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 テレビの前に行儀よく座って、ヒーローが登場する戦隊ものを観ていた経験、皆さんにもあったのではないだろうか。


 かつて私が少女だったころ、テレビに出てくる誰にも負けない正義の味方に恋をし、これから始まるであろう冒険に胸を焦がしていた。興奮が抑えきれず、気づけば眠気もすっかり覚めてしまう日曜の朝は、いつだって待ち遠しいものだった。


 どんどん年を重ねるにつれて、燃えるように胸が熱くなることも、胸が揺さぶられて涙が止まらないことも、ほとんど無くなってしまった。けれど、シャムキャッツの『GUM』には胸をぐっとつかんで離さない、忘れかけていた感情が丁寧に落とし込まれている。


 メロディーラインは、スピッツ、はっぴいえんど、ビートルズ、くるりを想起させるポップでキャッチーなメロディーが際立つ。しかし、XTCやペイヴメントのような、随所にちりばめられる一筋縄ではいかないメロディーは、さっと聞き流してしまいそうなメロディーに歯止めをかける。ひねくれたポップス、これが何度でも聴きたくなる所以か。そして、何を隠そう、このバンドは歌詞が大変素晴らしい。特に歌詞の素晴らしさを感じた楽曲は、このアルバムに挿入されている4曲目の「サンシャイン」だ。


 《あの子の瞳は3月の海のよう/裸足で入るときっと僕は凍るよ/おねがいひとつでいいから叶わないかしら》

 

 この曲は、恋をした男性の心情を書き表した楽曲だろう。好きな子を見つめると、緊張して身動きがとれなくなる。少しでも良いから、彼女の一部になりたい。切に願う気持ちを《おねがいひとつでいいから叶わないかしら》と表現している。直接的に表現しない曖昧な表現であるにも関わらず、想像だけで鮮明に様子や風景が思い浮かび上がるのも素晴らしい。


 また、シャムキャッツが描く都市は、どこか都会を俯瞰/客観しているように思える。というのも楽曲を主に作っている夏目知幸(G/Vo)が千葉県出身で、郊外から都会を見ていたため、都会の中心地からではなく、どこか遠くから眺めているように見えるのではないだろうか。


 そして、強い言葉ではないのだけれど、聴いた者の心に愛や勇気、そして希望...人の心に必ず何かを宿す歌詞。信じられる言葉がひとつあるだけで、人はとても強くなるもの。


 ラストを飾る「BOYS DON'T CRY」のなかで、《一体どうだい/破れたマントで旅をしてるんだろう/がらくたばっかのポッケがべたついてら》という歌詞がある。これだけ聴くと正直言って滅茶苦茶にカッコイイわけではないけれど、私にとってシャムキャッツは、まさにヒーローと言っても過言ではない。いつだって登場が待ち遠しいし、正義の味方でいるのだ。


 今作から菅原慎一(G/Cho)も歌に参加し、さらに楽曲がヴァリエーション豊かになり、12月には新作アルバム『たからじま』が発売されるシャムキャッツ。更なる飛躍に期待し、次回作を楽しみに待っていよう。



(立原亜矢子)

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 こうきましたか、ディスクロージャー。《Moshi Moshi》から「Offline Dexterity」をリリースしたのが2010年。それはインディー・ダンスに足を踏みいれながらも、あくまでクラブに根ざしたダンス・ミュージックに過ぎなかった。しかし、リリースを重ねるごとにハウス寄りのポップなトラックが目立ちはじめ、それは7月にリリースされた「The Face EP」でより明確になった。


 そして、この原稿を執筆している時点で英シングルチャート11位、ダンス・チャートではトップ3入りの大ヒットを記録している「Latch」では、サム・スミスのセクシー・ヴォーカルをフィーチャーしたスウィートなR&Bを披露している。「The Face EP」でもヴォーカルをフィーチャーし、R&B色を漂わせてはいたが、まさかここまで振りきったシングルを出してくるとは・・・。


 「Offline Dexterity」の頃から追いかけている者としては、こうした音楽性を打ちだすのは正直意外に思うし、そもそもここまで売れるとは予想もしなかった。デビュー当時はナイトウェイヴと一緒に語られることが多く、《Data Transmission》のポッドキャストで披露したミックスからも、彼らはクラブ・シーンの新鋭としてこれから注目を集めると思っていたが、いやいや、もはやポップ・スター候補と呼ぶべきポジションに登りつめている。


 とはいえ、もともと定評があった曲作りに加え、「Latch」のアーバン・ポップ的な側面を上手く表現したMVや、彼ら自身の端正なルックス(イケメンでしかも兄弟)がアピール・ポイントとしてイギリス中に広まったのだから、ポップ・スターへの道が開けるのも当然と言えば当然か。ここまできたら、とことん突き進んでスターの座を掴みとってほしい。



(近藤真弥)

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 ミツメを聴いていると笑顔になる。今を呼吸したくなる。思わず頷いてしまう音がある。なぜ笑顔になるのだろう。なぜ今を感じるのだろう。彼らは特別ハッピーなことを歌っている訳ではないのに。劇的な音を鳴らしている訳でもないのに。でも、今のリアルを強く感じる。ミツメの音は手を伸ばせば触れられそうなほど近くで鳴っている。そう、本作『Eye』には特別なことや劇的なところは何もない。でもそれが、奇跡的なことなのだ。


 東京で結成された4人組の彼らのセカンド・アルバムとなる本作。それは素晴らしいものだ。前作『Mitsume』では生楽器の鳴りが基調になっていたが、本作にはダブがあればシンセ・ポップもある。いわゆるUSインディーの音やアシッド・フォークもあれば音響派へのアプローチもある。それらがサイケデリックで時に現れるファンキーなサウンドと相まって、中毒性の高い作品になっているという、前作以上に音楽性のふり幅が広がった音世界。カラフルなのに朴訥としたさまはキセルやスピッツにも通じる。


 前作からも彼らが多種多様な音楽性を持っていることが窺えたのも確かだ。シンガー・ソングライターとしてのメロディへのこだわりという軸はそのままに、本作ではメロディはよりシンプルになり、自由度は増し、楽曲のアレンジが進歩した。それゆえに彼らはどんな音も吸い込んでしまう。特にシンセとダブ処理された音は新機軸と言っていい。ただ、忘れてはならないのは、様々な音にハングリーでありながら、根底にあるのは音を楽しむという彼らの姿勢。着飾ることなどしない。それがミツメだ。


 音のふり幅が広がったが、ミツメは多様な音楽性に頼らない。頼れるものは自分たちでしかないという意思が見える。そう思わされる音に誰もがグッとくるだろう。気だるい歌声はまさに等身大であり、どの楽曲も等身大。ミツメは無理に高みの昇ろうとしない。妙な私欲はないのだ。だから鳴らされる音のすべては僕らに寄り添ってくる。彼らは言うだろう。やりたいことをやっただけだよ、と。


 歌詞の面でも変化が窺える。前作は過去に思いをはせるものが多かったが、本作では"これから"を歌っている。「過去を肯定できない者は今を肯定できない」とは養老孟司氏の言葉だが、きっとミツメは過去を肯定したのだ。いや、過去を受け入れたのだ。"今"とは、過去の積み重なりによって成り立っているのだ、と。過去が存在することは素晴らしいのだ、と。僕らが今ここにいることは、僕らが過去に選んだことなのだ。そんなことを本作から教えられる。もしかしたら、過ぎたことは見えないのではなく、見ようとしていないだけなのかもしれない。


 そうして思うのは、僕らが今ここにいることは過去があってこそで、それは素晴らしいことなんだ、ということだ。音楽を聴いて笑顔になれる。今を深呼吸したくなる。それは特別なことではないと僕らは普段思うけれど、実は奇跡的なことなのだと本作は今を肯定する。なにも悲観することはない。必ず新しい朝はやってくる。高野寛が歌ったように確かな光が降り注ぐ。そういった気持ちが溢れ出る本作の音を、閉塞感に満ちた時代などと呼ばれる今だからこそ、ぜひ聴いてほしい。セロ(cero)の新譜を聴いた時も思ったことだけれど、これが今の音なのだと思う。



(田中喬史)

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Andy Stott 『Luxury Problems』.jpeg

 05年に、《Modern Love》から「Ceramics」「Replace EP」「Demon In The Attic EP」をリリースした当時のアンディー・ストットは、まぎれもないベーシック・チャンネル・フォロワーであり、音楽性も"テクノ"の領域を出るものではなかった。いま挙げた3作品をキッカケにアンディーは瞬く間に注目されるが、それはあくまで"テクノ"という範疇における出来事で、ジャンルの壁を越えるほどのクロスオーヴァー性があったわけではない。


 だが、リリースを重ねるごとにアンディーは、"テクノ"というタグから逸脱した音楽性を徐々に顕在化させていく。特に去年の『Passed Me By』は、ダブステップをインダストリアルに調理したようなザラついた質感が際立つなど、それはもはや、"テクノ"という単一タグで括るのは不可能な代物であった。


 そして、『Luxury Problems』である。プレスリリースでは「セオ・パリッシュとシャーデーの中間くらいの音楽を壊したようなアルバム」と説明されているが、いやいや、はっきり言ってその程度のものではない。本作はブリアルジェームズ・ブレイクの領域、いわば"破壊的創造"に位置するアルバムだ。従来のタグ付け/ジャンルをことごとくかわし、純度の高い音として、ただそこにある音楽。


 もちろん"○○みたい"と語ることは可能だ。全8曲中5曲に、アンディーのピアノ教師だったというアリソン・スキッドモア(Alison Skidmore)をヴォーカルでフィーチャーするなど、本作でアンディーは"声"にフォーカスを向けている。それが顕著に表れているのは、オープニングの「Numb」だろう。


 《タッチ・・・タッチ・・・》と何度も繰りかえされるその呟きは、ダンス・ミュージックの持つドラッギーな側面のなかでもさらにダークな部分だけを抽出したような雰囲気を醸しだし、聴き手を孤高の音世界に引きずりこむ。こうした方法論で聴き手を内観に導く点も、ブリアルやジェームズ・ブレイクと共通するものだ。


 アルバム全体としてはロウなグルーヴが目立ち、そのスクリューな音像からはトリルウェイヴとの親和性を見いだすことも可能だ。「Sleepless」はモロにそれで、スクリューのかかったヴォーカル、ドロドロに溶けた音粒、不穏な空気で満ちたビートがそれぞれドス黒いサイケデリアを漂わせ、聴き手の平衡感覚を狂わせる。


 このように様々な音楽的要素で構成された本作を、特定の呼称で言いあらわすことなどできるだろうか? 要素はあくまで要素でしかなく、音は音でしかない。それを可能にするため、アンディーはすべての音からあらゆる情報を剥ぎとり、そうすることで、従来の価値観や音楽的文脈から見事に逸脱している。


 そんな本作は、知識と理性では到底理解できない場所にそびえ立つ荘厳な建築物のようだが、これを世間はどう受けいれるのか? その受けいれ方によって、現在の聴き手が持つ意識や価値観の一端を知れるとなれば興味深いが、そういった意味で『Luxury Problems』という怪作は、アンディーから我々に対する問いかけ、挑戦状と言えるのかも知れない。



(近藤真弥)

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CZECHO NO REPUBLIC 2 .jpg

 2012年8月でのほぼ初期メンバーである吉田アディム(Gt)の脱退は彼らにとって大きかったと思う。飄然と、しかし、若者らしい不安と虚無、無邪気さを色彩豊かなギターポップを経由して届けようとすること。OK GO、MGMT、ヴァンパイア・ウィークエンドの持つセンス、シンセが主体になった先へ運んでゆくサイケなものまでの飛距離をはかれば、まるで、ブルックリン・シーンの今昔物語の間を駆け抜けるスマートな音世界観は結成からの短い時間で音楽性も変容せしめていった。


 USインディー寄りのファースト・フルアルバム『Maminka』、セカンド・ミニ・アルバム『DINOSAUR』では、バンド・サウンドとしての一体感を打ち出し、サイケデリックで捻じれた要素を出来る限り排しながら、今の時代のユース・ミュージックにポップが絡まる意味を定義せしめたような作品だった。思えば、彼らは森、妖精的な何かを巡っての着想の破片がこれまでも服装や作風などいくつも見受けられていた。


 例えば、「Don't Cry, Forest Boy」のMVでは、「森」という記号と、フォークロアの結び目を探す節があったが、この新体制となってのセカンド・シングル「IVORY」における表題曲「アイボリー」は絵本の中の寓話めいたアイリッシュ・トラッド的なたおやかな曲であり、サポート・メンバーとして入った砂川一黄(Support Gt.)、紅一点のタカハシマイ(Support Cho/Per)とともに螺旋状に高揚してゆく曲調の狭間に、疲れ、笑う星、踊る風、寂しさ、箱舟、何もかも覚えてること、白昼夢と現実の鬩ぎ合いみたいなフレーズ群が多彩なコーラスによって包まれるとき、《寂しいのは短い夏が 終わったから そうだよ》、《悲しいのは昨日見た映画のせい 苦しいのはなぜだろう...》と極点にゆく。そこから輪舞するように、全員でアイボリーを巡るアーヴァン・フォークロアを昇華させる展開は麗しい。その他、ストイックな「Shalala」、「Nowhere Boy」でのクールなスイング感、キュートでポップなこれまでの彼ららしい「MIKA」まで以前/以後の過渡期を刻む四曲が並ぶ。


 しかし、アイリッシュ・トラッドという音楽に魅せられるアーティストは多いが、そもそもはそこに楽譜はなく、口承から歌へ、そして文化、更には豊潤でふくよかな歴史を編み込んできた、というところもあるのかもしれない。ファースト・シングル「Casually」、アルバムにも入っていた「ショートバケーション」では、若さゆえに未来が分からないから手を繋いで、ショートバケーション(短くも、無為な休み)へトリップしてみる潔さと不安が綯交ぜになっていた。そこから、「アイボリー」での《寂しいのは短い夏が 終わったから》と言い切れる境地にまで分け入った確たる一歩は美しいと思う。変わらないものを変えようとしても、変わらないまま、時間だけが移ろう。では、その時間の移ろいと変わらないものを天秤に掛けてみれば、高度に管理化された都市生活の切れ目から零れたタナトスに引っ張られがちな集合的無意識が膠着状態になってしまっていることもある。膠着した集合的無意識はなるべくのこと、リスク回避のため、「同じ方向」や「同じ未来」を目指すべくそのまま大文字の箱舟を待ってしまう可能性が高くなる。


 そこで今こそ、チェコ・ノー・リパブリックは少しリズムを落として、"誰も"が舞うように踊ることができるように、森の中で行なわれるささやかなパーティーの招待状を出す。鳥のさえずりに耳を澄まし、ほんの少し空気の澄んだ場所で色んな動物たちと幻想的な時間を"誰か"と過ごせるように、と願う。


《消えそうなアイボリー 壊れそうなアイボリーの中を行くの 一人》

(「アイボリー」)


 どんどん彼らの音楽の純度は高く、毅然となってゆくのが頼もしい。



(松浦達)


【編集部注】2012年11月7日リリース予定

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 神ノ口智和(ヴォーカル/ギター)、藤井毅(ヴォーカル/ギター)、林真人(ベース)によるバンド(サポードとして圓山千紘(フルート/キーボード/コーラス)、豊田貴之(ドラム)も参加している)、ペンネンネンネンネン・ネネムズ。なんとも覚えづらい名前・・・いや、覚えづらいからこそ、一度名前を聞いたら覚えてしまうのか。


 バンド名はそんな感じなんですが、彼らの生みだす楽曲は、とても親しみのある覚えやすいもので、これまた一度聴いたら忘れられないメロディーがある。ふわふわとしたドリーミーなサウンドスケープと、ダイナミックなグルーヴが交わる彼らのサウンドはサイケデリックでありながらも、視界は良好、どこか晴れ晴れとした風景を現出させる。現実逃避的ではあるが、ユートピアというより、モヤモヤとした霧を払う"再発見"の音楽。いわば『世にも奇妙な世界』のように、日常に潜む別世界を聴き手に提示する。


 それは抽象度の高い言葉で綴られた歌詞にも表れていて、幻想的世界観に基づいたものでありながら、地に足がついた日常の匂いを随所で漂わせる。「真夜中の虹」「赤い街」といった、"世界の終末感"が顕著に表れている曲も例外ではない。そういえば、ペンネンネンネンネン・ネネムズというバンド名は宮沢賢治の童話から引用したそうだけど、宮沢賢治の作品には、人種や言語の差を超えようとするコスモポリタニズムな空気がある。これをふまえたうえで本作を聴けば、より楽しめると筆者は思う。



(近藤真弥)




【編集部注】本作はJET SET  南池袋ミュージック・オルグ  バンドの公式サイトで購入できます。

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 結成から9年、初となるオリジナル・アルバムが完成。Vo.寺井孝太の優しい歌声を活かしたアコースティック・ナンバーから多重コーラスなハーモニー・ポップ、ストレートなロックまで、良性分裂症のごとき、俺ワールドを見事に確立している。


 「アルバムの制作が始まる前後ぐらいで、前向きなもの、っていう作品のテーマがあったんです。自分たちのバンドの背景も世の中の背景もありますし。でも一番は僕らが表現者として、人に対して何が出来るんだろう? みたいなことを前回のシングルから考えるようになって、そこから前向きに聴いてもらえるアルバムを作りたいっていうのがあったんですよね」(Vo/Ba 寺井孝太。以下同じ)


 確かにメロディが暗かったり切ない歌詞だったりしても、最終的にはポジティブな内容になっている、というのが今作の特徴かも知れない。


 「レコーディングが始まって、前向きに聴いてもらえるアルバムを作りたいっていう思いをどういう言葉に込めようかと考えてて言葉探しの旅をしてたんですけど、その中でピンときた言葉が太陽、sunていう言葉だったんですね。その太陽っていうのに始まって、3人でやってることとか、デビューして3周年ぐらいっていうことで、タイトルにサン(sun)を入れたいなと思っていて。そこからメンバーで映画の話になって、『雨に唄えば』なんですけど。自分たちはsunていう前向きな表現をしたいけど、実際はそうでない曲も多くて...。でも結果的に前向きなものになればいいなっていうところで、その映画のムードが自分たちが考えていることに近いなと思ったんですよね。今、世の中が雨だったとしたら、その中を飄々と口笛吹きながら歌いながらスキップするジーン・ケリーみたいな存在に自分たちがなりたい、っていう。それがあって、アルバムのタイトルを『Sun In The Rain』にしたんです」


 そして、今作でとにかく目(耳?)に付くのがメインを張る寺井孝太の見事な成長っぷり。ヴォーカルはとにかく聴かせるし、自身が作曲した曲ではこれまでの活動で培ってきたスキルを全て注いだかのよう。歌詞に関しても自らの根っこを意識しながらも、それを自分たちのスタイルで作り替えてしまう。そこにこそ彼らの底力があるような気がする。


 ゆるやかに流れ込む優しい歌声と、暖かみのあるギターの音色に導かれるしなやかな演奏が親しみやすい温もりを感じさせ、いつ聴いてもすっと染み入るような自然な心地良さと、何度のリピートにも耐えうる普遍的な力があり、末永く付き合えるスタンダードな作品。特に、彼らの優れたセンスを見せつけるアルバム後半の楽曲は素晴らしいのひと言。


 色んなことに挑戦していても雑多にはならず、ひとつにまとめあげられているのも彼らの包み込むような表現力の豊かさゆえだろう。そこが、他の数多くの歌ものバンドとの違いかも知れない。


 「自分がこのバンドをやってるってことがLOVE LOVE LOVEの強みというか、他のバンドとの違いですね。コーラス・ワークとか楽器編成とかの違いもありますけど、そういうのはグリコのおまけぐらいやと思ってて、自分がやってるってことが一番大事なんやと思います」



(粂田直子)

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 もう、「ここではないどこか」に移住する必要はないんじゃないか。そんなことをセロのセカンド・アルバムである本作『My Lost City』を聴くと思う。"あの揺れ"が来た後だからこそ、さらに思う。気持ちに迷いが生まれそうになったらこの作品を手に取ろう。迷いなんてあっさりと消えてなくなる。


 東京で結成。現在は3人からなるセロの本作(MC.Sirafuとあだち麓三郎が参加)を聴くのはとても楽しくて贅沢なことだ。中ジャケに描かれているように、素朴で、丁寧で、手書きのはがきのような手触りの、大切にしたい音に溢れているのだから。そうして僕らはセロの音世界にとても自然に包まれる。軽やかなポップスがあればしっとりと聴かせる曲もある。哀感だってある。ビーチ・ボーイズ『Pet Sounds』をお茶の間にもってきたみたいな音楽。実に甘美で穏やかな音世界は幻想的で浮遊感もあるのにしっかりと地に足はついている。だから良い。


 ジャズやフュージョン、ロック、ソウル、ファンク、ヒップホップ、南米音楽など多くの音楽性が交差するが、これらが別個に飛び出てくるわけではなく、セロの手にかかれば「セロの音」になってしまうという驚きに聴き手は衝突するだろう。彼らは音を自分のものにできるし、音を解き放つこともできる。ハーモニーを大事にしながらも自由に音を泳がせ、音の流れを温かい目で見守っているようなメンバーの姿が見える。すべてに湿った表情はなく、楽しそうに弾み、まさに無邪気で自由という表現がぴったりくるサウンドに満ちているから素晴らしい。


 どれもが新鮮に聴こえ、未知への扉を開け広げるというより、扉をすり抜けてしまったような楽曲の数々は無国籍な音の鳴りがある。豊富な音楽語彙の文脈で言えば、もし、前作『World Record』がコーネリアスの『Fantasma』を更新したとしたら、本作は"今の"『Sensuous』と僕は呼びたい。さらにはモーニング・ベンダーズ(現ポップ・エトセトラ)の『Big Echo』に似た音世界だってある。ユーモアを哀感として鳴らせる術だって彼らは持っているし、能天気なところなんて全くない。紛れもない傑作だ、これは。断言する。


 前作はキセルやイルリメ(鴨田潤)、はっぴいえんど、高田渡などからの影響が窺えた。本作ではその影響を、影響にとどめるだけではなく、大きく吸い込んで自分たちのものにしている。それは豊富なライヴ経験の賜物だろう。ライヴとは、オーディエンスとの会話でもあるのだから自分たちの音を見詰めたり、見詰め直すことに繋がる。でも肩の力が抜けた音の数々がとっても良い。僕の音楽、ではなく、僕らの音楽、として鳴っているのだから。


 本作から醸しだされるサウンドスケープは草原と都市の風景といった、ある意味相反するもの。まさに表のジャケットにあるように。そのサウンドスケープに「ここではないどこか」へ導かれそうになるけれど、本作に「ここではないどこか」はないと思う。あるのは「新たなどこか/何か」だ。


 セロは本作において、ひとつのコンセプトである新たなどこか(パラレル・ワールド=もうひとつの現実)を生み出し、新たな何か(可能性という未来)を生み出した。ここにはメンバーがパラレル・ワールドに地に足をつけて鳴らされる音がある。それは、足の裏にざらついたコンクリートの感触を覚えながらも都市の中で生きる人々が見失った灯りと勇気だ。この時代にあって、清々しく、温かい本作が鳴った途端、僕らは背中を押される。まるで急に雨が止んだみたいに。


 《ねぇどうしてそんな顔でスネてるんだ?》(「船上パーティー」)


 「ここではないどこか」という現実逃避から覚めた朝に、自分が今立っている新たな場所でスネていたって始まらない。そういう音が鳴っている本作を前にして、着地点が見当たらない「ここではないどこか」なんて蹴散らしたっていいんだ。都市で生きることの強さとやさしさを照らす『My Lost City』を聴いた後、僕らはどこに行けばいいのか? その答えは冒頭曲「水平線のバラード」で既に出ている。


 《偽物の花を買い / 海に投げて / 見えなくなるまで手を振る》



(田中喬史)






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 時と場合によって、リスナーには「音楽の正解を掴みたい」というエゴがあると思う。僕にもそういうところはあるのだけど、ザゼン・ボーイズは常にそんなリスナーのエゴを「正解がひとつだけじゃつまらん」とばかりに、あっけらかんと僕らの想像を超える音楽を生み出してきた。


 それは4年ぶり、5作目となる本作『すとーりーず』にも貫かれている。ジャンルで言えばロックということになるのだろうけど、ロックのみならず、ハウス、パンク/ポスト・パンク、ファンク、ジャズ、ミニマル・ミュージックなど挙げればきりがないのだが、それらが立体的に入り組んだような、知恵の輪のような、あるいはキュビスム的なカタチでスリルをもってして鳴らされるものだから本作を聴いていると「正解」なんてどうでもよくなる。


 それでもあえて、ひとつ正解を提示するならザゼン・ボーイズはあらゆる音楽の方程式に収まらない。音楽への入り口を探すこともしない。入口を自ら作り出すし、即興演奏の中にザゼン・ボーイズは飛び込み、さらには聴き手を引きずり込む。いわゆるエレクトリック・マイルスみたいに。それって最高だろうと僕は思う。混乱が快楽を生むという異形の音楽でありながら、ポップ極まりなく中毒性もあり、訳が分からずとも聴き込んでしまう。欧米ではマス・ロックと呼ばれているようだが、マス・ロックが持つ数学的な計算性よりも偶発性をザゼン・ボーイズは鳴らしている。


 とにかく爆音で聴いてほしい。聴けばすぐさまカッコいいじゃないかと拳を握ってしまう音に溢れているのだから。再生した途端、飛び込んでくる耳をつんざく高音ギター。それが向井秀徳の歌声とも呟きともつかない、その中間をいく声とともにシンセが鳴り、変拍子のタイミングの鋭さに、こりゃただごとじゃないと思うはず。それは誰もが思うはず。音楽を"作る"というより"生み出している"インタープレイの躍動感が凄いんだ。呼吸音すら聴こえてきそうな緊張感の中で鉄と鉄とがぶつかり合うようなギター音、ぞくぞくする一瞬の静寂、隙があればすぐさま叩きのめされる攻撃的なドラム。ずぶずぶと沼に呑まれていくように彼らが生み出す音の吸引力に身体ごと乗っ取られる心地がするが、否応なしにグルーヴに捕まえられて音圧が眼球に飛び込んでくる気持ちすら浮かぶ。さらにはDJ的な感覚も持ち合わせている凄さ。


 そう、この新作は、今までのザゼン・ボーイズそのものなのだ。しかし確実に過去の作品とは別もので、最高傑作と呼べる不思議。それは向井秀徳の尋常ではないこだわりによって生まれている。「定型的じゃつまらん」、そこに尽きるのだ。その定型的ではないところにマイルス・デイヴィスの『On The Corner』を深くロックに落とし込んだと感じさせるものがある。それは探究心というより好奇心と言っていい。向井秀徳は音の探究者としての側面より、面白いと思ったものに夢中になれる超を幾つ付けてもいいほどの熱心な音楽好きだ。単純に、今やりたいことから新しい何かがどういったカタチで生まれるのかという好奇心を重視する。いわば、オルタナティヴ。


 実際、今年9月のライヴでの、互いの目と目を見詰め合いながらの即興演奏はヒリヒリとした空気を醸し出していたが、飛び出てくる音の一つひとつは喜びの意思を持つ言葉として聴こえてきた。さらにさかのぼれば09年のTAICOCLUBでのライヴはポリリズムの渦をダンス・ミュージックとして昇華させていた。しかも即興で。それらに、しかめっ面をした実験の意味合いはなく、まだ知らない音に出会ってみたいという音との出会いを楽しんでいるザゼン・ボーイズの姿が見て取れた。


 もちろんライヴだけではなく本作においても目をつむれば4人によって繰り広げられる見知らぬ音との出会いを楽しむ姿がまぶたの裏に浮かんでくる。「ポテトサラダ」や「暗黒屋」、「気がつけばミッドナイト」などがまさにそうだろう。特に「暗黒屋」での針の穴に糸を通すような"ここしかない"という音の配置は素晴らしい。そうして出てくる音には迫力や作品性の高さとともに《ポテトサラダが食いてえ》(「ポテトサラダ」)という歌詞のように過剰にストイックにならない茶目っ気があって痛快なのだ。


 本作にはザゼン・ボーイズが持つ緊張感と茶目っ気、どう聴いてもMade in JAPANの文字が刻印されている音がある。この「和」を思わせる音楽は海外からは絶対に出てこないだろうし、彼らの和的な音が日本人の僕らにもエキゾチックに聴こえてくるという不思議がある。そうして気が付けば夢中になっているという、まさにザゼン・ボーイズしか作れない音楽。前作よりも音数を削ぎ落とし今まで以上に骨格が浮き彫りになった本作は、彼らが音楽の可能性を楽しんでいることと同時に、世界を見渡しても唯一無二の存在であることを過去の作品より雄弁に語っている。


 異形の音世界を生み出している本作は新たな音世界を生み出していると言ってもいいだろう。たとえベッド・ルームで聴いていようと、公園で聴いていようと、ライヴ会場で聴いていようと「自分はここにいるべきなんだ」という、かつてレディオヘッドが「全てはあるべき場所に」と歌ったように、あるべき場所を本作は作りだす。音楽とは音を鳴らすだけではなく聴き手と音楽を肯定する場を生み出すものだと本作を聴けば分かる。そしてその場は今も常に求められている。音楽と人と場はあらかじめ繋がっているのだと実感できるのが本作だ。


 これからも、もっともっと新たな音世界との新たな繋がりを作ってほしいと強く思う。僕はザゼン・ボーイズの本作やオウガ・ユー・アスホール七尾旅人の新作にある音世界の先を早く見たい。たとえそれが小さな灯火のようなものだったとしても、僕らがまだ知らない希望的な未来のはずだ。



(田中喬史)

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RHYE.jpgのサムネール画像

 ヨーロッパ出身、某バンド・メンバーがやっているといわれるLAを拠点とする匿名的なソウル・デュオ。あるメディアではシャーデー・ミーツ・エールの折衷を謳われつつ、多くのリスナーが内実を詮索をしている。スムースな音像にはセクシュアルで透明な艶やかさが包まれている中、ストイックな鍵盤の響き、伸びやかなフィメール・ヴォイスのエコー。今年の2月にふとサウンドクラウドに公開された「Open」の蠱惑性にも少なくない人が魅かれたのも記憶に新しい。


 来年2月にはフル・アルバムを控えるというが、このシングル「The Fall」も素晴らしい。刻まれるブレイクビートは少しのもたりを帯び、そこに絡みつくように優雅なストリングスが静謐に空気感を変える。チルアウト、アフターアワーズ・ミュージックのような気配もありながらも、シングルに収められているライヴ・ヴァージョンを聴けば、ラウンジ・ミュージックを通り越したネオ・ソウル、そういった感覚さえ受ける。つまり、サウンド・デコレーションのみで捉えると、心地良さそのものに奪われるが、それだけではない声のみの澄み切った美しさ。エディットされたものもいいが、ライヴ・ヴァージョンには"散種"の気配がする。


 大文字の「愛」的な何かを、その意味を遡るとき、それは過去に存在していたかどうか、または、過去にそのような意味で使われていたかどうかは関係のないものとみなしながら、過去には別の意味で使われていたかもしれない。しかし、それは遡ることは出来ないとして、今後はある言語の内部で新たに「別の意味」が設けられてしまう。ゆえに、その意味は多義性という枠ではなく、一つの意味に回収され得ず拡散してゆくこと。つまり、「愛」が「愛的な何か」として2012年にそのままに届けられる不思議さがここにはある。


 あまたのエッジある音が溢れる趨勢に向けて、ふとこういった甘美で不思議な音楽が生まれてしまうことに昂揚もする。無論、このライ(Rhye)というデュオを巡ってのポテンシャルははかりしれることなく、謎も多い。モノクロの裸体をモティーフにしたジャケット、淡い夜を柔らかく閉じ込めたMVからしても、意図的な要素も孕み、フル・アルバムへの飢餓感を煽るには十二分な導線を敷く。例えば、ドラムンベースをアート・フォームとしてゴールディーが都市生活に溶かし込んだように、トリップホップをシンフォニックにホールへ拓かせたポーティスヘッドのように、ダブステップとオーケストラの昇華を藝術的に行なったサブモーション・オーケストラのように、ライは半ば確信犯とも思えるように、音楽が包含する優雅さを泳ぐ。


《Don't Run Away, Don't Slip Away My Dear》(「The Fall」)


 行かないで、と懇願するその先には個として親愛なる人(My Dear)というよりも、不明瞭なマスに向けた愛的な何かへの予感に寄り添っている、そんなムードといい、匿名デュオとしての立ち位置を踏まえ、絶妙なバランスで今を照らす。愛の歌が愛と歌うだけでは成り立たない、そんなことを彷彿させるようなこの時代のソウル・ミュージックだと思う。



(松浦達)