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柴田聡子.jpg 最近"言葉の力"についてよく考えている。"言葉の力"と言っても、解釈は人それぞれだと思うが、ここ最近のシンガーソングライター、例えば青葉市子ィエィエなどは、たくさんの言葉を使い、言葉では説明しづらい感情や気持ちに少しでも近づこうとしている。つまり、日々を過ごすうえで心に積もるモヤっとした"ナニカ"を知るための手段が、"言葉の力"であると捉えている節がある。面白いことに、言葉が"ナニカ"に迫ることで生じるダイナミズムは、先述のふたりを含めた新世代のシンガーソングライター達に共通するものだ。そして、そんな新世代のシンガーソングライター達が支持されているのは、直線的な言葉では説明できないものに対し、歌と音で真摯に向きあっているからではないだろうか。

 我々は、言葉で説明しづらいものを他者に伝えるとき、より多くの言葉と知識を求め、頼り、結果として「理解できない」と言われてしまうような言葉で表現しがちだ。このこと自体はもちろん悪くはないが、それでもより多くの人に伝えたいがため、言葉では説明しがたい"ナニカ"をあえて分かりやすい言葉で表現しようと挑む者達がいる。この"者達"に当てはまるのが、新世代のシンガーソングライター達であり、その"者達"の姿勢は、ある種のハードコア精神と呼べるものである。

 柴田聡子。彼女もまた、人の曖昧模糊な領域に迫るアーティストのひとりと言える。高知在住の彼女は、都内のライヴ・ハウスを中心に活動し、徐々に注目を集めていったアーティストだが、音楽活動を始めたのは2年前だそうだ。このことを知ったのは、彼女が自主リリースした「2011、夏のデモCDR」を聴いて、彼女についていろいろ調べたとき。ルックスも手伝って、「クラスで目立たない娘がギター持って歌ったら凄かったみたいもんかな?」と思ってしまうくらい(すみません柴田さん)、彼女の早熟ぶりには驚かされました。ただ、彼女の音楽を聴けば、その才能に惚れるのは当たり前ってなもんで、山本達久(NATSUMEN)、須藤俊明(ジム・オルーク・バンド)、植野隆司(テニスコーツ)などの錚々たるアーティスト達が参加していることからも、彼女の才能がどれだけ愛されているかわかるというもの。

 柔らかな響きを持つメロディー、聴き手の心を解きほぐす歌声、豊穣な感性が宿る歌詞、そのすべてが輝いてますからね。特に歌詞は、「カープファンの子」に代表される、焦燥を笑い話のように歌うユーモアが大半を占める一方で、《彼女の頭の中には使いもしない未来がいっぱい/こんな星に生まれてきて損したな》(「芝の青さ」)といった、聴き手の心を抉る鋭い言葉を潜ませるセンスが本当に素晴らしい。

 そんな彼女の詩的才能が迸る本作は、シンプルかつアコースティックなポップ・ソング集で、お世辞にも派手なアルバムとは言えないが、本作のようにキラキラとした小さな歌が、もっと多くの人に聴かれることを心の底から願っている。

 

(近藤真弥)

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FRANKIE ROSE.jpg 元ヴィヴィアン・ガールズのメンバー、ブルックリン在住のフランキー・ローズのセカンド・アルバムである本作『Interstellar』。それは彼女自身が恐れることなく新たな自分を発信していこうとする意思が窺える。ドラマーだった彼女はスティックをギターに持ち替え、時に静かに、鋭く鳴らし、自分を自ら更新した。クリスタル・スティルツやダム・ダム・ガールズを渡り歩いたことから窺えるように、傍観することより体験したことが反映された作品になっている。

 バンドを渡り歩いたことで「ファズに魅力を感じなくなった」という彼女はノイズへの執着はなくなり、シンセ・サウンドと歌声を軸としたドリーム・ポップに通じる浮遊感の甘美な揺らぎを楽しむような楽曲を展開する。ローファイな感触を溶け込ませながらも静謐な音響美。ライヴ感とドリーミーなシンセの音響の狭間に立って、彼女は静かに歌声を溶け込ませる。豊かに跳ねるドラムとベースの上をシンセがふわりと広がり、都会のムードが曲を覆う。「Gospel / Grace」の平熱でありながら走り抜けるギター・サウンドの輝きが聴き手を照らし、ネオアコ風のメロディに意識を奪われそうだ。しかし、夢見心地という言葉が浮かんでも、地面をしっかりと蹴っているリズムが夢からの覚醒を呼んでいる。

 それらは前作『Frankie Rose And The Outs』にもあったが、本作ではプロデューサーにパッション・ピットなどのリミックスを手掛けたLe Chevを迎え、洗練されたサウンドが次々と優美に舞うように溢れ出る。洗練といっても刺の無い滑らかなサウンドだけではなく、わずかに歪んだチルウェイヴと言ってもいい本作は、チルウェイヴとの摩擦が生じる作品だ。「気持ち次第で現実は美しく見える」という常套句を迂回しながら鳴っているサウンドは、結果的にチルウェイヴへのカウンターとも受け取れる。そして本作は聴き手にリアクションを託している。「エスケーピズムだけでいいの?」と。もちろん否だ。

 トロ・イ・モアが脱チルウェイヴを図ったのはジャンルに縛られたくないという意思が少なからずあるのだろう。だが、フランキー・ローズのようにチルウェイヴの文脈で語られないアーティストがこういった作品を創作するのは現象として興味深く、音楽にエスケーピズムをゆだねる時期は既に過ぎたのではないかと感慨にひたるものがある。

 

(田中喬史)

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Slow Magic『▲(Triangle)』.jpg パフュームのほうも良いですが、スロウ・マジックの『▲(Triangle)』も良い。というわけで、バンドキャンプをキッカケに、世界中の早耳ブロガーの間で話題となっていた正体不明のアーティスト、スロウ・マジックのファースト・アルバムが本作である。

 本作は、サン・グリッターズ『Everything Could Be Fine』のリリースで話題となったポルトガルのレーベル、《Lebenstrasse》からの作品ではあるが、ウィッチ・ハウスの影響下にあるサン・グリッターズとは違い、キラキラ・シンセ・ポップとなっている。コンプでガツンと潰した極太ビートに、不気味さとは正反対のスクリュー・ボイス、そして瑞々しい輝きを放つピアノなどは、昨今盛り上がりを見せるドリーム・ポップそのものである。ハッキリ言ってしまえば、斬新さは皆無だし、シーンを揺るがす先鋭性もない。それでも本作が注目に値するのは、あまりにも無邪気すぎるその快楽主義が所以である。

 先述したように、本作には斬新さも先鋭性もないが、そのかわり、自分の好きな音楽的要素を接合し、一聴しただけで聴き手を惹きつける、キャッチーなポップ・ソングに昇華している。それはパスティーシュ、つまり他人の作風を模倣した音楽などではなく、確実に"スロウ・マジックの音楽"として鳴っている。その音楽には、小西康陽が持っていた新しい音楽は生まれえないという諦念はまったくなく、むしろ完成されたフォーマットでも、自分の解釈を通せば新しいものが生まれるのは当たり前といった感覚が、本作の根底にはある。それはカインドネスなどのモダン・ポップ・ミュージックの旗手が持っている、優れた審美眼に支えられた編集能力と同様のものだ。

 また、シカゴのローカル・ミュージックだったジュークが、ネットを通じてここ日本やイギリスに影響を与えているように、デジタルな繋がりが思わぬ文脈を生み出すようになったのは、本当の意味で"新しい"と言えるが、スロウ・マジックも、いまだアンサインドであるビート・カルチャーとのコラボ曲「Once」を発表するなど、ノマド的活動を展開し、SNSなどによって、従来なら繋がるはずがなかった人と繋がり、交流を深めるといったことが日常茶飯事になった今を楽しんでいる。そうした現状において我々は、どこまでも広がる無限的繋がりの可能性を内に秘めているし、その可能性をスロウ・マジックは、ポジティヴに肯定している。だからこそ、スロウ・マジックが鳴らす音楽には、可能性という名の希望が満ちているのだ。

 

(近藤真弥)

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DR JOHN.jpg ミュージシャンの作り出す音に対して、我々聴き手が100%満足することはほとんどないと言えるだろう。それだけならまだしも、「もっとこうだったらよかったのに」「ここはこうするべきだ」などといったことまで考えてしまうことも数多くある。その気持ちは、自分が愛するアクトの作品に対してはより一層強いものとなる。

 ザ・ブラック・キーズのダン・オーバックも、ドクター・ジョンに対してやはり同様の想いを抱いていたのではないだろうか。そしてその過剰な想いをアルバムという形で具現化するため、彼はニューオリンズ・ミュージックのレジェンドであるドクター・ジョンの新譜のプロデューサーを名乗り出たのではないだろうか。そして、そんな彼と彼の率いてきたバックバンドが鳴らす音が指し示す先にあるのがこのアルバム『Locked Down』だ。このアルバムについて考えるために、ドクター・ジョンの音楽を大まかに振り返ってみようと思う。

 ドクター・ジョンといえばまず挙がるアルバムは、『Dr. John's Gumbo』だろう。ここには彼がそのキャリアを通して一貫して敬意を抱き続けるニューオリンズ・サウンドへの愛情が詰まっている。レイ・チャールズをはじめとして、プロフェッサー・ロングヘア、アール・キング、ヒューイ・スミスなどのカバー曲が収録されており、R&B、セカンド・ライン、ジャズ、ブルーズ、ラグタイムが混ぜ合わされた、多彩な音楽性と陽気なヴァイヴスがこのアルバムの中に同居している。ヨーロッパからの移民、周辺農村からの黒人たちの訪れなどが頻繁に起こっていたニューオリンズにおける文化の交流によって生み出され醸成されたサウンドが、ドクター・ジョンの手により、洗練された形で世界にその存在を知らしめた。

 そしてもう一つ、ドクター・ジョンの音楽について触れなければいけないことがある。それは移民たちが持ち込んできたブードゥー教である。ドクター・ジョンにはデビュー当時から、ブードゥー教への執着があった。そもそもドクター・ジョンという名前は実在したブードゥー教の呪術師の名前だという話だし、彼のデビューアルバムは『Gris-Gris』(グリ・グリ=ブードゥー教のお守り)である。このアルバムには『Dr. John's Gumbo』の雰囲気とは全く異なった、ヘヴィなサイケデリアに満ちたディープなサウンドがある。怪しげな女性のバック・コーラス、荒々しく鳴り響くパーカッション、地を這いずり回るようなベース・ライン、呻くようなドクター・ジョンのヴォーカルが作り出す世界観が聴き手を圧倒する。『Gris-Gris』ほど濃厚ではないにしろ、ドクター・ジョンのキャリアのあちこちでこのブードゥー的な要素を聴くことができる。

 この二つの(と言っても完全に切り離せるものではないが)要素を念頭に置きながら本作『Locked Down』を聴くと、この作品は『Dr. John's Gumbo』よりも、『Gris-Gris』のサウンドに焦点を当てて作られているように思える。しかし、ダン・オーバックと彼が率いるミュージシャンたちは、あの重厚で粘り気のあるサイケデリアをそのまま鳴らそうとはしなかった。

 本作におけるサウンドからは、確かにブードゥー的なものを感じることができ、パーカッションやSEの用い方、奇妙なギターエフェクトからそれを察することが可能であるが、それら一つ一つがきわめてクリアな目的性を持って鳴り響いており、『Gris-Gris』にあった不透明な不気味さはここには存在しない。このクリアさは、ダン・オーバックたちが思い描く「こうあってほしいドクター・ジョンのサウンド」を鳴らしているからこそ出てくるものであるといえる。つまり、それが本当にブードゥー的であるかはどうでもよく、ブードゥー的な側面にこそあったドクター・ジョンの良さを極限まで引き出そうとしていたからこそのクリアさではないだろうか。冒頭の「Locked Down」のウッド・ベースのうねり、「Revolution」の力強いホーン、「Kingdom Of Izzness」の呪術的なキーボードはすべてが「理想のドクター・ジョン・サウンド」という一つの目的地を目指しており、このアレンジの細部にまで宿るクリアなアクセントがポップネスをもたらしている。

 このアルバムに漲る強烈な緊張感とフレッシュな躍動感は、ダン・オーバックたちの持つ1つの志向性を持った強い想いと、それを真正面から受け止めたドクター・ジョンの度量が生み出したものだ。そしてそこで生まれたサウンドはドクター・ジョンという男の歴史上には見られなかった、しかし間違いなくドクター・ジョンのサウンドである。こうした世代を越えた出会いが、72歳にもなるベテラン・ミュージシャンに新たな輝きをもたらしたことは非常に喜ばしい。

 最後にひとつ。このアルバムでドクター・ジョンは様々な表現で世界を呪っている。しかし、聴いている最中そのことには注意がどうしても向かなかった。それはひとえに、このアルバムのサウンドのおかげだろう。彼の吐き出す、警告、不満、憂いはすべてサウンドの力強さによってかき消されてしまい、聴き終わった後に残るのはすがすがしいまでの爽快感だ。そして、それはドクター・ジョンも同じだったようだ。彼は最後の曲「God's Sure Good」でこう歌っている。

《神は教えてくれた 人に干渉しない生き方を 心から感謝している 与えてくれた生きがいに より良い道、より良い日 神は知っている、俺は大丈夫だと 神は確かにいいものだ》

 

(八木皓平)

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JUNIOR HIGH.jpg エレクトロ・ポップの優等生的なユニットが、《Tapete》より1stフル・アルバムをリリース。同じく優等生的なジェイムス・ユールのように、ラップトップとアコースティック・ギターを駆使するモダンさはない。彼らは、80年代のファンキーなテイストに強く影響を受けていることを公言し、プラスチッキーなサングラスをかけてみたり、アーバンでカラフルなシンセを二人で鳴らしてみたり、「Fly Away」と囁いてみたり、子供に「イエー!」と言わせてみたり、そう思えば複雑な構成をさらっと用いてみたりと、好奇心をくすぐるなにやら楽しげなユニットである。

 そもそも本盤は、「鏡の前で踊る13歳の自分達に捧げた楽曲」が詰め込まれたアルバムであるそうで、当時カセットで聴いていたと言うザ・ポインター・シスターズ、ホイットニー・ヒューストン、映画『セント・エルモス・ファイアー』のサントラ(デイヴィッド・フォスター作曲)、プリンス(1曲目のヘンテコさは、確かにプリンス風だ)などのアーティストへのリスペクトなしには語れない作品である。USインディーらしいダンサブルなグルーヴ感も残しつつ、アルバムを司るのは80年代のファンキーなそれである。

 ベルの音色や深いエフェクトをかけたドラムがドラマチックな「My Number One」は、ロイ・オービソンの楽曲から、長いシンセのソロと独特なリズム感が印象的な「Shufflin' The Cards」はスティーリー・ダンから(元ネタは『Can't Buy A Thrill』内の「Reelin' In The Years」であろう。ベース・ラインがそのまんま!)、そしてEPの1曲目を務めた「PSA」は、マイケル・ジャクソンからアイデアを拝借している。そういったネタバレをオフィシャルで嬉々として語りながらも、最後の一文に「ジュニア・ハイは正直者で、キャッチーなのだ!」と付け加えてしまうところから、人間的にも魅力ある二人組なのだろう、という好奇心をさらに掻き立てる。

 

(楓屋)

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kindness『World You Need A Change Of Mind』.jpg 90年代以降、DJカルチャーが一般化することで、音楽はリスナー優先のものとなった。歴史/文脈の再構築を伴うDJという行為は、"音楽の聴き方"を変え、リスナーに"DJ的感覚"を植えつけたのだ。こうしたリスナーの変化に反応して絶大な支持を得たのが、ストーン・ローゼズである。ストーン・ローゼズは、DJカルチャーから学び取った知識をバンドのアティチュードに変換し、ステージで体現することで、「90年代の主役はオーディエンスである」という精神にたどり着いた。

 その精神は、LCDサウンドシステムことジェームズ・マーフィーに受け継がれる。LCDサウンドシステムは、『LCD Soundsystem』『Sound Of Silver』『This Is Happening』の3作すべてにおいて、一般的とされる文脈よりも、リスナーとして築きあげた自身独自の文脈を反映させている。そんなジェームズの本質がもっとも表れているのは、全能感に満ちた「Losing My Edge」の歌詞。音楽史のハイライトが次々と語られるその歌詞は、ポスト・インターネット世代によって盛り上がりを見せる、USを中心とした現在のインディー・ミュージックの出現を予言していた。ちなみに弊誌編集長の伊藤英嗣は、「Losing My Edge」を「クールな出来事やアーティスト名を列挙して、知識をひけらかしているふうでもまったくない。ただ、方向性の定まらないエモーションだけが渦巻いている」と評しているが、筆者も同じような印象を、カインドネスことアダム・バインブリッジによる『World, You Need A Change Of Mind』に対して抱いた。

 とはいえ、「方向性の定まらない」という部分は、本作に相応しくないだろう。過去にチャートを賑わせたような往年のディスコ、R&B、ファンクに極めて近い曲の構成と、全盛期のジャム・アンド・ルイスを想起させる洗練された無駄のないサウンド・プロダクションは、アダムが意識的に最良のフォーマットを選び取った結果である。カシアスのフィリップ・ズダールによるプロデュースも貢献度は高いが、機能的なインディー・ダンスが多い本作のなかで、ジャジーな「Bombastic」が浮いていないことからも、本作はアダムの確かな審美眼に支えられ、成立していることがわかる。

 さらに、シェレールとアレクサンダー・オニールによる「Saturday Love」をサンプリングした「SEOD」や、シャープなギター・カッティングが印象的なトラブル・ファンク「Still Smokin'」をネタにした「That's Alright」からは、アダムの豊富な音楽的知識とインテリジェンスを感じとれる。このことからも本作は、ポスト・インターネット的網羅性が根っこにありながらも、本質的には天然のグライムスとは違い、明確な意図によって作られたポップ・ミュージックなのは明白だ。そしてジェームズ・マーフィーが、自身独自の音楽的文脈をポップ・ミュージックとしてリスナーに提示することで、音楽からの歴史性消失を明確にしたとしたら、アダム・バインブリッジが目指しているのは、歴史性の消失によって求められた、"クラシックの再構築"である。

 すべての音楽がフラット化した今だからこそ、クラシックと呼ばれる絶対的音楽を分解/再構築し、新たな歴史/文脈を作りだそうという試み。もちろんこれは、"主観の集積が歴史/文脈"ならば、という前提があっての試みだが、その集積が崩れ去った今、本作が原初的な響きを携えているのは当然だと言える。

 

(近藤真弥)

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KEANE.jpg もはやここに、ファースト・アルバム『Hopes And Fears』のころの、いまにも壊れそうなナイーヴな音の感触はない。トム・チャップリンのヴォーカルはあまりに力強く、メロディ・ラインは随分しっかりとした輪郭を持っている。

 キーンの4枚目となるニュー・アルバムは、セカンド・アルバム『Under The Iron Sea』を彷彿とさせる。知っている方も多いと思うが、彼らのセカンドの評判はすこぶる悪かった。ファーストは、とにかく奇跡的に美しいメロディに満ち溢れた作品だった。そこには難解なコンセプトもなければ、ロックっぽい説教臭さもなかった。あったのは「ギターは使わない」というシンプルなルールだけ。それに比べると、セカンドはちょっと音が重かったのかもしれない。少なくともピュアさや清涼感が損なわれていたことは認める必要がある。だが曲単位ではいくつかの名曲を生んだアルバムだ。けっして一蹴できる内容ではない。

 今回のアルバムはシンプルではある。あえていまのリスナーを拒絶するようなダークな作風の曲は皆無だし、いかにも分かりやすいバラッドとパワー・ポップがバランスよく配置されている。もちろんわたしのようなファンは大満足だ。ただちょっとU2っぽいかな(これは悪口です、念のため)。何がって...トムのヴォーカルとかさ。どんどん上手くなっているんだけど、もうインディー・バンドっていう感じでもなくなっているから。そういう意味でセカンドに似てるな、と。

 彼らには、トレンドから完全に取り残されたおじさんおばさんが椅子に座って観るようなバンドになって欲しくないな。何となくダサすぎるんだよな。キラーズみたいに、ダサいけどとんでもなく凄いとかじゃなくて。ややこしいですが、わたしはキーンのことが2000年代でトップ3に入るくらい好きなんです。今回の作品も愛聴していますが、ファンじゃない人は、とくに普段クールでヒップなバンドのサウンドに耳が慣れている人は、どう思うんだろう、なんてことを考えてしまうんです。「ダサい!」と言うのはぜんぜん構わないんですが、メロディだけはどのバンドよりも高い評価を下して欲しいな、と勝手に思っています。「そんなのこっちの勝手だ!あのバンドは退屈すぎて死にたくなる!」と言われてしまえばそれまでですが。

 

(長畑宏明)

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JACK WHITE.jpg 昨年秋にiTunes Music Store限定でリリースされた、U2『Achtung Baby』のカヴァー・アルバム『AHK-toong BAY-bi Covered』のラストを強烈な「Love Is Blindness」で締めくくったジャック・ホワイト。そこには、燃え盛る炎のようなリフと叫びがあった。それはU2の描いた耽美的ともいえる世界観(自分対世界)とは違って、あくまでも個(自分自身)から発せられる叫びそのもの。「U2の曲だから...」と躊躇する気配は微塵もなく、楽曲だけに対峙するジャックの姿勢が垣間見える。鳴らされたのは、やはり壮絶なブルースだった。レコーディングは、ジャックが拠点とするナッシュビルのサード・マン・スタジオ。オルガンとヴォーカルをジャックが担当。ドラマー(Ben Blackwell)とアコギ兼ベース・プレーヤー(Kevin Childress)を加えた3人で演奏されている。これが来るべきジャックのソロ・アルバムの伏線になるのかもしれない。僕はそう思っていた。

 それから数ヶ月後、こうして"ジャック・ホワイト"として初のアルバムが届けられた。すでにいくつものメディアでジャック自身の言葉で語られているとおり、そして先日のソロ・ライヴのストリーミング中継でも全貌が明らかになったとおり、レコーディングには男性バンド/女性バンドを編成するというユニークな手法が取られている。先述の「Love Is Blindness」をカヴァーした時のシンプルなユニットではなく、ジャックならではの(ちょっと面倒くさい:笑)アイデアが活かされている。男性バンドと女性バンド、それぞれが同じ曲のレコーディングを行い、ベストだと感じたテイクを採用したとのこと。アルバム・タイトルの『Blunderbuss』は、17~18世紀に使われていた"ラッパ銃"のことで、その名のとおり銃口がラッパのような形状になっている。命中精度は大したことないけれども、複数の弾丸を仕込んだり、弾丸の代わりに石や木片も撃てた(!)らしい。ラッパ銃を愛用していたのは中世の海賊だった。そして、このアルバムでジャックが選んだキー・カラーは青。ホワイト・ストライプスの赤と白、ラカンターズの銅、デッド・ウェザーの白に続くキー・カラー設定がいかにもジャックらしい。楽器(ラッパ)のようにも見える武器、がらくたを詰め込んで発射できる機能。そんなブランダーバスを抱えてジャックが突き進む海の色、そして叫びにも囁きにも似た歌声(ブルース)。ジャックの本質がむき出しになる1stソロ・アルバムには、やはり"青"がふさわしい。

 アルバムは不穏なローズ・ピアノの三連符で幕を開ける。《みんな俺の欠片を奪ってゆく》と歌われる「Missing Pieces」は、ホワイト・ストライプスともラカンターズともデッド・ウェザーとも異なる印象。続く「Sixteen Saltines」では、ストライプスのファンを熱狂させる重厚なギター・リフがいきなり炸裂! 3曲目の「Freedom At 21」も、モダンなシャッフル・ビートにジャックのギターが絡みつく。けれどもストライプスを思い出させるのは数曲だけ。猛り狂うエレクトリック・ギターは、ほぼ封印されている。同じく、ジャックのプレイ・スタイルを象徴していたオープン・チューニングでのスライド・ギターも聞こえない。その代わりにアルバムを彩るのは、ペダル・スティールやフィドル(ヴァイオリン)、マンドリンのやさしい音色。そして、ピアノやアコースティック・ギターの豊かなメロディだ。女性ヴォーカリスト、ルビー・アマンフ(Ruby Amanfu)とのデュエットで歪んだ愛のかたちを歌う「Love Interruption」、タイトル・トラック「Blunderbuss」での緩やかな曲調に耳を奪われる。今までのようにバンド名義ではないことに最初は不慣れな感じがしていたけれども、アルバム前半だけを聴いただけで"ジャック・ホワイト"という個性をはっきりと感じられる。それは想像以上のインパクトだ。

 ブルース、フォーク、R&B(50年代に活躍したシンガー、リトル・ウィリー・ジョンのカヴァー「I'm Shakin'」も最高!)、カントリーなど多彩なエッセンスを吸収した楽曲は、ローリング・ストーンズの『Exile On Main St. (メイン・ストリートのならず者)』を彷彿とさせる。けれども、それは偶然の相似でしかないだろう。ストライプスでのミニマムなスタイルとブルースへの激情、ラカンターズでのバンド・メンバーとのコラボレーション、デッド・ウェザーでの女性ヴォーカルとのハーモニーなど、今までのジャックが挑戦したすべてのアプローチが活かされている。そして、ストライプスの解散と女優カレン・エレルソンとの離婚を経た後だからなのか、ほとんどの楽曲で(失われた)愛が歌われている。だからこそ、このアルバムはボーナス・トラックとして「Love Is Blindness」が収録されている国内盤がおすすめ。決して蛇足ではなく、ひとつの循環を成しているから。

 60年代のボブ・ディラン、70年代のデヴィッド・ボウイ、80年代のプリンス、そして90年代のベック(待望の新曲「I Started Hating Some People Today」は、ジャックとのコラボで〈Third Man Records〉からリリース!)と並ぶソロ・アーティスト、ジャック・ホワイトの誕生だ。ジャックは古ぼけたラッパ銃を磨いて精度を上げる。すべてをぶち込んで弾丸のように発射する。青を纏いながら、ためらうことなく荒れた海を行く。さあ、フジロックでの来日公演はもうすぐだ!

 

(犬飼一郎)

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H MOUNTAINS.jpg 去年発表されたシングル「Sun」とともに、同じくシングルである本作「Sea」を手に取った方は幸運だと思う。とびきりひねくれたサウンドが好きな方なら、幸せは倍になる。

 来来来チームとともに指揮を取り、今年1月に行なわれたイベント《とんちんかんマンデー》を成功させた東京を拠点に活動する5人組のインディー・ロック・バンド、H・マウンテンズ。この音の核にあるのは可能性だ。彼らの音楽にはマニュアルは存在しない。音楽に正解など設定せずして、可能性の中に飛び込んだ末に掴んだ音をひたすらにステップさせる。その様はポピュラー・ミュージックの中にあって、異質な捻じれを聴き手の神経網の隅々にまで行き渡らせる。そうして僕らの耳を瞬時に奪う。こましゃくれた表情など一切なく、妙なアングラの匂いも全く無い。楽曲の整合性を突き破るかのごとくのポスト・パンクの香りが漂う本作は、ロック・ミュージックの痺れと歪みを奏で、かつ、ロックという表現の上に行儀よく座らず、遊び心を忘れずポップに鳴らす。いや、もはや行儀よく座る必要もないのだろう。それゆえに僕は、このバンドにロック・ミュージックの未来を、つまり可能性を見たい。H・マウンテンズとはそう思わせるバンドなのだ。

 過剰にファンキーになることを避けたギター・サウンドの捻じれ具合が知恵の輪のように絡まり、へヴィーなリフがディストーションとして怒涛に迫る。その音の中に身を置けば、僕らのエゴなど簡単に消されてしまう。摩擦がいくら生じても決して滑らかにはならないギター・サウンドのフレーズの数々が、僕らがそれまで漠然と正当だと思っていたバランスを気持ちいいほど突き破っていく。ギターと流れるようなメロディ、浮遊感のある歌声、跳ねるリズムが交わって、教科書には絶対に載らないポップ感が生まれるという、音楽のひとつの可能性を彼らはあっけらかんと鳴らしてしまう。しかもスポーティーに。

 そういったポップ感と遺脱性を持つ、このバンドのメンタリティのひとつとして、歴史的側面を抜いたうえでのパンクへの視点があるんじゃないかと思う。かつて町田康が言ったように、一度裸になること。伝統性への否定。自分たちがやろうとしていることへの自信。同時に自分を疑う姿勢。実験。それらがH・マウンテンズのオルタナティヴな音を浮き上がらせている気がしてならない。もしかしてオルタナティヴとは、裸になって初めて現れるものではないかと思わせる作品だ。

 ラストに、狩生健志をゲストに迎えたヒューイ・ルイス&ザ・ニュースのカヴァー「Couple Of Days Off」を収録しているのは興味深い。00年代が情報を選ぶ時代だったとするならば、10年代は情報を並列に汲み取る時代だという意思が意識的になのか、無意識的になのか、H・マウンテンズにはあるのだろう。裸になったうえで、伝統を拡大して評価せず、リアルタイムの音楽と同様に、すぐ傍にあるもの認識する世代の音があるのだ。それらが彼らのポテンシャルを広くし、鳴らされる音にはこの先があるのだと感じさせる。ゆくゆく発表されるであろうアルバムに期待しても絶対に損はない。

 

(田中喬史)

 

【編集部注】ライヴ会場とディスクユニオンにて販売中。

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KIRA SKOV.jpg 44年という短い人生を駆け抜けた、不世出のフィメール・シンガーであるビリー・ホリデイの名前は聞いたことがあるとは思う。彼女の歌唱というのはスムースで耳触りの良いものではなく、また、ソウルフルというには痛々しいほどの情感と歌詩の世界観に入り込むようなものであり、時代とともに歌い方も変わっていったゆえに、一時期の作品のものが好きだという人も居るだろう。その後景には、彼女自身の壮絶な人生も反映されていたのだろうか、少女期の強姦の体験、売春婦としての時期、ジム・クロウ法の影響。ジム・クロウ法とは、平易に説明するに、1876年から1964年まで存在したアメリカの南部での州法であり、白人以外のColored、黒人への人種差別法であり、アフリカン・アメリカンたる彼女も不当な扱いも受け、また、自身のドラッグやアルカホリックとの併存の中でのシビアな生き様が刻まれたものだった。

 作品として特に有名なのは、詩人であるルイス・アレンの一篇の詩「Strange Fruit(奇妙な果実)」に彼女が大いなるインスパイアを受け、1939年、〈COMMODORE RECORDS〉に吹き込んだ切実な唄になるかもしれない。多くの人の心を打ち、今も古典として継がれているものだが、この曲の生まれた時代状況では、まだまだ黒人の人権は護られていないときであり、その詩内容は人種差別、リンチの結果として「殺された黒人が木に吊るされていること」を示唆したものだった。「奇妙な果実」という言葉から照らされる、どうしようもない現実と暗がりの歴史。その後も、ビリー・ホリデイは波乱というフレーズでは片付けられない生き方、また、薬物依存や不摂生からなる歌唱自体の変容もありながらも、1958年の『レディ・イン・サテン』など後世に残る作品を刻み、多くの後進のアーティストたちに影響を与えた。例えば、ジャニス・ジョプリン、メイシー・グレイなど有名、無名数えきれない。そのビリー・ホリデイへのオマージュを捧げた作品はあまた出ているものの、このデンマーク人の端整かつ艶美なルックスを持った1976年生まれのキラ・スコーフ(Kira Skov)のアプローチは特異である。

 元来、彼女自身はジャズ畑ではなく、ロック/ポップスのフィールドにてデンマークでは既にポピュラーなアーティストであり、2008年には、フジロック・フェスティバルにかつてのブリストル・サウンド、トリップホップの一端を担ったトリッキーのバンド・ヴォーカルとして、ステージに立っていた過去もある。自身はロック/ポップスとジャズのパラレルたる場所にて、今回のタイミングを「待っていた」ようで、機は熟したということなのか、この『KIRA Sings Billie Holiday』ではしかし、重みよりもディーセントで少しハスキーなボーカリゼーションが存分に堪能出来る内容に帰結している。バックを支えるのは、夫のニコライ・ムンク=ハンセン(Nicolai Munch-Hansen)のベース、ハイン・ハンセン(Heine Hansen)のピアノ、マッズ・ハイネ(Mads Hyhne)のトロンボーン、ヤコブ・ディネセン(Jacob Dinesen)のテノール・サックス、RJミラー(RJ Miller)のドラムが控え目に且つ滋味深く、彼女の唄を立体的に浮かび上がらせるように引き締まったアンサンブルを魅せる。

 10代の初めにビリーのレコードに出会ってからの歳月の間に着実に重ねられたキャリアが決して、手軽なカバー集にしていないところも感じられるが、過度の力みはない。1曲目の「I'll Be Seeing You」から、たおやかな空気感を創り上げる。3曲の自作曲も織り込みながら、あくまで軸はカバー曲であり、涼やかな「Me,Myself And I(Are All In Love With You)」や、透き通った温度とムーディーで落ち着いた「Don't Explain」でのメロウネス、スウィングするラストの「All Of Me」まで寧ろ、ジャズに疎く、距離があるリスナーにも響くような「無媒介な跳躍」があるといえる。初期のノラ・ジョーンズ、メロディー・ガルドー辺りを好きな人たちにも届くのではないだろうか。ロックからジャズへの無媒介な跳躍と言ってしまうと、どうにもニッチでオルタナティヴな印象を持ってしまうという杞憂もあるが、こういった(奇妙ではない)果実の噛み締め方もあるとしたならば、キラの試みにはしっかりとした稔りがあるのではないか、という気がする。向き合う対象として大きいアーティストだけに、この解釈への導路は興味深いものになった。

 

(松浦達)