reviews

retweet

PSSION PIT.jpgのサムネール画像
  他のどんな傑作もかすむ、年間ベスト級のとんでもないファースト・アルバムでデビューを飾ったパッション・ピットが、すんごく良いセカンド・アルバムをリリースしてくれた。


  ファーストの頃のような、気が狂いそうになる絶望や怒りを無理やりハスキー・ヴォイスに転換させて、ポップが爆発したような印象は落ち着いた。そこはミーカのセカンド・アルバムでの変化と少し共通しているかもしれない。あるいは彼らも何とか生きていけるくらいの、世界との共通項は見つけられたのかもしれない。とにかく自分の脳内パラダイス(地獄かも)に引きこもってしまわなくて、ほんとうに良かった。これは翼を得た10歳の子供のような作品。オープンで爽快で、嘘がない。


  1曲目「Take A Walk」の、一歩一歩を深く踏み込むようなドラム・サウンドと雄大なコーラス、2曲目「I'll Be Allright」の"はしゃぎまわる"イントロ、そしてこのアルバムのなかでもっとも爽やかでキャッチーな「Carried Away」。この3曲だけで、アルバムを聴いたファンの笑顔が浮かんでくる。


  人間は歳をとるにつれて考え方も生き方も変わってくる。それは諦めを知ることかもしれないし、今まで喜びを感じていたことに鈍感になることかもしれないし、その逆かもしれない。『Gossamer』は、そのプロセスを完璧に記した作品だと思います。


  ポップであることの個性は、いまやほとんど通用しなくなった。だってどのバンドもポップじゃないか。難解なことをやっていたって、メロディはみんなポップだ。ポップであることに新鮮さを感じる時代ではない。だからこそ、ほんとうにポップであることを必要としているバンドは少ない。彼らはポップでなくてはならないのだ。パッション・ピットが暗い音楽をやっていたら、そこに救いなんかない。


《愛は何て貪欲なんだ  それは僕からすべてを奪っていく》(「Love Is Greed」)


  現実の美しさは、だいたいが絶望によってもたらされる。現実と、愛とダンスしよう。


(長畑宏明)




retweet

Soon V.A.jpg
  最近盛りあがりを見せる、C86やアノラックに影響を受けた日本のインディー・ポップを聴くと、デス・イン・ヴェガスを思いだすことがある。ただしそれは音楽性ではなく(音楽的にはほとんど似ていない)、"あくまで自分が表現したい音楽を追求する"という点で。

  デス・イン・ヴェガスといえば、イギー・ポップ、ポール・ウェラー、ボビー・ギレスピー、リアム・ギャラガー、ジム・リードなど、豪華なヴォーカリストを迎えてきたことで知られているが、これらのコラボレーションはアピール・ポイントを得るためでも、慣れあいの友達関係でなんとなく参加してもらったわけでもない、あくまで自身の表現欲求を満たすためだけに実現させてきたものだ。

  例えば、デス・イン・ヴェガスの代表曲「Aisha」に参加したイギー・ポップには、愛情に満ちた長文の手紙をしたためて送ったというエピソードがあるように、デス・イン・ヴェガスは参加アーティストを最大限のリスペクトでもって迎え、ある種の理想主義に基づく音楽を生みだしてきた。

  とはいえ、そうした精神と理想主義もいまや、"絶滅"とまでは言わないが、"古き良き時代"として歴史の片隅に追いやられてしまった・・・はずだったが、そんな精神と理想主義に、近年の若いインディー・ポップ・バンド達、それもここ日本のインディー・ポップ・バンド達が新たな息吹を吹きこんでいるのではないか? そう思わせるだけのキラメキが、日本中のインディー・ポップ・バンドが集結したコンピレーション・アルバム『Soon V.A』にはある。

  本作には、大阪からザ・パエリアズ(The Paellas)、ポスト・モダン・チーム(Post Modern Team)、フーディー(Foodie)の3バンド。他には東京のユース・イン・マイ・ヴィデオテープス(Youth In My Videotapes)とボーイッシュ(Boyish)、京都のホームカミングス(Homecomings)、名古屋のオールド・レーシー・ベッド(Old Lacy Bed)、青森のトゥワンギー・トゥワンギー(Twangy Twangy)、そして栃木のザ・ヴァニティーズ(The Vanities)をあわせた計9組が参加している。

  収録曲を曲順通り紹介していくと、オープニングはザ・パエリアズ「Not So Sweet」。2010年に結成された4人組によるこの曲は、ジ・エックス・エックスとC86サウンドが絶妙なバランスで共立している 。ホームカミングスの「You Never Kiss」は耳触りの良いキュートなコーラスワークが印象的で、オールド・レーシー・ベッド「Coastlands」は、ピーター, ビヨーン・アンド・ジョンの「Young Folks」を想起させる牧歌的ポップ・ソングだ。

  甘美なメロディーが素晴らしいポップ・チューン「Coudn't Remember」を提供しているボーイッシュは、NMEで取りあげられるなど海外からも注目を集める新鋭バンド。ユース・イン・マイ・ヴィデオテープス「Summer Rain, Beside Me」はキャッチーなギター・ポップに仕上がっていて、ほんのり切ない雰囲気を漂わせる。

  ポスト・モダン・チーム「In The City」は、ワイルド・ナッシングと共振するピュアなポップ・センスが光る曲。フロントマンの岸田剛は他にも大阪リバティーンズ、NINGENCLUB、TALKINGCITY1994としても活動しており、関西のインディー・ポップ・シーンを盛りあげている人物だ。

  「Honeysuckle」は透きとおるようなヴォーカルとクリーン・ギターが美しい。この曲を作ったトゥワンギー・トゥワンギーは、《ano(t)raks》を主宰し、タイのレーベル《Sea Indie》からもシングルをリリースしているDai Ogasawaraのユニットである。ザ・ヴァニティーズ「Waniwanipanic」はジーザス・アンド・メリーチェインの幻影がゆらめくダンサブル・ナンバーで、ノイジーなギターが颯爽と駆けぬける軽快なトラック。そして本作を締めるのは、明るい曲調と少し甘酸っぱい歌詞が聴き手の心を満たしてくれるフーディー「少年少女」。引きこまれる展開とメロディーが秀逸だ。

  このように本作には、それぞれの個性が発揮された歌が収録されている。それでも本作を"まんまC86やアノラックのインディー・ポップ"、もっと辛辣な者なら、"剽窃"の一言で片づけてしまうのかもしれない。だが、そうやって切りすててしまうのはあまりにも愚かで、本質を見誤っていると言わざるをえない。

  本作に参加したバンド/アーティストは、過去の音楽を参照にし、それらに対する愛情も滲みでているが、この参照や愛情を、自身のなかにあるオリジナリティーとせめぎ合わせることで、"今"に響くフレッシュなポップ・ソングを確実に生みだしている。このことを無視して、本作に収められた曲群を"パクリ"だの"まんま"だのと言ってしまうのは、昔の音楽を懐古するだけの老害とたいして変わらない気がする。

  当たりまえの話だが、音楽は一度たりとも面白くなかったことなどない。その都度、時代に響く素晴らしい音楽は常に生まれてきた。そしてこれらの音楽は、記憶という形で人から人へ受けつがれ、愛される。本作には、そんな音楽のロマンが詰まっている。だからこそ、本作のピュアなポップ・ソングは"今"に響くのだろう。"自分にとって宝物になりえる音楽"を探しているあなたに、ぜひ聴いてほしい作品だ。




【編集注】本作は《ano(t)raks》のバンドキャンプからダウンロードできます。

retweet

anis.jpgのサムネール画像

  ここには自我を削いだ歌がある。素の、あるいは無防備な歌と言える歌には草原で無邪気にたわむれるMV同様に、歌声を楽しんでいるところが窺えて、その無防備な姿勢が自然に自由に彼女らの個性を浮かび上がらせていく。するりと構えずに出てきたアニス&ラカンカの、聴けばすぐ誰が歌っているのか分かる個性的な歌声を聴いていると、あらためて個性と自我は別ものだと思わされる。「私の歌」を過剰に歌うシンガーにはない、漂い、浮遊し、やがて聴き手に溶け込む歌は、まるで雰囲気に似たものでありながら、しかし、芯があり、その吸引力は強い。

  フォーク・デュオであるアニス&ラカンカとはmmm(ミーマイモー)と埋火の見汐麻衣によるニュージャージーからやってきた姉妹ユニットとのことで(もちろんその設定はフィクションなのだけど)、ファースト・アルバムとなる本作『Aniss And Lacanca With The Chill Hearts』には、mmmと埋火の音楽性とは違う60年代ガールズ・グループを思わせる古き良きアメリカン・ミュージックの要素が多々ある。だが歌謡曲的なメロディ・ラインも含まれていて実に親しみやすい。音響も凝っている。ニュージャージーからやってきたという設定ながらもJ-POPや音響派、90年代オルタナティヴ・サウンド、ジャズやファンク、ドゥーワップ、カントリー、時として昭和歌謡を思わせるメロディなどをあっけらかんと取り込み鳴らしてしまうところから、音楽をジャンルというハサミで切らない今日的な感覚をアニス&ラカンカは持っていることが窺える。

  フェイク、スキャット、ハーモニーの柔らかさ、メロディ・メイカーとしての素晴らしさ、バンド・サウンドとしての一体感。そのどれもがリラックスした雰囲気そのままに、どこかへ流れることなく、良い意味でこなれたところもなく、「対峙するような音楽ではないと思う」という本人の言葉どおり気取ったところの一切がない。本作を小難しく考えるのは野暮なのかもしれない。

  いやいや、しかし、個性という観点で言えば、mmmの自由度の高い音楽性は活きているし、埋火の素通りできない、やや刺のある音楽性もまた、活きている。

  6曲目「マレーナ」でのmmmと見汐麻衣の歌声のかけ合いは、さながらROVOでの勝井祐二と山本精一のインプロヴィゼーションを彷彿させる躍動感があり、聴いていると前のめりになってしまう。はっきり言えば興奮する。これはふたりの歌のインプロヴィゼーションであり会話だ。しっかりしたメロディがありながら高音と低音が複雑に絡み合い、歌でリズムを作り、そしてそれを崩していく様子は歌とインストの違いはあるにせよ、マイルス・デイヴィスの「Nefertiti」にも通じるところがある。結果的に、mmmと見汐麻衣はアニス&アランカという匿名性を身にまとうことで今まで以上に自由奔放に可能性という蛇口をひねっている。しかもそれが偶発の産物とのことだからすごい。

  穏やかに音が染み込んでくる感覚があるのに高揚する本作を聴くことはある種の事故だ。予定調和ではない面白さが十分ある。あらかじめどんな音が鳴るのか分かっている音楽を聴く心地の良さは、音楽のひとつの側面としてあると思うのだが『Aniss And Lacanca With The Chill Hearts』は逆だ。一見、和やかなのに、思わぬ音に衝突してしまう驚きがある。そしてそれは知恵の輪のように絡まる歌によって醸しだされる。本作はただ気持ちいいだけのリラクゼーション・ミュージックではない。

  ボブ・マーリーが言ったように歌うことは呟きから始まるのだとしたら、何気ない歌のかけ合いから生まれたアニス&ラカンカの歌は何にも縛られない歌として今を生き、羽ばたき続ける未来がある。そういった輝きを秘めた音楽だ。

retweet

HOT PANDA.jpg
  ホット・パンダのメンタリティとしてあるのはパンク/ポスト・パンクやアニマル・コレクティヴなど影響力のあるものを象徴にせず、そして、それらは決して権威には成り得ない、ということをデビュー当初から堂々と音楽で表現している点だ。かつてストロークスのメンバーがロックンロール・リヴァイヴァルの象徴とされるのを嫌がったように、ホット・パンダのロック・サウンドとはロックンロール・リヴァイヴァルでもポスト・パンク・リヴァイヴァルでも、はたまた他の何かでもなく、標識化されることを迂回して鳴っている。

  ホット・パンダの音楽性はパブリック・イメージ・リミテッドやアニマル・コレクティヴ、時としてモデスト・マウスやトーキング・ヘッズを思わせる。にもかかわらず、ホット・パンダは特定のバンドの音楽性を後ろ盾にせず、象徴としての記号性をも削ぎ落とし、純粋に音としての素晴らしさをファースト・アルバム『Volcano...Bloody Volcano』とセカンド・アルバム『How Come I'm Dead?』にて鳴らした。それはサード・アルバムとなる本作『Go Outside』でも変わらない。このカナダはバンクーバーの、音に純粋性を求める4人組ロック・バンドは単純に音マニアなのだと思う。言うならば音しか信じていない。そこが面白い。

  ホット・パンダの音マニアとしての潔さはたっぷりと装飾された過去の作品からも窺えるが、本作では音数をかなり削ぎ落としている。大体において装飾を削げば削ぐほどバンドの本質は浮かび上がってくるものなのに、ホット・パンダの場合、削いでもあまり印象が変わらない。ゴリっとした質感が出ているが、グッド・メロディはもちろんのこと、音数は減っても音色と音の配置がポップ・アートのようにカラフルで、クラウトロックの要素もあり、しかも立体的。それでいて、これまでの色彩豊かな作品と比べれば最も生々しい音が不気味に笑っているかのごとく鳴っている。これはジャケットにあるように、ホット・パンダが音の中に裸でダイヴして捕まえた音を鳴らしていると受け取れるし、僕はそう受け取りたい。音楽表現という自由の中に深く首を突っ込むと、逆説的に自由という名の束縛に捕われることになる。その中で、一体何を鳴らせるのかをホット・パンダは本作で試みた。そうして出てきた音の全てには、タフとでも言うべき鳴りがある。

  アコーディオン、チェロ、トランペットがロック・サウンドの中で揺らぐように鳴り渡り、ノイジーなギターが楽曲に攻撃の色を与え、ヴォーカリストのシャウトは暗い洞窟の中での叫び声のようだ。そんな異臭のある本作には、「この音の中にダイヴする覚悟はあるのか?」と聴き手に迫ってくる熱がクールに存在する。それが妙に格好よく、なおかつリスナーの痺れを誘い、どの音も目に焼き付くように耳から離れない。彼らの本質とは音の装飾ではなく、音へのこだわりであり、足し算でも引き算でもなかったという当たり前のことに気付かされるのだ。タイトルは『Go Outside』だが、違う、本作は彼らの「Inside」であり、それゆえの生々しさがパルプのように妖艶に漂っている。

  08年に結成された音にこだわる音マニア、ホット・パンダが今も生きている点に新世代の風は止むことなく吹き続けるだろうと感じると同時に、音楽性は違っても、同じく権威や象徴から離れた場所で、音マニアとしての姿勢で音を鳴らすグライムスヒア・ウィー・ゴー・マジックなどがリスナーから支持されている現状は、ひとつの現象として今以上に注目されてもいい。


retweet

UNDERRATED-.jpg
  アルバムのタイトル名の『Underrated』から好戦的だ。過小評価された、見くびられたなどの意味を包含しながら、巷間の日本のインディーミュージック・シーンへの挑発を示すようなフレーズである。例えば、この作品をして付されている、2012年の日本における"NO NEW YORK"という位相も考察すると、より立体感が増す。当該作品は、1978年にブライアン・イーノがプロデュースを手掛けたコンピレーション・アルバムにして、時代の変わり目に確実な楔を打ち込んだ。実験性、前衛性、ノイズ・ミュージックの巧みなバランス。ザ・コントーションズ、ティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークス、マーズ、DNAの4組が混ざり合いながら、従来のパンクの概念を対象化せしめたのみならず、当時のNYのアンダーグラウンドで渦巻いていた熱量をアート的に再構築し、その後のシーンに多大な影響を与えた。

  このトリプル・スプリット・アルバムに参加しているのは、堅実な活動と評価が伴いつつあるリリーズ・アンド・リメインズ、先ごろの秀逸だった『Ripple』への参加とじわじわと存在感を地表化してきている世界的なバンド、彼らの盟友的なバンド、PURPLEという三組。それぞれがそれぞれをリスペクトの意を表しつつ、鬩ぎ合い、四曲ずつで参加している。

  簡単に各バンドを説明しておくに、リリーズ・アンド・リメインズは07年から京都から活動を開始し、その後、東京を軸に作品やライヴ活動を重ね、4月のカバー・アルバム『Re/Composition』でも鮮やかなセンスを魅せたポスト・パンクとスタイリッシュな黒さを華やかに纏うバンド。世界的なバンドは、名古屋発の3ピース。2012年のファースト・アルバムでのセンスは暗渠を覗き込みながら、鋭利なサウンドが印象的だった。PURPLEに関してはライヴでは独自の世界観を見せていたものの、こうして纏まった4曲が提示されることでより期待が膨らむ、関西のアンダーグラウンド・シーンで光を放つバンド。それぞれ、活動するメインの地域は違えども、STYLE BAND TOKYOでリンクしていたり、コンピレーションに参加するなどしていたが、こうしたスプリット・アルバムとして組むと、また色合いが変わってくるところが興味深い。

  1曲目のリリーズ・アンド・リメインズの「Final Cut」からこれまでの彼らの音楽的語彙とは違う穏やかな始まり、ニューウェーヴ色の強い清冽な曲になっている。凝られたアレンジメント、リフの組まれ方や途中のギターフレーズは彼ららしいが、KENTのボーカルも籠った感じよりは軽やかさもある。さらに、ダヴィーな音響空域の広がりも効果的になっている。ライヴでどう再写されるのか、楽しみな曲の一つと言えると思う。2曲目の重めのリフから始まる「When it's Over」はコーラス・ワーク、背景でドローン的な不穏なノイズがうねる、これも新機軸になっている。自らに課したストイックさと都度のモードや命題下で舵を切ってきた彼らだが、性急でグル?ヴィーな「Uncover」、直線的に駆け抜ける「Close to Me」、この4曲では、明らかに次のギアに踏み込むためのアート・パンクとでもいおうか、ルーツを確認しながらも、これまで以上に美しいフォルム、耳に響く音色、メロディー、上品なブルータルさが練られているのが分かる。

  そのまま受け継ぐように、世界的なバンドの5曲目、「NEW」が続く。タイトルを聴いて分かる通り、『Purple』に収められていた曲の別ヴァージョン。5分を越える中で、淡々とリズムが刻まれ、静かに音が重ねられ、ギターが残響を残し、ボーカルとドラムが奥行きのある空間で遠くに揺らめく。兎に角、サウンドスケープと各楽器のアンサンブルが骨組みだけながらも、鮮やかだ。6曲目の「Liminal」はストレートで疾走感のあるロック・チューン。ライヴでも映えてくるだろう、反復と微妙な差異が心地良く、スイングさせてくれる。間のギターのノイズも分断ではなく、接続のためのアクセントを示す。ミニマルな意匠とストイックな構成、後半への加速が印象深い「Flying Saucer」も録音物としての機能を隔て、演奏そのままの価値領域への再定義を促す。

  そして、9曲目からのPURPLEのパートも美しい。シューゲイズ・サウンドの中で高みに対して、陶酔を前に停めるかのような「With Mary」、淡々としたドラムのリズミングと呼応して、叫び声に深いエコーがかかる「Fly」、このアルバムのラストをしめる「Untitled」では7分を越え、モグワイやMONOが持つようなざらついた昂揚感を残し、終わる。

  このアルバムを聴き終わると、"NO NEW YORK"の残影もありながら、アンドレ・ブルトンがアメリカの画家アーシル・ゴーキーに使った「混種」という言葉を個人的に何故か想い出す。抽象/具象が安易な音楽的な解決方法を抜け、人間的である情動の沈殿物が「混種」内に今の、2012年の風景を描いている、そんなイメージが高度な自由さを持って発現している。作品物としても勿論、美しく、三バンドのそれぞれのこれからを示唆したものが合わさったケミストリーを起こしている内容になっている。だから、一回性の時間(ライヴ)でこれらの曲がどういう響き方をするのか、既にそちらに興味が向かう。既存の"固有されている"と思われるシーンとは、別にもう違う新しいうねりが地下水脈で起きている、それを実感させてくれる一枚だ。

【編集注】10月3日リリース予定


retweet

The Cribs 『In The Belly Of The Brazen Bull』.jpg
  イギリスで最良のポップバンド、クリブスがジョニー・マーの脱退後3人体制に戻って初のアルバム。ジョニー・マー加入の影響についてあまり好意的な意見を聞かなかったけれど、もともとのクリブスの曲の要素としてもあったメロウな部分がより強調された前作はぜんぜん悪くなかったぜ。たしかに初期3作の勢いみたいなものは減退していたと言わざるを得ないけれど、4作目も同じテンションだったら、それはそれでどうかなと思うし。

  今作は「やったぜクリブス、初期の瑞々しさと勢いを取り戻したぜ!」みたいなことだけではなく、きちんとジョニー・マーのメロディ・センスを所々で引き継いでいるのが素晴らしい。何だかアップテンポのドタバタな曲が物悲しく聴こえてくるのはそのせい。これもまた泣きメロというやつではないだろうか。ラスト3曲がじつは繋がっていて大作風になっているところは新境地かもしれない。だけどコンセプチュアルに偏ったアルバムは作らないね、彼らの場合。それがクリブスのルールというものだ。"シンプルにやる"。

  毎度毎度引き合いに出して恐縮なのだが、カイザー・チーフスやクリブスのようなバンドは国宝ですよ。片方はスタジアムが、もう片方はライブハウスが似合うバンドではあるけれど、両バンドは共通してかたくなにそのスタイルを貫き通す。好きな音楽をずっとやっている、という、現代においては最高の夢を実現しているのだ。彼らの音楽を聴いているとすごく元気にならないか。だっていつも自分の居場所じゃないと分かっていて気まずい想いをしているような人生を捨て去って、思いっきり叫ぶことのできる場所があるって教えてくれてるんだからさ。それはけっして現実から逃げることではない。現実から逃げたいのならグローファイとかを聴けば良い。ボブ頭のかわいい女の子だって、運が良ければ見つかるかもしれない。でもそういうのじゃないんだ、と思うのなら、クリブスの最新作をBGMにして堂々と突き進めば良い。

  最後はよく分からない話になってしまいましたが、これは間違いなく彼らの最高傑作です。そういえば聴いていなかったなあ、という方は(けっこう多いと思います)ぜひこの機会に爆音で聴いてみてください。爆音で。




retweet

印象派「SWAP」 .jpg
 確か印象派と出会ったキッカケは、タワーレコード関西5店舗限定でリリースされたシングル「HIGH VISION / ENDLESS SWIMMER」だったのだけど・・・あっ、ちなみに印象派というのは、mica(ヴォーカル/キーボード)とmiu(ギター/ヴォーカル)による関西発の女性2人組ユニットのことで、シスレーやモリゾ、音楽的に言えばドビュッシーやラヴェルなどの"印象派"ではないのであしからず。

 というわけで話を戻すと、「HIGH VISION/ENDLESS SWIMMER」を聴いたとき、思わずお口をポカーンとさせてしまった記憶がある。特に「ENDLESS SWIMMER」の、毒を含みつつもクセになるキュートなポップ・センスに、文字通り"やられた"のだ。ほんの少しアンニュイなヴォーカルに、語感の良い歌詞。そして好奇心をくすぐる中毒性。これらが知的ポップ・ミュージックとして上手くまとめられた「ENDLESS SWIMMER」からは、印象派のハイなセンスを感じとれる。

 そんな印象派による1年ぶりのシングル、それが「SWAP」だ。本作は前作同様タワーレコード限定シングルだが、関西5店舗限定だった前作とは違い、初の全国流通盤となっている。収録曲は「SWAP」と「IN」、それに「SWAP」のインスト・ヴァージョンを加えた計3曲。

 タイトル・トラックの「SWAP」は、ダンサブルな曲調と歯切れの良い歌詞が聴き手をどんどんハメていくポップ・チューン。ちなみに「SWAP」は"交換する"という意味を持つ英語で、オフィシャルのアナウンスによると、曲自体は純恋の讃歌だそうだ。

 しかし筆者が「SWAP」を聴いて脳裏に浮かべたのは、ポール・マザースキー監督の映画『ボブとキャロルとテッドとアリス』である。この映画は"スワッピング"、つまり複数のカップルがお互いのパートナーを取りかえて行う集団的性行為を描いたセックス・コメディーだが、「SWAP」を聴いていると、この映画に登場する愛の自由と解放の精神にそくした夫婦交換のベッド・イン・シーンがちらついてしょうがない。

 "スワッピング"を"スワップ(SWAP)"と呼ぶこともあるし、もし「SWAP」が"スワッピング"で得た興奮を描いているとすれば、純恋どころか、けっこう過激な曲のようにも聞こえてくる。「SWAP」は他にも金融/IT/自動車用語としても使われていて、それぞれ含意も違うが、「SWAP」が金融やIT、ましてや自動車について歌っているとは・・・とても思えない。

 そして「IN」。こちらもポップなダンス・チューンだが、ザ・ゴシップ「Standing In The Way Of Control」を想起させる展開に、ミスター・オワゾーに通じるキュートなアシッド感覚、さらにはジャーマン・エレクトロの要素も窺わせるなど、ほんの少しトリッピーなニューウェイヴ・ディスコである。「イン」と繰りかえし連呼するヴォーカルも、かなりキャッチーだ。

 ミックスは、ねごとや小南泰葉を手がける玉ノ井光紀が担当していて、ふたりのカラフルなポップ・センスをさらに際立たせる手腕は"さすが"のひとこと。印象派と玉ノ井光紀の組みあわせで制作されたアルバムを聴いてみたいと思わせるくらいだ。見た目は可愛らしいふたりだが、本作を聴けば聴くほど確信犯的な匂いがしてくるし、将来が楽しみな逸材である。


retweet

ORGE YOU ASSHOLE 100.jpg それまでは一部メディアでは何らかの形で、アニマル・コレクティヴ、モデスト・マウスなどUSインディー・シーンとの共振、親和の枠で語られるところから確実に舵を切り、AOR的な意匠を含み、柔らかな無的な何かへの降下を望みながらも不穏なサイケデリアが覆っていた転機作『homely』。毀誉褒貶が分かれたが、聴取者に何らかの壁を置き、敢えて拒むようなノーマンズ・ランド的サウンド・デザイン、モダンネスの尖りは彼らの覚悟が伺えた。

  そして、この『100年後』は新しいフェイズに更に踏み込んでいる。物悲しいトーンとかなりシェイプされた音像が真っ先に飛び込んでくる。「100年後には今あるものは何もない、生きている人もいないと思うとホッとする」と述べているギター、ボーカルの出戸氏の発言があるとおり、世界から少し外れ、チューニングのズレた場所で、静かに音楽でトリップしてみせる、そんな様がオウガ・ユー・アスホールの一つの美しさだったとしたら、この9曲は、筒井康隆の1989年に発表したSF小説『残像に口紅を』ではないが、どんどん使える文字がなくなっていき、最後には《なにもない》(「泡になって」)という言葉が「ある」ということを突き詰めてゆくエクスペリメンタルな試行の痕と浮遊感がある。それでも、コンセプチュアルという文脈では、今作はより構成は練られている。

 オウガは、現在、オリジナル・メンバーは出戸氏以外に、ギターの馬渕氏、ドラムの勝浦氏の3ピースになっている。囲む敏腕のサポート・メンバー、プロデューサー、エンジニア、精鋭の鉄壁の布陣にある。例えば、前作のときにも挙げたが、後期のフィッシュマンズ、ゆらゆら帝国が最後に向かっていったときに残ったものは空気の"揺らぎ"とほのかな光へ向けての近い希求的な何かだったが、確実に彼らもそういった境地にリーチしようとしているのがほのかに可視化出来ながら、そういった訳でもないのも面白い。

  リードでMV公開されていた「夜の船」はメロディーと滑らかなサウンド・メイクだけ捉えれば、これまで以上に拓かれたポピュラーさがあるのも然り、これまで以上に求心力と透き通った音風景に魅せられる。ドリーミーであり、ヒプナゴジカルな要素とともに、時おりフッと引っかかるメロディーから、その時の感情の揺れで多くのミーニングで捉えられそうな耳に残る直截的な歌詞は彫像美みたく、触れた途端、折れてしまいそうな繊細さもありながらも、無比の世界観の生成は極まった。今の時代のぼんやりと漂う不穏さとシンクするとともに、なだめすかすムードがあるのも麗しい。

 ただ、ここまでの境地まで入ってしまった彼らのネクスト・フェイズが既に気になってもしまうのも杞憂だろうか。最終曲の《なにもないからどうにでもなれる》(「泡になって」)に沿うならば、そのどうにでも、はどうなるのか。どうなった結果のオウガはさらに捉えようのない化け方をしてゆくのか、分岐点というよりは、分かれ道を自ら設定したアルバムだという推察も出来る。聴き手、受け手は踏まえて、けもの道を行くのか、舗装された道を行くのか、は見えない。

 それでも、言葉と音の混じり合いが存外、セクシュアルでしっかり、トバしてくれる感覚がある所為か、そこまで窮状に神経が詰められるというよりも、彼らの提示するプレートに足を乗せたら、極北の幻想へと運んでくれる節もある。極北の幻想―そのイメージは幸福なのか、不幸なのか、把握するには"100年"ではおそらく足りないだろう。シンプルに削ぎ落とされたタイトル名。「これから」、「夜の船」、「素敵な予感」、「100年後」、「すべて大丈夫」、「黒い窓」、「記憶に残らない」、「泡になって」のとおり、ネガ・ポジを往来するというよりも、保有していた予感があらかじめ刈り取られるようなその線の上で、9曲の総体が想像の限界地点に置かれる。

  これを『LONG SEASON』の揺蕩いへの接近と迎えるには、牧歌的な時代の話で、暗がりを帯び、ソフトな質感で何らかの終わりに向かうのが彼らの今のスタンスを示す。終末思想でも諦観でもない、オウガが作品を重ねていく中で、見えてきたリアリティを音に歌詞に落とし込んだとき、以前のようなカラフルさと螺子の外れたアレンジメントは必要なかったという真摯なジャッジなのだろう。そのジャッジは、曖昧な藪の中に隠される可能性もある、それがこの作品の持つ深みだと思う。

 「深度」は「進度」とともに、彼らの在り方は反転的に極北の有的な何かへと対峙していこうとするのは胸打たれる。今、彼らは過度の装飾や意匠もなく、身一つのままで「100年後」を夢想する。サイケデリックな浮遊感と要所に響くフレーズや音色、メロディー、オウガは孤高の場所に立つことになった。孤高に立ったからこそ、見渡せる未来はどこまで先なのだろうか。

 

(松浦達)

 

【編集注】9月19日リリース予定。

retweet

ricardo-villalobos-dependant-and-happy.jpg リカルド・ヴィラロボスの名を聞くと、筆者のとあるエピソードを思いだしてしまう。某クラブで知り合い、今は友人として親しくさせてもらっている方の妹さんに出会ったときのこと。その妹さん、おそらく熱心にテクノを聴いてはいないはずで、実際それほど詳しくはないのだけど、そんな彼女のiPodに入っている曲を見せてもらうと、2008年にリカルドが放ったフロア・アンセム「Enfants」が入っていた。なぜ「Enfants」を入れているのか訊いてみると、「この人についてはよく知らないけど、子どもの"ワワヤヤー"って声が忘れられないから」とのこと。

 それを聞いて筆者は思わず笑ってしまったのだが、確かにリカルドは、"実験的" "難解"と言われながらも、フロアで聴いた次の日にレコード・ショップへ走らせるキャッチーな曲を数多く生みだしている。「Enfants」はもちろんのこと、生首ジャケが印象的な長尺トラック「Fizheuer Zieheuer」でさえ、1度聴いたら忘れられないポップな旋律がある。そして、このキャッチーな側面が戻り、顕著になったのが、ミニアルバム「Vasco」以来約4年ぶりとなるアルバム『Dependent And Happy』だ。

 とはいえ、リカルドのキャリアを追いかけている者なら周知のように、彼は過去を繰りかえすようなマネはしない。特定のスタイル、シーン、コンセプトに依拠することなく音楽を作ってきたし、常に"自分自身"を超えるためだけに創造性を発揮してきた。その向上心は本作でも衰えておらず、それは本作がアナログでは5枚組で構成され、パート1・2・3に分けてリリースされていることからも窺いしれる。

 肝心の音は、ため息がでるほどの綿密なプログラミング、そこにリカルドが持つ狂気をスパイスとしてふりかけることで、艶かしい官能美すら感じさせる音像が構築されている。特にドラム・プログラミングは秀逸で、細かいベロシティーの設定や繊細なイコライジング、さらには音の抜き差しのタイミングまで、非の打ちどころがない。

 ほとんどのトラックがお得意の4/4リズムであるにも関わらず、聴けば聴くほど本作のトランシーな深淵世界にのめり込んでしまうのはそれゆえだし、研ぎすまされた音がシャープに絡みあっていく「Das Leben Ist So Anders Ohne Dich」のようなビートレス・トラックを間に挟むことでアルバムに起伏をもたらすなど、全体的な流れもよく練られている。

 だから特に推したい曲、というのが実はなくて、「とにかく全曲通して聴いてください」としか言えないのだが、強いて推すなら、やはり「Put Your Lips」になるだろう。男女のヴォイス・サンプルが細やかに変調しながらループし、そこに鋭利なリズムがスマートに忍び寄る瞬間(この瞬間は間違いなく本作のハイライトのひとつ)は、何度聴いてもハッとさせられる。

 そして本作は、ルーマニア勢のミニマリズムと比べられるのだろうけど、筆者はLFOの名を挙げてみたい。顰蹙を買うことは承知のうえで言うのだが、「Das Leben Ist So Anders Ohne Dich」の音色は、LFOの『Frequencies』に収められていてもおかしくないように聞こえるし、アルバム全体を通して、90年代初頭のブリープ・テクノに通じるヘヴィーなベースが多い。

 昨今話題のバレアリックなインディー・ダンスなどは、一昨年あたりから90年代の音楽をブラッシュアップしたような音を鳴らしているが、そうした潮流にリカルドも便乗した? と、本作を聴いて思ったのが正直なところ。だからといって批判するわけではないし、便乗の云々関係なく、本作が今年のベスト・アルバム候補たるクオリティーを備えていることに疑いの余地はない。

 ただ、「Vasco」リリース以降にリカルドが手がけたリミックス・ワークのほとんどは、実験精神が暴走した凡庸なトラックが多かっただけに、リカルドなりに本作のジャストなバランスを見つけるため、あえて90年代初頭のエレクトロニック・ミュージックの要素を取りいれたのではないか。だとしたら、本作の平易な側面にも説明がつくのだが。

 

(近藤真弥)

 

【編集注】CD版はミックス仕様。日本盤は9月26日リリース予定。

retweet

WILD NOTHING『Nocturne』.jpg ワイルド・ナッシングことジャック・テイタムは、80年代UKインディー・ポップへの憧憬を抱いている。ジャック自身インタビューでザ・スミスやキュアーに対するリスペクトを公言しているが、この憧憬は、『Gemini』から2年振りとなるアルバム『Nocturne』においても、ジャックの底流を成す重要なものであるようだ。親しみやすいグッド・メロディーに、シンプルながらもキャッチーなリズム。謂わばポップ・ミュージックの普遍性とも言える要素を抽出し、磨きあげた歌が詰まっている点も前作と変わっていない。

 スマッシング・パンプキンズのストリングス・ワークを参考にした「Shadow」など、90年代に影響を受けた音楽が多い昨今の潮流と共振する曲もあるが、これは流行を意識したというより、ジャックの嗜好が素直に反映されただけのように思える。アルバム全体を通して聴くと、やはり従来の80年代UKインディー・ポップ的要素が随所で見られるし、そういった意味でジャックは、良く言えばマイペース、悪く言えば流行に鈍感な人なのかもしれない。

 だからといってまったく変化がないわけではなく、「Counting Days」「The Blue Dress」は従来のワイルド・ナッシングには見られなかったメタリックな質感を湛えているし、「This Chain Won't Break」には、スパイスとしてダブ的処理が施されるなど、明確な音楽的前進が窺える曲もある。これらの曲は、音楽リスナーとしてジャックが備えている多様性と、ワイルド・ナッシングを"ドリーム・ポップ"なる単一タグで語る者に対する反抗心が垣間見えるようで面白い。

 とはいえ、本作の一番の魅力は、ディレイドな者たちに捧げられた美しいプレゼントであることだろう。凄まじいスピードで情報が飛びかう現代において、流行の移りかわりが激しいのは当たりまえとなっているし、多くのポップ・ミュージックは、ひとつの消費物として瞬く間に捨てさられる運命にある。

 だからこそジャックは、ひとつの消費物となることを拒むかのようにそれぞれがオリジナリティーを追求し、ナイーヴながらも多くの人に受けつがれるだけの音楽を残した、80年代UKインディー・ポップにシンパシーを抱くのかもしれない。

 このシンパシーは、本作に"時の流れ"というある種残酷なものに耐えうる強度をもたらし、さらに"ポップ・ミュージックにはこうあってほしい"というジャックの願望と相まって、"人と人を繋ぐためのポップ・ミュージック"として愛されるクリアなピュアネスを獲得している。

 本作のクリアなピュアネスについては、プロデューサーを務めたニコラス・ヴェルネスの仕事や、設備が整ったニューヨークのスタジオに入って制作されたこともあるのだろうが、それ以上に本作がクリアな音像となり、リバーブやディレイの海に溺れていないのは、ジャックのポップ・ミュージックに対する理想主義が貫かれているからではないだろうか。その理想とはおそらく、普遍的なものとしてのポップ・ミュージック、それこそ先述した、"人と人を繋ぐためのポップ・ミュージック"だと思う。前作より開かれた印象を抱かせる本作を聴くと、そう思えてならない。

 

(近藤真弥)