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CREAM DREAM『Love Letter』.jpg  とどまることを知らないインディー・ダンスの盛りあがり。そんなインディー・ダンスの熱狂と共振する面白いアーティストが現れた。その名もクリーム・ドリームである。

 クリーム・ドリームことテディー・ケルクは、ニューヨーク出身の19歳。テディーはこれまでに、70年代ディスコをモダンにアップデイトした「Paradiso」、ハウス色が強い「Total Babe」、トリルウェイヴに通じるトラックを収めた「Spliffy Beats Vol.1」の計3枚をセルフリリースしているが、これら3枚から窺えるテディーの音楽性は、過去から現在までを網羅し接合するものだ。もともと70年代ディスコ/ファンク/ソウル/ハウス/ヒップホップを好んで聴いていたテディーは、年齢的にもポスト・インターネット世代と呼べるだけに、従来の歴史/文脈を超越した網羅的姿勢で音楽に接するのはあたりまえといえばあたりまえだ。

 そんなテディーの姿勢は、ファースト・アルバム『Love Letter』でも変わらない。従来のディスコ/ファンク趣味に加え、90年代前半のNYハウス、さらには「Musique」期のダフト・パンク顔負けのフィルター・ハウスがアルバム全体を支配している。折衷的なバレアリック精神を通して、スターダストの大名曲「Music Sounds Better With You」を今に蘇らせたような・・・。そうした意味で本作は、90年代の雰囲気が漂う懐古的作品だと言える。しかしその懐古は、現実に対し諦念を抱いたすえの懐かしみではなく、時代の流れによって切り捨てられたものへの憧憬である。

 本作を聴いていると、日本でいう"バブル"と呼ばれていた時期の風景が目に浮かぶ。出会いを求めダンスフロアにくりだし、そこで見つけたお目当ての異性(もちろん同性もアリだ)のために高い酒を買ったり、ブランド品の袋を両手に抱えながらショッピングに勤しんだり・・・。だがそんな享楽的風景も、今では風前の灯火。せいぜい赤文字系の雑誌で見かけるくらいだろう。それでもテディーは、人々を踊らせようとする。笑顔であふれる煌びやかなダンスフロアの幻影、そして、"踊ろう"と連呼される「Dancin'」に顕著な切実さを抱きながら。その切実さは、"排除しない"という音楽の本質と交わることで盲目的ノスタルジーから解放され、"いまここで楽しもう"とする強さに変換される。そう考えると『Love Letter』とは、現在と未来に宛てた恋文なのかもしれない。少なくとも、過去への郷愁というネガティヴなものではない。「Bad Girl」で叫ばれる《Oh Yeah!》には、そう思わせるに十分なポジティヴィティーがある。こういう音楽がもっともっと増えてほしい。もっともっと。

(近藤真弥)

※本作は《Mishka》のバンドキャンプからダウンロードできる。

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中村一義『対音楽』.jpg フランスの作家ロマン・ロランは多方面への活動で世界的にも知られているが、彼は知性と行動の限りを尽くして「穏やかで平安たる世界」を願った一人であり、例えば、「ジャン・クリストフへの告別」にあるように、若者、次の世代への前進とバトンを渡すことにも命を尽くした。そのロマン・ロランが"傑作の森"という言葉を使い、1804年の「交響曲第三番」からの10年、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの中期と言われる時期では困難たる人生と時代の中で古典派の保つ様式としての美しさとロマン主義のエクレクティックなダイナミクスと藝術の力が持つ強さを「音楽」というのを通して、顕そうとした。なお、どうしてもクラシック音楽家とは、宮廷や貴族などの支えの下に成立する、せざるを得なかった中でベートーヴェンは音楽家とは、芸術家であるというスタンスと大衆へ拓かれたものとしての意味合いを持つ作品を届けだした嚆矢であり、その矢の先に、今、2012年になっても、エリーティズムではなく、誰でも近付ける一つとしてクラシック音楽はあることになり、自然とその旋律に魅せられるアーティストやリスナーは様々な分野から絶えない。1804年の「交響曲第三番 変ホ長調『エロイカ(英雄)』」と対峙して、紡がれた3曲目に収められている「きみてらす」は柔らかく、優美な、でも、「ここにいる」を状況が裂いた部屋で歌っていたときの彼とは違う、すぐそこにいる、近さがあるスロウな佳曲。交響曲第三番自体がフランス革命内のナポレオン・ヴォナパルトに捧げられたのともに、その後の彼の皇帝即位に対して憤怒をしたと言われる歴史過程を経たのを踏まえ、今の温度で《遊ぼうよ、ベートーベンとボナパルト...。遊ぼうよ、いつでもいるよ。》(「きみてらす」)と透き通った彼の声で二人の融和を促す。何かを信じて産み落とされた作品はその時点で、瞬間を閉じ込める。ゆえに、その瞬間に枝葉が付いていったとしても、すぐそこにある。

 中村一義というアーティストがベートーヴェンの交響曲第1番から第9番に向き合い、100s時代を越えて、ソロ名義ではほぼ10年振りともなる作品をレコーディングすると聞いたとき、想像が出来なかった。彼は「入り込んでしまう」と、何処までも行ってしまうアーティストであり、『金字塔』から『太陽』、そこから『Era』という作品で「時代」に向き合う飛距離に僕は戸惑った過去もあり、どういったものになるのか、分からなかったからだ。自分自身で総ての楽器を重ね、ビートルズへの愛あるメロディーとあのハイトーン・ヴォイスと幾層にも含みのある歌詞、人懐っこくこもったサウンドながらも、孤然とした雰囲気―それを天才と称する音楽ジャーナリズムの短絡よりも空は広く、普通に太陽を浴びて、光を感じたかったのだと分かり、個人的には一気に親近感を持つことが出来た1998年の『太陽』はだから、当時、巷間としては"天才"たる中村一義との差異でバズというのは起きたとはいえなかった。メッセージ性と即効性が強く求められていた日本では曖昧なポジションにあったが、今回の『対音楽』にはその『太陽』に近く、あくまでも違う温度があるから、不思議なメレテ・タナトも感じる。つまりは、擬死化の技法として今年の2月にリリースされたシングルの「運命」で刻まれる撥ねるビートの中で字を変え、繰り返される《思い出せ》、《想い出せ》というフレーズ。それは彼にとって、デビュー出来なかったら死ぬとの想いで始まったキャリア、その後の100sのメンバーとの出会い、ユニティが出来上がる中での「原点」とは何かへの問い-「世界の」を付けないといけなかった彼の生まれ育った小岩のフラワーロードへ戻ったときに、「世界」を外すために、中村一義自身が中村一義たるものを想い出す/思い出す作業がこの『対音楽』にはちらほら見えるからだ。ベートーヴェンとの"VS"という大風呂敷よりも、アコースティック・ヴァージョンで既に披露されていた「愛すべき天使たちへ」には「交響曲第八番 ヘ長調」が寄り添い、静かにストリングスが響くように、膨らみと簡素な彼の信念が詰まった9曲+1曲になっていると思う。

 言わずもがな、表現者のみならず、あの大震災から色んなものが変わり、自覚するものが増えたのは止むを得ない。エネルギーの問題、マスメディアの構造、自然の脅威、人為的なシステムの脆弱性、生きる人たちの強さや弱さ。

 ここ、クッキーシーンで書いた「ウソを暴け!」のアルバム・ヴァージョンから始まり、全体を聴き通すと、そのテクストも参考にしてほしいが、王様は裸で居るという事実への接近をほどくが、その王様には名前はなく、その王様に名前をつけるのはこれからの世代なのかもしれない、というのは遠からずという気がした、ということだ。中村一義というアーティスト・ネームへの訴求力はある一定の層にはあっても、今のユースはどうなのかという意味で、僕のような初期から彼を知っている人のみならず、これからの世代のための作品の側面も伺えると思える。アイドル・グループと無機的なビート、ボカロなどに占められた日本のチャート・シーン、緩やかな音楽と呼ばれるものの斜陽、パッケージング文化の終焉の寂寥も漂う空気を憂うみたいなことは、僕はしたくない。ペシミズムは重ねていけばいくほど、メランコリアを導引し、呼吸をしににくする。やはり、彼も「銀河鉄道より」で表明する《誰もが唄っていた愛を、希望を、まだ憶えているのなら、あの銀河鉄道を呼んで。消えることのなかった愛を、希望を、また唄えるのなら、君とあの時を行こう。》(「銀河鉄道より」)みたく、行くということの大切さを尊重したいと思う。

 なお、軽快で「ペニーレーン」的軽やかさにビーツを刻んだ、「おまじない」にしてもそうだが、46分ほどの総体に詰め込まれたエントロピーは高いが、存外、スッと聴き通せるのは彼の優しさも見える。難解なものに、もっと好戦的なものにしようとすればできたはずだが、小難しい純文学よりも漫画を愛する姿勢、それはポピュラー・ミュージックとして『対音楽』が普通に多くの場所で聴かれることを希う証左でもある。実質的な本編のラスト曲、「交響曲第九番ニ短調(合唱付き)」と組まれた「歓喜のうた」での讃美歌では不在たる実在、実在たる不在へ(In-der-Welt-sein)―世界内存在たる裸の自分を置き、空に舞い上げる。

《ちゃんと生きるものに、で、ちゃんと死んだものに、
「ありがとう。」を今、言うよ。「ありがとう。」をありがとう。この歓びを。》
(「歓喜のうた」)

 ちゃんと死んだものへの感謝の意。もう、そこにいないものにも歓びを捧げること。無論、ちゃんと生きるものへの歓喜をこの曲で示し、2011年6月23日にライヴで収められたボーナス・トラックの「僕らにできて、したいこと」のピアノと彼の声だけの4分ほどの曲が讃美歌とは対比して、鎮魂歌として残響する。この曲はちなみに、ピアノソナタ第八番の「悲愴」がフックされている。つまり、こういうことだ。

《『忘れない』を忘れずに。》
(「僕らにできて、したいこと」)

 現代を生きて、生き残った彼は忘れないを忘れずに、今こそ「僕は僕として行く」背景にこれまでの世代/これからの世代への深慮が可視できる。『対音楽』には、タイトル通り、音楽に真摯に対しながらも、音楽を通じて、いつからか変わってしまった、変わらざるを得なかったなんとなく灰色がかった世の景色を受け止めながらも、晴れ間を探す、そんな凛たる美しさと優しさがある。あの日を忘れないでいられるように、と。

《ほら、君がいて僕がいる。世界はそれが起点なのに。》
(「流れるものに」)

(松浦達)

※本作は2012年7月11日リリース予定

 

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きゃりーぱみゅぱみゅ『ぱみゅぱみゅレボリューション』.jpg きゃりーぱみゅぱみゅ待望のフル・アルバム、その名も『ぱみゅぱみゅレボリューション』。きゃりーに"レボリューション"なんて・・・と思いながら聴いたわけですが、結論から言うと、きゃりーの時代を読みとる批評眼が発揮された計算型ポップ・アルバムである。

 プロデュースはもちろん中田ヤスタカ。音楽面ではこれまでの活動で培ってきた経験を前面に押しだしている。歌謡曲やヨーロピアン風味、さらには"ダサい"の一歩手前でとどまる絶妙なチープ感。これらが交わったエレ・ポップは遊び心であふれている。それでも乱雑とした印象がないのは、バランス重視の丁寧なプロダクションを施し、職人的とも言えるコレクティヴな音像を作りあげているから。派手な音色に隠れがちだが、本作では中田ヤスタカの細かい芸や技が随所で効いている。

 そして歌詞。本作における歌詞はかなり重要度が高い。語呂合わせ重視の無意味に近い歌詞の根底には、"日常"とされる風景がある。《交差点》《街》が登場する「PONPONPON」をはじめ、《竹下通り》《クレープ》というまさに原宿な「ぎりぎりセーフ」。他にも胸キュンラブソング「スキすぎてキレそう」など、現実的風景が目に浮かぶ歌詞が多い。これはおそらく、実在性が低いヴィジュアルを持つきゃりーと対するように書かれているからだ。この二項対立のあいだに、感情から遠く離れたきゃりーの歌声は"余白"として存在し、聴者の感情移入を誘発する。その結果、郊外に住む聴者には大都会への憧憬を抱かせるアーバン・ポップとして、都市部に身を置く聴者にとっては親近感を匂わせる街のサウンドトラックとして機能する。これは、中田ヤスタカがきゃりーの本質を理解し、きゃりーも自身のヴィジュアルと歌声の差異によって生まれる効果を知っているからこそできる芸当だ。

 しかし、ここまで書いてきたことができるだけなら、数多くの凡百ポップ・ソングとなんら変わらないし、本作の方法論そのものは新しくない。ではなぜ、きゃりーぱみゅぱみゅは多くの人を惹きつけるのか? それは"無意味"をひたすら追求し、身にまとっているからではないだろうか。

 多くの人が疑問を抱きながらも、消費主義はいまだしぶとく生き残っている。消費主義のもとでは、社会によって"必要(とされるもの)"と規定された物が凄まじいスピードで消費され、自分にとって価値のある大切な物であっても、社会から"無意味"の烙印を捺されたものは容赦なく排除される。

 そんななか、「私には似合わないと決めつけない。着たい服なら堂々と着ることが大切」(『TVホスピタル』2012年7月号のインタビューより)と語るきゃりーは、あくまで自分の価値観を判断基準にしている。そこには"流行"もなければ"迎合"もない。あるのは自らカルチャーを生みだそうとする気骨だ。きゃりーが追求していることは、"これがなければ生きていけない"とされるものではない。しかし、"あれば楽しく生きられるもの"ではある。だからきゃりーが次なる表現手段として音楽を選んだのは必然なのかもしれない。音楽もまた、"あれば楽しく生きられるもの"だから。そんなきゃりーの姿勢は偶然か否か、本質的意味を過剰なまでに要求される現在においてオルタナティヴな輝きを放っている。"過剰な意味"には"過剰な無意味"を、というのは言いすぎだとしても、きゃりーが身にまとう"無意味"が、ある種の痛快さを伴いながら多くの人に広がっているのは事実だと思う。

 

(近藤真弥)

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SUGA SHIKAO.jpg デカルトからフィヒテまででもいいだろうか、近代哲学での認識論での主体とは客体を捉える自我の枠で、「自分」があることは可能というのがデフォルトだった。しかし、その"デフォルト"というフレーズが当たり前に今や倒れる危機を差すミーニングをも含んでくる現今、身体性の中の「自分」とはいささか野蛮な檻内での囲い込みだという気がする。自分―この私が把握している「客体」とは、絶対ではなく、相対でもなく、対照でしかなくなってくるということで、そこでファンクネスは身体を取り戻すための奪還行為であり、認知資本主義の趨勢における安易な理性批判としたら、このスガシカオの「Re:you」と「傷口」が呈示するものはプログラミングされた簡潔なイメージや二分式での反/正/非を越えるラフさと身体性としての認識主体が客体に及ぶまでの途程で、投げ出してしまう。

 スガシカオの「独立」に関しては、オフィス・オーガスタのHPにおける彼と代表の森川氏の記された言葉を反芻するとして、その後の地道なTwitterやライヴ、Blog、FACEBOOKでの動きを鑑みても、「もう、時間がない」という彼の決死の覚悟は感じられる中、配信オンリーという形でリリースされたこの新曲は原点回帰という言葉だけで片付けられるものではなく、また、同時に完全に新しいスガシカオ像を再写するというものではないが、これまでのスガシカオを知っている人ならば、手触りに独特のぬめりがあるのを感じることだろうし、これからスガシカオというアーティストを知る幸福な(敢えて、書くが)という方にはとても良い毒になることだろう。

 「夜空ノムコウ」の歌詞のイメージ、「Progress」のイメージ、チャートに常連の成功者としての彼は実は特異でもあり、という説明は今さら抜きにしても、ただ、商業主義と作品主義のディレンマが刻印されたのが2011年の『SugarlessⅡ』のどことなく漂う物悲しさと揺らぎ、引き裂かれた印象を結びつけていたのかもしれない。

 デビューしてすぐの関西系の夕暮れどきのローカルのバラエティー番組で場繋ぎのようにチューリップ・ハットを目深に被って、ギターを持って「黄金の月」を歌っていた姿を克明に憶えている僕としては、メジャー・デビュー・シングルのタイトルどおり、その後、鮮やかにヒットチャートをかけぬけてゆく姿にも魅かれた。併せ、サングラスを掛け、佇まいも洒脱さを極め、シティー・ミュージック的な括りでパワー・スピンされ、更には村上春樹氏の著書『意味がなければスイングはない』での彼について触れたテクスト、詩人としての評価、MCの面白さ、ロンドン公演など、多くの尾びれが付いていきながらも、00年での彼の自己評価は低いが、『4Flusher』的な騙しを密かに期待もしていた。平易に言えば、フェスでの「19歳」もライヴでの「Thank You」のダイナミクスも体感しつつ、デビュー・マキシ・シングルの「ヒットチャートをかけぬけろ」の3曲目に意図的みたく収められていた"「ひとりぼっち」の2分以降"を求めていたところはある。静謐で繊細なリリカルな声とギターの絡まりからはじまり、そのままいくかと思えば、2分目以降、一気に罅割れる音風景に叫び声で《君もぼくも とてもとてもひとりぼっち 空も海も 永遠にひとりぼっち 愛の歌も やがてやがて ひとりぼっち》の残響が刻むときの「愛の歌」というフレーズ。

 彼は根底、どういうテーゼに見えても、愛の歌を紡ぐ。彼が徹底的にファンクというジャンル、言葉に拘るのも身体性としての愛的な何かを求めるからだろうし、J-POPという不自由で曖昧なカテゴリーの中で多くのメジャー・アーティストとメディアに出ながらも、ときに道化的な佇まいで、冒頭に書いたようにときに「自分」であることを投げ出す現代的な有り様と、それを受け止める器用さを打ち破るための路への再帰がこの2曲には視える。独立の際の「50歳までに、スガシカオの集大成になるようなアルバムを完成させたい」、との言に沿えば、スライ・アンド・ザ・ファミリーストーン『ライフ』、プリンス『パレード』、岡村靖幸『家庭教師』、はたまた、ディアンジェロ『ヴードゥー』か、などを個人的に夢想してしまうが、こういった新曲が出てくることで少しずつ輪郭は出来てくるのだとも察する。

 なお、「Re:you」のタイトル名は公募し、一万以上もの中から選ばれたものだが、作詞・作曲はもちろん、アレンジメント、全楽器の演奏、プログラミング、エディット、レコーディングまで一人で行なったというのもあり、デモ的な質感も残した疾走感のあるファンク・チューンになっており、個人的に「かわりになってよ」辺りの闇雲な速度を髣髴とさせる。タイトル名に準拠した形での小文字への「you」への返信かどうか、ただそのメールには内容は書かれていない気がするリリックは彼特有の鋭度がある。《夕方から バイトは飲食店で 25時終わり 部屋でネットをひらく 誰かが "もう死ぬね..."って書いたログ 本当に死んだかは どっちでもいいんだけど》という始まりから、《キズひとつない 透きとおった心 ウソっぽくない? それ・・・》というサビに雪崩れ込み、Break Downの咆哮どおり、日常に生きる中での過度な自我へ対してのオルタナティヴな形での「どうでもいい」を恢復させる。"私"が自律文法で成り立っている訳ではない、「他者」との断絶によっての繋がり、コミュニケーションを見出すために、セックスやウソにも向き合い、言い切ってしまう粗雑さまでの閾内で、全部、独りで作り上げたがゆえのいささか歪な籠もったサウンド・ワークが重なり、小文字の「you」へ向けて問いかける。ただ、そこは現代的ツールのTwitterの独り言、Facebookのシェアとは関係性の力学が違う。「私」だらけになった世に、主体/客体の未分化を促すところがあるからでもある。対比しての、ミドル・チューン「傷口」では君と僕の連関の隙間を縫う。しかし、最後の決然としたフレーズが現在の彼、今後の彼をしっかり切り取る。

《あの日の輝きに 保存をかけたとして ひとつも消さずに 未来には たぶん行けない 捨てずに未来にはたぶん行けない》(「傷口」)

 それぞれの抱く「あの日」から時計の針は進んだのだろうか、傷口は癒えたのだろうか。"たぶん"そうではないと思うが、捨てなくても未来はあるのは確かで、その確かさを噛み締めるために一つ一つ傷口に名前を付けていけばいいのかもしれない。何故ならば、名前が付いた傷口ならば、理由(Re:you)は残るからだ。

 

(松浦達)

 

※本作はiTunes Music Storeで配信中

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KIRINJI.jpg キリンジがメッセージ・ソングというものに対峙するときに、彼らの立ち位置を示すかの切ないバラッド「エイリアンズ」的なパサージュを想わざるを得ないことも含む気がする。ヴォルター・ヴェンヤミンに引っ張られるまでもなく、パサージュとはアーケードを意味するフランス語であり、元来の意味は「通り道」というコンテクストで捉えたらいいのだろうが、そこを抜けて、都市の遊歩者たる彼らが2012年のリリース形式として配信限定で、二ヶ月連続で、5月の「祈れ呪うな」、そして、この「涙にあきたら」を表象するのは大きい。

 日常が非=日常的な変異を起こす現今の日本において、まるで今回のブライアン・ウィルソンがプロデュースした生存するオリジナル・メンバーでのビーチ・ボーイズの新譜『That's Why God Made The Radio』とのシンクロを示すかのような、絶妙なポップ・ソングの輪郭をなぞるこの曲では、清冽で優しい曲になっており、そこにレイド・バックもトゥー・マッチな険しさもなく、キリンジ期間限定特設HPで作詞・作曲を手掛けた堀込泰行氏がコメントを寄せている、"いろいろと不安定な世の中ですが、友人は大事にすべきだなと思ってつくりました。(中略)友人や知人と一緒にいるときに聴いて、楽しい気分になってくれたら嬉しいですね。もちろんお一人様も大歓迎です"という脈絡に沿い、あちこちで生活をおくる通り道を弾むスキップの歩幅に合う曲になっている。常に良質なシティー・ミュージックに添い、XTC的な捻くれをも保ちつつ、絶妙なエレガンスを固有の美意識と時代を読解する意識でコーディネイトして、配信のタイミングとフィジカルの間の往来に拘っていたキリンジの動きとは察するに、パッケージングとの差異内で何より電波が通じる限り、先に曲を出来る限り、多くの人たちに届けたいという意思背景が伺えた。この「涙にあきたら」はいまだに多くの辛苦、艱難、またはかろうじてネットでの繋がりを抱えている人たちに向けて、実店舗に足を運べない人たちの傍らにラジオ、スマートフォン、iTunesなどを通じて響く何かを希求したのではないか、とも感じる。

 「祈れ呪うな」の時点では東日本大震災、福島原発の事故への「自戒」といささかシビアな認識とともに、曲への想いを綴っており、今回もその延長線でもあるのだが、バランスとしてのこの「涙にあきたら」での跳躍感は心強い。"生き生きとしたもの"を辿るプロセスでリファレンスされた「都市」のための音楽とエレキ・シタールを含んだ多少のサイケな彼ららしいアレンジと、まるで音/楽を二分化して、「楽」の部分にフォーカスをあてた背景には個人的にラヴィン・スプーンフル、ゾンビーズ、アソシエーションなどのお歴々のエッセンスの凝縮とコーラス・ワークの透明度がいつかのaikoを招いた「雨は毛布のように」的な口ずさみたくなる旋律を保持しつつ、今の温度にしっかりと共帯する。音楽が備える役割期待の一つに日常を持ち上げる力学があるとしたら、ここでの彼らが描く《涙にあきたら いつでもここにおいで》や《楽しいお酒を呑むのだ》というフレーズの断片は確実にあまたのニュースや現実に涙が止まらなかったであろう方々の胸の奥にじんわりと染み入り、気持ちを和らげるとも思う。誰もが静かに大切にする家族、仲間やフレンズとともに、この曲は相互主観の端境を渡り、涙には飽きることはないが、飽きた涙が停まったときに、取り戻せるのは前向きな遡行を描くようなラインがある。

 そんな前向きな遡行が照らし出す涙には、塩辛さや深い重みよりも甘やかな毎日の背を押す。その毎日には、様々な境遇の人たちが居ても、そろそろ涙に飽きた「ここ」での待ち合わせ場所が待っている。

 「涙にあきたら」の傍らで、今日、そして、明日、ずっと先が雨でも星のない夜でも、皆で遊び、小さな灯りを燈せるようなものであればいいな、と願いたい。

 

(松浦達)

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『The Silk Road』.jpg 「面白いことはみんなここ西海岸で起こっている」とは、《Magniph》のインタビューにおけるバーン・オウルの発言だが、そのUS西海岸の盛り上がりを代表するレーベルといえば、アマンダ(LA・ヴァンパイアズ)/ブリット・ブラウン夫妻によって運営されている《Not Not Fun》であり、姉妹レーベルの《100% Silk》だ。

 エクスペリメンタルなドローン/アンビエント作品が多い《Not Not Fun》に対し、《100% Silk》はダンス・ミュージック路線を強く打ち出した音源をリリースしている。主にインディー界隈からの反応が多い《100% Silk》だが、カタログの大半はハウスである。そう、いまやハウスの更新を促しているのはインディー・ミュージックなのだ。そんな《100% Silk》のダンス・ミュージックは、80年代後期~90年代初頭の熱気を帯びたバレアリック精神、そして開放的なエネルギーに満ち溢れた明朗快活なものだ。

 『The Silk Road』は1000枚限定のコンピレーション・アルバムで、日本独自企画盤となっている。監修をアマンダが務め、それをブリットがサポートする形をとっている。基本的には《100% Silk》印のインディー・ダンス・ミュージックを収録しているが、シカゴ・ハウスのエロティシズムを感じさせる曲もある。それが明確に表れているのはフォート・ロメウ「Say Something」、LA・ヴァンパイアズ・バイ・オクト・オクタ「Found You」といったところだろう。そして、呪術的ヴォーカルが美しいマリア・ミネルヴァ「A Love So Strong」のように、"飛ぶ""ハマる"といった意味での"踊る"を鳴らす曲もある。こういった具合に、本作にはダンス・ミュージックのあらゆる要素が詰まっている。

 驚いたのは、マジック・タッチ「Clubhouse」が収録されていること。この曲は、ミラクルズ・クラブのハニー・オーウェンスが参加したレイヴィーなトラックだが、スロウなハウスが多い本作のなかでは少々浮いている。昔《Avex》が出していた『Super Club Groovin』シリーズに収録されていてもおかしくないというか・・・。つまりジュリアナ系に近い。ローズ・オブ・アシッド、ジニー、L.A.スタイルを想起してしまう疾走感。こういう意外性も《100% Silk》の面白さだ。

 本作を聴くと、アマンダは流行を意識した最先端指向者ではなく、あくまで自分の感性に従う自己信奉者であることが分かる。それは、元々はライターという"言葉の仕事"を目指していたアマンダが、ポカホーンティットでのノイズ/ドローンを経て、ミラーボールが煌めくダンスフロアに辿り着いたことからも明白だ(このアマンダの遍歴は、言葉から離れようとする音楽が増えた"今"を語るうえでも重要)。こうした従来の価値観ではありえない文脈が平然とシーンの潮流になる。それがテン年代以降の音楽なのだ。この事実をアマンダは、自ら急先鋒となって繰り返し主張する。すべての音楽がフラットになった今だからこそ、自分の感性を信じ、音楽に触れ、愛すること。

 Let's make a new history!

 そんな情熱に満ちた志が《100% Silk》にはある。

 

(近藤真弥)

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AOKI LASKA.jpg  今のアオキ・ラスカを位置づけるとしたら、どこになるのだろうか。スパングル・コール・リリ・ラインのようでいて別物だ。フアナ・モリーナや畠山美由紀を思わせるところもあるが、アルバム全体を通して聴けばそれも違う。フォークトロニカやトイ・ポップ、ポスト・ロックを思わせるところもあり、彼女はファースト・フル・アルバムにして、様々な音楽性を飛び交い、どこにも位置づくことのない場所に立つことを選んだ。

 デビュー・ミニ・アルバム「About Me」と同じく、フォーク・スクワットの平松泰二がプロデュース、録音、ミックスを手掛けた本作『It's You』。ここには飛び跳ねることなく、めいっぱい笑顔を見せるでもなく、今の自分と向き合っている歌がある。とても自然に自由に歌をうたう喜びを噛みしめながら、自分を存分に表現する歌。そこには邪気も無邪気も何もない。素直という言葉が最も適している歌声をシンガー・ソングライター、アオキ・ラスカは謳歌する。顔と首にペイントしたジャケットにあるように。その素直で透明感のある歌声には曇り空を吹き飛ばす力があり、強い雨に打たれてもかまわないという言葉が聞こえてきそうだ。

 その強さは彼女の不遇の時期が反映されているのかもしれない。彼女には、自主制作でCDをリリースしたが、反応は芳しくなく、音楽やり続ける気力をなくした時期があった。当時を振り返り彼女は言う。「音楽がなくなったらどれだけ毎日楽しいだろうと思ってた。歌うことがつらくて。」(ライナーノートより)。しかし、アオキ・ラスカはそんな時期を乗り越えた。どん底の状態だった5年前に作った曲「流れる」が本作のラストに収録されているのは、自分の過去を潔く受け入れているということなのだろう。実際に「流れる」での繊細さと強さ、そしてわずかな刺を持つ歌声とメロディはしなやかに辺り一面に広がっていく。楽曲構築に関してもミニ・アルバム「About Me」よりも空間の広がりがあり、ピアノの調べの美しさはそのままに音数も増え、しかしそれらは歌声を邪魔せず、アオキ・ラスカがステージの真ん中で堂々と歌う姿が目に浮かぶ。

 本作には鼓膜を穏やかに揺らす歌はない。あまりにもあっさりと刺激する。例えば「物語」での無音の寂しさと遊園地にまぎれ込んでしまったような音世界の右往左往を優美に聴かせる音の鳴りと歌。「ひとつになりたい」での朗らかな歌声と、ふと、ひるがえる、泣いているような歌声。彼女の闇と光の部分が交差し合い、時として触れればすぐさま崩れてしまうような危うさ。だが崩れない強さ。音世界にすっと聴き手を吸い込む神秘的な音の鳴り。そして闇と光のある歌詞。闇がないところに光は宿らず、光を照らせば影が生まれる。こころの影が。アオキ・ラスカの歌詞世界のそういったところに魅力を感じる。

《きてみて/特別なきみがみえる、よ/まちがいだらけで立ってる/ずっと/それでもいいから/うたおう/ずっと/もう、いいよ/さあ、行こう/さあ》(「みてみて」)
《言えない言葉わかって/知っていいよ/好きなだけ》(「Kiseki」)

 僕らはアオキ・ラスカを知るのが遅すぎたのかもしれない。でもこれからきっと彼女と多くの人が出会うだろう。

 希望的なものと哀しさの同居。光と影。それらは歌声にも表れている。感覚を大切にする彼女は、本作で歌の巧さより感情を重視した。その歌はささくれ立ったものだ。ここにあるのはアオキ・ラスカの感情という闇をまとったファルセットによるディストーションであり、自身の感情の暗部を見詰めたがゆえに見付けた光がある。その音はたとえ些細なものだったとしても、あまりにも眩しく輝いている。その輝きは何なのか。自分自身の声が「あなた」に届いてほしいと願う彼女の歌声を聴けば、"It's You"、それが答えとして響き渡る。そうして僕らは本作に内在する、静かに染み入ってくる影の存在に気付かされる。それはいたく沁みる。

 

(田中喬史)

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BIO TOLVA.jpg 「奇作」という表現ほどこのアルバムにふさわしい言葉はないだろう。しかし、このアルバムは一聴した瞬間に、「これはなんて奇妙なんだ」と思うようなものではない。むしろストレートなポップ・ミュージックとして広く受け入れられても全くおかしくはない。「一体どこが奇妙なのかわからない」という声すらこのアルバムを聴いた人々の口から聞こえてきそうですらある。だが、やはりこのアルバムの魅力を語る際に「奇妙」という言葉を外すことはできない。普通に聴いていると、北欧の名だたるアクトたちによる音楽との程良い類似を見せながら、それを巧みに組み合わせることによって作られた音楽である、というように簡潔にレジュメする事ができそうだ。聴者はそのようにしてこのアルバムの内容から、各々が体験してきた様々な種類の音楽を連想するだろう。我々はその音の由来を探るために、自分たちの記憶を探ってゆく。しかし、その記憶の探求は断ち切られる運命にある。それは他ならぬアルバムから放たれる音楽によって断ち切られるのだ。確かに聴いたことがあるはずなのだがそれを探ろうとしても必ず失敗してしまう。聴けば聴くほどその音が不可解な物に感じられてしまい、最後にはゲシュタルト崩壊を起こす。なぜこのようなことが起こってしまうのか、その原因を考えてゆくことによってこのアルバムが持つ不可思議な魅力を伝えたいと思う。

 オフィシャル・サイト/CD帯のコメントにも書いたようにビオ・トルヴァのデビュー・アルバム『Chiaroscuro』のサウンドは「記憶の衝突劇」と呼ぶのにふさわしいものとなっている。シガー・ロスの深遠な音響、散りばめられるムームのような細やかなサンプリング、ゴールドムンドの静謐な旋律といった北欧のアーティストの様々なサウンドがそこから聴き取れるだけではなく、スティーブ・ライヒのようなストリングスや、時には映画音楽のような壮大なスケール感をそこに見いだすことも可能だろう。ここにあるのはビオ・トルヴァ―これは牧野圭祐のソロ・プロジェクトである―が体験してきた音楽の記憶であり、それがある時はそのまま抜き出され、ある時は複雑に絡み合って構成されている。そしてビオ・トルヴァのオリジナリティ=奇妙さはその記憶の抽出/再構成する方法にこそある。

 記憶とは極めて曖昧なものである。自分がかつて体験したことがある物事を思い出す際、我々はそれを再構成する手段を持たない。どんなに正確に記憶を掘り起こしていってもそこにあるものは、我々が空想で足りない部分を補ったものであり、真実とも虚構とも言えないものだ。思いだそうとすればするほど記憶の迷宮に入り込んでゆき、そこから抜け出るために、欠如した部分を虚構によってまた埋め合わせる。この繰り返しによって記憶は虚構に浸食されてゆく。

 ビオ・トルヴァは他のどんなアクトにもましてその曖昧な記憶を追い求め、それを頼りに音を作り出した。だから虚構に浸食された記憶が放つ煌めきと歪みが、このオリジナルで圧倒的に「奇妙な」音楽を生み出しているように感じられ、それがゲシュタルト崩壊の原因となっている。そういう意味において崩壊寸前と言っても良いこのサウンドは、世間的には「北欧的なサウンド」「ポストロック」「ポスト・エレクトロニカ」などと呼ばれるであろうこのアルバムが、それらが該当する凡百のアクトと全く異なる場所に位置していると考えるのはそのためである。

 先ほど「崩壊寸前」と書いたが、それはあくまで「寸前」であり崩壊に至る前にギリギリの状態でつなぎ止められている。ではビオ・トルヴァの音をつなぎ止めているものはなんだろうか。それは6組のゲスト・ミュージシャンたちによるボーカルによってである。ここでは彼らの名前を挙げるだけにとどめておくが、Junko Minato、Bertoiaのmurmur、Anriettaのkokko、唯一の男性ボーカルであるusのShota Osaki、《Kilk Records》所属のアーティストであるukaやferriたちの歌声によってこのアルバムに納められた楽曲たちは崩壊を免れている。というよりも、そのヴォーカリストたちへの信頼が牧野にこのようなトラックを作らせたのだろう。彼らによるヴォーカリゼーションと牧野の手によるトラックの幸福な出会いがこの極めて奇妙な楽曲たちを優れたポップ・ミュージックとして昇華させている。

 「奇妙」「崩壊寸前」などと少々物騒な言葉でこのアルバムを言い表してきたものの、このアルバムが最終的に我々に与えるフィーリングは極めてポジティヴなものであるということを最後に書き留めておきたい。それは田中佑佳が手がけたこの素晴らしいアルバム・ジャケットにも現れているように、雨の中、華麗に踊り続けるようなフィーリングだ。このアルバムを最後まで聴き通したとき、頭の中に浮かんだのは「雨に唄えば」のジーン・ケリーが土砂降りの雨の中で、ダンスをしながら「雨に唄えば」を唄うあの、有名な一場面だ。そしてその歌詞の一節が見事にこのアルバム『Chiaroscuro』の気分を反映しているように思えたので、最後にその部分をここに挙げてこのレビューを終わらせたいと思う。

《Come On With The Rain / I've A Smile On My Face / I Walk Down The Lane / With A Happy Refrain / Just Singin' / Singin' In The Rain》(「Singin' In The Rain」)

 

(八木皓平)

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rega.jpg  「言い方悪いんですけど、ちょいダサいみたいな感じだったんですよね、前作は。そういうのを今回はカットして、あとメンバー間のコミュニケーションが密になった分、(曲や演奏が)男同士の会話みたいになって、カッコの付け方が前とは変わりました」(Ba. 青木昭信)

 東京を中心に活動する4人組インスト・ロック・バンド、レガ(rega)。傑作アルバム『Lyrics』を経て1年8ヶ月振りに彼らが発表した待望の新作は、そう、前作までのレガとは大きく変わったのだ。スポンジのように新しい要素をグングン吸収しながら発展し続ける彼らの魅力が詰まっている1枚。絶妙かつ巧妙なアレンジに磨きがかかり、浮遊するギターがますますかっこいい。

  「今回も基本、レコーディングは一発録りなんですが、一曲だけクリック使った曲('cobweb')があるんですよ。エンジニアさんが提案してくれてやってみたら、新たな発見がありました。あと今回はギターを重ねたりもしましたね」(Dr. 三宅隆文)

 そういった前作との違いもありつつ、やはり、もっと内面的な変化が今作には大きく影響しているようだ。

  「前作の時はがむしゃらだったんですね。(Gu. 四本)晶がバンドに入ったばっかりで...。多分、晶が一番しんどかったと思うんですけど、それまでのレガに対するイメージもあって、これからどうすべきか? っていうところで凄く考えて。そこから1年8ヶ月晶と一緒にいて、彼自身がレガでやるべき事、やりたい事が明確になってきて、それを彼以外の3人が受けて話し合うことで、今回は作品にしていきました。バンドの中での人間関係を築き上げてきたことが今回のアルバムに大きな変化をもたらしてますね」(青木)

 そんな綿密なコミュニケーションから生まれた今作。アルバム・タイトルはどこから? SALTじゃなくSOLTなのは何故?

  「直訳すると、良い塩梅の、塩梅。今回は前回よりも足下が固まってきたので、良いバランスでやりたいっていう思いがあって、そう考え出したらアルバムということを意識した作品を作れるぐらい余裕が出来て、結果良い塩梅で作れたんです。その、塩梅っていう日本語から『SOLT&PLUM』になったんですが、そのソルの綴りを変えて、太陽のSOLにしてます。これは、毎日の生活が基盤になって、その生命力みたいなものの中で、毎日良いものを良いバランスで選んでいきたいっていう気持ちから、ですね」(青木)

 彼らの作風はパンク・マインドを抱えつつ、構築的なソングライティングと圧倒的なインストゥルメンタル・スキルでクラブ・ミュージックやフュージョン、そしてロックと向き合った、耳触りの全く新しいサウンドであり、それは幾多の試行錯誤や熟成期間があってこそのもの。ライブ感溢れるサウンドの中、彼らはしなやかに、かつ軽やかに躍動する。
「次の作品は、また違った風になると思う。もっと何か踏み込みたい。踏み込むっていうか...素直にやればそうなると思う」(Gu. 井出竜二)
 

  今後もさらなる発展が期待出来そうだ。

(粂田直子)

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ミタメカマキリ.jpg いま日本のインディー・ミュージックが面白い。まあ、筆者が声高に叫ばなくても、早耳リスナーであるあなたなら既にご存知かもしれないが、そんな日本のインディー・ミュージックのなかでも長野が興味深い動きを見せている。沖に娘あり、洞などを擁する《これレコード》周辺や、確かな演奏技術に根ざした奇天烈ガレージ・サイケを鳴らすベガ星人など、面白い音が続々と生まれている。そして長野にあるライヴハウス《ネオンホール》では、県外で活動するバンド/アーティストをゲストに迎えたイベントが連日開催され、地元の音楽リスナーに面白い音を紹介しつづけている。このように長野では、オーガ・ユー・アスホール(彼らも長野出身)以降と言える状況が出来つつあるようだ。

 その長野から新たに出てきた面白いバンド、それが男女混合の4人組であるミタメカマキリだ。筆者がミタメカマキリを知ったキッカケは、《ネオンホール》で販売されている『にじますとしろくま』というコンピレーション・アルバム。数多くのバンド/アーティストが参加しているなかで、初期XTCやフォールズを想起させるミタメカマキリのポップ・サウンドは一際異彩を放っていた。

 これまでミタメカマキリは「デモCDR1」「デモCDR2」という自主制作盤をリリースしているが、「デモCDR3」ではミタメカマキリの特徴である前のめりなグルーヴと演奏力がまたひとつ上のレベルに達している。さらにキャッチーなメロディーも色気を漂わせるなど、本作はミタメカマキリの進化を示すものとなっている。

 そして、躁状態で突っ走るヴォーカルにも磨きがかかっている。デヴィッド・バーン、アレックス・オンスワースを彷彿とさせるヴォーカルはミタメカマキリにとって大きな武器のひとつだと言えるが、リズミカルに吐き出される焦燥的歌詞と相まって高い中毒性を生み出している。語感の良い言葉とバンド・アンサンブル。このふたつが絶妙に交わるミタメカマキリの音楽は、文字通りクセになる。

 

※本作はライヴ会場とJetSetで販売しています。

 

(近藤真弥)