったのか。間違っても、80年代シンセ・ポップなどと形容する人はいないだろう。だが、様々なジャンルのサウンドを闇鍋のなかに放り込んで、不思議とやたらに格好良いアンセムが聴こえてくるのがキラーズなのだ。


 さて、コールドプレイもミューズも日本で人気が出たのに、キラーズだけはぜんぜんダメだ。フジロックをドタキャンしたあたりからどうも相性が悪い。大半のDJは「Mr. Brightside」か「Somebody Told Me」しかまわさない。今回は彼ら自身も「来日する!」と公言してくれているから、もう一度信じて待ってみよう。そのあいだに、この文章を読んで「暑苦しいよう・・・」と思ったあなた、インテリアの邪魔にしかならなさそうな鬼ダサいジェケットのこのアルバムを手に取ることを全力でオススメする。最後の「Battle Born」では思わず笑いが出てしまうはずだ。あまりに雄大で、感動的だから。



(長畑宏明)

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 どこまでもナンセンス。ずっと聴いているとバカになるんじゃないかと思わせる究極の快楽主義。つまり最高。ヴィタリックやフェイク・ブラッドでおなじみのレーベル《Different》からリリースされたティガによる久々のDJミックス『Non Stop』は、そう言いたくなるくらいごきげんな作品で、聴き手をとことん踊らせてくれる。


 ティガといえば、その端整なルックスとスタイリッシュなアートワークなどから、"エレクトロ界の貴公子"なる異名をあたえられた男だが、確かにティガはかなりのイケメンで、『Sexor』や『Ciao!』といった自身のオリジナル・アルバムも、腰を振りたくなるような色気と妖艶な雰囲気を醸しだしている。しかも驚いたことに、それはデビュー当初から変わらず保ちつづけているものなのだ。リリースを重ねるごとにポップ・ソング志向が目立つようになったとはいえ、基本的にティガは聴き手を踊らせることしか考えていないし、言ってしまえば、それしかやってこなかった。


 それでも主宰するレーベル《Turbo》が順調に評価を高め、自身もジ・エックスエックスやデペッシュ・モードの楽曲をリミックスする"売れっ子"になりえたのは、"ただ踊らせること"を追求し、それをある種の哲学にまで昇華してみせたから。それゆえティガは、現在の立ち位置を獲得できたのだ。


 本作はそんなティガの哲学が遺憾なく発揮されている。哲学といっても小難しいものではなく、先述したように"ただ踊らせること"がティガの目的である。AFXからパンダ・ベア、さらには自身の曲も使用して構築されたミックスは、アシッディーかつミニマルなグルーヴを終始貫いており、110BPM前後から始まって、最終的には126BPMにまでもっていく展開もさすがの一言。完全フロア仕様のトラックを使いつつも、カインドネスやファクトリー・フロアといった昨今のインディー・ダンスを意識した選曲には、時代を読みとる優れた審美眼が表れている。


 とはいえ、クラッシュ・コース・イン・サイエンスを選ぶあたりには、DJヘルと同様にニュー・ウェイヴから多大な影響を受けているティガのルーツを垣間見ることができるし、そこが本作の面白いところでもある。インディー・ダンスに接近しながらも、結局は"ニュー・ウェイヴ好きなオタク"という本質があらわになっているのは、なんとも愛らしい。



(近藤真弥)

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 とにかく、高野寛である。伊藤大助である。このふたりが出会えば何かが起こるのは自明であって、この時代にあって、かつて高野寛自身が歌ったように「確かな光」が射すこともまた自明である。基本的にギター、ヴォーカル、ドラムスというシンプルな編成によって繰り出される即興的演奏は、ふたりの音楽家としての挑戦であり、冒険でもあり、即興という自由の中に飛び込む覚悟である。


 もともとは曲を作り込むふたりがファースト・フル・アルバムに選んだものが、即興性を押し出したライヴ盤ということからも覚悟が窺え、本作『TKN+DSK Live 2012』は、ただ綺麗なだけの音楽ではないのはもちろんのこと、ガレージの匂いが漂う紛れもないロック・アルバムであり、楽譜をなぞるだけの音楽でもなく、曲というものが、ライヴによってどのように変化するのか、どのような方向性を示すのか、あるいは何が起こるのか分からないという音楽の根本を示すものである。つまりは「楽譜に書かれた曲」から離脱し、同じ「楽譜に書かれた曲」であっても、その曲には無数の未知なる音が宿っていることの証明として本作はある。


 もちろんそれは、ふたりの音楽愛があってこそ。曲に縛られることなく曲を解き放つ。僕はこの日のライヴにいた者で、MCは和やかであったが、演奏は、やはり、ふたりが互いの呼吸を読み、飛び出てくるポップ性と、ぐいと引き込まれるワン・フレーズの鳴りが鮮烈に予期せぬ場から現れるように在り瞬時に飲み込まれた。ビートルズのカヴァーが収録されていないのは残念ではあるけれど、ジョン・マクラフリンみたいなギターが極度に鳴る「Proteus Boogie」におけるインタープレイのどこまでも突き抜けてしまう昂ぶりは、これまでの高野寛やクラムボンにもなかったものだ。


 クラムボンの伊藤大助がドラマーということもあってかクラムボンの曲も収録されているが、ダイナミックにうねり、ドラムががっつり噛みついてくるさまはクラムボンのファンも驚くであろうし、例えばジャズのように新たな曲として聴こえ、前のめりになってしまう魅力に満ちる。特に打ち込みを交えた「id」での、メロディの流れに沿いながらも、ふたりの「この曲は一体どこに行きたいのか」という試行しながらのサウンドはエキサイティングであって、曲を生き物として奏でるさまはスリリングでもあり、音楽は生きているということを否応にも感じさせられる。そこに僕は打たれる。


 そうしてボーナス・トラックの「太陽と月、ひとつになるとき/studio recording」を除けばラストとなる名曲「確かな光」である。不覚にも涙が落ちた。決して大げさではない。目に滲むものがある。ライヴであるがゆえに素朴でシンプルだ。強く、しかしやさしく伝えるために音を削ぎ落とし、削ぎ落とし尽くして歌われる光。高野寛と伊藤大助が生み出す一日の希望。それはちいさな希望ではあるのだが、スタジオ・レコーディングでは表現できない確かな光がここにある。


 極言すればライヴを味わいたいのならライヴ盤ではなくライヴに行けばいいということになる。しかし、このライヴ盤はライヴの瞬間を収めただけのものではない。即興、曲を固めるというコンセプトからの離脱、そうして生まれる音楽の躍動。作品として記録され、記憶に残るポップ・ミュージックの新たな姿である。



(田中喬史)

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 再結成という言葉は彼らには相応しくなく、再始動というべき、実に9年振りのセルフ・タイトルたる紛れもない、GREAT3の新作。片寄明人氏が語るように、04年以降に活動を停めていた中、多くの近しい人たちを亡くし、震災を経て、そこで、GREAT3をやっていない自身の後悔を深く考えたゆえ、覚悟として再び始めていこうという経緯―。ここには原初メンバーの高桑圭氏は居ないが、白根賢一氏、更には新しい「3」になった、現在、22歳というjanが正式に加入し、瑞々しさと衝動と独特の洗練したセンスが貫かれ、新しく彼らが始まってゆく予感に満ちている。本作にも2曲とも収められている先行配信シングルの「Emotion/レイディ」の段階では、まさかここまでの作品を作り上げてくるとは個人的に想像できなかった。それくらいマジカルなエネルギーと多彩性に溢れた内容になっている。


 冒頭の1曲目、グル―ヴィーでアグレッシヴなロック・チューン「TAXI」から片寄氏とサポートの長田進氏のヒリヒリしたエレキ・ギターが鳴らされ、白根氏のドラムが逞しく響き、janのベースが暴れ、そこに彼ら一流のリリシズムが忍ばされ、片寄氏のあの艶美な声とともに毅然と《100人いれば / 現実だって / 100通りある / どれを選ぶ / 何を感じる / それは自由なんだ》と歌う。1分50秒を越えてからのバンドの組織体としてみせるブルータルなサウンドのうねりは本当にカオティックで麗しい。


 また、これまでの彼らの要素でも欠かせないタームであるセクシュアルな香りに包まれた5曲目の「睫毛」での蠱惑性も映える。反復から、ふとなまめかしく差異へ向かう中、存分に片寄氏のファルセット・ヴォイスが堪能できながら、《あなたの涙にそっと / キスして/ 哀しみから / 連れ出してあげるよ / 人差し指の爪で / なぞった / 睫毛》のライン。ここには、旧来のファンもグッとくると思う。


 新メンバーのjanも既に、この作品内では大きな存在感を刻んでいる。彼の作詞・作曲、ボーカルによる、ニック・ドレイクのような翳りを帯びたフォーキーな7曲目の「Santa Fe」での見せるディーセントな掠れ。《なんて優しいんだこんな道化に 月の下いますぐ殺せばいいのに》、《憂鬱なボヘミアン》、《愛しいな 美しいな》のフレーズ群が結われ、果敢無くも清冽に空気を変える。勿論、白根氏のドラミングも自在さを示し、8曲目のアヴァンギャルドさが最高な「極限高地の蛇」でのボーカルなど、各メンバーの色も存分に顕れ、各曲でコーラス、アンサンブル含め、重なり合う。


 個人的に、今作における一気呵成に思えるヒリヒリしたロック・サウンドの背後に、フェラ・クティ、コンゴトロニクス、トーキング・ヘッズ、ヴァンパイア・ウィークエンドなどの影、さらには、昨今のクラウド・ナッシングス辺りの現代のオルタナティヴなロック・サウンドとの共振、電子音とダイナミックなロックのエクレクティズムにはLCDサウンドシステムラプチャーなどの一部作品との温度を感じ、現代性と同期する瞬間も多く受けた。ただ、これまでの彼らの作品を聴いてきても思うように、芳醇な音楽語彙群に裏付けられていても、誰にも届く「ように」、提示されているのは流石だといえる。


 個人的な感慨にもなるが、それでも、9年振りという歳月を否応なく感じた部分もあるのは否めない。やはり、先行で公開されたPVとともに話題になった今作のクライマックスともいえるかもしれない10曲目の「彼岸」には、胸が軋んだ。アルバムの中でも比較的、シンプルな意匠のまさに彼岸のラブソング。高揚してゆくメロディー、悼み、痛み、命、涙、死、祈り、そして、愛的な何か、多くの意味を噛みしめるような片寄氏の歌詞と熱を帯びる歌唱、それを白根氏のドラム、janのベースが堅実に支え、長田進氏のエレクトリック・ギター、堀江博久氏のピアノも絶妙に色味を加える。この「彼岸」を聴き、ブックレットのSpecial Thanksに並ぶ、志村正彦氏、レイ・ハラカミ氏などのもう「此岸」にはいない人たちの名前を見ると、より想いが膨らむ。


 かねてからGREAT3を知っていたファンだけではなく、ここで初めてGREAT3を知る人にとっても、十二分に獰猛さと美しさが拮抗した作品であるのが嬉しく、全く守りの姿勢がないのは素晴らしい。また、彼らが始まってゆくという号砲とともに、次へ進める、そんな真摯さに背中を押される。


《誰かのために / 自分を捨てて / 愛したい / 諦めず / 命燃やそう》(「彼岸」)



(松浦達)