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tennis.jpg 旅の思い出を友人たちに伝えるために作った曲がデビューのきっかけになったという、現在は3人組のアメリカはデンバーの夫婦バンド、テニス。ファースト・アルバム『Cape Dory』も良かったが、ブラック・キーズのパトリック・カーニーをプロデューサーに迎えたセカンド・アルバムとなる本作『Young & Old』も素晴らしい。丸1日リピートで聴けるポップ性が輝き、音そのものが楽しんでいるかのごとくのサウンドがポンポン飛び出る。ローファイな質感に女性ヴォーカリストのアライナ・ムーアの歌声が迷うことなく真っすぐ通り、ギターのアルペジオとピアノの音色が歌を邪魔することなく鳴りわたる。静かに溢れてくる浮遊感の心地良さが増幅された奏でには楽しみの心地が宿っているからたまらない。ラ・セラの『Sees The Light』やサマー・ツインズの『Summer Twins』にも通じる作品だ。

 サーフ・ポップと呼ばれる本作は気負いなく聴けるが、エッジの効いたサウンドがくっきり浮かび上がっているのはパトリック・カーニーがプロデューサーということも大きい。「ロックンロールな瞬間を求めた」というテニスがブラック・キーズのパトリックと手を繋ぐことを望んだのはロックのあの突き抜ける感覚を欲したからだろう(現代においてブラック・キーズは最高のロック・バンドの1組だ)。本作はオールディーズ風の楽曲に突き抜ける瞬間、いわばテニスが言うロックンロールの瞬間が突如飛び出てくるというスリルがある。ぜひ前作と聴き比べてほしい(日本盤のLimited Editionには前作『Cape Dory』がボーナス・トラックとして丸々収録)。

 特筆すべきは豪快なロックンロールの色が濃くても前作にあったオールディーズの匂いは全く削がれず、ミックスの妙によって古き良き音楽の楽しさが充満している点だ。テニスは古き良き音楽と現代のテクノロジーを同時に客観視した上で音楽を創作している。無論、そういった音楽は数多く存在する。モーニング・ベンダーズ(現POP ETC)は『Big Echo』でユートピアを体現した。ザ・デモズは『Lovely』で軽快にスキップを踏みながら過去を今に塗り替えた。テニスは本作で前作同様にノスタルジアを全面に押し出した。

 これらは過去の音楽への憧れを出発点として創作されたものと言っていい。聴き手である僕らも、特に50~60年代がリアルタイムではない世代にとっては過去の音楽に対してある種の憧れを抱くことは、ままあるだろう。僕なんぞはいまだにキンクスに憧れるが、重要なのは、なぜ過去を美化してしまうのかであり、テニスはその解答として「新しいインスピレーションを得られる」と語る。面白いのはそのインスピレーションが本作ではテクノロジーによる技巧によって鳴らされているところだ。それは現代にあって、特別なことではないと思う。" Revolution Will Not Be Computerized "ということなのだ。今を呼吸している50~60年代を愛するバンドの音楽創作方法は確実に変わった。コピー&ペーストになど終始しない。本作収録の絶妙にミックスされた「Traveling」がそれを雄弁に語っている。これが今のテニスであり" Traveling "はまだ続く。そう思わせる音が鳴り続く。

 

(田中喬史)

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MERENGUE.jpg 前作にあたる、ミニ・アルバム「アポリア」において、夕暮れの海沿いの世界を睥睨してきたメレンゲ。当初、現在のヴォーカル・ギターであるフロントマン、クボケンジのソロユニットとしてミニアルバム『ギンガ』でインディー・デビューを飾ってから10年が経ち、10周年の区切りとしての象徴的な作品ともなり得るのが本作、『ミュージックシーン』である。

 クボを始めリズム隊のタケシタツヨシ(ベース)ならびにヤマザキタケシ(ドラムス)の従来通りのメレンゲの布陣に、ツアーサポートメンバーとなった元くるりのギタリスト、大村達身と前作から同じくキーボーディストの皆川真人をアディショナル・プレイヤーとして招かれて制作された、堂々たるタイトルが輝かしい『ミュージックシーン』は、僕自身の結論から述べると、前作から見えてきた「夜のメレンゲ」としての現時点での最頂点と言って一切の差し支えがないとの断言も辞さない。

 前作、『アポリア』のレビューにおいても述べたが、相変わらず、CDを取り出す前からジャケットを手に取った時点で、その独特の世界観が秀逸に表されている。まるで、(『シンメトリー』のジャケットのような)夕方の海から帰ってきた二人を乗せて都市に戻っていくかのようなバスと夜景の対比がメレンゲの新たな世界を映し出しているようで、感傷的である。

 サウンド面では『アポリア』で、今までのリスナーからすれば少々実験的とも思えた試行錯誤の跡が、『初恋サンセット』や『シンメトリー』のような彼らのお得意のセンチメンタルなメロディと上手く調和させることに見事に成功している。タイトル・トラックの「ミュージックシーン」で緩やかな幕を明けるアルバムは、「バンドワゴン」のシンセサイザーと実直なリズム隊のアンサンブルで打ち鳴らされる不確かな期待、前作から続くファンクの要素が垣間見える「フィナーレ」、国内のギター・ポップ界の盟友、ゴーイング・アンダー・グラウンドの松本素生と共作されたというギター・ポップ直球の「給水塔」、「バスを待っている僕ら」や「予報通りに晴れた空」でも聴かれた小気味良いシンセサイザーのリフがくすぐったい「ビスケット」などを経て、強がっているような歌詞を後押しするようなおどけた曲調が切なさを一層に倍増させる「物持ち」で終わるまで、これまでのメレンゲのエッセンスと前作からの新たな試みが融合している様にただただ驚かされるばかりだ。

 最早、メレンゲはギター・ロック・バンドという括りでは見ることは不可能であるとも言えるだろうが、それでもやはり、他のバンドの追随を決して許さないような圧倒的なメロディ・センスから賞賛の意をもって、やはりメレンゲはギター・ロック・バンドであるのだと再確認できるようだ。

 歌詞面では、前作よりさらに彼らの基調であった「海沿い」の感覚が薄れている。それは、先にも述べたようにジャケットが示しているように海を後にして都市に戻ってきている彼らの現在のモードを映し出しているのかも知れない。

 サウンド面同様に、歌詞面でも驚かされる点がある。それは、《いつだって精一杯笑う君に恋をしたあの夏の日》(「クラシック」)から《君を愛したせいで嫌いになった誰かの裸ばっか覚えてる》(「hole」)まで、彼らの従来の甘酸っぱい優しげな一節から、あえて醜いと思わせるような言葉さえ使っている一節の明暗の幅が非常に広い点である。

 そのなかでも、リード・トラックである「まぶしい朝」の歌詞は、その感傷的なサウンドとともに、「君が去ってしまった僕」に残された欲望、哀愁、期待、鬱屈といった人間的な感情が渦巻いており、哲学的な感覚さえ覚え、『アポリア』(レビューでも書かせていただいたようにギリシア語で「困惑」の意)という言葉はこの曲に凝縮されているのではないかとさえ思える圧倒的な名曲である。

 また今作では『アポリア』で収録の機を逃していたことを惜しまれた、クボが新垣結衣に作曲を提供した「うつし絵」も収録されている。この曲だけは作詞にクボは携わっていないが、それを除いても、今作では今までのどの作品よりも明らかにクボは自分の心の奥を曝け出すように詞を綴っていると言えるだろう。そして、それは、メレンゲが海沿いの景色を離れ、虚飾の光を取り払ったこととリンクしてからであると言えるのではないだろうか。

 『アポリア』のレビューにおいて、メレンゲはネクスト・ステップに歩み出していると書いていたが、まさかここまでの早さで新たな境地の完成形に達するとは正直に言って、想像していなかった。
改めて、断言しよう。メレンゲはこの作品において「夜の世界」の極地を歌い切っており、それは彼らが現在、邦楽ロック・シーンで改めて最も注目されるべきアーティストであることの一つの証明を成していると言える。

 是非、あなたも夕方の海沿いの景色を後にして、今の恋や昔身近にあった恋、現在や過去の自分自身やあなたの隣にいる人、隣にいたであっただろうはずの人、その関係に照らされる刹那とも思える世界、その眩しさや郷愁に身を委ねて聴いてみてほしい。きっと彼らが映し出す優しさと残酷な夜の世界に引きずり込まれることだろう。

 『ミュージックシーン』、10周年を迎えた「夜のメレンゲ」が打ち鳴らす名作だ。

 

(青野圭祐)

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SILVERSUN PICKUPS.jpg 「ファースト・アルバムは勢いで作れる。セカンド・アルバムは経験で作れる。それゆえ、サード・アルバムで真価が問われる」とはよく聞くが、確かにレディオヘッドもプライマル・スクリームも、スーパーカーもくるりも、サード・アルバムがバンドにとって重要な作品だった。

 カリフォルニア出身、グラミー賞の最優秀新人賞にノミネートされた経験を持つ男女4人組のロック・バンド、シルヴァーサン・ピックアップス。サマーソニックに出演した経験をも持つ彼らは、セカンド・アルバム『Swoon』で、幸か不幸かバンドの完成形を手に入れてしまった。

 「完成」、すなわち自分たちのやりたいこと、やれることをやり尽くしてしまったら、バンドは次の作品を創作するにあたって袋小路に立たされる。だからなのかサード・アルバムとなる本作『Neck Of The Woods』はメンバーいわく、「何が今の自分を作りあげたのか、それを探る作品になっている。どうやって今の自分が出来たのかを知ろうとしているアルバム」という自分たちを見詰め直すものになっている。

 プロデューサーにR.E.M.やU2などの作品を手掛けたジャックナイフ・リーを迎え、スマッシング・パンプキンズの音楽性を軸に、クーパー・テンプル・クロースに似たヘヴィなギター・サウンドを交えながらも音数を減らし、フォークに通じるアコースティックな感触を思い出すように鳴らしている。それは自らのソング・ライターとしての資質を試しているかのようだ。ヒップホップ・ビートやポスト・ロックの要素を取り入れている曲もあり、試行錯誤している様子も窺えた。ニュー・オーダーやマンサンを彷彿させる曲すらあることも試行錯誤の結果だろう。彼らは自ら"シルヴァーサン・ピックアップスという記号"で縛られた縄をほどこうとしているのだと思う。

 本作は彼らの最高傑作ではない。これまで以上にダークで実験作と位置付けてもいい作品だ。ジャケットに映っているように、この作品では彼らの夜明けへの願望が鳴っている。セールス面での成功とネーム・バリューを手に入れたバンドが鳴らす、自分たちへの葛藤と、もがき。その神妙の色を帯びた音を美と評するのは野暮ではない。

 

(田中喬史)

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大島保克.jpg 民族音楽学者のエドガー・ポープ氏は「異国情緒」を、「エキゾチズム」という言葉で表現した。「エキゾチズム」とは普遍的な文化現象として捉えられているが、沖縄に対する「エキゾチズム」も、日本本土とは異なる歴史に裏付けされた当たり前の情緒として考えることは出来る余地はある。その「エキゾチズム」は、歴史・文化・社会・政治等の側面で、「沖縄」の持つ印象を後押しすることになっているのは皮肉だが、止むを得ないことなのだろうか。

 沖縄の八重山諸島、石垣島出身の気骨の唄手(うたしゃ)たる大島保克の"5年振りの新作"と表現すれば、訝しく思う方も中にはいるかもしれない。トラディショナルな島唄集、他分野のアーティストとのコラボレーション(2007年の『大島保克 with ジェフリー・キーザー』注:ジェフリー・キーザーはジャズ・ピアニストである。)、ライヴ活動の歳月を経て、実にオリジナル曲に特化すれば、2002年の『島時間 ~Island Time~』から10年経ったことになるからだ。10年。この歳月を長いと考えるか、短いと考えるかは、この『島渡る ~Across The Islands~』の13曲には濃密な彼の想いと軌跡が詰め込まれているので、耳を傾ければ、分かると察する。

 大島氏は、1969年生まれということもあり、まだまだ気鋭としてのラジカルな部分が散見されるものの、今作では伝承の唄手としての懊悩と模索の痕、そして、少しの余裕と成熟も刻まれた内容になっている。20代後半から30代の中で徹底的に磨いたという三味線の響きはより美しく繊細に、また、彼が好きだというボブ・ディランやノラ・ジョーンズを意識した、より情感をそのまま表すようになった高音の伸びと柔らかみのある歌唱力。偉大なる沖縄の唄手の登川誠仁、知名定男などの薫陶を受け、ほぼ、知名定男の引退と重なるように、この作品はリリースされ、沖縄の島唄の継ぎ手としての証左と、一つのメルクマールになるのではないだろうか。

 なお、13曲の内訳に関しては簡単に触れておこう。

 ベースは、大島氏が作詞・作曲をしているが、純然たる新曲は、2曲目の「旅路」、作曲が栗コーダーカルテットの近藤研二の3曲目「まつりのあと」、作曲がBEGINの島袋優、共演、鳩間可奈子の4曲目の「来夏世(くなつゆ)」、6曲目「マンタラ祝」、7曲目「~与那岡(ゆなむり)」<早調子>、8曲目「波照間(はてるま)」、9曲目「島渡る」、12曲目「旅路(Instrumental)」、13曲目の「与那岡(ゆなむり)」。

 他は提供曲のセルフカバー、過去曲の新録で成り立っているが、芯の通った凛然たる作品の様には唸らされる。しかし、アコーディオンやギター、ウクレレ、ドラムなどを大胆に導入したり、リズムにも興味深い曲もある。沖縄のみならず、「民謡」というものへの距離感を持っている方も居るだろうからこそ、気軽に向き合ってみると、そこには風通しの良さと細かい音響への拘りと、歌詞の練られた美しさが「耳を誘う」とも感じる。誘われた耳から沖縄の海が見えるのか、島が見えるのか、または、青い空が見えるのかはそれぞれなのだろうが、3日間の集中したレコーディングで基本は一発録り、という緊張感と即時性も功を奏したのか、一気に聴き通せるバランスもあり、勢いと熱量も高い。

 「旅路」では、ダウン・トゥ・アースなリズム感覚に三味線が舞い、柔軟な大島氏の歌唱が舵を切る。「まつりのあと」での慕情も感慨深い。5曲目に入っている2002年発表の今は亡き嘉手苅林昌氏へ捧げられた「流星」の再録音では、合間にヒートウェイヴの山口洋氏のエレキ・ギターが沿うように響き、美しいアンビエンスを生み、《星の影は遠ざかり また生りくる》という滋味深い歌詞が深く染み入る。皆が入り込みやすい<早調子>の「与那岡(ゆなむり)」や後半部分の始まりに重石のように芯の通った「波照間(はてるま)」では、民謡・演歌の影を後ろに現代的な音響解釈もされている。

 聴き手の涙腺を緩ませるタイトル曲「島渡る」は、繊細な演奏と六甲や淡路の景色を切り取った描写の先に慈愛が見える今作でクライマックスと言ってもいい曲かもしれない。個人的に、これからも彼の軸を担ってゆく曲ではないか、とさえ思う。12曲目の唯一のインストゥルメンタルなどはとても軽快で、チンドン的な朗らかさが微笑ましい。

 沖縄に行った経験がある人なら分かるだろうが、例えば、国際通りを歩けば、ステーキ・ハウスや沖縄料理屋が犇めく。そして、勿論、過去の歴史と基地の問題も重く並存している。観光のバス・ツアーで流れるのはTHE BOOMの「島唄」や夏川りみの「涙そうそう」か、外部からこそ内部が見えるというのもあるだろうし、大島氏も石垣島と沖縄の"間"を埋めるために相当の努力を重ねてきたのはこれまでのキャリアが証明している。ただ、ウチナーグチとヤマトグチで編み込まれた言葉遊びのようで思わぬ意味が浮かぶリリシズムと40歳を越えて定まってきたという唄手としての矜持、三味線が主に前に出ながら絡まってゆくときに、普段の都市生活をおくる中では見えづらい感情が喚起される。「流星」が空を掠めるように、彼はまた次の島を渡るための路を往くのだろう。

《華やかな夜は明けて 時は移り過ぎてゆく 散りてぃゆく花は咲かぬ うりになさきかきてぃ》
(「流星」)

 夜が明けたら、島を渡り往くために船に乗る。そんな搭乗チケットのような作品になっているのと同時に、民謡たる「うた」の強さを再確認した上で、エキゾチズムのタームで回収されない新しいフェイズに入った気もする。出来る限り、多くの方に響いて欲しいと希う。

 

(松浦達)

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middle9.jpg 大阪を拠点に活動する4人組インスト・バンド、ミドルキューが3年8ヶ月ぶりにミニ・アルバムを発表。これがバツグンに素晴らしい。彼らが奏でるメロディーに誰もが酔いしれる、ズバリ! 最高傑作なのだ。フリーキーな混沌ポストロックがさらに狂化。ギターとドラムが吐き出す濁流グルーヴが脳ミソを破壊し、ニヒルな詩情を携えたトランペットが神経を逆撫でする。しかし、そこには躊躇のかけらも無く、逆に晴れ晴れとした気分に。湿ってはいるものの妙に渋みを感じさせる夜露的オルガンと、溢れ出る叙情をあえて抑制したようなメロウ寸止めサウンドのハマリ具合も完璧。

 良い曲と良い演奏の為にひたすら腐心すること。この当たり前を本当にやり遂げているバンドがどれほどいるのか。皆に開かれていながらどこからも完全に独立し、現実的でありながら現実に追従しない。だから最新の作品やライブが最重要となり、安易に消費されない普遍性を帯びている。凄いバンドだと思う。

 

(粂田直子)

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LAMBCHOP.jpg ジャケットを見て違和感を覚えた人にこそ聴いてほしい。そしてラムチョップを聴いたことがない人にも。

 ラムチョップはカントリー&ウエスタンのメッカと呼ばれるアメリカはナッシュビルのバンド。この地は1925年から今も続いているカントリー・ミュージックの有名番組「グランド・オール・オープリー」の発信地だ。そういった場からラムチョップが誕生したのは当然のように思う。彼らは古き良きカントリー・ミュージックの良心であり、オルタナティヴな存在でもある。新譜が発表されるたびに「これ以上のものはもう作れないだろう」というほど最高と呼べるものだった。が、しかし、スタジオ・アルバムとして11枚目となる本作『Mr. M』もまた、最高傑作と呼べるもので、この先何年も作品を発表するごとに傑作の呼び声を傑作にとどめず最高という言葉で彼らの作品は塗り替えられていくのだろう。フロントマンのカート・ワグナーが全精力をつぎ込んだと語ったとおり、デビューから約20年経った今も創作意欲は尽きることを知らない。そんなところも最高であるし、この作品も勿論のこと最高だ。

 触れる程度に寄り添うアコースティック・ギターの音色が背中をなでるように、また、リズミカルに鳴り、余白にオルガンの音色が条件反射的なタイミングで響き楽曲に色をつける。ゆったりとした歩調で進む楽曲の数々を聴けば気持ちの昂ぶりとともに落ち着きが芽生えるというパラドックス。そして訪れる哀しみに気付く。それは、本作は、共演したこともある故ヴィック・チェスナットに捧げられているからだろう。ロンドン・ストリング・アンサンブルとトスカ・ストリング・カルテットによるストリングスが醸し出す哀しみに覆われるがラムチョップは決して絶望に暮れている訳ではない。静かに強く歩を踏み出しているかのごとく音を鳴らす。聴いているとその様に背中を押される思いだ。

 もし、このレヴューを読んでいる方の中に黒人性も含めてカントリー・ミュージックに何らかのエキゾチシズムを持ってはいるが、敬遠気味の方がいるとしたら本作を聴くのはとても幸せなことだと思う。カントリーを深く、そして身近に感じられるのだから。音楽評論家の萩原健太氏が「カントリーを敬遠しているリスナーにはポコを薦めたい」と語っていた記憶があるが、僕ならば迷わずラムチョップの本作を薦める。ポコ以上に親近感を覚えるはず。ラムチョップがこれまでの作品でローファイなロックや音響派など、様々な要素を自らの音楽に落とし込み、それらを通過した上で必要な音だけ鳴らしているのが本作であり、通過したがゆえに「今」として鳴っているのだ(ヨ・ラ・テンゴのメンバーもお気に入りの00年に発表された『Nixon』と聴き比べると面白い)。

 カート・ワグナーの渋味のある、滑らかな歌声は瞬時に聴き手を虜にし、場合によっては訳も分からず涙する人もいるであろう哀愁とやさしさがある。朴訥とした歌声ながらも音の弾みを穏やかな視線で見詰めるカートが傍にいる錯覚すら感じるかもしれない。ラムチョップの音楽は遠い場所からは絶対に聴こえてこない。聴き手はすっと音の中に入っていける。カントリー好きは勿論、カントリーはそれほど好きではない方も、彼らの音楽を聴けばカントリー・ミュージックに対するエキゾチシズムや何かしらの違和感はあっさりと抜け落ち、自然に自分の中にカントリーの存在が生じてくる(まさに初めてラムチョップを聴いた時の僕がそうだった)。本作で鳴っている音は想像力との会話によって異国との距離を近くする。勿論、カントリー云々を抜きにしても素晴らしい作品。一生聴ける。

 

(田中喬史)

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JOSEPHINE FOSTER.jpg フェデリーコ・ガルシア・ロルカは、ここ日本でも人気の高いスペインの詩人/劇作家だが、1933年に訪問したブエノス・アイレスで『ドゥエンデのからくりと理論』という講演を行なった。そもそも、「ドゥエンデ」とは、"dueno de casa"というフレーズが省略されたものであり、想像上の精霊としての意味に加え、定義的には曖昧な部分も振れるが、スペイン南部のアンダルシーアにおける「神秘的ながら、どうとも言いがたい魅力」というものでもあり、具象的には歌、舞踏、芸術を指す際の言葉と捉える視角でも良いと思う。ロルカは当該講演で、ドゥエンデについて言及した。あらゆる芸術にドゥエンデは宿ることが可能だが、もっとも広く宿るのは、当然のこと、音楽であり、舞踊であり、朗誦される詩だ、と。

 ジョセフィン・フォスター&ザ・ヴィクトール・エレーロ・バンド(Josephine Foster & The Victor Herrero Band)が2010年にリリースした『Anda Jaleo(アンダ・ハレオ)』は様々な意味で話題になったのも記憶に新しい。冒頭のロルカが採譜・編曲の上で束ね、録音した1931年のスペインの民謡集「Colleccion De Canciones Populares Espanolas」では、彼が実際にピアノを弾き、舞踏家のラ・アルヘンティニータが歌うという内容で、もはや古典といってもいいものだ。その中から、11曲を選び(今回の国内盤には1曲が追加されている)、グラナダで一発録音された作品である。アメリカ人の女性SSWとして独自のキャリアを重ね、ときに、アメリカの19世紀の詩人エミリー・ディッキンソンの詩に曲を乗せた2009年『Graphic As A Star』といい、その活動に一定の評価を得ているジョセフィン・フォスターの伸びやかにして清冽たる声。そこに、公私とものパートナーであり、バンドのヘッドたるヴィクトール・エレーロの寄り添うようなハーモニーと軽快なスパニッシュ・ギターの響き、メンバーの彼の弟、友人がパーカッションなどを重ね、「混種」しながら、民謡の持つ重み、土臭さも巧みに描写せしめていた。

 まるで、かのフランスの詩人アンドレ・ブルトンが抱いていたという"もっとも強いイメージ"とは、"もっとも高度な気ままさを示しているもの"、そういう雰囲気に近いだろうか。スペインの民謡集に宿る歴史も慮りながら、しっかりと今の時代に伝承する心遣いに満ちた内容だった。

 同じメンバーでのこの新作『Perlas(ペルラス)』では、ニュー・フォークの追い風を受け、スペインの各地に伝わっている伝承歌をジョセフィンがチョイスし、自作曲も一曲入れ、アナログ・テープに一発録音したものになっているが、『Anda Jaleo』と簡単に比較対象は出来ないが、柔らかな陽射しが差してくるようなウォームな空気はこちらの方が強いかもしれない。

 昨今、ベックやローラ・ヴェイアーズなどトラディショナル・ソングを掘り起こし、今の温度で再表象しようとする動きが世界の各地で少しずつ起きているが、それはグローバリゼーションへの反撥や商業主義への距離感といったものではなく、各国に眠る芳醇たる歴史に耳を傾ける必要性が出てきているということだとしたならば、偏狭なナショナリズムではなく、味気なく平質化されるカルチャーへの「原資(エレメント)」の呈示行動なのではないか、とも思いさえする。とともに、未来を生きる子供たちに向けた視座も包含されているだろう。日本には明瞭に「温故知新」という言葉があるが、それもあるとは察するし、各表現者たちが自覚的に自分たちの表現のルーツや背景を見返し、そして、前へ進もうとするための禊ぎの時代と形容してもいいのでないか、と思う。

 新しい音楽に新しい時代が反映されるというのはあり、文化の変遷により、忘れ去られてしまう曲も止むを得なく出てくるのを時代のせいにするのも分からないでもないが、こうした試みによって伝承歌が至って、当たり前に2012年の生活に「関わる」というのもとてもいい気がする。ロルカ沿いにドゥエンデが見えてくるような二作になっている。

(松浦達)

 

筆者注)日本国内盤は『Anda Jareo(アンダ・ハレオ)』と『Perlas(ペルラス)』のダブル・アルバム仕様のため、前作の『Anda Jareo』にも触れさせて戴きました。何とぞ、ご了承下さい。

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THE GREEN KINGDOME.jpg コンスタントに傑作アンビエントを届けてくれる、デトロイト出身のマイケル・コットンことザ・グリーン・キングダムによる4枚目のフル・アルバム。プロジェクト名を変えたり、ダークなアンビエント路線やポスト・クラシカルへ浮気をしたりせず、ひたむきに荘厳なアンビエントを制作し続ける彼の姿勢が、本盤を傑作たらしめた。リリース元の《Nomadic Kids Republic》は《Home Normal》のサブ・レーベルに位置し、マップス・アンド・ダイアグラムスやBvdubなど、本家よりもさらに内省的なドローンやアンビエントを制作するアーティストが国内外から集まっている。

 エレクトロニクスは囁き声のように微かなビートから、淡く滲んでいくレイヤーまで、マクロにもミクロにもアルバム全体を埋め尽くしている。アコースティック・ギターやストリングスは、電子音の隙間へと丁寧に配置されている。それらが持続音や環境音へ溶け込む手法は、今では多くのアーティストにやり尽くされたものの、掛け値なしに美しいことは断言したい。彼のアンビエントは情報量が多く、縦横無尽に多様な音が駆け巡っていながらも、一つ一つの音が小さく繊細であるため、いわゆるフォーク・トロニカにも通じる細々した朴訥さも僅かながらに秘めている。《Home Normal》は勿論のこと、12kやテイラー・デュプリー周辺に関心のある方には、是非聴いて欲しい。エレクトロニクスと生楽器が共生するアンビエントが好きな方の琴線に触れるであろう「あの音」が鳴っている。

 

(楓屋)

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Yosuke_Yamaguchi_cover_art.jpg 『Ç86』と聞いてピンと来た方もいるだろう。このタイトル、ギタポの教典として今もなお語り継がれているコンピ『C86』から拝借したものだ。とはいえ、収録されているのはまんま1984~86年頃の音楽ではなく、チルウェイヴを通過したポップ・ミュージックであるのは強調しておきたい。他にもオカルト・ユー(タクワミの変名)「Y」、ウーマン・イン・ザ・デューン「Eats (Sending Out An SOS)」は昨今盛り上がりを見せるニュー・ディスコ/バレアリックに通じるインディー・ダンスだし、アルバム後半にはイル・デイズ「Hallucinatory Soap Bubbles(Lo-Fi Ill Mix ver.)」、エクスコウ「17」といったエクスペリメンタルなエレクトロニカもあり、実に様々な楽曲が収録されている。そしてエクスコウはなんと、マッドエッグの変名である。「17」はローな音像が耳に残るマッドなシンセウェイヴなんだけど、マッドという意味では、「17」こそマッドエッグの名にふさわしい気もするが・・・。それはともかく、本作には最先端のインディー・ミュージックが収録されているということだ。

 でも『Ç86』と銘打っているだけあって、当時のリアルタイマーを揺さぶる要素もある。本作を企画した首謀者モスクワ・クラブの「Our Pastime」はニュー・オーダーを想起させるメロディー・ラインが特徴的で、スロウマリコ(名前の由来はスロウダイヴでしょうか?)「Dolly Almost Touched You」なんて、もろジーザス・アンド・メリーチェインだ(ただこの曲に関しては、元ネタを知らずにそうなってしまった感もある)。さらにはジョイ・ディヴィジョンの影がちらついてしょうがないフィギュア「Given」なんてのもあったりする。本来バンドを引き合いに出して例えるのは好きじゃないが、そんな筆者を引き合い魔にしてしまうくらい"元ネタ"と呼べるものがたくさんあり、言及せずにはいられなかった。おまけに『C86』収録曲のカヴァーまでついてくるし、首謀者モスクワ・クラブと、本作を企画するにあたって参謀に近い働きをしたエレン・ネヴァー・スリープスは、C86時代の音楽(そしてC86世代に影響を与えた音楽)に特別な思い入れがありそうだ。

 ちなみに本作は東京、千葉、神奈川、愛知、大阪、鳥取、京都、福岡、北海道を拠点とするバンド/アーティストが参加している。ここまでバラバラだと単なる寄せ集めになりそうなものだが、不思議と本作には一体感に近い熱気がある。そして何より、自由気ままに音楽を楽しむ者が集まったことによる賑やかさ! この熱気と賑やかさは、送り手と聴き手の間でインタラクティブを確保するのがイージーになった"今"を祝っているかのようである。そんな本作は、音楽の在り方の変化を世に示す声明であり、未来へ向けたブループリントになりえる。てのは、筆者の考えすぎ? だが、商業化に走り過ぎたメジャーに対するアンチ・キャンペーンの一環として生まれた側面もあるのが、本家『C86』である。そして音楽産業の限界が叫ばれる今、その『C86』の名を拝借したコンピが生まれたのは果たして偶然なのか。まあ、考え過ぎてこじつけるのは僕の悪い癖。でも、こうして存在してしまっているという事実に、筆者は真理を見出してしまうのである。

 

(近藤真弥)

 

※本作はリンク先からダウンロードできます。

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LLLL.jpg 本稿を書くにあたっていろいろ調べてみたのだけど、どうやらLLLLは東京を拠点とするデュオらしいのだが、それ以外は一切の詳細が不明というミステリアスぶりである。ちなみにバンド名は、「視覚的に決めた名前ですので、"フォーエル"もしくは"エルエルエルエル"とで、まだ決めかねています」と、ツイッターで本人とやり取りした際に教えてもらいました。まあ、それはともかく、本作をバンドキャンプで発見したとき、記号のようなバンド名に目がいったのは言うまでもない。

 本作はLLLLのデビューEPにあたるが、《The Fader》に取り上げられるなど、早くも話題になりつつある。そんな本作をマイ・ブラッディー・ヴァレンタインに例える声もあれば、最近注目のトリルウェイヴと呼ぶ声もあるが、マイブラやトリルウェイヴ、そのどれもが本作にはあるし、他にも様々な音楽的要素が混在している。

 トランシーな音像、そしてサイケゴシックな雰囲気というのは本作のカラーを決定づけているが、グルーヴはベース/ビート・ミュージック以降を感じさせるし、ディレイとリバーブは明らかにチルウェイヴを通過したものだ。しかし一方で、シンセ・リフとウィスパーな女性ヴォーカルの絡み方は90年代のアニソンを思わせる。ちなみに筆者は本作を聴いて、アニメ『天空のエスカフローネ』の世界観が、一瞬だけだが頭によぎった。メタリックな質感を持つパッド音は近年のJ-POPやゲーム音楽に近いものだし、"日本ならでは"の要素が随所で窺えるのも面白い。そしてこの多面的な音楽性は間違いなく、日本のインディー・ミュージックにもポスト・インターネット的感覚が存在する証左となっている。

 

(近藤真弥)

 

※本作はLLLLのバンドキャンプからダウンロードできます。