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efb.jpg  かつて詩人の谷川俊太郎はこう言った。「純粋に言葉の美しさを求めるのなら言葉に意味を宿してはいけない」と。確かにそうかもしれない。音楽表現に話を移せば僕らは音楽に何か意味を求めてしまう場合が多いのだろうし、意味が宿っていると思う場合が多々ある。

  しかし、フランス在住のシンガー・ソングライター、ツジコノリコとドイツ在住のエレクトロニック・アーティスト、竹村延和が創作したアルバム『East Facing Balcony』は平和も反戦も愛も表現していない。自分すら表現していないと感じる。そこに意味付けはなく、いわば音楽によって音楽を表現している。無論、それは矛盾した言い方だ。しかし、音楽は音楽しか表現できないという意思が本作に内在されている。それゆえの美しさは谷川俊太郎の詩と結ぶことができるだろう。

 もともと竹村延和は個人名義の作品で電子音楽の匿名性を穏やかにころころと可愛らしく鳴らすことができた。すっと感情の昂ぶりが抜けていく繊細な音色、透明度の高い潔白な音の数々は、自我を押し付けるところは一切なく、音が寄り添ってくる感覚があった。そう、無垢だった。子供のように。これらはそのままツジコノリコにも言える。同じ感覚を持つふたりのコラボレーションは自然というより必然だった。

 本作はレイ・ハラカミと矢野顕子によるヤノカミと比べることができ、ヤノカミがジャンルの融合というよりは、人と人との出会いによって生まれる創造性だったことと同様に、本作もまた、出会いの音楽としてある。『East Facing Balcony』を聴いて思ったのは、もはやジャンルの融合に価値を見出す時代は過ぎ去り、人と人との出会いが音楽を生み出していく時代が主流になってきているのだということだった(アニス&ラカンカや高野寛+伊藤大助がまさにそうだし、ヒップホップやジャズ、リミックス・ワークに関して言えばきりがない)。

 「Kirei」での、ゆっくりと弧を描くように歌われる歌声とコーラスには聴き手の意識を静かにさらっていく幻想的な響きがあり、コーラスが重なっていくたびに圧迫されるというよりは楽曲が弛緩していき、決して昂らず、落ち込みもしない歌の温度が辺りに広がっていく様が肌で感じることができる。アルバムを通して室内楽的な鳴りが丁度いい具合に品よく貫かれている。管楽器やウッド・ベースがわずかにジャジーな香りを与え、ポスト・クラシカル、ハウス、テクノ、IDMを思わせる音色が加わるが、何かのジャンルに流れる様子は見受けられず、驚く程ごく自然にジャンルの無効化として本作は存在している。

  ジム・オルークやフェネスを彷彿させる音響を生み出したうえで幼げな声で詠うポエトリー・リーディングやラップは、言葉が音としての美しさを持っていることを聴き手に思い起こさせる。しかも言葉が持っている意味はするすると抜け落ちていくという感覚を本作は鳴らしているものだから、噛み砕かずとも全ての音が聴き手にすっと入り、違和感を覚えるところが一切ない。

 本作には意味付けされていない、あるいは意味付けできないがゆえの、音楽の潔白性という美しさがある。もちろん資料的な文脈で語るなら、この作品に意味付けはいくらでもできるだろう。しかし『East Facing Balcony』の根底にあるのは、この音楽は音楽以上のものには成りえず、純粋な音楽表現ということなのだ。その音の鳴りと大衆音楽としての強度に不思議と嬉しくなる。今年の重要作だ。

 

(田中喬史)

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SMILELOVE.jpg 垢抜けていないのに洗練されているという、なんとも摩訶不思議なロックに仕上がった4人組のスマイルラヴの本作「Njajaja」(7インチ)は、ペイヴメントやヴェルヴェット・クラッシュらと比べることができるサウンドで、その入り組んだギター・サウンドの数々は実に複雑でいてキラキラと輝いている。

  思ってもみなかった場所で友人と出会ったときのような驚き、喜び、みたいなものがありながらも、そういった感覚論だけではなく、ギターのフレーズの一筋一筋が突発的な新鮮性を持って鳴らされるものだから聴き手を飽きさせない。シンプルなフレーズも、折れ線グラフのようなフレーズもきまっている。

 それ以前にベース、ギター、ドラム、女性ヴォーカルそれぞれの絡みが絶妙だ。バランスが崩れそうで崩れない境目を縫うように鳴っている。それはミックスを手掛けたコーカス(CAUCUS)の柳川勝哉によるところが大きいのだろう。

  もともとスマイルラヴが持っていた引き出しを一気に開け広げ、整頓し、提示している。でも妙な細工はしていない。それがスマイルラヴの小気味の良さをさらに浮かび上がらせていて痛快なのだ。ポップなジャケット同様にポップ。ついボリュームを上げたくなる。

 

(田中喬史)

 

【編集注】本作はTHE STONE RECORDSにて販売中

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ドレスコーズ.jpg 時にロックンロール・スウィンドルとして、時に類まれなロマンチストとして、デカダンスの衣を纏いながら、毛皮のマリーズのフロントマン志磨遼平は日本のポップ・ミュージックシーンにおいて常に特異な存在感を放っていた。

  しかし、メジャー・デビュー以降リアル・タイムでその活動を追っていた身としては、彼らの出す音源にはいまひとつピンとこなかったというのも正直なところだ。その理由の一つとして彼らのパスティーシュが、その露骨な、過去の音楽への参照が彼らなりの表現形態として結実しておらず、少なくとも音楽としての面白みが感じられなかったからだろう。

 例えばミイラズ(The Mirraz)はアークティック・モンキーズへのあからさまな執着/模倣が最終的に彼らのスタイルとして昇華されることによってその表現型が確立されたが(メジャー1stシングル「僕らは/気持ち悪りぃ」で彼らはまた次のフェイズに入ったようだが)、毛皮のマリーズにおけるそれはどうしても模倣以上の何ものかがそのサウンドから立ち上がってこないように思えたからだ。

  彼らが参照する様々な音楽、例えばメジャー1stアルバム『毛皮のマリーズ』におけるRCサクセションやT.Rex、ほとんど志磨遼平のソロ・アルバムといってもよいメジャー2nd『ティン・パン・アレイ』におけるフィル・スペクター、ティン・パン・アレイ(ティン・パン・アレイとはNYの28番通りの5番街とブロードウェイにはさまれた、音楽出版社が集まっていた一帯を指す。ここで、ジョージ・ガーシュインをはじめとした多くの優れた才能を持ったアーティストによってロックンロール誕生以前のアメリカン・ポップスの基盤が整えられていった)などは確かにそれぞれのアルバムのコンセプトに適しており(その参照はサウンドだけではなく歌詞レベルにも及んでいる)、そのチョイスの幅広さとセンスには唸らされるものがあるが、その器用さがもたらしたのは豊潤さではなく、毛皮のマリーズというバンドのアイデンティティ(それは結局なんだったのだろうか)をわかりにくくする曖昧さではなかっただろうか。

  その曖昧さはしかし、彼らの唯一無二の魅力として機能していたのもまた確かであり、それがどこに行き着くのかを見届けるつもりで彼らの動向には常に注意を払っていたのだが、周知のとおり去年の9月に彼らはラスト・アルバム『THE END』を発表し、そして解散してしまった。

 映画『苦役列車』の主題歌にドレスコーズ「Trash」が使われる、という記事をネットで見つけたのがドレスコーズというなにやら怪しげな名前を持ったバンドとの初めての出会いであった。その名前に魅かれるままにバンドのことを調べ、志磨遼平が新たに作ったバンドだと知った時には驚いたものだ。そして彼らのデビュー・シングルの曲名が「Trash」=「ゴミ」であったことには志磨遼平らしさを感じ、そこには新たな始まりを予感させる極めてポジティヴな響きが宿っているようにも思えた(英バンド、スウェードの美しい同名曲がバーナード・バトラー脱退後の彼らの低迷を覆した起死回生の一曲であったことがその理由の一つであろう)。

 ドレスコーズの1stシングル「Trash」、特にタイトル曲である「Trash」とフランス語で歌われる志磨のヴォーカルが気怠く、そして艶めかしいミュゼット風のロック・ナンバー「TANGO,JAJ」における主役がドラムスの菅大智であることはまず間違いない。ザ・フーのキース・ムーンを彷彿とさせる、荒れ狂う彼のドラム・サウンドは、今後ドレスコーズのゆるぎないトレード・マークとなってゆくだろうということが容易に想像つく。これほど手数が多いのにもかかわらず、まったく曲の邪魔をせず、志磨の歌と詩を引き立てているところが実に素晴らしく、希有のドラマーの誕生に立ち会ったのではないかという興奮を覚えてしまったことは隠しようもない事実だ。山中治雄(元チョモランマ・トマト)のベースと丸山康太のギターがある程度、曲の世界観に寄り添っているように聴こえるのに対し、この菅のドラムスは、間違いなく曲を構成している大きなファクターでありながらもその曲を内側から食い破ってゆくようなバイオレントなものとして存在している。志磨にとって、自分以外にもう一つの強い個性がバンド内にいるという事実が非常に新鮮なものであることは、ワンマン・バンドとしての色が強かった毛皮のマリーズの頃と比較して考えてみるとまず間違いないだろう。

 この新たなバンドを得て、志磨は「I'm Trash」と歌っている。ここには後ろ向きな想いはまったく現れていない。彼はマーク・ボランがメタル・グル―に呼びかけたように、ボブ・ディランが「How Does It Feel?」と歌ったように、彼は潰れた爬虫類のような声でBlueに「何かを失った気分はどうだい?」と歌い、デヴィッド・ボウイがロックンロールの自殺者となった時のように、こめかみに銃を突きつけながら「打ち抜いてくれコルトガバメント」と歌っている。クリシェとしてのタナトスに満ちた志磨の歌詞は《愛し合う、ってやつをちょっとばかりつかむんだ》という言葉と同列に並べられることによって強烈なスウィング感を生み出し、それはロックの歴史が作り上げてきた、限られたものだけが使用することを許された方程式に従って、類まれな高揚感となる。

 この3曲だけではまだ、ドレスコーズの全貌は見えてこない。前述したような毛皮のマリーズが持っていた(と私が考えている)問題点がまた顔をもたげてくるとも限らない(事実3曲目「バラードの犬」には毛皮のマリーズの時と同様の危うさが漂っているように思える)。しかし、来るべき彼らの1stアルバム(9月1日、オフィシャルサイトのNEWSに1stアルバム完成との報告があった)はこういった不安を軽々と越えてくるような傑作になるのではないかという期待のほうが今ははるかに大きい。

 オフィシャルサイトのCOLUMNで志磨遼平は「ぼくは幸福を恐れない」と書いていた。そんな男が作る音源がどんなものになるのか、楽しみでならない。

 

(八木皓平)

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チーナ『GRANVILLE』.jpg  ピアノとヴァイオリンを有効活用したモダン・サウンドと力強い声、そして淀んだ雲間から光が差すような希望に満ちたメロディーを奏でる4人組、チーナ。彼らが1st フル・アルバムを発表した。

 「去年カナダ・ツアーに行かせてもらって、それがバンドにとって凄く良い経験になったんです。ツアーから帰ってきて最初に取り掛かったのが、アルバムのリード曲"Granvill Island Market"なんですが、特にアルバムのコンセプトはなく、今のチーナの空気感をパッケージしたかったんですよね。グランヴィル・アイランドっていうのはバンクーバーにある大きなマーケットなんですが、カナダから帰って来ました! みたいな感覚で、アルバム・タイトルを『GRANVILLE』にしました」(Gt , microKORG / リーダー)

 高いインテリジェンスと豊かな音楽センスを持った彼らだから、ポップス、クラシック、ロック、オーガニックといった要素を自由に操りつつもとっ散らかっていたり難解な印象はなく、ハイセンスなサウンドを確かなテクニックで聴かせてくれる。そして今作はデビュー作『Shupoon!!』の頃から変わらない穏やかなシニシズムとポップさへの尋常ではない求道心を、愛しく味わえる作品にもなっているのだ。だが勿論、変化してきたこともある。

 「アレンジに関して、今まではそれぞれのパートを殆ど完成させてから皆で合わせていんですが、今作ではそれぞれが全体を意識して組み立てるようになりました。やっと自分のパートを引いて考えられるようになりましたね(笑)。音については、ライブ感、空気感を今まで以上に意識していました。前作からの2年半でライブもどんどん変わってきていて、そのライブの空気をそのまま録りたいと思っていたんですが、それが今回は出来ましたね」(Cb / 林絵里)

 どんな曲調においてもブレない林のコントラバス、どんなアレンジであっても唯我独尊ぶりを発揮する柴由佳子のヴァイオリン・プレイといった新たな発見もありながら、それらのメンバーを魅了してやまない椎名杏子の豊かな歌声に耳を奪われる。そしてそのサウンドもさることながら、興味深い詞の世界にも注目して欲しい。

 「難しい言葉で歌詞を書く方がすごく簡単なんですけど、なんかあんまり好きじゃないというか、ごまかしているというか。簡単な言葉なんだけど、本当に私から出ている歌詞を生もうと思って書いています。いわゆる正しい事は書かないっていう風に思っていて、今回のアルバムでも曲によって言ってる事が結構矛盾してて(笑)、そういうのも気に入ってます。日によって気持ちとかテンションとか違うし、そういうのも作品に出していけたらなと思っています」(Vo,Pf /  椎名杏子)

 細部にこだわった今作の音と詞に、同時に開放感が存在するのも彼らなら凄く自然なこと。セルアウト感のあるポップ・フィールドに色目を使った脱皮でもなければ、無理な変革志向があるわけでもない。自然に日々の関心のありかを綴っている。

 「本当に自分たちが良いと思ったものを作りたいです。そういうのって絶対お客さんに伝わると思ってるし、共感してくれなくてもしてくれてても、自分たちの音楽をこいつらはやってるなっていうのは伝わって欲しいです。後、チーナってどんなに暗い事言っててもなんか明るい音楽になるってよく言われるんですけど(笑)、それって多分メンバーの人柄がそうさせてるのかなーと思ってます。そういうのも聴いてくれてる人に浸透したら嬉しいです」(椎名)

 

(粂田直子)

 

 

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Maria Minerva『Will Happiness Find Me?』.jpgのサムネール画像 結論から言うと、エストニア出身の女性アーティスト、マリア・ミネルウァにとって2枚目となるフル・アルバム『Will Happiness Find Me?』は、ポジティヴなヴァイヴと情熱に満ちている。

 まず目を惹かれるのが、"幸せは私を見つけてくれるの?"と読める、少々不安げな心情を覗かせたアルバムタイトル。しかし曲名のほうは、「Never Give Up」「Mad Girl's Love Song」」、そしてアルバムタイトルを副題にしているのが示唆的な「I Dont Wanna Be Discovered (Will Happiness Find Me?)」など、前を向くマリアの姿が目に浮かぶものが多い。そのなかでも特に面白いのが「Mad Girl's Love Song」で、これは告白派の詩人として知られるシルヴィア・プラスの、その名もズバリ「Mad Girl's Love Song」という作品から引用したタイトルだ。

 シルヴィア・プラスといえば、生々しい性的イメージを読み手に抱かせる「黒いちご摘み」や、不眠症の男が見る悪夢を切り取った「不眠症患者」など、極限状態のなかから生まれる一場面を抽出したような詩を書いてきたことで知られ、また、今年の4月に公開された、ファッション評論家のダイアン・ぺルネと映画監督セニオ・ザプルーダーによるショート・ムービー『Shaded Fabulae Romanae』もシルヴィアの作品からインスピレーション(これまた「Mad Girl's Love Song」)を受けるなど、いまなお絶大な影響力を持つ詩人である。

 シルヴィアは、ガスオーブンに頭を突っ込んで自ら命を絶つまで、世間体と自らの本質とのギャップに苦しみ、そのギャップが自殺を促した要因のひとつとされているが、筆者はそんな彼女のギャップと、本作のアルバムタイトルと曲名のあいだにある温度差がダブって見えてしまう。とはいえ、本作には重苦しい雰囲気など皆無だ。むしろマリアは、自身のギャップ(温度差)と向きあい、それを"そのままでいい"とばかりに肯定することで、本作に開放感と多様な音楽性をもたらしている。

 「I Dont Wanna Be Discovered (Will Happiness Find Me)」など、本作でもマリアの十八番であるハウス・トラックは聴けるが、オリエンタル・サウンドが印象的な「The Sound」、ダブ的処理を施した「Perpetual Motion Machine」、さらにはリズミカルな歌唱と目まぐるしい展開がキャッチーに響く「Sweet Synergy」のような曲もあり、本作はこれまでマリアが生みだしてきたどの作品よりもバラエティー豊かなものとなっていて、マリアの音楽的ポテンシャルが見事に花開いた作品である。そして、この多様性と先述の温度差、それはまるで、マリアの奥底に宿る闘志が露わになっているようで、感動的なまでの力強さを感じさせるものだ。

 この闘志と力強さの理由を、マリアの出身地であるエストニアの歴史に求めることも可能だろう。エストニアはナチスとロシアに支配されていた過去を持ち、ソ連時代にはロシア化政策を推し進められロシア人が多く住むようになるが、1992年には増えすぎたロシア人を排除するため、エストニア政府が市民法に制限を加えるなど、何かといざこざが多い国である。また、政府がソ連時代のモニュメントを撤去したことで暴動になった、いわゆる《タリン解放記念碑撤去事件》が起きたのも記憶に新しい。こうしたエストニアの歴史が、マリア・ミネルウァの背景にあるのは確かだ。

 だが筆者は、マリアが自身のなかに在る音楽を素直に表現していることに深く感動するし、特筆したい。マリアのセンスをもってすれば、本作のギャップなど簡単に取り繕って隠したような作品を作りあげることもできたはずで、しかしマリアは、本作においてマリア・ユール(マリアの本名)というひとりの女性を表現している。そんな境地にマリアが至ったことに、もっとも拍手が送られるべきではないだろうか? もちろんエストニアという国、それからフェミニズムと関連付けられることも多いシルヴィア・プラスが引用された本作を、ポリティカルな言説で評価することもできるが、普遍的共感を誘う歌が収められた本作は、政治やジャーナリズムの持つ言語では到底捉えきれない位置にある。それに音楽って、そうした言語では語りきれないナニカを掴むためのものでしょ? このことを、テクニックは最低限、しかし情熱は最大限のマリアは雄弁に教えてくれる。

 

(近藤真弥)

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坩堝の電圧+.jpg 本作のリード・シングルにあたる「everybody feels the same」での目醒ましい疾走感は既存のファンのみならず、新規のファンにも堅実な衝動を与え、それを踏まえての7月31日の東京、代々木公園でのフリーライヴでは、新旧曲を出し惜しみなく、今のくるりを体現してみせた。更には、各メンバーのTwitterや公式HPを使って積極的なパーソナルなことを伝え、石巻へ訪れ、チャリティー・シングル「石巻復興節」を披露するなど多岐に渡る動きまで含め、より身近に自分たちの存在を世の中に預けていたところがある。ステージ上で居る自分たちも同じように色んな想いを抱え、日常をおくっているということ。

 先行で公開されたアルバム収録曲「chili pepper japones」ではこれまでにない遊び心も見せていたが、『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』からはオリジナルとしては約2年振りとなるこの『坩堝の電圧』は19曲というボリュームもさることながら、くるりという組織体が90年代後半から、ひたすらロールし、築き上げてきたものを昇華する側面も明らかに出ている。簡単に振り返ってみるに、アルバム毎に彼らはコンセプトやその時の衝動や想いを刻印してきた。ブルーズ、サイケデリック・ロック、フォーク、ポスト・ロック、ダンス・エレメント、民俗音楽、プログレッシヴ・ロック、マージービート、パワーポップ、クラシック、ルーツ・ロック、ソウル、カントリーなどを参照点、軸にしながらも、都度の機動力と横断性をもって日本のロック・シーンでも常に異彩の存在感を放ってきた。UKにプライマル・スクリームというバンドが居るが、彼らも作品の度に全く音楽性が変わる。くるりも似たようなところがありながらも、しぶとく続けてきた中、この『坩堝の電圧』は岸田繁、佐藤征史の初期からのメンバーの色が強く出たというよりも、改めてバンドとしてのくるり、吉田省念、ファンファンの一丸となった作品に収斂しているのが興味深い。

 京都を拠点にして、今の四人のオリジナル・メンバーになってからのくるりとは、元来の京都を表象するバンドに帰還したと言えるのかもしれない。京都の内壁に帯びたカウンター精神、オルタナティヴな気骨。それは、観光資源として多くの方の訪問を受け容れながら、決して奥には踏み込ませない伝統と、誇りを示唆する。ただし、京都はその表層の地下で坩堝の中で煮えたぎるような熱量を持ったバンドやアーティストが行き交っている。大学やクリエイターが多いのもあり、学生たちの夜な夜なのセッション、ブルーズやサイケ・ミュージックのあまたのアンダーグラウンドでのやり取りは凄まじい。そんな熱を背景に、くるりは、京都からイロニカルに「東京」という曲でメジャー・デビューしている。京都から東京への距離感。文化差。それを筆致してきつつ、ときに中心/非中心を越境してきながらも、今回のくるりは、「京都」の冠詞も「東京(中心)」への距離感よりも、そういった意味性を越え、総花的に多くの人たちに音楽の魅力そのものを押し広げたものになっている。

  ただ、例えば、付箋を貼るに、彼らが主催する京都音楽博覧会というものがある。これは、跋扈する夏フェスとは距離を置く特殊なものであり、少し説明を加えておくと、2007年から立ち上げられたもので、9月の秋分の日に行われるフェスである。当時、京都、しかも駅近くの市内でこういった大型の野外イヴェントが行われること自体が異例だった。なぜならば、京都は土地柄もあるが、騒音規制の問題やロックという音楽へのバイアスもまだあるからだ。ゆえに、周囲の近隣者の協力や多くのクリアランス事項を経て、アコースティック・セットで、音量を絞り、行なうという条件が付き、更には午後7時には音を取り止めるとの中で、粛々と進められてきた。初年度は、本当にかなり音量が絞られ、しかも、降雨下での厳しい状態で、観るこちら側もうまく咀嚼できなかったところがある。しかし、回数を重ねるにつれ、独自の暖かさと緩さが丁度、梅小路公園という京都の人たちが日ごろから愛する広い公園の持つ牧歌性、蒸気機関車館との交わり、まったりとした空気感が魅かれる人たちを巻き込み、ときに意表をつく演歌歌手の石川さゆり、くるり・ザ・セッションでの過去メンバーとの試みなどラインナップの妙も含め、今や、1万人以上を集め、かなり早くにソールドアウトをしてしまう規模のものになっている。新幹線や飛行機など使って、遠路から来る人も多く、近くの団地から顔を覗かせて様子を見ている人も居る不思議な温度が漂っている。

 さて、実際、今作はあたかもビートルズの『ホワイト・アルバム』のような、実験様相とシリアスさが並存し、多くのバンド、カルチャー、自らへのオマージュとメタ的なパースペクティヴに溢れている。冒頭からザ・ストロークス「ジュースボックス」のような駆け抜け方と、しかし、どうにも物悲しい雰囲気の漂う「white out(heavy metal)」。アルバム・タイトルの"るつぼ"という言葉が含まれた4曲目「taurus」はサイケな質感と、メロディーの転がり方が柔らかい。じわじわと抑えられた展開から、《いつまで経っても フリー どこまで行っても フリー わからないふりしてあげようよ》という箇所が優しく響く。何かの"ふりをする"、というのはくるりそのものが過去、自覚的に行なってきた行為であり、それが模倣、パスティーシュ的な角度から評されもしたが、ここでは"わからないふりしてあげよう"という訴え、問いかけに変わっているところが特徴だと思う。ときに、音楽の中に潜り込んでしまい、受容者への壁抜けが出来にくい時期、それでも、余白から受容者は彼らの捻くれた要素を解析しようとしていたイロニカルな関係性があったとしたら、難しいことは難しいまましか伝わらないのではなく、その難しいことの伝え方の根本へ戻った感触への転回。元来、ボーカリストとしても独自の味わいのあった吉田省念がメイン・ボーカルで歌うリリカルな「dog」、全編中国語詞で歌謡性を帯びたファンファンのボーカル曲「china dress」、ベースの佐藤征史が歌う、往年のアンダーワールドの曲名から取った打ち込み曲「jumbo」と各メンバーが舵を取る曲群も味わい深く、更に、岸田がメイン・ボーカルを取っていても、コーラス・ワーク、ハーモニーからそれぞれが立体的に結びついている。反面、崩れ落ちそうなリリシズムと現実と向き合った胸を掻きむしる曲もある。「soma」は、相馬の町のことを指す、静かにステップを踏むように情景描写の美しい唄。《相馬の空は そう いつまでも いつまでも 君を映す》、《ここは どこまでも 遠く青い 嗚呼 相馬の町だよ》のフレーズは切なく煌めく。ディーセントな岸田の歌唱が涙腺を誘う「沈丁花」では、息子に問いかける形で、思い出が全部割れたことや希望の全ては朽ち果てたこと、咲くはずだった沈丁花の代わりにお前が生まれたことを静かになぞる。「のぞみ一号」でのピアノの音色とメロウネスが浮かぶ、「男の子と女の子」、「The Veranda」系譜ながらフォーキーな力強さとか細く折れそうな双極性。

  思い出と涙。幾つものキータームで捉えられると思うが、この『坩堝の電圧』に滲むトーンはその二つも大きい気がする。「思い出」とは各々、内奥に抱えていて、言葉や何かで伝えることは違えども、固有のものだ。良いものばかりではないだろうし、悪い思い出に囚われ続ける人も多いと思う。「涙」もうれし涙という表現もあるが、苦い涙、思えば、初期のくるりに「蒼い涙」という曲があったとおり、何らかのメタファーならば、切なく傾ぐ。これまでの彼らだったら外されていただろう、遊び心や無邪気な曲もあるのも必然なのだろう。今、何かに絞りきってしまうには視界は窒息してしまいがちになる。そんな視界を窒息させないように、この19曲での思い出を巡る周縁は前へ進むための聴き手の内面を刺激し、涙を拭う。7分を越える大曲であり、フィナーレを飾る「glory days」で、《ときおり 思い出せよ なくなってしまった過去も 誰よりも知りたいはずの 未来も》と綴り、くるり自身の曲「ばらの花」や「ロックンロール」などからのフレーズ群が散りばめられるのも感慨深い。

 思い出があるから未来へ進むことができる。そして、涙があれば、また未来を思い出せる。

 

(松浦達)

 

【編集注】9月19日リリース予定

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トクマルシューゴjpg.jpg 伝えたい言葉、メッセージはない、と表明するトクマルシューゴたる存在が好事家、評論家、音楽家たちの間の評価を抜け、巷間へ広がったのは2007年の『Exit』だと思う。それまでの作品も海外メディアからも称賛を受けるなどしていたが、ティーンエイジ・ファンクラブのノーマンが真っ先に当該作品への喝采を叫び、多くの楽器、楽器ではないものも多重に被せ、トイポップ的に、更に歌詞内では悪い幻想のように断片が散りばめられるという独特の質感と内的世界観。『Exit』の冒頭曲「Parachute」の躁的なポップネス、と鮮やかなギターの速弾き、あまたの音色が跳ねる中で《All Day Holiday》と歌いながらも、シニガミや迷いのかじをとるためのパラシュートの想片が出てくるあたり、現実/夢、此処/彼岸の危うい部分で踏みとどまる雰囲気があり、ライヴでもこの曲は定番で、確かに映えるのだが、兎に角、トクマル氏のギターの指捌きだけ観ても、凄まじい。

 それでも、『Exit』は、『Night Piece』、『L.S.T』沿いの内省性と多くの音楽語彙、それはカンタベリー・サウンド辺りからの影響からキンダーコア、エレファント6界隈、ソフト・ロック、ベックやコーネリアスを筆頭とする独自のサウンド・タペストリーを緻密に編むアーティストと比肩する一部分が仄かな光に混じり、届けられた、そんな気がする。だから、「La La Radio」でのキャラバンやソフト・マシーン系譜のプログレッシヴでエクスペリメンタルな構成の方に個人的に唸らされた。

 完璧主義者で、マッド・サインエンティストめいた孤独を愛する彼はしかし、幼馴染みとゲラーズ(GELLERS)というバンドを組んでおり、僕も2010年のフジロックの苗場食堂で観たのだが、状況としてはすぐ傍でアトムズ・フォー・ピースがパフォーマンスをしている中、トム・ヨークの声が朗々と響く空気下だった。そこで、トム・ヨークが居る元来のバンド、レディオヘッドの曲「Creep」を本当にラフなバンド・サウンドでしかも、トクマル氏のボーカリゼーションもいつにもない粗暴さでカバーしたときの印象が強い。根は天邪気で反骨の人であり、並列して、ノマド的に各地、各国のイヴェントにフラッとあらわれる、そんな存在感は00年代後半以降、どんどん巷間の要請が大きくなる。

 09年のミニ・アルバムでのマジカルな「Rum Hee」はCMでも用いられるなど、一聴で「彼の音」と分かる記名性はより高まり、それでも、これは、バッド・トリップの唄だった。《大きなこの空に取り残されていくよ 盗まれた船が見える》、《寿命を縮めても パズルが崩れるよ》。2010年の四枚目のアルバム『ポート・エントロピー』は、彼への巷間の飢餓感と内容がリンクしたかのように思えたが、作品そのものはやや品行方正さを含み、トクマルシューゴたる存在感を改めて世の中の多くの人たちに、というもどかしさをおぼえたところは否めない。彼自身はインタビューで、メルヘンやファンタジーの言葉の厭いを表明していたりするが、そういった言葉で粗雑に一括りされてしまうのは違う、ということであれば、『ポート・エントロピー』で出会った人は入口と出口の間で迷わざるを得ない、そういう誤配/互恵の関係性は極まった気がする。その後もよりライヴ活動、多くの媒体で彼の音楽はフックされ、賑やかになってゆくが、彼自身はいつでも飄然としていた。Twitterでの彼自身のツイートもHPでの録音日誌も。

 そこで、11月にフル・アルバム『In Focus?』のリリースが決定し、リード・シングルとなるのがこの「Decorate」になる。彼自身が9月4日の録音日誌で触れているので、引用すると、「アブストラクトに書くと、オルガン、ベース、ドラム、トイピアノ、アコーディオン、ギター、リコーダー、バイオリン、5拍子、サビ前のシンコペ、スパニッシュな部分も急行通過という感じで、ごく自然に、狭間の、あたかも昔から当たり前にある国の音楽になってきた。」との、"昔から当たり前にある国"の音楽、"急行通過"の言葉が相応しくも、いつになく祝祭的なムードが漂う。但し、不穏な変調、《いつまでも途中のままで》というフレーズが残り、多くの楽器が有機的にしかし、いびつに組み合わされた隙間に意識が行ってしまうあたり、何度聴いても発見がある彼の美意識が細部まで捻じれた一曲になっている。シングルのみ、アルバムには入らない2曲が収録されている。ファンからは待望だったと思う、ライヴでも定番のバグルス「Video Killed the Radio Star(ラジオ・スターの悲劇)」のカバー。これも、彼らしいトイ・ポップ風の抜けの良いアレンジメントで、異彩を放つカバー・センスになっている。「When I Fall In Love」は、ヴィクター・ヤング作曲のスタンダードのインストゥルメンタル・カバー。これはサイケデリックに、フリー・ジャズを愛好していた彼の器量が見えるもの。

 最後に、特筆しておかないといけない。このシングルがCD、配信のみならず、ソノシートでのリリースもされるということだ。ソノシート自体をもう分からない方も居るかもしれないが、昔、雑誌などによく付いていた薄いレコード盤で、取扱いやすいが、当たり前に音は悪い。彼も8月30日の録音日誌で「音が悪い、です。戦前のレコードのようです。音飛びもします。聞けば聞くほど音が悪くなっていきます。」と自ら記しつつ、その後に。「なんて儚い。。」という言葉を置く。自らソノシートの儚さを分かり、それでも、ソノシートで(ただ、良い音で聴けるダウンロード・コードも付属してある)出す行為が彼なのだと思う。音楽の儚さや多重に意味付けされるイメージへの気骨と認識。

 なお、ソノシートは日本ではもう生産されていない。

(松浦達)

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THE XX『Coexist』.jpg ジェイミーに続きロミーもDJ活動を始めた影響か、音の抜き差しで起伏を生みだすダンス・ミュージック的アプローチが多くなっているとはいえ、ジ・エックス・エックスのニュー・アルバム『Coexist(コエグジスト)』は、前作とは打って変わって、と言えるほどの大変化作ではない。本作でもジェイミー・スミス、ロミー・マドリー・クラフト、オリヴァー・シムの3人は、極限にまで削ぎ落とされたメランコリックなミニマル・サウンドを展開しているし、歌詞のほうも、前作同様ラブソングがほとんどだ。それでも本作は、前作よりも深みが増すことによって、感動的な作品に仕上がったと断言できる。

 もちろんそうした作品になった要因は数多くあるが、そのなかでも特筆しておきたいのは、奥行きが増したサウンド・プロダクション。これはおそらく、前作から引き続きプロデュースを務めたジェイミーの経験が反映されているのではないだろうか。

 前作リリース以降、故ギル・スコット・ヘロンの『I'm New Here』をリワーキングした『We're New Here』をリリースし、他にも様々なアーティストのリミックスを手掛けるなど、ジェイミーはプロデューサーとして注目を集めるようになるが、これらのプロデュース業で培ったノウハウが本作のサウンド・プロダクションに影響を与えているのは間違いない。全曲において音のない空間やタメが上手く生かされ、その空間やタメと絡みあう形で、繊細かつ丁寧なエフェクトが施されている。さらには丹念なイコライジングが随所で効果的に作用するなど、細かいところにまで神経が行き届いた本作のサウンド・プロダクションは、ドラマチックな情的豊穣さを本作にもたらしている。

 その豊穣さを際立たせる歌詞も、本当に素晴らしい。ひとえにラブソングといっても、そこで語られている"愛"は様々な視点からの考察を受け、平易ながらも、"愛"の本質に迫るかのような言葉で綴られている。先述したように、前作同様ラブソングが多い本作ではあるが、恋愛に対する憧れや期待、希望といったものを通した外視的ラブソングが多かった前作に比べ、本作のラブソングは、よりパーソナルな心情を通して描かれている。様々な出来事を経て成長した姿をシンプルに表現した3人の歌は、ある種の普遍的共感を誘うものだと言える。

 ちなみに本作は、ジェイミーが見つけたアパートをスタジオとし、そこに機材を持ちこみ3人だけで制作が進められたそうだ。そうした環境だと、近寄りがたい内省的作品になりそうなものだが、不思議なことに、3人の内的要素を表現しただけとも言える本作には、内省に陥らない芯の強さがある。この強さは、"共存"を意味するアルバムタイトルが示すように、三者三様の嗜好を持つ者たちが集まり成り立っているジ・エックス・エックスだからこそ得られるものだ。

 それはポジティヴとネガティヴが同率に反映された本作の歌詞からも窺えることで、そんな3人の歌には、"悪いことばかりではないさ"とでも言いたげな、様々な感情や価値観の存在を認めようとする前向きな"肯定"がある。こうしたジ・エックス・エックスの在り方は、人という存在の真実に極めて近いものだと思うし、本作の"肯定"は、何ものも排除しないという音楽の真理と相まって、聴き手の情操を揺さぶる"ナニカ"を見事に獲得している。

 

(近藤真弥)

 

【編集部注】 本作は9月5日リリース

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THE ORB feat. LEE SCRATCH PERRY.jpgのサムネール画像 7月27日、照りつける強い日差しと涼しげな夕暮れを予感させるやさしい風が混ざり合う午後4時すぎ。僕はフジロックのオレンジ・コートに辿り着いた。ステージにはジャー・ウォブル&キース・レヴィンのユニットが"Metal Box In Dub"と題されたパフォーマンスを繰り広げていた。デニム・シャツの裾をジーパンにしっかりインしているジャー・ウォブルとビートルズのTシャツを着た痩せすぎのキース・レヴィンのルックスからは、オリジナル・パンクスのトゲトゲしさは感じられない。けれども、ジャーが鳴らす重量級のベース・ラインは地響きのようだ。キースのシャープなリフは、聞き慣れたはずの原曲に鮮やかな躍動感を与えている。僕は汗を拭いながら、ジャマイカのサウンド・システムを夢想する。ぶつかり合うほどではない人混みの中で、誰もがゆっくりと体を揺らしていた。キングストンの屋外パーティから"冷たい鋼の箱"の中へ封じ込められたダブ・サウンドは、2012年の日本でもう一度、太陽の下に解き放たれていた。レゲエ/ダブは、音楽そのものが旅のようだ。時と場所を越えて、思いがけず僕たちの前に現れる。

 そんな旅の途中で、もうひとつ実り豊かなアルバムが生まれた。パンク/ポスト・パンクから30年。その間にも様々な邂逅を果たしてきたダブ・サウンドが今、アンビエント・テクノと寄り添う。ジ・オーブとリー・スクラッチ・ペリーとのコラボレーション『The Orbserver In The Star House』が最高にカッコいい!

 50年代後半のジャマイカで活動を始めたリー・ペリーは、レゲエ誕生の瞬間から黎明期、そして現在まで精力的に作品を生み出し続けるプロデューサー兼ミュージシャン。70年代初期のボブ・マーリーのプロデュース、リー・ペリー自身のユニットであるアップセッターズでの活動など、レゲエ/ダブの発展に大きな功績を残してきた。僕にとっては、このアルバムにもセルフ・カヴァーが収録されている「Police & Thieves」をジュニア・マーヴィンと共作したことでも馴染み深い。「ポリスとコソ泥」という素敵な邦題が付いているこの曲は、クラッシュが1stアルバムでカヴァー。後にその曲を聴いたリー・ペリーはクラッシュのシングル「Complete Control」のプロデュースを引き受け、70年代後半のパンク/ポスト・パンクがレゲエ/ダブに接近する大きなきっかけを作った。

 1959年にロンドン近郊で生まれて、1988年からジ・オーブを本格的にスタートさせたアレックス・パターソンもきっとパンクを目の当たりにしてきたキッズだったはず。そんなふうに考えると、このコラボレーションも決して意外ではないのかも。緩やかなBPMのオーガニックなサウンドが一曲一曲を包み込む。ホーンやアコースティック・ギター、シェイカーなどのサンプリングが心地よく響く。76歳になったリー・ペリーの声は、とぼけた道化師のようにも、すべてを知り尽くした賢者のようにも聞こえる。スティーヴ・ライヒをサンプリングしたジ・オーブの代表曲「Little Fluffy Clouds」へのセルフ・オマージュ「Golden Clouds」の遊び心、先述の「Police & Thieves」を現代に甦らせるユニークで豊かなアイデアなど、聴きどころも満載。テクノ、ハウス、ブレイクビーツとダブが混ざり合ったサウンドは鮮やかだ。クスリや葉っぱがなくてもOKだと思う。

 8月最後の金曜日、僕は国会議事堂前のデモに参加した。響き渡る「原発、いらない!」「再稼働、反対!」のコールと太鼓の音。帰りの電車の中で聴いたこのアルバムが不意に重なり合った。レベル・ミュージックとしての側面を持つレゲエとダブの深み。政府に声を上げるなんて、遠い国の出来事だと思っていた。それがいま、リアルに響く。そのビートは心臓の鼓動に似ていた。

(犬飼一郎)

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ta.jpg 音楽とは今ここにしかない。次の瞬間には消えている。その儚さを噛み締めながら人は歌をうたう。しかし歌い続けても歌は自分とともに消えていく。ならば音楽で世の中を満たしてしまえばいい。本作を聴いて思ったのはこのバンドにはそれができるという妙にロマンチックなことだった。

 クラムボンのミトからも絶賛されている02年に結成されたタラチネ。男女混声6人組の彼らは06年にミニ・アルバム「桃源郷」でデビューし、その後ミトをプロデューサーに迎えシングル「Mellow Gold」、ファースト・アルバム『世界の歌』をリリース。そうして約6年ぶりに発表されたセカンド・アルバムとなる本作『ビューティフル・ストーリーズ』は高野寛や山下達郎などの作品と同様の大衆性とメロディの丸み、繊細なサウンド構築とイノセンスに満ちている。ポップ・ソングにジャズが入り込んだような音楽だ。クラムボンのような音響美があれば古き良きアメリカン・ミュージックの要素も忍ばせている。

 タラチネの音とはそこに何かが在ることを肯定し、そこに何も無いという虚無を絶対的に否定する。一度聴けば胸の内で鳴り続き鳴り止まない。いつまでも息をする。人懐こく、つい口ずさみたくなるメロディ。空気公団のように。その大衆性のある音楽でタラチネは気取りのない日常の物語を作り出し、それはフィクションでも何でもなく聴き手を包み込んで邪気を消し去る。渋味のある桑原沖広の歌声と幼げな岸真由子の歌声は自らの過去を吸い込みながらうたっているように聴こえ、《缶コーヒーの甘すぎる味に溶かし込んだものは昨日のアレやコレ》(「ハッピー・ピープル」)、《気まぐれにつぶやいた意味のない言葉に一人でうなずいてあとは何も聞こえない》(「Nighthawks」)というように、自身の記憶を歌に落とし込み、過去を通過したうえで手に入れたメロディと歌がしなやかに広がる。今ここにある音が全てなんだという達観した空気が漂い、しかしそれは朗らかだ。清々しいサウンド構築なのに哀感がある。

 『ビューティフル・ストーリーズ』からどこか哀しみと喜びという、相反した模様が窺がえるのは作品を出すレーベルがなくなった時期があり、袋小路に立たされた体験が反映されているのかもしれない。また、一時期、気持ちを一新しようと大胆なメンバー・チェンジを行なったことも反映されているのかもしれない。タラチネが鳴らすイノセンスとは苦悩を経験したがゆえのものだろう。本作はそれまでにバンド内で起こった、ぐしゃぐしゃの表情で泣いたことやぐしゃぐしゃの表情で笑ったことの総和によって成り立っているのだと思う。この作品は頭だけで生み出した音楽ではないのだ。

 触れる程度に寄り添うシンセやインプロヴィゼーション的なギター、軽快なピアノとドラム、たゆたうコーラス、メロディオン、その全ては穏やかで温かさのあるメロディ・ラインに沿う歌声と同じく、過剰な自意識は窺がえず、メンバー同士の朗らかな会話として聴こえてくる。そしてそれらもまた、過去を通過したがゆえの音なのだろう。何かを乗り越えれば人と人は親密になる。それはリアルでとても人間味のあることだ。音楽も例外ではない。時代によって音楽は変わるのだろうが、しかし、音と音の会話という、時代が変わっても変わらないものをタラチネは大切に鳴らす。比較的音数が多い5曲目の「Swimming」での音の添い合わせ方はまるでトッド・ラングレンが6人いるかのような音の会話だ。

 前作『世界の歌』を通過し、日常の『ビューティフル・ストーリーズ』を描いたタラチネに、今後、音楽と非音楽の境目のない音楽を描くことを期待したい。日常も非日常もない音楽。彼らならやってくれるはずだし、それができることをタラチネは本作で証明した。彼らの歩みはたとえゆっくりだとしても止まることはない。その静かな衝動を宿した音が本作に躍動感を与えている。

 『ビューティフル・ストーリーズ』は決して手のひらサイズのお手頃な音楽ではないし、一度聴いたら棚に収める音楽でもない。無邪気だが真摯に向き合える音楽だ。本作に収録されている一曲一曲が終わる度に、このモノクロのジャケットに"これから先"の色が塗られていく。そしてまた、聴き手である誰かが色を塗る。その連続が僕らとタラチネの色であり、音であり、一人ひとりの物語として"ビューティフル・ストーリーズ"になっていく。そんな感動作だ。「僕らの美しい物語はそう長く続かなく、美化によって成り立っているのかもしれない」。そう思ったら本作を聴けばいい。この作品で鳴っている音のどこを取っても淡白なモノクロの色はないのだから。

 

(田中喬史)