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 SACOYAN(さこやん)という女性シンガーソングライターが、2011年に発表した「JK」を何度も聴いてから、この拙稿を書いている。この曲を初めて聴いたのは、もう4年近くも前のこと。楽しい気持ちがあふれていながら、どこか淋しさが漂うところに惹かれた。特に、〈万人に好かれたい 何処へでも行きたいな さそってよ たのしませるわ〉というフレーズが持つ一種の悲哀には、いま聴いても胸がギュッと締めつけられる。


 そんな「JK」の余韻を引きずりつつ出逢ったのが、2012年にLOW HIGH WHO?(ロウ・ハイ・フー)からリリースされた、DAOKO(だをこ)のファースト・アルバム『HYPERGIRL-向こう側の女の子-』である(ちなみに、リリース当時は小文字で〝daoko〟という表記だった)。最初に、リアルと想像が溶解したような世界観に魅せられた。その次は、秀逸な観察眼を持つ鋭い言葉に、心をズッパシ刺された。


 DAOKOの歌声は、耳に心地よく馴染む甘美さを持っていた。しかし、その甘美さが孕んでいたのは、どこか鬱々とした感情。それでも繰りかえし聴いたのは、DAOKOのパーソナルな領域から発せられた言葉なのに、その領域から離れたところにいる者も感情移入できる余白があったからだ。この余白はおそらく、歌詞の一節と一節の間にある飛躍度の高さが要因だと思う。先述したように、DAOKOが描く世界観は、リアルと想像が溶解している。それゆえ、歌詞に文脈があまり感じられない。ひとつの物語や世界を丁寧に紡ぐというよりは、膨大な数の瞬間的感情や一場面を繋ぎあわせたような歌詞なのだ。いわば、感情と場面のコラージュ。こうしたコラージュの縫い目に筆者は、たくさんの矛盾を抱えるDAOKOの泥臭い人間性と魅力を見いだしてしまった。


 そんな『HYPERGIRL-向こう側の女の子-』を聴いて脳裏によぎったのは、連続性と物語の文法を破壊しつくしたゴダールの映画、『勝手にしやがれ(原題 : A bout e souffle)』(1959)だった。この映画もまた、感情と場面のコラージュだからだ。ゴダールはそれを論理的にやってみせたが、DAOKOの場合は本能でやってのけているように聞こえた。だから筆者は、『HYPERGIRL-向こう側の女の子-』を、「アニマルなゴダールみたいで面白い」という感じで楽しんでいた。この楽しみかたは、『HYPERGIRL-向こう側の女の子-』以降にリリースされた、2枚のアルバムと1枚のEPでも同様だった。もちろん、作品ごとに特徴は異なっている。とはいえ、常に基調としてあったのは、感情と場面のコラージュだった。


 しかしこの側面は、メジャー・ファースト・アルバムとなる本作『DAOKO』では影を潜めている。リアルと想像が溶解したような世界観は健在だが、歌詞に整合性が見られるのだ。言うなれば、洗練されている。これまでの作品が、先に書いた〝膨大な数の瞬間的感情や一場面を繋ぎあわせた〟ものだとすれば、本作は〝12の感情と場面〟で構成されたアルバムだ。ゆえにこれまでの作品で目につきがちだった散漫さは解消され、聴き手にまっすぐ届くまとまりを獲得している。こうしたこともあって、本作はこれまで以上にDAOKOの言葉が明確に伝わってくる、キャッチーでポップなアルバムだ。この点は、インディーズ時代の〝daoko〟が好きな者の目には〝物足りない〟と映るかもしれないが、筆者は〝DAOKO〟になることで得られた〝深化〟だと感じた。


 その〝深化〟した言葉で特筆したいのは、「JK」「ぼく」「高い壁には幾千のドア」の3曲だ。まず「JK」は、晴れて高校を卒業したDAOKOの心情が反映されている。実はこの曲、本稿の冒頭でSACOYANの「JK」を引っぱりだすキッカケとなった曲だが、SACOYANの「JK」とは違い、DAOKOの「JK」は〝女子高生〟という記号に対するうっとうしさが出ているように聞こえる。〈春はなんで来ないんだろう? 私の制服は桜と共に散る〉という一節なんかは、〝大人になりたい〟という漠然とした憧れと、デビュー当初からずっとDAOKOの身にまとわりついていた〝女子高生ラッパー〟というレッテルに対する反抗心が共立してる気も...。とはいえ、歌詞全体は女子高生の日常的一幕を描いたものだが。


 次に「ぼく」の歌詞は、DAOKOによるメジャー・デビューのごあいさつみたいな内容。しかし、〈メジャーになった 何か変わったか〉〈狙って売れるなら苦労しないだろ?〉など、自身への問いかけみたいな言葉も飛びだす。それから、〈妄想して頂戴 そのぼくがきみのぼくだから〉という一節は、ポップ・ミュージックに付きものの〝安易な消費〟を受けいれる覚悟で満ちている。この覚悟は頼もしさを感じさせるほどで、DAOKOの負けん気の強さを垣間見れる。その負けん気の強さは、「ぼく」のラストを飾るフレーズ、〈代わりのだれかになんて 歌わせないよ〉にも表れている。


 そして、本作のラストにあたる「高い壁には幾千のドア」。この曲の歌詞は、DAOKOが自分に言い聞かせてるような内容だが、〈焦ることはない 君の時間軸に沿え〉という一節が示すように、聴き手を鼓舞する応援歌にも聞こえるから面白い。このような曲をラストに収録したのは、本作が〝ここからDAOKOとしての旅を始める〟というステートメントだから? と考えてしまったりもするが、どうだろう?


 また、DAOKOの言葉を彩る音も、非常に興味深いものだ。片寄明人(GREAT3)によるサウンド・プロデュース、さらにはねごとやサカナクションといったバンドと仕事をしてきた浦本雅史にサウンドエンジニアを任せた影響か、インディーズ時代の作品と比べてひとつひとつの音が明瞭になっている。それに伴い、DAOKOの声と言葉もいままで以上にすんなり耳に入ってくる。多彩な楽曲群を乗りこなすDAOKOの順応性も、実に見事だ。


 特筆したいのは、展開が激しいメルヘンチックな「ゆめうつつ」と、ワルツの拍子を取りいれた「流星都市」の2曲。共にボカロPとしても知られるきくおが参加した曲で、本作のなかでは一際エッジーだと思う。それに、「流星都市」がきくおの曲「月の妖怪」を想起させるのも嬉しいポイント。まあ、この点は、筆者が「月の妖怪」を愛聴しているというだけの理由なのだが...。


 このように本作は、DAOKOの言葉と声、さらにそれを支える楽曲たちが上手く噛みあわさった作品だ。特にDAOKOの言葉が帯びる鋭さと普遍性は、〝いまのところ史上最高〟と言ってもいいレベルだと思う。


 そして、DAOKOの言葉はさまざまな機微を孕んだ複雑な感情で満たされ、どこか鬱々しているのは確かだが、それでも本作は〝希望〟がもっとも光り輝いているということも強調しておきたい。少々陳腐な言いまわしになってしまうが、いろいろ大変な世の中だけど、それでも生きていこうというポジティヴな側面こそ、本作の魅力だと筆者は考える。強いて類似するものを挙げるなら、2012年の映画『桐島、部活やめるってよ』みたいなもの、かもしれない。


 そう考えると本作は、DAOKOの日常に近いことが描かれていながらも、DAOKOというひとりの人間を通して、2010年代の匂いと風景を切りとった作品とも言える。もちろんこれは、筆者の漠然としたひとつの推察にすぎないが、それでも確実に言えるのは、何十年か経って2010年代の音楽を振りかえろうとなったとき、本作は真っ先に名が挙がる作品のひとつであるということ。つまり本作は、2010年代という時代を象徴するサウンドトラックのひとつなのだ。



(近藤真弥)

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 90年代末ごろから活動をつづけるマンチェスターのトリオ・バンド、ダヴズの三分の二、ジェズ&アンディー・ウィリアムス兄弟による新バンド、ブラック・リバーズのデビュー・アルバム。


 従来の、オルタナティヴではない20世紀のポップ・ミュージック的感覚にしばられていると、えーっ? スピン・オフ・ユニット? とか軽く見られそうだが、全然そんなことない。少なくとも筆者は、今のところダヴズのどのアルバムより好きだ。


 サイケデリックな音像とか、80年代USオルタナティヴ(いわゆるカレッジ・ロックとか)に通じる(UKバンドとしては少々例外的に強く)人間味あふれる感覚、エレクトロニックな要素も決しておそれないアレンジや空間性という点は、ダヴズと共通している。


 しかしブラック・リバーズには、もっとふっきれた、やけくそ的なポップ性が垣間見られる。シド・バレット在籍時のピンク・フロイドや、70年代後半のブライアン・イーノのソロ作に通じるほど。


 別名義にしたかい、おおありだ! もちろん、やけくそ的とはいっても、ダヴズにあった内省的魅力は、ブラック・リバーズでもひきつがれている。その内省をつきつめた結果の、開きなおり的なかっこよさというか。


 もともとダヴズがデビューしたころ、UKではオアシスがあまりに「国民的バンド」になってしまったことによる次世代リスナーの反動? といった感じで、レディオヘッドが超人気だった。彼らも、まあ内省的な、悪くないバンドではある。初期ダヴズとレディオヘッドの内省ぶりには、たしかに共通点もあった。だから前者も00年代前半には全英トップになれた? いや、そんな決めつけは大雑把すぎるとは思うが、少なくとも『Black Rivers』における彼らの方向性が「あの時代」とは違う、よりコンテンポラリーかつ、さらなる未来に向けて開かれたものとなっていることはたしかだ。


 それは、たとえば、アルバム中で内省度がもっとも高い部類に属する(ボーナス・トラック除く)ラスト・ナンバーの歌詞からも明らかだろう。


〈そして ぼくらは 本当はここにいない/現代的怖れに基づく静謐な生活/連絡が絶たれることの恐怖/携帯メッセージを送ってくれ ここは静かすぎる〉(「Deep Rivers Run Quiet(深い川は静かに流れる)」より)


 だからこそ、先行公開曲「Age Of Innocence」の(筆者のような日本のジジイからすれば結構)衝撃的なヴィデオに秘められたポスト・モダンかつディープなメッセージも、アルバム全体を深く味わえば、きっと理解できるはずだ。



(伊藤英嗣)

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Drew Lustman『The Crystal Cowboy』.jpg

 フォルティDLことドリュー・ラストマンは、時代の空気に敏感な男だ。たとえば、フォルティDL名義の最新作にあたる『In The Wild』(2014)では、μ-Ziq(ミュージック)や初期のエイフェックス・ツインに通じるIDMを基調にしつつ、このアルバムのリリース当時盛り上がっていたジャングル・リヴァイヴァルと共振する「Heart & Soul」、さらにはジュークの要素を匂わせる「Frontin」など、旬なものも貪欲に取りいれていた。いわばフォルティDLとしてのドリューは、トレンド・セッターと言える立ち位置で、さまざまな音楽的要素を上手く交雑させてきた。


 そんなドリューが、ドリュー・ラストマン名義では初のアルバムとなる本作『The Crystal Cowboy』を発表した。フォルティDLを名乗る際のドリューは、『In The Wild』リリースに伴い現代芸術家のクリス・シェンとコラボレーションするなど、明確なコンセプトをアルバムに込めることが多かった。しかし本作は、本名名義ということもあってか、リラックスした雰囲気が漂っている。何かしらのコンセプトや流行にとらわれていない、手グセに任せて作った曲を詰めこんだ印象だ。


 そうして詰めこまれた曲群は、アグレッシヴで速いBPMのものがほとんど。また、表題曲はゴールディーを彷彿させるジャングル、くわえて「Green Technique」は『Richard D. James Album』期のエイフェックス・ツインに通じるドリルンベースな曲に仕上がっていたりと、いわゆる90年代のダンス・ミュージックの要素が色濃く滲みでている。これはおそらく、筆者がおこなったインタヴューでも語ってくれたように、ドリューが90年代のダンス・ミュージック(特にエイフェックス・ツインやマイク・パラディナス)から強い影響を受けていることと無関係ではない。その強い影響が、本作にはハッキリ表れている。このあたりも、「手グセに任せて作った曲を詰めこんだ印象」に繋がるポイントだ。


 とはいえ、ニュー・ヨークのラッパー、リーフ(Le1f)を迎えた「Onyx」など、コラボレーションによって生じる化学反応を求めたであろう曲も収録されている(前出のインタヴューで語っていた、「リーフとも作業した」曲だろうか?)。この点は、ドリューの抑えきれない好奇心が出てしまったのかもしれない。だが、アルバム全体の流れを遮る曲ではなく、むしろスパイスとして効果的に働いている。


 そして、『The Crystal Cowboy』というタイトルも面白い。Thump(サンプ)に提供したミックスでは、映画『Fear And Loathing In Las Vegas(邦題 : ラスベガスをやっつけろ)』(1998)のサントラで知ったという布袋寅泰&レイ・クーパーの曲を選んでいたが、実は本作のタイトル、ドイツ映画『Bandits』(1997)のサントラにある曲とほぼ同名なのだ(もしかして『In The Wild』も、2007年に公開された映画Into The Wild』が元ネタだったりするのだろうか?)。ドリューから話を聞いたとき、なかなかの映画好きだなと感じたこともふまえると、決して偶然じゃないと思えるが、どうだろう?


 ちなみに『Bandits』は、女性の囚人4人によるバンドが刑務所から脱走して逃げまわる様を描いたロードムーヴィー。この映画の結末、それから劇中で使われる「Crystal Cowboy」の歌詞をふまえると、本作はいろんな解釈ができる作品なのだが...。しかしここは、ドリューの「僕はミステリーを残すのが好き」という言葉(これまた前出のインタヴューより)に倣うとしよう。



(近藤真弥)

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花澤香菜_Blue Avenue.jpg

 自分の人生に最も影響を与えたアルバムはなんだろう? それはたぶん、ヤング・マーブル・ジャイアンツ『Colossal Youth』。ずいぶん前に出たドミノ/ホステス・ヴァージョンの2枚組CD日本盤ライナーノーツでも書いたとおり、そこで歌っていたアリソン・スタットンの声は、00年代以降...平野綾や『けいおん!』関係もへたあとに聴くと、とても「声優」っぽく聞こえる。


 最近あまりアニメ観てないし、音楽と特撮でいっぱいいっぱい、これ以上オタク趣味の対象はふやせない(汗)状態のぼくは、実は昨年にアルバム『25』がリリースされるまで、花澤香菜という声優の存在は知らなかった。


 でも、それを聴いて、完全にぶっとばされた。演奏やアレンジ、サウンドは(いい意味で)今っぽいとしか言いようのない絶妙なもの。もちろん彼女のヴォーカルもそうだった。


 ただ、後者は、まだ少し生硬な気もした。バックの演奏が、こなれすぎているだけに、なおさら...。


 それに関していえば、前作で最初に「なんじゃ、こりゃ!」という衝撃を受けたのは「Brand New Days」。自分が最も好きなラフ・トレード時代ではなく、その後「うん、やっぱ、これもいいね、好き!」くらいの時期...つまり80年代なかばごろのスクリッティ・ポリッティそのもの。いや、「パクリ禁止!」とか言うつもりは全然ないけれど、こりゃ、ちょっとやりすぎ。というか、まじめな話、この曲の方法論だけは、今っぽいコンセプトとはいえないな...と、あとで思った。


 そんなこんなで、楽しみにしていたニュー・アルバム『Blue Avenue』。スウィング・アウト・シスターのひとたちが参加という情報を見たときは(上記と、ほぼ同じような意味で)今っぽくないかも? 大丈夫か? そう思ったものの、完全に杞憂だった!


 なにより、ヴォーカルの生硬さが、かなり薄れている。


 やくしまるえつこ(相対性理論)がスタッフ参加した「こきゅうとす」のヴォーカルが、やくしまる自身のそれっぽくなってしまうのは、まあ仕方ないだろう。変な言い方で申し訳ないが、彼女の参加曲がそれだけで、よかった...。もちろん、この曲自体は素晴らしいのだが(そして、ぼくはこれで相対性理論ファン卒業、かも?)。


 もうひとつ気になったのは、まず文字情報を見てた(職業柄どうしてもそうなる...)とき、北川勝利が「Night And Day」の作詞作曲編曲を担当していると知ったこと。


 有名なスタンダード曲「Night And Day」のカヴァーではない。ぼくは、それは(ヤング・マーブル・ジャイアンツと同じ時期に)エヴリシング・バット・ザ・ガールによるカヴァー...ローファイ・ボサノヴァ・デビュー・シングルとして、さんざん愛聴した。


 そのシングルのアレンジっぽかったり、のちにエヴリシング・バット・ザ・ガールがストリングスをフィーチャーして華麗になったころを思いださせたりしたら、いやだなあ...と。だから「そういう形のオマージュ」は、今っぽくない!


 ところが、聴いてびっくり。ホーンセクションを大フィーチャーした「今以外の、どこでもない場所/時期の、クールでホットなビッグ・バンド・ジャズ」。そのスタンダード・ナンバー自体や、エヴリシング・バット・ザ・ガールと結びつく地点は、少なくとも表面的には皆無。つまり「純粋に聴く」楽しみが削がれることは、まったくなかった。心配がはれるどころか、アルバムのおりかえし地点にふさわしく、おおいにもりあがった!


 そんなコンセプトがもともとあったのかどうかは不明だが、アルバム全体をとおして、ぼくら(それぞれ)のまわりにいるような、決して特別じゃない女の子の、ちょっと背伸びした冒険話を聞いているようで、とても気持ちよく聴ける。実にグレイトな、同時代ポップ・ミュージック。


 それは街の子? それとも田舎の子? まあ、どっちでもいいんじゃない? 少し前、シティー・ポップという言葉が流行っていたころ、自分ではこう思っていた(なんか、どたばたしてて「どこかで書く」機会は逸してしまったたけど:笑)。


 シティー・ポップの最高峰? そりゃ加藤和彦『あの頃、マリー・ローランサン』以外のなにものでもないでしょ?


 あれは、80年代初頭の都会を流浪する、決してその町に「根を張っている」わけではない男の話だった。


 こちらは、そんなニュアンスで、それと同じくらい普通に、自由に生きている今の若者の話。


 そんなふうに考えつつ聴いていると、本編ラスト・ナンバー「Blue Avenueを探して」が、まるで(『あの頃、マリー・ローランサン』ラスト曲)「ラスト・ディスコ」へのアンサーソングであるかのように響いてしまう。


 ブルーな大通りを歩きつつ、青空ながめてたら、目からなにかが...。最高!



(伊藤英嗣)

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 最近の日本の音楽には、〝共感〟にとらわれたものが多すぎるように思う。もちろん、できるだけ多くの人に届けるための努力や、そうした努力の先にある〝分かりやすさ〟を否定する気はさらさらない。だが、音楽は聴き手の〝共感〟を得るためだけの道具ではないはずだ。たとえば、聴き手の価値観を揺さぶる〝違和感〟をあたえてくれるのも、音楽が持つ魅力のひとつである。そもそも、聴き手の価値観を揺さぶりつづけることで、音楽は進化してきたのではないか?


 とはいえ、ツイッターなどで誰かのツイートをRTして、何かを主張したような気分になる者も少なくない世情である。つまり、誰かのツイートを〝他人の言葉〟ではなく、〝自分の気持ち〟として広めてしまうということ。〝自分のことのようだ!〟と思えるものに出逢えた経験は、それはそれで素晴らしいと思う。だが、〝誰か〟は〝自分〟ではないし、〝誰か〟と〝自分〟はまったく同じ存在ではない。こうした自明を忘れた者が多い現状では、共感ベースの音楽があふれるのも半ば必然なのかもしれない。しかし、このような共感シンドロームと言いたくなる状況には、正直うんざりだ。〝自分のことのようだ!〟という〝共感〟を積み重ねていくと自分にしか興味が行かなくなり、自分と他者の間にある〝違い〟を認めづらくなってしまうからだ。言うなれば、〝不寛容〟になってしまう。そして、その共感ベースの音楽ばかりを求める不寛容さは、アーティストの進化を阻む壁ともなってしまう。これが日本の音楽にとって良いことだとは、どうしても思えない。しかし、その良いことだとは思えない状況になりつつあるのが、いまの日本の音楽だと筆者は思う。


 そう考えると、Resident Advisorのインタヴューで、「DJとして、僕はみんなを踊らせたいけど、何が起こっているのかよく分からない状態にもなってもらいたい」と語るなど、聴き手に戸惑いをあたえんとするロティックの本作「Heterocetera」は日本でどう受けいれられるのだろう? アメリカのテキサス州出身であるロティックは、ベルリン在住の新進気鋭アーティスト。これまでに、ベン・アクア主宰の#FEELINGS(フィーリングス)やSci-Fi & Fantasy(サイファイ・アンド・ファンタジー)からシングルをリリースしてきたが、ロティックの名を一躍有名にしたのは、ミックス・テープ『Damsel In Distress』(2012)だ。さまざまなサンプリング・ソースを細かくズタズタに切り裂いたこの作品は、レオス・カラックスの映画『ホーリー・モーターズ』(2012)のような怒濤のコラージュが展開される。先に引用したロティックの言葉と矛盾するが、『Damsel In Distress』における彼は、聴き手を踊らせる気は微塵もない。作品としての体裁をギリギリのところで保たせる理性の周りで、他者を寄せつけない怒りや哀しみといった攻撃的な感情が複雑に絡みあっている。少なくとも、〝感動した!〟とか〝癒された!〟とか、そういう安易な感想を許さない作品であることだけは確かだ。


 しかし、その『Damsel In Distress』が話題になることで、ロティックの周りには多くの〝他者〟が集まってきた。ビョークにリミックスを依頼され(このあたりの嗅覚はさすがビョークと言う他ない)、ハウ・トゥー・ドレス・ウェルやヴェッセルのアルバムをリリースしたTri Angle(トライアングル)と契約。人生とは実に不思議なもので、自分の意図とは正反対の出来事が多々おきる。


 さて、そのTri Angleから発表されたのが、本作である。まず面白いのは、聴き手のバイアスを簡単に打ちやぶる〝違和感〟は健在ながら、ひとつひとつの音を丁寧に扱う洗練さもあるということ。音数は必要最低限に抑えられ、無駄な音が一切ない。無音の空間を上手く生かしたサウンドスケープも印象的だ。もともと電子音楽の作曲術を学んでいる彼だから、音楽理論に則った音作りもできるのだろう。この洗練さは、本作に静謐な側面をもたらしており、そういった意味で本作は、ひとり家でじっくり味わう〝芸術音楽〟の趣もある。


 しかし一方で、アンゴラを起源とするクドゥーロという音楽を取りいれた表題曲など、クラブに集う観客たちを一瞬で吹きとばす破壊的な曲も収められている。さらには、不気味な金切り声のような音が際立つ「Suspension」も、太い低音が破壊的に鳴り響く。いわばこの2曲は、低音を強調したベース・ミュージック的なサウンド・プロダクションが際立っており、ビートではなく音で〝飛ばす〟タイプのクラブ・チューンだ。このように本作は、ロティックのさまざまな側面を垣間見ることができる。


 また、本作のタイトルについても特筆しておきたい。「Heterocetera」というタイトルは、オードリー・ロードの著作『Sister Outsider』に登場する一説から引用したものだ。詩人/随筆家として有名な彼女は、差別と戦う社会活動家としても知られている。そんな彼女の言葉を引用したのは、ロティックが自身のことをゲイで黒人であると強く意識しているのと無関係ではない。すでに公開されている多くのインタヴュー、くわえて自身の音楽で彼は、自らの背景を強調することで〝ゲイ〟や〝黒人〟に注がれるバイアスに抵抗している。もっと言えば、この抵抗は自身の性的志向や出自の肯定にも繋がっている。こうした肯定が、『Damsel In Distress』にあった他者を寄せつけない雰囲気とは程遠い本作に結びついたというのが筆者の見立てだ。


 確かに彼のような人は、いわゆる〝マイノリティー〟とされるのかもしれない。しかし彼は、少数であることを恐れていない。そんな彼の主張が、日本の聴き手にはどう聞こえるのか? 筆者は楽しみである。



(近藤真弥)

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 ダンス・ミュージックを熱心に追いかけている者にとって、〝リスボンのダンス・ミュージックが面白い〟と言ってしまうのは、〝何を今さら...〟なのかもしれない。だが、それでも言わせてほしい。リスボンのダンス・ミュージックが面白い!


 というわけで、ニディア・ミナージュの「Danger」について書いていく。本作がファースト・ミニ・アルバムにあたるニディアは、リスボン出身の17歳。彼女は本作の他に、Brother Sister Records(ブラザー・シスター・レコーズ)からファースト・アルバム『Estudio Da Mana』を発表しているが、このアルバムは正直、彼女の才気以上に、サウンド・プロダクションの拙さが目立つものだった。しかし、現在のリスボン・ダンス・ミュージック・シーンを世界に発信しているPrincipe(プリンシぺ)から発表された本作で、彼女はネクスト・ビッグ・シングの仲間入りを果たしたと言っていい。


 彼女の音楽は、享楽的で高揚感あふれるトライバルなビート、くわえてほのかに汗くさい情熱的なグルーヴを特徴としており、アンゴラを起源としたクドゥーロというスタイルが基調にある。しかし、TB-303を想起させる音色が際立つ「Aidin」ではアシッド・ハウス、さらに「Limite」は初期のプロディジーみたいなレイヴ・ミュージックを多分に取りいれている。それに、アルバムを構成する粗々しいドライな音色の数々は、シカゴ・ハウスに通じるものだ。こうしたハイブリットな音楽性を魅力とする本作は、幅広い解釈とそれを可能にする寛容性があると言っていい。


 クドゥーロ自体、ソカやズークなど数多くの音楽から影響を受けて形成された音楽だが、17歳のナディアの場合、そこに別の側面が加わっている。それは彼女が、音楽を並列に聴く環境が当たりまえの世代だということだ。いわば、あらゆる時代の音楽にアクセスできるようになった現在が、クドゥーロ元来の雑多性を加速させている。それが彼女の音楽にある面白さだと思う。


 このような面白さが意識的に作られたものかは不明だが、どちらにしろ本作には、音楽が並列に聴かれる状況を無邪気に楽しみ、さまざまな音楽的要素を過剰に接合したような作品が多かった2000年代の雰囲気はない。あるのは、その過剰さが〝特色〟から〝前提〟となったテン年代の感性と、前提になったがゆえの客観的なまなざし。そのまなざしに筆者は、ポップ・ミュージックの未来を見た。




(近藤真弥)

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 00年代、本国アメリカでインディー・ロック、ここ日本でインディー・ポップという言葉が広く流布していったことに関して最も重要な役割を果たしたバンドのひとつ。創設時からのギタリスト、クリスは、このアルバムの途中で脱退することになった。それでも、デス・キャブ・フォー・キューティーというバンドは(少なくとも近い将来は)つづいていく。日本語からとられたアルバム・タイトル、金継ぎという言葉は、その象徴といえるだろう。


 ちなみに、たしかクリスの友だちがやっている西海岸のスタジオの名前にはオタクという言葉が使われている、と彼に聞いたことある。中心人物ベンは(州単位でみれば)地元シアトル・マリナーズにいたイチローに敬意を表する曲を、サウンドクラウドで発表したこともある。彼らが日本語を使っても、決して意外ではない。さらに言えば、それまでの活動を総括するような『The Photo Album』(2001年)、その名がヨーロッパ(やアジア)にも響きわたるようになったころの『Transatlanticism』(2003年)、メジャー契約1作目『Plans』(2005年)、ツイッターやフェイスブックといったSNSが世界規模で一般化していったころの『Codes And Keys』(2011年)など、彼らは常に自らおよびバンドが置かれた状況をアルバム・タイトルに冠してきた。


 金継ぎとは、割れた陶器の破片をつなぎあわせて新しいそれを作る陶芸技法のこと。まさに彼らや、ぼくらの世界の現状にふさわしい。


 少々話はとぶが、去る4月13日、ノエル・ギャラガー&ザ・ハイ・フライング・バーズのライヴを体験して興味深いことに気づいた。すべてのレパートリーがスタジオ・ヴァージョン以上に「曲そのものの魅力を際立たせた」アレンジとなっているではないか。ライヴでは、個々の楽器の演奏をここぞとばかり披露する形になりがちなのに、その逆。ライヴ・ヴァージョンのほうが、むしろあっさりした印象。もちろん生身の演奏者や歌唱者自身が眼前にいるという事実を加味すれば、決してくどすぎない、ちょうどいい塩梅となる。


 ラジオ→テレビ→インターネット、割れやすいアナログ盤SP→割れにくいアナログ盤EP→長時間収録可能なアナログ盤LP→デジタル盤/CD→音源データという形で、音楽に接するメディアは徐々に変遷を遂げてきた。


 なるほど、これこそが、今という時代にふさわしい「曲そのものの魅力を際立たせる」スタイルなのかもしれない。だからこそ、50年代から現在に至る多彩な音楽的要素を、すごく自然に混ぜあわせることができている。非ロック vs ロックとか、エレクトロニック vs アコースティックとか、そういった、くだらない対立項を超えて。


 デス・キャブ・フォー・キューティー『Kintsugi』に収録された、まさに珠玉といえる曲の数々の魅力の、「比較的あっさりした」際立たせ方に関しても、まったく同じことを感じた。


 クリスは、これで去ってしまう。中心人物ベンは、少し前に離婚を経験している。たしかに、ここには(とりわけ前半に)比較的悲しげな曲が多い。だが、それは昔からそうだった。実際バンド名自体が(ボンゾ・ドッグ・バンド関連のフレーズからとられた)デス・キャブ・フォー・キューティー(可愛い子たち向け死のタクシー)だぜ。


 もし彼らが自分たちの惨状を、エンターテインメント感覚ゼロで陰々滅々と訴求するタイプだったら、こんなこと歌えないよね?


〈きみは ぼくの放浪者 ちょっとさまよってる/海の向こうを/そのまま歩いて 戻ってくてくれないか/ぼくの徒歩旅行者 ちょっとした放浪者/きみに会いたい/きみはさまよう徒歩旅行者 放浪者/どれだけ きみが必要か......〉

(「Little Wanderer」)


 この曲では、その〈徒歩旅行者〉が、〈なんとか元気にやってるよ 東京では今 桜が咲いてる〉という便りをくれた場面で始まり、混みあって動きが鈍くなったネットワーク・サーヴィスのメッセンジャーでお互い<じゃあね>と言いあうところで、最初のヴァースが終わる。


 いつか、何年かあとにこのアルバムを聴いたときぼくは、微妙に雨天が多いけれど、もちろん晴れることもある、2015年春の空を思いだすだろう。




(伊藤英嗣)

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 今年で5年目に入るライター活動のなかで、たくさんのアーティストにインタヴューをさせてもらった。この経験をもとにひとつ言えるのが、自分のサウンドに誇りがある人ほど、影響源となったアーティストやバンドの名を饒舌に挙げてくれるということ。おそらく、挙げたアーティストやバンドと比べられたとしても、自分のサウンドに宿る独自性が薄れることはないという自信があるからだろう。この自信は言ってみれば、自分のサウンドを楽しむための参考にしてもらえたらという余裕と、これまで聴いてきた音楽に対する愛と敬意が入りまじったものだと思う。


 そうした自信を感じさせてくれるのが、「Olutta」という作品だ。本作を作りあげたのは、2013年に千葉で結成されたバンド、Helsinki Lambda Club(ヘルシンキ・ラムダ・クラブ)。メンバーは橋本薫(ヴォーカル/ギター)、佐久間公平(ギター)、稲葉航大(ベース)、アベヨウスケ(ドラム)の計4人。本作は彼らの1stミニ・アルバムにあたり(去年も自主制作で「メシ喰わせろ」というミニ・アルバムを発表しているが、こちらはどういう位置づけなのだろう?)、これまでに「メッカで朝食を」「供養e.p.」「ヘルシンキラムダクラブのお通し」という3枚のシングルを残している。


 そんな彼らの歌は、音楽に対する愛情で満ちあふれている。曲名からして、「All My Loving」「Lost In The Supermarket」「テラー・トワイライト」など、ポップ・ミュージック好きならニヤリとしてしまうものが多い。「ユアンと踊れ」の歌詞にいたっては、ジョン・レノン、ジム・モリソン、ブライアン・ジョーンズ、AC/DCといった音楽史に名を残す者たちのみならず、小説家のジャック・ケルアックや、シャーロット・ブロンテの小説『ジェーン・エア』まで飛びだしてくる、いわば引用の嵐。それでも、憎たらしい知識自慢に聞こえないのは、橋本薫のどこか客観的な歌声と言葉選びが秀逸だから。これはおそらく、心地よい言葉のリズムを損なわないよう少なからず意識してるからだと思う。他の歌詞にも、思わずニヤけてしまう一節がたくさんあるので、あなた自身の耳をフル活用して探してみてほしい。


 もちろん音のほうも興味深い。シンプルでキャッチーなメロディーが際立ちながらも、グルーヴは多種多様。ストロークスを想起させるガレージ・ロックが土台にありながらも、〝テンション・コードが好きなんだろう〟と思わせる佐久間公平のギター・ワークはどこかジャズの匂いを漂わせるし、稲葉航大のベースはファンクやR&Bからの影響を匂わせる。このようなロック一辺倒ではない混ざり具合が、あらゆる音楽が並列で聴かれるようになった2000年代以降のセンスを感じさせるし、この点が「ストロークスを想起させる」と書いた所以でもある。つまり、過去の偉大な音楽を継承しつつも、それだけに依拠しないモダンな感性も持ちあわせているということ。


 また、歌詞ではヒネくれた視点を垣間見ることもできるが、自身の好きな音楽的要素を衒いもなく出してしまえるあたりは、とても素直だと言える。少なくとも、ニルヴァーナや初期のレディオヘッドに代表される、90年代のロックに多く見られた〝アンチ・メジャー〟みたいな否定的姿勢は見られない。いわば、〝好きなものは好き〟と言える自由さ。それがHelsinki Lambda Clubの魅力だと思う。その魅力をより深化させるためにも、音色などのアレンジをもう少し多彩にしたらいいかも?なんて思いつつ、筆者は「Olutta」を繰りかえし聴いている。



(近藤真弥)

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 数年前、日本の主に若い音楽ファンのあいだで、シティー・ポップという言葉が流行っていた。それはそれで別にかまわないのだが、ちょっと不思議に思ったのは、彼らが参照していた音楽がラジオでがんがんかかっていた70年代後半~80年代に、そんな言葉、少なくとも(重度な)音楽ファンであるぼくらは、ほとんど使っていなかったってこと。


 ただ、普通に、そこにあるものだった。


「伊藤さん、シティー・ポップについてどう思います?」とか最近あまり聞かれなくなったので、おそらくその言葉も、すでに過去のものになったのかな? まあ、いいんじゃない? ぼく自身は常に郊外生活者。


 都内に仕事部屋借りてたときも、毎回(微妙に)郊外的なノリを残した地域に決め、数年使ってるうちに、そこがなんかお洒落になっちゃったころ引っ越す......みたいなことのくりかえしだった。シティー・ポップの次はサバービア(郊外)・ポップなんて言う気は、さらさらない。なにせ、日本の(重度な)音楽ファンのあいだでは、サバービアって言葉が、〝お洒落なもの〟と誤解されている(まあ、渋谷系という言葉が登場したころ、それ系のお洒落な同名音楽ジンがあったから:笑)。


 だけど、ぼくが〝郊外的な音楽〟にひかれることが多いってことは、避けられない事実だ。大阪で結成されたガールズ・グループ、Especia(エスペシア)による、このメジャー・デビュー・アルバム『Primera(プリメーラ)』を聴いて、まさにそんな思いを新たにした。


 一般的にはアイドルに分類されるのかもしれないが、まあ、そんな部分にこだわる必要もないだろう。50~60年代ソウルや、フィル・スペクター全盛期にあったような、全員女性のヴォーカル・グループ。最近だったら、そう、1曲目の歌詞の一節に〈Spice girl〉ってのがあるけれど、スパイス・ガールズとかね(って、全然最近じゃねえか。すみません:汗&笑)。


 ただ、カヴァー・アートに、メンバーの姿は写っていない。エレクトロニックなサウンドにあわせて、みんな好き勝手に踊って楽しむクラブの情景が写っている。姿勢としてロック的、もっと正確にいえば、ロック的な姿勢を持った〝ほかのもの〟っぽい。たとえば、ベースメント・ジャックスとか。


 数年前からサウンドクラウドなどで作品を発表、インディー・リリースをへてリリースされた、このアルバムの1曲目は、10分近くに及ぶ長尺曲だが、ダンサブルかつポップなサウンドとドラマティックな展開で、まったく長さを感じさせない。それはいいのだが、クレジットを確認して驚いた。


 ソングライティングとアレンジに......若旦那が参加している!


 若旦那といえば湘南乃風。中学生時代の息子が好きだったから、ぼくもよく聴いていた。決して嫌いじゃなかったどころか、むしろ気に入ってたかも。70年代後半に自分が中学生だったころは吉田拓郎が好きだったのと同じような感じかな? と思ったり。ただ、決して(湘南乃風に)のめりこめなかったのは、ぼくにとっては、ちょっと〝漢(おとこ)〟度が強すぎるかな、と。そんな若旦那が、インディーあがりのガールズ・グループと......!


 あっ、いや、ほかにも手がけたことあるのか? 知らなくてごめん。だけど、とにかくEspeciaとの組みあわせは、完全に〝吉〟と出たようだ。〈わたしは最初 メジャーの話を聞いたとき/素直に喜べませんでした〉〈怖いという感情が勝ちました〉といったMCに代表される「町の女の子」っぽい(もしくはインディー的)メンタリティーと、〈国道沿いの焼肉屋で1年間働いてたわ/仲間がくれた言葉 決して忘れない〉というベタな......あけすけな歌詞が、実に見事に融合している。


「Interlude」をはさんで、そこからラストの「Outro」までは、(途中、ゲーセンの情景的な「Skit」もはさみつつ:笑)スムーズ&ソウルフルに流れていくのだが、その途中、7曲目のタイトルに、なにか象徴的なものを感じた。


「さよならクルージン」。ぼくにしてみれば「クルージン」という言葉は、実にシティー・ポップ的。彼女らは、それに「さよなら」と言えたのか? この先も、新しい、素敵な......郊外ポップの旗手たりえるか?


 最後になってしまったが、ぼくがもともとエスペシアに興味を持ったのは、偶然ネットで見かけた(某新聞の)特集記事(の画像)で「高校時代、ニュー・オーダーやジョイ・ディヴィジョンばかり聴いていた」という(ほかのバンドの)発言が目につき、そこからのつながりだった。


 そう、忘れてはいけない。ジョイ・ディヴィジョンやニュー・オーダー自体が、実は、まさに文字どおり「郊外的感覚」に貫かれたバンドだったってことを。


(伊藤英嗣)

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 先日、HEAVEN'S ROCK宇都宮で、4人組バンドねごとのワンマンライヴを観てきた。これまで何度も彼女たちのライヴは観てきたけれど、バンド・アンサンブルが抜群で本当に驚いた。時にパワフルで、時に繊細で、時に叙情的で、その表情はさまざま。さらには風格まで漂わせるもんだから、「メンバー全員20代前半という若いバンドなのにこれはどういうことだ?」と思いながら、素直に「かっけえ!」と言えるライヴに筆者は身を任せていた。


 でも、よくよく考えると、ねごとは結成8年目のバンドだ。活動歴は意外と長く、その間にたくさんのライヴを重ねたのだから、風格が漂うのも半ば必然だろう。また、ねごとは2010年のメジャー・デビューから現在に至るまで、フル・アルバム2枚とミニ・アルバム2枚、そして多くのシングルを残している。たくさんの紆余曲折や試行錯誤を強いられたキャリアは、素直に順調だったと言えるものではないかもしれない。それでも、そんなキャリアを経たからこそ、ねごとは風格を見せることができたのだ。それはねごとが、さまざまな壁を乗りこえた経験をしっかり血肉化していることの証明だったと、今でも思う。


 そうした考えを巡らせつつ、ライヴ後にねごとの最新アルバム『VISION』を聴いてみた。もちろんライヴ前にも繰りかえし聴いていたけれど、ライヴ後にあらためて聴くと、本作にも風格があることに気づかされた。セルフ・プロデュースで作られた本作は、一言で表せば、ねごとがこれまで培ってきた技術や音楽的素養を多分に反映させた力作。アルバム全体に自信がみなぎり、バントの充実した雰囲気が伝わってくる。これまで以上にアイディアの多彩さが際立ち、ねごとなりにさまざまな挑戦をしている。基本的にキャッチーで耳馴染みの良いサウンドだけれど、よくよく耳を澄ませると、玄人を唸らせる技巧が浮かびあがってくる。


 特に驚かされたのは、「透明な魚」という曲。少ない音数でグルーヴを生みだすこの曲は、忙しないドラムのリズムが秀逸。コーラス・ワークも非常に手の込んだもので、曲の構成は、どことなくSPARTA LOCALS(スパルタ・ローカルズ)や、そのSPARTA LOCALSのメンバーを中心に結成されたHINTO(ヒント)を想起させる。また、筆者の耳からすると、ギャング・オブ・フォーやザ・フューチャーヘッズといった、イギリスのポスト・パンク・バンドを連想させる音でもある。あるいは、初期のフランツ・フェルディナンド、トゥー・ドア・シネマ・クラブ、ザ・クリブス...つまり、イギリスのロックを思わせるのだ。


 さらに、シングルとして先行リリースされた「シンクロマニカ」は、何度聴いてもテクノとして聴いてしまう。曲の展開はロックだけれど、トランシーなシンセサイザーの使い方とグルーヴは、ザ・ケミカル・ブラザーズやオービタルに通じる。実を言うと、本作は全体的に横ノリで踊れる曲が多い。縦ノリで激しく体を揺らすというよりは、体を揺らしながらも〝浸れる〟のだ。レッド・ツェッペリンを思わせるブルージーな「GREAT CITY KIDS」など、バンド感を打ちだした曲もある。しかし、アルバムを通して聴くと、〝もしかしてハウスやテクノを熱心に聴いてるのでは?〟と思う瞬間が何度もある。ゆえに本作は、一本調子ではない、すごく多様な楽しみ方ができる作品だ。家でじっくり聴いて、あれやこれやと語りながら楽しめる。それほどまでに本作はよく出来ているし、いろんな要素がこれでもかと詰まっている。


 それから、歌詞の面白さも見逃せない。たとえば「アンモナイト!」に登場する、〈アンモナイト! きみに会いにいかないと〉という一節。あるいは「endless」に出てくる、〈エンドレスキス 宇宙のキス きみをずっと待ってたんだ〉という一節。日本の歌には、メロディーの1音に対して1文字(言語学の音韻論では〝1モーラ〟とも言います)わりあてたものが多いけれど、いま例に挙げた一節を聴いてもわかるように、本作の歌詞は日本的だと言える。くわえて上手く切分音を操ることで、言葉の心地よいリズム感も作りだしている。こうした方法論は、Mr.Childrenスピッツが得意とするもので、いわゆるJ-POPでよく聞く言葉のリズムだ。それは言ってしまえば、日本語だからこそ生まれたもので、そうした日本的な言葉のリズムを操る術に長けているのが、ねごとの魅力だと思う。そう考えるとねごとは、〝日本のポップ・ミュージック〟を鳴らせるバンドのひとつだと言える。


 ねごとのライヴに行くと、中高生くらいのお客さんをたくさん見かけるけれど、同時に彼ら彼女らより上の世代もよく見かける。まあ、言ってしまえばおじさんおばさんなわけだけど、こうした人たちは、先に書いたあれやこれやと語れるところに惹かれた、いわば玄人だと思う。これまでいろんな音楽に耳を傾け、知識も豊富な人たち。つまりねごとは、世代間の橋渡しになれる音楽を鳴らしているのだ。そしてその音楽は、ポップ・ミュージックの魅力そのものでもある。



(近藤真弥)