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GABI Sympathy.jpg
 先日、湯島にある行きつけの呑み屋で、Autonomous Sensory Meridian Response(オートノマス・センサリー・メリディアン・レスポンス。以下 : ASMR)について話をした。ASMRとは、音に対する偏愛的な反応を指す言葉。具体的には、インターホンの音や本のページをめくる音など、普段は注意深く耳を傾けることが少ない日常の音に刺激を受け、興奮したり気持ち良いと感じることが、ASMRというらしい。著書『Mind Hacks ―実験で知る脳と心のシステム』(2005)で知られるトム・スタッフォードが言及したりと、学者たちの間でASMRが話題になることも少なくないが、いまのところ、ASMRの効果やメカニズムは科学的に証明されていない。そもそも、一種のフェティシズムともいえるASMRには、好き嫌いが存在する。すべての人がインターホンの音を好むわけではないし、むしろ不快感を抱く人もいるだろう。しかし、バンドキャンプで〝ASMR〟と検索してみると、出てくる出てくるASMRな音。エアコンやヘアドライヤーの音を30分ほど収録したものがたくさん売られている光景は、常軌を逸した異様な雰囲気が漂っていて、なかなか面白い。


 とはいえ、こうした音に対するフェティシズムは、決して珍しいものではないと思う。TB-303のビキビキと鳴る音が気持ち良い、誰々の歌声は心地よいというように、何かしらの〝音〟に強く惹かれることは少なくない。もう少し深く潜ると、「オナニーにはどんな音楽がいいか研究していて、ジェイムズ(・ブレイク)がいちばんイケるんです」(※1)と述べる水谷茉莉(普段は東京の中小メーカーに務めているそうです)のような女性もいるし、催眠術を応用したオナニーができるという〝催眠音声〟なるものもある。いわば、音に対するフェティシズムは、多くの人の興味を惹きつけてきたテーマだと言える。


 こうしたフェティシズムの視点から筆者は、ガビことガブリエル・ハーベストのデビュー・アルバムである本作『Sympathy』を愛聴している。本作は、ヴァイオリン、ヴィオラ、ギター、ベースなどの楽器を用いているが、基本的にはガブリエルの〝声〟が大きな割合を占めた楽曲がほとんど。先に挙げた4つの楽器は彼女の声の引き立て役でしかない。あくまでも主役は、伸びのあるハイトーンな声質を特徴とする彼女の声である。


 また、そんな声を支えるサウンド・プロダクションもシンプルかつ秀逸で、彼女の声を上手く引き立てている。彼女の声を調整するというよりは、彼女の声をできるだけ〝そのまま〟録ったようなプロダクションになっていて、それゆえ些細なリップノイズや彼女の呼気も聞こえてくる。実を言えば、このリップノイズや呼気をヘッドフォンで聴いていると、すごく官能的、もっとあけすけに言ってしまえば〝エロい〟と感じてしまう。これを〝オカズ〟にイケるかは試してないから、本作がオナニー向きだとは断定できないが、少なくとも、「ジェームズ・ブレイクでイッたときも、こういうフィーリングに包まれたのかな?」と想像したのは隠しようのない事実。


 彼女が過去に、大友良英とマルタン・テトローが主催の〈ターンテーブル・ヘル・イギリス・ツアー〉に参加したことでも有名なマリナ・ローゼンフェルドや、ビョーク『Vespertine』(2001)にも関わっているハープ奏者のジーナ・パーキンスに師事したことがあるせいか、本作はポスト・クラシカルや現代音楽というカテゴリーで語られることが多い。だが本作は、もっと幅広い層、それこそ〝音フェチ〟の方々全員に届く訴求力があると思う。そう考えると本作は、本当の意味で〝ジャンル〟や〝音楽〟という名のくびきから解き放たれた、寛容かつ折衷的な作品なのかもしれない。もちろん本作を、ポスト・クラシカルなり現代音楽なりと呼ぶのはあなたの自由だ。しかし本作は、そうした既存の概念に向けられたナニカ、たとえば〝そもそも音楽とは?〟というような問いかけも見いだせる作品だ。〝ただそこにあるだけで気持ち良い音〟の先に広がる世界は、すごく多彩でスリルに満ちている。





※1 : ミュージック・マガジン2013年10月号掲載の記事、『イケるのはジェイムズ・ブレイク 〝B自慰M〟の探求はアート?』より引用。

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Holly Herndon『Platform』.jpg

 スティーヴン・レヴィーによる著書『ハッカーズ』には、ハッカー倫理7ヶ条なるものが登場する。その7ヶ条のなかでも、とりわけ興味深いのは次の3つ。


3.すべての情報はフリーになるべきだ。

4.権威を信じるな 非中央集権を進めよう。

7.コンピュータはわれわれの生活をよいほうに変えられる。


 1987年に発表された『ハッカーズ』は、権威を振りかざす官僚主義に立ち向かうコンピュータ・オタクたちの姿に迫った名著。おそらく、インターネットに少しでも興味がある者なら、1度は読んだことあるはず。


 とはいえ、『ハッカーズ』の登場人物たちが見せてくれるピュアな理想は、今のところ実現しているとは言いがたい。日本だけを見ても、恣意的な解釈による稚拙な言説があふれるばかりで、一考に値する真摯な言葉が情報の海に埋もれてしまいがちだ。こうした状況においては、インターネットの可能性を無条件で賛美することに抵抗したくなる者が現れても(というか、すでにいるのだろうけども)、おかしくないと思う。


 しかし、4ADからサード・アルバムとなる本作『Platform』を発表したホリー・ハーンドンは、インターネットの可能性を信じているようだ。かつて彼女は、次のような言葉を残している。


 「インターネットの良いところは、ユニークで新しいものや自然とか人間とかいろんな画像を階級なく見られるところ。でも最近アメリカでは、インターネットの格差ができているの。(中略)平等さを守るためには戦いたいと思っているわ」(※1)


 本作でもその戦いはしっかり受け継がれているようで、たとえば「Home」という曲は、盗聴などでたびたび問題を起こしているNSA(アメリカ国家安全保障局)の怖さについて言及してるという。だとすれば、ニコニコ動画でよく見るコメントの嵐(いわゆる〝弾幕〟のこと)を想起させる映像効果のなかで、淡々と語りかける彼女の姿が印象的な「Home」のMVは、小さいながらも重要な個人の声が届きづらい現在を表象しているとも言える。こうした思索を促すコンセプトが、本作にはある。


 とはいえ、こうした興味深いコンセプトを支えるサウンドは、お世辞にも秀逸とは言いがたい。ヴォイス・サンプルを上手く活用した「Interference」や「Chorus」など、高い中毒性を生みだす反復が際立つ佳曲もあるが、中途半端な歌モノに仕上がっている「Morning Sun」は、アルバムとしてのスムースな流れを作るうえでは邪魔になっている。このような欠点は、明確なコンセプトがある本作の作風を考えれば、極めて致命的だと言わざるをえない。4ADからのリリースということで、彼女なりに万人さを求めたのかもしれないが、万人さと先鋭さのバランスでいったら、前作のほうが数段上である。言ってしまえば本作は、バランスを取りながら必死に綱渡りしてみたものの、その取り方が上手くいかないまま落下してしまったというアルバムだ。彼女の魅力のひとつである、初期のデトロイト・テクノを連想させる未来志向な姿勢と、その姿勢を明確に反映したサウンドスケープも影を潜めているFade To Mind(フェイド・トゥー・マインド)やNight Slugs(ナイト・スラッグス)周辺に通じるマシーナリーなビートが映えるDAO」は、興味深いグルーヴを生みだしているとは思うが...。


 もちろん彼女が、将来的に適切なバランス感覚を得る才能に恵まれているのは確かだ。しかしそれは、〝本作の内容〟とはまったく別の話。



(近藤真弥)






※1 : CBCNET掲載のインタヴューより引用。



【編集部注】『Platform』の日本盤は6月24日にHostessから発売予定です。

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Dommengang.jpg

 ジム・オルークの新作を聴いて、おや? と思った。「That Weekend」のコーラスはザ・ローリング・ストーンズの「(I Can't Get No) Satisfaction」を、「End Of The Road」はクイーン「Don't Stop Me Now」をそれぞれ連想させるし、ラストの「All Your Love」は「Hey Jude」を思わせるアウトロという具合に、随所で60~70年代に対するノスタルジーを感じさせるのだ。彼は最近のインタビューで「70年代は私のルーツですから」(※1)と語り、たとえばレッド・ツェッペリンでは「Achilles Last Stand」をフェイヴァリットに挙げていた(※2)。そこでその曲を何度も聴きかえしてみたが、カラッとしたグルーヴ感と途方もない疾走感にあらためて驚かされた。当然だが、いつの時代も良いものは良い。


 そんなことを考えていた矢先に、ブルックリンの3人組ドンメンギャングに出会った。闇夜のアパートに赤いアメ車が一台というシンプルなカヴァー・アートがまず気になり、レッド・ツェッペリンばりに轟くギター・リフとディープ・パープルのように疾走するドラミングに度肝を抜かれた。アークティック・モンキーズがブラック・サバス的なリフとヒップホップの感性を取り入れたみたい器用なものではなく、もっと泥臭くブルージー、おまけに直球。だが、音像はスッキリしていて聴きやすい。


 1曲目「Everybody's Boogie」はファズの効いたギターにエコーなどの空間系エフェクトが重ねられ、ブーメランの軌道、あるいは暗闇を飛び交うコウモリの羽ばたきを思わせる音から始まる。遅れてトライバルなリズム隊が加わり、曲の半ばを過ぎて叫びだすヴォーカルは、まるで狼の咆哮だ。次の「Hats Off To Magic」は、ギターのリヴァ―ブが宙を切り裂く刃をイメージさせるというような映像が浮かぶサウンドで満たされる。その一方で、インタールードな小曲を挟みしわがれた声で歌われる「Her Blues」ときたら、録音状態が悪ければはるか昔の音源だと思ってしまいそうだ。ラストの「Lost My Way」で、ゆったりとした呪術的な演奏がしだいにフェイド・アウトしていくまで、全編通して良い意味で時代錯誤というか、昨今のブルックリン・シーンからの影響を微塵も感じさせない。しかもそれはあえて狙ったというより、これがやりたくて仕方ない! という印象だ。


 そんな彼ら、結成はブルックリンだが、メンバーはそれぞれアラスカ、ヴァージニア、オレゴンで個別に経験を積んできたという。いつだって中心から外れた場所にいる輩が新しい風を吹かせる。それがシーンの活性化を招くカンフル剤になるのか、病魔を呼び込む不吉な予兆なのかは分からない。ただひとつはっきりしているのは、彼らの放つエレクトリック・ブギーが私の胸を躍らせて仕方がないということだ。



(森豊和)



※1 : 『別冊ele-king ジム・オルーク完全読本 ~All About Jim O'Rourke~』(Pヴァイン)96ページより。


※2 : 『別冊ele-king ジム・オルーク完全読本 ~All About Jim O'Rourke~』(Pヴァイン)59ページ「ジム・オルークが選ぶ私の10曲」より。



【編集部注】『Everybody's Boogie』の日本盤はM/A/G/N/I/P/Hから6月24日発売予定です。

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Alabama Shakes『Sound & Color』.jpg

 最初に言っておくと、ストロークスとアラバマ・シェイクスの音楽に対して、〝過去の音楽を焼きなおしただけの古いサウンド〟みたいなことを言うのは、さすがにお門違いだと思います。


 まずはストロークスから述べていきますと、1999年に結成された彼らは、2000年代初頭に勃興したガレージ・ロック・リヴァイヴァルの旗手として注目されました。しかし、ストロークスの音楽は、ガレージ・ロックの一言で括れるほど単純ではありません。ガレージ・ロック・リヴァイヴァルを代表する作品とされている、彼らのファースト・アルバム『Is This It』にしても、8曲目「Hard To Explain」のマシーナリーなビートは、80年代のニュー・ウェイヴを彷彿させるものです。


 彼らは4枚目のアルバム『Angles』で、そのニュー・ウェイヴの要素をより色濃く表現しましたが、こうしたサウンドは、ストロークスをガレージ・ロック・リヴァイヴァルという狭い枠組みで見ていた人からすれば、〝大変化作〟に聞こえるでしょう。ですが、そうしたくびきから解放された自由な感性を持っている人たちからすると、なんともストロークスらしい極めて自然体な作品に聞こえたはずです。〝これ、もともとストロークスにあった要素だよね?〟といった具合に。つまりストロークスは、ガレージ・ロックだけでなく、実にさまざまな音楽的要素を孕んだ折衷的バンドであり、だからこそ彼らは、あらゆる音楽がフラットに聴かれはじめた2000年代に、強い説得力を伴いながら「The Modern Age」という曲を鳴らすことができたのです。そんなストロークスが、〝古くさいバンド〟であるはずがないでしょ?(少なくともデビュー当時は)。むしろすごく現代的で、同時代性をまとった存在だと言えます。


 さてさて、ここでようやくアラバマ・シェイクスのご登場。2012年にデビュー・アルバム『Boys & Girls』を発表した彼ら彼女らも、昔懐かしいレトロ・サウンドと評されることが多い。確かに、ブリタニー・ハワードの強烈で迫力に満ちた歌声はジャニス・ジョップリンを想起させるし、聴き手の郷愁を誘発する味わい深さもある。だから、レトロなサウンドと言いたくなる気持ちもわからなくはない。


 でも、そうした見方は、コナー・オバーストやスカイ・フェレイラとの仕事で知られるブレイク・ミルズを共同プロデューサーに迎え作られた『Sound & Color』によって、徐々に減っていきそうな気がします。本作のサウンドスケープは、ひとつひとつの音が丹念に磨きぬかれていて、すごくモダンなものに仕上がっているからです。


 それに、ファンク、R&B、パンク、ゴスペル、さらにはサイケ・ロックなど、多くの要素を見いだせる音楽性も面白い。くわえて、その要素が曲単位で展開されるのではなく、ひとつひとつの音に込められているのだからすごい。たとえば、ギターはパンキッシュなのに、ドラムはファンクの影響を匂わせるといったような...。この点は、ストロークスのデビューから10年以上経った〝2010年代の折衷性〟と言える深化であり、もっと言えば、先述した「あらゆる音楽がフラットに聴かれはじめた2000年代」以降の感性が行き着いた、理想形のひとつなのかもしれない。


 とはいえ、この形そのものは、ダフト・パンク『Random Access Memories』、FKAツイッグス『LP1』、シャミール『Ratchet』などでも見られるものなんですけどね。ただ、この3者が見ている風景と類似したナニカを、アラバマ・シェイクスも視野に入れつつあるというのがなんとも興味深いと思うのです。



(近藤真弥)

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 ワイアーというのは、実に奇妙な...とらえどころのないバンドだ。


 77年にEMI傘下ハーヴェスト(70年代前半までのピンク・フロイドをリリースしていた)からリリースされたデビュー・アルバム『Pink Flag』は、パンクのスピリットを凝縮した、もしくはその機能面を極限まで追求したような形で、30数分間に全21曲があっけらかんと並んでいた(3分台3曲、2分台3曲、1分台9曲、0分台6曲:笑)。


 後にUSバンド、マイナー・スレットが収録曲「12XU」をカヴァーしたことによって、ワイアーはハードコア・パンク・バンドの元祖(の元祖)のひとつと呼ばれても悪くないと思うのだが、意外とそこにはカテゴライズされていない。


 おそらく、ハードコア志向のひとたちが苦手なのであろう脱臼的ユーモア感覚が『Pink Flag』に色濃く漂っていたから、かもしれない。


 端的に言って、あれは、あらゆるひとたち(もちろん、ティーンエイジャーだったころのぼく含む)の頭を「なんじゃあ? こりゃあ?」と混乱させまくるものだった。むつかしいことを言って煙に巻くのではなく、その対極、表面的にはとてもわかりやすいものであり、「深遠? そんなの無縁だよー」ってな顔をしつつ、冷静に分析すると、むちゃくちゃディープ。まあ、だから、すごく「人間」的ってことかもね。


 そんな熱さと、極めて分析的かつ冷徹な(「理系」的な?:笑)クールさが同居しているのが、ワイアーの魅力だ。70年代末~80年代初頭のハーヴェスト(&ラフ・トレード)時代の音楽の印象では、どちらかといえば前者が勝っていた。最初に復活を遂げた80年代なかば~90年代初頭のミュート時代は逆だった。00年代に2度目の復活を遂げた際の初アルバム『Send』は、久々に前者寄り! って感じで、ものすごく興奮した。ただ、その後、ふたたび後者な感じになってきて、さて、この最新作は...?


 おい! なんじゃ、こりゃ! 「ごつごつした手触りで、捨てきれない理性を、表面上実にわかりやすくまとめる」手腕のかっこよさが、スタジオ・レコーディング作品としては10年ぶりくらいに激しく爆発してる。まさに前者寄り。音響的ゴシック度が最も高かったサード『154』に通じる部分もある...と感じたのは(それ以降の)彼らのアルバムを聴いて初めてかも?ってなうれしさを長年のファンに与えつつ、ワイアーのことをよく知らない新しいリスナーにも自信をもって(?)お薦めできる。


 『Send』リリース後、オリジナル・メンバーのひとりだったブルース・ギルバートが脱けてしまった。それは仕方ない。ただ、新しいツアー・ギタリストを加えてのライヴを数年前に代官山ユニットで観たけれど、新曲はもちろん古い曲も最高だった。今回は、そんな形で、2012年からライヴという場でワイアーに参加してきたマシュー・シムズ(ほかの3人より、30歳くらい若いらしい。だけど全然問題ない! ちなみにクッキーシーン近藤くんは、ぼくより25歳若いわけだし)が、曲作りの第一段階から関わった初めてのアルバムだという。


 なるほどね! バンドという生物に新しい血を導入することが見事に成功しているという意味で、これはギャング・オブ・フォーの(やはり素晴らしい)最新作に通じるわけだ。ワイアーの場合、それを、結成後40年近くたって初めてのセルフ・タイトル・アルバムにしてしまった...というのが、なんとも彼ららしい(笑)。



(伊藤英嗣)

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Shamir Ratchet.jpg

 音楽だけで、どこまでもぶちあがろうと試みる音楽。もっと言えば、そうした音楽のもとに人が集まるという状況自体が時代の一側面を切りとり、時には〝主張〟にもなりえるという面白さ。こうした面白さが、ポップ・ミュージックではたびたび現れる。たとえば、2008年に『Hercules And Love Affair』というデビュー・アルバムを発表した、ハーキュリーズ・アンド・ラヴ・アフェア。このユニットの中心人物であるアンディー・バトラーは、人が集まり踊ることそのものに重要な意味を見いだす持論を英ガーディアン紙で語っているが、これはまさしく、先に書いた「面白さ」に通じる。


 最近だと、Awesome City Club(オーサム・シティー・クラブ)の音楽にもそうした面白さと近いものを感じる。5人組の彼ら彼女らは、4月にデビュー・アルバム『Awesome City Tracks』を発表したばかりだが、「架空の街Awesome Cityのサウンドトラック」というテーマのもと作られた曲群を収めたそれは、できるだけ歌詞からメッセージ性を排し、音楽の良さで勝負しようとする姿勢が窺える作品だ。さらに、こうしたリアルよりもファンタジーを強く打ちだす姿勢が、聴き手の想像を誘発する余白を生みだすことに繋がっている点も見逃せない。これが結果的に、個を生かしたうえでの絶妙な距離感となり、魅力的な〝個の集合体〟を形成しているのだから。


 それではそろそろ、本稿の主役シャミールにご登場願おう。シャミールことシャミール・ベイリーは、現在20歳の新進気鋭アーティスト。アメリカのネバダ州南部に位置するラスヴェガスで育った彼が注目を集めたキッカケは、2013年にGodmode(ゴッドモード)からリリースされたEP、「Northtown」。筆者がこのEPを聴いてまず驚かされたのは、エレクトロ・ディスコを基調としたミニマルなトラックと絡みあう、シャミールの両性具有な歌声。予備知識を得ずに聴いたものだから、最初は「なんてセクシーな女性ヴォーカル!」と思っていたが、拝聴後にネットでシャミールのことを調べてみると、あどけなさを残すひとりの青年が現れたのだからビックリ。このパターン、ライを初めて聴いたときと同じである。


 そんなシャミールのデビュー・アルバムが、本作『Ratchet』だ。このタイトル、本来は〝爪車〟という意味の言葉だが、スラングでは別の意味になる。たとえば、物に対して使うと〝ダサイね!〟みたいな意味になるし、クラブに来ている女性に対して使うと、〝尻軽女〟〝自分がかわいいと勘違いしたイタい女〟というような意味合いになる。いわば、スラングで〝Ratchet〟といえば、愛と性欲があちらこちらで飛び交う夜のイメージが強いのだ。


 その『Ratchet』というタイトル通り、本作のサウンドはどこまでも享楽的で、歩く人々の目がギラギラした夜の街を想像させる。さすが、「Vegas」から始まり「Head In The Clouds」(これは〝夢心地だ〟と訳せるタイトル)で幕を閉じるアルバムである。しかし、歌詞に注意深く耳を傾けてみると、享楽的なだけではないことがわかるはずだ。「On The Regular」には引用と皮肉が多分に込められており、映画『俺たちに明日はない(原題:Bonnie and Clyde)』(1967)の題材にもなったボニーとクライドが登場する「Demon」は、どこか宗教的な世界観も滲ませている。つまり本作は、享楽のなかにシリアスな視点も紛れているということ。煌びやかなファンタジーと、さまざまな問題を抱える現実世界の混交。それこそ、「Vegas」の最初で歌われる〈Fantasy meets reality〉といったところか。


 また、リズミカルなカウベルが印象的な「Call It Off」、軽快なラップとビートがヒップ・ハウスを想起させる「On The Regular」、本作において唯一のバラード「Darker」など、多彩な音楽性が光るのも素晴らしい。バンド/アーティストでいうと、LCDサウンドシステムザ・ラプチャー、マイケル・ジャクソン、プリンス、フランキー・ナックルズ。ジャンルだと、ハウス、ファンク、ヒップホップ、ディスコ、ポスト・パンクなどなど、本当に多くの要素が有機的に接合されている。


 こうした本作の内容は、ネットを介してあらゆる時代の音楽にアクセスできるようになり、これまでの音楽史や文脈にとらわれない自由〝だけ〟を楽しむ〝広く浅い〟音楽が横溢した2000年代以降の感性だけでなく、そうした動きに対するオルタナティヴとしての〝狭く深い〟音楽とも違うものだ。本作はその両方、いわば〝広く深い〟音楽だと言える。もっと言えば本作は、〝広く深い〟ことが当たりまえな状況の到来を告げる、新世代のポップ・ミュージックになりえるということ。それほどまでに本作は、さまざまな側面からの解釈を受けいれる深さと広さが際立っている。そこにはもちろん、いろんな世代、いろんな人種、いろんなセクシャリティーが伴うし、そのことで先述した「魅力的な〝個の集合体〟」が生じる可能性も孕んでいる。これこそ、連帯をまとった自由で寛容なポップ・ミュージックというものだ。


 といったところで、よろしいでしょうか? それではみなさん踊りましょう。これからやってくる新時代の到来を心待ちにしながら。



(近藤真弥)



【編集部注】『Ratchet』の日本盤は7月1日にHostessから発売予定です。

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DAVE DK『Val Maira』.jpg

 ようこそ桃源郷へ。とろけるようなサウンドスケープと多幸感をご堪能ください...なんて、筆者がレコード・ショップの店員なら、POPに書くかもしれない。そう想わせる作品は、デイヴDKによる本作『Val Maira』だ。


 デイヴDKは、1998年にMuller Records(ミュラー・レコーズ)からシングル「Nerven」をリリースして以降、コンスタントに良質なトラックを発表しつづけるベテラン・アーティスト。ベルリンのクラブ史を語るうえで欠かせないTRESOR(トレゾア)のレジデントDJとして名を馳せたが、2000年のデビュー・アルバム『Sens Ory Overload』以降のデイヴを知る者にとっては、ミニマル・ハウスが流行っていた2000年代のドイツ・クラブ・シーンを代表するDJ/アーティストのひとり、という認識がほとんどかもしれない。


 ちなみに本作は、前作『Lights And Colours』から実に8年ぶりのサード・アルバム。これまでのデイヴは、〝クラブ・シーンの人〟というイメージがどうしても拭いきれず、近い音楽性を持つザ・フィールドギー・ボラットDJコーツェなどと比較すれば幅広い層に聴かれていたとは言いがたいが、それも本作をキッカケになくなるだろう。


 終始ストイックな4つ打ちを貫きつつ、その4つ打ちに華を添える磨きぬかれたひとつひとつの音は、聴き手の郷愁を誘発するエモーションとサイケデリアをまとっていて非常に心地よい。また、少ない音数ながら、その音を組みあわせる豊富なヴァリエーションとそれを可能にするアイディアも秀逸で、本作に万華鏡のような華やかさをもたらしている。


 ヴォーカル・トラックはラストの「Whitehill」だけだが、ただヴォーカルを入れてポップ・ソングの体裁を整えた凡庸な作品よりも、本作の曲群は歌心を備えている。耳馴染みのよいメロディーと、聴き手に寄りそう柔らかな温もりを醸すサウンドスケープ。くわえて、高揚感に満ちたトランシーなグルーヴと、ここではないどこかへ導いてくれるひとときのグッド・トリップ。これらの魅力が、言葉のかわりに歌っている(と、書いてしまうと変に思われるかもしれないが、何も〝歌〟は言葉だけの特権ではない。〝音〟に歌わせることだってできるのだ)。


 そうした魅力はクラブだけでなく、外出先の電車内、ホテル、街中、そしてベッド・ルームなどなど、あらゆる場所で味わうことができる。そんな本作をクラブ・リスナーだけのものにしておくのはあまりにもったいない。



(近藤真弥)

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パッション・ピット Kindred.jpg

 会う人ほぼ全員に言っているせいで、もはや言い飽きた気もするが、この場でもぜひ言わせてほしい。グザヴィエ・ドランの映画『Mommy/マミー』(2014)は本当に素晴らしい。まず、物語に宿る凄みが半端ない。これまでのドランは、物語のエモーションよりも、作品のスタイルが注目されがちだった。もちろん、シンメトリー、スローモーション、独白、そして後ろ姿を頻繁に映すカメラワークなど、あらゆる手法を駆使するそのスタイルは、ドランの綿密な計算と美学を感じさせる秀逸なものではある。


 しかし、そんなスタイルがあまりにもインパクトがでかすぎるせいで、ドランのパーソナルな領域が多分に含まれた作品自体のエモーションには、なかなか注目がいかなかった。それゆえドランは、〝オシャレな人が観るための映画を作る監督〟みたいに見られることも多かった。しかし、ドラン作品の根底を成すのは、現実と戦う泥臭さである。こうした側面は、自身の性に目覚めたことで周囲の人間との摩擦に悩む者を描いた『わたしはロランス』(2012)、さらには恋人の兄の暴力に服していく同性愛者をドラン自ら演じた『トム・アット・ザ・ファーム』(2013)など、これまでの作品でも垣間見れたが、その側面が『Mommy/マミー』によってやっと多くの人に理解されるはずだ。ドランは、映画史のなかでも高い独自性を持ちつつ、それを多くの人に届けられるベタな感性も持ちあわせているということが。この共生は、時に過剰なまでに表現されることもあるが、こうした過剰さもドランの人間臭さという魅力になっていると思う。


 とはいえ、表現において人間臭さは忌避されることもある。アーティスト自身の人間性と作品を結びつけたがらず、このふたつを可能な限り引き離そうとする者は、送り手にも受け手にも多い。もっと言えば、〝おまえのことなんかどうでもいい〟という人たち。


 そのような人たちにとって、パッション・ピットことマイケル・アンジェラコスの音楽はどのように聞こえるのか? 彼の音楽もまた、ドランの映画と同様、過剰さから滲みでる人間臭さが目立つ。かつて筆者がインタヴューしたとき、マイケルは次のように語ってくれた。


「僕は自己満足のために音楽を作っている」


 これは言いかえれば、マイケルのなかで作品と人間性は不可分なものとして強く結びついているということ。それは、マイケル自身の自殺未遂の経験をもとにした「Where We Belong」を収録するなど、非常に内省的な前作『Gossamer』を聴いてもわかるはずだ。いわば、マイケルの音楽を聴くということは、マイケルの内面を見ることと同義である。


 それは、本作『Kindred』でも同じだ。しかし、〝ハッピーでなければいけない〟という、一種の強迫観念を感じさせるきらびやかでアッパーな前作のサウンドと比べ、本作は少々落ちついている。シンプルなメロディーとビートが際立つ「Where The Sky Hangs」などは、これまではあまり見られなかった平穏さを漂わせる。この平穏さ、前作までのマイケルが常に全力で躁鬱の両極端を表現していたことを考えると、非常に興味深いと思う。


 ちなみに本作は、マイケルの妻に捧げられたアルバムだそうだ。マイケルは昔、妻のために(当時は婚約者)音楽を作っていたというのは有名な話だが、この原初的な衝動が本作にもある。このような衝動が再び戻ってきたことは、先に書いたインタヴューでマイケルが、「僕にとって正しい場所を見つけられたのかというと、まだ見つけることはできていない気がする」と答えてくれたことをふまえると、とても感慨深い。そう言っていたマイケルが、〝正しい場所〟を見つけられたということなのだから。そう考えると、家族団欒のなか、ひとりの子供が振りかえり今にも語りかけてきそうなジャケットは、マイケル自身を表象しているのかもしれない。だとすれば本作は、愛する妻に昔話をしながら感謝も伝える、ひとりの男が主役のラヴストーリーとも言える。当然、こうしたアルバムを作るまでには、美しい想い出だけではない紆余曲折があっただろう。実際マイケルは、「フィアンセに「今は一緒にいられない」と、別れ話」をしたこともあるのだから(これまた先に書いたインタヴューを参照)。それでも、マイケルとマイケルの妻の間にある〝愛〟は、引き裂かれなかった。なんともロマンチックではないか...。


 そういえば、映画『カッコーの巣の上で(原題 : One Flew Over the Cuckoo's Nest)』(1975)を彷彿させる『Mommy/マミー』のラストは、〝それでも愛は引き裂けない〟ことを示しているように見える。それはエンディング・テーマに、〈愛されてるだけじゃダメなときもあれば 物事が上手くいかないときもある 理由はわからないけど それが人生なの(Sometimes love is not enough And the road gets tough I don't know why Keep making me laugh)〉と歌われる、ラナ・デル・レイ「Born To Die」を選んでいることからもわかるはずだ。


 本作についての原稿を書くうえで、どうしても『Mommy/マミー』のことが頭から離れなかったのは、共に〝愛〟を描いているせいだろう。しかもその〝愛の形〟は、どこか似ている。


 それは言ってみれば、こういうことだ。美しい想い出だけの愛は、愛じゃない。泥臭くいがみあい、時には憎しみあっても消えない愛こそ、本当の愛なのだ。だからこそ、本当の愛は美化できるものではないが、希望になりえるのだ。



(近藤真弥)

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utsuroi.jpg

 クラウトロックに影響され、ポスト・パンク/ニュー・ウェイヴの嚆矢となったとされるデヴィッド・ボウイの1977年作『Low』には、ポーランドの首都名を冠した「Warszawa(ワルシャワの幻想)」という曲が収録されている。これはジョイ・ディヴィジョンの前身バンドと同名だが、一方ジョイ・ディヴィジョンはナチスの慰安所からのネーミングではないかと揶揄されている。そのナチスがおこなったホロコーストの象徴であるアウシュヴィッツはポーランド南部にあり、収容されたのはユダヤ人だけではない。劣性人種とされた人々すべてが対象であり、たとえば障害者、同性愛者、ジプシーなども連行されたという。


 ナチスによるジプシー大量虐殺について私は、『パプーシャの黒い瞳』を観て初めて知った。ジプシー初の女性詩人、パプーシャの生涯をモチーフとしたポーランド映画だ。書き言葉のないロマ語をアルファベットに置きかえて書かれたパプーシャの詩は、第二次世界大戦後のポーランド社会で認められ、演奏会で歌われるようになる反面、当時の社会主義政権のジプシー定住、同化政策に利用され、彼女は一族を追われることになる。


 そういった複雑な歴史背景ゆえか、現在の民主化されたポーランドにおける音楽シーンでは異なるジャンル、文化背景を持つミュージシャン同士の交流が盛んだ。この『Utsuroi』と題されたエクスペリメンタル・ジャズ・プロジェクトもそのひとつである。ヴァイオリン、クラリネット、チェロの三重奏から成る現代音楽ユニット、マレライ(Malerai)が異国語の響き、情緒を通して異文化を想像することをテーマに立ちあげたという。


 特に興味深いのは、かつての侵略国であるドイツのロック・バンド、カンと成り立ちが似ていること。カンが現代音楽の素地を持つメンバーに、ロック、ジャズを学んだギタリストや、日本人ヴォーカリストを加えた編成であったのに対して、本作もアルタード・ステイツのギタリストであり、ロック、ジャズ、様々なフィールドで活躍する内橋和久と、日本とポーランドのハーフである女性ヴォーカリストMaya Rを迎え日本語で歌われているのだ。さらに曲によっては、カンのようなトライバルなビート、キーボードの音色や自然音のサンプリングも加えられている。そういえば、原始的なサンプリング手法としてテープ・コラージュを取り入れたカンのホルガー・シューカイは、現在のポーランド領グダニスクで生まれ、Phew(フュー)のアルバム『Phew』のレコーディングに参加するなど、ポーランドや日本と決して縁が浅くないミュージシャンである。


 カンの音楽もポスト・パンクも、異文化の要素を取り入れながら独自の表現を生みだしたが、その中心には魅力的なヴォーカリストがいて、世界と己の間にある断絶と絶えず対峙していた。ダモ鈴木、ジョン・ライドン、イアン・カーティス、エドウィン・コリンズ、挙げればきりがない。映画『パプーシャの黒い瞳』において、ジプシー社会とポーランド社会の狭間で苦しんだ詩人パプーシャの立場も彼らに近いと思う。特にイアン・カーティスは、詩作を好む文学青年であり、少なくともバンドを始めた時点では音楽的には殆ど素人だったというではないか。


 ともあれ、そういった存在を中心に様々な文化がパラレルになり発展する。国、文化、ジャンルの違いだけでなく、歴史上の紛争、民族間の諸問題をも飛び越えていく。



(森豊和)

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A Girl Walks Home Alone At Night.jpg

 先日、映画監督デヴィッド・リンチの作品群を久々に観てみた。そのなかで、〝どうして筆者はリンチ作品に強く惹かれるのか?〟ということをあらためて考えさせられた。結論から言うと、筆者がリンチの映画に惹かれるのは、イライラさせるカッコつけがないからだ。『エレファント・マン』(1980)におけるジョゼフ・メリックがそうだったように、リンチは見せたいものをできるだけそのまま映像にしてみせる。それは一種の暴力性ともいえるセンスだが、こうした虚飾に塗れてないところは、リンチ作品が持つ魅力のひとつだと思う。


 その魅力が孕むのは、自分のなかにある風景や感情をぶちまけるという粗々しい表現欲求だけだ。だからこそリンチは、『イレイザーヘッド』(1977)でシュルレアリスムの極致を見せたかと思えば、『ワイルド・アット・ハート』(1990)ではまっすぐな愛の物語を描き、ラストでニコラス・ケイジにエルヴィス・プレスリーの「Love Me Tender」を歌わせたりもする。


 ただ、これまで世に出たリンチに関する文章などで幾度も言われているように、リンチは古典に詳しい〝知識の人〟でもある。それは『ブルーヴェルヴェット』(1986)で、ボビー・ヴィントンが1963年に発表した同名曲がフィーチャーされていることからも窺いしれる。いわばリンチは、感情という根源的な表現欲求と、その欲求を上手く形にできる教養と理性を併せ持った男だと言える。


 さて、そんなリンチの作品群を久しぶりに観たのは、とある映画を観てしまったせいである。その映画とは、イギリス出身の女性映画監督アナ・リリ・アミリプールが作りあげた長編デビュー作、『A Girl Walks Home Alone At Night』(2014)。日本では、今年9月に『ザ・ヴァンパイア 残酷な牙を持つ少女』という邦題で公開予定の作品だ。


 本作の内容は、売春やドラッグなどが蔓延る架空の街バッドシティーを舞台にした、ヴァンパイアの少女と人間の青年によるラヴストーリー。全編モノクロの映像が漂わせる退廃的な空気、さらには架空の街を舞台にすることで生じるシュルレアリスム的要素は、それこそリンチの『イレイザーヘッド』を連想させる。さらには、人間の青年に「I am Dracula」という、映画『魔人ドラキュラ(原題:Dracula)』(1931)でベラ・ルゴシが吐くセリフをそのまま言わせるあたりは、アナもリンチと同じく古典に詳しい〝知識の人〟であることを匂わせる。


 また、ヴァンパイアの少女がなぜヴァンパイアとして生まれ、人を喰らうのか、といった説明がされないのも本作の面白いところ。言葉少なめに、イメージのコラージュと最低限の音楽で語ろうとするそのスタイルは、フランスの鬼才レオス・カラックスに通じるが、アナの場合、ラヴストーリーであることが示されるシーンを途中で何度も挟むなど、観客を置き去りにしないよう注意している。


 そうしたシーンのなかで特に秀逸なのは、ヴァンパイアの少女が人間の青年を家に招きいれ、甘美な一時を楽しむシーン。このシーンはまず、ヴァンパイアの少女がムードを出すために、ホワイト・ライズ「Death」のレコードを再生するところから始まる。すると、「Death」のリズミカルなベース・ラインに導かれるかの如く、人間の青年が部屋に飾られたミラーボールを回す。


 続いてカメラは、ヴァンパイアの少女をとらえたワンショットに切り替わる。最初はヴァンパイアの少女だけを映しだすが、そこへ人間の青年が忍び寄るようにフェードインしてくる。次に、ヴァンパイアの少女は振りむき、人間の青年を視野に入れる。ここでふたりはじっくり見つめあい、抱擁を交わして口づけ...とは行かず、抱擁とは言いきれないなんとも中途半端な触れあいで、このシーンは終わってしまう。しかし、こうした中途半端な触れあいだからこそ、このシーンは観客の心を揺さぶる。そして、その揺さぶりに華を添えるのが、「Death」の歌詞にある一節。もしかするとアナは、この一節に、ヴァンパイアだとバレたくない少女が抱える葛藤を仮託したのかもしれない。


〈恐怖が僕の心を掴んで離してくれない(Fear's Got A Hold Of Me)〉

(「Death」)


 このシーンが終わると、風船を手にした謎の人物による踊りが挟まれるのだが、それがあまりにも唐突なため、観る人によっては意味不明なシーンに思えるはずだ。


 しかし、人間の青年と一夜を共に過ごしたヴァンパイアの少女が見た夢だと仮定すれば、風船の意味にも一応の説明がつく。夢占いにおいて風船は、実現が困難な願いを象徴しているそうだ。つまり、風船の夢を見た場合、その夢を見た者は強い不安やストレスを抱えているということになる。この説に従えば、風船を手にした謎の人物が踊るシーンは、ヴァンパイアの少女に潜む不安やストレスを表すものだ、とも言える。ストーリーの流れをふまえればありえなくもない解釈だと思うが、どうだろう?


 ちなみにヴァンパイアの少女は、好意を抱く人間の青年に対して、ヴァンパイアであることとは別に秘密を持ってしまう。この秘密がラストの伏線にもなっているのだが、筆者はあのラストを観たとき、〝それでも一緒にいる〟という力強さと純粋さを見せつけられたようで、見事にノックアウトされてしまった。『ワイルド・アット・ハート』のニコラス・ケイジみたいに、人間の青年はベタなラヴソングを歌いはしないが、それでもふたりが〝愛〟を信じたのは確かだ。この〝愛〟を見せられたとき、筆者は『A Girl Walks Home Alone At Night』という映画に、映画としてのスタイリッシュな魅力だけでなく、好意を寄せあいながらもなかなか結ばれない者たちのドラマ、いわゆる泥臭さを見いだしてしまった。そう、バッドシティーという架空の街で描かれている風景は、観客たちが住む現実と共振するのだ。


 こうした幻想と現実の共立は、さながら子供のころ親に読みきかせてもらったおとぎ話である。誰かの創作話でありながら、大人になってから思い知る社会的教訓が込められている、そんなお話。そう考えると本作は、変えようのない違い(本作の場合はヴァンパイアと人間)を抱える者たちが結ばれるからこそ、愛や団結は尊いということを教えてくれる映画なのかもしれない。


 とまあ、長々と映画の内容について語ってしまったが、今回取りあげたのは、『A Girl Walks Home Alone At Night』のサントラである。このサントラはすべて既存の曲で構成されており、本作のために書きおろされた新規曲はない。しかし、だからこそ、アナの音楽に対するこだわりと深い造詣を垣間見ることができる。先に書いた「Death」のように、ゴシックでダークなロック・チューンもあれば、ベルリンのフリー・エレクトリック・バンドによるテック・ハウス「Bashy」もあったりと、曲群の多彩さには驚かされる。こうなったのはおそらく、本作が〝音楽とセリフ〟よりも、〝音楽そのもの〟で登場人物の心情を語ろうとする映画だからだろう。それゆえ、ムードを統一するような選曲ではなく、シーンごとに最適な曲を選んだ。それが結果的に、多様なサントラに繋がったと思われる。


 くわえて、このサントラの多様さが、ネットを介してあらゆる時代の文化にアクセスできる現在を表象しているのも興味深い。「ムードを統一するような選曲ではなく」と先述したばかりで申し訳ないが、本作のサントラは異なるムードを持つ曲たちが集まりながらも、同時に〝ひとつの物語〟と言える一貫した流れを感じさせる。いわば、音楽史における文脈を一端剥がしたあと、音楽リスナーとしての個人史をもとにした文脈の再構築がおこなわれているような感覚。そこには再構築による歪な繋ぎ目がなく、とても自然な形でさまざまな要素が溶解している。


 もちろん、このような感覚は映画自体にも反映されているが、そういった意味で本作と本作のサントラは、2010年代の表現や文化を考えるうえで重要なヒントになる作品だ。



(近藤真弥)