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cover.jpg 90年代におけるスロウ・コアの草分けバンドである、レッド・ハウス・ペインターズの中心人物を務めていたマーク・コゼレックによるソロ・プロジェクト、サン・キル・ムーンの5枚目のアルバムがリリース。ぽそぽそした響きのナイロン弦による、クラシック・ギターを彷彿させるテクニカルなアルペジオを中心に、マーク・コゼレック節の寂寥感あるメロディを物悲しく歌うスタイルが、サン・キル・ムーンの(特に前作で顕著であった)スタンスである。本盤においては、バンド編成の楽曲をはじめ、鉄琴やバンジョーなどの小さい楽器やストリングスなどが多用されている。全編を通して弾き語りの楽曲を中心に構成した前作『Admiral Fell Promises』ほどの強烈なノスタルジーさはなく、アルバム前半は、どこか牧歌的でさえある瞬間がある。

 とりわけ、ギターの音色が今までになく明るいトーンであることが印象的である。中音域を強調したウォームな響きから、ドライで軽快なトーンへ変わったことで、哀調を帯びたアルペジオでありつつも、穏やかな海や晴れた空などを想起させる。「Sunshine in Chicago」「Elaine」などアルバム前半の楽曲は、フォーキーなフレーズと歌声が相まって、とても優しさに満ちているように聴こえるものの、6曲目「The Winery」のサビから7曲目「Young Love」を境に、どんよりとした曇天が広がっていき、ずぶずぶと郷愁の奥底に落ちていく楽曲が目立ち始める。そして「UK Blues」を迎えた頃には、それらが単なる明暗や陰陽とはかけ離れた次元のカタルシスを生んでいることに気付かされる。マーク・コゼレック関連の作品で言い表すならば、レッド・ハウス・ペインターズの『Ocean Beach』に近似しており、前々作までのサン・キル・ムーンにおけるスタンスへ回帰しているようにも感じる。

 仕事の話や恋愛の話、ギブソンのブリッジやネックを調整してくれた男の話など、概ね身近な物事を対象としてリリックが綴られている。目がちかちかする黒地の歌詞カードには、白地の歌詞が途切れなく埋め尽くされており、その裏地は対照的に黒の単色で塗りつぶされており、これもまたインパクトが大きかった。

 今回も、デス・キャブ・フォー・キューティー『Transatlanticism』をはじめ、様々なアーティストのエンジニアやアシスタントを務めているAaron Prellwitzがエンジニアとして呼ばれており、その他スペシャル・サンクスとして、タイトルの元となった小説の著者であるジョン・コノリーの名前が、クレジットに挙げられている。2枚目のディスクは、オルタネイト・トラックとライヴ音源を収録したボーナス・トラックが集められており、中でもこのライヴ音源、かなり深いリヴァーヴがかけられていることが印象的で、本編にはない気持ち良さがある。そして、来日ツアーである。東京公演は、キリスト品川教会グローリアチャペルでの開催である。これは期待せずにはいられない。

 

(楓屋)

 

※国内盤は7月11日リリース予定。

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CZECHO NO REPUBLIC.jpg  《I Wanna Be Your ビースティ・ボーイズ Tonight》(「ウッドストック」)

 2011年のファースト・アルバム『Maminka』のサイケな歌詞と、カラフルながらフリーキーなポップで振り切れた佇まいは、国内のシーンでは異色でもあったが、ヴァンパイア・ウィークエンドからMGMTまでを参照に出され、CDショップ大賞にノミネートされるなど耳の肥えたリスナー、評論家のみならず、ユースにも届き、その明朗さに新しさを感じるとのこれからに向けての期待を受けた。現在、例えば、インドネシアのジャカルタやタイのバンコクなどに行くと、中間層を主にいつかの「渋谷系」と呼ばれるスムースで、ハイでどこか無邪気な音楽を愛する人たちが居る。実際、アズテック・カメラ、オレンジ・ジュースからフリッパーズ・ギターなどは動画サイトなどでそういった国々から検索もされているようで、衣食住の最低条件が整ってきて、相応に経済的与件も保つことができる人たちのロック/ポップスとは得てして、カメラ・トーク寄りになってしまうのは当然なのだとも思う。ジェット・ラグではなく。

 では、今の日本でネオアコ、ギターポップ、アノラック経由のバンドが目立ってきているか、というと、数でいえば、そうではないと言えてしまうと思う。もちろん、それぞれがしっかりとした意志を持って、バンドという有機体に賭けているのだが、どうにも内を潜航してゆくような空気感と呼応して、バンドとして描く音も良い意味で真摯な叫びや懊悩が輪郭を描いてしまうのだろうか。その点、一曲でいきなり、シンセやオルガンが大きく鳴り響き、「1、2、3、4」の合図が入り、皆で《ダイナソー》と歌う彼らは浮いているといえば、浮いているが、聴いていると、持っていかれる目映さがある。その後も、スカスカながらも、サイケデリックでユーフォリックに螺の少し外れたかのような万華鏡的なサウンドに、語呂を合わせているだけではない、叙情がよぎるフレーズが美しい歌詞がカット・インしてくる。

 ソフィティケイティッド、深化という言葉よりも、実験が重ねられた過程作という印象もあり、いつかのニュー・エキセントリック勢に通じるサウンドを承継しながらも、OK GO辺りのファニーさ、更にフレーミング・リップスの多幸感を吸収し、今の自分たちの力量で対峙した印象を受ける。それは若さということだけで片付けられない、ファースト・アルバムの思わぬ巷間の評価のプレッシャーもあった背景も察せられる。自暴自棄でも深刻でもなく、音楽のそのままの楽しみをバンドとして届けることの艱難を踏まえ、彼らが言う「移動式遊園地みたいな作品」のとおり、カーニバルの来る前の楽しみ、過ぎた後の切なさまでが詰まっている。

 彼らとは、チェコ・ノー・リパブリック(Czecho No Republic)。ボーカル、ベースの武井優心、ギター、シンセ、コーラス、ときにボーカルもする八木類、ギター、シンセ、コーラスの吉田アディム、ドラム、コーラスの山崎正太郎からなる2010年結成、男性四人のバンド。しかし、改めて振り返ってみても、このセカンド・ミニ・アルバム『Dinosaur』までの歳月の短さ、成長の速さと注目度の高さはなかなか珍しい存在だと思う。ファンタジーとリアリティーの狭間で音が鳴っている間だけ約束されるマジカルな時間。1曲目のシンガロング・ナンバーの「ダイナソー」でも、ダイナソーのように強くなりたいと言いながら、春夏秋冬を巡る繊細な物語風の歌詞世界、更にはカーニバルの始まりに飛び込もうとするもので、シンセやオルガンがベースになりつつも、ギターがノイジーに響き、ドラムもしなやかに叩かれるダイナミクスに溢れている。今後、ライヴの定番になってくる曲だろう。口笛が吹きたくなる晴れやかな2曲目「Sunshine」ではThe Magic Numbersなどに通じるメロディーラインの良さと、君と二人の世界で巡るファンタジーのポップな再写に気持ちをアップリフティングさせてくれる。ストイックなギター・ロックに"高円寺"という具体地名を出したさよならと不安で揺れる3曲目の「魔法」には、今どきの若者が心理的に持っている現実感を《フワフワ ねぇ不安?》と示す。こういうバランスが彼らの本懐でもあり、「移動式」と称し、「固定式」の遊園地ではない証左なのだと思う。

 移動したら、そこは離れ、どこかへ行く。ただ、どこかにそこがなり、そこがまたどこかへ、最後はここに戻る。そこもどこかもなく。遊園地側も開いては期日が来たら撤収、その繰り返しで街を巡る。ハレとケに縛られた日常。

 ハンドクラップを誘い、サビでのラッパが効果的な4曲目の「ABCD Song」、タイトル名に「Indie Pop」と称した5曲目は、この作品の中でも実は大きい意味を持つ曲だと思う。彼らが楽しみの合間にふと見せる虚無、ブルーな感情が前に出されている。《若い君はノスタルジアに揺られて》と言い切ってしまえるところも含めて、ギターが本当に良い響きをしている。このように、8曲というサイズながらも、ますます不気味にかつ健康なステップ・アップしたと思う。ライヴでのパフォーマンスやPVでの茶目っ気も合わせて、敢えてでもなく、ベタでもなく、センスと今の日本を生きる若者らしい皮膚感覚がしっかりこの作品には刻印されている。

  《流星の雨は止み おさまっていた オーディオの音が耳障りだ 可能性は輝きを増し 黄金の風が吹き荒れる さぁ急ごう もう時間はないよ》(「幽霊船」)

 もう確かに時間はない気はする。移動式の遊園地が自分の街に来るまで、待ちきれないなら、その場所に急いだ方がいいかもしれない。でも、間に合わなくても、いずれはカーニバルのパレードには参加することはできるだろうから、きっと心配は要らないけれど。

  《アローンいらない》(「ABCD Song」)

 

(松浦達)

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清竜人『MUSIC』.jpg  清竜人にとって4枚目のアルバムとなる『MUSIC』を初聴したとき、飲んでいたコーヒーを吹き出してしまった。「なんじゃこりゃあ?」と思ったのは、言うまでもない。この気持ち、清竜人を熱心に追いかけている人ほどわかってくれるはず。

 メロディーの骨格といった根本は引き継ぎながらも、清が以前から興味を持っていたアニメ/ゲーム音楽やアイドル・ソングの要素をふんだんに取り入れ、従来のアコースティック・サウンドからガラリと作風を変えた本作は、ヘタをすれば"迷作"となる可能性だってあった。だが、繰り返し聴いているうちに、本作は極めて真っ当な音楽であり、"トンデモ" "イロモノ"として扱うのは失礼に値するのではないか? という思いが芽生えてきた。

 演劇的要素が強いのは確かだし、清のイメージとはかけ離れた世界観に触れて"狂っている"と思う人もいるだろうけど、音楽に纏わりつく既存概念を取り払い、音楽の新たな定義と可能性を追求したという点では、非常にシリアスな作品だと言える。それは、全収録曲にそれぞれ違うアレンジャー/エンジニアを立て、さらに女優の多部未華子や人気声優の堀江由衣といった外部の人材を数多く参加させることで、幅広い音楽性を獲得しようとした試み(この試みは、ものの見事に成功している)からも推察できる。ここまで音楽と真摯に向き合った作品を、"トンデモ" "イロモノ"として扱っていいのだろうか?

 

(近藤真弥)

 


 

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DISCLOSURE.jpg  《Moshi Moshi》からリリースされた、ディスクロージャーのデビュー・シングル「Offline Dexterity」のレヴューで筆者は、「圧倒的なセンスが、すべてをOKにしてしまっている」と書いているが、ホット・チップのジョー・ゴダードが主宰する《Greco-Roman》からの新作「The Face EP」は、そのセンスが開花しつつあることを証明している。

 南ロンドン出身のローレンス兄弟によるユニット、ディスクロージャーは、先述の「Offline Dexterity」でメディアから高評価を受け、リスナーやフロアも、ダブステップとUKガラージとインディー・ミュージックを繋ぐクロスオーヴァー性を好意的に受け止めた。イギリスでは「Offline Dexterity」をジュークとして捉える人も居て、ジュークのフォーラムでも、ディスクロージャーの名を頻繁に見かけるようになった(「Offline Dexterity」以降は、シングルのリリースを重ねるごとにUKガラージ色を強く打ち出し、ジューク色は薄くなっていく)。

 本作は、従来のUKガラージ路線を残しつつも、ビートに関してはシンプルな4つ打ちをフィーチャーしたハウス・トラックが収録されている。そして、全4曲中2曲にヴォーカルが参加していることからも、本作においてディスクロージャーが"歌"を意識したのは明白だ。フェイスブックといったSNSを中心に支持を集めていくなかで、ディスクロージャーはジャンル同士だけでなく、人と人、つまりポップ・フィールドとダンスフロアを繋ぐ架け橋になろうと思い立ったのかもしれない。そう考えれば、本作のポップな方向性には頷ける。

 とはいえ、《Data Transmission》のポッドキャストにおいて披露した、マウント・キンビーにラリー・ハード、そしてQティップやフローティング・ポインツを跨ぐ大胆な横断性は失わずにいてほしい。そうすれば、ホット・チップと同等、もしくはそれ以上に重要な存在となれるだけの才能を、ディスクロージャーは開花させることになるはず。

 

(近藤真弥)

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DEDEMOUSE.jpg 今年、惜しくも亡くなったアメリカの作家のレイ・ブラッドベリの短篇集『スは宇宙のス(原題:S is for Space)』というものがある。デデマウスが颯爽とシーンに出てきたとき、その電子音空間にはストーリーと寓話が浮かんでくるのと同時に、その短篇集に宿る「愛的な何か」を感じた。フリーテンポやスタジオ・アパートメントなどと並べられたセンチメンタルなエレクトロニック・ミュージック、IDMや乙女系ハウスの潮流にも僅かに巻き込まれながらも、2007年の『Tide Of Stars』からオリジナルなスタンスを保ち続けてきた。エキゾチックな旋律、子供の嬌声、ほぼ意味をなさない発語の気持ちいい言葉のカット・アップ、縦横無尽にキャンパスからはみ出すような煌めく電子音とメロディーラインの精度、ジャケットにおける徹底したロマンティシズム、ライヴ・パフォーマンスの鮮やかさ。

 このたび、2010年のサード・アルバム『A Journey To Freedom』から2年、多様なライヴ活動などはしていたものの、新しい音源がこのEPの「Faraway Girl」になる。しかし、リリース形式は変わっている。着実に続けてきたイヴェント《not vol.4》、6月22日からの会場限定発売、更には昨年の末に行ない、評価を得たプラネタリウムでのライヴが今回はツアー形態となり、札幌、新潟、東京で行なわれ、その会場でも手に入れることが出来るというものになっているからだ。つまり、今のところ、全国のレコード・ショップの店頭に置かれる見込みはないEPでありながら、また、配信も公式HPでは「日本国外50ヶ国にて配信決定」(2012年6月20日現在)と展開的なものが見えなくもありながらも、このEPの内容自体は、ストイシズムと彼らしいコンセプチュアルと称することができる6曲が並んでいる。

 ファンタジックというよりも、彼が影響を受けた《Warp》レーベルの幾つかの作品群への愛に満ち、マウス・オン・マーズ的な変拍子と電子粒の揺らぎの中に、声や煌めくシンセから入ってきた上で、一音一音を追う楽しみを喚起させるものと言えるだろうか。1曲目の「Firework Girl」の5分半ほどのサウンドの中にも、多くの音要素が行き交い、リスナーの聴覚を尖らせるような華やかさと、これまでとは少し違う、刺さってくる印象が強い。今回、曲名も示唆深く、「Suburbia Tonight」や「Majestic Boring Day」など、含みが伺えるのも特徴だろう。

 おそらく、既存のファンが求める「Baby's Star Jam」ほどの曲が持つユーフォリアは、このEPではないと言ってもいいかもしれないが、EPとして締まった感覚を付与してくれるのは確かだ。特筆すべきは、試みとしては初めての歌詞が掲載され、唄声が加工されながらも、歌詞がしっかり綴られる6曲目の「Murmur On My Foot」だろうか。淡々としたビートに、まるで銀行のATMや電車、街中のあらゆるところで聞くことができる無機質なコンピューター・ヴォイスに乗り、描かれるもの。その歌詞は何故か、とても切なく、郊外感に沿っている。だから、「faraway girl」であり、現在のアーティスト写真で彼がスイカを持って、麦わら帽子をかぶっているのも「死んだ旧友に会いに行く」というコンセプトと言うだけに、このEPが持つ御彼岸感も分からないでもない。

《焦りも微妙、汗に変わり きっとまたまた元通り ときめく気持ちは忘れてないよ まだまだ平気、大丈夫 それではいつか この場所で 呟く街よ ごきげんよう》
(「murmur on my foot」)

 今作のアートワークを手掛けた漫画/イラストレーターのさべあのまの淡い雰囲気からも伝わってくるのは、デデマウスとしてまた、新しい始まりがあるという感覚でもある。『S Is For Space』―それがこれまでの彼に当てはまっていたとしたら、このEPはプラネタリウムという"作られた宇宙"とデデマウスのリンクの蝶番として機能するのではないだろうか。現場に足を運び、パフォーマンスを満喫し、その後にこのEPに触れたときに彼の意図というものが見えるという文脈で、プラネタリウムでの彼のパフォーマンスの体感を経て、透過できる作品でもあると思う。

(松浦達)

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LUKE ROBERTS.jpg 「ここではないどこか」へ聴き手を導く音楽を求める、待ちの姿勢は肯定されてもいいと思う一方、「ここにしかない何か」という、普段は見えていなかったことに気付かされる音楽を積極的に掴みに行く姿勢があってもいい。サーストン・ムーアとも交流を持つ、ナッシュビル出身、現在はブルックリン在住のシンガー・ソングライター、ルーク・ロバーツのセカンド・アルバムとなる本作『The Iron Gates At Throop And Newport』は、聴き手にとって「ここにしかない何か」に気付かされるものとしてある。

 誰もいない夕暮れ時の草原で、たった独り、ギターを弾きながら歌っている姿が目に浮かぶルーク・ロバーツのカントリー/フォーク・ミュージックは、静寂の中に潜んでいる大切な音を見付けだし、鳴らしているかのようだ。寂しさに溢れているが下を向いている音はなく、ハーモニカや女性コーラス、ピアノの調べが楽曲をわずかに彩り、冷たい空気をゆっくりと温めていく気配に満ちている。前作『Big Bells And Dime Songs』はバンド・サウンドを程よく強調した、本作と比べればフィジカルで重心を低く保った楽曲が多くを占めていた。しかし、この作品ではストリングスを取り入れているものの、シンプルに自分の声を届けようという姿勢がある。それゆえ、前作以上に人間味に満ちた飾らないルーク・ロバーツがここにはいる。特に「Second Place Blues」の静謐な奏では素晴らしく、か細くとも芯のある歌声と、鳴らされる音の一つひとつには彼の心情が刻印されていて、聴き手は自分の為だけに彼は歌っているという錯覚すら感じるかもしれない。

 そんな普遍性が宿っている本作が胸の深くまで染みわたるのは、彼の実体験にもとづく、家族や信頼というものは儚く、崩れる時はすぐさま崩れてしまう、あまりにも脆いものだということをひとつのテーマとして歌っているからだろう。そして、彼は付け加える。「あまりに脆くとも、家族や信頼とは、とても尊いものだ」と。尊いものの儚さ。それを繊細に、感情の震えとともに歌っているからこそ、ルーク・ロバーツの歌声は聴き手に響くのだ。真摯に温かさと哀しさを語りかけてくる音の数々は、「ここではないどこか」を鳴らさず、「ここにある大切なこと」を鳴らす。前作で自己を見詰めた末にたどり着いたのが本作だ。ニール・ヤングの『Harvest』やロン・セクスミスが好きな方には深く感じるものがあると思う。

 本当の意味で家族や信頼を大切にすることとは何なのかを訴えかけてくるこの作品は、ルーク・ロバーツが自分自身と向き合い、気持ちのもつれから生み出したものと言っていい。その苦悩を通過して彼が手に入れた音の鳴りには痛いほどの説得力がある。

 

(田中喬史)

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0.8秒と衝撃.jpg  《あきらめたその時から 僕らの目は白くなり 月影満ち 魔法みたいに 君と踊って笑う》(「ボンゴとタブラ、駆け抜けるリズム。」)

 アメリカの詩人で著名たるウィリアム・ブロンクが、基本的な「前提」に置いたものは世界の本来的な秩序、真理もないということであり、つまりは自明を自明とせず、危険に入り込むことに非合理たる合理を置いたゆえに、彼から見えていた世界はとても静謐なのだと推察できる気がする。何故ならば、彼の中に既に静謐の訪れがある訳であり、だからこそ、賑やかな孤独を全うする可能性を待備せしめるからだ。0.8秒と衝撃。の全てのソングライティングを手掛ける塔山忠臣氏の中にはブロンクに似た何かがある気がする。ツイッター上でのハチゲキ・ファンの過剰なまでのフック・アップと衝動的なツイート、ときに大言壮語に似たツイート。ただ、そこに連続線というよりはどうにも彼のTLに「賑やかな孤独」を感じるのは僕だけなのだろうか。

 2011年にリリースされたセカンド・アルバム『1暴2暴3暴4暴5暴6暴、東洋のテクノ。』で見せた幅広いサウンド・ヴォキャブラリーとその後のライヴ・パフォーマンスで掴み取っていった確実な集客の過程で、彼らはおそらく孤然たる状態と、思わぬ「孤独な賑やかさ」に巻き込まれていったのだと思う節がある。脊髄反射のように、捲し立てられる膨大な歌詩の量と"唄とモデル"担当の端麗なJ.M.嬢の佇まい、そして、一気呵成な様。「ワーキング・クラス・ヒーローになりたい。」という塔山氏の言葉もあったりもしたが、彼らの確固たる矜持と、巷間での評価の乖離内でまだ"色モノ"としての扱いも受けたかもしれないというバイアスは時おり感じたものの、この「バーティカルJ.M.ヤーヤーヤードEP」は一つの作品として、0.8秒と衝撃。がこれからを進むための一つの塚を作っておきたかった、とさえ察せられる音の重ね方と音響工作の妙、細部まで神経の行き届いたアレンジメントといい、意欲的な内容である。実際に、しっかりとしたステレオで聴くと、ノイジーで性急だけではない、相当に凝られたサウンド・レイヤーに唸らされる。

 塔山氏は以前、取材で《Mute》への偏愛を述べている。イギリスの老舗レーベルでも言わずもがな有名な存在であるが、例えば、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、スロッビング・グリッスル辺りのインダストリアル/ノイズ・ミュージックの歴史の水脈を持ったバンドが属しているのは言わずもがな、そこからDAFまでを架橋するボディー・ミュージック、伴っての身体反応がダンス方面での直結ではなく、「刺激」に到るサウンドに彼が魅力を感じたのはとても分かる。だからこそ、前作の段階でのアプローチは個人的に、ノイエ・ドイチェ・ヴェレ的な解釈が垣間伺えた。ただ、そこでのディレッタンティズムと貪欲にサウンド・ヴォキャブラリーを増やしてゆく途程で嚥下、咀嚼するまでの短い(と敢えて言うが)時間内で、ラフなもどかしさと狙ったような狂気性が表に出過ぎていた誤配と受け手の誤変換のディレンマもあった。また、ヒップホップ的というよりも、過剰にまくし立てる形式の男女のツイン・ヴォーカルの共層には、踊り念仏的な背景も思わせた。補足しておくに、決して宗教的な意味文脈ではなく、無論、隠喩として捉えてほしいが、念仏とそれを受け取る側にトランシーなものは、基本は、ない(頭の中ではあっても)ものだったが、一遍(いっぺん)はリズムと念仏で身体性への「刺激反応」を促した。となると、彼らの前作での試みはダンス、パンク・ミュージックの遂行条件を果たすのではなく、過度にリスナー、もしくは自分たちに刺激(ビート)を埋め込むための路だったと言えるなら、このEPでは洗練と混沌を反応刺激という錯転から求められた空気感がある。

 この5曲(初回盤にはthe telephonesの石毛氏の「ラザニア」のリミックス盤が付いている。)の振り幅はこれまでになく、広い。現在の最新のアーティスト写真のポップネスと相応するように、先行で限定公開されていたPVの二曲目に入っている「ラザニア」ではバウンシーに撥ねるリズム、ロボ声、語呂合わせ的な歌詞までの拘りとシンセ、電子音の支え方まで拓けたニューウェーヴ的な印象を受ける。だが、一曲目の「NO WAVE≒斜陽"」のタイトルが示すように、1970年代末のNYのアンダーグラウンド・シーンの断片を切り取ったといえるブライアン・イーノが企画したオムニバス・アルバムにして時代の裂け目を表象した『No New York』の因子が根付いている。アート・パンク、ジャンクの一歩前で計算されたオルタナティヴなサウンドが詰まった、そこにはかの今では多面的な方面で活躍するアート・リンゼイが属していたバンドDNAやコントーションズなどが逸脱の美学を魅せていたものだ。この古典から受け取ったイメージを、この曲では現代的なアレンジメントと起伏を付加し、カオティックにギターを重ね、景色を鮮やかに塗り上げる。

 ここで、「コーピング」というフレーズを想い出してみる。臨床心理学で時おり用いられる概念で、ヒトを揺さぶるような出来事、持続的に疼痛を起こしている出来事に対して最初は抗っているが、やがて、その抗いの中でそれに対処を見出すために、虚構的に自分自身の瀬戸際の戦略を編みだしてゆくという営為。だから、「≒」があり、「NO WAVE」と「斜陽」と大文字のタームがかろうじて接合されつつ、ストラグルの果てに《エブリバディ、黙ってないで 狂ってる場合か 生きてるか?》(「NO WAVE≒斜陽"」)と他者性への問いよりも自問自答みたくエコーする痛みに裂かれる。塔山氏自体のパラノイアックな部分と確実にシャーマニックな歌唱の強さを持ったJ.M.嬢が鬩ぎ合うスリリングさがあり、音楽的な意味では違うものの、ザ・キルズなどの男女混成ボーカルが魅せる辺りの頽廃の品格も忍ばせる。マッド・サイエンティストが成し得た加速感の裏にはPILもマーク・スチュアートの残影も確かに掠める。コンテンポラリーでは、スレイ・ベルズなどとの共振も見え、ノスタルジックな遺産に囲まれているばかりではない頼もしさもある。

 なお、今作で最初に出来た曲で、塔山氏自身も納得しているという3曲目の「ボンゴとタブラ、駆け抜けるリズム。」は、一聴、これまでの彼らの18番のような曲のようで、ジャーマン・プログレッシヴ・ロックの萌芽への距離感が可視化出来る。同時に、曲名にあるように、ボンゴ、タブラのトライバルなリズムが立体的に音像を膨らませている。そして、4曲目の「あなたがここにいてほしい」はポリシックスのような電子音がアクセントになったスピード感を持ったまま、最後となる5曲目「大泉学園北口の僕と松本0時」では、ブリティッシュ・サイケ・フォーク沿いにセンチメントをなぞる。このバランスだから、EPという形態を取れたのだとも思わないでもない。そして、このバランスでEPというフォーマットで世の中にリプレゼントすることで、おそらく次のフル・アルバムでのバズに備えていこうとする自分たちへのプレッシャーにもしていると推測できるだけに、まだ飛躍し続ける0.8秒と衝撃。のポテンシャルを探るための待機作ではないだろうか。

 最後に、このEPを聴くと、曲名に含まれた「斜陽」に引っ張られた訳ではないが、太宰治の掌編『待つ』の女性を想起させる。誰かを待ちながらも、誰かの訪れを待つという訳ではないこと、しかし、確約たる未来を待つよりもずっと真っ当な待ち方。彼らはこのEPで更に待たせる人たちを増やすことになると思う。期待か不安かは明言せずとも。

《OK 僕だけ FOLLOW ME》(「ラザニア」)

 

(松浦達)

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赤い公園「ランドリーで漂白を」.jpg 赤い公園の歌は、抽象度が高い曖昧な詩的言葉ではなく、リスナーのなかに明確な景色を創造する言葉で綴られている。例えば、「透明なのか黒なのか」収録の「塊」は、《お前が見てるのは 羽織ものにくるまった 三十六度のKATAMARI》といった一節からもわかるように、"お前" "私" "あなた"といった人称を随所に上手く挟むと共に、抽象度が低い具体的なキーワードを織り込むことで、リスナーを曲の世界観に引きずり込んでいる。

  一方で、言葉に対する執着は、あまり感じられない。極論を言えば、さだまさし「北の国から~遥かなる大地より~」よろしく、鼻歌だけでも、赤い公園の音楽は成立しえるものだ。かつてモグワイは、「僕ら、政治的なバンドなんだ」(ロッキング・オン1999年5月号のインタビューより)と発言したが、モグワイの音楽には、具体的なキーワードとしての言葉は存在しない。だが、そんなモグワイから政治性を嗅ぎ取ったマニック・ストリート・プリーチャーズは、モグワイと共にツアーを回り、それをリスナーもすんなり受け入れたことからも、言葉なき音楽が、メッセージ性が強い言葉としてリスナーに受け入れられることは明白だ。だからこそ、自身の声を加工し、匿名性に身を潜めるジェームズ・ブレイクが鳴らす、"聴き手という主体"が反映される"非言語的空間"を志向する音楽が受け入れられる。

 そして、"聴き手という主体"が反映されやすい言葉を歌っているという意味では、赤い公園も"非言語的空間音楽"を生み出す資質が備わっていると言えるが、彼女達はあくまで、みんなのうた的な、わかりやすいキャッチーなポップ・ソングを作ろうとしている。しかし、そのポップ・ソングは、絶望的にぶっ壊れている。どんなに甘かろうと、どんなに叙情的だろうと、どんなに親しみやすかろうと、彼女達が生み出すポップ・ソングには、必ず不協和音やノイズが混ざってしまう。この事実を、ポップ・ソングを作る才能がないことの証左と取るか、言葉という器には収まらないほどの膨大なエネルギーを抱えた、とてつもないバンドであると捉えるかによって、赤い公園に対する評価は変わってくることを、前作よりもいささかポップ寄りになった「ランドリーで漂白を」は、明らかにしている。

 本作を聴いてあらためて思ったのは、彼女達が相対性理論顔負けの綿密な演奏技術とバンド・アンサンブルを持っていること。初聴して抱いた印象は、「相対性理論じゃん!」だったりする。そして、彼女たちが本作で明らかにしたもうひとつの顔は、自分達は壊れていると自覚しながらも、あくまで真っ当なポップ・バンドを目指しているということ。だが先述したように、彼女たちのポップ・ソングは、一般的とされるそれとは程遠いぶっ壊れたものだ。そして、彼女たちをより個性的なバンドたらしめている言葉についても、ぶっ壊れていると言わざるをえない。とはいえ、グロテスクな言葉が多かった前作と比べたら、本作は現実に寄り添った言葉をチョイスしている(赤い公園にしては、だが)。それでも、《私は私を殺してやりたくなるのさ》というフレーズが、衝撃的にカットインされる「何を言う」が本作を締めていることからも、真っ当になりきれない彼女たちの本質が窺える。

 しかし、真っ当である必要はないと、筆者は考える。直線的な感情が重視され、言葉がぞんざいに扱われがちな今だからこそ、赤い公園のように、衝動を言葉で伝えようとする存在が必要なのではないだろうか。正論が必ずしも道を切り開くとは限らないように、彼女たちのぶっ壊れたポップ・ミュージックは、我々の感覚を拡張し、新たな領域に辿りつく可能性を秘めている。

 かつて細野晴臣は、「言葉が仮死状態にあった」と語り、インストゥルメンタル・ミュージックを選び取った。この選択は、後のYMO結成に繋がるわけだが、そのYMOの影響を受けているテクノも、言葉ではなく音で語る音楽だ。不思議なことに、速すぎるテクノロジーの発達に追いつこうとするとき、我々は言葉ではなく、音で語ることを選んできた。言語は、感覚の代弁であるという点において、タイムラグからは逃れられない宿命にあるだけに、先人たちの選択は妥当だと言える。

 そして現在、ツイッターやフェイスブックといったSNSが一般層に広まりつつある今、テクノロジーの発達や、行きかう情報も加速度的に速くなっている。それによって我々の感情も、目まぐるしく変化し、過剰な混乱をきたしている。その過剰な混乱を手っ取り早く処理できるからこそ、脊髄反射的メディアであるツイッターが日本でも定着した。だが赤い公園は、意味が説明できないでいる"もがき"に身を置きながらも、過剰な混乱を手っ取り早く処理せずに、歌が伴うポップ・ソングに昇華しようとしている。そういった意味で赤い公園とは、美しい混乱の芸術である。

 

(近藤真弥)

 

 

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HILARY HAHN & HAUSCHKA.jpg 例えば、国内盤のCDを買った際に付属の帯部分にジャンル説明がついている。ROCK、POP、更には今だとパソコンなどで読み込ませた時にもジャンルは出てくるが、この作品でまず驚いたのが、国内盤の帯にしっかりと"ポスト・クラシカル"と記されていることだった。ただ、パソコンに取り込んだときは"Classical"と名称されたのだが。

 昨年辺りから趨勢してきたポスト・クラシカルとは、ジャンルとして定義付けするには曖昧で、しかし、明らかにそうとしか言いようのない現代音楽と古典音楽との折衷、更にはポスト性でもって、新しい刺激で耳や身体を揺さぶるものがあったのは確かだ。その代表格の一人として、ドイツの彼の故郷、デュッセルドルフをベースに活動するフォルカー・ベルテルマンことハウシュカの存在は欠かせないだろう。1940年にジョン・ケージが考案したと言われるプリペアード・ピアノを軸に多様な楽器を詰め込み、繊細な叙情と決して過度にハイ・ブロウ振り切らない形でのサウンドデザインを固めていきながらも、今のところのハウシュカ名義の2011年の最新作『Salon Des Amateurs』では、ダンス・ビートが撥ねる間口の広いものであった。また、アルバムのタイトル名もデュッセルドルフに実在するクラブにインスパイアされたというのも興味深く、キャレキシコやムームのメンバーも参加しているというクロスオーバーな内容だったのも記憶に新しい。本人も、取材ではエリック・サティ、スティーヴ・ライヒからジョン・ケージといった現代音楽の大御所の名前を挙げながらも、クラウトロックからの影響、ノイ!、クラフトワーク、カン、クラスターなどの名前を挙げ、敬慕の念も示している。そう考えると、やはり、ポスト・クラシカルという言語的に裂かれたジャンルはエクスペリメンタル・ミュージックの別名でもあり、ただの前衛音楽ではないという証左がよく分かる。

 ちなみに、プリペアード・ピアノとはピアノに弦や木、ネジなどを挟み、のせることでピアノの流れをビート的(打楽器的)にし、ときに金属で独特の音を得るもので、大事なのは混ざってくる「雑」音ともいえる。そのハウシュカは近年、プリペアード・ピアノ奏者としての側面より作曲家、編曲家の側面が強くもなってきたが、このヒラリー・ハーンとのコラボレーションでは粛然と、プリペアード・ピアノ奏者の顔を見せている。

 アメリカ人ヴァイオリスト奏者のヒラリー・ハーンは、クラシック・ヴァイオリン界隈でも屈指の実力と人気を誇る。ゆえに、クラシックというジャンルでヒラリー・ハーンを見ていた人も、ハウシュカをポスト・クラシカル沿いに見ていた人もこのコラボレーションにあたっては、いささかの驚きと歓びをもたらすのではないか、と思う。

 二人の筆によるセルフ・オリジナル・ライナーノーツによれば、このアルバム名『シルフラ』とはアイスランド、レイキャヴィーク郊外にある北米大陸とユーラシア大陸のプレートの境界の境目であるとのことであり、シルフラは単なるプレート境界ではなく、二つの実在が出会う裂け目のような印象だと記しているが、その通りであり、準備に実に2年もの歳月を要し、セッションを重ね、納得のいく段階でスタジオに入り、録音された曲が詰まっている。録り直し、オーバー・ダヴィング、修整のないまま、それでも、静謐と穏やかな昂揚を行き来するサウンドには息を飲む。

 序曲のような1分45秒の1曲目「Stillness」では、早速、独特の実験が為されている。高音域のヒラリーのヴァイオリンとハウシュカがピアノ弦にE-bow(ギター用アタッチメント)で触れ、出した音で幽玄な震えを醸し、そのまま、2曲目の「Bounce Bounce」では曲名のように、軽やかに突き進んでゆく。ハイライトは、5曲目となる「Godot」だろう。サミュエル・ベケットの戯曲たる「ゴドーを待ちながら(En Attendant Godot)」がすぐに想起されるが、あの不条理劇よりも12分30秒ほどを使って展開される緩慢な音の変化と漣、更にはテンションはインプロヴィゼーションで垂れ流されるようなアーティスト・エゴではなく、計算されたかのような設計図が浮揚する。ヴァイオリンのストイックな響き、ハウシュカの醸すノイズ、静けさ、ふと性急になる展開まで、一気に持っていかれる。ドラマティックに雄大にじわじわと進む訳ではない、ゆえに、そこに二人の美学のアイ・コンタクトが見える。エレガンスと自由が拮抗する7曲目の「North Atlantic」、ヒラリーのヴァイオリンが雄弁に語る10曲目の「Sink」といい、おそらく、クラシックにもポスト・クラシカルという分野にも疎いリスナーでもすっと入り込め・髢F醇な音楽の奥行きを魅せる。

 インスタントに消費されてしまう音楽やカテゴライズの中で行き詰っている音楽が多い中で、このコラボレーションは一つの風穴になり、メルクマールになった気がする。ポスタル・サービスも愛好しているというオルタナティヴ・ロックの世代でもあるヒラリーと、プリペアード・ピアノの飽くなき可能性を追求してきたハウシュカがしっかり組んだ今作の後ろには、多くの先達のエッセンスが含まれている。ギドン・クレーメルから、モートン・フェルドマン、ときにアイスランドで録音したというのもあり、シガー・ロスまで。ポスト・クラシカルは過渡期に来ていたのかもしれないが、もし、本当にポスト・クラシカルという名称がそのままで響くならば、この作品のようなことを言うのではないか、と思う。現在進行形で音楽は過去の歴史への畏敬を示しながら、ジャンルなどを交叉し、まだまだ可能性を拡げる。非常に悠然たる好奇心に溢れた内容の一枚になった。

 

(松浦達)

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DAMON ALBARN.jpg 1990年代半ばのブリット・ポップ・ムーヴメント、"クール・ブリタニア"とは何だったのか、と鑑みると、浮かび上がってくるバンド群、メンズウェア、ジャグアー、エラスティカ、スーパーグラスなどのバンドが「第三の道」を掻い潜りながら、ブランディング戦略の一環と捉えてもいいのだろうが、階級制度がどうにも厄介な場所で、ブラーとオアシスがセールス・パワーで並べられたり、スウェードの頽廃が受容されたり、不思議な時代でもあったのが見えてくる。

 そもそも、ブラー(Blur)、日本語では「曖昧」と訳せるバンドが公園生活(Park Life)をおくることが出来た時代に、まだ余裕のあるポップを視ることが愉しかったのだろうか。「これは、ロウなんだ(This Is A Low)」と云う前に、彼らは『The Great Escape』という作品をして、シーンの渦中からの脱走を試み、精緻に失敗する。その真ん中に居たデーモン・アルバーンというアーティストはシニックながらも、生真面目でピーター・ガブリエルのようで、ときに熱心な実験家の側面があった。だから、ブラーとしては、1997年にアメリカン・インディー・シーンに接近・参照し、シカゴ音響派辺りとリンクしながらも、自らを「Beetlebum(寄生虫)」とのたうちまわり、"Woo-Hoo Song"こと「Song2」で、ついにはUK枠の鎧を抜け、世界的にオルタナティヴなバンド、その中での一人のイコンとしての役割を得ることになるのは皮肉でもあった。

 ギターのグレアム・コクソン、ベースのアレックス・ジェームス、ドラムスのデイヴ・ロワントゥリーの鉄壁たるメンバーに挟まれながら、フレッド・ペリーのポロシャツで叫ぶデーモンの00年代とは、流転とアンテナのシビアさがあちこちに向いた時間になったのは周知かもしれない。2002年に、デーモンはマリへ行き、現地でのレコーディングを試み、相応の成果を得た。西洋から異郷への架け橋にバイアスが掛かるのは言わずもがなだが、まるで、デヴィッド・バーン、ポール・サイモンみたく、彼はその橋を渡り、更にはヴァーチャルでありながらも、記名的かつ匿名的にワールドワイドに受容されたゴリラズでのジェイミー・ヒューレットとの絡み。スクリーン越しに影は見えても、本人が居なくても「在る」という今の時代を見越したようなプロジェクトは世界中で喝采を受けたのも大きかった。「設定」の幅でこそ、決められるエンターテインメント。

 デーモンという多感で可塑的なアーティストは、そういったことを周到に計算できる一人だった。僕も行ったが、2008年のUKのハイド・パークでのリユニオン(まさに、「Park Life」が生まれた公園)のライヴでのブラー名義でのデーモンは、盤石にブラーのメンバーを描いてみせた。しかも、セカンドの『Modern Life Is Rubbish』からの曲を多めに。ふと、後期の「Tender」でのゴスペル・ソングでのシンガロングも入れながらも、冷静なジャッジのパフォーマンスで、アンコール・ラストの漆黒の夜空に消えた「The Universal」まで彼らなりの島国(UK)から国境を越えて、せめて世界へと届くように、そんな切実も見えた。目の下の隈と少し肥り気味のグレアム、アレックスの煙草、相変わらず伊達な佇まい、デイヴの朴訥といい、デーモンはその中でも過去の青さより自らの加齢に向き合い、軽やかなブリット・ポップの季節の唄をなぞっていた。

 ブラーとしては、今年、2012年の8月12日にハイド・パークにてロンドン五輪での閉会行事でのヘッドライナーとしてのギグが決まっている。そんな中、デーモンの個人名義で2011年に初演されたオペラである『Dr Dee』に応じたサウンド・テーマに収斂した作品が上梓された。

 あくまで「英国」をベースに、16世紀のエリザベス1世の顧問、学者、魔術師であるジョン・ディー博士の生涯自体をモティーフにしたもので、決して華やかな作品ではない。デーモンの異国趣味は今に始まったことではなく、トニー・アレンと組みつつ、2011年のDRCミュージックなど挙げるまでもなく、幅広い動きを見せているが、この作品も18曲内で幾つもの横顔を見せる。

 壮大なオーケストレーション、彼の程好く枯れた声がしみじみと響きながらも、サイモン・アンド・ガーファンクルのような叙情をもたらす2曲目の「Apple Carts」、バロック音楽の深みからオペラに相応しい曲、5曲目の「A Man Of England」のタイトルに伺える、劇内で映えそうなものまで、贅沢な振れ幅には唸らされるのとともに、彼の名前が付いていなければ、おそらく「現代音楽」の棚に置かれるのであろう優雅な風情を持った内容に着地している。デーモンというアーティストが脈々と繋がるクラシカルな音楽の歴史に対峙したとしては興味深く、ポスト・クラシカル系のアーティストが仄かに身体機能性へシフトする中、彼は自分自身の屋号とは別に大文字の「オペラ」への距離感を保つことで、古典への降下を試したといえる。

 つまり、『Dr Dee』でのデーモンは現代音楽家としての彼であり、余計な尾びれやバイアスは要らないのだと思う。ポストもなく、クラシカルで真面目な作品が今、ドロップされたというのは面白い。曖昧(Blur)の中でもがいていた彼は今、一つの軸を置いた。

 

(松浦達)