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 現在、「砂漠のブルーズ」というタームを考えるときにやはり真っ先にティナリウェンの存在が表れてくるが、音源や動画が先走り、ライヴ・パフォーマンスの素晴らしさであったり、彼らの砂漠民としての佇まいや歴史的背景がどこまで認識されているのかへの懐疑はあった。しかし、2011年のフジロックでの彼らの喝采を受けたステージングで新しい波を感じた人も多かったと思う。砂漠とブルーズ、00年代初頭にこの二つの大きな言葉が接語され、巷間に与えたイメージは砂漠というタフな場所で重厚なブルーズを基調にした音楽が砂混じりに鳴る、そんな色眼鏡が掛かっていたところも多分にあると思う。ただ、この10年もしない内により世界は「近く」なった。例えば、シリアを巡る騒乱や各地でかろうじて保たれている平和、民族性は日本に住んでいても、より深刻な実相が分かったように。

 このテラカフト(TERAKAFT)は、タマシェク語では「キャラバン」の意を伴う、マリ北東部に暮らすトゥアレグ人のグループ。一部メディアでは、ティナリウェンの弟分と属されているが、メンバーの一人のリヤが90年代の初めに実際にティナリウェンに参加していたこと、音楽性の近似もあるものの、4作目となるこの『Kel Tamasheq』はなかなか興味深い内容になっている。アルバム名の"ケル・タマシェック"とは、タマシェック語を話す人として"トゥアレグ人そのもの"を指す。改めての自分たちのアイデンティティの表明と言ったところだろうか。こ・フ作品では、彼らの模倣的な何かよりも無比のオリジナリティがより発揮されたものになっているのは記しておかないといけない。名うてのプロデューサーのジャスティン・アダムズの手腕も効いているのか、特徴としてはシンプルなアレンジメントに抑えられ、ヴォーカルとメッセージ性がより響くようになっている。エレキ・ギターを主体にしたグルーヴは無論、これまで通り重厚にうねり、過去の彼らの作品でも見受けられていたように、パーカッションも過度ではない形に排されている。昨今の情勢についての祈りや想いを込めた強い曲もあるのだが、サウンドとしては全体を通じて非常に聴き易い。

 2曲目の「ここの人々(Ama Adounia)」ではエレキ・ギターの響きが軽やかで、コーラスとともにスムースな空気感が備わっていて、心地良い風を運ぶ。メッセージの叙情に魅せられたいのならば、5曲目「志願者(Idja A Seman)」が胸を打つ。メイン・ボーカルを担うリヤとサヌが切々と唄を紡ぎ上げる。10曲目の「その夜(Ehad Wad As India)」はリラックスしたグループ内の親密なヴァイヴがある。ただ、全体を通じて進行形での戦争を主にした混沌や自分たち、トゥアレグ人という在り方に対して詩的に、ときに、誠実、真摯にステイトメントをしているところが残る。伝えたい何かが多すぎるがゆえに、サウンドスケープは立体的というよりも、支えるような形になっている部分が散見されるのもそういう背景なのかもしれない。

 メンバーの変遷、前作からおおよそ1年というスパンでリリースされたという意味で向き合うまで心配はあったのだが、そのスピーディーさが功を奏したと言えるかもしれない。構成がじっくり練り込まれているというよりも、セッション的なところに重きが置かれつつ、音楽を通じて毅然としたメッセージを運ぶ伝承者としてテラカフトの今作における姿勢は支持したいと思う。砂漠の中でブルーズが鳴る背景には、これほどまでに複雑な現実があるということを示した文脈でも、鮮烈なジャケットも目に焼き付く凛然とした内容になったと思う。

 

(松浦達)

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Fuerteventura.jpg この作品を聴いて僕は率直に素晴らしいと思った。誰もに聴いてほしいと思った。美しくて、決してスノッブにはならない気高さがあって、飾っていなくて...。要は大傑作なのだ。甘美なコーラス、バンジョーの温かさ、遊び心のあるハンドクラップと音響による対比で浮かび上がってくる歌声、ジャジーな香り。それらが歌の存在感を広くする。空気に溶けていく彼女の繊細な歌声は、ふと誰かとすれ違ったような刹那さがあり、都市の喧騒の匂いが一切しない。妙にアーティスト気質にかぶれず、散歩をしながら歌を口ずさんでいるような親しみがあるところも良い。にもかかわらず幻想的なところがあり、聴いているとひとりの美女が誰もいない神聖な場で華麗に舞いながら歌っている姿が目に浮かぶ。

 その歌にはマリア・マルダーの影が見えればローラ・ニーロやジョニ・ミッチェルの影さえ見える。当クッキーシーン・ウェブのインタビューで「いい曲なら何でも聴く。音楽に貴賎はない」と語るロシアン・レッド(インタビューでの発言もスノッブなところがない)。「いい曲なら何でも聴く」という言葉そのままに、彼女には豊富な音楽的バック・グラウンドがある。スマッシング・パンプキンズ、ビートルズ、曲名にもなっているニック・ドレイク、日本盤のボーナス・トラックに収録されているドローン、フォークトロニカの要素を取り入れたクイーンのカヴァー「We Will Rock You」。アメリカ南部音楽。スペイン、アルゼンチン音楽。ジャズも聴いているはず。そして、ベル・アンド・セバスチャン

 本作は敬愛するベルセバをプロデュースしたトニー・ドゥーガンをプロデューサーとし、スティービー・ジャクソンやリチャード・コルバーンなどベルセバのメンバーが協力参加した。レコーディングはグラスゴー。それゆえにベルセバを思わせる作品になっている。しかしスパニッシュ・サウンドを落とし込んでいて、ブリティッシュ・フォークを思わせるサウンドなのに音の表情は曲が進むにつれて変わっていく。SUMMER SONIC 2012でのライヴでも披露されたフロアタムと歌のみで聴かせる「Mi Cancion7」から土着性と多国籍性を感じた。彼女がやろうとしていることは、あらゆる国の伝統と文化を溶け合わせた音楽ではないだろうか。そういった意思がライヴで強く見られたのだ。それを行なうのはかなり困難だが、グローバリズムとは別の文脈で純粋に音楽の為にいくつもの国の土着性を取り込んでいる姿勢と音楽性は絶賛したいし、サウンドそのものも絶賛したい。

 ロシアン・レッドは創作時に「必ず"希望のための余白"を空けておく」と言う。希望とは"余白を埋めること"ではない。埋め尽くされたところには何もかもが入り込む余地がなく、空けておけば、彼女と聴き手の感情だろうと多国籍的な音だろと文化だろうとすっと入る。フォーク・ソングの一言で終わらない彼女の音楽性は、ベルセバのようにそんなミステリアスなところがある。当初はプロデューサーにデイヴ・フリッドマンを招きたかったようだが、それも深みのある不思議さを醸し出したかったからだろう。

 音楽の伝統や文化の深い部分はそうそう簡単に国境を越えることはない。だが、本作で鳴っている音に乗ると世界のどこへでも行ける。スペインの日常から離れることが大好きな彼女のように。ワールド・ミュージックの模様さえ窺がえる本作は、音楽性は違えどROVOヒア・ウィ・ゴー・マジックのようにワールド・ミュージックという記号を溶かすものとして広がるだろう。その意義は大きい。

 ちなみにロシアン・レッドには2年ほど前に音楽から距離を置く為、タイトルになっているフエルテベントゥーラ島に一人旅をした。アフリカ人密航者がモロッコからやってくるのが問題になっている島だ。それを思うと『フエルテベントゥーラより愛をこめて』という邦題は、この美しき作品が島の平和を望んでいると考えることができる。本作は伝承される作品に成り得る可能性があると同時に、和やかに、しかし誠実に受け止められたい。

 

(田中喬史)

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CHILLY GONZALES 2.jpg  まさかリリースされるとは思わなかった。ポスト・クラシカル系のピアノソロ作品における名盤『SoloPiano』の、8年振りとなる続編である。ピアニスト・作曲家であったり、ヒップ・ホッパーであったり、ファイストやジェーン・バーキンをはじめとする敏腕プロデューサーであったり、27時間連続ライヴのギネス記録を持っていたり、自身のダンス・チューンはIPodのCMに使用されたりと、既に奇才のピアノ・エンターテイナーとして名高いチリー・ゴンザレスであるが、彼のキャリアにおいて最たる名盤として挙げられる作品が、奇抜なアイデアを排し、シンプルかつ慎ましいピアノの美しさが魅力の『Solo Piano』であるということは面白い。

  そんな『Solo Piano』の続編という形式で制作された本盤であるが、その毛色は「美しさ」から「面白さ」へ変貌しているように感じる。前作のソロプレイは、厳かで鎮静的な美しさを湛えていたが、本盤においては、その抑制から解放されたかのように鍵盤の端から端まで自由奔放に駆け回るフレージングが目立つ。奔放でありつつも、小品のようなワルツはやはり美しくもあり、6曲目「Nero'sNocturne」に関してはCMに使われても違和感のないキャッチーさであり、前作からはおよそ考えられないほど、多様なテイストの楽曲で構成されている。

  奔放でありながら演奏形式はミニマルであったり、激しく叩くアブストラクトなフレーズから、途端に深淵な美しさを秘めたパートへ展開したりと、まさに現代のエリック・サティと言い表すべき、捉えどころのない作品に仕上がっている。

 

(楓屋)

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120816_nano_mugen.jpg 今年は少し遅めの開催だった印象のあるサマーソニックも終わり、「夏の洋楽」フェス・シーズンもそろそろ大団円ってな感じだが、その先陣を切って決行されたナノムゲンのエッセンスを濃縮した恒例コンピレーション・アルバムは、季節やトラックの新旧に関わらず、その素敵な輝きを失っていない(って、まだリリースから2ヶ月たってないわけで...。ポップ・ミュージック界では、時間の感覚がちょっと奇妙なことになっている...)。

 以前クッキーシーンが紙媒体で隔月刊だったころ、毎号コンピレーションCDをつけていた。聴いてくださったひとたちがどう思ったかはわからないけれど(いや、かっこつけずに言えば好評だった。それが目的で買ってくださっている...という話もときおり耳にしたり...。ありがとうございました!)、トラック借用交渉から曲順決定まで、毎号かなり膨大な時間と精神力をかけていた。単体の商品盤CDの選曲をやったり、クラブDJをやるときと同じくらいに。

 毎年『Nano-Mugen Compilation』シリーズを聴くたび、いつも当時のそんな作業を思いだす。とても大変だったけれど、楽しかった。ぼくは音楽バカだから。このシリーズの選曲者も、明らかにそうだと思う。「おお、このあとにこんな曲がくるのか!」「この流れ、意味あるね!」とか思いつつ、実に気持ちよく聴ける。クラブDJ的な選曲より「インパクト勝負」ではない分、賞味期限も長い。

 7月なかばにビッグな会場でおこなわれたナノムゲン・フェスのみならず、その前に各地のライヴハウスをまわったナノムゲン・サーキットの参加者たちによる珠玉のトラックが、CD2枚に全22曲ぎっしりつまっている。

 CD1の冒頭から(フェスとサーキット両方に出演した主催者)アジアン・カンフー・ジェネレーションにつづいて(後者に登場した)ブラッドサースティー・ブッチャーズが登場するところからして、いい意味で意表をついている。もしかするとブッチャーズって、ここに入っている洋楽バンドたち以上に「アジカンとは遠い」存在と思われているかも? まあ、ぼくはマーケッターではないので、アジカンのファン層がどんなものなのか、おぼろげにしかわからないけれど!

 3番手チャラの曲目が「オルタナ・ガールフレンド」というのも素敵だ。この(アーティストと曲名の)とりあわせは、なんとなく「理想的なアジカンのコア・ファン層(?)」にとって、すごくピンとくるのではないかとも思ったり...。ぼくはマーケッターではないので(...以下同上)。

 チャットモンチー、ザ・シェフ・クックス・ミー、80キッズ、フォノ・トーンズ(アジカン伊地知らによるバンド)、クアトロ、ストレイテナーなど、ぼくが「好き」と公言してはばからない日本のアーティストたちの音源もたくさん入っていて、まずはうれしい。そして彼らのトラックは、どれもグレイト。

 ちなみに、ストレイテナーの曲は「ネクサス(アコースティック・ヴァージョン)」。歌詞の《ここでリンクした》というフレーズが印象的だ。ぼくなどはこのタイトルを見ると、どうしてもウルトラマンネクサスを思いだしてしまうのだが(笑)、もう5年以上前になる放送当時のキャッチ・フレーズに「絆、ネクサス」ってやつがあった(nexus:きずな、結合、関連性のある一連のもの、集合体:Mac OS 10.5.8ビルトイン辞書より)。震災後、絆という言葉が使われすぎて(「言葉」を仕事にしている者としては)少々辟易してるところがあった。この曲の歌詞にも「絆」という言葉は出てこない。そういうところも、いいなと思う。

「これまで名前はなんとなく聞いたことあるかな? くらいの感じだったけれど(ちゃんと聴いたことなかったです。すみません...)このコンピを聴いて、かなり『好き』かもと思った」日本人アーティストは、秦基博、岩崎愛。こういう「発見」もあって楽しい!

 さて、ここからは、得意の(?)洋楽バンドに関する話です(笑)。

 以前このサイトでも述べたとおり、今年のナノムゲン・フェスでは、ファウンテインズ・オブ・ウェインモーション・シティ・サウンドトラックという、ぼくなどはまじで三度の飯より好きと言えるパワー・ポップ・バンド(と言えるのかな? 前者はより「ポップ」寄り、後者は「パワー」...? じゃないな、表面上オタクっぽいし...。まあ、「ハード・エッジ」寄り?)のそろい踏みを見ることができたという意味で、「洋楽フェス」としてもフジロックやサマーソニックに負けないインパクトが残せたと思う。ファウンテインズやモーション・シティの音源未体験で、「そこまで言うか? 本当にいいの?」みたいに興味を持ってくださった方は、是非このコンピを聴いてみてほしい。それぞれの最新アルバムからのリード・トラック(最もキャッチーな部類に属する曲)が、前後の流れもばっちりで入っているから。

 パワー・ポップ・ファンに人気の高いオズマ、USインディー・ファンなら要チェックのメイツ・オブ・ステイト、そして90年代のUKロック...というかブリット・ポップの立役者だったスウェードの曲も、もちろん収録。

 ジャンルがばらばらだって? そんなの気にするな! アジカンもそう思ってるかどうかは知らないけれど、ぼくはそう主張したい。あらゆる意味で。

 そして、スウェードの曲が「トラッシュ」であることもうれしかった! 実は、ぼくとしてはスウェードって(「好き」ではあるけれど)「大好き!」とまではいかない。とくに初期は「うーん、そこまで高評価に値するのかな?」とか思っていた部分もある。ギタリスト、バーナード・バトラーが脱退してからの、彼のソロ活動は「大好き!」なのだが...。この「トラッシュ」は、バーナード脱退後の曲。でも、ぼくはスウェードのレパートリーのなかで、これがいちばんのお気に入り(この曲だけ断トツで「大好き!」と言えるかも)。ふっきれたようにキャッチーなメロディーで、微妙なかっこつけも残しつつ、《単なるくずだよ/おれもおまえも》と歌われる部分に、ポップ・ミュージックの神髄の一形態が集約されているようで、しびれる。

 というわけで、聴きどころだらけの名コンピレーション。ナノムゲン・フェスやナノムゲン・サーキットに行けた人はもちろん、行かなかった人だって、「洋邦問わず幅広い、(オルタナ...いや、オルタナティブな)いい音楽にふれてみたい」という向きには、強烈にお薦めしたいアルバムだ。

 

(伊藤英嗣)

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FUN.jpg アリゾナのインディー・バンド、ザ・フォーマットの解散後にヴォーカルのネイト・ルイスが新しく組んだファン(Fun.)がここまでの成功を収めるとは。まずは、全米で俄かには信じられないほどの大ヒットを記録した「We Are Young」。プロムとか、ヒット・チャートのポップ・ソングばかり流れるクラブとか、あるいは学校からの帰り道に二人で歩く夜の道とか、そういうシチュエーションばかりが頭に浮かんでしまう超青春アンセムだ。ミーカ顔負けのキャッチーなアンセム、ただしミーカのような暗部はまったくなし、軽薄と言ってしまえばそれまでだが、これを全力で楽しめなくてどうするの、とわたしは思う。どんな時代であろうが、青春は永遠に青春であり続けるし、そのためのBGMはいつだって彼らのようなポップ・アクトが作り上げてきた(そして手ひどい批判を受けなりなんかする)。だが、すこし考えてみてほしい。彼らの書いている曲はとてもパーソナルな体験に基づいているように聴こえるし、ファンタジーとリアルの"とっても魅力的なあいだ"のことを歌っていて、そこに嘘はない。そういう意味ではヴァクシーンズやグループラヴとだって、共鳴し得るバンドだ。

 約1年前のアメリカのフェスの動画を観たときに、けっして多いとはいえない観客の前でネイトは声を張り上げて「We Are Young」を歌っていた。カニエ・ウェストのライヴに漂っているようなリッチな悪臭なんかぜんぜんなかったし、とても潔く爽やかで、同時に泥臭く牧歌的な光景だった。わたしは日本のポップ・アクトが青春をまったく正しく表現しないことにかなりがっかりしていた。恋愛には必ず悲哀がついてまわる。だが、その表層的な部分だけ取り上げて、結局自分のための歌しか歌わないような人ばかり日本ではレーベルと契約を結ぶ。妄想も含めて、恋愛は底なしにハッピーでアホになれるから最高なのに。そういうフィーリングを感じようと思ったら、これからはファンの『Some Nights』を聴くのがベストだと思う。「We Are Young」以外の曲もクオリティが高い(余計なヴォーカル・エフェクトとやたらに大仰なサウンドは愛嬌ということで)。何だかミュージカル映画のサントラみたいに聴こえないこともないけれど。

 こういうのを聴くと、アメリカもまだまだ元気でやってくれよな、と思う。ジメジメとした暗めのカルチャーはイギリスと日本だけで十分だ。アメリカのカラッとしたオールライトな空気がときどきは恋しくなるから。隅々まで楽しいアルバムです。是非。

(長畑宏明)

 

 

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Gorge Out Tokyo 2012.jpg 最近ネット上で話題の"ゴルジェ(Gorge)"は、インド~ネパール山岳地帯のクラブシーンで生まれた音楽だそうで、クライミング・カルチャーと深い関わりを持っている(蛇足だが、ゴルジェと同じスペルを持つ"ゴルジュ"という登山用語がある)。そんなゴルジェのオリジネイターとしてリスペクトされているのが、DJ Nangaなる人物。DJ Nangaが言うには、《Use Toms(タムを使うこと)》 《Say it "Gorge"(それがゴルジェと言うこと)》 《"Don't say it "Art"(それがアートだと言わないこと)"》という3つのルールによって形成された"GPL(Gorge Public License)"に準拠している音楽を、ゴルジェと呼ぶらしい。ゴルジェを鳴らす者は"ゴルジェ・ブーティスト"と呼ばれ、日本はもちろんのこと、アルゼンチンのMVVMやカナダのシアターXなど、"ゴルジェ・ブーティスト"は世界中に存在している。そして、そのゴルジェ・ブーティスト達が一堂に会したコンピレーション・アルバム、それが『Gorge Out Tokyo 2012』である。

 ゴルジェを初めて聴いたとき、中低域を強調した独特な音像と、過剰とも言えるウォブリーな歪みから、『Degenerate』期のヴェクスドの音を発展させたような音楽? と思ったりもしたのだが、その後ゴルジェと呼ばれる曲をいろいろ聴いていくと、実に多様な要素を伴った音楽であることがわかってきた。それは本作も例外ではなく、アレックス・パターソンのヴォイス・サンプリング・センスが憑依したようなウッチェリ「Dead End Gorge」や、シャックルトンの呪術的グルーヴを想起させるハナリ「Gorge is Gorge」、さらにはジャジー・ゴルジェと呼べる風合いに仕上がっているソビエツキー・ブレジネフ「La La Gorge」といった曲もあるなど、"バラエティー豊かな"という次元を遥かに超越した、言ってしまえばメチャクチャなコンピレーション・アルバムである。そもそも、先述の"GPL"を守りさえすれば何でもゴルジェと呼べるだけに、本作が"何でもあり"な作品となってしまったのは、必然といえば必然だ。ノイズ/インダストリアル・ミュージックとして解釈したほうがわかりやすい曲が多いという点では、ある程度の共通性を見いだせなくもないが、「それぞれのGorgeがそれぞれの場所と、それぞれの人にある」と、DJ Nangaがインタビューで語っているように、ゴルジェとは特定の音楽性を指すジャンル名ではなく、思想のようなものではないか。ジョー・ストラマーの名言をもじった言い方をすれば、"ゴルジェ・イズ・アティチュード"なのかもしれない。

 と、ここまでゴルジェと本作について書いてきたわけだが、実はゴルジェ、一部の人のあいだではマッチポンプ、つまり自作自演の音楽ではないかという声もある。正直筆者も、マッチポンプではないかと疑っている。だが、それがどうしたというのだ? 仮にゴルジェが虚構の積み重ねで作りあげられたものだとしても、面白い音楽がそこにあるという事実に変わりはない。それだけで十分だと思うのだが、どうだろう? 「人間とは精神である。精神とは自由である。自由とは不安である」というキルケゴールの言葉があるように、人間とは依拠できる"規定"や"決定"、いわゆる"絶対的なもの"を常に求めているし、虚構であるというだけで偏見を抱いてしまいがちだ。しかし、そうした偏見を捨て、良いものは良いと認めてしまえばいい。実際にゴルジェという音楽は、とても興味深いものなのだから。

 

(近藤真弥)

 ※本作は《Gorge In》のバンドキャンプからダウンロードできます。

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FOUR TET.jpg アラン・リクトの『Sound Art : Beyond Music,Between Categories』は今読んでも、発見が多いどころか、サウンド・アート研究の中でも特筆に値するものだと思う。2010年には邦訳書(『サウンドアート―音楽の向こう側、耳と目の間』監修:木幡和枝、訳:荏開津広、西原尚/フィルムアート社)も出ているので良ければ、参考にしてほしいが、音がそのまま聴覚的なものへ、映像が視覚的なものへと連結するのかという「当然」への疑義を呈しながら、時間軸の中で作品そのものの概念性の把握、状態性へフォーカスをあてる。この書では、ジョン・ケージ、池田亮司、サーストン・ムーア、スティーヴ・ライヒなどカテゴリーを越える多岐に渡るアーティストが取り上げられ、アートとしてのサウンドの「フレーム」を巡る考察を深めてゆくインスパイアも受ける。

 ロンドン出身のキエラン・ヘブデンのソロ・プロジェクトたるフォー・テットの00年代の駆け抜け方は鮮やかだった。元々、彼はポスト・ロック・バンドのフリッジでギタリストとして属していたのだが(注:現在は活動停止状態)、99年のフォー・テット名義でのファースト・アルバム『Dialogue』から、その実験性と先鋭的な在り方は注視を集めることになる。その後も、ジャズ・ドラマーとのセッションからブリティッシュ・フォークとエレクトロニカのエクレクティズム、フォークトロニカという音像の生成からレディオヘッド、ブロック・パーティー、エイフェックス・ツインなどのリミックス・ワーク、DJまで実に幅広く、ときに、スキゾに動き、更には、2010年の『There Is Love In You』では、ロマンティック且つビートと電子音の美しさに拘った開かれた転機作になったのも記憶に新しい。昨今では積極的にダブステップへの近接の意識とともに、ブリアルとコラボレイトし、独自のサウンド・メイクを魅せ、これまでのキャリアの来歴もさることながら、何より今時点のアクションに世界から多くの反響が寄せられるアーティストになっている。

 この度、自身主宰のレーベル《Text》からリリースされた『Pink』は前アルバム以降に12インチのヴァイナルで出されていたトラックをコンパイルし、なおかつ新曲の「Lion」、「Peace for Earth」が収められた企画、編集盤的な様相が強いが、アルバムとしての総体は進行形の熱量を保った内容になっており、アウト・オブ・ストックになっているものもあるので、ファンのみならず、フォー・テットの新作としても聴くことができると思う。性質上、これまでになくフロア・コンシャスでありながらも、ヘッド・ミュージックとしての機能性と美しさがあるのは唸らされるのと同時に、ミニマルにストイックに刻まれるビートに被せられる絶妙なウワモノ、そして、リズムの込み入り方もそうだが、叮嚀に細部まで美意識が行き届いているのは流石だといえる。

 なお、新曲に関してだが、「Lion」は淡々とした始まりからじわじわとパーカッシヴにトライバルな盛り上がりをしてゆくものの、そこにはオリエンタルな馨りよりも、いささかキュリアスなムードが漂うのも彼らしい機知が見える。「Peace For Earth」はタイトル名通りといおうか、アンビエント色の強い穏やかなトラックで電子音の粒子がドリーミーで優美な11分を越えるもの。

 この作品で感応できる反復と柔らかな差異、そこにはソニマージュ的にある種の視覚効果をもたらせながら、サウンド・アートとしての「それ」を思わせ、平面的なフレームを跨ぐ立体位相が浮かび上がる。しかし、「それ」をまた翻してくるのが彼なのだとも感じる新しい次への予感に満ちた過程作だという気がする。

 

(松浦達)

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LEGGYSALAD.jpg レギーサラダ(LEGGYSALAD)とはkevin mitsunagaによる電子音楽ユニットであり、彼は佐藤純一(FLEET)とyuxuki waga(s10rw)とともに、ブロードバンド前世代~ニコニコ動画ボカロ世代~ネットレーベル世代というインターネット3世代によるユニットfhána(彼らの初公式音源となった傑作アルバム「New World Line」についてはまたどこかで書きたい)のメンバーとしても活動している。

 レギーサラダにとって初のCD作品となる同作は、ビート・メイカーのSeihoによる「惑星への小旅行」をコンセプトにした、関西を中心にスタートしたインディペンデント・レーベル《Day Tripper Records》からリリースされた。このレーベルは「ダウンロード配信が主流の今こそ、あえて物として、手触りまでをも楽しめる作品を。」をコンセプトに、ネットで活動するアーティストの音楽をフィジカルにリリースしている。

 それではこのアルバム『Verda Planedeto』について考えてゆこうと思う。

 このアルバムのテーマが「切断」にあることは間違いないだろう。流れるように美しい旋律を奏でてゆくピアノ、深く優しくたゆたうストリングス、柔らかに棚引くシンセサイザー、様々な場所から抜き取られたボイス・サンプル、他にも数多くの音がそれぞれの連続性の中から細かく切り出され、空間に配置されている。その散らばった音の破片たちは時に音のレイヤーを形成し、時に自在に空間の中を飛び交い、まるで森の木々の葉の隙間から零れる木漏れ日のような、まさに『Verda Planedeto』(エスペラント語で「緑の惑星」)と呼ぶにふさわしいサウンドスケープを獲得している。

 『Verda Planedeto』にある無数の音の破片は極めて多様な表情を見せながらサウンドを組織し、また解体する。切断された音たちは反復する音の中に繋ぎとめられることによって新たなメロディを生み出しているだけでなく、「Reminiscences」におけるピアノの音のように沈黙と接続されることによって、メロディならざるメロディを形成し、滑らかなビートとともにグルーヴを創出することもある。いまや世界を席巻していると言っても過言ではないチルウェイヴを彷彿とさせるシンセ・サウンドから始まる「Sleeping Beauty」ではデデマウスを彷彿とさせるボイス・サンプルを用いているが、デデマウスのそれとは異なり、より空間に同化してゆくような使い方がなされており、あくまでばら撒かれた音の一つとして他の音たちと有機的に絡み合いながら曲を形作っている。「Awakening」をはじめとした、このアルバムで鳴っている電子音はアイ・アム・ロボット・アンド・プラウドのような聴き手を包み込むような暖かさを基調としながらも、時にマウス・オン・マーズにおけるそれのようなアグレッシヴな瞬間をちらりと覗かせることもあり、ばらばらに飛び交っているように聴こえるが、よく耳を・キませてみるとそれぞれの音の粒子が丹念に磨かれ、非常に巧妙に空間に配置されていることがわかる。また、ストリングスや、ピアノ、アコースティックギターなどの生音の反復が奏でる清涼でかつ喜びに満ちたメロディと確かな質感はスティーヴ・ライヒをはじめとするミニマル・ミュージックを思わせる。参照のためにざっと挙げたアーティストたちからもわかるように、このアルバムには非常に多くの文脈から構成されたエレクトロ・ミュージックの歴史が刻みこまれている(アンビエント・ミュージック、ミュージック・コンクレートの文脈からこのアルバムを聴くこともまた可能であろう)。この若さ(kevin mitsunaga は1990年生まれである)で意識的か無意識的かこれだけの情報量をつぎ込まれたものが、押しつけがましさや過剰さが一切感じられず、ナチュラルな形でまとめられていることに新世代の鮮やかな息吹を感じずにはいられない。

 私はこのアルバムのテーマは「切断」であると書いた。しかし、実はこのアルバムを通して聴けば分かるように、一曲一曲の切れ目は非常に曖昧であり、そこにはある種の「連続性」を感じることすらできる。また、とある音の断片が、それが最初に配置されていた曲とは異なった曲に再度配置され、その断片が基調となってまた違った展開が生成される、といった試みがなされている。このアルバムの中に点在する音の断片たちは出現と消滅を繰り返すのであるが、それが消滅するたびに新たな音楽を奏でるきっかけとなっており、ここにもまた一つの「連続性」が存在しているように思える。これらのことからわかるように、このアルバムは「切断」を基調としながらも最後にはある種の「連続性」に至っている。この相反する二つのキーワードが互いに絡み合い、空間に散りばめられた音の粒子たちを鮮やかに輝かせていることは、このアルバムにとって、そして音楽にとって極めて幸福なことのように思えてならない。

 

(八木皓平)

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NOVELLA.jpg 60年代サイケデリックを思わせるジャケット。しかしアメリカや日本的なイラストが描かれている。そういったところに今っぽさを感じるというか、例えるならグライムスのジャケットほどではないが、似たものを感じる。

 ローファイなサウンドでひたすら聴き手を引っ張っていくロンドンのスリー・ピース・ガールズ・バンド、ノヴェッラによるファースト・ミニ・アルバムである本作は、鮮烈極まりないフレーズを次々と繰り出し、キュートな歌声と相まって実に快楽的だ。メロディ・ラインのところどころにはブラーの『Modern Life Is Rubbish』やオアシスの『Definitely Maybe』、ストーン・ローゼズやビートルズを思わせるものがあり、決して新しくはないのだが(僕は新しさを価値基準にしていないが)、ブリット・ポップをガレージ・ロックに落とし込んだ音楽性が爽快に響き渡る。これがなんとも心地いい。

 技巧に長けたドラムが駆け抜け、痛快に鳴らされるノイジーなギター・サウンドには抑制の美があればダイナミックでもある。ラモーンズやヨ・ラ・テンゴの要素も強くあり、彼女たちは国や年代に囚われず、自由奔放に音の中で弾けている。いわば、とても今日的な音楽だ。

 特筆すべきは2曲目の「He's My Morning」。変拍子を交えたこの曲は、聴き手をずるずると引き込むような妖しさがある。「ただのガレージ・ロック」と言われかねない音楽性をからかうように自分たちの豊富な音楽体験を音楽に反映させ、それをあっけらかんとやってのけてしまうのが、ノヴェッラの真骨頂だろう。スーパーカーの『スリーアウトチェンジ』から青春の匂いがするように、このバンドも青春という、どこへでも行ける、未来は開けている、という感覚を持っている。そこにおける無邪気っぷりは素晴らしい。

 本作を「ただのガレージ・ロック」とだけ評するリスナーはいないであろう。このバンドにとって最も重要なことは、気だるいメロディと輝くメロディが交差する中で、歌声にギター・ノイズを絡ませるという、好きな事を好きなようにやるということだ。結局、それだけなのだ。が、しかし、衝動という言葉は似合わなく、彼女たちの場合、豊富な音楽的バック・グラウンドがあり、自然に滲み出ているがゆえの奥の深さがある。ギター・バンドにとってジャンルの交差の先に見える新たな景色を映し出してくれそうな音の鳴りが聴こえてくるのだ。プライマル・スクリームのような道を歩めるバンドだと思うし、そうなってほしい。ライヴ映像を観る限りだとスリッツになれる可能性も十分ある。

 バンド名と本作のタイトルは「短編物語」という意味。ゆくゆく発表されるであろうフル・アルバムはどんな長編になるのか気になるミニ・アルバムだと言えると同時に、ギター・バンドという枠で音を聴かせないギター・バンドだと言える。

 

(田中喬史)

 

【筆者注】JET SETTHE STONE RECORDSにて販売中。

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七尾旅人『リトルメロディ』.jpg  音楽とは不思議なもので、ロジックや言語では捉えきれない複雑なものを捉えることができる。だから筆者はよく「音楽とは魔法みたいなもの」と言うのだけど、そう言うと友人のライターや編集者には、「物書きとしてお金もらっておいてそれは言っちゃダメでしょ(笑)」と、軽くバカにされてしまう。

 そもそも、数多くいる音楽家のほとんどは、言語化できない曖昧かつ複雑な心情や感覚を表現するために、言葉だけでなく音やメロディー、さらにはリズムといったものを総動員して音楽を鳴らす。なぜならば、豊穣なものであればあるほど、直線的な表現では捉えきれないからだ。つまり音楽とは、言葉では説明できない複雑なものを複雑なまま、言語や理論といった壁を飛び越えて届けることができる手段であり、だからこそ、多くの人が音楽という文化に夢を馳せ、愛してきたのではないか。

  と、柄にもなくロマンチックがすぎることを言ってしまったが、前作『billion voices』以来2年ぶりとなる『リトルメロディ』を聴くと、そう思えてならないのだ。既にいくつかのインタビューで七尾旅人自身が語っているように、本作は3.11の影響が反映されたアルバムである。3.11直後、七尾旅人は友人のタブラ奏者であるユザーン(本作の13曲目「アブラカダブラ」に参加している)と一緒に福島へ行き、そこでライブを行うなど、3.11以降の七尾旅人は、考えるよりも行動を優先する姿勢が目立った。こうした行動の結果として生まれたのが、本作に収録された曲のなかでも屈指の名曲「圏内の歌」だ。正直、この歌が本作に収録されていると知ったときは、『リトルメロディ』は重苦しい雰囲気に支配された作品なのではないかと想像したのだが、聴いてビックリ。これまでの七尾旅人のアルバムでは一番ポップに響く作品で、メロディーもより親しみやすくなっている。「シャッター商店街のマイルスデイビス」に代表される前作の攻撃性は影を潜め、歌詞は平易とも言えるシンプルな言葉で綴られている。

 「きみのそばへ」と名付けられたノイズから始まり、放射能が降り注ぐ環境のなか、表向きは笑顔を浮かべながら生きる母親をテーマにした「圏内の歌」が続くことで、日本は変わってしまったことを聴き手は自覚させられるわけだが、後に続く曲は、男性の視点からカップルの一夜を描いたような「サーカスナイト」、男女の儚いラブストーリーを思わせる「湘南が遠くなっていく」といった具合に、日常の匂いを醸しだす"ささやかな歌"が多い。確かに本作には悲しみが横たわっているが、それは悲しみすらも受け入れ表現しようとする七尾旅人の真摯な姿勢に所以するものであり、3.11以降の現実を表現者として生き抜くため、出来るだけありのままの自己表現をしようと試みた結果ではないだろうか。少なくとも、本作の悲しみのなかに絶望や諦念は感じられない。

  それにしても、ウェンディー・カルロス風のエレクトロニック・サウンドにレイヴ・シンセ、さらにはガイガーカウンターを想起させる音が入れ乱れる「my plant」や、不穏な焦燥感を漂わせる「劣悪、俗悪、醜悪、最悪」「busy men」といった小品に混ざるかたちで、"ささやかな歌"が"在る"というのは興味深い。本作に収録されている小品の多くは、先述の3.11の影響をヘヴィーな形で反映していると思うのだが、そうした圧倒的な現実のなかに、小さいながらも美しい"ささやかな歌"は"在る"ことを、七尾旅人は伝えようとしているのではないか。それは言い換えれば、"人(ささやかな歌)"は"生きている(在る)"ということなのかもしれない。そういう当たりまえすぎて誰も歌わなかったことを、七尾旅人は本作において歌っているような気がする。あからさまな政治的メッセージもなければ、シニカルな風刺的表現もない。言ってしまえば、七尾旅人が3.11以降見つめてきた現実を表現しているだけとも言える本作から聞こえてくるのは、そんな身の丈から生まれた歌である。しかし、その歌がどんな言葉よりも力強いメッセージとなって、いまだ曖昧模糊なムードに覆われた現状に鳴り響く。こうした光景、それこそ「リトルメロディ」のように、ひとつひとつの"小さなメロディ"が集まり"大きなメロディ"となる帰納的光景が、本作にはある。

 

(近藤真弥)