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 秋の終わりを感じさせる歌、ヤスリの上を歩いているような歌と例えられる歌声を持つキャット・パワーことショーン・マーシャルの歌にはいつだって偽りなどなかった。何かに安易に流されない"凄み"がある。抑制されていながらも、聴き手の気持ちのざらついた部分と摩擦し合うその歌声は、常に僕らの痺れを誘い、同時に安堵さえもたらす。唯一無比の歌声。キャット・パワーことショーン・マーシャルの作品を聴くことは「ショーン・マーシャルを聴く」という表現がぴったりくる。彼女は絶対に音楽を自分の中に閉じ込めないし、自家中毒にも陥らない。


 それをデビュー当時から貫いている彼女は本作『Sun』においても自分の歌声を変えることなどしない。いや、ショーン・マーシャルの歌声とは、変えられないほど絶対的な響きとして鳴り渡る。時にささくれだって、時に穏やかに。自身の心情を潔く身にまといながら、狂おしささえ含めて迫ってくる歌声とコーラスは、静かに、しかし圧倒的な存在感をもってして聴き手の感情の昂ぶりや沈みを消し去り、はたまた引き出したりと、聴き手の中にあらかじめ存在しているが喜怒哀楽では表現できない感情をあぶり出す。僕はなんだか徹夜明けに見る太陽の光の刹那さを思い出した。


 あらゆる娯楽や芸術は人間の内部を照らし、感動とともに今ここにいるという生を実感させる。決して聴き手を傍観者にさせない。それを具現化しているのが七尾旅人であり、シガー・ロスであり、キャット・パワーだ。その魅力に惹かれ、僕らはいつの間にかキャット・パワーの音楽と向き合っていることに気付く。


 ショーン・マーシャルとは、さりげなく「自分は自分のままでしかいられない」という常套句を、強い説得力をもってして歌にのせて伝えられる数少ないシンガー・ソングライターだからだ。逆を言えば、自分しか表現できない。それは素晴らしいことだと思う。PJハーヴェイは『Let England Shake』にて外(世界)に目を向け、開放感のある音世界を創作したが、ショーン・マーシャルは常に聴き手に目を向ける。今なおパーソナルな心情をさらけ出し、聴き手と向き合うことを恐れない。むしろ、聴き手と目と目を見詰め合うことを求めている。彼女の歌声を聴けば自然体でいることの勇気に感服し、反省させられるものがあるのだ。


 カヴァー・アルバムを含めれば約4年半ぶりのフル・アルバムとなる本作だが、ここにも自然体でいることの勇気、大切さは詰まっている。そしてそれはショーン・マーシャルという生身の人間が立っていることを思わせる生命力に満ち、雄大な生命に溢れた音楽とでも言うべき作品に仕上がった。もちろん、これまで彼女が発表した作品の全てにも時が経っても決して失われない、呼吸音の擦れさえ聞こえてきそうな生命力があったが、セルフ・プロデュースである本作に重苦しい雰囲気はほとんどない。


 本作のミックスを手掛けたのがビースティー・ボーイズの『Hot Sauce Committee Part 2』のミックスを手掛けたフィリップ・ズダールということもあってか、軽やかに音が弾んでいる。情動に訴えかけてくる音の数々。もし感情に境界線があるのなら、その上で鳴っているようなサウンドが打ち込みやシンセとともに鳴り、ラップ、ブルーズ、ソウル、ビート・ミュージック、IDMの要素とともに優美に跳ねている。そんな本作は、感情の境界線上とともにジャンルの境界線上で鳴っているようでスリリング。そこにショーン・マーシャルの歌声と静かに降りてくるようなコーラスが加わると、パッションという生命力がとても静かに膨らんでくる。


 しかもジ・エックス・エックスの『XX』にあるような空間処理を施した音響空間すら何気なく忍ばせていたり、イギー・ポップが参加しているデヴィッド・ボウイのような曲もある。カヴァーしたことのあるバンドやアーティストから、単に影響を受けるのではなく、溶け込ませるわけでもなく、自らの音楽性とぶつけ合わせて出てきた本作は、歌声はもちろんのこと、サウンドのどれを取ってもキャット・パワー。要は、刺がある。『IRM』を悪く言うつもりは毛頭ないが、ショーン・マーシャルはシャルロット・ゲンズブールの『IRM』を選ばなかった。そこに彼女のメンタリティが端的に表れている。借り物の音なんて全然ない。


 それゆえに思うことがある。本作『Sun』を、「エレクトロニカ的な方向へ進んだ意欲作」と評する向きがあるが、僕にはそれが分からない。エレクトロニカ的なアプローチを取ることはショーン・マーシャルにとって意欲的なことではないからだ。彼女が98年に発表した『Moon Pix』の「American Flag」を聴いてもらえれば分かってもらえると思う(ダーティ・スリーのミック・ターナーとジム・ホワイトが参加)。本作は過去の作品とともにフラットに捉えられることができる音楽だ。物凄い変貌はない。


 確かに音楽性のふり幅は広がっているし、ポジティヴな空気も広がっている。しかし思うのは、『Sun』の中核にあるのはあくまでも彼女の偽らない歌声であり、彼女のアイデンティティが強く出ているということだ。その声に痺れる。一体僕らはどれだけの偽りの声を聞いてきたのか。テレビから、ラジオから、オトナから。彼女の歌には、そんなものとは何百光年も離れた声がある。それがいい。それだけでいい。



田中喬史) 

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LOS JARDINES DE BRUSELAS『Light And Glow』.jpg

 スペイン語で"ブリュッセルの庭園"を意味するロス・ハルディンズ・デ・ブルセラスを名乗るエセキエル・デ・ラ・パーラは、アルゼンチンはブエノスアイレス在住のアーティストだ。


 筆者が彼のことを知ったキッカケは、昨年リリースされた『Floating In Dreams』。驚くほどチープだし、詰めの甘さも感じさせるサウンド・プロダクションではあったが、言葉では捉えきれない"ナニカ"に迫ろうとする音粒には、萌えるようなの"夢"があった。


 彼に対する興味がさらに強くなったのは、今年6月に出たシングル「Why Are We Here?」。『Floating In Dreams』よりも遥かに進化した音作りと洗練が、そこにはあった。クレジットを見てみると、古くはザ・ラプチャー「House Of Jealous Lovers」、最近ではメジャー・レイザーによるホット・チップ「Look At Where We Are 」のリミックスでもマスタリング・エンジニアを務めたポール・ゴールドの名があり、「Why Are We Here?」を聴いて感じた劇的な音質の向上にも納得がいった。


 そのポール・ゴールドが全曲マスタリングを務め、作りあげられたのが『Light And Glow』である。ドリーミーな音像とふわふわ舞いあがるグルーヴはそのままに、オーガニックな人工美に包まれた音像、そしてヴォーカルも開放的に響くなど、風通しの良い作品に仕上がっている。


 多様な音楽性を覗かせるのも本作の面白いところで、「Aurora Borealis」でサンプリングされている日本語のニュース(元ネタはおそらくこれ)からは、ヴェイパー・ウェイヴ以降(と、言ってしまっていいと思う)のインターネット・ミュージック的感性を感じとれるし、さらにはドローン/アンビエント、ニュー・エイジ、トロピカル、80年代UKインディー・ポップまで取りいれるなど、まさに"よりどりみどり"なポップ・ソング集となっている。


 強いて推し曲を挙げるなら、「Me And The Animals」だろう。緩いテンポと甘美なシンセワーク、そしてなにより、ソブレナダル(Sobrenadar)の囁くようなヴォーカル。彼女もアルゼンチンで活動するアーティストで、今年リリースの『1859』が話題になったのも記憶に新しい。


 ちなみに本作は、ほぼすべて宅録だそうだ。このこと自体は珍しくないが、ひとりの青年が住むブエノスアイレスの家から生まれた本作は、どこへでも行けるノマド的全能感に満ちている。自身のバンドキャンプでは様々なタグをつけているが、そのなかでは"スペース・ポップ"(Space Pop)"が相応しいかもしれない。形容するならば、"アルゼンチンのベッド・ルームから宇宙に手を伸ばすドリーミー・サウンド"といったところか。



(近藤真弥)



【編集注】本作はアーティスト本人《Mamushka Dogs》のバンドキャンプからダウンロードできます。

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Magical Mistakes『Everything Uncertain』.jpg

 マジカル・ミステイクスことエリック・レーブスによる本作は、聴く者をトランス状態に導くと同時に、テクノロジーと自然が入り乱れる現代を描写する、 とてもイマジネイティヴな作品である。


 リリース元の《Day Tripper Records》は、一貫したサウンド・コンセプトとして「惑星への小旅行」を掲げているが、電子音はもちろんのこと、ピアノ、ギター、ドラム、バイオリン、さらにはフィールドレコーディングや自身の声といった生音を多用し、これらを巧みに折衷させた本作の音世界は、幾分ナチュラルな雰囲気を醸しだしている。そんな雰囲気から機微として感じられるのは、デジタルとアナログを融合し、50年代のエキゾチカ・ミュージックやジャズにまでリーチできる幅広い音楽性を築いた808ステイトだ。


 さらに近年リバイバルの動きを見せるニュー・エイジ的音像も窺えるなど、本作に広がる音の海は、多様性で満たされた深く広大なものである。エレクトロニック・ミュージックの一言で済ませるには、あまりにもったいない豊穣さ。今年1月にリリースされた「Special Friends EP」でも感じられたことだが、エリックは無機質なイメージに色彩を加え、オーガニックなアトモスフィアを生みだすのが本当に上手い。


 10年代以降のインターネット・ミュージック、例えばLLLLのような、どこかツルっとした人工的サウンドを鳴らしながらも、そこにソウルを見いだすことができる世界観、そして、それを受けいれるだけの寛容性を身に付けつつある聴き手が増えた'今'に間違いなく響く作品だ。



(近藤真弥)

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TRAXMAN『SPIN DA WAX Series Pt.1 The Shape Of JUKE 2 Come』.jpg

 たまにジェフ・ミルズのDJプレイを"ゴッドハンド"と形容する人がいるけど、シカゴにもゴッドハンドはいる。それは誰であろうトラックスマンである。本作は、ジューク・オンリー・ミックスCDシリーズ《SPIN DA WAX》の第1弾として、日本のジューク/フットワーク・レーベル《Booty Tune》からリリースされた作品。今年度ベスト・アルバム候補の『Da Mind Of Traxman』で話題を呼んだことも記憶に新しいが、今度はミックスで我々を驚かせようというわけだ。


 『Da Mind Of Traxman』はジュークだけでなく、テクノやハウス、ヒップホップなど各方面から高評価を得た作品だが、それはジューク自体が高い順応性を持っているのはもちろんのこと、トラックスマン自身に豊穣な音楽的背景があるからこその高評価だと思う。本作は、その豊穣な音楽的背景をミックスで楽しむことができる。


 メロウなトラックからフリーキーな声ネタものまで幅広くチョイスし、豊富な経験を駆使して起伏と興奮を生みだす。そしてなにより、それを可能にする懐の深さ。これはシカゴ・ハウスの黎明期を知り、現在のジューク/フットワークの下地を築いたオリジネイターだからこそ可能なのかもしれないが、それ以上に重要なのは、トラックスマンの人柄である。


 トラックスマンほどの経験とテクニックがあれば、聴く者を蹂躙するようなプレイもできるのだろうけど、本作を聴けばわかるように、トラックスマンはすごくサービス精神旺盛で、言ってしまえばエンターテイナーである。もちろん「どうだい?」とドヤ顔を浮かべているであろう瞬間もあるが、それがまったく嫌味になっていない。心の底から「スゴい!」と叫ぶことができる。これは、トラックスマンの器の広さがそうさせるのではないか。思わずニンマリするくらい楽しい本作を聴いていると、そう思えてならないのだ。



(近藤真弥)

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高野寛+伊藤大助.jpgのサムネール画像

 ひとつの美を見た。そんな気がした。作られた美ではなく自然な美を。無論、青空は美しい。紅葉も美しい。だが、作家、坂口安吾が「人間以上に美しいものはない」と言ったその意味を、本作を聴いて分かった気がした。「太陽と月、ひとつになるとき -EP」は、人間味のある美なる音を届けてくれる。その音を吸い込むと気持ちの浮遊があり、音のゆるやかな流れに沿って見知らぬ場所へ連れて行かれるような感覚もあるのだ。


 シャウトせず、語ることもせず、程好く、たおやかな高野寛の歌声が空間の隅々に広がっていく1曲目「太陽と月、ひとつになるとき」での、そっと弾かれるエレクトリック・ギターの刺激。破綻のないメロディのやさしさ。トッド・ラングレンのような音の使い方。ダイナミックなドラム。それらはどこにも反射することなく真っすぐ聴き手に届いてくる。それが嬉しくて楽しくて清々しくて何度も聴いてしまう。


 2曲目「た す け て」は数十分で作った曲とのこと。ハード・ロック風のギター・リフとともに丁寧にドラムが鳴り、ことん、ことん、ひゅんと鳴る電子音がアクセントになっている。刺激と温かさのある曲だ。歌声が他の音とぶつかり合うことなく、すっと耳に入ってくる。夢の中でさえこの音を聴けたらどんなに素晴らしいことか知れない。


 私事だからと言って恐縮はしないけど、僕が音楽を聴き始めたのは高野寛の影響だ。その音楽を、当時の僕は何よりもリアルだと思ったのを覚えている。いたるところで見られる作り笑い、なれあいの集団意識、事務的な口調、それら全てが高野寛を聴いていると消え去っていく気持ちになった。そして今、高野寛は20年前と変わっていない。3曲目「いちぬけた」ではこう歌われる。


《晴天の霹靂や偶然の必然は日常茶飯事 / これからはどうなんだ? 困難か? そうなんだ、考え抜くのさ》


 社会現象にも敏感な高野寛が歌うこの歌詞は震災に関しての歌ではないだろうか。そしてこうも歌う。


《うろたえるのも忘れ / 何も見えないままで / 取り憑かれたみたいに / 踊り続けるのなら / 俺はいちぬけた / ここでいちぬけた》


 高野寛の、何も見えないままで虚構の情報に踊らされることから離脱する意思が窺える。


 ラストの4曲目はグレイトフル・デッドのような、インストゥルメンタル・セッション。ロック、ブルーズを思わせる力強いフレーズが次々と溢れ出る。音の呼吸を読む伊藤大助のドラムも職人的だ。この曲のタイトルは「Proteus Boogie」。"Proteus"とは変身と予言の能力のある海神のこと。生み出し続ける強いグルーヴにも意思が宿っているように思える。「このままの日本でいいのだろうか」「それを常に考え続けなければならない」、そんな意思が。その末に見える美こそ本当の美だと思う。高野寛と伊藤大助は、音楽的な美だけではなく、音楽と国民が作る平和を美と見立てている。聴くほどに深い作品だ。10月31日に発表されるアルバムを待ちたい。


(田中喬史)


【編集注】OTOTOYiTunesレコチョクにて配信中

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 今年のレディオヘッドのフジロックでのパフォーマンスに関しては色んな意見を聞いた。高度でテクニカル過ぎる、というものから、グルーヴィーで最高、という両極のものまで。シンガロングできる曲は基本、少ないバンドだが、ツアー内でふと演奏される「Karma Police」辺りで緩やかにオーディエンスに差し出されるマイクはサービスなのか、それとも、追憶と鬩ぐオーディエンスたちの儚い幻想へのサルベージなのか、考えてもしまう。


 あまりに巨大化してしまったバンドとしての彼らは或る種、計算された無軌道な活動と突然のニュース、リリースを是とし、多くのメディアからは背を向け、ステイトメントを絞っている。『The King Of Limbs』というパッケージング作品そのものに足りないダイナミクスはやはり、バンド総体として練り込まれたセッションの中で産み出されたものではないという証左で、ゆえに、ライヴではポーティス・ヘッドのサポート・メンバーであるクレイヴ・ディーマーがドラム、パーカッションとして「6人目」の色、身体性を加えている。そのため、よりポリリズミックにミニマルに、グルーヴィーな疾走感を手にしている。プログレッシヴ・ロックの影響下にあった『OK Computer』、IDMへ接近し、バンド・サウンドを静かに傍らに置いた『Kid A』、それまでのベーシックな要素とラグタイム的ななめらかさを含んだ『Amnesiac』など彼らは貪欲に多くのジャンルのクロスオーバーとエクレクティズム、自由を邁進し、ときにそれがラジカルだと一部のメディアでは評された。


 バンドとしての演奏技量、冒険心、演出、美意識など挙げてゆくまでもなく、歩みを続ける中で、トムは06年にソロ・アルバム『Eraser』を出し、他のアーティストの作品に客演し、ジョニーは幾つもの映画のサウンドトラックに携わり、フィルのソロ・アルバムも好評価を得るなど、"五人でのレディオヘッド"をより立体化せしめる恒常性と、DIYによる『In Rainbows』以降からの流通、配信形式、積極的な外部アーティストへの原曲のリミックス・ワークの委託は業界そのものにも影響を与え、多くのアーティストに刺激をもたらせた。反面、彼らの肥大した記号性が先走りすぎているきらいもあり、常に作品、ライヴを巡っては賛否両論も巻き起こすことになったのは言うまでもない。


 さて、2013年、年明けにはリリースされると言われているファースト・アルバムを控えるアトムス・フォー・ピース。既に、日本では2010年のフジロックでヘッドライナーとしてパフォーマンスを見せている。ちなみに、メンバーはプロデューサーとしても敏腕のナイジェル・ゴドリッチ、ベック、R.E.Mなどのキャリアを重ねたベテランのドラマーのジョーイ・ワロンカー、パーカッションのブラジル生まれのマウロ・レフォスコ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリー、レディオヘッドのトム・ヨーク。当初は"Eraser Band"と呼ばれていたとおり、トム自身の『Eraser』をバンド的な有機性で演奏する、そういうスタイルであり、フジロックの際でも、軸はそこにあり、アトムス・フォー・ピースとしての何らかの新曲の打ち出し、ステイトメントがあった訳ではなかった。なお、バンド名はトムのソロ曲の「Atoms For Peace」に依拠するのだろう。ちなみに、アルバム自体がエレクトロニカを基調にした箱庭的なものであり、当該曲もリリック内容は幾分、明るく、決して露骨な表現は出てこない。孫引くまでもなく、"ATOMS FOR PEACE"とは、1953年のNY、国連総会でのアメリカ大統領アイゼンハワーの提議した言葉である。終戦後、そこから競争のように核開発を進める各国にあくまで平和利用のための核を、という想いを込めたものだった。


 2011年には既にアルバムを上梓したとアナウンスが為されながらも、リリース形式は変則的になされている。今夏、初マテリアルは、『In Rainbows』のジャパン・ツアーでのフロント・アクトもつとめ、トムとも親交が厚いモードセレクターのレーベル《Monkey Town》傘下、《50weapons》から「Other Lives」というシングルが出された。限定ヴァイナル、その後は配信もされ、レディオヘッドの今年のUSツアーでサポートしたアザー・リヴズの曲「Tamer Animals」のアトムス・フォー・ピース名義でのリミックス、そして、彼ら自身の曲「Other Side」もリミックスで収録というもの。この「Other Side」は来るべきアルバムに入るだろうが、その「Other Side」とトム自身が《Rag&Bone》のショーのための音楽として提供した、いかにもミニマルな打ち込みのソロ楽曲「Stuck Together」を合わせており、全体像は8分弱のエレクトロニカとしてのラフな部分が浮かぶ。時おり、トム自身が何らかの契機でDJを受け持つとき、アルバムに入るであろう数曲、披露するなどしていたが、DJ用に加工されていたり、よく全体は見えなくもあった。


 各メンバーのプレイヤビリティを考えると、セッションの中で一気に輪郭ができそうだが、ようやくのこのファースト・シングル「Default」は打ち込み、深いリヴァーヴが掛かり、コーラスが重ねられるなど、トムとナイジェル色の強い二次加工の見える曲で、バンド・サウンドという印象は受けないものになっている。リリックも、《I laugh now / But later's not so easy / I've gotta stop / The will is strong / But the flesh is weak /Guess that's it / I've made my bed / And I'm lying in it》という翳りを含んだ相変わらずの基底を抉る。


 正直、ビート・メイク的には最新のものではなく、トムのボーカリゼーションも朗々と響きわたりながら、どうにもメッセージがはっきりと届いてこない。《I avoid your gaze / I turn out of phase》に沿うならば、「あなた」≒巷間の視線を避け、違うフェイズを作り上げたのかもしれないが、現在において、彼らがシーンに投石するための導路は困難だともいえる。新しいビート・メイカーやエッジに立つバンドたちの台頭やさらには、メガ・バンドの燃費の悪さと、反比例しての過度な注視度の高さとジャッジメントの厳しさもあるからだ。


 先進性と強度を含み、何もかも高次で結実できることはないとしても、彼らにはやはり世界の視線と期待が集まっているのも確かだ。この「Default」の時点で、まだ得心できているリスナーは居ないだろうと思うゆえに、早くアルバムの全容を待ちたい。


(松浦達) 



【編集注】本作はiTunes StoreAmazonで配信中。アナログ12インチ盤は10月にリリース予定。

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  まず目を惹かれるのは、ペルリ(Perle)によるアートワークだ。喜多川歌麿の繊細なタッチと、渓斎英泉の官能美を合わせたような浮世絵的ジャケット。それは、殺伐とした現代を浮き彫りにするようなグロさが窺えるものの、目を背けたくなるようなものではなく、むしろ妖艶ですらある。


  最近のLLLLは視覚的表現においても興味深いことを行っていて、そのなかでも注目すべきなのが、八尋南実による「Drowned Fish」のMVだ。閉塞的世界に遊びで対抗する少女を描いたこのMVは、「Drowned Fish」の二人称な歌詞を反映するかのように、遊びで現実に対抗する少女を讃えつつも、後半では現実の凄惨さを躊躇なく表現しているように見える(これらは八尋氏の発言を引用。詳しくは、《Lights + Music》によるこちらのインタビュー記事を参照)。

  

  そしてなにより、「Mirror」に向けたプレリュードの如く漂う'死'の匂いである。実際、少女が現実に打ち負け'死'を選んだことを想起させるシーンも登場する。では、少女に忍び寄る'現実'とはなんなのか? MVでははっきりと描かれていないが、おそらくその'現実'とは、LLLLの在り方から察するに、'情報社会'ではないだろうか。


 「LLLL」のレビューで、「視覚的に決めた名前」という本人とツイッターでやり取りした際の言葉を引用したが、LLLLのミステリアスな活動も含め、こうしたある種の実態性の希薄さは、去年あたりから名を見かけるようになった(そして、早くも一部では「終わった」と囁かれている)ヴェイパー・ウェイヴ(Vaporwave)を思わせる。


  だが、産業によって衰退させられた音楽を自ら演じることで、音楽産業と情報社会に対して批判的アプローチを取るヴェイパー・ウェイヴとは違い、インターネット・カルチャーが生んだインターネット・ミュージックという共通点はあれど、LLLLはあらゆる音楽へのアクセス権を得た'今'を肯定するような側面がある。


  だからこそ、《Guardian》が今月のベスト・ニュー・ミュージックとしてLLLLをフィーチャーするなど、海外からもレスポンスを得ることができるし、ここ数年盛りあがりを見せる日本のインディー・ミュージックにも足を置くことができる。そして、数人の音楽ブロガーによって運営されている《Hi-Hi-Whoopee》の記事における、「東京の音を作りたい」というバンドコンセプトに関する発言に従えば、アベックアベック(Avec Avec)やカナタトクラスといった、新世代シティー・ポップと接続することも可能だ。


 このようにLLLLは、明らかに10年代以降のインターネット・カルチャーの恩恵を受けている。そう考えると、「Mirror」にまとわりつく'死'が疑問として浮かびあがるわけだが、これはおそらく、情報社会によってタグ付けされた音楽の死、謂わば'祝福の死'ではないだろうか。先述したように、様々なシーンやカルチャーに行くことができる可能性を孕んだLLLLの音楽は、我々が恣意的にあたえてきたジャンルという名の情報から逸脱している。そして筆者はこの逸脱を、'情報社会そのものからの逸脱'であると考える。


  言ってしまえば本作は、刹那的盗用アートであるヴェイパー・ウェイヴの先、つまりポストに位置する作品であり、'終わりの始まり'を示すものである。その始まりは希望なのか絶望なのか、その判断は本稿を読んでいるあなたに委ねたいと思うが、「LLLL」から引きついだ、ゴシックなメタリック・サウンドとブレイクビーツのなかに、ティガとデペッシュ・モードが組んだようなディスコ・ナンバー「I Wish You」が紛れこんでいるのは、かなり示唆的だと思う。この曲、リバーブの海に溺れていないのだ。


(近藤真弥)



【編集注】本作はLLLLのバンドキャンプからダウンロードできます。

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《ぼくらはパレードの夢を見ている》 (「Station」)

  緻密に作り込まれた構成から現代技術に即した洗練された風景を翻訳機にかけてゆくと、耳で物語を読む音楽の性質もよりデジタルなゼロか、ゼロじゃない何かか、という判断を至急に迫られることが増えている。試聴でジャッジして、BUYボタンを押せば、ダウンロード、また、配送手続きがすぐに取られる。

  これをして、ベンヤミンのパサージュ論的な痕跡を辿れば、高度化された資本主義社会の複製価値の複製化を是とし、集団が持つ「内なるもの」へのトポグラフィックな通過とは相性が良いように思える。但し、一方で、カセット・テープ、アナログ・レコーディングにこだわり、「音」の鳴り方から今を見つめるアーティストも増えている。滲みとくすみ、その瞬間に混ざる息吹を個々たる「外なるもの」へ届けるべく。

  なぜか、今年になって個人的に、ダウンロードしたものをMP3プレーヤーで聴きながらも、改めて音楽をステレオで、ときにアナログ・プレーヤーでヴァイナルをひっくり返したりして聴くことが増えたのは自身にとっての大切な時間には「手間をかけたい」という自己制御だったのかもしれない。完全にアルヴィン・トフラー的な第三の大波、「情報」と秒単位で対峙しないといけない今における、知っているか、知っていないか、をすぐに試される磁場へのささやかな手間という抗いとでも言おうか。

  SNSやネットはあらゆるアンテナと、ときには思考停止と結びつき、例えば、Twitterにしてもフラットに生きていたら接点も、ましてや、会うこともなかっただろう人を同じタイムラインに浮かび上がらせる。それはそれで世の中の見渡しが良くなった、とするには楽観とも思えてもしまう。より審美眼と知性、経験値は試されている気がするからだ。フリーミアムの先での価値相互理解の深甚な喰い違い、シェアリングの果ての元たるソースの影響力の肥大化への寄与。

  カーネーションも今や、日本でも屈指の長いキャリアを誇るバンド、いや、組織体になり、90年代を主にした《日本コロムビア》期のシングル、アルバム毎に披露されるユーモアと過去の音楽への敬愛、トッド・ラングレンやアンディ・パートリッジ、またはフィル・スペクターからブライアル・ウィルソン、愛すべきひねくれたミュージック・フリークスたちへの意識に満ちた時期の華やかな作品群へは少なくない数いるだろう方と同じように、個人的に想いも尽きない。ガーデン・シティー・ライフを生きるための多くの恋や屈折、ときに夢を描くために必要なのは数えきれないレコード、文学、書物だった。例えば、それは、00年の「恋するためにぼくは生まれてきたんだ」のユーフォリアと切なさの極点に視るのは平易なのは言わずもがなかもしれない。さらに、メンバーが脱退するなど、骨組みだけになり、ロックンロールの深みとポップ・ミュージックの弾みに賭ける極み、生きることや哲学的な思索、ラブソングの再定義を突き詰めだす03年『Living/Loving』を分岐としたその後の流れも美しい。
 
  気付けば、「大人の音楽」という囲いで、過去の、さらに、今も現役で活動するアーティストやバンドを特集するコーナーやカテゴリーも増え、リマスター、ボックス・セット、ヴァイナル、新譜も並べば、需要と共存してノスタルジーもポスト・コロニアル化されているきらいもあるとも言われる。おそらく、これには当時、手に入れられなかった何かを取り戻すための仮構化したフィーリングも含まれると思うが、良かった(かもしれない)時代/記憶と少しばかりの現代の情報量からの、一歩引いた場所での静かに結われる少子高齢化とカルチャーの斜陽下の日本における残照。でも、それは、悪くないとも思う。秋の風景を想い出せば早いように、斜陽のとき、影は長く伸びる。その伸びた影によって、早めに灯りだす街燈で、遠くからでも夜道で人は違う誰かを知ることができる。電子上ではなく。

  直枝政広氏(Vo,G)、大田譲氏(B)の二人体制になっての路線、ビターでスイートな風合はまさしく、多くの轍を踏んできたからこそ分かる「大人」としての懐の深さを追求し、それはある種、神経症的にまで忙しい時代への疑義もときに含み、我が道を常に進む彼らの頼もしさもあったが、新しい聴き手を確保できるのか、という懸念もなきにしもあらずだった。ただ、約三年振り、通算ではオリジナル・フル・アルバムとして15作目を数えるこの『Sweet Romance』は聴き手を選ばないどころか、幅広いリスナーにも届く内容になっているのは感慨深い。

  昨年11月にリリースされたリード・ミニアルバム的な『UTOPIA』では、新作を構想していた際に起きた震災を経て、失いかけた歌を取り戻すための光とロマンスが通底し、長谷川きよしの「もうあきてしまった」のカバー、さらに新録の梅津和時氏のアルト・サックスが響くインストゥルメンタル「女川」、彼らの過去曲の中でも重要な「Edo River」の江ノ島、虎丸座でのライヴ・バージョンが最後に収められるなど、特殊な内容だった。なお、今作には、渡辺シュンスケ氏、武田カオリ女史(TICA)、山本精一氏の参加したマジカルなポップ・センスが冴えた表題曲の「UTOPIA」のみ入っている。

  直枝氏、大田氏、近年のサポート・ドラマーの張替智広氏の三人を軸にしながらも、今作はとてもカラフルだ。冒頭の「Spike&Me」から意表をつく大谷能生氏の客演によるサックスとスリリングなラップ、と直枝氏のあの芯の通った声が艶めかしく絡まり、藤井学氏のピアノ、ハモンド・オルガン、フェンダー・ローズが行間を彩り、クールなテンションを保つ。次曲のストレートでカーネーションの18番ともいえる切ない疾走感を持ったロックンロール「I LOVE YOU」は1992年の『天国と地獄』の際にはあり、そのときのカーネーションのモードとは合わないとのことでお蔵入りした曲で、しかし、今の直枝氏の声とてらいのない歌詞は染みる。ダウン・トゥ・アースでブルージーな4曲目「なんかへん」ではソウル・フラワー・ユニオンの奥野真哉氏のシンセ、梅津和時氏のサックスも奥行きを与える。

  今作は、多数のゲストの参加、客演があるのか、バラエティーにも富んでおり、しかし、どれもカーネーションだからこそのポップネスが通底している。8曲目のホンキートンク調の「口笛ふいて」も長い生を重ねてきたがゆえの直枝氏の深い詩情に溢れている。《急がないでくれ もう疲れたから きれいな水なら浴びるほどあるよ》と紡ぎ、《昔の仲間が死んじまうことが 一番くやしいことだね やっぱり》と素直な感情を吐露し、そして、かわいい誰かと口笛をふいて、陽のあたるところを目指すというもので、リクオのピアノも加わり、より聴き手の心の琴線に触れる。ベースの大田氏の歌う「未来図」も非常に恰好良くも、センチメントでポップな一曲。

  やはり、11曲目の7分半ほどの「遠くへ」はクライマックスだと思う。寓話性と現実を行き来するような世界観、滲む過去、あなた。敬愛するボブ・ディラン的にときに崩し歌う直枝氏のボーカルはしかし、凛と前を見る。ありがとう、と、さよならを告げ、《また会おうよ》と約束を投げる様は感動的だ。ラストの、6曲目の「Bye Bye」のリプライズでは、岡村みどり女史のオーケストレーションと岸野雄一氏のミックスが幻惑的な余韻が今作全体の音楽の芳醇さを香り立たせる。

  アナログ・レコーディングされたのもあり、音が耳にも非常に優しく馴染む。ブックレットの背表紙には、光のあたった森に妖精のような女の子が立っていて、常に、女の子(GIRL)を巡ってのロマンスを切り取るメタファー越しに現実を濾過してきた直枝政広氏の博覧強記な音楽語彙と「恋」を軸にした文学的な要素も高まり、50歳を超えても、あの胸を締めつける声も健在なのも嬉しい。カーネーションはやはり、日本でも稀有な存在だ。デジタルで簡単に修整解析されない、アナログのスウィート・ロマンス、それは悪いわけがないだろう。

《この切なさは100年はつづく だって変だろ今日もぼく舞い上がる I Love You》
(「I LOVE YOU」)


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SILLYTHING『Cross Wizard』.jpg

  シリーシング(SILLYTHING)とは、青森の音楽フェス《夏の魔物》を主催する成田大致が、ザ・ウェイバー(THE WAYBARK)を解散させて新たに始めたバンドである。アーティスト写真を、スーパーロボット大戦のキャラクターデザインでおなじみの河野さち子が描いていると聞いたときは、'必中'レベルの驚き(スパロボが分かる人にはわかるはず)を覚えたものだが、ファースト・アルバム『Cross Wizard』を聴いたら、さらなる驚きが待っていた。


  ザ・ウェイバーとしての成田大致のイメージを抱いている人ほど、本作を聴いて裏切られたと感じるはずだ。まず、ほとんどの曲を外部の作詞/作曲家に託している。そしてなにより、田中ケロ(元新日本プロレスリングアナウンサー)、声優の小林ゆう、桃井はるこ、夢眠ねむ(でんぱ組.inc)、栗本ヒロコ(ex,毛皮のマリーズ)、まつきあゆむ、和嶋慎治(人間椅子)といった、各界から参加している多彩なゲスト陣。


 そんなゲスト陣に彩られた本作は、ザ・ウェイバーとはかけ離れた音楽性なのは確かだが、エンターテイメントするという点では、'古き良きロック'を感じさせるド派手な作品で、底流にあるパンク精神も、ザ・ウェイバー時代から窺えるものだ。


  '古き良き'とはいっても、「サマーロマンサー」に代表されるアニメソング的要素や、壮大なミュージカルを想起させるアルバム全体の流れなどは、'なんでもあり'が常態となりつつある現在の音楽シーンと共振するものだ。だから、古くささはまったく感じられない。むしろ、こうしたエンターテイメントをオルタナティヴとしてアウトプットできているという点では、立派な批評性を伴った音楽である。


  現在の日本の音楽シーンを見渡すと、バンドとファンの間に緊張感が伴わない'馴れあい'が多くなり、ある種の内輪ノリと壁ができてしまっているだけに、そうしたものをぶち壊し、ロックの解釈を拡大しようと試みるシリーシングの活動は、注目に値すると思う。


(近藤真弥)

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TRIMBAL「Confidence Boost/Saying」.jpg
  ジェームズ・ブレイクの変名プロジェクト、ハーモニミックス(Harmonimix)と、元ロール・ディープのトリンバルによって2年前に制作された作品、それが本作である。熱心なリスナーならご存知のように、音源自体はユーチューブやブートレグで既に出回っていたものだが、正規品としては本作が初であり、'待望の'と呼ぶに相応しいリリースだろう。

  A面は「Confidence Boost」。深淵を這うようなビートに、変調するトリンバルのヴォーカルが絡むことで、ひりひりとしたスリルを生みだしている。近年のクラウド・ラップを先取ったような曲だ。B面の「Saying」は、オールド・スクールなグライムのリズムをフィーチャーしており、本作で初めてこの曲に触れるジェームズ・ブレイク・ファンにとっては、ちょっとした驚きを覚えるかもしれない。シンコペートによって起伏を作りだし、ガツンと聴き手を殴るようなサブベースは破壊力抜群である。

  こうして2曲を聴いていくと、若干の古くささは感じるものの、半歩先を行ったような先鋭性には思わず息を呑んでしまう。ジェームズの才能をより深く知るためにも、'マスト'な作品だと言える。