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ココロオークション.jpg 関西を中心に、数々のステージでスキルを磨いてきたココロオークション。2010年に結成された4人組だ。そんな彼らが1stミニ・アルバムを発表したのだが、これが勢い/ライヴ感溢れる、内容の濃いものになっている。

 曲の良さはもちろん、ヴォーカルのずば抜けた表現力に圧倒されまくり。つぎはぎされたような音のマテリアルは決してトリートメントされることなく、ささくれだって悶えてる。そこが良い。鋭いギター・アタックと厚いリズム隊がビルドアップする演奏のテンションは、他の追従を許さない勢い。そして、サウンドの陽気なテクスチャーと、やっぱり、リズム隊の存在感が凄いんだけど、このバンドが持ち続ける繊細なポップさはこれからも変わらないんだろうなという、安心感もある。

 クラシカルな部分を踏襲しつつ、さらに彼ら独自のエッセンスを散りばめた、「エヴァーグリーン」を叫ばずにはいられない作品だ。切迫したムードとポップなメロディーが対峙する、新型ロック・アルバム。さらなる飛躍が期待される。

 

(粂田直子)

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CLOUDNOTHINGS.jpg 6月のHostess Club Weekenderにも出演が決定したクラウド・ナッシングスは今年の2月に最新作を発表している(それでわたしが今頃レビューを書いているというわけだ)。

  これまではグローファイ/チルウェイヴっぽいサウンド加工がまるで男版『ヴァージン・スーサイズ』のようなナイーヴさを醸し出していたが(それはそれで好きだった)、今作は新世代のオルタナティヴに果敢に挑戦している。1stシングルになった「No Future, No Past」は、その単調にして聴いている側が段々と追いこまれていくような曲の構成に、おっさんが目に見えぬ力で引きずられながら最後には宙に浮いてしまう、という不気味すぎる内容のPVが完璧にマッチしていて、彼らの新章への突入を十分に感じさせてくれた。2000年代にシアトルからいくつかの優れたハードコア・バンド(一番好きだったのはケイヴ・イン)が登場したが、その乾いた空気感に共通するものがクラウド・ナッシングスの新作にもある。これこそまさにティーンが聴くべきオルタナティヴ・ミュージックだ。

 つい最近シングル・カットされた"役立たずでいられる時間が欲しい"と叫ぶ「Stay Useless」はストロークス風の爽快なショート・ナンバー。かたやアルバム2曲目の「Wasted Days」は8分を超える大作。そんなアルバムはわずか9曲で幕を閉じる。こういうところがとても今っぽいというか、過剰になることはぜったいに避ける。だってポップという共通項を失ったバンドにはそんなに大した未来なんて用意されていないことが分かりきっているから。アメリカのこういうバンド、どんだけスマートなんだ。曲は粒揃い。じつはシーンにとってポイントになるアルバムだと思うので、ライヴで観るか、それができない方は「Stay Useless」だけでも聴いてほしい。時代の気分は確実に変わってきている。

 

(長畑宏明)

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talk.jpg 「こんなバンドがシアトルから現れるなんて!」と書いたのが、シーポニー『Go With Me』だとすれば、「こんなバンドが熊本から現れるなんて!」と書かざるをえないのが、この6人組のポスト・ロック・バンド、トーク。

 このトークの初の全国流通となる今作『Waltz For Feebee』は、昨年リリースされた同名の自主制作盤に新たに3曲を追加し、インディー・レーベル《Moorwoorks》系列の福岡の《Dead Funny Records》からリリースされた初の作品でもある。

 トークは、2009年3月に3人から結成され、2010年12月に日本のサブカルチャーにおける権威の一つ「路地裏音楽戦争」内の「邦楽若手ロックバンド特集」で堂々たる1位を飾り、昨年末には京都のシューゲイズ・イベント「Kyoto Shoegazing Party」(いきなり余談であるが、このイベントの企画者の一人は青野の高校時代の後輩でもあった)にモノシズムなどとともに出演した...なんてことは、彼らを検索にかけたらすぐに出てくる情報なので、クッキーシーンとして彼らを取り上げるのは、今回が初めてであるが、あえてそういったバンドのイントロダクションは乱暴ながら割愛させていただきたい。

 CDを入れて、プレイボタンを押した瞬間に、スピーカーから溢れ出る荘厳な賛歌のようなアルバム同名のリード・トラックのイントロ、轟音のギターにグロッケンシュピールとキーボードの響きだけで、ヴォーカルの緒方賢征が歌い出すまでの間に一気に北欧、それもアイスランドやデンマークといったメジャー・シーンとアンダーグラウンド・シーンが交差しているような地域の古びた教会に迷い込んだような錯覚さえ覚える。さらに、その轟音の中からおもむろに歌い出される緒方の言葉は、深い憂いを帯びた歌声とともに叙情的な響きを持っている。デンマークのザ・レイト・パレードの陽性の曲を思わせるサウンドと評したところが伝わりやすいだろうか。

 例えば、これが前回、僕がレヴューさせていただいたスリーピーのような北海道や東北地方といった極寒の地域から出てきた音楽ならば、まだすんなり飲み込める。しかし、冒頭にも書いたように彼らは熊本のローカル・シーンから生まれたバンドである。非常に残念なことであるが、僕は現時点で熊本に足を踏み入ったことは一度もない。それどころか、九州に入ったこと自体、大昔に福岡に行った一度しか覚えはない。その上で九州のシーンと言えば、例えばナンバー・ガールや椎名林檎と言った非常に骨太なアーティストが生まれる土地という印象がどうしても強い。が、彼らは、この1曲目「Waltz for Feebee」を一聴しただけで分かるように、九州男児(男女混合バンドなのでこの呼称も厳密にはおかしいが)のような骨太さはまず感じさせない。むしろ、極北の地から鳴らされているかのような氷点下の憂いが荘厳なまでに世界を覆い尽くしているようだ。

 それはレイト・パレードの他にも英国や北欧のカイトやシーベアーといったポスト・ロック・サウンドを思わせるリード・トラックだけではない。恋人の死をイメージして作られたという、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの「Sunny Sundae Smile」を思わせるタイトルの「Sundae Flip」では、『Flora』期前後のアートスクールのような豊満なコード感と、同じくアートスクールでの戸高賢史を思わせる緒方の歌声がどんどん残虐なまでの轟音のギターの内に入っていく様が見られるし、「Aquarium」でも同様にサビで憂愁のコーラスが交差し《投げ捨てたスノードーム》という象徴的な言葉(緒方はTwitterにおける青野とのリプライの返し合いにおいて漫画家の今日マチ子の作品をフェイバリットに挙げていた。それから考えると今日マチ子の漫画、『センネン画報』において同じく象徴的に出てくるスノードームからインスパイアされて出て来た言葉かも知れない。なお緒方は詞中では心中の隠喩を用いているとのことである)が舞う様でも分かる。アコースティックの繊細なコードとグロッケンシュピールが見せる、揺れる世界が切ない「A Certain Letter」でも、そうだ。

 どの曲をしてもまるで、沖縄を除く日本で最南の地方の島で生まれたとは思えない、ポスト・ロック、シューゲイズのエッセンスが盛り込まれている。

 その謎を解き明かすヒントは彼らの評される「あらかじめポスト世代」という言葉の中にあるかも知れない。どこか、不安定な感覚をも覚えるこの呼称を手放しに賞賛しかねる部分もあるが、つまり、フランスの思想家、ジャン=フランソワ・リオタールが指摘したような「大きな物語が既に終焉した世代」と言えるだろう。余談ではあるが、メイン・コンポーザーの緒方と青野は同い年である。その感覚をもって自分自身でも、今まで深く感じてきた、既に大きな物語が望めそうにない世代特有の葛藤と、それゆえの思念、野望がこの作品には渦巻いているように思う。

 彼らの出現は、既に構造主義的な視点だけでは到底、文化を見られなくなってしまった現代の象徴だとも思える。熱力学から生まれた思想である「複雑系」が示すように、現代は高度な文明化し情報が入り乱れ、結果的に居住地や世代を超えた才能が突如として現れうる。複雑なものはあえてしつこく噛み砕いて解釈するのではく、複雑なものとして捉えるのだ。その上で、彼らは、海や国をも飛び越えたところのアーティストやシーンからの影響を平然と鳴らすし、それをただの洋楽の模倣ではなく、国内の音楽から吸収したエッセンスと衝突させた上で咀嚼した音を鳴らしている。それは確実に、邦楽ロック・ファンをもうならせるものであると言えるだろう。便宜的に今回はポスト・ロック、シューゲイズという言葉を用いて彼らを評したが、聴くものによって新たな読み解き方がされることも期待できる。その多様性こそが複雑系なのだから。

 さて、この複雑系の現代が生んだ才能であるトークであるが、このアルバムを聴いただけで、まだまだ彼らのポテンシャルはあるし、どこか淡々としたものよりも、もっと多角的な世界を描き出せるようにも思う。デビュー・アルバムでもある、この『Waltz for Feebee』において、その多角性や多様性を要求する(歌詞もサウンドもそうだ)のは、はっきり言って、いちリスナーとしては欲張りすぎの指摘だとも思える。しかしそんなワガママな要求を、ついぶつけてしまいたくなるのも、それを実現してくれる底力が、彼らには備わっていることがハッキリと垣間見えるからこそである。ここから、更にどんな世界が滲み、飛び出してくるのか期待は尽きない。少なくとも熊本のシーンや国内のインディ・ファンだけではなく、メジャーな邦楽のロック・シーンのファンにも聴かれるべき音楽であることは、間違いない。

 メイン・コンポーザーの緒方は、現在、22歳。嫉妬も禁じ得ないまでの才能だ。

 

(青野圭祐)

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V.A. CUE FANFARE.jpg 昨年2011年の11月に津田真氏が代表/プロデューサーとなって立ち上げられたレーベル《Greenwich Records》。その最初の挨拶にあたって、彼は「まだ多くのひとに知られることのない、けれど、多くのひとに聞かれるに値する優れた音楽を拾い上げ、音楽と作り手に作品的にも金銭的にも正当な評価を与えたい、と考えている」との旨を記している(参考:Greenwich Express)。音楽をあくまでジャンルではなく、質で捉えることをモットーと置いている。

 しかし、言わずもがな、この時代にこういった覚悟は相当なものが要るのは察するには余りある。個人的にも、まだ無名にも関わらず、クオリティの高い音楽を呈示していると思えるアーティストが居ても、経済的与件や真っ当な評価軸に挙げられず、ましてや、フィジカルCDとして店頭に並ぶのも難しい事実を見聞きし、ライヴ活動も含めると、峻厳なリアリティを垣間見るのも少なくない。また、現今の高度な配信文化、フリーミアムのフォームが整っていても、所謂、紹介の文脈、広告の問題、幾つもの障壁が重なり、レーベルとして機能してゆくのがやっと、というケースもある。

 この度、ブログでは少しずつ発表されていたが、《Greenwich Records》からの最初となる作品が届けられた。コンピレーション形式であり、津田氏自身がライヴに通う中で出会い、更にそれを紹介すべきだという価値の下でジャッジされたアーティストや作品が並んでいる。基本、会場での手売りや既発はあれども、全国発売という形では初出である。以下、簡単にだが、説明していきたいと思う。

 1曲目の小春はチャラン・ポ・ランタンでもお馴染みかもしれない、様々な場所でアコーディオン奏者として活躍する気鋭であり、この「三毛猫は左利き」という曲名のインビテーション・カードは1分45秒の軽快な響きを残す。そこから、2曲目は鋭角的なギターイントロに繋がる。個人的にthe band apartやACIDMAN辺りの締まった音を彷彿させもしたが、歌詞やコード進行にはまだ若さと青さも滲むhalnoteという男性四人組の「白と現」。3曲目は、タトラという仙台在住の4人組の「恋の直行便」。ポップなのにどことなく歌詞の捩れ方と肩の力の抜け方といい、踊ってばかりの国辺りの持つキュリアスなムードと近似しながらも、サーカズムよりも優しさが先立つ。

 4曲目からは比較的、穏やかな曲が並ぶ。中田真由美の「ミタイ」。朴訥としながらも、ギター一本で揺れる歌声は、青葉市子の醸す静謐を巡り、空気公団の山崎ゆかりの持つ、澄んだ淡さがある。そこに宮沢賢治のような詩世界がのってくる。続いての5曲目の原名蕗子「みるく」も中田真由美とも親交が深いとのことで、共通点も感じる。それでも、小島麻由美や矢野顕子を思わせる「クセ」がある。6曲目の樋口舞「陽だまり」は昨年、2011年に惜しくも解散した歌姫楽団のソロ。やはり彼女の声そのものの持つ艶めかしさはソロとしても、今後、より切り拓いてゆく地平があるのではないか、と思う。

 一転、7曲目は全員10代にして結成も2011年という、おはようメルシーというバンドの「ください」。正直、演奏はまだまだ拙く、ボーカルも声量があるとはいえないが、得も言われぬ《お願い 少しだけ 少しだけヒントをください》という叫びのエコーには未熟さよりも、スタジオでセッションをする今を生きるバンドメンの日常のラフさ(生々しさ)が照射される。8曲目、今宿えみこ「かさは あか」はサポート・ピアニストの有澤かなを招いての叙情的な曲。ローラ・ニーロ・タイプというよりはキャロル・キングのような安定した歌唱と美しさも含みながらも、ふと《太陽にいまは会えなくても また笑えるわ》などのフレーズの情感溢れるところは胸を打つ。

 チープな電子音とロー・ファイなトイ・ポップの9曲目の女性四人組xpocs(エックスポックス)の「ねむりひめ」の持つ感覚は好きな人は好きかもしれない。10曲目、163(g)(ひろみ)は、2曲目に収録されているhalnoteの第五のメンバーともいわれるベッド・ルーム・シンガーソングライターにて浄土真宗の僧侶。初期の三枚のマキシ・シングルを出していた頃の七尾旅人氏や徳永憲氏を思わせる危うさと折れそうな声に、柔和な電子音の風がそよぐ。11曲目のギタリスト、高橋ピエールが参加したdulce aereo(空気飴)の「glimps of light」は反復するリズムと、味わいのあるギター、言葉がじわじわと染み込む佳曲。

 さて、ガールズ・ポップ・デュオのMiyuMiyuの12曲目「悲しみの林檎」まで来ると、今回のコンピレーションに通底する景色が分かってくる。それぞれの個性がしっかりありながらも、ナチュラルに音楽を奏でようとする姿勢と、その音楽が空気を振動させ、リスナーの「向こう側」を想っている-そんな、寓話性と言おうか。津田氏は「架空の映画のサウンド・トラック」という形容もしているが、叮嚀にそれぞれのアーティストの息遣いまで数えている間に、静けさが滲む。まるで、ボードレールのいう「ただあり、秩序と美と、奢り、靜かさ、快樂と。」だ。

 13曲目の夜の夢「4符」はアングラ的な風情を持ったギター/ヴォーカルの山田と、ドラムス新林のデュオ。14曲目、telescope「Voyager」は洗練したダンス・チューンでおそらく、このコンピレーションの中では一番、キャッチーと形容してもいいかもしれない。DJ、ソロ・アーティスト、コンポーザーの芳川よしのと20歳のフィメール・シンガー「カリソ」と組み、煌びやかな音空間を拡げる。といえども、昨今、隆盛の中田ヤスタカ・ワーク的な過剰さはなく、人肌と原石の予感を感じさせるところが「らしい」。15曲目、たらりらん「たいむかぷせる」はバンドとして或る程度、一つの結晶の仕方を見せているだけに、これからはどういった化け方をするのか、興味深い。16曲目の矢野あいみの「ブルーバード」は《答えはその胸に宿るよ》、《大切な場所から逃げ出すときが来ても》、その先に曲名通り、メタファーとしての青い鳥を求めるようなピアノと彼女の声だけでひそやかな昂揚と寂寞が紡がれる凛とした曲。ラストはガールズ・デュオ、恋のパイナップルの「ハニカミヤハニイ」の不思議な世界観を保った余韻で終わる。

 駆け足で、17曲を紹介したが、それぞれがMy SpaceやTwitter、HPを持っていたり、独自の活動を行なっているので、もしも、このコンピレーション、参考までに末尾に貼ったYouTube沿いに気になったアーティストがあったのならば、深く掘り下げてみるのもいいかもしれない。全体を通じてアコースティカルな曲とフィメール・アーティストが多目に揃っているが、その先にはまた、違った横顔を見られることだろうし、何より、まずはここへの「導路」を描くために津田氏はこの『Cue Fanfare!』を編み上げたのだとも思う。知らないでいることも、知っている、愛好しているアーティストをより掘り下げてゆくことも大事な行為だと思う。ただ、音楽は決まったカテゴリーを跨ぎ、様々な人たちが様々な美学や意識、想いを提げて、奏でるものであり、眠らせてしまうには勿体ないことも多いのも事実だろう。最後に、故・武満徹氏の言葉を借りたい。

「私は、音楽が社会変革をたすける力になるであろうなどというようなことを考えているわけではない。音楽の無力を知った上で、私は、など、それを捨てることはできない。」
(『樹の鏡、草原の鏡』新潮社より)

世界が沈黙してしまう夜を避けるために、新しくこうした息吹が宿ってくること。それをこれからも逃さないでいる必要性もますます感じる。

 

(松浦達)

 

【参考:公式ダイジェスト・クリップ パート1&2】
Cue Fanfare! - V.A. / Digest Video Clip 01
Cue Fanfare! - V.A. / Digest Video Clip 02

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Laurent Garnier.jpg テクノ・シーンにおける重鎮ローラン・ガルニエが、《Ed Banger》からリリースをする。これはやはり、近年の《Ed Banger》が音楽性の幅を広げているのと無関係ではないだろう。《Ed Banger》と聞いて多くの人が連想するのは、"フレンチ・エレクトロの総本山"としてのイメージだと思うが、フレンチ・エレクトロの黎明期である2000年代半ば、ジャスティスアフィーといったアーティストを輩出し、音楽シーンを賑わした際の《Ed Banger》を表すフレーズとして、"フレンチ・エレクトロの総本山"は最適な表現だった。

 しかし、フレンチ・エレクトロの盛りあがりが落ちつくと、《Ed Banger》の動きも鈍くなっていった。まあ、これも"時代の音"を生みだしてしまったが故の宿命みたいなものだが、スクエアプッシャーのリミックス盤、さらにはフライング・ロータススクリームといったアーティストのエクスクルーシヴ・トラックが収められた『Let The Children Techno』をリリースするなど、冒頭で述べたように近年の《Ed Banger》は、音楽性の幅を広げている。

 そんな《Ed Banger》の方向性を裏づけるかのように、「Timeless EP」には過去に《Ed Banger》からリリースされた音源との共通点はない。強いて言うなら、シンプルかつ硬質なシンセ・リフが印象的な「Jacques In The Box」に、フレンチ・エレクトロ特有のディストーション・シンべを感じさせる音が入っているくらいで、それ以外は、デトロイト・テクノの影響下にあるガルニエらしいテクノだ。もちろん出来が素晴らしいのは言うまでもない。全収録曲がフロア仕様の上質なダンス・ミュージックで、複層的シンセ・ワークやエフェクト処理による空間演出など、ベテランらしい丁寧な技も見受けられる。

 そして面白いのが、「Our Futur(Loud Disco Mix)」である(CD盤には同曲の"Detroit Mix"も収録されている)。このタイトル、英語の"Our"に続くのが、"Future"から"e"を取ったフランス語の"Futur"なのだ。「Our Future(アワ・フューチャー)」と「Our Futur(アワ・フテュール)」、どちらも"我々の未来"と訳すことができるが、「Our Futur」と名付けたのは、フランスの未来について言及した、ガルニエなりの暗喩ではないだろうか? いまフランスは、財政赤字の削減が最重要課題として挙げられ、今年1月には総額4億3000万ユーロの緊急雇用対策が発表されるなど、不況の真っただなか。そうした状況のフランスにメッセージを送るため、ガルニエは「Our Futur」を作った。と、ポジティヴな歌詞からも推察できる。なんせガルニエは、ドラッグ問題などが原因でフランスのダンス・カルチャーが叩かれたときも、シーンを守るため真っ先にメディアを通じて行動を起こした男である。ありえなくはない。そう考えれば、「Our Futur」の力強いグルーヴにも納得がいくというものだ。

 ガルニエがリスペクトを公言するURのマッド・マイクもそうだが、ガルニエは音楽を通じて世界を見つめ、戦い、道を切り開いてきた。それはガルニエ自身、音楽の可能性を信じているということの証左であり、この信念が本作にも深く刻まれていることに、筆者は感動するのである。

 

(近藤真弥)

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BURIAL & FOUR TET.jpg ブリアルフォーテット。鬼才と呼ばれる者同士のコラボレーションも、「Nova」で3作目だ(「Ego/Mirror」にはトム・ヨークも参加している)。本作でふたりは、いったいどんな音を鳴らしているのか? レコードをプレイヤーに乗せ、音に注意深く耳を傾けていると、筆者の頭にある一文字がイメージとして浮かんだ。それは"声"である。

 とはいえ、本作はヴォーカル・トラックと呼べるものではない。本作において"声"は、終始"音楽の一部"と化しており、ヘタをすれば仄暗い深淵に沈んでしまいそうなほど、その"声"は弱々しく、実体性に乏しい。だが、その弱々しさこそが重要であり、本作のメランコリックな興奮を醸しだしているのではないだろうか?

 洗練を極めたシンセの音色、ストリングスや鳥のさえずりのような音など、本作に収められたすべての音が、"消失"によって最大の興奮を得ている。そんな"消失"で埋め尽くされた音像のなかで、浮遊感を携えた幻想的な"声"はふらふらと漂っているが、筆者にはこの"声"がどうしても、肉体どころか魂からも解き放たれた"ゴースト"のように聞こえてしまうのだ。

 例えばクラフトワークは、「The Robots」にて"We Are The Robots(僕らはロボット)"と歌い、先に"I Want To Be A Machine(機械になりたい)"と歌ったウルトラヴォックスとは違い、本当に機械(ロボット)となってしまったわけだが、クラフトワークの脱人間志向が結果的に人間性の回復に行き着き、そのクラフトワークからアフリカ・バンバータやサイボトロンといったエレクトロが生まれ、そしてサイボトロンの片割れであるホワン・アトキンスはクラフトワークの哲学を継承し、それを発展させたテクノというソウル・ミュージックを生みだした。これに近いことを最近やってのけたのが、ジェームズ・ブレイクである。アルバム『James Blake』ではオートチューンをふんだんに使い、とことん肉体性を削ぎ落としながらも、人間の持つ悲壮や痛みをソウルという形で表現することに成功しているが、肉体性を排除する過程を経た音楽が結果的に人間性の回復に行き着たという点において、ジェームズ・ブレイクはクラフトワークやホワン・アトキンスと同様の道を辿ったとも言える。この類似性は、とても興味深いものだ。

 そして本作は、ジェームズ・ブレイクとの類似性を窺わせるが、ジェームズ・ブレイクがあくまで"声"に執着しているのに対し、本作は言語や肉体性どころか、思念や意識という極めて抽象的な領域に"声"があり、"語っている"というよりは"鳴っている"といった表現が相応しいそれは、ジェームズ・ブレイクよりもいささか急進的である。そんな急進的な姿勢は、とてつもない速さで進む現代社会では瞬く間に葬られる人間の脆弱な"声"を図らずも描写しているが、だからこそ本作は、歌声や生き様といった肉体性に依拠した従来のソウル・ミュージックではない、ある種の逆説的ソウル・ミュージックとなっている。

 

(近藤真弥)

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RON SEXSMITHjpg.jpg ロン・セクスミスの作品に間違いなんてあるはずがない。いつものフォーキーな感触よりもパワー・ポップを全面に打ち出した今作でも、あくまで彼らしい「感じの良さ」は失われていない。ただ、バンド・サウンドに近づいた本作からは力強い確信めいたメロディが聴こえてくる。「Love Shines」なんてキーンの新曲だとしてもおかしくないくらいで、一聴しただけではロン・セクスミスらしさを認めることができなかったが、何度も聴いていくうちに「ふむ、これは間違いなくロン・セクスミスだ」となるから不思議だ。彼の作品は毎回そう。最初聴いたときには名作だと断言できずに、数か月を通して何度も聴いていくうちに自分のなかで欠かせないマスター・ピースになる。それがもう何作も続いている。そんな信頼の置けるアーティストはほかにライアン・アダムスくらいしか思いつかない。

 このレビューを書いているいまが2012年の4月ももう終わるころだから、アルバムのリリース(2011年3月)からは1年以上が経っている。しかしクッキーシーンで発表予定の「Private Top10s Of 2011」にも入れたこの作品について改めて書こうと思ったのは、少しでも多くの人に聴くきっかけを持ってもらいたいから。わたしもかつて音楽雑誌である人の熱心なレビューを読んで彼の音楽に出会った。それが高校生のときで、毎日毎日何の気なしに彼の曲に耳を傾ける時期があった。心底幸せな気分になれる音楽だったし、それはいまでもまったく変わりない。今作でいえば、例えば「Every Time I Follow」のサビへ突入する直前のギターのフレーズや、ブリッジ部分でギターとピアノの音色が重なる瞬間。「Believe It When I See It」の真っ青な空が開けていくような勢いのあるイントロ。そして「Love Shines」のピアノが織りなす天上の響き。

 人にはぜったいに、どうしても乗り越えられないような辛い出来事が起こる。そういうときはどうせ乗り越えられない。だから自分の心のなかにある光を見出そうと必死になる。

《僕たちの夢を現実にするために 心の奥深くの闇から煌めきを届けるんだ/嬉し涙から光が現れるまで それは僕の愛が輝くとき》「Love Shines」

 ありきたりなメッセージかもしれない。それでも彼が情感たっぷりに歌うから特別な曲になる。たぶんずっと大好きなアーティストのうちの1人です。

 

(長畑宏明)

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SALIM NOURALLAH『Hit Parade』.jpg また《Tapete Records》の新譜がクリーンヒットしてしまった。テキサスの草食系SSW、サリム・ノウララーによる4枚目のフル・アルバムである。元々はノウララー・ブラザーズというユニットで兄のファリスと活動をしていたサリムだが、パニック障害を患ってしまった兄が、よりエクスペリメンタルな創作意欲を自宅スタジオで爆発させている傍ら、自身はアコギを片手に、古き良きグッド・ミュージックへの到達を目標として掲げている背景がある。生活面では支え合いながらも、お互いのソロ・プロジェクトが活性化することで、ノウララー・ブラザーズからの発展性が徐々に色濃くなっている。その濃度も本盤で最高点に達しており、「2004年から始めたソロ活動キャリアの集大成」と本人が自賛するほど、強い確信を得ているようだ。

 前作までとは比べ物にならないほど多角的で全時代的だ。60年代のクラシカルなロックン・ロールをベースとした楽曲もあれば、乱れ打ちの16分ハイハットとギターのリフで踊らせるポスト・パンク直系の楽曲もある。日本国内ではエリオット・スミスやベル・アンド・セバスチャンなどが共通言語として挙げられているが、それも頷けるタイムレスなメロディだ。本人はビートルズの『The Beatles』(通称"ホワイト・アルバム")、キンクスの『The Kinks Are The Village Green Preservation Society』、クラッシュの『London Calling』の3枚を一つの到達地点として掲げているが、ただの懐古主義という訳でもない。国や時代の境を越え、テキサスはダラスから、ベルリンのレーベルへ移転して音源を発信するというのは感慨深い。ライヴ映像は、いわゆるアメトラ的な出で立ちでクールにアコギを掻き鳴らすサリムの姿ばかりが残っているが、深みが増した今、ライヴの編成や手法は変わっていくに違いない。

 全14曲という長さから生まれる冗長さが全く感じられない。一曲目の「38 Rue De Sevigne」では、爪弾くアコースティック・ギターが繊細なイントロから始まり、混声のコーラスではっとリスナーの目を醒まさせる。勢いを加速させて、ロケンローのリズムに突入していく展開が本当にかっこ良い。タイトル曲の「Hit Parade」は気だるげなサリムの吐息と共に、シンプルなビートとミニマルなリリックが繰り返され、《Used be my life was a hit parade》という一文が、本盤のコンセプトをよく象徴していると思う。二度目のイントロダクションの次曲である「Friends For Life」では、敢えてそれまでのテンションを抑えた弾き語りの曲を挟むことで、丁寧に緩急をつけている。10曲目の「The Quitter」から、テキサスの荒涼とした大地に燃える夕焼けを想起させるメランコリックな楽曲が並び、ゆったりとした気持ちでアルバムの終わりを迎えられる。

 バンド編成でレコーディングをしたことは、これが初めての経験だったそうで、メンバーにはジ・アップルズ・イン・ステレオにも参加しているジョン・ダフィーロやかねてからのレコーディング仲間であるジョー・レイエスなどがおり、クレジット内にはスプーンやホワイト・ラビッツなど多くのアーティストを手掛けるジム・ヴォレンティーニの名も頻出している。構想も2009年のヨーロッパ・ツアーを終えた後の、テキサスへ戻る飛行機の中から始まっていたそうで、彼の自信も納得できるプロダクションの緻密さである。かっこ良過ぎて笑うしかない、という状況に久し振りに陥った。地味だし、評価もあまりされていないアーティストだが、とにかく気合いの入った一枚であることは間違いない。

 

(楓屋)

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LA SERA.jpg 気持ちいいほどギターを掻き鳴らすガールズ・バンド、ヴィヴィアン・ガールズでベースとコーラスを担当するキックボール・ケイティことケイティ・グッドマン(現在はニューヨークから居を移しカリフォルニアに在住)。本作『Sees The Light』は彼女のソロ・プロジェクトであるラ・セラの約1年ぶりとなるセカンド・アルバムだ。

 ジャケットを見てのとおりの美貌ゆえ、ディスクユニオンでは日本盤に限定特典として彼女の秘蔵フォト50枚のダウンロード・クーポンが付いている。しかし、その美貌とは裏腹に「Real Boy」や「Drive On」のMVでピリッと毒の効いた姿を披露。ヴィヴィアン・ガールズの中ジャケを見ると腕にはタトゥーが...。と、中々アンビバレントなところがある。それでいて本作のジャケは60年代風の清楚な感じというのが、なんとも、にくいというか...。でも前作『La Sera』と同じくしてオールディーズ風の1曲目だけですっと聴き手を音に誘い込む。さらさらと耳に入ってくる涼しげな歌声。ふわりと甘美に覆われるサウンド。これこそ待っていたセカンド、と思いきや、アルバムを通して聴くと豊かな音楽性が贅沢なほど詰まっているのが分かる。

 カリフォルニアのサイケデリック・ロックバンド、ダーカー・マイ・ラヴ(Darker My Love)のロブ・バーバートとの共同プロデュースである本作(ロブはザ・フォールの最近のメンバーとしても活動している)。それは、ソフトで優美に舞っているような歌声とコーラスが耳に近づいては離れ、近づいては離れというのを繰り返しながらヴァシュティ・バニヤンのような、ささやかなサイケデリック感を楽曲に与え聴き手を包み込む。それだけでも参ってしまうのだがヴェルヴェット・クラッシュを思わせるポップ感をさらりと忍ばせ、歌声に程よいエコーを効かせたサウンドはドライブも効いていて、特に駆け抜けるノイジーなギター・サウンドと、そっと顔を出している程度のコーラスと透き通る歌声が聴き手に染み込み、突き抜ける。爽快感と浮遊感、ノスタルジアが交差する本作。そこには、同じくヴィヴィアン・ガールズのメンバー、キャシー・ラモーンのサイド・プロジェクトであるベイビーズ(Babies)とは違ったアンニュイなローファイ感とでも言うべき音の手触りとポップ感がある。ぜひ聴き比べて楽しんでほしい(もちろんベイビーズのファースト・アルバムも傑作。ベイビーズはウッズのメンバーも参加している4人組)。マジー・スターに似た霧の中を歩いているようなサウンドスケープがあるのはロブ・バーバートが共同プロデューサーという理由だけではなく、ロブのみならずダーカー・マイ・ラヴのメンバーも演奏に加わっているのも大きい。アルバム全体を通してケイティ・グッドマンの可能性がぐっと広がっているのがなんとも嬉しくなった。去年発表されたヴィヴィアン・ガールズの最新作『Share The Joy』の音楽性の変化はラ・セラとベイビーズがもたらしたのかもしれない。こちらもぜひ聴いてほしい。

 「Break My Heart」「I'm Alone」など、直球の曲名が並ぶ本作の歌詞には、あなたと私の世界が横たわっている。《私は一人ぼっち / あなたが私の心を盗んだときのこと、覚えてない? / 始めから私はあなたのもの》(「I'm Alone」)ともすればありきたりな歌詞なのに、きらきらとしたギター・サウンドと晴天が目に浮かぶような、よく通る歌声がポジティヴな空気を楽曲に運んでいる。《ああ、あなたをまた失ってしまった / あなたは私のすべてだったのに、あっさりと捨ててしまったの》(「Break My Heart」)独りであることの悲痛なつぶやき。しかし余計なギミックを投げ捨てた歌詞は、音と同化すると新たに踏み出す一歩として聴こえてくる。もし、音楽的な意味で、次なる「あなた」がロブ・バーバートだったとしたらストーリーとして出来過ぎかもしれない(無論、ロブとの恋愛関係はないだろうし、もしあったとしたら録音段階で相当気まずいはず...)。

 前作を聴いた時、ラ・セラは休暇的なプロジェクトなのかなと思ったが、本作を聴くとリラックスした雰囲気はそのままにケイティ・グッドマンは本腰を入れている。ファースト・アルバムでソング・ライティングを身に付けた彼女は、その先としてサウンド構築の多彩さを望んだ。その解答がドノヴァンやドアーズ、バーズの『霧の5次元』などを思わせるダーカー・マイ・ラヴとの繋がりだったことは興味深い。ドット・アリソンとリチャード・フィアレスの関係のように、ディープな音世界を互いに触発されながら作っていくことになれば面白いし、ベックと組んでもいいんじゃないかと思いもした。またはシャンタル・ゴヤやリヴィング・シスターズのような音楽性をとことん突き詰めていくのも面白いと思ったが、現時点ではロブ・バーバートが適任だろう。

 前作以上に、彼女にはまだまだ先があると思えるアルバム。全く別の領域に踏み込める可能性をケイティ・グッドマンは本作で手に入れた。今後が楽しみになる作品だ。前作同様、もぎたての果実みたいに甘酸っぱい。彼女の表現欲求がしなやかに広がっている傑作。

 

(田中喬史)

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JAMES IHA.jpg 元スマッシング・パンプキンズのギタリストであるジェームス・イハの、前作『Let It Come Down』から14年振りとなるセカンド・アルバムが到着した。ジェームスはそのルックスからも想像できるように、非常に繊細な線の細いサウンドと声が持ち味。ことさらソロ作となると一気にSSW然とした爽やかで心温まる、ときに胸がキュンとなるような甘酸っぱさをみせながらグッド・ソングスを奏でていき、前作収録「ビー・ストロング・ナウ」の世界観に多種多様の賑やかな装飾を施したものが多く顔を見せる。

 線の細さで思い浮かぶのがスマッシング・パンプキンズ4作目となる『Adore』でのギター・パートだが、それ以外のアルバムでバンドと関連付けられるものは非常に少ない。『Siamese Dream』の繊細さもビリーによるところが大きいし、強いて言えば『Mellon Collie And The Infinite Sadness』の「Take Me Down」か、次点で「Farewell And Goodnight」といったところだろう(この2曲はジェームスが書いている)。この作品は"静と動"(裏と表)に分けられていたため、その"静"(裏)の部分(の一部)を担っていたのがジェームスだったわけだ。

 「Appetite」という曲の中で激しいピアノ演奏(ゲスト・ミュージシャンによるものと思われる)が聴かれるが、その奥で前衛的なギターが聴こえると思ったらなんとトム・ヴァーラインだった。今回ヤー・ヤー・ヤーズのカレン・Oならびにニック・ジナーが参加しているという特出した前情報があったため注目度は薄かったが、ジェームスの嗜好の現れかもしれないと思うと実に胸が躍る。出来ればもっと前面に出して聴かせてほしかった。だがレコーディングがニュー・ヨークということで、彼なりに"日常"の中にニュー・ヨークの要素をちりばめたかったが故の試みだったのではとも思える。

 本作ではギターやベース以外にピアノ、グロッケンシュピール、シンセといった楽器にも挑戦している彼だけに、ギター・サウンドに頼らない着色も美しく暖かいものに仕上がっている。かと思えば「双子座(Gemini)」なんていう曲名を見るとつい『パイシーズ・イスカリオット』を思い出してしまうのは悲しい性だ。パイシーズ(Pisces)はもちろん魚座の意。ジェームス自体は実際に魚座のビリーとは同じ3月生まれでも魚座でないのだが、ネーミング・センスがなんとも可愛らしいではないか。もっともビリーの方は裏切り者(Iscariot)なんて言っているが、まさか"Can't Pretend, Gemini"というリリックが返答だったら面白い。

 そして14年前に感じた印象が"ラヴ・ソング"なのだとしたら、その根本は変わっていない。しかし前述したように音の"装飾"が膨らんだのであれば、それに比例してリリックも膨らんでいて、君(You)という言葉を多用するばかりではなく、少し陰のある曲や彼独特のストレートな物言いでの愛情表現とは少し違うものも出てくるようだ。また例えばブラーのギタリストのグレアムが"あの高い空を見てごらん"とでも言いたげな『スカイ・イズ・トゥー・ハイ』をソロ・デビュー作のタイトルに持ってきているように、ジェームスが今回"上向き"(外向き)な「ルック・トゥー・ザ・スカイ』というタイトルを(40代半ばにして!)セカンド・アルバムに持ってきているのは初々しいし、或いは前作が『レット・イット・カム・ダウン』だったから"下向き"(内向き)にならないよう対をなすようにそうしたのかもしれない。いずれにせよ、今回の"スカイ"というのが晴れた空でもあり曇った空でもあり夜の星空でもある、そんなふうに想像力を多様にかき立ててくれるものだと言って間違いない。

 もう一点、今回もジャケットは黄色をテーマにしていて、それだけ見れば前作と変わらないだろう。SSWというものは得てして自分の顔写真をアルバム・カヴァーに起用することが多く、実際に彼のデビュー作でもそうだったが、今回は文字にしていて不器用ながら暖かみのある綺麗すぎない手作り感が出ているし、黄色という色にどこかタンポポの花のような、小さいけれど強靭なハートを持った凛とした美しさや可憐さ、強さを彼自身と重ねて見て取れる気がする。

 こうして文字通りのスウィートな音楽を今回も届けてくれたジェームス。まるで耳元で囁かれているかの如き艶かしいヴォイスに相も変わらずうっとりとしながら、バックに光る音楽と14年という歳月によって培われたサウンドの変化を存分に楽しめる、輝かしい逸品。今夏はフジロック フェスティヴァルへの出演も決定しており、生でその姿が拝める機会がこんなにも早く訪れるというのはかなり嬉しい朗報。フェスに行ける人はもちろん、行けない人のためにも、そして小さいハコでこそ発揮される空間があるだろうアーティストなので、是非とも単独ジャパン・ツアーが行なわれることを期待したい次第だ。今のところ日本国内盤のみのリリースで輸入盤はないようだが、ボーナス・トラックの2曲は、ない方が一つのアルバムとしてのまとまりを感じられて良いだろう。

 

(吉川裕里子)