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In Focus .jpg

 何年も前から海外で確かな評価を受けているトクマルシューゴの名が、ここ日本で鮮烈に知れ渡ったのは07年発表のサード・アルバム『Exit』がきっかけだった。しかし、コーネリアスの『Fantasma』と同じ文脈で分別され、回避する(される)向きがあったのは確かだ。その向きに、釈然としない思いが僕にはあった。「普通のものを作る気はまったくなかった」と、当時、トクマルシューゴが語ったように『Exit』とは、どこを見渡しても他に類をみない才気に溢れた素晴らしい作品だったからだ。それと同時に、トクマル本人が意識的なのか無意識的なのか分からないが、日本的な音楽として国境を越えた。


 いや、もちろん、日本的とは言っても、メロディから歌謡曲的な匂いはしないし、フェミニンな歌声と相まって幻想的で西洋の深い森の中を歩いているようなサウンドスケープはある。しかし、だ。音の間においては「日本の間」が楽曲に強い躍動を宿すものとして在る。すっと現れては消える間が。そこに驚愕するのだ。例えるなら太鼓を叩くときの「よーっぽん」という「っ」の間を取るのは、僕ら日本人にとっては馴染みのあるものだと思うが、海外のアーティストやバンドは、この「っ」の間が取れない。しかし『Exit』には、さも当然といった表情で、スパイスのように「っ」の間が振りまかれている。


 それを踏まえればトクマルシューゴが海外で高く評価されたのは、ポップ性の高さとともに、エキゾチシズム、すなわち異国情緒の流れに沿った側面もひとつの要素としてあるのではないかと思うし、05年発表のセカンド・アルバム『L.S.T』に至っては、お囃子の要素も多分にあり、同じく海外で評価されたのも頷ける。思えば2011年のキセルとのツーマン・ツアーで披露されたキセルとのコラボ曲が妙にはまっていたのは、同じく間を大切にする音楽家だったからこそ、なのかもしれない。


 ただ、代表曲「Rum Hee」収録の2010年発表『ポート・エントロピー』では、「っ」の間が極力削ぎ落とされている。だからなのか、綺麗で人懐こくはあるのだが、のっぺりとした刺の無いアルバムという印象を抱いたのは確かで、集大成ではあるものの、トクマルシューゴの集大成というよりはトイ・ポップの集大成なのではないか。そんなふうに感じてしまったのも確かだ。トクマル本人が頭の中に無国籍でも滞在できる場を作ってしまったというか。


 そうして発表された5作目となる『In Focus?』は、多国籍なサウンドと日本的な間を今まで以上に落とし込んだ作品。素晴らしいと思う。最高傑作だとも思う。驚愕した。EP「Rum Hee」収録の、「Rum Hee(Oorutaichi Remix)」のような壊れた曲が1~2曲入っていれば、"凄み"のある作品になると思ったが、やはり素晴らしい(前述したリミックスは、オオルタイチが投げかけたトクマルシューゴへのアドバイスとして聴こえるのは僕だけだろうか?)。まるで劇を観ているかのごとく音の数々がキャラクターとして活きている。自然に風の流れに沿う和やかなメロディとともに、突発的に飛び出てくる色とりどりの音と、懐かしさを感じる音が飛び交い迫ってくるさまは圧巻。楽器が持つ古来の音を呼び起こしているように聴こえ、導かれるように静かに昂ぶる。音の純度が怖いくらい高いのだ。しかもリスナー・フレンドリー。「トクマルの音」だとすぐさま分かるサウンドは、楽器古来の音の純粋性を鳴らそうとしているから醸し出されている気がしてならない。トクマルシューゴとは音そのものに自分の息吹を与えられる数少ないアーティストだと言える。


 さらには、これまでの作品同様に、いわゆるおもちゃ箱をひっくり返したような音楽だと言えるが、本作『In Focus?』においてトクマルシューゴのおもちゃなる音は摩擦し合っているように感じる。何かがおかしい。『ポート・エントロピー』と比べればスマートではなく、音の配置がどこかわずかに狂っている。音の間の取り方が本作では楽曲をばらばらに砕くように撒かれていて、人懐こい音楽なのは確かだが、それ以上に混沌としたさまが描かれる。だから良い。ファンの中に少なからずいるであろう、やりたい放題やってほしいという欲求にぶつかってくる音の迫力があり、なおかつ、日本的な間をランダムに配置することで楽曲の時間軸を狂わせ生じる混沌があるのだ。すなわち、土着的な「っ」の間すらコントロールされた異端のポップ・ミュージック。


 00年代が情報をかき集め、選ぶ時代だったとしたら、10年代は当たり前のように在る情報(音や間)をどのように活かすのかが重要な時代、ということなのだと思う。そのことを、限定盤に付いている著作権フリーの楽器フレーズ集が暗示している。「たくさんの音楽が雑然とそこにあることに、悪い気はしない」と本人が語るように、本作『In Focus?』は自国に立ちながらも徹底的に多国籍な音楽として鳴り渡る。もはやトクマルシューゴを他のアーティストと並べる声はないだろう。この素晴らしき音楽は多国籍の自由と想像力の深さをさらりと描く混沌の美である。



(田中喬史)

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Kuopio.jpg

 オシャレなハウス・トラックを生みだすルオモや、エクスペリメンタルなミニマル・ダブを展開するヴラディスラヴ・ディレイなど、様々な名義を使いわけ披露する多彩な音楽性が高く評価されているサス・リパッティー。さらにはモーリッツ・フォン・オズワルド・トリオのメンバーとしても優れた手腕を見せるなど、その活躍ぶりは称賛に値する。そして、ヴラディスラヴ・ディレイ名義としては11枚目のアルバムとなる『Kuopio』は、リパッティーにさらなる称賛をもたらすことになりそうだ。


 本作は『Vantaa』「Espoo」に続き《Raster-Noton》からのリリースだが、リパッティーの果敢な実験精神に基づくアグレッシブな姿勢が音として明確に表現されたアルバムだと言える。まず、強烈なベースの連打で始まる「Vastaa」からして、ヴラディスラヴ・ディレイ名義にしては攻撃的で面を食らうし、そこに洗練されたキックが重なった瞬間、その攻撃性はより鮮明になる。とはいえ、次の「Hetkonen」では"静"の空間を作りあげ、アルバム全体の起伏を意識したリパッティーの心遣いが窺いしれる。


 そして、そのまま聴きすすみ、たどり着くは「Avanne」。深い霧のなかを走るようなビートはブリアルを想起させ、ビートを覆うサウンド・テクスチャーは聴き手の心を文字通りハメていく。続く「Kellute」のシンセ・ワークは、聴き手をハメていくためのトドメとして機能している。明るみを帯びたシンセで始まりながら徐々に闇へ潜っていくが、始まって4分になるあたりから突如疾走感が生まれる展開は、リパッティーの遊び心が垣間見えるようで面白い。その疾走感は「Osottava」にも引き継がれ、「Kulkee」でふたたびトーンダウンし、待つのは「Marsila」と「Hitto」だ。共にブライトな音像が印象的でありながら、同時にスラロームのような流麗さで幕引きへと向かっていく点で、アルバムの終盤を飾るにふさわしい2曲である。


 ここまで聴いていくと、すべての音が丹念に作りこまれ、そのサウンドのヴァリエーションも豊富なことに驚く。そんなサウンドに鋭いリズム、さらには丁寧な空間処理やイコライジングといったものが有機的に絡みあいながら唯一無二の世界観を構築する本作は、聴き手の深層意識に今までにない感覚を届けてくれる。こんなにも素晴らしい作品と出会えたことに、深く感謝したい。



(近藤真弥)



【編集部注】『Kuopio』は11月24日リリース予定です。

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JOSEPHINE FOSTER『Blood Rushing』.jpg

 近年、隆盛しているフリーク・フォークとはアコースティック・ギターを基軸にしながらも、パーカッションやバロックの要素を後景に少し螺子の外れたサイケデリックなフォーク・ミュージックを指すと広義されてはいるが、そこには古典、伝承音楽へのオマージュの距離感の測位を孕んでもいた。その際、デヴェンドラ・バンハート、ジョアンナ・ニューサム、パンダ・ベア辺りまで多様なアーティスト名が挙げられながらも、ブリティッシュ・フォークの長い歴史からヴァシュティ・バニヤンの風趣も再評価されるなど、明確な音楽ターム、一つのカテゴリーとしては捉えるよりは自由度の高さをフォーキーにかつトラディショナルなルーツ色も忍ばせ、奏でるアーティストたちの血脈の結い目と言えるのかもしれない。


 そんな中、日本での知名度はまだまだともいえるが、世界的には注目度が集まっているジョセフィン・フォスターのソロ名義では2009年の『Graphic As A Star』からは三年振り、彼女とザ・ヴィクトール・エレーロ・バンド名義では今年にリリースされた『Perlas』に継いで二作目を数える『Blood Rushing』が素晴らしい。現在進行形で創作意欲に溢れている確かな稔りの季節が感じ取ることができるだけではなく、ますます音楽性の多様さと深みを見せている。


 今作にあたっては彼女の故郷のコロラドに戻ってのアナログ録音というスタイルを取り、ソロ名義ではあるが、複数のゲスト・ミュージシャンが参加している。まずは、パートナーたるヴィクトール・エレーロが例の軽やかなスパニッシュ・ギターの音色を添えている。さらに、彼女の旧来の付き合いのエントランス・バンドのパズ・レンチャンティンがヴァイオリン、ベース、インディアン・フルート、ヴォーカル/コーラスに至るまでジョセフィンのときにジョニ・ミッチェルを思わせる色彩豊かなヴォーカリゼーションとサウンドスケープそのものに奥行きを与え、ア・ホーク・アンド・ア・ハックソウのヘーザー・トロストもヴァイオリン、ヴォーカル/コーラスで存在感を示す。アルバム総体としても、どこかしら、これまでの彼女の作品に対して少しの取っつきにくさや敷居を持っていた人たちでもフック・ラインのある曲が並び、メロディーの美しさが際立つものも揃っていると言える。


 また、実に今作にはこれまでになく、多彩な曲が並ぶ。例えば、3曲目の「Sacred Is The Star」では爪弾かれるギター、カントリー調のシンプルな始まりから、じわじわと音とコーラスが重ねられていき、4分半ほどの間に思わぬ展開に帰着する。6曲目の「The Wave Of Love」での2分にも満たない中では麗しくもクラシカルな翳りが香る。8曲目の「Geyser」での前衛的なアレンジメントが為されたいかにもサイケデリック・フォークなもの、弦が優美に絡む9曲目の「Underwater Daughter」など自在に、しかし、全く散漫な印象を受けないのはコアな部分に彼女のリリカルな感受性が貫かれ、これまで多くの伝承歌や民謡への探求を続けてきた確固たるキャリアに裏付けされた自信と気骨が反映されているからなのかもしれない。


 土着性と都会性を行き来しながらも、この作品では、フォークロア、ルーツ・ミュージックへ対しての根の張り方がより明確になり、音像もソフィスティケイティッドされた分だけ、「行間」に典雅な音楽の歴史の根が伸びている。現時点での彼女のポテンシャルがいかんなく発揮された内容だと思う。そして、まだまだこれから先の歩みが楽しみになる余韻も残す。



(松浦達)

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キリンジ『Super View』.jpg

 2012年10月15日にHPにて発表された堀込泰行氏の来春、脱退のニュース、そして、キリンジ自体の暖簾は堀込高樹氏が続けてゆくこと。そこには二人で協議が詰められた言葉が並んでいた。兄弟であること、それを踏まえ、創作姿勢に向き合うこと、戸惑いも含め、堀込兄弟を軸にしたキリンジが終わる、というのは感慨深さよりも、唐突さもおぼえた。


 キリンジは作品毎による変化、堀込泰行氏の馬の骨での活動のみならず、各々が作曲、客演、プロデュースなどを行ない、そのマルチな才能を十二分に巷間にアピールしていたものの、最終的にはキリンジとして、あの二人が並ぶ安心感を持って見ることができていた。約2年振り、9枚目となるオリジナル・アルバム『Super View』は9曲という尺ながらも、これまで以上にダイナミクスと、マジカルな音が行き交う質感、その背景に寂寥が垣間見える。


 1曲目の「早春」から冨田恵一氏のストリングスが混じり、少しずつ景色が開かれてゆくようなアレンジメントと歌詞が美しい。《ぬかる道で躍るのかい 尻尾が千切れそう 遠くで呼んでいる》、そして、《wake up》の壮大なコーラスとともに、日本の慕情溢れる言葉が並べられてゆく。ナイアガラ・サウンド的に作り込まれた、というにはもう少しラフなところが今の彼らの温度なのだろうか。ブラックな言い回しとイロニカルの側面ではない、麗しく優しい大人のキリンジが舞い上がる。


 2曲目の「Trekking Song」は近年の彼らに見受けられるカントリー調がベースになった躍動感溢れるポップな曲。爽快なハーモニーワーク、幾つもの楽器が有機的に混ざり合い、ユーフォリックな空気感で聴き手の背中を押してくれる。《鏡の街に生きて 俺は幻、ブロッケンか こだまする靴音を道に捨てて みんな還る 安らぐところへ》のブレイクも曲自体の立体性を深めている。この2曲の作詞/作曲は堀込高樹氏になっている。


 続く、堀込泰行氏の作詞/作曲の「荊にくちづけを」での勢いあるイントロからウェスタン調の男気が滲む歌。兎に角、どの曲も骨子はシンプルながら、情報量がこれまでよりも多いのが今作の特徴かもしれない。しかしながら、過去作にあったようなバランスや捻じれを先に置いたという印象ではなく、豪奢で眩い音像の向こう側に。彼らの声やギターのストロークなどが軋む、そんな雰囲気がある。そのためか、先行配信シングルの「涙にあきたら」が曲単体で聴いたときよりも、アルバムの流れではとても端整なキリンジの本懐が際立っているようにさえ思える。


 堀込高樹氏の作詞・作曲、ミニマルな電子音をベースにした穏やかな彼ら流のセンスが冴える艶めかしいソウル「いつも可愛い」。音数を少なくしているがゆえの、《君はいつも可愛い 後ろ手でスイッチ切ったbaby いつも可愛い 暗闇の魔法で魅せてくれ いつも可愛い君 甘い夢だけ見ていたいね 二人のときは》のラインでのハーモニーとヴォーカリゼーション、蠱惑的な展開。性的メタファー、モティーフをときに大胆に忍ばせることに長けていた彼らだったが、キャリアを重ねて、こうして直截的なフレーズ群から高級なパフュームのようにエロスが香り立つようになっているのはさすがだ。弾き語りをベースにしたシンプルな堀込泰行氏の作詞・作曲「今日の歌」。馬の骨でも伺えた凛とした歌詞が響くもので70年代のUSのシンガーソングライター的な風合とのシンクも感じる。そのまま、堀込高樹氏作詞・作曲の曲が二曲続く。震災を意識したという先行配信曲「祈れ呪うな」の弾むリズムが後半の構成にうまくはまっている。「バターのように」は、風通しの良い曲で、アイルランドのティン・ホイッスルが清冽なイメージを加えている。本編ラストの堀込泰行氏作詞・作曲の「竜の子」(たつのこ)は声と弾き語りで始まり、パーカッションなど加わっていき、拡がりを持ったまま残響内で作品は幕を閉じる。


 9曲で聴き応えはあるが、コンパクトな感じも受ける。キリンジに付随してきた都会性やシティー・ミュージックという要素も含まれつつ、アルバム・タイトルどおり、"Super View"、見渡しの良さを重視し、緻密に作り込んだ、というよりもまっすぐに自分たちのしたい音楽と自然と対峙した内容になっていると思う。更に、ルーツ・ミュージックへのオマージュがより強くなり、どの曲にも淡さと滋味深さもある。やはり、キリンジもキャリアを重ね、円熟ではないが、こういった作品に行き着いたというのも興味深い。これまで以上に、聴き手はキリンジに持っていた構えをといて、フラットに入ることができる気がする。


《手を離すな 心を寄せ合って騒げ 宴の声よ 

寄る辺なき日々も見つけるだろう》(「今日の歌」)


 つまり、キリンジは形を変えても、まだ寄る辺なき日々を見つけて往くのだろう。"ソング・サイクル"も"彩"も抜けて。



(松浦達)

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 東京で活動するアメリカ人女性シンガーソングライター、ケイト・シコラ。2005年にアルバム・デビューを果たし、じわじわと知名度を上げてきた彼女の2ndアルバムが本作。キラキラしたグロッケンの音に浮き足立ち、温かみのあるアコースティック・ギターと甘美な女性ヴォーカルが放つメルヘンな響きに心奪われます。


 春風のように軽やかに耳を抜けていく優しいメロディー、柔らかく包み込むようなトランペットの音色、そして鼓膜を羽毛でなでるような快感ハーモニー! グラスゴー出身で、今までにティーンエイジ・ファンクラブ、ベル・アンド・セバスチャンなどを手掛けてきたプロデューサーのデイヴィッド・ノートンとの制作だとか、バンド・メンバーに堀越武志(OCEANLANEOLDE WORLDE 等)や岸田佳也(トクマルシューゴOLDE WORLDE 等)がいる、ということも嬉しいんですが、お天気の良い日に自転車でちょっとそこまでピクニック、というようなピースフルなムードに溢れていることが凄く素敵。


 急かされたって動じない、クレヴァーで地に足の着いた、他に代わりが見当たらないくらい美しくエモーショナルなメロディーとサウンドを持つ彼女。良い匂いが鼻をくすぐる最高のポップ・ミュージックがまたここに完成。



(粂田直子)



【編集部注】『JUST ENOUGH SPACE』は11月21日リリース予定。

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 まずは、本作に収録されている「Everything All The Time」のMVを見てほしい。クラクラするような陶酔的サイケデリアにやられるはずだ。


 アウトフィットを名乗る彼らは、リヴァプール出身の5人組バンド。リヴァプールでサイケデリックといえば、真っ先にエコー・アンド・ザ・バニーメンの名が浮かびそうだけど、彼らが影響元として名を挙げているのは、リカルド・ヴィラロボスニコラス・ジャー、トーキング・ヘッズといった面々である。ミニマルなポスト・パンク・サウンドを下敷きにしながら、ファンク、ディスコ、R&Bなどを上手く折衷させたクールなサウンドからは、彼らの豊穣な音楽性を感じとることができ、なおかつ、それが見かけ倒しではないことを窺わせるセンスもある。


 そしてなにより驚異的なのは、デビューから2作目のEPにあたる本作の時点で、既に高い完成度を誇っていること。さらには伸びしろもある。ここで聴ける彼らのミックスからも、引きだしの多さは窺いしれるはず。こういうバンドが出てくるから、イギリスは最高なんです。



(近藤真弥)

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ビートルズの遺伝子ディスク・ガイド.jpg

 ディスクガイドと名付けられているものに面白いものが少ないように思えるのは、「斬新な切り口」とそこから導き出される「出会いの喜び」が不在だからではないだろうか。大雑把な話だが、巷で見られるディスクガイドのほとんどは特定のジャンル/特定の年代を対象としたものであり、扱っている対象の範囲が限定的だ。そのため、取り扱っているディスクたちの固有名詞、そして内容がおおよそ予測可能なものになっている。


 だからもし、知らないディスクに出会ってもあまり興味を持つことができず、ああこんなものが存在していたのかと単に自分の知識の穴埋めをしてくれるだけの資料的な価値を持ちはしても、新たな知見が開かれるような新鮮な体験を我々に提供してくれはしない。ディスクガイドなんてそもそも扱っている対象について知識の無い人間が入門として読むものとして機能すればよいし、資料としての役割を果たせばいいんじゃないかという意見もあるだろうが、それではやはり退屈であるし、音楽の読み解きをしてゆく際の興奮が決定的に欠落している。そうなると、読み手は自然と取り上げられているディスクに興味を持てなくなってしまい、そのディスクガイドは音楽を聴かせるための本として機能しなくなってしまう。


 この「ビートルズ遺伝子ディスクガイド」は、そういったディスクガイドが陥りがちな欠点や退屈さをことごとく免れ、文章の細部に至るまでユーモアと驚き、そして豊富な見識に満ちている。このディスクガイドはページをめくるごとに読み手を快楽へと誘い、ビートルズという「斬新な切り口」によって無数の「出会いの喜び」を我々に提供してくれる。


 ビートルズというポピュラーミュージック史におけるビッグ・ネームを切り口とすることのどこが斬新なのかという声もあるかもしれないが、その疑問は彼らが残したディスコグラフィーを眺めてみれば自ずとわかるだろう。ビートルズの音楽はスキッフル、ブルース、フォーク、ロック、カントリー、ソウルなど、様々な音楽がブレンディングされたものであり、また彼ら自身、キャリアを重ねるにつれ、既存の音楽には無かった多くの発明をしてきた。彼らを元にしてディスクガイドを作るというのはあらかじめ様々なジャンルの縛りから自由であることを意味している。これがこのディスクガイドをスリルに満ちたものにしている要因の一つだ。


 ビートルズがキャリアを通してばら撒き続けたその豊潤な遺伝子たちには、ジャンルの制約などはあらかじめありはしないし、国籍による縛りも存在しない。この本には凡庸なディスクガイドにありがちな、扱う対象の範囲の決まりきった限定が皆無であるため、どのようなディスクが取り上げられているのかほとんど予想がつかない。そして、ディスク1枚1枚に添えられているレビューの切り口は驚きに満ちているものばかりで、「ああ、ビートルズとこういう繋がりがあるのか」とつい口に出してしまうような情報が、監修を担当している黒田隆憲、岡俊彦をはじめとした、12人のレビュワーの個性でもって綴られており、「はじめに」で黒田氏が書いているように「それぞれの新しいビートルズ論」がそこで展開されている。


 また、このディスクガイドは00年代以降、90年代、80年代、70年代、60年代の順にビートルズの遺伝子たち、またはビートルズと同時代の者たちのディスクが取り上げられている(後述するがここに『「日本」に撒かれたビートルズの遺伝子』という日本国内に焦点を当てたディスクガイドが加わる)。このような構成を取ることで、その年代によってビートルズに対するアプローチの仕方が異なっていることが分かり、同年代における無数の差異の深層にうっすらとした時代の共通認識のようなものが見えてくることもある。


 それらのディスクレビューに挟まれるように、様々な切り口からビートルズについて綴られる文章と、ビートルズについてはこの人に訊いてみたい!と思えるようなアーティストたち(ザ・ニートビーツの眞鍋氏、永井ルイ氏、ふくろうずの内田万里氏)へのインタビューから構成されるコラムがあり、こちらも非常に読み応えのあるものになっている。特に「ビートルズは作れるのか?」というコラムはビートルズの「曲作り/アレンジ」や「サウンド/スタジオワーク」に焦点を当て、その楽曲の構造や楽器、使用機材レベルにまで掘り込むことでビートルズという音楽が持つ魔法の検証を行っており、非常に精密な議論がなされているにも関わらず、専門的知識を持っていなくとも問題なく読むごとができ、ビートルズについてより深く知ることができる。


 そして、このディスクガイドの最大の読みどころは『「日本」に撒かれたビートルズの遺伝子』の章ではないかと個人的には思っている。なぜならYEN TOWN BAND、きゃりーぱみゅぱみゅGREAT3、住所不定無職、Theピーズ、レイハラカミ、Mr.Childrenが同時に載っているディスクガイドなど、ビートルズをテーマとしたこの本以外ではありえないだろうし、なによりそのテーマによって切り取られた、日本のポップミュージック史の新たな切断面を日本の読者に提示したというだけでもこの章は非常に価値あるものと言えるからだ。


 ビートルズとその遺伝子たちが織り成す数々の物語について書かれたこの本を読み終わったとき、スペインの映画監督であるビクトル・エリセが、溝口健二の映画について次のように語っていたことを思い出した。


 「人生を凌駕する映画があるということは、しばしば言われていることですが、それは本当なのです。」(『国際シンポジウム 溝口健二』蓮實重彦 山根貞夫編著 朝日選書)


 この本は、「ザ・ビートルズ」をキーワードに我々に数多くのディスク/アーティストとの出会いをプレゼントしてくれるものだ。ここで取り上げられているディスクの多くは、ビートルズという音楽によって人生を凌駕された人間によって作られており、そんなディスクたちがまた誰かの人生を凌駕する音楽となることを願ってやまない。音楽は、たまにそんなイタズラをする。



(八木皓平)


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 音楽不況という言葉はもう何年も前から痛いほど目にする。ジャズ喫茶やロック喫茶などに行っても、真っ先に出てくる会話が音楽不況だから困る。音楽評論家の松村洋氏は、「音楽業界以前に日本の音楽文化が崩壊しつつある」と言っていた。確かに思うところはある。実際に僕の周りには音楽を一切聴かない人はいる。そういう人を否定するつもりはないし、全く聴かない人が2~3人なら、まあそんなもんかと思えるのだけど、これが20~30人になってくると、ある種の怖さというか、危機を感じる。


 余計なお世話を承知で「なぜ音楽を聴かないの?」と僕はたまに聞くことがあるのだけど、そうした時に返ってくる言葉が「つまらないから」というもので、僕は腕組をしながら、うーん、となってしまう。だって、聴いていないのに、音楽をつまらないと思うのは変だから。でも強引に聴かせる訳にもいかず、ライヴ会場まで引っぱっていく訳にもいかない。けれど、まずは聴いてほしいというのが本音ではある。音楽が好きな人は「好きだから聴いている」というのはもちろん、「聴いていくうちに好きになる」という体験もしているはずなのだから。


 そんなこんなで、サンディエゴで結成されたバンド、ピンバックの5作目となる本作『Information Retrieved』である。あえて言えばスロウコア。モデスト・マウスを思わせるところもある。僕はこの作品を好きだから聴いている訳ではない。聴いていくうちに好きになった。ある日突然、好きになった。音楽とはこういうことがあるから面白い。50回聴いて何とも思っていなかったのに、51回目に聴いたら素晴らしく聴こえてくることがある。


 思えば「好きだから聴く」という言葉も変なものだ。レコードに針を落とす前から、そのレコードが好きなわけではない。聴く前から好きなんてことはありえない。「聴くから好きになる」のだ。聴く行為が好きという感情を生み出す。そうして聴けば聴くほど好きになる。もっともっとたくさんの音楽を聴きたくなる。騙されたと思わなくていいから、本作を聴いてほしい。音楽をもっと好きになるから。最初はつまらないと思ってもいいから。


 僕は本作を、音楽を全く聴かないという人と一緒に聴いたことがある(BGM的に、だけれど)。びっくりした。その人は、一曲聴いただけで本作に夢中になった。ラグビー・ボールが転がっているみたいなヘンテコな音楽なのに。でも思うのは、音楽を共有できることの素晴らしさ。本作には人と人とを繋ぐ力が確実にあるという嬉しさ。ほんとうに嬉しかった。こういうことが音楽不況の文字を消すことに繋がるのなら、さらに嬉しい。けれども、そんなに簡単なことではないのだろう。ただ"聴く"人が減っているだけなのだ。


 僕らは音楽を聴いて音楽を好きになる。何かを好きになるのはとても素敵で大切で、それは希望と言ってもいい。音楽を聴く行為自体が希望なのだ。本作は"聴く"に値する音楽として息をしている。



(田中喬史)

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ブライアンイーノ『Lux』.jpg

 1920年にエリック・サティが作曲した「家具の音楽(sique d'ameublement)」は音楽とは鑑賞と聴取、意識の導線を敷いてしまうという発想から少し離れ、寧ろ「積極的に聴かれない音楽」を目指したものとして、今でも様々なアーティストに参照にされながらも、BGM、アンビエント、環境音楽、イージー・リスニング、ヒーリング・ミュージック、ラウンジ・ミュージックといったコンセプト群の支える杖のようになっているときさえある。マルセル・デュシャンの言葉を借りれば、かつて「観客が芸術を完成させる」という文脈に沿い、レディ・メイドの発想に近いのかもしれない。


 創作者の主体と受容者の客体の近代化の問題の一つには、主体側が署名を消しながら、客体側が署名付きの音楽を聴き流せる錯転があり、カフェ、ミュージアム、エアポート、はてはベッドルームでの可視化できる音のさざなみをどう再定義するか、という根因に準拠するとなってくると、ブライアン・イーノほど「音楽」のみならず「音響(音の、響き)」そのものへ意識的に向き合ってきたアーティストも居ない気がする。ときに、アーティストやバンドの変革のためのプロデューサーとして参画し、アイデア、アレンジメントなどの幅を広げる手助けをしながら、ときに、個人的な追求心から実験性の高い抽象的な作品をリリースし、また、取材や文章における理論家的な佇まいなど高踏なイメージも保持しながら、その実、パッショネイトな音楽そのものへの傾倒の側面が見えるという多様性。


 この新作にして久し振りとなる完全なソロ・アルバム『Lux』は、1975年に発表した『Discreet Music』、つまり、現在に繋がる環境音楽やアンビエントの流れを組む作品群に並ぶ。要は、カオティックで前衛的というのではなく、音像の穏やかな移り変わりと音響そのものの深みに溶け込める内容に帰一している。


 "Lux"とは、照度の単位である"ルクス"を指し、ラテン語に遡及すれば、「光」という意を指すが、そもそもはイタリアのトリノのヴェナリア王宮内のコリドーのためのサウンド・インスタレーションがベースになっているという。ただ、そのインスタレーションを越えるものを、と際に「光」というコンセプトが必要になり、約75分にも及ぶ壮大な音絵巻に行き着いたようだ。発想や素材群から続編も含意し、この『Lux』にも過去のアンビエント・シリーズの例みたく、曲タイトル名はLUX 1から4までが番号が付されているのみで、それぞれが18分から19分というレングスからして、便宜的な区切りといえる。


 ここまででいかにもな印象を受ける方も居るかもしれないが、2012年の感覚でこの作品と向き合うと、いわゆる、モダン・クラシカルの文脈にも当てはめることができるところもあり、興味深い。ハウシュカ、マックス・リヒター、ゴールドムンドなどの名前を挙げずとも、特に10年代に入って隆盛してきたクラシック音楽とエレクトロニクスやアート性のエクレクティックな潮流との思わぬリンクもあるということ。


 しかし、同時代性という意味でモダン・クラシカルはある種、刹那的な宿命もあったが、イーノ自身も幾つもの作品群やコラボレートの中で決して喝采をおくるべきものばかりを作ってきた訳ではなく、ゆえに時おり、思わぬ同時代性と普遍性を帯びるときがある。そういう意味で、『Lux』は今の耳で聴くと、なおさら、モダン・クラシカルの刹那性とも差異が伺える不思議な作品だと思う。簡単にいえば、分かりやすいメロディーなどのフック・ラインがほぼなく、細やかな電子音の粒からヴァイオリンなどの弦、ピアノなどの組み合わせの妙と隙間の多さ、絞られた情報量が表出しては消える、空気をかろうじて揺らし、照らすように。三楽章だけの休符で組まれた音楽「4分33秒」が今や多くのアーティストたちによって手掛けられ、聴かれるようになったとも解釈できる中でのイーノの今作は賑やか過ぎる瀬に、アーティスト精神に則り、静寂を預ける音楽として機能するのかもしれない。



(松浦達)

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Hercules And Love Affair『DJ-Kicks』.jpg

 《Not Not Fun》《100% Silk》を主宰するアマンダ・ブラウンや、《Planet Mu》から『Dream On』という今年度ベスト・アルバム候補をリリースしたアイタルは、前者がポカホーンティッド、後者がブラック・アイズとして、現在とは異なる音楽性をインディー・シーンで鳴らしていた。しかし、現在のふたりはハウス/テクノに傾倒。しかも、多くの人はそれを"ハウス"や"テクノ"ではなく、"インディー・ダンス"と呼んでいる。


 なぜこうした状況が出来あがったのか? それは、"インディー"がある特定の音楽を表すジャンル名ではなく、実験精神とそれを可能にする寛容性、つまりアティチュード的な意味あいとして"インディー"を解釈している人が多く存在するからではないだろうか?


 そう考えると、ロックとイコールされがちで窮屈なものとなりつつある"インディー"ではなく、代替的ニュアンスを持つ"インディー・ダンス"(この呼び名は"オルタナティヴ・ダンス"と同義的に使われることもある)と呼びたくなるのも納得がいくし、アティチュードとしてのインディーを求めていくなかで、"インディー"に囚われていない外部の音に接近していくのは必然だと言える。テン年代のインディー・ダンスが持つ熱狂は、こうしたジャンルの外へ外へと向かう膨大なパワーによるところが大きい。


 とすれば、個人史を歴史とする音楽を鳴らしたジェームズ・マーフィー率いる《DFA》が、文字通りディスコでパンクをすることによってUSインディーの拡大解釈に成功し、その拡大解釈の作用で生じた隙間にハウスのエロティシズムを注ぎこむことで、ライヴ・ハウスとクラブを繋げたアンディー・バトラーの功績は、テン年代のインディー・ダンスを語るうえでは欠かせないものとなる。


 この功績がなければ、《Not Not Fun》や《100% Silk》はもちろんのこと、アンディー・ストットジェームズ・ブレイクといった、たくさんの文脈的入口がありながら、いくら遡っても従来の文脈や歴史にたどり着けない音楽、いわば"逸脱した音楽"を受けいれるだけの意識を聴き手が持つこともなかった。


 さて、本作はそんな功績を残したアンディー・バトラーの最新ミックスである。ドクター・バザーズ・オリジナル・サヴァンナ・バンド「I'll Play The Fool」といった、70年代のディスコ・クラシックを選曲した『Sidetracked』からすると、本作は80年代後半~90年代のトラックで大半が占められ、よりハウスなものに仕上がっている。アーティストもDJデュークやマーク・インペリアルなど、いわゆるおじさんおばさんホイホイなチョイスが目立つ。


 もちろんセレクター自身の新曲も収録され(これは『DJ-Kicks』シリーズの恒例)、それにあたる「Release Me」は、『Blue Songs』に収められていてもおかしくないハウス・トラックで、こちらも90年代の匂いを漂わせる。しかし、こうして作られた本作は、テン年代のインディー・ダンスが見せる"既視感的90年代"ではなく、それからは程遠い"クラブ・チックな90年代"であるのが特徴的だ。


 この差異には、テン年代のインディー・ダンスの礎を築きながらも、その後の流れに対するアンディーの戸惑いが表れていると思う。この戸惑いは"クラブという場所への愛着"と言ってもいいのだけど、テン年代以降のインディー・ダンスによるハウスの更新は、もはやハウスはクラブだけの音楽ではないことを繰りかえし主張する解放戦線であり、アイタルの『Dream On』にいたっては、その影響がダンス・ミュージック全体、果てはこの世にあるすべての音楽に波及する、つまり、音楽が固定観念という名の玉座から引きずりおろされる可能性もあることを示唆している。


 そう考えると、本作におけるアンディーの姿勢は、ちょっと頑固すぎる気がしないでもない。ましてやアンディーは、"ダンシング・ゾーン・コンセプト"なるものを掲げた人物だ。むしろ、テン年代のインディー・ダンスを歓迎すべき立場のはず。安定感あふれるミックスで聴き手を踊らせる本作だが、この点だけは、本作における唯一の不満として見逃すわけにはいかない。『Hercules And Love Affair』『Blue Songs』でぶっ飛ばされた者としては、なおさらである。



(近藤真弥)