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アイタル.jpg

 プロモ資料に書かれていた「2012年インディー・ダンスの核弾頭!」というフレーズを見たときは思わず笑ってしまったが、前作『Hive Mind』から約8ヶ月ぶりとなる『Dream On』は、そう言いたくなる気持ちも分かるような快作に仕上がっている。


 『Hive Mind』は、インディー側からハウス・ミュージックを更新する刺激的なアルバムだった。典型的な4つ打ちではなく、どこかズレのあるビートであったし、グルーヴも空間をねじ曲げるようなサイケデリアを生みだしていた。お世辞にも前のめりとは言えないが、ダウナー系のトリップ体験を聴き手にもたらす、言ってしまえば"劇薬"のようなアルバムである。


 それに比べて『Dream On』は、とてもアグレッシブで攻撃的だ。まず、1曲目の「Despot」からして素晴らしい。レイヴィーなヒット・サウンドから始まり、そこにデトロイト・テクノを思わせる壮大なシンセ・ストリングスがするりと交わる瞬間は、今までにない音世界にいることを聴き手に自覚させてくれる。トライバルですらあるチャカポコしたリズムを聴いていると、どうしてもデリック・メイを想起してしまうのだが、アイタルは過剰とも言えるノイジーな領域に踏みこむことで、"アイタルのテクノ"を鮮やかに獲得している。


 アルバム全体としては、4/4リズムを基本としたトラックが多い。しかし、続く「Boi」はディスクロージャー周辺のR&B色が強いガラージとも共振するスタイリッシュなトラックである。とはいえ、そこはアイタル。中盤以降はデトロイト・テクノ風のシンセ・ワークを荒々しくフィーチャーし、カオスな高揚感と恍惚をもたらしてくれる。


 このように、本作におけるアイタルは明らかにテクノ、それもデトロイト・テクノの影響を顕著に示していると思う。「Eat Shit(Waterfalls Mix)」「Enriquel」といったエクスペリメンタル・トラックにまでそれは及んでいて、特に「Enriquel」は、デトロイト・テクノをスクリューなトリルウェイヴの文脈で解釈したトラックと捉えることも可能で、さらにはインダストリアルやノイズ/ドローンも取りいれるなど、過去から現在、そして未来をも自由に行き来するフットワークの軽さは、あらゆる時代の音楽にアクセス可能となった"今"だからこそ成しえたのだと思う。「Enriquel」は、文字通り"時代の音楽"として新時代の到来を堂々と宣言しており、聴き手の感覚を拡張する新鮮なブツだということだ。


 いまだに"インディー"といえば"ロック"とイコールさせる者が多く、デトロイト・テクノも、その宇宙的イメージが言葉で語られてしまう音楽と化し、感覚的とは言えなくなってしまったが、このような数多くの硬直化を『Dream On』は爽快に打破していく。それは"インディー・ダンスのネクスト・レベル"といった狭いものではないし、もっと多くの人たち、つまり『Dream On』の衝動的ダンス・ミュージックは、音楽に関わるあらゆる人たちの意識に変革を促すアキネトン(筋肉の硬直などを改善する薬)のようなものだ。



(近藤真弥)

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踊ってばかりの国.jpg

 ふと、このアルバム・タイトルの『Flower』からして想起できるのは、1960年代中盤のフラワー・ムーヴメントになるのだろうか。USの西海岸をベースにしたヒッピー的な潮流。ベトナム戦争への否定を唱え、社会規律内での箍を外すサイケデリックで冷ややかなセックスとドラッグと刹那主義に埋もれたトライヴたちの共帯、または〈外部者〉の同一化への拒絶。


 そこでの踊ってばかりの国。08年にて神戸に結成されてから、無為とメッセージ性の狭間をときにスピッツのように、ときにたまのように、ときにフィッシュマンズのように、とにかく、「ダメになってしまう」感覚をカラフルに楽団的に奏でてきた。賑わしい外れ者たちの中指を立てた音楽の文脈に添えば、2011年に「世界」が観たいと表明してしまったスティグマはどう回収されるのか、といえば、今作にて張り子細工のモラリティに距離を置いて、隙間の多いサウンドにサックス、オルガン、エレクトリック・ピアノ、ファズ・ギター、ホーンの編み込み方にも「メッセージ」が浮き立つように為されながらも、より緻密に至り、カラフルでポップなダウナー性に収斂している。ハバナ・エキゾチカのアルバム名と同じバンド名を付したとき、その後のサーカズムと怜悧なインタビュー内容を読むにつれ、彼らはアシッド・フォークでもなく、楽団的様相を高めてゆくのでもなく、多くのサウンド・エッセンスもとても「ポップ」に嚥下してゆく速度が気になった。


 予め整理しておこう。この約1年振りとなる新しいマテリアル、『Flower』では、下津光史(Vocal,Guitar)、林宏敏(Guitar)、柴田雄貴(Bass)、佐藤謙介(Drums)のメンバーに、キーボードとして中村圭作、ホーン・セクションで加藤雄一郎、柿沢健司、小池隼人という気鋭を招き、前作のセカンド・フル『世界が見たい』からの流れを踏まえながらも、より立体性とバリエーションが増している。サード・ミニ・アルバムという位置付けはされているが、8曲を通して得られる感覚は十二分に重みがある。


 リードとしてPVも公開された冒頭曲「話はない」では、露骨な立て看板とセピア色を通り越したどうにも言えない色味の中、彼らは骸骨、すすき、残像、それらを引き裂くギター・パート、終末観が漂いつつも、《戦争が終わったことを知らせてほしい》と投げかける。サウンドも後半に向け、分厚く重ねられていきながらも、サイケデリックに6分ほどの時間をリープする。そこには、いつかのアニマル・コレクティヴも今のグリズリー・ベアも追いつけないドメスティックな村八分的なフレームから外れた美意識が添えられている。2曲目の「シャンソン歌手」にしても、ボ・ガンボスからソウル・フラワー・ユニオンの血脈を受継しつつも、まったくミュータントとしてジャジーさにサイケ、フォークを攪拌して、シャンソン歌手を夢見て飛び出した女の話を巡って、権謀術数渦巻く夢や恋に汚れてしまう様を軽快にエレガントに筆致する。インタルード的前奏からの「tonight」は夢うつつのバック・ビート下で《僕は死なないなんて言える 平和ぼけ ラスタマン》と言ってしまう。下津のアンニュイなボーカリゼーションも緩急自在になり、表情が豊かになり、バックを支える音も語彙が増え、一聴、「coke」などはとても多くの人に耳に届くポテンシャルもある。


 振り返れば、2010年にリリースされたワンコイン・シングル、カントリー調の軽快な「悪魔の子供」のPVでコメント欄に、かわいい歌や初期フィッシュマンズが動画配信サイトに寄せられていたのを考えると、踊ってばかりの国とは一種のネオテニー性があるのか、とも思うが、個人的にカジュアルで甘い佇まいを装いながら、ささやかな服毒を迫る文脈としてますます日本の中では異質なバンドになっている気がする。


 ダメに"なる"こと、から、ダメに"させる"ことへの転換の兆候がこの『Flower』に見える。彼岸感を潜航させる「Hey-Yeah」、辺境音楽への目配せ、具体的にザ・ポーグスなどの影響を血肉下し、パンキッシュに雪崩れる「切りがない」といい、2011年の多作の反動ゆえか、今年はこうして作品の細部を作り込みながら、聴き手の余白と想像力に対しての容赦のない言葉をぶつけるというのも分からないでもない。そして、最終曲である「セシウム」。陽炎が立ち昇るような向こう側で、フリーク・フォーク的にふわふわとした世界観が浸食してゆく。


《ロックバンドは古い クラブシーンが熱い

息一つする度にセシウム溜めて生きるだけさ》(「セシウム」)


 果たして、捨て鉢の極北のニヒリズムの彼岸から踊ってばかりの国は巷間に供花を投げようとしているのか。そう捉えられるかもしれない側面もあるが、個人的には違うと思う。作品を重ねるたびに濃霧がかかりながらも、くっきりとした彼らの輪郭がそこに視えるように、今の日本のシーンで確実に沈みゆくリアリティを、新しく増えてゆくサウンド・ヴォキャブラリーでストーンドし、そのストーンドした感性に真正がときに含まれることがあるからだ。


 なお、誤謬があったかもしれないことを最後に記しておく。フラワー・ムーヴメントとこの『Flower』を繋げるべきではなかったかもしれない。ベトナム戦争と今の戦時下は違いすぎる。そこでの踊ってばかりの国の今作は、同時代性の真っ当なアンモラルを貫く。



(松浦達)

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 本作『Live at VACANT [ONE, TWO, THREE]』は、プロデューサーとしての顔もあり、約25年のキャリアを持つシンガー・ソングライターである高野寛のライヴ作品だ(ボブ・ディランやはっぴいえんど等のカヴァーを収録)。震災後の日本にあって、「なるべく電気を使わずにライヴをやりたい」という本人の意思で、ヴァイオリン、パーカッション、高野寛のアコースティック・ギターからなるトリオ編成のアコースティック・ライヴとなっている。一言で言ってしまうと、素晴らしい。臨場感に溢れている。


 音数が少ないがゆえに、高野寛のメロディー・メイカーとしての資質が浮かび上がっているのはもちろんのこと、トリオ編成の音の会話がすごく良い。片方が句を詠み、片方が返歌を詠うような絶妙なやりとりが繰り返され、演奏の熱は徐々に高まっていくのだけど、「このあたりで抑えましょう」という阿部美緒のヴァイオリンがすっと入ってくるという凛とした感じ。こういった音の会話が楽しく、面白いし、吐息や深く息を吸い込んだときの間、細かなニュアンス、喜怒哀楽、香りのようなものを高野寛のギターと歌声が醸し出していて導かれるように聴き入ってしまう。


 リラックスした表情が目に浮かび、鳴っている音のすべてはスタジオ録音作品以上に楽しみの心地を抱えながら豊かに飛び跳ね、渋味と甘味を交差する高野寛の歌声は、滑らかなメロディー・ラインに沿って流れていく。それらはとても温かいのだ。聴いていると高野寛の笑顔が見える。観客の笑顔も見える。本作を聴いている聴き手の笑顔さえ見える。それは素晴らしいことだと僕は思う。


 高野寛は常に音楽で自分を飾ることはしなかったし、装飾過多な歌詞で自分を大きく見せることもしなかった。雰囲気のように音楽を身にまとい、丁寧に温かく音の一つひとつを鳴らしていく。そこにはまるで音が話しかけてくるような感覚があり、音が肌に触れるほどの親密性が人と人とを繋いでいく。


 それは熟練の味とは少し違う。どんな演奏だろうと、何を歌おうと、気取ったところも妙に落ち着いたところもない、聴き手を笑顔にしてしまう「高野寛の味」だ。そして自然と生まれる手拍子、コール&レスポンス。本作を聴いて実際にライヴ会場にいる気持ちになるリスナーは僕だけではないはず。むしろこの作品は、リスナーも含めて初めて音楽は成り立つんだ、というドキュメントだ。


 そうして手拍子が続く中で、高野寛は社会についても歌う。


《どれだけデモが続けば / 静かに眠れるの?》

《どれだけ人が死んだら / 悲しくなくなるの?》(「風に吹かれて」〈COVER〉)


 デモが続いても動かない政府への提言。多くの人が亡くなれば亡くなるほど、悲しさを超えて絶望に変わることへの不安。ここには絶望論を好まない高野寛の姿勢がある。


 社会的な歌詞が歌われても、僕には本作から希望と言っても差し支えないポジティブな光を感じる。それは高野寛自身が現状を受け入れ、音楽という光によって社会の暗部をあぶり出したうえで未来を見ていると思うからだ。電気を使わない全編アコースティック・ライヴという、これからのスタンダードになる可能性を持つ本作は音楽のひとつの未来を照らしている。


《足跡を残してやる》(「君住む街へ」)


 今、高野寛は、「高野寛」という足跡を残せる境地にいる。



(田中喬史)



【編集注】OTOTOYにて配信中



photo by Masahito Ishibashi

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YoungSmokeSpaceZoneweb.jpg

 すごく奔放な作品だ。何度聴いても失われないフリーキーなアトモスフィアとグルーヴ。ジューク/フットワークを基調としながらも、その音楽性はIDM、さらには《UR》周辺のシリアスなテクノも射程に捉える、すごく多様的なものである。


 昨年『Flight Muzik』をリリースしたDJダイアモンド率いる《フライト・ミュージック》に所属するヤング・スモークは、ジューク/フットワーク界で大きな注目を浴びる若手のアーティストだ。


 そんな彼が《Planet Mu》からリリースしたのが『Space Zone』。《Planet Mu》といえば、今年4月にトラックスマン『Da Mind Of Traxman』という名盤をリリースしているが、トラックスマンがシカゴ・アンダーグラウンド・ミュージックの歴史に根ざした精神で音楽を生みだし、ある種の土着性を醸しだすとすれば、ヤング・スモークは、あらゆる時代の音楽にアクセスできるようになった"今"の恩恵に授かったような音を鳴らしている。


 全体的にメロディアスで、ジューク/フットワークの枠を拡張するというよりは、その枠をできるだけ取っ払い、あらゆる音楽的要素を飲みこもうとする雑食性こそ、ヤング・スモークの本質のように思える。モダンな要素を取りいれつつも、シカゴで育んできた自身の音楽に誇りを持ち、聴き手を引きずりこもうとするトラックスマンと比べれば、ヤング・スモークは幾分聴き手に歩み寄るところがある。


 もうひとつ、ヤング・スモークの若さを感じさせるのは、飲みこんだ音楽的要素を繋ぎあわせるセンス。先述したように、本作は多様な音楽性に満ちた作品だが、ジューク/フットワークのルーツであるシカゴ・ハウスから続く歴史の延長線上ではなく、例えばオールド・スクール・エレクトロの文脈でジューク/フットワークを鳴らしたクエド『Severant』のように、新たな解釈でもってジューク/フットワークを鳴らそうと試みた節がある。このようなアプローチは、クエドやマシーンドラムなどシカゴ以外のアーティストならではの傾向だと思っていたが、シカゴのヤング・スモークがそれを選びとるのは、とても興味深いと思う。


 そしてタイトルの『Space Zone』、それから"AstronautSmoke"というツイッターのアカウント名("Astronaut"は宇宙飛行士を意味する言葉)などから察するに、ヤング・スモークは本気で宇宙を見ているようだ。正直本作は、過去のトラックを集めたアーカイブ的側面もあるだけに、タイトルも冗談半分だと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。シカゴといえば、宇宙について説いた偉大なるサン・ラがいた。このあたりに、ヤング・スモークに流れるシカゴの血を嗅ぎとってしまうのは筆者だけだろうか。



(近藤真弥)

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 男女4人組のロック・バンド、昆虫キッズに「あと一歩、あと一歩だった」なんてものはないんだよ。次があるって? 冗談じゃない。彼らは今しか鳴らせない音楽をやり続ける。次を待つ守りの姿勢なんて丸めて窓から投げ捨てた姿が昆虫キッズであり、強く打ち鳴らされた瞬間に命が宿り、飛び跳ね、ぶつかり、駆け回るのが彼らの音だ。哀感と躍動の色が濃い音の全てが我先にとばかりに飛び出てくる。つまり、人畜無害な音はない。刺がある。


 今、日本には素晴らしいライヴをやるロック・バンドが3組いる。ズボンズ、ザゼン・ボーイズ、そして昆虫キッズだ。サード・アルバムとなる本作『こおったゆめをとかすように』。それはとびきりスパイスの効いた音楽でもある。ここには何気ない日常も平凡な日常もない。彼らは不満と希望と欲求で汗まみれになった日常を受け入れる。その全てを呼吸する。哀感の歪みをグルーヴとシャウトに近い歌声、女性コーラスと音響によって表現し聴き手の体温を穏やかに上げさせる。どこまでもしなやかに伸びていくメロディはさらに聴き手を静かに昂ぶらせ、重力が揺らいだような目眩をもたらすサウンド構築と変拍子もきまっている。強烈なスパイス。それは絶妙。


 豊かな技巧に裏打ちされたドリルンベースのようなドラム、飛び交うベース、叫ぶギター、ピアノの静謐な鳴り、迫力のある歌声、それらは別々の方向を向いているように思えるが、しかし、昆虫キッズという球体の中で、はみ出しそうではみ出さない勢いで飛び交いながら一体となり、聴き手を押し切るスリルがある。曲によってはダンス・ビートや現代音楽の要素、ハードコアの要素を交えていたり、突如ソニック・ユースのようなノイズを忍び込ませているところもあるのだが、それらが全く違和感なく、眠りに落ちるほど自然に溶け込んでいるところから彼らの成長が窺えて嬉しい。のもとなつよのコーラスはフルカワミキや元ムームのクリスティン以上だ。


 歌声も含めて衝動だけには頼らない音には達観した表情があり、気持ちに突き刺さってくる鋭さをもってして、ある種の毒として染み込んでくる。彼らはいつだってリスナーと向き合おうとする。向き合わなければ鳴らせない音楽があることを知っている。それは目眩、歪みであり、ロック・ミュージックの希望として受け取れる。彼らは掛け声だけの希望を投げつけることなど絶対にしない。聴き手の内部をえぐるような音と歌声と歌詞は時として僕らが漠然と思い描いていた正当なバランスを失わせる。いや、この気持ちをえぐられるような感覚が昆虫キッズの音世界であり、僕らに見えていなかった正当な現代の景色なのだ。


 本作での彼らの姿勢は「裸足の兵隊」で歌われる《太陽さんはあなたの影を作ってくれる》という歌詞に端的に表れている。この作品は雲の上から顔を出した太陽であり、聴き手である自分の影の存在に気付かされるものとしてあるのだと。震災についての曲もあり、あらためて僕らの気持ちをえぐり、影をあぶり出すものとしてある。聴いていると本作が持っている重みがずっしりと伝わってくるんだよ。生ぬるさの一切を排除した、現実という地に足をつけた彼らの真摯な気迫が。僕らも自分の足で立たないといけない。その思いが強く沸いてくる。本作は聴き手を行動させる。


 それは希望だ。昆虫キッズが鳴らすロック・ミュージックには未来を先延ばしにする音などなく、知性と獰猛性、文学性と危うさと儚さを瞬時に吸い込み、吐きだし、希望にしてしまうという、不変ではない人間の本質を突いた音と歌詞がある。それが素晴らしい。前作『Text』よりも哀感があり、幻想的な音響を排除したのは、勢いだけで聴かせたくないという思いと、真摯に音と言葉を受け取ってほしいという気持ちの表れなのだろうし、今を切り取った本作は、まさに今聴いてほしい作品だ。


 この間、ネット上をうろついていたら「ロックのダイナミズムを取り戻したい」という言葉を何度か目にした。「取り戻す?」、それは違うだろと僕は言いたい。取り戻さなくても、今、ロックはダイナミックにうねっている。嘘だと思うなら今すぐ本作を聴き、昆虫キッズのライヴを観に行くべきだ。今のロックのダイナミズムが鳴っているのだから。



(田中喬史)

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 彼らのサウンドはデビュー時からだんだんと変化を遂げている。とくに「Teenage Icon」の呟くようなボーカルなど、喉の手術の影響もあったりするのだろうか、と考えてしまった(最初は喉に悪そうな歌い方してたもんね)。そのほかにもファースト以上にロック/ポップスのクラシックに忠実な曲が多い。


 また、彼らはインタビューで「良いギターバンドが少ない」と嘆いていた一方で、ファーストが初登場全英4位に輝いたときにラッディズム復権の象徴として祭り上げられたことに嫌悪感を示した。つまり自分たちの果たすべき役割に意識的でありながら、どこか特定のポジションに収まってしまうのを避けていたことが、今回のセカンドの作風に色濃く影響として出ているように思う。つまり前作よりもそれぞれの曲のバリエーションがカラフルで、メロディーはクラシック。ギターのフィードバック・サウンドを基調として、どこか薄暗い雰囲気を漂わせていたファーストよりも、だいぶアメリカっぽい。彼らはその風貌とファッションこそいかにもイギリスの若手ギター・バンドだが、サウンドはじつにアメリカンなのだ。


 歌詞も相変わらず素晴らしい。例えば年齢を重ねることの無為さを歌った「No Hope」のPVでは、上下デニム姿の少年が大人の女性に愛を伝えようとするがあっさり打ち砕かれてしまう、という青臭くも爽快なストーリーが展開されているが、これってなかなかおもしろい。だって、歳をとって絶望的な気分になっているのはヴァクシーンズのメンバー(というかリリックを書いているジャスティン)のはずなのに、PVではまだまだ希望に満ち溢れている少年が描かれているのだ。それはつまり、歳をとれば何かに失望するほどの期待もなくなってしまうんだよ、ということだろうか。


 「Teenage Icon」は「おれに期待するな、おれは誰のヒーローでもない」という趣旨のリリックだが、それもやはりリアルでストリートな表現を続けるために、誰にも特別視されなくない、という心の叫びだと思う。つまりヴァクシーンズというバンドはどんなに売れようが、大規模なフェスのステージにあがろうが、"イギリスの若者"であるという現実を捨て去ろうとはしない。むしろ、そのカルチャーに愛着を持っているからこそ、オーディエンスも彼らに熱狂するのだ。


 僕は誰がどう見ても日本人で、イギリスの若者の現実も連帯感もカルチャーも、何も体感することなく育ってきたけれど、彼らの歌詞の背景にある"情けなくも愛おしい現実"には心の底から共感してしまう。前に取材したとき、ギターのフレディーが「ジャスティンの書く歌詞はユニバーサルなものだと思うよ」と話していたけれど、ほんとうにその通りだ。それに、フレディーが弾くギターだってユニバーサルなものだ(あれってティーンが「ギターってどんな音?」と訊かれて思い浮かべる、まさにその音だよね)。


 ヴァクシーンズのセカンドはファンがファンであることに誇りを持てるような、実直で素直な作品だ。大騒ぎするような内容ではないと思うけれど、彼らはオーディエンスとの結びつきを強くするようなセカンド・アルバムを選んだんじゃないかな。もし今度取材する機会があれば、そのときも「おれは君たちの曲が大好きでね」という話から始めたいと思う。



(長畑宏明)

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DAVID BYRNE & ST. VINCENT.jpgのサムネール画像

 ショーン・ペンがザ・キュアーのロバート・スミスにそっくりなロック・スター、シャイアンを演じて話題になった映画『きっと ここが帰る場所』で印象的なシーンがあった。ある出来事をきっかけに音楽業界から身を引いて生きることを選んだシャイアンは、逆立てたヘア・スタイルと白塗りメイクの下に感情を押さえ込んだまま日々を生きている。


 そんな彼が旧友デヴィッド・バーン(本人役)のライヴを見て、ついに感情を爆発させる。演奏されていた曲は、映画の原題にもなっているトーキング・ヘッズの「This Must Be The Place(Naive Melody)」。シャイアンは終演後のデヴィッド・バーンとの再会で、彼がなぜ「音楽を諦めた」のかを涙ながらに打ち明ける。この後、ストーリーが大きく展開する重要なシーンだ。けれども、デヴィッド・バーンは気の利いた台詞でシャイアンを励まそうとはしない。子犬のように澄んだ眼差しで小首をかしげるだけだ。白髪になってもスタイリッシュで、人々の感情を揺さぶる音楽を作り、飄々と歌い続けるニューヨーカー。そして、そんな彼にすがりつく元ロック・スター。その対比は図らずもデヴィッド・バーンの本質を表しているようにも見えた。彼は「音楽を諦めた」りはしない、ということを。フィクションであるにも関わらず、僕はこのシーンを見てトーキング・ヘッズの再結成はもう絶対にあり得ないだろうな、と思った。


 話を現実に戻そう。やはりデヴィッド・バーンは、ファンやミュージシャンからのリスペクトを生半可な言葉や中途半端なトリビュートで済ませようとはしない。2002年にリリースされたX-Press 2との「Lazy」では、(まだ客演という感じだったけれども)ストリングスを織り込んだダンス・トラックとの相性の良さを見せつけた。これがきっかけだったのかもしれない。


 2004年のソロ・アルバム『Grown Backwards』でのルーファス・ウェインライトとの共演を始め、様々なミュージシャンとのコラボレーションを活発化させていく。2008年には、1981年の『My Life In The Bush Of Ghosts』以来となるブライアン・イーノとの共演作『Everything That Happens Will Happen Today』をリリース。このアルバムは、「もしもイーノが『Little Creatures』から『Naked』までの後期トーキング・ヘッズをプロデュースしていたら...」なんていう、僕みたいなファンのちっぽけな思いを吹っ飛ばすサバービアな歌ごころ(ゴスペルだよ!)が溢れる大傑作だった。そして2010年には、フィリピンのマルコス元大統領夫人だったイメルダ・マルコスのとんでもない生き様を描いたコンセプト・アルバム『Here Lies Love』をファットボーイ・スリムと合作。シンディ・ローパー、トーリ・エイモスからフローレンス+ザ・マシーンのフローレンス・ウェルチまで、多彩な女性シンガーたちが個性豊かな歌声を披露してくれた。


 90年代~00年代を経て、現在も日増しに大きくなっていくトーキング・ヘッズの姿なき存在感。その影響の大きさは近年のブルックリン・シーンを語るまでもなく明らかだ。そして、その影響から最も逃れることができなかったのが、デヴィッド・バーン本人だったのかもしれない。長い時間がかかったけれども、彼はリスペクトさえも新たな音楽のインスピレーションとなることに気付いたのだと思う。コラボレーションというアイデアを真っ正面から受け止めることで、00年代以降の彼のキャリアは新たな充実期を迎えている。


 そんなデヴィッド・バーンが今回のパートナーに選んだのが、先述の『Here Lies Love』で既に共演を果たしているセイント・ヴィンセントことアニー・クラーク。さっそくPLAYボタンを押して、1曲目の「Who」に耳を傾けると...。高らかに鳴り響くホーンが一瞬、トーキング・ヘッズのラスト・アルバム『Naked』を彷彿とさせるけれども、デヴィッドの歌声に寄り添うアニーの凛々しいコーラスがその印象を鮮やかに塗り替えていく。2曲目の「Weekend In The Dust」は、アニーがリード・ヴォーカル。軽やかに跳ね回るエレクトロ・ビートと表情豊かなブラス・バンドの絡み合いが新鮮だ。今作でホーンと同様にサウンドの核となっているビートのプログラミングを担当しているのは、ジョン・コングルトン。クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーの復活作『Hysterical』をプロデュースしたことも記憶に新しい新進気鋭の才能だ。彼はセイント・ヴィンセントの最新作『Strange Mercy』のプロデュースも手掛けている。3曲目の「Dinner For Two」では、ザック・コンドン率いるベイルートからケリー・プラットがアレンジャーとして参加。ベイルートではトランペット、フレンチ・ホルンなどをプレイするケリーは、ブライト・モーメンツ名義でのソロ活動やパッション・ピットの『Gossamer』への参加など、活動の幅を広げている期待の若手。ブライト・モーメンツのデビュー・アルバム『Natives』をデヴィッドのレーベル《Luaka Bop》からリリースしたという繋がりがある。


 デヴィッド・バーンは、これからのシーンを担うミュージシャンたちに囲まれながら伸び伸びと歌う。ジャズ、ファンク、ニュー・ウェイヴからクラシックまで自在に飛び越えるブラス・バンドのサウンドが様々な情景を色鮮やかに描き出す。アルバムのタイトル『Love This Giant』は、夏目漱石が日本に紹介したアメリカの国民的詩人、ウォルト・ホイットマンの詩「ぼく自身の歌(Song Of Myself)」から引用された。


《I Behold The Picturesque Giant And Love Him, And I Do Not Stop There, I Go With The Team Also. (見よ、絵画のような巨人を。そして、彼を愛せ。ぼくはそこで立ち止まらない。ぼくもこの仲間たちと行く)》(ウォルト・ホイットマン「ぼく自身の歌」第13篇:筆者訳)


 イギリスからの独立後の大きな経済発展や南北戦争など、激動する19世紀のアメリカを舞台に自然と社会、そして人間性そのものを描き続けた詩人ホイットマン。彼の綴る"Giant"という言葉には、(この一節は、黒人がモティーフにされているけれども)人間を取り巻く"すべての大きな存在"という意味も込められているのだと思う。デヴィッド・バーンは9曲目の「I Should Watch TV」で、その言葉を引き継ぐ。トーキング・ヘッズの『Little Creatures』に収録されていた「Television Man」を思い出させる曲名だ。「世界が、僕のリヴィング・ルームに崩れ落ちてくる!」と叫んでいたあの頃から、相変わらずな皮肉を込めながらも「Love This Giant」と歌える現在へ。テレビやインターネットを通して見渡せる世界、手に負えない自分自身の感情、過去と未来、理想と現実、自由と束縛。ゆっくりと歩みを進めて辿り着いた場所で、デヴィッド・バーンは《That's Me And I Am This》と嘯いてみせる。いまも「音楽を諦めた」りはせず、「ぼく自身の歌」を歌い続けながら。


(犬飼一郎)

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デデマウス.jpg

 2012年のデデマウスの動きは鮮やかであり、少しの突発さと過剰さも孕んでいた。会場限定リリースの「faraway girl」EP、プラネタリウム・ツアー以外での沢山のフェス、イヴェントへの積極的な参加。更に満を持して、フル・アルバムとしては2年半振りとなるこの『Sky Was Dark』は新しく立ち上げられる〈not records〉からの第一弾となる。創作のイメージとなったという"ニュー・タウン"が近未来的なデザインで描かれたジャケット。個人的には、そのジャケットからは香港の街を歩いた時に迷い込んだときのようなカオティックな印象も受けた。


 ニュー・タウンそのものは、郊外論として捉えられるとき、概ね批判対象になることが多い。居住者と来街者のトレード・オフ、商業施設の老朽化、交通の利便性、高齢化、リデザインの問題。また、ニュー・タウンはときに無機より、静かに寝息を立てる生活と、新しい予感と緩やかに寂れてゆく、そんな幾つもの連想を産むこともある。都市を離れて、空気感の変わる感じ、同時に、不思議なSF感。今回のみならず、デデマウスは「多摩」に着想を多く得ている。


 サード・アルバム『A Journey To Freedom』でのジャケットにはアレンジされた多摩モノレールが映っており、多摩センターに来た際に必ず訪れるというパルテノン多摩という複合文化施設への興味もインタビューなどで示す。周囲を緑が覆う80段の階段、8本柱のパーゴラ、名前のとおり、パルテノン宮殿をモティーフにした特徴的な場所。このアルバムも編曲され、パルテノン多摩内のサウンド・タワーで決まった時間になると流れるという形式を取るなど、コンセプチュアルな打ち出され方をされている。ニュー・タウン、そのどことなく停まった時間、それでも、静かに流れる情景、それらをベースに時間論として『Sky Was Dark』が描き上げる世界観はたおやかで麗しく、それでいて、どこか破綻と翳りも含む。


 8分半の1曲目「floats & falls」から電子音の柔らかい手触り、レイヤー、例のカット・アップされたサンプリング・ヴォイスがじわじわと意識を柔らかくほぐす。緻密に構成された展開、アンビエントやチルアウトではない、独特の浮遊性。引き続き、これまでの作品群のムードと違っているのが分かる、8分近い「bubble marble girl」ではユーフォリックでキラキラとした電子の粒が跳ねる、とてもチャームな曲。デデマウスの持つマジカルで、稚気と寓話性溢れる側面が凝縮されていると言ってもいいかもしれない。「flicks tonight」、「fading tonight」の並びでは"今夜"が付されているとおり、夜が持つ全能感と不気味さ、そういった二律背反的なものが夢うつつに弾ける。童謡のような「sky as dark」はタイトなメロディーの美しさと、織り込まれた音の数々といい、息をのむ。


 後半へ向けて高速のビートがそれまでのたおやかな世界観の色を変える6曲目「sky was dark」辺りから、時間をテーマにしたという彼の意図がより明確に見えてくる。ベッドタウンに仄かに漂うタナトス、「faraway girl」EPに宿っていた彼岸性や夜、幻、夢、混濁しながら生成される音風景。そもそも、時間を知る際は意識で把握しようとしても、直截的にこれが時間だ、というのは分からず、間接的に「変化としての時間」を知り、追いつく。だから、常に時間は一定的な速さを持つのかというと、時間辺りの変化量との相関性を考えてみれば、そうでもなく、現在のみを意識しながら、現在はなく、その時点で「過去」になっている。ゆえに、『空は暗かった(Sky Was Dark)』というタイトルは、追憶としての暗い空を現在のデデマウスが遡求した結果の下での彩りが強くなるのは当然で、前半の風雅さを逆回しするように、8曲目の10分を越える「star appears」にて不整脈的に挟まれるブレイクビート、また、例えば、エイフェックス・ツインやクラークが静と動、狂気と正気の瀬戸際で醸し出す得も言われぬ美しさ、そういったものにも近い、綱渡りのようないささか不穏な混乱とノイズが表出するのも興味深い。そのまま、9曲目の「my alone again」。淡々とした中に、寂寥が滲む。11曲全体を通し、『Sky Was Dark』の輪郭、物語はなぞられ、耳で視る大人のファンタジーのようなサウンド・トリップは終わる。繊細な美意識に支えられた、デデマウスとしては完全にネクスト・フェイズにいったと思える彼だけの音に溢れている。そこに、聴き手は少しの想像力を持ち込めば、自然と空は澄むだろう。



(松浦達)


【編集部注】10月17日リリース予定

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カナタトクラス「クウシュの夢」レビュー.jpg

 楢原隼人(作編曲/ギター)、寺島慎吾(ヴォーカル/歌詞)、楢原あゆみ(シンセ/コーラス)の兄妹+同級生によって、2009年1月に結成されたカナタトクラス。カナタトクラスの音楽を形容する際の言葉でよく見かけるのが、"ポスト・シティー・ポップ"や"10年代のタウン・ポップ"などで、いわゆる"街/都市"がよく用いられる。


 "ポスト" "10年代"と言うからには"以前"もあるわけだが、カナタトクラスの音楽をより深く理解するには、"ポスト" "10年代"以前である"かつてのシティー・ポップ"について、簡単に述べておかなければいけないと思う。


 "かつてのシティー・ポップ"には、身近な日常的風景、それこそ住んでいる街や行きかう人々、そして周囲の友人や家族など、これらをユーモアな視点から描くことで、"小さな物語"を生きようとする意志の強さがあった。目の前の平凡な風景から面白いと思えることを見つけ、マジョリティーに怯まず、マイノリティーであることをポジティヴに捉える。そうすることで"かつてのシティー・ポップ"は、社会が要請する"常識"や"正しさ"に囚われない自由な空気を生みだすと同時に、"大きな物語"になじめない者たちにとっての"抵抗"を担う側面もあったのではないか。


 しかし、"大きな物語"なき今、"小さな物語"を生きるしかないという"選択の余地なし"な現状があるのもまた事実であり、これが現代に漂う閉塞感と孤独感の一因と化してしまっている。だからこそ、資本主義の恩恵に授かる中流層の風景を煌びやかに浮かびあがらせた一十三十一『CITY DIVE』が、哀しみと希望が複雑に入りまじった切実さとして響くのだろうし、アベック・アベック(Avec Avec)「おしえて」や転校生「東京シティ」といった曲も、いささか抽象度は高いものの、"街"に対する憧憬を顕在化させている。


 これらのポスト・シティー・ポップにある共通点はファンタジー、つまり、届きそうで届かない"幻想"が通低にある。"大きな物語"には戻れず、かといって"小さな物語"は息苦しさをもたらすのだから、新たな白いキャンバスとして"幻想"を掲げるのは、必然だと言えるだろう。現実を超越するのは常に想像力ということだ。そう考えると、ポスト・シティー・ポップの"幻想"が目指すものも見えてくる。それはズバリ、未来である。そのために"幻想"は、"小さな物語"という名の壁を壊すことに執心する。


 カナタトクラスもそういう音楽、ポスト・シティー・ポップである。幽玄なサイケデリアを演出する甘美なギター、抽象と具体の間を絶妙に突くリリシズムは、現代を生きる我々の心に表れては消える瞬間的感情や刹那を描写しようと試みる。この試みはおそらく、カナタトクラスなりに普遍と共感を獲得するためのものだろうが、"愛してる" "好きだ"のと繰りかえし叫ぶだけのオウム・ソングにならないのは、人はそう単純な生き物ではないこと、そして心は複雑なものであることを、カナタトクラスは知っているからでもある。


 決して冷めているわけではない、しかし、あまりに直線的な歌では多くのものを掴み損ね、結果として排他的になってしまう。カナタトクラスのクールで甘い歌は、そこに細心の注意を払っているように聞こえる。できるだけ多くの"小さな物語"を救いあげ、線にして聴き手に提示することで、カナタトクラスは閉塞感と孤独感を打破する。いわば"肯定"こそが、現代においてはもっとも効果的な"抵抗"であると、カナタトクラスの歌は告げているのかもしれない。ついでに言っておくと、そんなカナタトクラスの歌に機微として背後にあるのは、小沢健二だと思う。



(近藤真弥)

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希望の国.jpg

 忠実な者とは喪のうちにいる誰かである。喪は死せる他者の内在化であり、しかし、それはまた、その反対物でもある。ゆえに、喪を完遂することの不可能性と、さらには喪に服さないという意志さえもが、ともに忠実さの形式なのである。(哲学者ジャック・デリダの言葉より)


 愛的何かというものに何面体かの反射があるとして、それは失ってしまったと(思われる)過程を大切に胸の中に抱えておくようなものを照らすのか、現実を許容していきながら、深い自戒を敷くものに添うのか、これからを予知夢的に仮構化して、青田刈りしていくものなのか、という文脈に沿えば、園子温が近年に向き合ってきた暴力と夥しい血は生きるための愛的な何かと共振してくるのかもしれない。北野武の映画での暴力が突然と、虚無を意味するのと違って、彼の場合はもっと皮膚感覚の内側にへばりつく。


 例えば、『冷たい熱帯魚』での容赦のない悪には理屈や説明付与が不可能なように、『恋の罪』での人間の深いカルマ、血脈に呼応するように、『ヒミズ』での舞台が急遽、被災地に変えられ、原作の漫画とは異たるものになりながら、どうしようもない現実に若い二人が翻弄されるように、ときに過激に、誠実に細部に降りてゆく。彼の撮る映画の過剰さは、最初から無的な何かと併走していないからだと思う。


 更には、埼玉愛犬家連続殺人事件、東電OL殺人事件など実際の事件をモティーフに世代、性差を越えて、登場する人たちは忠実に目の前の現実のエアポケットにはまってしまう。基本、どの登場人物もどこか破綻していて、また、至極、真っ当で、狂っている。言わば、観念的でアート志向でスタイリッシュな、逆に意味ばかりの映画へのアンチ・テーゼを越えた、メタ的な身体性。含みを推し量ろうとしても、画像には不気味に醜態を晒す人がそこに居るのみで、それによって、感知者は鏡としての他者をスクリーンに観るが、そこでの他者の鑑により「私」の断片群が模擬統合されそうな錯覚に陥ることもある。つまり、現場には居ない、自分とは無縁である、という意識が前景化しながらも、プログラム的に内在するかろうじての共通観念を編み上げたときの、受け手の認知を周到に刺激する。


 この『希望の国』は、『ヒミズ』の際に想像できたかもしれない、ダイレクトに、東日本大震災から数年後の日本、しかも、架空ながらリアルにある被災地を巡ってナラティヴが進められる。酪農を営んでいた夏八木勲演じる小野泰彦と大谷直子演じるその妻、恵子を軸に、悲しくも人間の逞しさが浮き上がる。親密な家同士を分かつ避難区域の「線」。線とはつまり、「国境」であり、絶対性でもある。その「絶対性」を内破し、息子夫婦には避難させ、自らはそこに残る。更に、見えない放射能の不安がじわじわと人たちを侵食してゆく様子。現実に肉薄するほどに逃れることのできない難題、差別、収拾のつかない少し先の未来が入り込んでくる。


 ただし、あくまで、彼は最小単位の「家族」にフォーカスを当てる。マクロ大に雪崩れる現実や大局的な悲観、残酷な描写ではなく、家族、親密圏域に居る/居たものだから、静かな感情のひしぎが繊細に鬩ぐ。ゆえに、<外>/<内>という構造が日本の土着に根付いている理由も残影化せしめる。結局、会社や組織、単位(ユニット)、<内(ウチ)>文化の中で、避難所で肩を寄せ合う他者はどうしようもなく、<外>であり、一つの「同じ」箱に数多の「違う」人たちが共存する限界は自明として発現する。


 おそらく、原発事故以降というモティーフを園子温が捉えたという意味で、何らかの過度な描写を求めると、肩透かしをおぼえるだろう、無論、淡々とではないし、確かに静動を往来する描写筆致はさすがだが、不気味なくらい温度が"平熱"なのを個人的に感じる。変わった世の中で、変わらずにいたはずの家族が変えられてゆく外因の中、じわじわと誰もが「おかしく」なり、動的に誰もが強さと適応、抗いを育んでゆく。瓦礫、雪、"(見えない)戦争"というフレーズ、公園の花、子供たち、緩やかな空の模様...全編に渡って視覚的に染み込む移ろい。それを、マーラーの交響曲第10番 第一楽章「アダージョ」が柔らかく攫い、エンディングにエンディングなどないように、この映画は『希望の国』というイロニカルな題目通り、希望的な何かの周縁を衛星のように巡り、人間同士の儚さ、脆さ、強かさをおさめる。


 個人的に、少なくとも「前・近代」以前の、太古の人間がどういう生活を、などのよくある「遡行」として想像力の域内では思い浮かんでも、そこに接点を感じたことがなく、なぜならば、自分が生まれ(てしまっ)たのがもはや近代であり、初めからモダニズムの罠に仕掛けられた場所だったゆえ、理論武装する為に原始性へ回帰する所作はできず、今、夢想するのは、僅かな距離の近未来かWW1以降の世界のうねりの在り方くらいのものでもあるのは事実だ。震災以降、それでも、進むしかない、というのはもう、戻ることができない悲愴との摩擦があり、喪に服しているというときのフィーリングの忠実さは形式を越えて、大文字の「世界」や「博愛主義」を対象化するとしたならば、この『希望の国』で感じたものは今を視ることと同時に、未来を喪に服する完遂性の不可能さだった。


(松浦達)


【希望の国HP】2012年10月20日より全国ロードショー