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少年と自転車.jpg ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌは、以前に日本で聞いた「帰ってこない親を施設で待ち続ける子供の話」を元にして、この映画は生まれたという。

 ベルギーという国のイメージは例えば、日本から見ると、ブリュッセルの風光明眉な都市風景、ベルギー・ビール、チョコレートやワッフルなどが先立つのだろうか。実際、GDPを見てみれば、一人当たりの数値は世界でも非常に高い。しかし、「モノを生みだす」国というよりは貿易に依拠している小さな国のため、失業率は非常に高い。勿論、工業とサービス業が発展している北部とそうではない南部の開きはある。ダルデンヌ兄弟は所謂、失業率が特に高いというワロン地域の工業都市リエージュで生まれている。

 これまで、彼らが録ってきた映画はドキュメンタリーから始まり、シリアスな様相を含んできた。3作目となる1996年の『イゴールの約束』では、自転車の見習工をしながら、絶対父性に縛られた少年をモティーフに、そのイゴールの父であるロジェの不法入国者の斡旋業に関わる中で巻き込まれてゆく峻厳な現実にどうしようもなく強さを得ないといけないイゴールの姿が鮮烈に映る作品で、世界でも注目を集めた。

 1999年の『ロゼッタ』でも底辺の生活をおくる少女ロゼッタを通し、生々しくも痛みを帯びた視界を進む姿を切り取ってみせた。2002年の『息子のまなざし』は、特にこの日本でも多くの人たちに受け容れられた作品なので周知の方も多いだろうが、彼ら特有の貼り付くような、独自のカメラ・ワークや演技/映画の枠を越えてくるかのような手法が認知され、少年犯罪を巡っての究極の問いが投げかけられるもので、人間のカルマから尊厳までを考える中で、国境というものよりも家族や個という"ユニット"に降りてゆかざるを得ない難題を示したのかもしれない。いざ、「公」がそのユニットに介入するとしても、葛藤や苦悩は個に内在化されてゆくばかりで、そのサルヴェージを行なうのは実は社会でもなく、身近なユニット内における承認や断罪を探る可能性ではないか、という行為を求めるということ。

 思えば、スーザン・モラー・オゥキン(Susan Okin/フェミニスト、アメリカの政治 学者)は過去、以下のことを述べていた。

「どれほどわたしたちは、子どもを育てる者たちが、その選択のために、彼女たちのその他の可能性を広げる機会を制限してしまうか、そして、社会の諸価値や方向性にほとんど影響を与えることができなくなること、ということを気にかけているだろうか。どれほどわたしたちは、家族というわたしたちの最も親密な社会的集団が、しばしば日々の不正の学校であることに気を配っているだろうか。」(Okin 1989: 186)

 "「不正」の学校"という言葉をどう捉えるかは難しいが、家族という制限された親密圏での自由から広義の社会における自由の橋を渡るには、公私二元論だけでは分けられないジレンマも当たり前に包含する。昨今、日本でも事件としても取り上げられることが増えたネグレクトやDVを受けた子供たちの歩み。加害者としての親、被害者としての子供、いや、相対的にそれは入れ違うのか、構造としても複雑だ。

 このダルデンヌ兄弟の新作『少年と自転車』(原題:Le Gamin Au Velo)での主人公のもうすぐ12歳になる少年シリル(トマ・ドレ)は父親に捨てられ、児童養護施設に入っている。彼は、ダルデンヌ兄弟の冒頭の言葉のように、父親が迎えに来るのを「待っている」。しかし、電話も繋がらなければ、居住場所も分からない。

 施設を抜け出し、自分で父を探しに出るときに偶然、美容院を経営するサマンサ(セシル・ドゥ・フランス)という女性に出会う。彼の懇願もあったが、彼女は週末だけシリルと自分の家で過ごすことになる。その間も自転車で、街を走り、父親を探す。ちなみに、この作品内での「自転車」も象徴的な記号になっている。ついにと言おうか、彼は父親と会うことが出来るが、「もう会いに来るな。」と激しい拒絶を受ける。

 シリルの悲嘆と屈折に沿うように、サマンサは「良識ある大人」として彼に道徳観や慈しみを直截的に向き合い、行動、言葉で教えてゆく。一緒に自転車で河原を進むカットなどはとても光が差していて、微笑ましい。途中、施設出身者の不良が出てきてシリルを犯罪に巻き込もうという展開や所々に挟まれる闇が不安定な年齢の少年の内部を描き、彼の生きる現実を表わす箇所もあるものの、これまでのダルデンヌ兄弟にしては、エンディングに含みを持たせた優しさも見える内容になっている。

 父親が購入し、サマンサが買い戻したシリルの自転車と彼女の自転車を「交換」して、お互いが並行して走る先に見えるものはそう簡単に拓けた未来ではないかもしれない。トマ・ドレの繊細な感情の機微を含んだ演技も相俟って、一少年の成長譚と簡単に片付けることの出来ない現代的な投げかけを持った内容になったと思う。エンディング曲のベートーヴェンのピアノ協奏曲『皇帝』が柔らかな余韻を残す。

 

(松浦達)

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HIRAGA SCHIE.jpg 一口に「共感を得る」と言っても、いくつか種類がある。一般論を口にすれば共感は得られるのだろう。逆に、誰も気付いていないが聴き手の深層にある心理を口にすることで他者の心理をすくい上げることも共感を得ることに繋がる。ファースト・アルバム『さっちゃん』を経て発表された、SSW平賀さち枝の6曲入りのミニ・アルバム「23歳」はまさに後者で、共感がキー・ワードでもあるのだ。

 シンプルにギターを弾きながら、あどけない声で自らの心情を辺りの空気に溶け込ませるように歌う彼女の姿には気負いがなく、窓から外を眺めながら歌を口ずさんでいるようでもある。その等身大の姿が目に浮かび、平賀さち枝は過剰なアーティスト気質を持っているのではなく、聴き手という立場から音楽を奏でているのだろう。だからして彼女の歌は聴き手である僕らの気持ちにすらりと収まり、リンクする。軽やかなピアノ。雄大なベース。刺の無いメロディ。それらが本作をただのフォーク・ミュージックだと言わせないかのように鳴っている。そして歌詞を読めば、彼女に見えている風景は僕らにも見えている風景であることに気付く。しかし平賀さち枝は心情と風景を細部まで描写する。そこには僕らが今まで気付かなかった、生活の中のちいさな幸せが含まれていて、思わず微笑んでしまうだろう。

 そんな、ちいさな幸せに共感する。本作にはどこかの政治家が言った「死ぬ気になれば何でもできる」「夢を諦めるな」という掛け声だけの言葉よりもずっと勇気づけられるものがあるのだ。それゆえ、彼女のフォーク・ソングには普遍性が宿っている。

 本作のラストには「パレード」という曲が収録されているが、ここで言うパレードとは仰々しいものではない。音楽に憧れて岩手県から上京した平賀さち枝にとって、東京の街を歩く人々はさながらパレードのように見えたのだろう。中ジャケにはそれを暗示するような写真がある。私事だからといって恐縮はしないけれど、田舎から上京してきた僕は彼女が見た東京に対する思いに共感させられてしまったのだった。きっとそう感じるのは僕だけではないはず。

 ショピンやグッドラックヘイワのメンバーが参加した本作にはジャズの要素が含まれている。しかし、平賀さち枝には彼女が持つあどけなさとは裏腹に、どのような音楽性であっても歌声を華麗に聴かせる力がある。そういったところに共感を超えて、憧れすら抱いてしまう。だが、僕らは憧れている場合ではないのかもしれない。聴くたびに、都市の中で彼女のように自分の歩調を失うことなく生きなければならないという思いが音楽を通して浮かんでくる。その意味で、本作には強さがひっそりと存在する。そこにまた、共感と同時に勇気をもらえる。

 

(田中喬史)

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Shackleton.jpg 結論から言うと本作は、デヴィッド・ボウイ『Low』である。ボウイが『Low』で描いたヨーロピアン的世界観は今尚その影響力を発揮しているが、そのヨーロピアン的世界観を支えているのは、『Young Americans』から顕著だった黒人化を果たしたリズムである。こうした両面性は、クラフトワークやカンといったゲルマン・ミュージックに当時のボウイが影響を受けていたことによるものだが、そんな『Low』からは、"西欧人による西欧的な本質的表現"という意味で"オクシデンタリズム"と呼ぶべき思想の蹂躙性を感じとれるし、その蹂躙性に通じるものが、2枚組となった本作にはある。

 まず『Music For The Quiet Hour』は、全5曲が収録された組曲形式の作品となっている。暗黒の電子音によるエクスペリメンタルなアンビエントは、スロッビング・グリッスルと『Breaking The Frame』におけるサージョンを掛け合わせたような、不気味でドープな雰囲気を生みだしている。しかし「Music For The Quiet Hour Part 2」以降は、お得意のトライバル・パーカションに不穏なヴォイス・サンプルも登場するなど、シャックルトン節が炸裂する。シャックルトンは影響を受けた音楽にカンといったクラウトロック系のバンドを挙げているが、クラウトロックのゲシュタルト崩壊的快楽は、『Music For The Quiet Hour』において重要な要素だと思う。そういった意味で『Music For The Quiet Hour』は、シャックルトン流クラウトロックとも解釈できるだろう。

 そして『The Drawbar Organ EPs』は、3枚に分けてリリースされたEPをひとつのアルバムとしてまとめたものだ。統一的な『Music For The Quiet Hour』とは違い、『The Drawbar Organ EPs』は雑食的な作品だが、散漫になっていないのはさすがといったところ。『Music For The Quiet Hour』では"度々"登場するガムランの旋律やアフリカン・ビートも、『The Drawbar Organ EPs』では"頻繁"に登場し、シャックルトンにしては比較的フロア仕様のトラックが収録されている。そんな『The Drawbar Organ EPs』は、カットアップ的手法で作られた横断的アルバムだと言えるが、インタビューでも自身が認めているように、シャックルトンの辺境音楽に対する造詣は深くない。辺境音楽の音そのものに興味はあっても、歴史や伝統には無頓着だし、それは本作に歴史や伝統をふまえた表現が見受けられない点からも容易に察しがつく。

 先に筆者は、『Low』における"オクシデンタリズム"の蹂躙性に通じるものが本作にはあると書いた。だがボウイは、彼なりのルーツといったものにこだわりを持ち、『Pin Ups』では自らのルーツを再確認、『Young Americans』ではアメリカに乗りこんでレコーディングするなどし、その追求は『Let's Dance』に繋がるわけだが、その過程でボウイは蹂躙性を捨て去ってしまった。一方のシャックルトンは、ボウイが捨て去った蹂躙性を引き継ぎ、己の音楽的探究心と欲望に身を任せたような音楽を鳴らしている。その音楽は、ニコラス・ジャーに言わせれば「それって現代の植民地主義なんじゃないかな?」(ガーディアンのインタビューにおける発言)となるのかもしれないが、シャックルトンの蹂躙性は、ポスト・インターネット世代が持つ良い意味での軽薄さと共通するものであり、そういった意味で本作は、ダブステップ・コーナーの片隅ではなく、グライムスやトリルウェイヴ勢の作品と一緒に並べられてもおかしくないし、それだけの同時代性がある。

 

(近藤真弥)

 

 

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Good luck.jpg イタリアのインディー・ロックを代表するジャルディーニ・ディ・ミロが4枚目のフル・アルバムをリリース。エレクトロニクスやオーケストレーションを派手に導入した2008年の『Dividing Opinions』と、サウンド・トラックとして制作された2009年の『Il Fuoco』とを経て到達した本盤は、紛れもなく痛快なギター・ロックに化けている。上記の2作に漂っていた壮大かつ不穏なアンビエントは削がれ、一転してミニマルな楽曲が光り、"引き算のロック"のぎらりとした魅力を存分に発揮している。ポスト・ロックやスロウコアの文脈でばかり語られるのは、とても勿体ない。

 ギターの硬質なトーンやフレージング、演奏技術の高さ、楽曲の複雑な構成はポスト・ロックを想起させ、不穏さを纏ったアルペジオと、緩やかに広がっていく空間系エフェクト、ルッチーニのロウなヴォーカルはスロウコアを体感せずにはいられない。本盤はそれに加えて、ギター・ロックの持つダイナミックさを兼ね備えているのが最大の魅力である。ストレートな8ビートにバッキングとコーラスが乗っかり、ベースはルート音をタフに弾き続けている「Time On Time」や「Ride」の不思議な疾走感なんてとにかく最高だ。そう思えば、深く歪むギターとダークなアルペジオが対照的な「Flat Heart Society」は前作までの延長線上のようであり、6分の楽曲にこれでもかと多様な展開を織り交ぜていることには唸らせられてしまった。技巧派のイメージが強かったジャルディーニ・ディ・ミロだが、これはちょっと認識を改めなければいけない。ライヴが観たい!

 

(楓屋)

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THE PONY.jpg  最近では韓国に行くと、まずはソウル中心街内の弘大(ホンデ)にアート・シーンの芽吹きがあり、ライブ・ハウスやアトリエも包含し、NYのかのThe Factoryを思わせる磁場も仄かに出来あがってきている。そこにある弘益大学という芸術系大学の子たちや集まっているアーティストと話を交わすと、例えば、日本のオルタナティヴな音楽や文学への愛好、西洋の音楽でもエッジなもの、アンダーグラウンド・シーンにも詳しく、またはバンクシーのことで盛り上がったりもする。彼らは容易にネットなどを経由して、ボカロにも中田ヤスタカ辺りのエレクトロニック・サウンドにも敏感で居ながらも、ダブステップ、ジュークまでを平質にリテラシーする能力の高さも凄いが、よくよく鑑みれば、《Pastel Music》レーベルの昨今の動きの活発さも思うと、K-POPではなく、K-ALTENATIVEともいえるような目覚ましい台頭をしてきているのも当たり前なのかもしれない。

 Daydream、Ninaian、Jowallなどのポスト・ロックを通過した鮮明なアンビエンスを描くバンドも着実に評価が定められてきてもいるが、このたび、紹介したいのはボーカルのチェ・サンミン、ギターのキム・ウォンジュン、ドラムのグォン・オソク、ベースのユ・スンボからなる4人組のThe Ponyの3年振りとなるEP「Little Apartment」。既に、ホンデ・シーンの気鋭として知っている方も居るかもしれない、独自のセンスで少しずつ期待を掴んでいるクールなバンドだ。

 2009年の第一集では、00年代のストロークス、リバティーンズを筆頭としたガレージ・ロック・リヴァイヴァルの波に影響を得た荒々しさを帯びたサウンドに程好いポップネスと明瞭なフック、性急な青さを含んだ佳作だったが、このEPでは試行錯誤の痕と次へ向けての冒険心を詰め込んだものになっている。

 主に音楽的語彙でいえば、80年代後半のネオアコからシューゲイズ・サウンドを照応しながら、ダウナーなイメージを鏡面の内側に向けて刻むという3年前とは違った憂いも反射した青さが映えている。ヴォーカルのチェ・サンミンの声がプライマル・スクリームのボビー・ギレスピーのような気怠さと細さも帯びているからなのか、このEPに収められている5曲は、それぞれ微妙な色の違いと差異はあれども、甘美な背徳感が心地好くも背面に張り付いている。

 1曲目の「ソウル市の春」の無機的な電子音とドラムマシン、淡々とした展開からじわじわと陶然たる音の拡がりに浮遊感が加わる、その様にはジョイ・ディヴィジョンの残影が明らかに見える。一転、2曲目「君の家」は大胆にシンセが取り入れられたポップなナンバーになっているがしかし、振り切るよりは抑制のコードを這って行く辺り、ヴェルヴェッツ・チルドレンらしいところも伺える。続いての3曲目「ラジオ」はセカンドの頃のホラーズ辺りのアート・ロックとの近似を示し、4曲目「アンニョン」は轟音のギターがサウンド・アトモスフィアを形成し、高らかに響く昂揚感を保持し、5曲目の「誰の部屋」はザ・キルズ辺りへの接近も見え、上品な頽落と言えるだろうか、ヴァルネラブルに低熱の路を潜航してゆく。

 5曲という枠で全体的に、骨身だけのサウンドに得も言われぬ陰翳と聴き手の意識を刺激するサイケデリアを手に入れた過渡期としてのEPの意味は大きいが、来るべき第二集に向けて、成長痛かもしれないこの深化は彼らのポテンシャルを試す段階のものでもある。韓国から国境を軽やかに越えて、全世界に響くサウンドが世の中に充溢してきているだけに、こういったインディーズ・シーンから着実にオルタナティヴな胎動が出てきているのも注視に値すると思うとともに、彼らの動向も追いかけたい。

 

(松浦達)

 

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MYSTERY JETS.jpg この人たちのファーストからの変貌ぶりには改めて驚く。だってファーストではメンバーのお父さんがバンドに在籍していて、森の精みたいな格好して中毒性のやたらに高いヘンテコなポップミュージックをやっていたんだから。何々っぽい、というのが皆無なバンドだった(もちろん過去の素晴らしい音楽からの引用がいくつか認められたにしても)。セカンドから「Two Doors Down」というあまりに素晴らしいフロア・アンセムを生みだしたときから現在に至るまで、常に彼らはわたしたちが想像するミステリー・ジェッツというバンドの最高点を軽々と超え続けた。あるいは2000年代でもっとも評価するべきバンドのひとつに対して、個人的にあまりに称賛の言葉が少なすぎたんじゃないか、といまは後悔すらしている。

 そして4枚目となる今作から先行シングルの「Someone Purer」の全貌が明らかになったとき、彼らがシンセサイザーのキャッチーな音色に潔く別れを告げ、アメリカンな乾いたポップスに向かったという事実に、深く頷かざるを得なかった。これは当然の流れだった。彼らは80年代ニュー・ウェイヴやポップスの恩恵だけを受けていまの音楽性を築いたわけではない。それはもともと彼らのなかにあったものなのだ。彼らには素晴らしいメロディを書くセンスがあったし、それを大仰にせずセンス良くまとめる編集能力も備わっていた。おそろしくバランスの良いバンドなのだ。

 ファッションもクールだ(いまのバンド・マンでクールなのは、ドラムスか、ミステリー・ジェッツか、ウォークメンか、その3つが最高峰だろう)。そんな完全無欠のインディー・バンドに対して、わたしはやっと心から夢中になれるアルバムに出会えた。『Radlands』はまず、これまでのキャリアを総括するような大名曲にしてタイトル曲の「Radlands」でスタートする。前述の「Someone Purer」はライヴでも大合唱間違いなしのビッグ・アンセム。「Greatest Hits」はブランダン・ベンソンを彷彿とさせるアメリカン・ポップス。いまの時期の日曜の晴れた朝にうってつけの曲だ。こういう曲は余裕がないと書けない。1曲1曲挙げていくとキリがないな...(トーキング・ヘッズみたいな曲もある)。

 《Made in USA》

  そんな言葉が真っ先に思い浮かぶ。米テキサス州オースティンでレコーディングされた今作だが、何でこんなにも気に入っているんだろうとよくよく考えてみたら、単にヴィンテージ・アメリカの香りがするからではなく、キラーズのセカンドにも通ずるグラマラスな魅力を『Radlands』にも感じるからだった。セカンド、サードを経てこその一枚。2012年、現時点で断トツのベスト。

 

(長畑宏明)

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Tricot「小学生と宇宙」.jpg 「音楽とは快感である!」


 中嶋イッキュウ(ヴォーカル/ギター)、キダ モティフォ(ギター/コーラス)、ヒロミ・ヒロヒロ(ベース/コーラス)、komaki♂(ドラム)による京都の4人組バンド、tricotにとって初の全国流通盤となる「小学生と宇宙」を聴き終えたとき、思わずそう叫びたくなってしまった。まあ、実際は「こりゃ気持ちいい!」と叫んで、隣の住人から「うっせえ!」とお叱りを受けてしまったのだが、とにかく本作は、音楽を鳴らす喜びに満ちた4人の姿が目に浮かぶものとなっている。


 tricotは2010年に結成されたバンドだが、ライブ・パフォーマンスには定評があり、バンドの自主イベント《爆祭》は、秒速ソールドアウトになるくらいの人気を集めている。筆者も何度かtricotのライブには足を運んでいるが、なんといってもその魅力は、どの観客よりも楽しそうに演奏する4人の姿だろう。息の合ったブレイクをキメた瞬間や、そんな阿吽の呼吸に酔いしれているような立ち振る舞いは、いちいちカッコよくて本当にため息がでる。究極的に言えば、4人は"カッコいい曲を演奏する自分達が好き"なのである。


 そんな陶酔も、人によっては不快に思うこともあるだろうが、筆者は全然アリだと思うし、むしろもっと陶酔すべきだと思う。というのも、最近日本のバンドのデモ音源を数多く聴かせてもらうなかで、アレンジやプロダクションといった面は秀逸でも、曲そのものの構成や演奏に関してはスリル感がなく、演者と曲の間に距離があるものが多いからだ。それはそれで良い曲もあるが、演者の顔が見えない曲というのはつまらないし、繰り返し聴きたいと思うことも少ない。それに"カッコいい曲を演奏する自分達が好き"になれるのは、"音楽が好き"という前提があってのことで、でなければ、"カッコいい曲を演奏する自分達が好き"、もしくは"カッコいい曲が好きな自分が好き"といった次元にたどり着くことはできない。こうしたナルシシスティックな要素は、精魂込めて作りあげた曲を人に届ける際には必要不可欠なものだと思う。


 その点tricotは、曲との距離が極めてゼロに近く、曲にコミットしている。曲にコミットしすぎて不安定な荒々しさを見せることもあるが、表現したい音をひたすら追い求める本能と理性がズレていく摩擦によって生まれる、ヒリヒリとしながらも聴き手を昂らせるグルーヴは唯一無二のものだ。このグルーヴがもっとも発揮されるのは、やはりライヴだと思うが、本作はそんなライヴの雰囲気に近い音が収録されている。初の全国流通盤とあってか、"これがtricotだ!"と言わんばかりの、挨拶代わりにしては強烈すぎる剥き出しな姿が克明に刻まれているが、実はtricot、勢いだけのバンドではなく、演奏力もかなり高い。繊細かつ豪快なギター、バンド・アンサンブルを力強く支えるベース、変拍子を自在に操るドラム、そのどれもが魅力的であり、技術に裏打ちされた豊かな表現力を獲得している。だが、どんなに変拍子を入れても、複雑な構成で展開が激しいものになっても、4人は"聴きやすさ"を忘れない。こうした姿勢は「ひと飲みで」に顕著で、本作中もっともチャレンジングなこの曲は、途中でテンポをぐっと落としファンク的な展開になるなど、本作の音楽的探求心を象徴しながらも、ポップ・ソングとしての万能性も備えた曲である。


 そしてやはり、中嶋イッキュウのフロントマンとしての才能にも触れるべきだろう。彼女が紡ぐ言葉は、語感の気持ち良さを重視した、例えば桑田圭祐と同様の作詞スタイルだと思うが、だからこそ中嶋イッキュウの言葉は反射神経に富んでおり、時折感情過多になりつつも、聴き手の想像力を無視せずしっかりコミュニケートする。こうした聴き手の捉え方を尊重する姿勢は、交流のある赤い公園とも通じるものだが、「夢見がちな少女、舞い上がる、空へ」「MATSURI」は、聴き手の捉え方を尊重しつつも、彼女なりのメッセージがあるように思える。というのもいま挙げた2曲、特に「夢見がちな少女、舞い上がる、空へ」は、いまどき珍しく説教臭い。この説教臭さ、現在においてはちょっと異端だと思うし、そんな異端ぶりに思わずマニック・ストリート・プリーチャーズを想起してしまったのだが、曲のドライヴ感と重なり合うように早口で歌われる歌詞は、聴き手の奥底に潜む"ナニカ"を確実に揺さぶる。


 本作を繰り返し聴いて感じたのは、いまの4人は自然と湧き出るアイディアに身を任せているということ。こうしたある種の野性的感性は、『The Music』期のザ・ミュージックと類似する部分でもあるが、この野性的感性がより意識的になったとき、tricotはもっともっと大きな存在になると思う。そういった意味で本作は、"完全無欠のミニ・アルバム"とは言えないが、それでも本作に収められた最大瞬間風速は一度体感すべきである。そのエネルギッシュなポジティヴィティーは必ず、あなたの背中をやさしく押しだしてくれるはずだ。


 《好きに踊れ》(「夢見がちな少女、舞い上がる、空へ」)


 この音楽、理屈じゃない。



(近藤真弥)



※本作は5月9日リリース。

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THE DEMOS.jpg リラックスしていてフレンドリー。ジャム・セッションしていたら曲がいくつも出来てしまったというような肩肘張らない楽曲がこのアルバムに詰まっている。まさにジャケットの写真みたいに気持ちの腰を下ろしてお酒でも嗜みながら聴けるロックンロール。きっと本作『Lovely』は音楽シーンに波を起こさないし、バンドはカウンター・カルチャーとしてのロックを演る意思もないのだろう。そこが素敵で、音楽は娯楽的に楽しむものというベタな言葉が本作の前では全く陳腐に響かない。そもそもバンド名がザ・デモズという、冗談なのか本気なのか分からないところにインディー・ロックの匂いがする。こういう気取っていないバンド大好きなのだ、僕は。

 ニューヨーク出身の男性2人によるザ・デモズ(ジャケットに映っている女性はメンバーではないのが残念)。彼らのファースト・アルバムである本作には敬愛するビートルズ、ビーチ・ボーイズ、ストロークスの音楽性が色濃く反映されている。「Nervous」はストロークスの拝借すれすれ。そこかしこにビートルズやビーチ・ボーイズの音楽性が散りばめられているが、「ロックとはこうあるべき」という懐古的なところはなく、ローファイ感溢れるパワーポップを展開し、アート気質なんて丸めて窓から投げ捨てた爽快感が満載。共同プロデューサーに元ロングウェイヴのマイク・ジェイムズをむかえ、ミックスはホワイト・ストライプスの 『Get Behind Me Satan』 でグラミー受賞の経験もあるジョン・ハンプトンということから窺えるように、彼らの本質にあるのはグッド・メロディ、ローファイという、ビルト・トゥ・スピルやロングウェイヴが持っているものなのだ。

 ただ、ザ・デモズの場合はマット・ポンドPAやデス・キャブ・フォー・キューティーの『We Have The Facts And We're Voting Yes』にあるような哀感をも持ち合わせている。本作を「単なるビートルズの模倣」と評する向きはあるのかもしれないが、歌声のエコーの効かせ方やメロディ・ラインはデス・キャブやマット・ポンドPAのそれを取り入れたものであり、60年代的な音楽だと一口に言えず、ザ・デモズは歴史的な文脈から外れることを楽しんでいるように聴こえる。

 パソコンのディスプレイを前にクリックを数回すれば様々な音楽が聴ける時代にあって、ザ・デモズはビートルズもデス・キャブも並列に捉え落とし込む。無邪気なまでに。それは近藤氏がグライムスのレヴューで指摘したようにポスト・インターネットに通じるところがあるのかもしれない。ただ、ザ・デモズの場合は情報を絞り、ロックンロールからの遺脱を、ポップ感を失わないまま追求している。穏やかな楽曲に突如ギター・ノイズを入れたり、室内楽の要素を取り入れたり。どんなに親しみやすくとも、ロックという表現には常に歪みや痺れが内在されている。本作も例外ではない。そういった音楽性を、タイトルにあるように、ざっくばらんな調子で"Lovely"と言ってしまえるところがザ・デモズであり、痛快なのだ。

 

(田中喬史)

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転校生『転校生』.jpg 転校生は、埼玉に住む水本夏絵によるソロ・プロジェクトである。筆者が彼女の音楽を聴くようになったのは、水本夏絵の佇まいに興味を持ったからだ。神々しい"聖"を感じさせ、ふわふわとした雰囲気を身に纏いながらも、どろどろとした現実の匂いも放っている。この矛盾する要素を持ち合わせた水本夏絵という人間に、筆者は惹きつけられ、親近感を抱いたのだと思う。

 そんな彼女の歌は、ほとんど傍観者の視点から歌われている。女性というよりは少女で、幼さを感じさせるそのイノセントな歌声は、どこまでも透き通った透明感を携えながらも、憎しみや怒りといった感情が奥底に潜んでいる。しかし彼女は、憎しみや怒りを声高に叫ぶことはなく、むしろ逆に淡々と、歌うというよりは呟くように言葉を紡いでいく。その言葉は、日常において我々が見ている風景と重なるものではあるが、同時に幻想的な非現実も感じさせる。それは「東京シティ」という曲にも表れていて、この曲は"東京そのもの"というよりは、水本夏絵の東京に対する先入観を通過した東京、つまり"東京シティ"について歌われている。もちろん彼女にとってはそれが"東京"であって風景なのだが、その風景を"東京"ではなく「東京シティ」と呼ぶところに、彼女の人間性が端的に表れている気がする。

 その人間性が色濃く反映された歌詞は非常に内省的だが、すべてが正直な言葉であるかは疑わしい。というのも、本作を聴けば聴くほど、彼女の他者に対する警戒心にぶつかるからである。パーソナルな言葉を吐くことによって露わになる本音を隠すかのように、《合法トリップは夢見心地》(「パラレルワールド」)といった抽象度の高いフレーズを随所に織り込んでいることからも、彼女は"認められたい"と積極的にアピールするタイプの人間ではないことが窺える。

 だとすれば、"なぜ彼女は音楽をやっているのか?"という根本的な疑問にたどり着くわけだか、筆者が思うに、音楽しかやることがないから、それしかできることがないから、彼女は歌っているのではないだろうか。極論を言うと、彼女から音楽を取ってしまったら、何も残らない。だからこそ全10曲、相対性理論が歌っていてもおかしくないようなキラキラとしたポップ・ソング集は、薄氷のような危ういバランスのうえに成りたっている。

 

(近藤真弥)

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ユメオチ.jpg 00年代に「喫茶ロック」という言葉が然程の浸透をしなかったのは、例えば、ジャズ喫茶においては野方図に思想、哲学を語り合ったりする熱が過去の系図からあった訳だし、純喫茶ではモーツァルトや映画のサウンド・トラック、または無音が流れるに相応しいというのもあったのも大きい。その中で、喫茶を「カフェ」と横文字に修整して、オルタナティヴな形にしろ、チェーン形式にしても、印象的なマークを付けた場所に合うのはどうしてもレーベルの《スキーマ》を含めてクラブ・ジャズの亜種だった。仮に、エアポート・ラウンジ・ミュージックでもいいのだろうか、オーセンティックなジャズに打ち込みを入れての軽さとクールが必要で、では、10年代に入って「カフェ」と、ロックのオーセンティックな曲がボサノヴァ化されたり、純喫茶が独自の美学を持つ中、敢えてでも、「喫茶ロック」的な穏やかさの称号下で、あくまでBGMとしての鳴りを拒否する若者たちも芽吹いてきている。

 紅茶、コーヒーを境目に誰かと交わし合うブレイクの間に潜むメロディー、フレーズの引っ掛かり、更には何よりもバンド名のユメオチ(yumeochi)とは印象深い。東京の下北沢にある《モナレコード》の店長にして、このバンドのリーダーでキーボードの行達也からなる6人組。なお、その他のメンバーはギターの梅林太郎、ベースの森川あゆみ、ドラマーの梅田順一、ボーカルの寺岡歩美、パーカッションの宮下大輔。明らかにシティー・ミュージックの香りをスティーリー・ダン的な流麗さで纏い、70年代のニュー・ミュージックと"INGのノスタルジア"をネオ・フォーク、サウンド面から照らし直す、そのベタさを指摘をするには、過去のバンド、アーティスト群の遺してきたサウンドとレファレンスすれば、明瞭に分かる。

 同時に、この時代では「癒し」とも近付きかねない、牧歌性と歌謡曲風味のウォームは稀有でもある。過剰さのない淡々たるボーカルの寺岡歩美から滲む淡み。「狙った朴訥」などないように、彼ら6人組に似合う場所は、おそらく騒音やかまびすしくペシミスティックなニュース、余震や暗さから一歩、距離を置いた誰も入れない「寝室」での眠りと微睡みの揺れなのかもしれないが、ヒプナゴジック・ポップという訳ではないところがあり、切実な現実と均衡したロマンティックさが作品を充溢しているのは特筆すべきだろうと思う。

 2011年3月11日から段段と変わってゆく景色と各々の生活の中で、呼吸をする(生活をする)ために切り捨てられざるを得ない「何か」があった。その「何か」は、「ロマンティシズム」だと思う。天秤に掛けたときにどうしてもリアリティに負けてしまう現今、ここの現実。そして、僅か先の暗澹たる日々への路。その中で、深呼吸し直すためには現実逃避かアッパーに振りきるか、粛々と一日を噛み締めることしか出来なかった趨勢があり、そこで文学や音楽はお腹を膨らませるものなのか、というと残念ながら、「NO」だったのかもしれない。だから、ユメオチというバンド名も「夢から醒めたあと」での景色に色を塗ろうとしている実直さがある。

 2011年2月からのライヴ活動の開始からじわじわと歩みを進めてのこのファースト・アルバム『これからのこと』はソフト・ロックの沿いにバーバンクの側から平成以前を見通し、ぼんやりとオリエンタルな雰囲気を越える。既に、小西康晴氏を始め早耳のアーティスト、リスナーからはキャッチされているが、『これからのこと』はまだまだ青写真だと思う。青写真ということは、「夢から醒めたあとでも、落ちないでいること」を筆致してゆく叮嚀さがあるからだ。断じて、ラジカルなものはここには詰まっていない、過激なビートも表現もない、しかし、「日常」という個々にとって掛け替えないのささやかな「うたもの」がある。これを聴きながら歩く舗道、乗る満員電車、泡のように静かに続く「日常」へ添う。

 ちなみに、本作の8曲に振られたタイトルは映画や書籍からインスパイアされたものが多い。1曲目、「若き日の思索のために」は詩人、哲学者の串田孫一氏の1952年の著名よりだろうか。2曲目の「さよならをおしえて」はフランソワーズ・アルディの「Comment Te Dire Adieu」からと察する、7曲目の「悲しみよこんにちは」は言わずもがな、サガンから来ていると思う。そういう狙ったところも含めて、昨今の赤い靴、コトリンゴ辺りの肩の力が抜けながらも、スマートな音像が「J-POPの大文字」を捻転させる。彼らにもしも、フィッシュマンズ以降の「夏休みの続き」は見えるかどうか、時代背景を考えても分からないが、アンビエンスよりも口笛の軽やかさ、突然の豪雨よりも仄かな曇り空が似合うバンドだという気がする。合成着色料の目立つ音楽への反動や入眠するためのポップではなく、ユメオチは、起きながらシビアなリアリティをユースフルに渡り往くだろう。ふと響くマンドリンの音も、思わず切なくなる旋律も、若さを感じる彼岸の他愛のなさへの視点の曇り空からは雨は降らない。

 浪漫豊かき歌謡曲の良さと夢に溢れた舶来的音楽の語彙のマッシュアップの結果の得も言われぬ現代的な叙情。タイトル通り、「これから」がどうなるか、期待できるバンドだと思う。夢で落ちないように、現実はベッドで目覚めなく、ここ、都市自体で響く。

 

(松浦達)