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HERE WE GO MAGIC.jpg 最近驚くのは、50~60代のリスナーは音楽の定義付けが既に済んでいる場合が多いということだ。それはある種のこだわりだと思うが、音楽を既存の価値観で定義することは、音楽を聴く際に制限を設けることにも繋がる。音楽の定義付けとは音楽を聴いて浮かんでくる感情を水で薄める危険性があり、好き嫌いの二元論で判断してしまう危険性もある。だからこそ、というべきか、定義付けが済んでいるリスナーにこそ、このバンドを聴いてほしい。

 ブルックリンを拠点に活動する、シンガー・ソングライターのルーク・テンプルを中心とする5人組のロック・バンド、ヒア・ウィ・ゴー・マジック。スフィアン・スティーヴンスやデス・キャブ・フォー・キューティーのメンバーからも支持を受けている彼らの素晴らしさは、アフリカ音楽、クラウトロック、フォーク・ミュージックを、さも当然のように結びつけて鳴らせるところだ。そこにはあざとさが見当たらず、やりたいことをやったら多国籍的になってしまった、というステップの軽ささえ窺える。ともすれば実験音楽になりそうなのにポピュラー・ミュージックとして生きているのは、あらゆる国の音楽を愛している点と演奏方法へのストイックな姿勢が彼らの根底にあるからだろう。

 彼らのポップ性はファースト・アルバム『Here We Go Magic』とセカンド・アルバム『Pigeons』を比べた場合、明らかに『Pigeons』の方が上だ。音の表情は豊かになり、ファンキーなサウンドに溢れ、ポリリズムを錯覚させるリズムの多彩さがあった。つまり、進化した。そして今年発表されたサード・アルバムとなる本作『A Different Ship』は、ペイヴメントやレディオヘッドなどのプロデュースを務めたナイジェル・ゴドリッチということもあって、音の一つひとつが丁寧に磨かれ、立体的なミックスが施された空間の余白を大切にした浮遊感の美、静謐な音響美のある作品になっている。この作品はバンドにとって深化でも進化でもなく、変化だ。

 本作においてファンキーな鳴りが前作より影を潜めたのは残念だが、ソロ作も含めてルーク・テンプルの歌声は過去の作品以上に浮かび上がっているし、アフリカ音楽のリズムの上で西洋的な女性コーラスを優美に舞うようにしたミックスは異端。トリップ感も十分だ。ナイジェル・ゴドリッチの手によってヒア・ウィ・ゴー・マジックは自分たちの音楽に近視眼的にならず、自己相対化の目を持った。それが奏功し、大衆性を獲得している。デビュー当時からのファンからすれば、本作は、前作、前々作より土臭さや荒さがないゆえに、ヒア・ウィ・ゴー・マジックらしくない作品だと感じると思う。が、ナイジェル・ゴドリッチによって、シンプルで奥行きのある楽曲の構築が提示された本作は、いわばヒア・ウィ・ゴー・マジックのオルタナティヴを提示したものと言える。スルーしてしまうのはもったいない。

 過去の作品同様に、本作にもリズムの多彩さは十分ある。アフリカ音楽のリズムを取り入れている彼らの音楽は一聴、奇妙に思える。しかしリズムとは絶対的なものではなく相対的なものだ。サンバのリズムで踊れる日本人は10人に1人ほどらしい。それでブラジル人から「日本人はリズム感がない」と言われるようだが、では、阿波踊りを踊れるブラジル人がどれほどいるのかというと、それほど多くないことは想像に難くない。ヒア・ウィ・ゴー・マジックとナイジェル・ゴドリッチはそれを見抜き、普遍性のある、どのようなリズムでもよく馴染むように聴かせられるという技巧を身に付け、本作を発表した。実際に今年6月に開催されたHostess Club Weekenderでの彼らのライヴは強力なグルーヴがあり、誰をも踊らせるリズムがあった。圧巻だった。

 ヒア・ウィ・ゴー・マジックのメンタリティとして素晴らしいのは、奇妙でありながらも実験室に閉じこもるのではなく、あくまでポップ・ミュージックという、開けた場所に飛び込んでいく点だろう。楽曲の構築美に長けたナイジェル・ゴドリッチを快くプロデューサーとして迎えたのは、より多くの人に聴いてほしいという欲求があってこそ(ちなみにオファーしたのはナイジェル・ゴドリッチだ)。そしてより高い大衆性を獲得した本作がただのコマーシャル・ミュージックではなく、彼らにとって最も作品性の高い音楽になったことを嬉しく思う。なにより優美にひねくれたこの音楽は、音楽の定義付けという先入観が、がらがらと崩れていくサウンドに満ちている。

 

(田中喬史)

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THE VIEW.jpg 2012年の夏休み。僕はザ・ヴューの4thアルバム『Cheeky For A Reason』をくり返し聴いている。この夏のサウンド・トラックになりそうだ。殴り書きされたバンド・ロゴとモノクロのポートレート、不揃いのタイトル・フォント。オシャレでもなくて、ポーズさえも取らない4人のメンバーを写しただけのジャケットは、70年代後半頃のパンク/ポストパンク・バンドみたい。ドクター・フィールグッド『Down By The Jetty』、ザ・ジャム『In The City』、ストラングラーズ『Black And White』とか。そう言えば、スペシャルズの1stアルバムは、《2トーン》と名付けられたレーベル運営からメンバー構成まで文字通り「ブラック&ホワイト」を実行するスタンスを表していたっけ。ザ・ヴューの新作を手に取りながら、僕は改めてそんなことを思った。印象に残るモノクロ・ジャケットのアルバムは、サウンドもソリッドでダイレクト。アート・ワークが音楽を可視化する表現だとしたら、それは偶然じゃないはず。

 前作『Bread And Circuses』から約1年、思っていた以上に短いリリース・スパンでザ・ヴューが戻って来てくれた。ソニーからインディー・レーベルである《Cooking Vinyl》へ移籍したことが、彼らのフットワークを軽くさせたのかもしれない。プロデューサーには、アークティック・モンキーズやフォールズ、レイザーライトなどを手掛けたマイク・クロッシーを起用。そんなことからも、彼らの今作への意識をうかがい知ることができる。前作のサウンドを特徴づけていたストリングスは排除され、4人だけで鳴らされるロックンロール。キーボードやピアノは絶妙なアクセントとして楽曲を引き立てる。もともとラフ・トレードのA&Rマンだったジェームズ・エンデコットが立ち上げた《1965レコーズ》に所属していた彼らにとっては、いい意味での"インディー仕様"に戻ったサウンドだ。やっぱりジャケットのイメージどおり、ソリッドでダイレクト!

 アルバムは従来のザ・ヴューらしいメロディアスでアップ・テンポの「How Long」で幕を開ける。今作からの1stシングルに相応しいキャッチーなコーラスとポップなギター・リフに耳を奪われるけれど、イギリスの若手俳優マーティン・コムストンが(『Bread And Circuses』収録の「Grace」に続いて)出演するPVを見れば曲のイメージが一変するかもしれない。無邪気なラヴ・ソングかと思っていたら...、とんでもない! 自由な発想? 遊び心? それとも、挑戦的な態度? きっと、そのどれもが間違いじゃないんだと思う。バリエーション豊かな楽曲が並ぶ前半を聴き進めていくうちに、そんな気持ちが強くなる。

 カイル・ファルコナーとキーレン・ウェブスターによるソング・ライティング・チームは相変わらず絶好調。今作にはキングス・オブ・レオンをデビュー作からバック・アップしているプロデューサー/ソングライターのアンジェロ・ペトラグリアが3曲(「Hold On Now」「Bullet」「The Clock」)を2人と共作していることからもオープンなフィーリングが伝わってくる。そして、サウンドがシンプルになったからと言って、手っ取り早く"原点回帰"なんて言葉で片付けちゃいけない。5曲目「Bullet」、6曲目「Bunker (Solid Ground)」でのカイルの歌声は、スモール・フェイセズ時代のスティーヴ・マリオットや若き日のヴァン・モリスンを彷彿とさせるほどソウルフル。音数を抑えたギター・リフとタイトなリズム・セクションが"声"をいっそう際立たせる。唯一、キーレンがリード・ヴォーカルを披露する「Hole In The Head」が彼らの出自であるリバティーンズとの繋がりを思い出させるけれど、それはむしろ微笑ましいくらい。ミドル・テンポの楽曲が並んだ後半は、流れるような構成が本当に素晴らしい。3枚のアルバムを経て、彼らが着実に歩みを進めていることが実感できる。しかも、1stアルバム『Hats Off To The Buskers』の頃のフレッシュさ(輝き、と言い換えても良い)を損なわずに、だ。

 ローズ・ピアノの静謐な響きが印象的なラストの「Tacky Tattoo」(国内盤にはボーナス・トラック2曲追加)を聴き終えると、もう一度、PLAYボタンを押したくなる。オアシスみたいなスタジアム級のアンセムはいらない。リバティーンズが駆け抜けた儚いドラマもない。日本の夏フェスにも、ロンドン・オリンピックのセレモニーにも名を連ねていない。けれども、このアルバムは日本や世界のどこかで退屈な夏休みを過ごしている4人のキッズにバンドを始めさせるには充分だと思う。他に何が必要だろう? ザ・ヴューが鳴らすロックンロールは、そのモノクロ・ジャケットとは裏腹に僕たちの情景を鮮やかに染め上げる。

 

(犬飼一郎)

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高木正勝.jpg 高木正勝というアーティストは現代音楽の括りに入りながらも、そのポイエーシスをして、ロック/オルタナティヴ・ミュージックを愛する人たちからも注視されている。更には、映像面から多岐に渡る活動まで全身藝術家のそれを体現もする。しかし、彼の静謐のフレームの上を際どく鳴るピアノのタッチに、ふと耳を奪われてしまう人も多いと察する。個人的に魅かれるピアニストでは、グールド、ベネディッティ・ミケランジェッリ、ホロヴィッツ、ラフマニノフなどが居るが、彼らに「共底」するとしたら、ピアノが鳴っている音以上の「行間」を大事にしているような風情があるというのに収斂出来るのかもしれない。

 日本人的な「細部に神が宿る」のを愛する人たちが感情をアイデンティファイしやすいグールドの人気は言わずもがなだろうが、ミケランジェッリの『パガニーニ協奏曲』、ホロヴィッツ『第二ピアノ協奏曲』、ラフマニノフ『パルティータ』などを聴くと、アーティキュレーション、譜面からはみ出るような透明性と純度の高さを感じる。モダン・クラシカルの文脈下では、モダンにもクラシカルにも「分断」されない、仄かに宿る稚気と狂気性も然り、それぞれ即興的な演奏を或る程度は是としながらも、その実(速弾きがどうなどの余計なオプションが付随しつつ)、上品に且つ細やかに音が編み込まれている感覚が予め内包されている。昨今では、ダスティン・オハロランもそうだろうか。弱音、カンタービレ、構造的配置の妙。ちなみに、僕はリヒテルのタッチまでいくとナイーヴ過ぎてしまい、わずかに反撥してしまうのは彼が事実、内向性でヴァルネラヴィリティに溢れる人間だというのがある。

 数多の世界のピアニストたちの「指先」に見えるのは、精神性の脆く裸身の美しくも残酷な尖りで、それが時に聴き手には内部の古傷を抉るように癒すように、心に響くならば、高木正勝の分岐点ともなったといえる2009年の『Tai Rei Tei Rio』を巡る2010年のドキュメンタリー・フィルム、そのDVD『或る音楽』で、有名曲の「girls」を弾き語るときの音の揺れ、麗しいダイナミクスにはどうしても芳醇たる動悸をおぼえてしまった。それでも、彼自身は雄大なる太古、歴史を辿り、生命を巡る旅路にて現代音楽的な意匠という縛りではなく、原始的なレゾナンスの中で人間の鼓動に近付く行為に接線を敷く訳で、それはかの竹村延和の過去作『こどもと魔法』辺りの温度の近似点を保ちながらも、どんな年齢の人たち、例えば、大人のような子供、子供のような大人の琴線、そして、言語、意味共通圏域で通じているという各々の暗黙の錯覚をほぐす。今年は、アニメーション映画『おおかみ子供の雨と雪』のサウンドトラック、アン・サリーの唄う主題歌「おかあさんの唄」を手掛け、その映画自体の評価もさることながら、彼の描く、新しくも誰しも心の中に宿る故郷たる何かへのノスタルジア、慕情を掻きたてるワークスも美しかった。つまりは、音楽はリアリティが峻厳な状況に置かれても、やはり無力ではなく、しっかりと伝わる―そういった行為性の拡がり。

 この「Yu So Ra Me」EPは、第5回トヨタ夢のクルマアートコンテスト スペシャルムービーの音楽である「Sora」と「Yume」、そして、『Always '64 続・三丁目の夕日』のタイアップCM音楽「Yubi Piano」など4曲を収めた配信オンリーのものだが、彼のHPには但し書きとともに、絵を担当した さとうみかをによるpdf.形式のブックレットがリンクされており、各々でフリーに保存も出来るようになっている。You Tubeでの積極的な演奏風景の呈示含め、視覚的にも聴覚的にも、一層のこと、今の彼は自覚裡だろうが、表現、受容者、現実、それらを結び合わせるインタラクティヴな佇まいを進めている証左の一端を示す。

 「Sora」は昨今のモダン・クラシカルの音楽に沿い、子供の声やトイ・ポップ的な無垢さが接着された柔らかい曲、「Yume」は彼の端正なピアノが冴える子守唄のようなヒプナゴジックな質感を持つ曲。他の2曲も含めて、13分半ほどなのに、一瞬に思えるほどの果敢なさと凛然たる強度があり、同時に、昨今の加圧の掛かる音楽が多い中で自然の温柔な風のそよぎとともに届けられる色彩がある。

 このEPでの色彩を掴もうとすると、おそらく、ふと誰もが元来、潜めている「自然=本性(Nature)」に帰させるような、そんな訴求力が備わっていると思う。

 

(松浦達)

 

【編集部注】高木正勝「Yu So Ra Me」EPはiTunes Music StoreAmazon等で配信中です。

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HOLY BALM.jpg 《Tri Angle》周辺のウィッチ・ハウスや、悟りきったような諦念をラップするタイラー・ザ・クリエイターなど、ここ数年シリアスでダークな音楽が注目を集めているように思う。

 こうした状況はこれまで幾度となく訪れているが、その都度、音楽を"たかが音楽"として捉え、真剣に悪ふざけをする愉快犯的バンド/アーティストが現れてきた。「テクノの作品のタイトルにはシリアスなものが多すぎる」と語り、『Home Run』『All Targets Down』といった、それぞれ野球とピンボールをテーマにしたアルバムを生みだしているハードフロアや、毎日働きづめで常に疲労感を抱えているような人にとっては、あまりにも無邪気すぎるポップなコミカル・コラージュ・サウンドを鳴らすブラック・ダイスなどがそうだ。そして、シドニー発の3ピース・バンドであるホーリー・バルムは、これらのバンド/アーティストに通じる快楽的音楽を標榜している。

 本作はホーリー・バルムのデビュー・アルバムにあたるが、シカゴ・ハウスの要素を窺わせるリズムと、アシッド・ハウスの酩酊感をドライなポスト・パンク的プロダクションで解釈したポップ・ソングが収められており、過剰なリバーブやディレイも施されていない。そんな本作はノイエ・ドイチェ・ヴェレ周辺の音を想起させ、いまだチルウェイヴの影響下にあるウェットな音楽が大量に生まれている現状において、その異端ぶりが際立つ作品となっている。そして面白いのが、ノイエ・ドイチェ・ヴェレまんまというよりは、ノイエ・ドイチェ・ヴェレを含めた80年代ニュー・ウェイヴに影響を受けているエレクトロクラッシュに近い点である。

 先日リリースされたヴィジョンズ・オブ・ツリーズのアルバムもそうだが、本作はエレクトロクラッシュ・ブームを牽引していた頃の《International Deejay Gigolo》や《Mogul Electro》から出てもおかしくない作品だ。エレクトロクラッシュといえば、ファッションと音楽は同等、いや、場合によっては音楽よりもファッション性が重視される軽薄な音楽だったし、リアルタイムで聴いていた約10年前はあまり好きになれなかったのだが、最近この手の音がふたたび増えてきている。もしかしたら、シリアスな方へと向かう音楽が多い現状に対するオルタナティヴとしての価値を、エレクトロクラッシュの軽薄さに見いだしているのかもしれない。 

(近藤真弥)

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TheCherryThing.jpg ネナ・チェリーと北欧のフリー・ジャズ・トリオ、ザ・シングがコラボレーションした『The Cherry Thing』を聴きながら、僕は「録音する」という意味としても使われる「吹き込む」という言葉を久しぶりに思い出した。ネナのソウルフルで官能的な歌声、ザ・シングのマッツ・グスタフソンが鳴らす力強くて、時に繊細なサックスの響き、そしてシンガーとバンドのエモーションがひとつになる瞬間。両者の呼吸、息づかいまでもが聞こえてきそうなこのアルバムに「レコーディング」という言葉は素っ気ない。「録音」もしっくりこない。やっぱり「吹き込む」という言葉がぴったりだ。

 ネナ・チェリーは、ジャズ・ミュージシャン、ドン・チェリーを養父として育ち、リップ・リグ・アンド・パニックを経てソロとしても成功を収めている。89年にリリースされたソロ・デビュー・アルバム『Raw Like Sushi』の大ヒットは、僕もリアル・タイム世代として記憶しているけれど、その時もその後も彼女の音楽を熱心に追いかけてきたわけじゃなかった。今でも聴き続けている彼女の(参加した)アルバムはニュー・エイジ・ステッパーズの2nd『Action Battlefield』とゴリラズの2nd『Demon Days』だったりする。ニュー・エイジ・ステッパーズに参加した時、ネナはまだ14歳。出自もデビューも立派すぎるだろ! あの『寿司』アルバムがバカ売れしたのにも「悪くないし、当然かな...」っていう程度に距離感があった。90年代後半には、異父弟のイーグル・アイ・チェリーも売れたしね。

 それでも僕がこのアルバムを見つけて手に取った理由は、スーサイドの「Dream Baby Dream」がカヴァーされていたから。しかも、国内盤のボーナス・トラックはニコの「Wrap Your Troubles In Dreams」(1stアルバム『Chelsea Girl』に収録。作詞作曲はルー・リード)だし。そう、これはネナとザ・シングによるカヴァー・アルバム。他にもストゥージズやマッドヴィリアン(MFドゥーム&マッドリヴ)、マルティナ・トップレイ・バードからドン・チェリー(やっぱりね!)、オーネット・コールマンまで刺激的な名前が並ぶ。さらに、ネナとザ・シングのマッツ・グスタフソンのオリジナル・ソングをそれぞれ1曲ずつで全9曲という構成だ。

 「でも...ジャズなんて聴いたことないし」だとか「フリー・ジャズってなに?」だなんて、気負わずに手に取ってもらいたいと思う。ネナとコラボレートしているザ・シングは前述のマッツ・グスタフソンとインゲブリクト・ホーケル・フラーテン(ベース)、ポール・ニルセン・ラヴ(ドラム)の3人編成。ベーシストとドラマーは、ノルウェーを拠点とするアトミックというジャズ・ユニットとしても活動中。メンバーのディスコグラフィーを辿ってみると...サーストン・ムーア、ジム・オルーク、大友良英など、気になる名前ばかりの共演作が浮かび上がってくる。既成概念としての"音楽ジャンル"を飛び越えるコラボレーションは、もうとっくに実現しているんだ。この『The Cherry Thing』は、そんな豊かな音楽シーンへと導いてくれる入門盤としても最適だと思う。僕は「スーサイドのカヴァー+ジャズ」からジェームス・チャンス&ザ・コントーションズみたいなノー・ウェイヴのサウンドを連想したり、自らの音楽性を「フェイク・ジャズ」と呼んだジョン・ルーリーが鳴らしていたラウンジ・リザーズの本気の遊び心を感じたりした。そしてもちろん、オリジナルを知っていれば、聴き比べるのもとびきり楽しい!

 スーサイド「Dream Baby Dream」のオリジナル・ヴァージョンはミニマムでメランコリック。チープなシンセ・サウンドに乗せて《Dream Baby Dream, Forever... And Ever...》という歌詞が執拗に繰り返されるその曲は、気がふれた子守唄のよう。95年には石野卓球がソロ・デビュー・アルバム『Dove Loves Dub』でカヴァー。オリジナルでは3分ほどだったその曲が、10分超のダブを効かせたアンビエント・テクノにアレンジされている。そして00年代には、ブルース・スプリングスティーンが05年の"Devils And Dust"ツアーのステージで取り上げている。ボスがオルガンで弾き語るその姿は、当時のアメリカに捧げる悲痛な鎮魂歌のように映った。ブッシュが再選を果たした翌年、ハリケーン・カトリーナがアメリカを襲った。オバマ政権の誕生まで、あと3年も待たなければならなかった頃のことだ。

 そして2012年。「Dream Baby Dream」はテクノでもロックでもなく、ジャズとソウルの結晶として仄かな光を放つ。《夢を、ベイビー、夢を見なさい》と囁く女性の声がオルゴールのような電子ピアノと重なり合う。緩やかに加速するダブル・ベースとドラムは心臓の鼓動。サックスは夜の空を舞い、木々を揺らす風になる。不穏な響きなのか、それとも心休まる調べなのか。その答えは聴く人、あなたに委ねたい。今夜、世界のどこかで、日本のどこかで聴かれるかもしれない子守唄。

 タイトルどおりにアコーディオンがフィーチャーされていた「Accordion」(マッドヴィリアン)の斬新すぎる解釈に驚き、オリジナル以上に猛り狂う「Dirt」(ストゥージズ)に耳を奪われる。どの曲にも共通していることは、溢れんばかりのエネルギー。ネナ・チェリーとザ・シングが「吹き込んだ」のは新しい生命だと気付いた。生まれ変わった曲は、ジャンルも時代も国境も飛び越えて「今、ここ」にあるべきものとして鳴り響いている。素晴らしいと思う。

(犬飼一郎)

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GREAT3ー.jpg 2012年5月28日の活動再開文にまず歓喜よりも考えた人は多いと思う。そこに記された高桑圭氏の脱退、片寄明人氏の決意に満ちたテクスト、白根賢一氏の簡潔ながらも、片寄氏と白根氏の二人でGREAT3がもう一度、始まるということの意思表明。8年間で彼らの存在は音楽シーンの中で何処に今は置かれるのだろうか、は正直、読みかねるところもあるが、あくなきサウンド・トラベラーかつ孤高のオルタナティブ・ロックバンドとして切り開く世界観や音楽性には瞠目させられるものもあり、そのノマド性に信頼を置くところもあるゆえ、個人的にこの再開は待っていた。

 シカゴ音響派との共振やレイ・ハラカミとのコラボなど、日本のロック・シーンにおいてはその独自で先鋭的な歩みは確実に評価(サバービアの橋本氏など、多い。)されているが、主に歌詞に見受けられるその打ちひしがれた、ディプレッシヴな感覚やセクシュアリティの表現にどうにも、アイデンティファイ出来ないという方もいるかもしれない、どうにもニッチで何処にいても居心地が悪いような立ち位置にいるバンド―しかし、確実に音楽性は純化していきながらの沈黙。その間も個々メンバーは活発に活動をしていたが、GREAT3としてのアクションは見えなかった。

 バイオグラフィーとまでは行かないが、彼らの来歴を少し書きたいと思う。清涼なギター・ポップを軸に、後ろのめりな歌詞や失恋やメタメタながらもハイな1995年のファースト『Richmond High』、ヘビーロックから打ち込みから総てをごった煮にハイブリッドに駆け抜けた1996年の『METAL LUNCHBOX』。そして、片寄氏の疲弊した心理状態(歌詞が書けない)とそれを救うべく、他の二人がサウンド・ワークに励み、まるで日本版ハーパース・ビザール『シークレット・ライフ』のように幻惑的な世界観を提示した今でも評価の高い1997年のサード『Romance』。「日陰」から始まり光を希求するように様々な音響工作に挑んだ『WITHOUT ONION』が1998年と、日本のアーティストらしくリリース・ペースは速く、そして、確実に一作毎に深めてゆく詩情と独特の音楽性も速かった。但し、ここで初期と言おうか、GREAT3は一旦、ピリオドを打つ訳だが、自主レーベルの立ち上げ、マドンナの「Like A Virgin」のカバーを含むオルタナティヴなシングル「I.Y.O.B.S.O.S」のリリースの後の2001年の転機作『May and December』ではMIXをシカゴ音響派の雄でもあったジョン・マッケンタイアに依頼して、日本のバンドにはない質感と滑らかさと繊細なサウンド・スケープを手に入れることになる。それが、2001年の事だから如何に慧眼だったか、分かる。心の内面に深く踏み込んだ切実な歌詞の内容から最初、シングル拒否さえされた「RUBY」を含めた2002年の『When you were beauty』では、Jeff Parkerなどシカゴ勢と完全にコラボレーションして、とてもディーセントな奥行きのあるアルバムを創り上げている。ベストでのレイ・ハラカミを招聘して「Oh Baby」、「Little Jの嘆き」の2曲のセルフ・カヴァーはまた、新曲のような響きを得ていた。2003年の『climax』は80年代的なデジタルワークの中で踊ってみせた。映画、音楽家の名前をタイトルに都度、オマージュとして曲名などに入れながらも、博覧強記な音楽的な語彙をベースに切り拓く仄暗いロマンスのある世界観に魅せられていた人は少なくないだろう。

《右手に咲いた 花摘み取らないで 体を裂いた 花と罪の筏 そっと 貴方の中へ潜み 愛や希望 放っては砕いた》(「ONO」、『When you were beauty』より)

 ポップ、ギター・ロック、フォーク、ディスコ、ニューウェーヴなどいつも優雅に音の中で想像力を広めながら、基本、ずっと何らかの喪失感を歌い続けていた姿勢は他のバンドと積極的に絡む事もなく、孤高の存在だった。フェスの乱立やユニティの出来上がりとともに、彼らはバンドとしての活動を一旦、止めたタイミングなのも後付けだが、「らしい」ジャッジだったのかもしれない。

 ライヴ活動のアナウンスメントはあったが、この度、配信限定シングルとして「Emotion/レイディ」がリリースされた。8年間の不在を感じさせないギターの疾走感とともに、《揺れ動く感情なんて 上っ面》という歌詞からじわじわと《それでも この世界は美しいから》とのフレーズも刺さる紛れもない、GREAT3としてのギター・ロック。片寄氏の柔らかな歌声は凛然と現実を見詰め、白根氏のコーラスから、サーフ・ロックの要素を織り込みながら、シンプルなようで多層的でディーセントなアレンジメントにも唸らされる。

 「レイディ」はエレクトロニック・ファンク調の曲であり、セクシュアルなモティーフがテーマとして通底しながらも、飛翔感のあるサビは目映い。この2曲を聴いても、2012年の中で全くもってオルタナティヴなのが彼ららしい。大人のロックといったフレーズではない、成熟と青さを行き来する甘美な諦念と少しの前進に囲まれたもの。

 冒頭の活動再開文の片寄明人氏の一部を引用させて戴き、最後にしたいと思う。「(略)この先、新メンバーが加入するのか、それとも賢一と二人だけで続けるのか、それは今のところまだ何も言えません。決まっているのは、新しいベーシスト、そしてギターに長田進、キーボードに堀江博久を迎えた布陣でステージに立ち、9年振りとなる新作のレコーディングに入ることだけです。(略)」―失うのを恐くないと言い切り、荒れ狂った海に出るという二人のGREAT3のこれからはまたきっと険しい道かもしれないが、ここで新しく出会える人ももう一度、出会える人も素敵な気がする。

 思えば、《青い星の明かりと ハイウェイが 頼りだった "まだやり直せる" この道続くなら ステップを踏み直す様に なにもかも消えていった まだ眠くはない 君の 吐息を 盗もう》(「My Bunny Eyes」)とは、1995年の『Richmond High』の最終に入っている短くも美しい佳曲だが、まだやり直せると教えてくれた彼らは、再び舵を取る。

 

(松浦達)

 

【編集部追記】
*「Emotion/レイディ」は配信限定シングル。
*2012年8月1日、公式HPで新ベーシスト jan(ヤン)の加入が発表された。

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YOHUNAjpg.jpg ニューメキシコ州出身で現在はウィスコンシン州を拠点とする彼女のEPである本作「Revery」。それは、2010年に50本限定でセルフ・リリースされていた音源をリマスターしたもの。ジャケットを見る限りだと弾けるようなガールズ・ポップだと思われるかもしれないが、ビーチ・ボーイズやジーザス&メリー・チェインを彷彿させるメロディにマッシヴ・アタックを思わせるビート、チルウェイヴ的な音響が広がっているサイケデリック感に溢れるドリーム・ポップなのだ。ほんのりエコーをかけた彼女のヴォーカルが美しく響きわたり、ノイジーなサウンドも印象的。

 リマスターを行なったのはノー・エイジクロコダイルズなどのミックス、マスターを手掛けたピート・ライマン。初めて本作を聴いた時は、全く人間味のない音楽だと感じてしまったが、大音量で聴くとそんなことはなく、太いビートが彼女の歌声に生命力を与えている。おそらく、ピート・ライマンがビートを強調したリマスターを行なったのだと推測でき、本作においてビートは楽曲と歌声に躍動感を与えるという言葉以上に、生命力を与えるものなのだと気付かされる。ぜひ大音量で聴いてほしい。というか、本作の良さは大音量で聴かなければ分からない。コーネリアスが『Point』で行なったように、音量も重要な音楽性だという言いがぴったりくる。

 この作品は名盤と呼べるものではなく、音楽史に残るようなものでもない。話題作でもなく、数年後にひょっこり出てくるような隠れ傑作的な音楽だ。本作に過剰な意義付けは必要ないし、僕はそういう音楽があってもいいと思う。音楽作品に意義を見付けだすことは重要だと思うが、逆説的に意義はほとんどないという意義付けもまた、純粋に音としての美しさを見出すことに繋がると思う。本作は意義付けを迂回するように鳴っていて、ふと、棚から引っ張り出して聴きたくなるような、気軽に聴ける作品だ。

 ただ、彼女は本作で実験を試みている。エレクトロニカやポスト・ロックを思わせるサウンドが散りばめられ、さらにはシンセ・ポップの要素を大胆に取り入れて、ジャンルの無効化を狙っている。たぶん、本作はアルバムへの布石なのだろう。それゆえのリラックスした雰囲気が醸し出されている。アルバムが楽しみになる作品だ。布石は十分整っている。

 

(田中喬史)

 

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肥満と飢餓.jpg まず、この書はいわゆる、最新書ではなく、日本書は2010年に刊行されていること、日本書版では、"Stuffed and Starved. The Hidden Battle for the World Food System"の全訳ではあるものの、訳者の佐久間智子女史が触れているとおり、紙幅の都合で、参考文献一覧、脚注の一部、本文の論述と無関係な詩などの一部は割愛されているとのことわりを入れておく。ただ、今、読んでも、内容自体は古びていないどころか、ラジ・パテル氏の視線がしっかり映り込み、グローバル的なフード・システムに関わる貧困から進行形で続く「食」という大きな命題に触れている。2012年の現在で手にしても遜色がないどころか、多くの示唆が見つけられるオルタナティヴな書である。つまり、貧しい人たちは、怠惰だから飢え、豊かな人たちは、美味しいものを占拠して、太っているという既成概念を覆す、さらに、「食の安全」という簡単なフレーズや食に関連する書物、記事が玉石混淆でも、溢れている中、単一的な価値観に帰着してしまわないように、この書が何らかの契機になれば、との想いであえてピックするのを配慮願いたい。

 国連食糧農業機関(FAO)の2009年推計では、世界の飢餓人口は、初めて10億人を越え、10億2,000万人となり、現在もこの数値は進んでいるといえる。比して、肥満人口も10億人を越えている状況というのは、栄養価だけの問題なのか、というと、経済、市場メカニズム、国家間の駆け引き、貿易、原料など多くの連関内で浮かび上がる輪郭である。食肉消費、例えば、自身でも研究で行く、東アジア圏内の新興国では宗教的、文化的な問題はあれども、マクドナルドが来ると、自分たちも先進国の仲間入りをした、というイロニカルな物言いがあるが、「ハンバーガーを食べるということ≒高度資本主義社会でのクールネス」―そういう風潮はまだある。

 「ビッグマック・レート」という言葉が旧聞になれども、ビッグマックの価格で世界経済を分析する、それは通じない訳ではない。経済学者のアマルティア・センは、食料価格が高騰する時は、いつも需要があると見込まれていた場合だったと指摘し、商品先物市場で巨額投機の末の食料危機が発生し、投機家たちが勝ち抜ける、これは食料に限った話ではなく、ソブリン・リスクを含めた現今の金融経済というシステム論に繋がる根因でもある。例えば、著名な経済学者のジェフリー・サックス氏のように、気候変動と遺伝子組み換え作物の必要性に説得力を付与しているという言葉に沿えば、進行形でアメリカの干ばつの果てに実際、何が残るだろうか。気候は不可読なものであり、多面体であり、そこに人類の叡智で対峙できるのか、ポリティカル・コレクトネスの領域にいってしまうのだろう。無論、研究者は研究を進めるための辛苦と補助の中で進み、研究とは外から見るほど、霞を食べる所作ではなく、バジェットや明確な課題に少しずつデータを重ねてゆく作業であるからして、その「評価」が出たときは既に政府でも国際機関でも企業でも援用される。それをトラジェディ方面に使われた研究者は責められるべきなのかどうなのかの再考も要る。その「再考」が半ば放棄されているきらいの風潮も目立つだけに。


 ―食品が食卓に届くまで。その過程は簡単なイメージでは形成されていることだと思う。作物、加工、流通チャネル...。ただ、主/客を考えてみたら、誰が何を作り、何を誰が受け、そのシステムは自動化していないか、ということになる。アグリ・ビジネスも市場の制約下で翻弄されていながらも、競争原理が他の分野よりも固くはない。ゆえに、ルーティンの中で「当たり前」が成り立つ。日本の今年に起きたうなぎの騒動も記憶に新しく、今も続いているが、「当たり前であること」は全く稀少な繋がりで成り立っていた事柄がディスクローズしている。その市場性が食の分野ではとても縄抜けの甘いことをフックしないと、既に起きている事柄を説明し得ない。

 簡単に説明をしておくに、本書は全九章からなる。第一章では、世界の農村の状況に触れ、第二章では、テクニカルな経済分析を入れて、「あなたが、メキシコ人になったら?」という題目に沿い、農村/都市の線を渡る。第三章では、グローバル的なフード・システムの歴史の影をなぞる。この章は歴史が叮嚀に筆致され、特にパースペクティヴが捉えやすい。第四章でのフード・ビジネスの在り方、第五章の化学と農業、原料変化の蜜月への踏み込み、第六章の「大豆」という世界的共通言語であり、作物をモティーフにした多角面からの論考、第七章のスーパーマーケットというモンスターの存在に対して言及するアティチュード、第八章の消費者と食生活操作の問題、第九章のフード・システムの変革可能性への提案、そして、日本語版解説の「日本におけるフードシステム」の佐久間女史のものまで読めば、昨今のFTA、TPPまでの理解の接線を敷けると思う。門外漢の方には難しく感じるところもあるが、「読み物」として捉えれば、途中挟み込まれるグラフや難渋な経済専門用語を越えて、認知できる何かがあると察する。

 フード・システム下でのダーウィニズムも市場は適者が生き残るメカニズムであり、競争に負ければ退走を止むを得ない、そこでのサルヴェージ、延命処置は然るべきものではないという主義が進めば、感じるとおり、今のような食状況は用意されていたことなのか。スケール・メリット(規模の経済)で正当化される合併、メガ・カンパニー。そこから塗り固められる外壁。第七章のスーパーマーケットの歴史の際の、P262からP263に図表7-1として1916年にクラレンス・ソーンダースが食品小売業進出する際による「セルフ・サービング店舗」の特許に添付されたイラストは驚く。在庫管理から商品配列の魅力的な打ち出し、買い物カゴからレジに至る流れ、迷路のようでもあり客サイドの買い物リストと販売員の遣り取りの阻害を描き、現代では販売員やホスピタリティの重要度が高まっているが、軸はお客の「主体」を優先、買い取るような絵図として捉えると考えさせられる。また、ジャスト・イン・タイム、売り切れ商品を出さずに時間論と小売側の駆け引きもより今は高度化している。P302で引用されている文化人類学者のクロード・レヴィ・ストロースの言葉の「食べ物は美味しくいただく前に、熟考に付されるべきものだ。」に近接すれば、彼の10の提言、取り組み、「味覚の変換」、「地産地消」、「生態系維持の食べ方の実践」、「ローカリズム保全支援」など新たに再定義されてきてもいるものの、どうにも響きが綺麗すぎるゆえの現実への呼応はどうなのか、思わざるを得ないのは自身もそのシステム内で舌や栄養を享受してきたからなのもある。なお、今も。

 合わせ鏡のように、現在、システム論的に食について考えることは高度現代社会に生きる己に向き合う行為に「なってしまう」。ただ、思考停止はしたら、そこで終わりなのだと思う。また、ラジ・パテル自身は常にHPにて最新のステイトメントなどを発信している。それも以下に付記するので、併せ、この書のUPDATEDをはかってゆくのは読み手の意識と知性にマップ(仮託)させられる。ラジのHPでの展開を背景に、この書を不世出の旧書と切り捨ててしまうには、あまりに「気付き」の多い要素群があるものとして、2012年の世界の空気感に添うものを想う。

 

(松浦達)

【参考HP】

RAJ PATEL

 

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oono.jpg インディー・シーンはやはり面白い。昆虫キッズ、スカート、麓健一、mmm(ミーマイモー)、ヘラジカ、ザ・なつやすみバンド、平賀さち枝など、挙げればきりがないが、どのバンドもアーティストも、それぞれ音楽性は違うが共鳴し、刺激を受け合いながら強力なうねりとして盛り上がっている。そこにはアングラの匂いなど全くない。特に《Kiti》は重要なレーベルで、《Kiti》から発表されたoono yuukiのセカンド・アルバムである本作『Tempestas』は、さらにインディー・シーンを盛り上げる確信に満ちた重要な作品と言える。

 oono yuukiとは大野悠紀のアーティスト名であり、現在は9人からなるバンド編成のロック・グループでもある。前作『Stars In Video Game』のレコーディングを機に、徐々にバンドでの活動を本格化。本作のメンバーはoono yuuki(ギター、ヴォーカル)、たかはしようせい(ドラムス)、フジワラサトシ(ギター)、mmm(フルート)、ナガヤマタカオ(チェロ)、アルフレッド・ビーチ・サンダル(キーボード)、新間功人(ベース)、アシダユウト(ユーフォニウム)、MC.Sirafu(スティールパン、トランペット、マンドリン)という素晴らしい顔ぶれ。それだけでも胸が高鳴り、もちろんのこと音楽も素晴らしい。

 トクマルシューゴと同列に捉える向きがあるのは分かるといえば分かるのだが別物だ。メロディ・ラインのしなやかさとミニマルな様は予期せぬものがふっと現れてくる感覚に満ち、即興演奏ではないが、集団即興演奏的な音の渦と音の鳴りのタイミングがあり、聴き手をぐいぐいと引っぱっていく。前作同様、インストと歌ものが対照となっているのも良い。濃厚でいて心地の良いグルーヴに揺らされ、怒涛のロック・サウンドと多彩なリズムが聴き手の体温を瞬時に上げ、かと思えば静寂を大切にし、歌われるカントリー/フォーク・ミュージックに鎮められる。そのバランスの妙に、本作を前にして聴き手は驚きという喜びを味合うことになる。

 さらには、スティーヴ・ライヒもピクシーズもニュー・オーダーも並列に捉えているoono yuukiの音楽は、現代音楽の要素やガムラン、ダンス・ミュージックを思わせる要素もあり、それらはフルートやチェロ、ギター、トランペット、スティールパン、ユーフォニウムによって醸しだされる。あらゆる楽器の音色が突発的に飛び出し、綺麗にまとめるのではなく、複雑に入り組んだ感触を聴き手に残す。それが本作を人畜無害な音楽だと言わせないものとして働いているから爽快だ。特にインディー・シーンで活動の幅が尋常ではないほど広いMC.Sirafuが鳴らす音色の全ては、少なからずいる「ロックは死んだ」などと言う中年のその口をふさぐことをやってのける。音に文学性や哲学性を持ちこまず、直接聴き手に飛び込ませるエモーションに溢れる鳴り。それが効いていて楽しいのだ。

 どこか別の次元で鳴っているような音が充満している本作は、oono yuukiが楽譜に書かれた二次元をなぞるだけではなく、セロニアス・モンクのように、二次元では表現できない三次元の音を鳴らしているから醸しだされている音世界のような気がしてならない(本作と直接的な関連性はないが昆虫キッズの高橋翔の歌声からも同じものを感じた)。それは平均律へのカウンターとして受け取ることもできる。本作は既存のポップ・ミュージックへの抗いの色が濃いポップ・ミュージックであり、抗っているがゆえの原初性がある。いわば、『Tempestas』とは音楽という表現による音楽批評として働いている。しかしポップ極まりない親しみやすさがあるというアンビバレンス。それがoono yuukiの特徴だ。

 「間違った音を鳴らしたとしても、その音を認めなければならない」と、かつてデューク・エリントンが言ったように、oono yuukiは全ての音を信じている。絶対に音を偽らないし、どんな音だろうと誤魔化さない。こういった音楽がインディー・シーンで深呼吸していることだけでも意義がある。何か制限を設けても、どうしてもそれを突き破ってしまう。そんなスリルが今のインディー・シーンであり、oono yuukiの音楽なのだ。

 

(田中喬史)

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RIPPLE.jpg 名古屋周辺のシーンが今は面白い、と言ってもどこまで既存のメディアが踏み入っているのか分からないのだが、ライヴ・ハウス、バンドやアーティスト同士の連帯、さらに今の時代においてのノー・ウェーヴ的な胎動はアクチュアルで、70年代末から80年代初頭のNYの地下の動きを彷彿とさせる。メイン・ストリーム(本流)があって、オルタナティヴ(代案)が生まれたときには、オルタナティヴにはニルヴァーナもパール・ジャムなどが居た訳だが、あの90年代においてはオルタナティヴが真ん中になってしまうディレンマと訴求性の内に、時代の変遷ととともに、現在ではむしろオルタナティヴであることとは自家中毒になってしまう可能余地もある。その点、名古屋周辺のシーンはカテゴリーも脱中心や非・意味でもなく、各々が各々のリアリティをしっかり音楽を通じて照射しているところが察せられる。

 東京のモダーン・ミュージックのコンピレーション『Tokyo Flashback』を彷彿させる形で、この名古屋でも、異彩な熱を放つレコード・ショップの《File-Under Records/Knew Noise Recordings》がこのたび、『Ripple』という作品をリリースしたが、実に興味深い内容になっている。《Knew Noise Recordings》といえば、BO NINGEN、COMANECHI、世界的なバンドなどをリリースしているが、この『Ripple』に入っている12バンド、アーティストも殆ど、この店でCDやCD-Rの取り扱いをしており、ディレクターの山田氏が声を掛け、成立したものという。これが名古屋周辺のシーンを網羅している訳ではないものの、確実に一部の熱量を伝える充実したものになっていると思う。

 1曲目のPOP OFFICE「Epicureanism」から、テレヴィジョン『Marquee Moon』のようなストイックで鋭利なサウンドが響く。ボーカル/ベースのシマダの張り上げない歌唱、印象的なナカネのギター、手数の多くないエリコのドラムがしかし、じわじわと熱を帯びていき、ヴェルヴェッツ『ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート』で見られるガラスの表面を引っ掻くみたく軋むノイズに攫われる展開は美しい。ブックレットの白黒で四人が佇む姿がクールなNicFitは、かのゆらゆら帝国が鳴らしていたみたいな、あの鮮烈なギターからスウィングできるロックンロールを突き進む。3曲目のドロロニカ「Electric Wasanbon」は、《遊びは終わりだ。お前の負けだぜ。》というフレーズが耳に残る。水野ベルロウのサックスも不穏に響き、締まったアンサンブルで漆黒と鬩ぎ合う。

 一転、4曲目のフリーダム「サイコー」はロミー、ハドソン、カイマキの女性三人からなるバンドで骨組みに絞ったアレンジメント、妙な魔術性で《なんだか サイコー》というリフレインが残るものになっている。声の雰囲気から相対性理論的な何かを感じる人も居るかもしれないが、1分23秒目ほどからのノイズはそういった安易な同一化をかわす逞しさも持っている。5曲目のSika Sikaは知っている方も多いと思うが、この『Ripple』のために新たにレコーディングした曲「Gimme Gimme」はアグレッシヴなパンク・チューン。潔い49秒の時間に、しかし、Sika Sikaの存在はしっかりと刻まれている。6曲目の世界的なバンド。STYLE BAND TOKYOのコンピレーションの参加、今年の1月のファースト・アルバムのリリース、ツアーもあり、注目を浴びている3ピース。この「NEW」では、淡々としたリズムと抑制されたアンサンブルの中で6分を越える中で、トランシーな感覚をもたらせる。個人的に、ソニック・ユースの『ア・サウザンド・リーヴズ』辺りの温度を思わせた。つまりは、世界的なバンドにとってまだまだこれからがあるという引き出しを示した一曲だと思う。7曲目のZymotics「I Am The Whole Chinese People」のポエトリー・リーディング的に囁くような声と残響、無機的かつ主張しないサウンドといい、非常に魅かれる1曲になっており、名古屋周辺のシーンの懐の深さとポテンシャルを感じさせる。8曲目のFree City Noise「Permanent Touches」はフックのあるメロディーが浮かぶガレージ・ロック。Inadahiromiのフィメール・ボーカルもその独特の空気感を増長させており、一度、ライヴで体験してみたくなる1曲。

 9曲目のThe Moments「Shining Eyes」はネオアコ、アノラック的な清冽さが詰まっている。プライマル・スクリームの『Sonic Flower Groove』の持つ儚くも美しい「小声」がある。10曲目の6Eyes「Blank In Flag」はノー・ウェイヴらしいこのコンピレーションの持つ意味と彼らのバンドとしてのスタイルが明確に顕れた佳曲になっている。11曲目、Jubilee「Fiend」は名古屋で自主企画イヴェントを行なうなど既に、アンダーグラウンド・シーンの中では着実な活動を進めているバンドであり、この曲でもポスト・パンクの血脈を辿り、蠱惑性を醸している。12曲目の石原ヨシト「ニューメキシコ ミッドナイト カウボーイ NO.1(I don't wanna be killed by your romance any more)」は、ヘイデンを思わせる抒情的で寂寥溢れるフォーク。《愛とセックスをミキサーに入れて 今朝飲もうとしたら 僕もうわからなくなりました》というフレーズがしみじみと胸を打つ。

 この『Ripple』に集まったバンド、アーティストは多種多様だが、通じているものとしてセックスとデカダンスの馨りがするということだろうか。地下のライヴ・ハウスで行われる遣り取りとは時おり、とてもセクシュアルなものであり、非常にアンニュイで刹那く悲しいものでもある。それが終われば、階段を上がり、地上に、それぞれの日常に戻らないといけない訳だから。

 真夏の太陽の光眩しさに背くように、暗闇に亀裂を入れるために描かれたこの『Ripple』はとても生々しい。そんな、生々しさはさざなみ(ripple)のように、着実に多くの意志ある人の耳に響くことと思う。そこから、更に各々の中でも気に入ったバンドやアーティストと新しい出会いがあれば、また拡がってゆく世界観もあるかもしれない。

 

(松浦達)