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赤い公園.jpg  めくるめく変化 (へんげ)ワールドを展開する赤い公園。赤い公園は佐藤千明、津野米咲、藤本ひかり、歌川菜穂による4人組バンドである。2010年に結成され、その後は神聖かまってちゃんが手がける《謎の日》に出演するなどして瞬く間に注目を集め、ファースト・デモ「はじめまして」、ファースト・ミニ・アルバム「ブレーメンとあるく」をリリースし、本作「透明なのか黒なのか」で晴れてメジャー・デビューというわけだが、本作に初めて触れたとき、興奮に包まれると同時に言葉を失ってしまった。

 瞬間芸を連続して繰りだすような展開、聴き手を驚かせることに執心するサービス精神、そしてなにより、整然とされた混沌。ヘヴィ・メタル、ノイズ、ロック、さらには歌謡曲的メロディーや変則ビートなど数えきれない音楽的要素に加え、演劇的世界観も窺える。

 演劇的世界観に関しては、佐藤千明のヴォーカルによるところが大きいのではないか。曲自体がそれぞれ強固な世界観を持っているのもそうだが、それ以上に、佐藤千明のまるで女優の如く変化するヴォーカル・スタイル。佐藤千明のヴォーカルは、"歌う"というよりは"演じる"と言ったほうがしっくりくる。そう言いたくなるほど、佐藤千明のヴォーカルは多様な感覚を携えており、聴き手を楽しませてくれる。

 本作に収録されている曲群は、佐藤千明が作詞した「副流煙」以外は津野米咲が作詞作曲を務めているが、その津野米咲のイメージを具現化する他の3人も含め、4人の間では一体どんな風景が共有されているのか? カオスな洗練と如何わしさを感じさせる本作は、聴き手の好奇心をどんどん掻き立ててくれる。

 

(近藤真弥)

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THE WEDDING PRESENT.jpg 結成27年目にして9枚目となる、4年振りのオリジナル・アルバムである。ソニック・ユースよりもエモーショナルな展開ときっちりとした演奏で、スーパーチャンクよりも腰を据えたミドル・テンポであり、デイヴィッド・ゲッジが掻き鳴らすノイジーなギターは、全編を通して変わらずかっこいい。録音時のバンド・メンバーは前作から大きく変わり、本盤を境にバンドを脱退するグラエム・ラムゼイと、ドラマーのチャールズ・レイトンが参加し、バック・ヴォーカルとベースをペペ・ル・モコという女性が担当している(和音ベースのフレーズが非常にかっこいい)。ミックスもイギー・ポップやザ・マーズ・ヴォルタ、近年ではレッド・ホット・チリ・ペッパーズやアデルなどのエンジニアに参加しているアンドリュー・シェップスが引き受けている。事実上ソロ・プロジェクト化しつつも、新しいバンド・メンバーやエンジニアを迎えることで、新人バンドの傑作セカンド・アルバムかと思わせるような、瑞々しい勢いを放っている。

 単純なテンポでは測れない疾走感があり、アルバムの最後まですんなりと聴き通せる。しかしながら構成や展開は複雑であり、テンポを急変させることで場面をがらりと転換させる手法が多く取り入れられている。「The Girl From the DDR」のアウトロで聴ける慌ただしくもコミカルな展開は、さりげないものの、本盤のハイライトの一つと思わせるほどに見事だ。天野明香という女性によるナレーションが印象的なラスト・トラック(国内盤はボーナス・トラック2曲収録)の「Mystery Date」でも同様の手法が使われており、イギリスからやって来た男性を誘うナレーションが唐突に流れるアウトロは、本盤全体のアウトロであると同時にイントロでもあるようだ。

 熟練のソング・ライティングを抜きにしても、ジャングリーなカッティング、暖かみのあるアルペジオ、ファズによるブーミーな単音フレーズなど、ギターの音色を追いかけているだけで十二分にわくわくできる傑作である。『SEAMONSTERS』の再現パフォーマンスが期待されている来日公演が待ち遠しい。

 

(楓屋)

 

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DJANGO DJANGO.jpg スコットランド出身のザ・ベータ・バンドとは、常にユニークな場所を行き来していた。1997年という、恵まれた(と敢えて、言ってもいいだろう)時期のデビューのときからゴメス、アラブ・ストラップ辺りと並べられながらも、クール・ブリタニアやブリット・ポップなどの冠詞を全くスルーして、好き放題にサイケもブルーズもヒップホップ、カントリー、フォークも程良いラフさも含めて、アシッドで居て、どこかファニーな雰囲気を保っていたバンドだった。EPを経ての1999年のファースト・アルバム『The Beta Band』では、オリビア・トレマー・コントロール、オブ・モントリオール、アップルズ・イン・ステレオなどのエレファント6、アセンズ周辺の無邪気なDIY精神と実験性と繋がるものがあったが、ベックが90年代半ばに魅せた秀逸なエディット・センスからすると、彼らの場合は出来る限り、ジャンルレスに投げかけたまま、音をそこに置いてくるという、良い意味での支離滅裂なサウンドが詰まってもいたといえる。

 その後も、作品を重ね、スタジオ・ワークで凝る『ペット・サウンズ』、『ソング・サイクル』化が強まったかのようなところも含み、幾層ものサウンド・レイヤーの中に馨り立つポップネスの純度やハモンド・オルガン、ピアノに混じったサンプリングやビート、リズム・センスなども併せて、2001年『Hot Shot Ⅱ』や2004年の『Heroes To Zeros』と、フリーキーさは若干、初期よりも抑えられながらも、デモーニッシュ且つ催眠的なアンビエンスには、英国の深奥たる森から聴こえる残響を追ってゆくと、カンタベリー・サウンドの脈も見え、キャラバン的な「Winter Wine」を飲むに相応しかった気がしたという、どうにも捻くれた不思議なバンドだった。時代が彼らに追い付かなかったのか、彼らが時代を巻き込みきれなかったのか、2004年に残念ながら、解散を迎えてしまうが、今現在において、アニマル・コレクティヴやフリート・フォクシーズといったアクトのみならず、そういったサイケデリアや催眠的な浮遊感には彼らの遺伝子が残っているとは個人的に思うだけに、再結成も望みたいバンドの一つだ。

 その元メンバーのスティーヴ・メイソン(Steve Mason)は2010年にリリースしたソロ名義のアルバム『Boys Outside』をデニス・ボヴェル(Dennis Bovell)と組み、ダヴィーにリワークした『Ghosts Outside』を昨年に出し、一定の評価を得るなど、じわじわと各々のメンバーの動きやザ・ベータ・バンドそのものへの再評価の動きもある。そして、極めつけは、元メンバーであり、現在はTHE ALIENSのジョン・マクリーンの実の弟でドラムを担当するデヴィッド・マクリーン(David Maclean)が中心となるバンドが、ファースト・アルバムを上梓したと聞いて、冒頭から不世出のザ・ベータ・バンドのことに触れられずにはいられなかった。

 しかし、このジャンゴ・ジャンゴは、2012年版にアップデイトされたザ・ベータ・バンドという名称は大まかには正しい箇所は散見されるが、当然、精緻には違う。彼らよりも屈託なく、捻くれた音響工作に凝り、ミニマルなビート・メイクへの注心、アート精神の発露の仕方がスマートなところが目立つからだろうか。既にシングル・カットされ、フロアーでもよくスピンされる「Default」は洗練されたポップとサイケデリアがチープな電子音とともに、トランシーな境地に持ってゆくダンス・ナンバーは何処かで聴いた方も多いかもしれない。その他、素朴なカントリー風味の曲でもどこかチューニングが抜けた、肩の力が入っていない曲や「Zumm Zumm」における民族楽器の交わりとリフレインされるフレーズの断片はフェラ・クティをリファレンスしたみたく、か細くもじわじわと肝を捉えるグルーヴィーさがあるなど、混沌たるサウンド・ヴォキャブラリーは持っており、中毒性もある。

 ブルックリン・シーンとは全く違う場所、ロンドンを拠点として、このデヴィッド、ギター / ヴォーカリストのヴィンセント・ネフ(Vincent Neff)、ベースのJimmy Dixon(ジミー・ディクソン)、シンセ、キーボードのトミー・グレイス(Tommy Grace)の4人からなるバンドは活動を行ない、トミー・グレイスがコンテンポラリー・アートやグラフィック・デザインの分野で活躍もしているということなどもあり、彼らのコンセンサスでもあるのだろうバンドとしての打ちだし方も如何にもアート的でクールな印象を残し、今、この現代への時差ボケは全くなく、交叉している。

 全体を通して、このフル・アルバムではUK側からのブルーズ、サイケ、フォーク、ジャム、カントリーなどアメリカーナへの畏敬も溢れつつ、アート・ロックとして深く潜り込むほどまでの地下までは掘らない奇妙な浅さがある。その「浅さ」が面白いともいえ、ライヴや作品を重ねてゆくことで、もっとネジの外れた要素を持ってくるのではないだろうか。ザ・ベータ・バンドが最初から混沌に潜り過ぎて、多くの地上者たちに発見されなかった部分を彼らなら補ってくれるかもしれない、と期待したい。こういうバンドがふとUKから出てくるものだから、やはり音楽からは目が離せない。

 

(松浦達)

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Clark『Iradelphic』.jpg まったく異なるものが交わり、新たな興奮が生まれる瞬間に立ちあえるのは、とても幸せなことである。例えばヨーロッパでDJ活動が文化的行為として確立されているのは、世界中の音楽を頭に詰めこみ、それらを出し入れして独自の音楽的文脈 / 価値観を表現できる存在として認められているからである。そんなDJ活動に対する敷居は、PCDJソフトの普及によってかなり下がったと言えるだろう。だが、"DJができる"ことと"DJで表現する"ことが別物なのは、言うまでもない。

 "DJで表現する"には、頭に音楽を格納する際にそのDJにとって指標となる情報や視点を付与し、異なる文脈を上手く接合しなければいけないからだ。このDJ的編集感覚は、DJの価値を高める謂わば特権的なものであったが、その編集感覚もいまや音楽リスナーのデフォルトになりつつある。こうした潮流に、クラークの約3年振りとなるアルバム『Iradelphic』は、呼応しているように感じる。

 本作を一言で表せば、"クラークであってクラークではないアルバム"だ。本作でクラークは、自ら積み重ねてきた歴史、そして自己批評性から抜けだすことに成功している。前作『Totems Flare』までは、過去からの飛躍と変化で驚きを提供してきたクラークだが、それはあくまでテクノを基点としたものだった。しかし極論を言えば、本作に前作との繋がりはほとんど見受けられない。収録曲の大半にアコースティック・ギターがフィーチャーされているのもそうだし、美しくも悲しい響きを持つピアノ・ソロが印象的な「Black Stone」、リズムが意識的に鳴らされている「The Pining」という3部作にしても、どこかスパニッシュな香りを感じさせるなど、様々な要素が混在している。そして、これら多種多様な要素にジャンルを定義する必然性は、もはや存在しない。

 本作のタイトル『Iradelphic』は、虹色を意味する"Iridescent"と、曖昧を意味する"Delphic"を掛けあわせた造語だそうで、"曖昧な虹色"と訳せるタイトルである。本作でクラークが試みているのは、自身もコメントしているように、「これまで僕が作ってきたもののように聴こえないもの。だけど紛れもなく自分だと思えるもの」だが、この無謀とも言える試みの成功によってクラークは、どこへでも行ける"自由"を獲得している。そして結果的に、従来の歴史や文脈を超越するチルウェイヴ以降の音楽と共振するアティチュードも身に付けてしまった。もちろん偶然の一言で片づけることも可能だが、クラークも情報に影響されることなどありえなくなった現代に生きるひとりの人間だ。偶然と呼ぶには、あまりにも出来過ぎではないだろうか。そして、ここまで述べてきたことを前提に言わせてもらえれば、本作は"音楽"としか呼ぶほかない作品であり、既存の音楽の在り方を根本から揺るがす問題作である。

 

(近藤真弥)

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Mindful Beats Vol2.jpg いま関西が面白い。例えば東京のインディー・シーンもUSインディーに影響される形で盛り上がりを見せているが、その東京とはちょっと違う雰囲気を、関西の音楽シーンからは感じる。

 筆者が気になるところでは、京都暮らしのYeYeにトリコ、それからザ・クリームズ。そのザ・クリームズのEPをリリースしたレーベル《Node》が今年の初めに開催したパーティーには、《Vol.4》を主宰するLimited TossとD.J. Fulltono、そしてザ・クリームズを率いるNaorockが一緒に出演するなど、興味深い繋がりもある。筆者は関西の音楽シーンについて詳しいわけではないが、ここ最近の関西から出てくる音楽が面白いものであることは自信を持って言える。そんな関西において、主宰者であるSeihoの『Mercury』をリリースし、一躍注目レーベルに躍り出た《Day Tripper》から、mfpによる『Mindful Beats Vol.2』がリリースされた。

 mfpは、ジャイルス・ピターソンが主宰する《Brownswood》のコンピレーション『Brownswood Electric 2』にも曲を提供した新進気鋭のビート・メイカーだが、本作ではヒップホップを下地にしながら、ハドソン・モホークラスティーに近いキラキラとしたスペーシーな音色を鳴らしている。ハドソン・モホークとラスティーに共通するのは、ストイックになりすぎない実験精神と、聴き手に驚きを提供しようとするサービス精神だが、このふたつが本作にも感じられる。そしてなにより、LAビート・ミュージックのようなグルーヴと時折見せるディープな雰囲気。これらが交わり生みだされる音楽は、フレッシュでハイな高揚感を聴き手にもたらしてくれる。さらに飛び道具だけではない"ハマる"タイプのトラックもあるなど、mfpの音楽的多様性が遺憾なく発揮された本作は、mfpをさらなる高みへ導いてくれるはずだ。

 

(近藤真弥)

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THE BIG PINK.jpg 何年も前の話。僕は、とあるロック喫茶でレディオヘッドをリクエストした。マスターは眉間にしわを寄せながら言った。「80年代でロックは終わった」と。「90年代以降は焼きまわしでしかないじゃないか」「うちにはレディオヘッドもストロークスも置いてないよ」と。言いたいことは分かったが、"理解"はできなかった。

 音楽とは、記憶の美化としてあるのだろうか? 新しさに価値を見出すものなのだろうか? いや、違うであろう。僕らはビートルズに熱狂し、ブリアルに熱狂できる。つまり、音楽を並列に汲み取る。そのきっかけとなったのがコーネリアスの『Fantasma』だとしたら、10年代のそれはロンドン出身のロビー・ファーズとマイロ・デーコルの2人からなるユニット、ザ・ビッグ・ピンクの『Future This』と言ってもいいかもしれない。付け加えれば、タイトルにあるFutureを"可能性"と訳したい。そして可能性を"オルタナティヴ"と訳したい。

 可能性という言葉には、未知との遭遇、違った価値観との出会い、という意味も含まれているのではないかと思う。その意味で、音楽を聴く行為とは可能性との出会いとしてある。旺盛な好奇心は数々の可能性との出会いを生む。

 マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、スロウダイヴ、ジーザス&メリー・チェイン、ニュー・オーダー、シャーラタンズ、ブラー...、数々のバンドの音楽性をヒップホップ・ビートの上に重ねていく彼らの音楽は好奇心に満ちている。とはいえ、クラクソンズザ・ホラーズクリスタル・キャッスルズを輩出したレーベル《Merok》を立ち上げたマイロ・デーコルは、前述したバンドを傍観者的にサンプルとして見立てているのではなく、リスペクトした上で今の音として鳴らせる技巧があり、音楽の可能性をポップな形で鳴らす姿勢がある。それを前作『A Brief History Of Love』ではヴァリエーション豊かに奏でていたが、セカンド・アルバムとなる本作『Future This』では、ノイジーをキー・ワードに奏でている。そこには彼らがデジタル・ハードコアやノイズに特化したレーベル《Hate Channel》を運営していたことも関係があるのだろう。

 プロデューサーはフレンドリー・ファイアーズやアデルを手掛けたポール・エプワース。ミックスはナイン・インチ・ネイルズやマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、スマッシング・パンプキンズらを手掛けたアラン・モウルダー。「最初にやりたかったのはヴェルヴェット・アンダーグラウンドのデジタル・ヴァージョン」という言葉が印象的だ。内向的な歌詞とは裏腹に、本作で(彼ら自身で逃避性を抜いた)チルウェイヴの要素やポスト・ダブステップの要素を取り込んだザ・ビッグ・ピンクは今を見詰め、開けた音を鳴らしている(ボーナス・トラックの「Stay Gold」のリミックスも素晴らしい! ザ・ビッグ・ピンクのこの先を暗示しているかのようだ)。

 彼らの音にはロックの終わりもなにもない。可能性というオルタナティヴを楽しんでいる。今度は僕らが楽しむ番。懐古主義者だろうと何だろうと音楽を体で感じ、踊りたくなる作品になっている。僕は本作の先にある光景を見たい。

 

(田中喬史)

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Traxman.jpg ジェームズ・ブレイクも「We Might Feel Unsound」でジュークを取り入れるなど、いまや世界中のアーティストがジュークに飛びついている。それは、よく言及されるポリリズム的ビートはもちろんのこと、ジュークがダブステップ並みの順応性を備えているからだと思う。とはいえ、ジュークの魅力といえばやはり、クラウドを狂喜させるボディリーな快楽である。ジュークを取り入れはじめたアーティスト達は、ジュークの音楽的要素には着目していても、ボディリーな快楽については関心がないように思えるし(関心があったとしても、それを音として表現できていない)、なにより、"取り入れる"といったレベルだ。実験精神を満たすためのパーツとして取り入れ、ジュークを"匂わせる"ことはできても、血肉として消化し、独自のジュークを"鳴らす"には至っていないというのが現状ではないだろうか。

 こうした現状をふまえると、ジュークも細分化の道を進んでいるかのように見える。毒色を薄め洗練へ向かう者と、あくまでゲットー・マナーにこだわる者。まあ、細分化はポップ・ミュージックのクリシェみたいなもので、避けられないことではある。しかし『Da Mind Of Traxman』は、そんな細分化の動きに囚われないトラックスマンの偉大さをまざまざと見せつける。

 本作は、数々のジューク・クラシックを生みだしてきたトラックスマンによる待ちに待ったアルバムだが、ジュークの持つボディリーな快楽と洗練を高いレベルで両立させた、ダンス・ミュージック史に残る名盤である。ジュークはもちろんのこと、ハウス的ソウルや昨今のビート・ミュージックを想起させるタメやグルーヴ、そしてヒップホップ的なサンプリングなど、これまでトラックスマンが培ってきたスキルとセンスが遺憾なく発揮されている。

 一聴した感じでは、突拍子もない飛び道具だらけの珍品に思えるかもしれないが、注意深く聴けば、本作に収録されている曲群は、シカゴ・アンダーグラウンド・ミュージックの歴史に深く根ざしたものであることがわかるはずだ。最近巷を賑わせる音楽は、歴史から解放された"文脈なき音楽"であることが多いが、本作の背景に歴史があるのは、トラックスマンが長年シカゴのウェスト・サイドに拠点を置きながら活動してきたことと無関係ではない。いや、だからこそ、トラックスマンは"伝統"が持つ深みを表現できるのだ。それは、トラックスマンが"伝統"を表現できるだけの経験と技を積み重ね、その資格を得たからであるのは言うまでもない。

 現在の盛りあがりからすると、このさき数多くのジュークが生みだされるはずだ。もし、これからジュークを作ろうとしている者、そして、ジュークを聴こうと考えているあなたは、真っ先に『Da Mind Of Traxman』を手に取るべきだ。本作はジュークの集大成であるが、未来のクリエイターに向けた教則として、失われることがない存在感も備わっている。

 

(近藤真弥)

 

※本作は4月5日リリース予定。

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DIRTY THREE.jpg 震災直前の2011年2月、オルタナティブ / ポスト・ロックの祭典"All Tomorrow's Parties"の姉妹イベントである"I'll Be Your Mirror(以下、IBYM)"がついに日本でも開催された。激烈な轟音電子サウンドで観客の度肝を抜いたファック・ボタンズと孤高の深遠さを見せつけたヘッド・ライナーのゴッドスピード・ユー! ブラック・エンペラーに挟まれるスロットで登場したのがダーティ・スリー。オーストラリア出身のむさ苦しいオヤジ3人衆。まるでコント・グループか西部開拓時代の強盗団みたいなバンド名だけれども、それもあながちハズレでもなくて、その独特のライヴを体験した後では彼らにぴったりのネーミングだなとも思えた。バイオリン、ギター、ドラムという編成で鳴らされるインストゥルメンタル・サウンドは、ポスト・ロックやストーナー・ロックとも形容される不穏さ/凶暴さを持ち合わせているし、アルバムを遥かに凌駕する爆音のライヴ・パフォーマンスはまさに圧巻のひとこと。彼らが他のIBYM出演バンドとちょっと違ったのは、通訳をステージに上げて、曲の解説をしていたところ。ユーモアたっぷりの仕草で一生懸命にコミュニケーションを取ろうとするウォーレン・エリス(バイオリン)の姿は、詰めかけたファンを大いに和ませていた。そして今、前作『Cinder』から約7年ぶり、通算8枚目となるダーティー・スリーの新作『Toward The Low Sun』がリリースされた。愛すべきオヤジ3人衆が堂々の帰還だ。

 7年ものインターバルは決して短くはない歳月。移り変わりの激しい音楽シーンでは、バンドそのものが忘れ去られても不思議じゃない。けれども、ダーティー・スリーの3人はシーンから遠ざかるどころか、別ユニットや客演、ソロ活動を活発に行っていた。ここに僕が大切に(笑)保管しておいたIBYMのミニ・パンフレットがある。近年の活動については、ウォーレン・エリス自身の手によるバイオグラフィーから引用させてもらう。ちょっと長くなってしまうけれども、「ダーティー・スリーって、どんなバンド?」という人にも、きっと興味を持ってもらえると思うから。

 "2005年の『Cinder』のレコーディングとツアー以来、新しいアルバムのレコーディングはできていなかったが、今は半分まで仕上がっている。他のバンド活動や子供が生まれたりしたおかげでもある。ジム・ホワイト(ドラム)はボニー・プリンス・ビリー、ビル・キャラハン、キャット・パワーらのレコーディングに参加しながら、PJハーヴェイ、マリアンヌ・フェイスフルのアルバムにも楽曲提供。ミック・ターナー(ギター)はペインティングに、展覧会や、複製、また個展を開き、映画やテレビのサントラを録音し、ウィル・オールダムのオーストラリア / アジア・ツアーに出ている。僕はと言えば、バッド・シーズとのレコーディングやツアーに参加しながら、グラインダーマンを結成し、ニック・ケイヴと映画のサントラを録音し、(中略)ダーティ・スリーとしてスタジオに入っていないものの、みんな何かしらの形でレコーディングは行っている。それも頻繁に、というか相当な数だ" (メンバーの担当楽器は筆者注)

 どう? すごいでしょ。"相当な数"に敢えてひとつ付け加えるなら、ウォーレンは2006年にプライマル・スクリームの『Riot City Blues』にも参加。9曲目「Hell's Comin' Down」で猥雑なカントリー・ロックに華を添える軽快なバイオリンのソロを披露している。グラインダーマンでは、"ギターを持つ"ニック・ケイヴも新鮮だったけれども、バッド・シーズをさらにソリッドにワイルドに増幅したサウンドの核として、ウォーレンが果たした役割は大きかった。惜しくもグラインダーマンは2011年に活動休止が宣言された。今後は2枚のアルバムとツアーでの経験がバッド・シーズへと(文字通り)フィードバックされることが期待される。

 そして、上記のバイオグラフィーで触れられている"半分まで仕上がって"いた新作が、この『Toward The Low Sun』というわけだ。プロデュースのクレジットはなく、録音とミックスはトータスやシー・アンド・ケイク、ガスター・デル・ソルなどを手掛けてきたケイシー・ライスが前作に引き続き担当している。スタジオでのラフなジャムをベースにしながらも、入念にリアレンジを施したと思われるエフェクト処理と緻密な楽曲構造に耳を奪われる。死にかけた白馬に乗った王子が血の色をしたドラゴンと戦うアート・ワークは、ギターのミック・ターナーによるもの。深みのある背景の青が印象的だ。それは夜空かもしれない。

 オープニングを飾る「Furnace Skies」は、待ちわびたファンの渇望を満たすのに充分なヘヴィー・ナンバー。"炎暑の空"というタイトルがぴったりだ。ビートを解体したドラムとノイズ・ギターは安易な前進 / 展開を拒む。もの哀しいバイオリンと折り重なるそのアンサンブルは、行き場を失い猛り狂う竜巻のよう。幻想的でありながら、グロテスク。そしてインストゥルメンタルでありながら、詩情豊かなサウンドは、やはり唯一無二の存在だと言える。そのサウンドとソング・タイトル、そしてアート・ワークだけを手がかりに無限の想像力の旅へ出よう。"時々、きみが死んだことを忘れてしまう"と感じながら、"大地に浮かぶ月"を眺め、"桟橋"で波の音を聞く。やがて"雨"は"灰色の雪"へと変わる。追憶と死が散りばめられた音像は、言葉よりも雄弁に多くを物語るだろう。カントリー・トラッドからジャズ、ブルース、グランジまでを貪欲に飲み込んだダーティー・スリーのサウンドは、もっと多くの人に聞かれるべきだと思う。振り返りながら、立ち止まりながら、それでもゆっくりと進もう。沈みかけた太陽に向かって。

 

(犬飼一郎)

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Cuz Me Pain Compilation ♯2.jpg "言葉は生き物"とはよく言ったもので、言葉に含まれる意味は時が経つにつれ増えていくものだ。そして、いまふたたび盛りあがりをみせる"インディー"にも、またひとつ意味が加わったのではないか? 近年のインディー・ミュージックを聴いていると、そう思えてくる。

 『Cuz Me Pain Compilation ♯2』は、東京発のレーベル《Cuz Me Pain》のコンピレーション第2弾である。第1弾がインディー・ファンの間で大きな反響を呼び、グローバルな支持を得て一躍注目レーベルに躍り出たが、本作はその勢いをさらに加速させるようなものとなっている。もはやデフォになりつつあるチルウェイヴ以降の音像はもちろんのこと、ハウスやポスト・パンク、さらにはディスコにアンビエントなどが、自由な好奇心のもと美しく溶け合っている。

 だが本作には、"インディー・ミュージック"と呼ぶことに違和感を覚える曲もある。そのひとつが、Naliza Moo("ナリザ・ムー"と読むのだろうか?)による「Jealous Hearts」だ。この曲、ラリー・ハードが昨今のニュー・ディスコ / バレアリックを鳴らしたような、紛れもないハウスである。ラリー・ハードは説明不要のハウス・レジェンドであるが、ラリー・ハードの音楽を"インディー"と呼ぶ人はまずいないと思う。しかし、多くの人は「Jealous Hearts」を"インディー"と呼んでいる。おそらくこの違いが、"インディー"の今を表しているのではないだろうか。

 かつて"インディー"は、メジャーに対するオルタナティヴであったり、メインストリームに馴染めない者たちの場という謂わばアティチュード的意味合いが強かった。そんな"インディー"に聴き手は夢や希望を見いだしていたのかもしれないが、こうしたイノセンスは、90年代を通じて"インディー"が細分化し内省に向かう過程のなかで、徐々に失われていった。もちろん良質なバンドは出てきたし、それを愛するリスナーもいなくなったわけではないが、"インディー"という箱庭に収まらない強烈なインパクトを生みだすことは少なくなった。

 しかしいま、そのインパクトが蘇りつつある。もはや"インディーとメジャー"という二項対立は無きに等しく、"アティチュードとしてのインディー"が形骸化した焼野原から、"新たなインディー"が生まれつつある。その"新たなインディー"とは、"遊び場"である。歴史や文脈から解き放たれた音楽が集まり、自由奔放に交わる"遊び場"。聴き手からすれば、新鮮な興奮を与えてくれる音楽の宝庫であり、作り手からすれば、自らの音楽的好奇心を満たしてくれる場所。これが"新たなインディー"であり、音楽の未来ではないか。本作には、そう思わせてくれるだけの興奮がある。

 

(近藤真弥)

 

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22-20s.jpg 前作『Shake / Shiver / Moan』から約2年、22-20sの3rdアルバム『Got It If You Want It』が届いた。プレイヤーの再生ボタンを押すと、「Bring It Home」の力強いギター・リフが鳴り始める。マーティンの歌声はクールなのにエモーショナル。最高にカッコいい! だけど...こんなふうに22-20sの音楽を聞いているとき、彼らのことを思い浮かべているとき、僕はやはりバンドの「解散」について色々と考えてしまう。当たり前のように3rdアルバムがリリースされたことが、今でもどこか信じられない。彼らは、たった1枚のアルバムを残して、音楽シーンから消えていても不思議じゃなかった。

 いま、この瞬間にも世界のどこかで数え切れないほどのバンドが結成されているのだろう。「カッコいいバンド名を考えなくちゃ」「ギターとベースは決まったけど、ドラムは誰にする?」「とりあえず、スタジオは予約しといたよ!」学校の帰り道や深夜のファミレスで、そんな会話が交わされているに違いない。あるいは、散らかったベッド・ルームでパソコンを立ち上げながら。でも、その一方で同じくらいの数のバンドが消えて行くことも想像できる。有名も無名も関係ない。メジャーもインディーも関係ない。キャリアの長さも関係ない。どんなに素晴らしい音楽を鳴らしていても(そうじゃなくても)、"その時"が来たらバンドは終わってしまう。わかっているけれど、胸が締め付けられる思いだ。ひとりの音楽ファンとして、何度もその事実に打ちのめされてきた。そして僕はたった一度だけ、バンドのメンバーとしても「解散」を経験したことがある。

 僕は10代後半から30代までのほぼすべてをバンド活動に費やした。音楽で食べていくことはできなくても、ずっと続けていくことに疑いはなかった。メンバー探しもせずに、近所に住んでいた友達と組んだバンド。音楽仲間である以前に、幼馴染みで親友だった。何度が巡ってきたチャンス(レーベルからの誘いやイベント出演etc.)は、持ち前のパンク魂で台無しにすることを良しとしていた。DIY精神を拡大解釈していたから。結局、10年以上続けてもライヴでの動員は増えず、スタジオ練習やライヴの調整が面倒になってきた。新曲を書いても、なかなかうまくまとまらない。僕自身を含めて、就職だとか結婚だとか「当たり前の日常」がバンド活動を圧迫し始めた。よくある話だ。自分たちだけが特別だと思っていた。少なくとも、音楽を鳴らしているときだけは、そうだと信じていた。そんなある日、ドラマーと連絡が取れなくなった。家を知っていたから押し掛けて呼び出すこともできたけれど、他のメンバーが「それは、やめとこうぜ」と言う。「俺たちも同じ気持ちだから」。

 トーキング・ヘッズもオアシスもホワイト・ストライプスもR.E.M.も解散した。自分のバンドまでも解散させちまった。それでも、僕は何ひとつ失望なんてしていない。もしも音楽と出会っていなかったら? もしも音楽をこんなに好きになっていなかったら?

 金銭目的でもメンバー同士のあれこれでもなく、22-20sは自然の成り行きのように再結成した。復活後の2作目となる『Got It If You Want It』では、前作で少しだけ距離を置いた「ブルース」という自分たちの原点へと立ち返っている。インタビューでマーティンが「意味はない。」なんて嘯いているけれど、スリム・ハーポからストーンズ、そして22-20sへと引き継がれた"手に入れろ"という強い思いは明確だ。僕はインタビューのまとめに、彼らは「"It=ブルース"を取り戻した」と書いた。そして、アルバムを何度も聞いているうちに「ブルースという音楽そのものが、彼らを捉えてしまった」のかもしれないとも思うようなった。再結成が必然だとしたら、ブルースと向き合うことからは逃れようもない。

 「Pocketful Of Fire」ではラウドなリフが執拗にうねる。60年代のブルース/サイケデリック・ロックをモダンに解釈した「White Lines」と「Only Way You Know」でのマーティンの歌声は、ジム・モリスンを彷彿とさせる。「Purple Heart」と「Cuts And Bruises」は、2ndアルバムのフィーリングをさらに発展させたようなメジャー・キーの名曲。アコギとエレクトリック・ピアノがダークで美しいレイヤーを描く「A Good Thing」は、彼らの新境地とも言えるだろう。展開のないリフで押し切る「Little Soldiers」には耳を奪われる。かすかに聞こえるハンド・クラップの揺らぎとドラッグに言及した《もう悲しみは感じない、苦しみも感じない/罪から解き放たれ、恥からも解き放たれ/この頭の中を、小さな白い兵士達が駆け巡ってる》というコーラスが不穏だ。

 もしもブルースと出会っていなかったら? ―22-20sへのインタビューで、そう聞くのを忘れていた。けれども、このアルバムこそが答えなのだと思う。「そんな生き方は、想像もできない」。

 

(犬飼一郎)