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Supreme Cuts - Whispers In The Dark.jpg シュプリーム・カッツ。シカゴ出身の彼らは、ブルックリンの《Small Plates》からリリースした「Trouble EP」で注目を集めた、新進気鋭の2人組ユニットである。ちなみに「Trouble EP」のレーベル・プレスには、「ハウ・トゥ・ドレス・ウェルジェームズ・ブレイク間にいる私生児」なんて書かれていたが、そう言いたくなるのも分かるスロウなグルーヴが印象的な作品だ。興味のある方は、ぜひ聴いてみてほしい。

 彼らは自身の音楽を"フューチャーR&B"と称しているが、確かに「Trouble EP」からは、90年代R&Bの影響が窺えた。しかし、《Dovecote》からリリースされたファースト・アルバム『Whispers In The Dark』には、"フューチャーR&B"という形容が嫌味な謙遜に思えてしまうほど、実に多様な音楽的要素が詰まっている。

 本作におけるR&Bの要素は薄く、底流にあるのは『The Orb's Adventures Beyond The Ultraworld』~『U.F.Orb』期のジ・オーブを想起させるアンビエントだが、これを彼らは、チルウェイヴ/ウィッチ・ハウスの文脈で解釈した音を鳴らしている。さらにはUKガラージ・リヴァイバルに反応した「(Youngster Gone Off That)Sherm」、そしてジュークを取りいれた「Val Venus」などもあり、"フューチャーR&B"どころではない一大音楽絵巻といった様相を呈している。特に「Val Venus」は、突然ガバキックを大々的に響かせるなど、思わずニンマリとしてしまうトリッキーな仕掛けが施されていて、まるでシカゴとブックオフの250円コーナー(ガバ系の音源がいっぱいあるんです。よくお世話になってます)を結びつけてしまったかのようなトラックだ。これらの曲がまとめられた本作は、ポスト・インターネット的作品だと言えるし、従来の歴史/文脈を超越する音楽性という点では、グライムスの音楽に近いものではある。だが、ここまでクロスオーヴァーが極北に達していると、本作の魅力を伝えるためにジャンル名を列挙する行為がバカバカしく思えてくる。「異なる要素が交わるダイナミズムと興奮が最大限に表現された音楽」。この計30文字の言葉だけで十分なのではないだろうか。

 先日、渋谷WWWで行われた《100% Silk》の公演を観て思ったことでもあるが、2010年以降の音楽を従来の価値観で捉えることは、もはや不可能だ。例えば現在のインディー・ミュージックにしても、昔とは違って内輪ノリな閉塞感など皆無だし、"インディー"という言葉が持つ意味も変化している。"インディー"と聞くと、いまだに閉鎖的なイメージを抱く者もいるが、そうした考えは、旧来的な"メジャー/インディー"という棲み分けに囚われた、あまりにも旧態依然な考えだと言える。むしろこうした考えこそ、かつての"インディー"が抱えていた悪い側面、閉鎖的かつ排他的な考え方そのものではないだろうか。『Cuz Me Pain Compilation ♯2』のレヴューでも少し触れたが、"メジャー/インディー"という二項対立なんてとっくの昔になくなり、従来の音楽産業が根本から崩壊した今、"売れる/売れない" "古い/新しい"といった尺度で音楽に接することは、次々と生まれている数多くの良質な音楽を見逃してしまうという点でも、本当にもったいないと思う。

 そう考えると、本作における最大の心配事は、アルバムのクオリティー云々というより、『Whispers In The Dark』という良盤を理解できるだけの寛容さと想像力を我々が身につけているのか? というところにあるのかもしれない。もちろんこの心配が杞憂に終わり、本作が正当な評価を得ると信じているが、現在の音楽の在り方をあまりにも克明に描写しすぎているが故の急進性を纏ってしまった本作を聴いていると、そんな憂慮を抱いてしまう。

 

(近藤真弥)

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TESUSABI.jpg テスサビのロックとは荒々しく、そして清々しさを堂々と奏で、聴き手の目を見ながら一人ひとりに向かって生活の中での正しさも過ちも隠すことなく訴えかけてくる。アングラの匂いなど全然しない。もし、インディー・ミュージックにおける、胸を突き抜ける爽快感のあるロックを聴きたいと思ったらテスサビを手に取れば問題は何もない。

 現在は英真也と山田悠の2人にサポート・メンバーを加えて活動しているテスサビ。東京を拠点とする彼らの3曲入りのファースト・EPとなる本作「生活」。そこには、わざとらしいところも、あざといところも一切なく、バンドそのものがロックの中にロープなしで飛び込んだ末に見付けたロック・サウンドとグッド・メロディがあり、いわば土臭く、泥臭くても、何であろうと聴き手に音楽を届けたい、届けたくてしようがない、という意思を背負っているがゆえの純度の高さがあるのだ。

 ギターはサイケデリック、ポスト・パンク、ハード・ロックなど数々の要素が窺えるサウンドとフレーズを奏でるが、それらは変化球としてではなく、本作のダイナミックなロックをロールさせ続け、時として渦になり僕らを巻き込む。聴けばすぐさま自閉の扉が開くようなメロディも胸を突き抜け、ありとあらゆるもやもやしたものなど吹き飛ばすだろう。ローファイなサウンドと相まって、そのメロディの美しさは輝き、エモーションに溢れる歌声とともに聴き手の心拍数を高くする。浮遊感があるにもかかわらず、地に足の着いた歌声は自身が抱えている感情を変換して歌っているようには聴こえず、自分自身の感情を揺さぶる生活の中での毒を歌っているかのようだ。それは聴き手に真っすぐ飛び込み、時として痺れを、そして清々しさを後に残す。

 本作をジャンルで言えばロックと言っていいものだが、テスサビはロックを定義付けていない。「ビートルズこそがロック」「キンクスこそがロック」といった近視眼的なところがない。もし、ある種の精神論として"ロック"というものが既存の価値観をぶち壊すものだとしたら、テスサビは"ロック"し続ける。それゆえの原初性が彼らの音楽であり、熱を常に高く保ち、僕らの鼓膜を激しく揺らす。今のシティー・ポップという言い方もできるかもしれないが、彼らは常に"今"を塗り替えていくだろう。

 原初性とは新しいものが生み出されたときに現れる。常に"今"を塗り替えていくであろうテスサビは、原初的であり続ける。そこにはテスサビの音楽に完成形という行き詰まりはないという希望がある。

 

(田中喬史)

 

【編集部注】本作はディスクユニオンサンレインレコーズで8月8日にリリース予定  

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くるり.jpg 新体制としてのくるりの初のシングルとなるこの4曲には、表題曲の印象のまま、明確なリ・スタートを告げるという覚悟や決意に感応するのではなく、全体像で浮かび上がる四季や景色、移ろい、未来、繊細な描写に重きを置いたものになっていることを留意すべきだと思う。もちろん、軽快な「everybody feels the same」の、これまでにない語彙の多さと、新メンバーである吉田省念氏のギター、チェロとファンファン女史のトランペットの見せ場が十二分に用意された展開、バックグラウンド・ボーカルで参加しているandymoriの小山田壮平氏、藤原寛氏や韓国レコーディングでの方々が多くクレジットを連ねている通り、新しい意思。そして、《背中に虹を感じて 進め 走れ 泳げ もがけ 進め 進め》の歌詞に沿い、"もがき"ながらも、進もうとするドライヴ感が聴き手の身体性に訴えかけるものになっているのは、まず特筆しておかなければならない。

 岸田氏がくるりのHPで綴った2012年の3月11日の日記が如実にここまでの辛苦を物語っているので参照にして欲しいが、思えば、偶然、僕自身も京都の磔磔というライヴハウスで2011年3月11日にはくるり、10-FEETのライヴの現場に居合わせていた。TV越しに信じられない映像が映り、あちこちからメールが来た。その日のライヴは電力への配慮など彼ら二バンドの瀬戸際の話し合いの上で、完全なるアコースティックで行なわれ、物販は寄付に当てられた。京都は直接、被災していなかったのに関わらず、こんなにもの悲しい気分になったライヴはなかった。その後、彼らはゆっくりと、もう一度、くるりとして始めてゆくことになり、細野晴臣氏との東北ツアーやチャリティー・シングル「石巻復興節」、小箱を巡るツアー、そこでの新曲の披露など行なわれていった。また、今年も無事に彼ら主催の京都音楽博覧会も決定し、既にライヴで公開はされていた「ペンギンさん」、CMで流れており、先行配信されていた「my sunrise」、じわじわと染み入るメロディーと淡やかなリリシズムが目映い「o.A.o」と、表題曲と比して抑え目の3曲が今回のシングルの立体的な輪郭をととのえている。

 改めて、具体的に各曲に触れると、「everybody feels the same」は固有名詞が残るロックンロール。《RADIO FROM U.K OASIS BLUR SUPERGRASS HAPPY MONDAYS》、《KAKUEIが作った上越新幹線》、そして、多くの世界、日本の地名の連呼と雪崩れ込むように《everybody feels the same》へのシンガロングに向かうライヴで映える、直線的なナンバー。2曲目「o.A.o」は情景描写と日本語の美しさが柔和で麗しい。桃色の花びら、群青の空を掻き分けて、《晴れたなら 思いの丈は 背丈になって走り出す》とのフレーズ。後半に重なるo.A.o(オーエーオー)のコーラスが全体を包み込み、優しく終わる。3曲目の「my sunrise」はアイリッシュ・トラッド風の肩の力の抜けた爽風そよぐ曲。ここでも、重要なのは、早春の候、春風、若草、天気雨、レンゲ色のふるさとといった和的情緒を示す言葉片。これまでも、くるりには「春風」、「さよなら春の日」など春をモティーフにした曲はあったが、これは春を介して、季節の便りみたくそちらの春を問いかける空気感がある。4曲目「ペンギンさん」はアコースティカルなシンプルな曲。ペンギンさんという存在を通して、《へこへこ歩いて行きましょう》と今のくるり自身のメタファーとも言える内容になっている。

 冒頭に触れた通り、絶対的なくるりの新フェイズとして捉えるより、このシングル全体から浮かび上がってくる情景が大切な要素なのだと思う。今、くるりに何を求めるのか、くるりが今、どう進んでゆくのか、そういった一つのステップが刻まれるロンドー体的な構成になっている。

《ありがとう こんにちは おやすみ さようなら また明日/咲く花は 夢のよう ここにいてくれてありがとう》(「o.A.o」)

 季節は変わる。必然的にバンドも音楽も変わってゆく。それでも、続く何かはあり、くるりもその巡りの中でほのかに歩く。"また、明日"には来るべきアルバムも待っていることだろう。

 

(松浦達)

 

【筆者注】8月1日リリース予定

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UHNELLYS.jpg

 結成10年のkimとmidi、男女2人組の4枚目にしてセルフ・タイトル作。アシッド感覚とねじれたポップさが入り混じったような不思議な魅力に溢れた1枚。奥行きのあるバリトン・ギターにエモーショナルなリズムが見事に調和し、ヒップホップとジャズな要素をバランス良く兼ね備え、まさにこれからのクラブ・カルチャーにおけるロックが持つ音楽性と可能性を見せつける重要作品に仕上がっている。

 聴き込んでいくほど、彼らが施したサウンド・マジックが解き明かされるような内容になっているんだけど、その楽しみを玄人のものだけにしていないことが、この作品の素晴らしいところ。開放感に溢れているのだ。また、社会情勢が反映された歌詞は一度聴いただけでは正直わかりにくい部分もあるんだけど、意外にも(ごめんなさい!!)ロマンティックなヴォーカルが効いてきて、後でクセになるほどの味わいに変わる。今作はウーネリーズをめぐる状況を色々な意味で覆す作品になると思う。

 

(粂田直子)

 

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popetc.jpg かつて村上龍が旅を希望と表したように、この音楽には旅という希望がある。もちろんそれは自分探しといった類のものではなく、音楽の可能性という未知の領域の中で、聴き手が思ってもみなかった可能性と出会い、音楽という表現に終わりはないと感じられる旅の楽しさと喜びだ。ポップ・ミュージックの可能性とは聴き手に宿る。

 エレクトロニック・サウンドを基調としつつ、ジャケットから窺えるように様々なジャンルの上でスキップを踏んでいるような音の数々が痛快で、前作『Big Echo』以上に磨きをかけたソング・ライティングによるポップ性とサウンド構築も相まって、それらの魅力にぐっと引きこまれる。アーサー・ラッセルやカリブー、アヴァランチーズなどを思わせるところもあるヴァリエーション豊かな楽曲群も音楽に規定を持ちこむことなく、音の旅という可能性を楽しんでいるかのようだ。現在は3人組の、モーニング・ベンダーズ改めポップ・エトセトラのサード・アルバムとなる本作『Pop Etc』は、ポップであることの可能性を示した作品であるとともに、聴き手がその可能性に出会える旅へ導くものとしてある。

 思えばグリズリー・ベアのクリス・テイラーがプロデュースした前作も、様々な音楽性の交差がひとつのテーマとしてあり、フォークやロック、ドゥー・ワップの要素が散りばめられていた。が、それは実験の意味合いよりも、音楽により一層のポップ性を与えるための要素だった。メンバーの発言によれば、アメリカではポップという言葉にネガティヴな印象がまとわりつくようだが、ポップ・エトセトラは自らをポップと名乗り、前作のドリーミーでロマンティックな音世界はそのままに、フィジカルに訴えかけてくるビートを強調したポップな本作を発表した。ポップという言葉がネガティヴに捉えられる国でポップを堂々と名乗るという、その姿勢は素晴らしいと思うし、もはや、この作品を聴いて、彼らの音楽性を前作のようにサーフ・ポップの一言で形容する人はいないだろう。シンセ・ポップとだけ形容する人もいないと思う。活動の拠点をカリフォルニアからブルックリンに移したのはサーフ・ポップという縛りをほどきたいという意思だったのかもしれない。

 本作は基本的にセルフ・プロデュース。カニエ・ウエスト等を手掛けるプロデューサー、アンドリュー・ドーソンやデンジャー・マウスも関わっているが、ポップ・エトセトラがやりたいようにやった、という印象が強い。眠りに落ちる寸前の昏睡美があれば、ハッとさせられる覚醒の力強さを押し出した曲もあり、刹那的な変拍子が楽曲の高揚の色を濃くしている。特に、水中をただよいながら外の景色を見ているような感覚を聴き手に与える、ゆったりとした、揺らぐサウンドとメロディ、歌声を聴かせる「Live It Up」は、今年の現時点ナンバー1のトラックだ。そこにはヒップホップのビートがあり、ソウルやフォークトロニカ、ハウスの要素も窺えるが、おそらく彼らは意識していないのだろう。それよりも本作において、ドレイクの影響を公言している彼らにとっては、本作は音楽的な壁もなければ、ジャンルへの過剰な意味付けもしていないことが重要だ。意味付けをしてないといっても能天気なところは一切なく、純粋にポップであることとは何なのかという、ポップ・ミュージックと向き合った末に鳴らされる音が瑞々しくて素晴らしい。聴き手にとっても、音楽に壁は存在しないんだと訴えかける説得力を持っているのが本作なのだ。その意味で、『Pop Etc』が発表された意義は大きい。

 曲名と曲順を考えるのも面白い。バンド名とタイトルにある『Pop Etc』は別個ではなく、その行間にあるのは"&"だと思う。「Pop & Etc」。曲のタイトルになっている、つぎはぎだらけの「C-O-M-M-U-N-I-C-A-T-E」を通過しておとずれる「Yoyo」のミラー・ボールの光。このバンドにとってのポップのエトセトラとは聴き手に宿り、本作を楽しんだ聴き手の数だけエトセトラは生まれ、聴き手の数だけ想像力の旅が生まれる。

 新しい道を歩むように、旅に終わりがないように、ポップ・エトセトラに限界はない。聴き手であるあなたがいる限り、可能性は広がり続ける。いつだってポップ・ミュージックは閉じていないのだから。本作があれば、たとえ小さい歩幅だったとしても僕らは新たな一歩を踏み出せる。頭を垂れるのはもうよそう。そう思える音が鳴っているのはひとつの希望だ。

 

(田中喬史)

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FOH3_RGB300.jpg シカゴ・アンダーグラウンド・ミュージックそのものが主流となってシーンを席巻したことは、音楽の歴史上ほとんどない。もちろん愛されてこなかったわけではない。90年代半ばには、デリック・メイ、ジェフ・ミルズらがゲットー・ハウスをDJプレイにて取りあげ、それをキッカケに"シカゴ・リバイバル"と呼ばれる現象が起きたし、ハードフロアは自身のアシッド・サウンドのルーツであるシカゴ・ハウスに接近した作品、その名もズバリ『Respect』をリリースしている。とはいえ、これまでのシカゴに対する注目は、外部の流れに影響を受けてのものだった。それは言いかえると、シカゴ・アンダーグラウンド・ミュージックに他ジャンルを飲みこむだけのパワーがなかったということなのかもしれない。

 だが、BPM160/80のハーフ・テンポ感や大胆なサンプリング、そして味のあるズレたビートといった多様な要素を持つジューク/フットワークは、シカゴ発のダンス・ミュージック(そしてブラック・ミュージック)でありながら、UKガラージ、ヒップホップ、さらにはビート・ミュージックやテクノといった音楽を飲みこみつつある。そういった意味でジューク/フットワークは、ダブステップの順応性を遥かに超えた"何でもアリ"な音楽であり、これまでのシカゴ・ブームとは異なるものであることは明白だ。世界的に知られたのは《Planet Mu》という外部によるフックアップのおかげだが、その後のジューク/フットワークは"サブジャンル"といった何かの一部ではなく、これまでにない独特なダンス・ミュージックとして拡散している。この拡散の延長線上で生まれた面白い作品が、『Footwork On Hard Hard Hard!!』だ。

 本作は国内外のトラックメイカーによるジューク/フットワークを集めたコンピレーション・アルバムで、ジューク/フットワークのレイヴな一面をフィーチャーしているせいか、全体的にアッパーなトラックが多い。しかし、前のめりなグルーヴが印象的な隼人6号によるレイヴ・ジューク「Party」や、ブレイクコアとの親和性を感じさせるマッドメイド「Mellow」、ラフなプロダクションによって深さを生みだしているD.J.フルトノ「Hardcore Bitch」など、収録内容としては画一的になっておらず、ジューク/フットワークの多様性をハードな初期衝動と共に表現している。ただ忘れてはならないのが、この初期衝動は現在進行形のものであり、おそらく本作をキッカケにさらなる広がりを見せていくということ。その可能性があるからこそ、トラックスマンのようなレジェンドが本作に参加したのだろう。トラックスマンの気持ちも分かるというか、本作は多くの人を惹きつけるだけの熱狂に満ちている。

 しかし、ジューク/フットワークは作り手の背景が反映されやすい音楽だとつくづく思う。例えば、ヒンドゥースターニーなどのインド古典音楽と西洋音楽では拍子(リズム)の捉え方が違うように、拍子にはそれぞれの土地/国に由来した土着的要素がついてまわる。だからこそ、基本的にリズムの音楽であるジューク/フットワークは、作り手の音楽的体験が反映されやすいのだと思う。こうした奥深さを知ることができるという意味でも、本作は良盤だと言える。

  

(近藤真弥)

 

※本作は7月25日リリース予定です。

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ザ・なつやすみバンド.jpg 例えば夏に、頭からプールにざぶんと飛び込んだとき、友人たちと海までドライブしたとき、嫌な事を忘れようと見上げたら、目に痛いほどの青空があったときなどは、その時々に甘酸っぱかったり、和やかだったり、悲しげだったり、何らかの音楽が胸の内でBGMとして流れていたはずで、「景色を思い出しながらそこに必要だったはずの音楽を作っている」と言うザ・なつやすみバンドのファースト・フル・アルバムである本作『TNB!』は、《果てのない世界にもううんざり》(「自転車」)と歌われているように、世界にとっては特別なことではないけれど、一人ひとりにとっての特別な瞬間に流れていたはずの音楽を鳴らしてくれるのだった。そこに記憶の美化はなく、不明瞭だった夏の景色の記憶が浮かび上がり、景色とは見るものではなく音楽によって見えてくるものなのだなと、とても観念的であったとしても思わされる。

 ピアノと歌、ベース、ドラムを中心に、トランペットやスティールパンなどを自在に操る男女混合の4人組のザ・なつやすみバンドは08年結成。クラムボンや空気公団と比べられることが多い。けれども、爽快なロックンロールや、どこかブルーズやソウルの匂いがする楽曲が収録されているのは面白い。8曲目の「ホーム」はキセルに通じるところもある。音の滑らかさと中川理沙の可愛らしい歌声、メロディ・ラインの丸みは素晴らしく、全ての音がころころと転がり、良い意味で力みがないのはザ・なつやすみバンドの真骨頂だ。自家製手作り感とでも言うべき愛らしい音を奏でるこのバンドの本作は、単純にBGMとして聴くこともできるし、BGMとして流していたら、ふとした瞬間に耳を傾けてしまうような音の遊びがある。その耳を傾けてしまう瞬間とは、思春期のあの特別な瞬間に流れていたはずだった夏の甘酸っぱい音の鳴りであり、鳴っていてほしかったものであり、思わず微笑んでしまう。そう、《世界が忘れそうなちっぽけなことも / ここではかがやく》(「自転車」)。

 純粋にポップ・ソングとして最良のもので、「ねえ、これ良いよ」という感じでフランクに友人にCDを貸したくなるサウンドに満ちているのも良い。音のどれもが過剰に主張せず柔らかな弾力がある。人懐こいのだ。本人たちは意識していないだろうけど、スカートやヘラジカアオキ・ラスカらの作品と同じく、普遍性のある本作はここ日本において、ポピュラー・ミュージックの本当の意味でのポピュラー化に繋がる予感さえ漂わせている。

 それはやはりポップであることと、遊び心があるからだろう。その遊びは他のメンバーが言うようにMC.Sirafuによるところが大きい。メロディを生み、音響も生み出すトランペット。ファンキーに跳ねるスティールパンの涼しげな音色には楽しみの心地が宿っている。「自転車」でのチェロやヴァイオリン、ヴィオラ、ペダル・スティールの音にお高くとまったところは一切なく、ドラマチックとは別物の日常を醸しだしているところがあり聴いていて清々しい。サンプリングされた蝉の鳴き声や風鈴の音には茶目っ気がある。いつか某ファッション誌の編集長が「こども心と遊び心は忘れちゃいけない...」と自分に言い聞かせるように口にしていたのを覚えているが、本来、音楽とは言葉や感情から生まれたもので、遊びたいという感情でもって音で遊ぶのはとても自然ことだと思う。と同時に、ときとして聴き手は音とたわむれることをごく自然にやっているザ・なつやすみバンドに憧れを抱くこともあるかもしれない。遊びたくても遊べない人は多くいる。しかし憧れなくてもいい。よく聴けば、ここにあるのはドラマを待つ姿勢などなく、憧れられることを丁寧に折りたたんで捨てた等身大のリアリティー(ライヴ感)に溢れる音楽なのだから。

 僕らは既に通り過ぎた幾つかの夏の中で、どれだけの出会いと言葉を大切にできただろうか。

《言えない言葉は、雨に流されないように歌う、絵を描く、抱きしめる、なんでもいいよ》(「悲しみは僕をこえて」)

 歌い、絵を描き、抱きしめても満たされない、僕らには言えない言葉が幾つもあっただろう。それを音にし、ザ・なつやすみバンドは夏の景色とともにそっと届ける。まるで手書きのはがきのように。

 

(田中喬史)

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WITCHCRAFT EP.jpg 大げさでもなんでもなく、ジュークは世界中のミュージック・ラヴァーに届いていると思う。例えば、週一回のペースでジューク・コンピを配信している《World Wide Juke》。ここで配信されているコンピには、シカゴや日本はもちろんのこと、ドイツやオーストラリアといった国のトラックメイカーも参加しており、文字通り世界中からジュークを集めたコンピとなっている。レコード・ショップに行けば、イギリスにおいてジュークがUK流に消化されつつある過程を目の当たりにできるし、徐々にではあるが、ジュークは多くの人の耳に近づいている。「Witchcraft EP」は、そんなジュークの現状に対し日本らしさで呼応した作品と言えるかもしれない。

 本作は、関西を拠点にDJ活動するケイタ・ カワカミが監修を務めたジューク/フットワークのコンピレーションEPである。参加しているのはD.J. ソースマン、bbbbb、ピクニックウーメン、XY2O、ポンチョ+カジノ タルト、エクスコウ、アーマッド・ジャクソン・ジュニアといった面々。参加アーティストについては、全員日本人であること以外これといった詳細はなく、本稿を書くにあたって筆者もいろいろ調べてみたのだが、マッドエッグの変名であるエクスコウ以外は正体が掴めなかった。いまどき珍しいくらいの匿名性が確保されていてビックリ。しかし、本作のトラック群にはもっと驚かされた。UKガラージのタメを感じさせるXY2O「Hey My」、エクスペリメンタルなドローン/エレクトロニカを下敷きにしたエクスコウ「Yey 35」など、全参加アーティストが他ジャンルの要素をジュークに上手く落としこんでいるからだ。そしてこの落としこみの過程で、いい意味での"軽さ"や"親しみやすさ"が付帯されているのだが、これが先述の"日本らしさ"となっている。ディプロがある程度の毒抜きをしてから、ニュー・オーリンズ・バウンスを取りいれたのと似たような感じ、と言えば伝わるだろうか。

 本作に収録されているトラックはすべて興味深いものだが、強いて特筆するとすれば、セクシーな静寂を漂わせるD.J. ソースマン「How You Feel」になるだろう。ヴォイス・サンプルが印象的なこの曲は、あくまでジュークを底流に置きながら、ポップ・ソングとしても機能するサウンド・プロダクションを施し、ブラック・ミュージックのソウルを顕在化させている。シカゴ・ハウスをルーツとするジュークは、ダンス・ミュージックであると同時に最新のブラック・ミュージックでもあるが、このことをD.J. ソースマンなる人物は分かっている。ジェームズ・ブレイクも、「How You Feel」を聴いてから「We Might Feel Unsound」を作ればよかったのにね。そう思わせるだけのブラックネスを、「How You Feel」はジュークとして鳴らしている。

 

(近藤真弥)

 

※本作はKool Switch Works Recordingsのバンドキャンプからダウンロードできます。

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BLUR.jpgのサムネール画像

  アジア人として初のノーベル文学賞を受賞したインドの詩人、思想家たるラヴィントラナード・タゴールの詩に、「歌ふべき歌一つなし 捧ぐべきもの一つなし 思ふこと みな滞りぬ 君をただ欺き来たりぬ いつの日か生命満たして この生命の供養(そなえ)をはらん」(『タゴール詩集内でのギーターンジャリ』、渡辺照宏訳、岩波文庫)というものがあるが、彼らのこれまでの長い道筋を振り返ったときに、脳裏によぎってしまった。

 ブラーというバンド名はもう当たり前に通っているが、元々はJ.D.サリンジャーの小説に出てくる主人公の名からとったシーモア(Seymour)というバンド名を取っていたそのスタンスどおり、英国が持つ特有のシニシズムとセンス、または階級制度の名残りがいまだに色濃く残る場所であくまでロック・バンドとして曲や表現、パフォーマンスを届けてきた。ミドル・クラス以上は別枠にしても、何らかの成功の証ではサッカー選手か、ロック・スターか、そんなアフォリズムはなぞらなくとも、記憶に新しい彼らの2010年のドキュメンタリー・ムービー『No Distance Left To Run(A Film About BLUR)』で見る景色に沿い、《London's So Nice Back In Your Seamless Rhymes, But We're Lost On The Westway(軽快なライムの上で ロンドンって本当に素敵でさ でも 僕たちはウェストウェイで道に迷ってしまったんだよ ※筆者拙訳》(「For Tomorrow」1993年。セカンド・アルバム『Modern Life Is Rubbish』 収録)から、明日にしがみつく("Hold On For Tomorrow")ための残影を感じることはできると思う。

 今さらだが、そのドキュメンタリーに触れると、時系列の映像とその当時の彼ら四人の回顧インタビューからメンバーの子供時代の家、学芸会でのデーモン・アルバーン、デビューしてすぐイギリスではアイドル的な扱いを受けていた中、初アメリカ・ツアーで洗礼のように受けた疲弊と消耗。また、ブリットポップ時代の寵児としての佇まい、クール・ブリタニアのイコンゆえの狂騒と伴う頽廃、グレアムが淡々と自分の憔悴について語る場面、そこでも、スマートにクールな四人の在り方、メディアを巻き込み、大きなニュース沙汰になった1995年のシングル「Country House」と舌禍と蓋然的に仮想敵に置かれてしまったオアシス「Roll With It」の同日発売でのチャート対決、それに結果的には「勝つこと」によって負のイメージを背負うようになってしまった苦悩、ドラッグに塗れた自分に対して「Beetlebum(寄生虫)の意味ってわかるだろう?」とうそぶくデーモンのうんざりした顔、1997年の『無題(blur)』時期の暗中模索、1999年の『13』時期でのカオスとそこから産まれたブレイクスルーとしてのゴスペル「Tender」、メンバー間での認識の喰い違いやグレアムがスタジオに来なくなったり、内部でじわじ・墲ニ崩壊していく様、オリジナル・アルバムとしては最後となる2003年の『Think Tank』でかろうじてブラーという記号を保ちながら、なかば必然的に解散していかざるを得ない覚悟で歩んでいた荊の道、アルカホリックに蝕まれるグレアム、そして、感動的以外に形容できない2009年のリユニオンとライヴ、幼馴染みだったグレアムとデーモンの和解、随時のシーンで出てくるフレッド・ペリー、ハイド・パークでの凱旋と、込み上げるものが多い内容になっている。

 マッドチェスターの影響からサイケデリアに飛び込んだデビューから、ビートルズ、キンクスというトラディショナルなブリティッシュ・ビートとザ・フー、スモール・フェイセス、ザ・ジャムのモッズ・バンドへの敬意とジュリアンやトレイシー・ジャックス、アーノルド・セイムなどキャラクターを作り、一篇のナラティヴを描く形式で英国(ロンドン)を見つめ直すときのカラフルなまでのフレーズ群とポップネス、ハイブロウな生活を送るいけ好かない男(Charmless Man)に向けての挑発とキャッチーなパフォーマンス、更には自己言及やUSのオルタナ・eィヴ・ミュージックやエクスペリメンタルな要素を強めていき、デーモン自身の好奇心が民族音楽までをも巻き込みながらも、ブラーは日本でも長く秀でて愛されるバンドの一つであり、何度もの来日公演を果たしてきていたが、2009年のリユニオンでの花は英国に捧げられた。そして、この2012年、オリンピック・イヤーのロンドンでクロージング・セレモニーとしてヘッドライナーをつとめる彼らは再び戻ってきて、英国≒世界に花束をおくる。

 今回、そのロンドン・オリンピックという契機があったにしても、実に、グレアムがクレジット、参加し、デーモン、アレックス、デイヴの四人の新曲としてはほぼ12年振りとなるのがこの「Under The Westway」と「The Puritan」になる。これらは、7月2日の夕暮れ時の曇り空、ロンドン市内のビルの屋上において生演奏で公開され、その後、すぐに全世界へ配信されることになった(注:7月10日現在、彼らの公式HP〈http://www.blur.co.uk/〉でその様子の一部は見ることができる。)。まさに、Westway(ロンドン西部を貫く高架道路のことを指す)が見渡せる意図的な演出。そこには、立派な中年になった四人が居て、鍵盤を前にするデーモン、ジャケットにハーフ・パンツでベースを弾くアレックス、ポロ・シャツ姿でドラムを叩くデイヴ、あの何とも言えない眼鏡越しのシャイな眼光と憎めない存在、グレアムはときにコーラスも添え、ギターを弾き、あくまでシンプルなバンド態勢で「Under The Westway」は、大袈裟ではない、切々と胸を打つバラッドで美しい世界観をなぞっていた。そこから、デーモンが小さなアコースティック・ギターに持ち変えての軽快な「The Puritan」では"ラララ"のリフレインが如何にも彼ららしい絵があった。「Girls and Boys」のピコピコ感よりさらにシンプルな形での曲。四人とも相当な修羅場を越え、帰還してきたかのようなよれよれの服で草臥れた姿とも見えるが、その四人が並ぶことで、保たれてきた紐帯があったのも確実に分かるもので、この感慨は不思議に涙腺を打った。

 思えば、まさかの今年のザ・ストーン・ローゼズのリユニオンも感動的なものであり、それは幸福な時間を巻き戻すノスタルジアではなく、現在進行形で曳航している。その一方で、このブラーのオリジナル・メンバー四人での2曲の新しい唄は、曇り空のロンドンの風景がそのまま今の世を反射しているかのようで、その曇り空の響きを昇華させる。「Under The Westway」での"Hallelujah"というフレーズが印象深く―。

 ブラーは、ようやく結成21年目をして「成人」を迎え、キャリアを網羅し、デモやレア・トラックまで収めたボックス・セット『Blur 21 Box』(「Under The Westway」も収録)をリリースし、今のところ、8月のウォームアップ・ギグ的なUKでの数本、デンマーク、スウェーデン、ロンドンのハイド・パークのギグの後に、予定もネクスト・アクションも刻まれていない。

 音楽とは、いつでも再生をすることができる瞬間の美学だが、バンド、ライヴというのは当たり前だがその「瞬間」にしかない。今度、この四人でのブラーを生で観ることができる機会は分からない。無論、キャリア、クロニクル、彼らに纏わるものはどんな形でも追いかけられる。だからこそ、ブラーというバンドが新曲を出す行為を過剰に捉えるのでもなく、"続いている、今を生きている存在としての彼ら"を十二分に知っている人の胸にも、最近、知った人の胸にも改めて刻まれることに越したことはないと思う。メトロノームのリズムに合わせて、同時代を色んな環境、場所で年齢、性別関係なく生きる人たちに寄り添うような2曲は、過重に時代を背負う訳ではなく、じんわりと彼らが彼らたるレゾンデートルを証明する。

《I'm Waiting For That Feeling, I'm Waiting For That Feeling, Waiting For That Feeling To Come(僕はあのフィーリングを待っているんだ、待っている あの感覚が来るのを ※筆者拙訳)》(「Tender」)

 "あの感覚"を今の四人のブラーは備えている。その片鱗がこの2曲にもある。

 

(松浦達)

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31x9Xi6MIrL._SL500_AA300_.jpg シガー・ロスが活動再開し、夏フェスへの来日公演も控えているという嬉しい状態のなか、まさに待望のニュー・アルバムがリリースされた。インストゥルメンタルはもはや癒しに近い感覚で幾らでも聴いていられる、異空間を創り出している類い稀なるサウンドだが、音が小さい気がした。いや、気のせいではなかった。実際、音量が小さかった。何故か? その答えはすぐに解った。ヴォーカルが異様に大きかったからだ。このバンドは果たしてレディオヘッドかビョークか!? いやいや、そんなはずはない。確かに鳴らされる音楽は異端を極めていたし、ヨンシーのヴォーカルだってそう、ポップさなど何処にもない。『残響』以前に戻ったような、それでいて進化しているような。暗いピアノも心地よい。

 ヨンシーのソロとの差別化を図りたかったのか、あるいは昨年過去の曲を多く演っているライヴ盤を出したことが影響しているのか、シガー・ロス史上でもかなり原点を見つめている言わばアヴァンギャルドな作品で、相当な実験性に富んでおり理屈では説明がつかない音が多々見受けられる。でもそれこそが本来のシガー・ロスだと思う。私たちはそれを待っていたのだ。彼らには永遠にキャッチーであってほしくないし、頭で聴くより耳で聴きたいと思うからだ。

  『Valtari』が持つ最大の魅力はオーケストレーションとアレンジにあると思われる。大胆に使っているわけでもないのに以前よりも大自然を感じさせるほど開放感に満ち溢れているのは、ヴァイオリンやヴォーカルやその他諸々の楽器の使い方にある筈だ。これを"躍動感"と言うとしたら非ロック的だけれど、あえてこの言葉を使ってみるならオルタナティヴなものである。タイトル曲「Valtari」は、悲壮感漂う幻想的なインスト曲で8分以上に及ぶ。今回短くても5分以上の8曲入りということでおよそ想像も付き易いだろうが、オープニングとエンディングがあまりに雰囲気が良すぎて物凄く引き込まれるアルバムに仕上がっている。これだけ作品を出しておきながらこの完成度には目を見張るものがあるし、いわゆる熱意や意気込みといったものが異常なまでに凝縮されてビシビシ伝わってくるトンデモナイ作品だ。

 さてこうして簡潔にまとめてみたものの、これはシガー・ロスの全作品の中で一、二を争う傑作となるだろう。"夏フェスの予習"という考えもいいが、単純に、埋もれない内にこの名盤を手に取って欲しい。あと、一つ付け加えるならこの作品はとてもとても暗いので要注意だ。

 

(吉川裕里子)