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Grimes.jpg 最近話題の"ポスト・インターネット"はご存じだろうか? ポスト・インターネットは、ネットが存在する世界が当たりまえの世代を指す言葉で、その代表的アーティストがグライムスらしい。ポスト・インターネット世代の音楽は"何でもあり"が特徴だが、確かにグライムスの音楽は、その特徴に当てはまる。


 その"何でもあり"な姿勢は、『Visions』のジャケにも表れている。日本の漫画みたいなタッチで描かれた、おどろおどろしいジャケ。それはまるで、楳図かずおの絵みたいだ。あくまで想像だが、グライムスことクレア・バウチャーは、楳図かずおの漫画を読んだことがあるのではないか? 「Vanessa」のMVはK-POPに触発され作ったそうだし、それこそポスト・インターネット世代ならば、ネットを介していろんな文化に触れていてもおかしくない。


 こうした意外性や文脈のなさも、ポスト・インターネット世代の特徴かもしれない。本作はチルウェイヴ以降の音像が特徴的なエレ・ポップだが、ビートからはエレクトロやドリルンベースの影響が窺え、さらにサウンド・プロダクションはニュー・ウェイヴを想起させるなど、多様な音楽性を披露している。そして、そんな彼女の音楽は、歴史に対するリスペクトや理解よりも、好奇心が暴走したような軽薄さによって作られている。


 だから、彼女の音楽にルーツは存在しない。もちろんゼロから作りあげたものではないが、歴史的観点から彼女の音楽を掘り下げても、行き着く先は膨大な情報量のみで、それは"線"で繋がっていない"点"の集合体である。聴き手が"点"を繋げ"線"にすることも可能だが、それは新たな"点"を生みだすだけであり、決定的な答えとはなりえない。彼女の音楽は聴き手の数だけ存在し、情報が付随され、価値が高まり、側面が生まれる。こうした増殖が、彼女の不気味な魅力を増大させるのだ。


 そんなグライムスは、好き嫌いがハッキリ分かれるアーティストだと思う。歴史や文脈を重んじる伝統主義者からすれば、嫌忌を抱かせる存在だろう。そうした感情を抱く者が、「ミュージシャンは音楽の歴史を知っているべき」と語るヴァクシーンズみたいなバンドに飛びつくのかもしれない。


 両者は対極に位置しているが、"いま求められている"という点では共通していて、そこがまた面白い。そして、両者とも音楽に対する愛情があることも見逃してはならない。ただ、その愛情の形が違うだけなのである。ヴァクシーンズは文脈に組み込まれることに喜びを見いだすが、グライムスはその逆。アーリーな思考で音楽を捉えることで歴史やルールから逸脱し、エイフェックス・ツインを初めて聴いたときのような衝撃を聴き手に与える。その衝撃は、聴き手をコミットさせるには十分すぎるものであり、グライムスが時代の寵児であることを雄弁に物語っている。

 

 

(近藤真弥)

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Howler 『America Give Up』.jpg まずは「I Told You Once」のPVをチェックしてみてください。ダサいダンサーの前で歌うヴォーカルをにやにやしながら眺めるほかのメンバーの姿が所々に差しこまれる、何ともシュールでアメリカらしい映像なので。音はフォークっぽい感触もありながら、2000年代のギターロックの影響を良い具合に感じさせて、爽快という言葉がとてもよく似合う。

  東京のライヴで共演したヴァクシーンズとは同じギター・ミュージックでも対極にあるバンドかもしれない。そして2011年がヴァクシーンズなら、2012年はハウラーと言えるくらいの逸材だ。やさぐれた風を装いながら清涼感が勝ってしまうヴォーカルがとても青春っぽくて素晴らしいし(ときにストロークスのジュリアンのようなかすれ方をするのも好きだ)、ギターの響きはノスタルジックで曲に奥行きを与えている。「Back To The Grave」や「America」「Back Of Your Neck」など、アルバムには名作がいくつも収録されているが、やっぱり新録版の「I Told You Once」が楽曲として圧倒的な完成度だ。なんちゅうええ曲。

 彼らを「ハイプ」と一蹴したやつらは小難しい音楽ばかり聴きすぎてシンプルでストレートな魅力に不感症になってしまったか、おそろしくセンスがなくてそれに無自覚なのか、そのどちらかだ。こういうバンドもいまのアメリカには少ない。古き良きオーセンティックなロックを奏でるウィルコみたいな国宝級のバンドは豊富にいるけれど、彼らくらいフレッシュで向う見ずなバンドが登場して、予想通り海を越えたところでNMEが大プッシュして、みたいな状況はじつに微笑ましい(NMEはそれだけで存在意義あると思うけどな)。こういうバンドがデビュー盤を出すと必ず取り上げて絶賛したくなるので、やっぱり書きました。彼ら、ライヴだとスタジオ盤の何倍も良いですよ。

 

(長畑宏明)

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The Cinematic Orchestra.jpg もしも、音列を数えてゆく際、その数は世界に包含されているとしたら、マルセル・デュシャンみたく後半の人生の「沈黙」と共鳴していた音はチェスを打つばかりだったのか、というと、違う気もする。「沈黙する、芸術」に近付くスコアを描くプロジェクト"イン・モーション"をシネマティック・オーケストラが始めたと聞いたときは、如何にも現代らしく、彼ららしい試みとも思った。作品毎に高められる音響美とその背景に広がる情景はまるで映画音楽的だと言っても過言ではなく、しかし、ライヴ・パフォーマンスで味わうジャムでの皮膚の内側に染み渡るエレクトロニック・ビートと芳醇で麗しいグルーヴにじわじわと熱気を持って行かれる、というバランスのいい彼らの在り方は、90年代~00年代を越えて、長く続いてきた証と更新の轍を刻んできた。

 その中心を担う作曲家にしてプログラミングも行なうジェイソン・スウィンスコーに関してはこの頃は映像作品に生で音を加えるというパフォーマンスを行なってもいたが、思い返すまでもなく、03年のジガ・ヴェルドフの1929年のソビエト連邦時代の無声映画『Man With A Movie Camera』に合わせた音楽作品の忖度が、愈よここにきて具象化してきたと言えるだろうか、まだ『#1』ということであり、これから"イン・モーション"は本格的に進んでゆくのだと思うが、本作で感じられる手応えも確かなものがある。ポスト・クラシカルというよりも、現代音楽へダイレクトに近付いた細かいビートと叮嚀なリズム、アコースティックな質感、アンビエンスの隙間には想像力を馳せるだけの優しさに満ちている。そういう意味では、ニルス・ペッター・モルヴェルの00年代の諸作に近いものもあり、同時にグスタボ・サンタオラージャがコンダクトしたかのような音の磁場も巡回する。

 本作は、実際にライヴで実演されたものをもう一度、スタジオで再録音しているもので、映像作品からのインスピレーションが軸になっている。シネマティック・オーケストラ名義では3曲。ルネ・クレールにより1924年に作られた『Entr'acte』、モダン・アメリカ写真界のレジェンドたるポール・ストランドと写真家チャールズ・シーラーの手によって1921年に製作されたサイレント・ショート・ムービー『Manhatta』にインスパイアされた2曲と、冒頭のこれまでの彼ららしいダンサブルな因子も含んだ「Necrology」。圧巻なのはやはり、20分を越える「Entr'acte」の壮大な展開と細部まで神経が行き届いたアレンジメント・センスだろうか。音の漣が寄せては返すようで、決して間延びしない構成が組まれている。

 なお、触れておかないといけないのは、本作は勿論、一作品としても愉しめる内容だが、4月に行なわれるSonerSound 2012 Tokyoに向けての企画盤としての側面が強く、予習盤の意味もある。つまり、ライヴでこそ味わって、彼らが今後目指す"イン・モーション"が何処に向かうのか、が分かるという訳だ。彼らは08年の来日公演のときでも共にしたが、フライング・ロータスとの繋がりもあり、彼のレーベル《Brainfeeder》から気鋭のジャズ・ピアニスト、オースティン・ペラルタ(Austin Peralta)が一曲参加していたり、フライング・ロータスの関係でドリアン・コンセプト(Dorian Concept)とトム・チャント(Tom Chant)も、二曲で参加している。そして、シネマティック・オーケストラ本体にも参画するグレイ・レヴァレンド(Grey Reverend)まで、幅広くもそれぞれがしっかりとした主張をしながらも、斑なくトータリティを失わない7曲が揃っている。

 《Ninja Tune》を牽引するアクトでありながらも、当初のジャズとエレクトロニカの折衷性と美しい音風景の形成、07年の『Me Fleur』における彼岸的にも思えるユーフォリアを越えて、より不定形に且つ沈黙に色を塗るための作業に入ってゆく彼らはまた、面白い分岐点に来ている。ハイ・ブロウでも好事家向けでもない、ファイン・アート、コンセプチュアル・アートへの挑戦と好戦性が見えるこの音は静かに、映像を浮かび上がらせる。映像が浮かび、音列を数え直すとき、ふとフィルム音は終わる。

 聴取者の想像力を最大限に掻き立てる、良い作品に辿り着いたと思う。

 

(松浦達)

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Scuba.jpg 前作から2年ぶりとなるアルバム『Personality』だが、マウント・キンビーをいち早くフック・アップするなど、潮流を読み取る慧眼に定評があるスキューバらしい内容となった。

 ベース・ミュージックを鳴らしながらも、そこに定住せずテクノに接近するなどして常に異彩を放ってきたように、彼の音楽が持つ魅力はクロスオーヴァー性である。本作は、そのクロス・オーヴァー性が結実したバラエティ豊かな音楽を展開している。ベース・ミュージックはもちろんのこと、テクノ、ドラムンベース、ビッグ・ビート(まさか2012年にこの言葉を使うなんて思いもしなかった!)、エレクトロ・ハウスなどをスマートに融合している。特にエレクトロ・ハウスが重要な役割を担っているのは、ベース・ミュージックがハウスとの繋がりを強めたことによって、ハウスがイギリスのダンス・ミュージック・シーンで最前線に返り咲き、注目を集めていることと無関係ではないだろう。

 このハウスについてもう少し言及すると、ベース・ミュージックだけでなく、昨今のビート・ミュージックやアイタルといったインディーなど、いま注目を集めている音楽のほとんどに、ハウスの影が見え隠れする。それはおそらく、様々な音楽性を掛け合わせることが当たりまえとなったポスト・インターネット世代が、自らの頭にある音楽を鳴らすフォーマットとして、ハウスの利便性が注目されたことによるものだと思う。ハウスのイーヴン・キックは、マゾヒスティックな快楽をもたらす抑制的ビートではあるものの、その実、高い順応性を備えている。つまり、ポスト・インターネット世代の音楽的特徴である"何でもあり"とハウスの順応性は矛盾するものではなく、出会うべくして出会ったと言える。この出会いが、インディーからハウスの更新がなされた要因であり、その影響は日々拡大している。今はまだ、ベース・ミュージックにおけるハウスと、インディーにおけるハウスは交わっていないが、そう遠くないうちに、お互い流入しあう関係になるのではないだろうか?

 そして、その流入を促すようなスピード感が、本作にはある。本作を聴いて、スキューバの持ち味であった複雑なリズムが直線的になったことを嘆く人もいるだろう。しかし、直線的になったことでスピード感が生まれたことも事実であり、このスピード感は、凄まじい速さで溶解が進む現在の音楽シーンを如実に表している。イギリスでは、フレンドリー・ファイアーズとマンチェスターのステイ・ポジティブが頻繁に交流するなど(両者はイベントなどでよく一緒になっている)、先述の流入しあう関係の兆候が窺える。本作も、こうした兆候のひとつだと思う。

 

(近藤真弥)

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Teta『Fototse Racines Roots』.jpg ジョン・ケージは、過去に「Inside Of Sounds」ということを言っていた。この言葉が含む意味とは、推し量るに、精神論ではなく、音を構成する素粒子とでもいおうか、そういった運動体を捉え、表層の楽音の範囲だけで判断していないか、ということであり、そこには本質的な人間の音楽への対峙の仕方を促す。つまり、未分している音楽の先に在るだろう景色が(聴取者に)聴かれることで、抽象は具体に内部化され、内部化された後に、自由が運ばれるともいえる。今はその手の自由が内部化されているという倒錯も起きているが、内部化された"それ"は実は名称付けされない不確定なものでもある気がする。名称化したことで、自由は非・自由との駆け引きを余儀なくされるからだ。「音楽に国境はない」と言っても、そう悠長な時代でもないのも道理なのかもしれない。

  さて、アフリカと南アジアの混ざり合う場所、マダガスカル島。その島の南西部にあたるチュレアール地方における独自のトラディナル・ミュージックのツァピック(Tsapiky)を現代風に解釈して届けようとしている動きが出ているのは知っている人たちは居るかもしれない。ツァピックとは、マロヴァニー(長方形の箱型撥弦楽器)、マンダリニー(3弦ギター)、アコーディオン、ジェジョラヴァ(弓)などの伝統楽器をベースにしたものだが、例えば、今、話題にもなっている5人組バンドのDamilyのサウンドには、伝統楽器を用いながらも、アーバンなムードと重厚なグルーヴを表象しており、あまり馴染みがなかったであろう、ツァピックの祭祀性をモダナイズし、基本的にインヴィジブル・レリックともいえた伝統音楽を世界へと具象化せしめた。

  この度、ツァピックをモダナイズしたアーティストの一人、クロード・テタの作品がグローバル・リリースされたことは大きい。マダガスカルでは既に名前の知られたベテランでもあり、数々のライヴを行ない、現地では多くの作品も出している。テタは1967年生まれ、幼少時から祭祀事で演奏したり、8歳にはマンドリンを習得し始め、その弦の捌きと巧みな音のモティーフの発想から多くの人たちの支持を得ており、早々とプロ活動を始め、1988年からはバンドを組み、バンドとしても精力的に活動していたが、2007年からソロへ転向してからは音楽への探求心がより深くなる。ソロになってからは、ツァピックをあくまで「主軸」に置きながら、ブルーズ、ジャズなどの音楽語彙を取り入れ、より音に含まれる伝統と現代の間の機微を繊細に描写していくことになり、今回のグローバル・リリースとなる『Fototse』でも、ブレはない(なお、マダガスカル現地では既にソロ作は数作出ているので今作を聴いて、気に入った方はチェックしてみて欲しいと思う)。

 ここでのテタは、生ギターだけ一本を用い、弾き語り、歌い、叫び、ときにハミングする。添える程度にパーカッションやコーラスは入るが、基本は前述したツァピックの伝統楽器は用いられることはない。ギターはツァピックの基本スタイルといえるトゥー・フィンガーだが、もっと現代的なコード、フレーズが用いられているところが目立つ。レコーディング場所は、マダガスカルの海沿いのアンツェポカの海の家(ジャケットが録音場所になる)で行なわれているのもあり、時折、波の音も自然と入っており、自然な音割れもあり、同時に録音場所の家に流れるラフな空気感も加わっている。

 まるで風が流れるように、どういった指捌きをしているのか、と思うほどのギターを自在に操る様を追いかけているだけでも、興味深い。2曲目の「Tsakorarake」では、ブルーズをモティーフに、彼のフィジカルな雄叫びや声が乗り、6曲目の「Veloma aminao」はふとボサ・ノーヴァを思わせるような美しいギターの響きに彼の軽やかな声が清んだムードを運ぶ。9曲目の「Mifona」には鼻歌のように泳ぐようにギターと声を合わせ、女声コーラスがそれに一層の華を加え、12曲目の「Ze mahery managnaze」でのアコーディオンとギター、パーカッションの性急なアンサンブルがグルーヴィーな昂揚をもたらす。各曲、骨組みはシンプルながらも、色の違う曲が収められていて、テタの野太くも味わいのある声と生ギターの遊泳だけでも、十二分に伝わる何かがある。ちなみに、ギターリストという面でいえば、マダガスカル島に絞れば、デ・ガリにも近接する部分も少しはある。

 そこに、楽器と人が居れば、自然と音楽は生まれる。日本からは映像越しにしか分からない遠国の音楽や文化があっても、こうして身近に感じることが出来るようになったのは喜ばしいことだとも思う。色んな場所で、色んなアーティストが、色んな伝統を重んじて、それぞれの解釈や想いで音楽を鳴らし、その音楽は確実に伝播していき、少なからず、様々な人たちの気持ちを揺り動かし、ときにカームさせる。

 今作は、国境など越えて、各々の自由な判断動因の補助線を敷くものになっていると思う。

 

(松浦達)

 

 

 

 

 

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Madegg「Teach」.jpg 《Flau》と契約し、5月にはアルバムをリリースする予定であるマッドエッグのベスト盤的EP「Teach」。本作は《Flau》からの3ヶ月連続リリースの第1弾だそうで、1週間限定のフリー・ダウンロードとしてリリースされている。なので、あと1日で終了というなんともギリギリなタイミングでのレビュー掲載となってしまったが、後日iTunesでも配信されるそうだし、その際の参考として本稿を読んでもらえれば幸いだ。

 ちなみに本作は、マッドエッグが2009年から2011年にかけて制作した楽曲を、《Modern Love》からのリリースで知られるデムダイク・ステアのマイルス・ワイテカーがマスタリングしたという代物。過去のEPから選曲された曲がほとんどのため、いままでマッドエッグの音楽に触れたことがない人に向けた作品かもしれないが、バンドキャンプで配信されていたEP群は現在入手不可となっているため、過去の曲群がコンパイルされているだけでも貴重だし、なにより、マイルス・ワイテカーの仕事ぶりを確認できるという点も、本作の価値を高めている。

 しかし、こうしてあらためてマッドエッグの音楽を聴いてみると、実に様々な音楽的要素が混在していることがわかる。ドローンにアンビエント、そしてLAのビート・ミュージックと共振するグルーヴなど、挙げていけばキリがないほどだ。強いて言うなら"エレクトロニカ"かもしれないが、単一的タグで定義するには、マッドエッグの音楽はあまりにも壮大すぎる。

 そして、聴き手の心をくすぐる心地良い想像力を内包する音楽は、決して内省的なものではないし、実験的ではあるものの、なにかを拒むような小難しさもない。むしろ可愛らしいくらいで、何度も聴いているうちに愛着が湧いてきてしまう。同時に「カッコいい!」と言えるクールネスも存在していて、ある種の色気すらある。そんなマッドエッグの音楽には、聴き手の心を解き放つような魔力が存在する。

 と、ここまでいろいろ書いてはみたものの、マッドエッグの音楽を言葉で表現するのは難しい。だが、それでいいと思う。そもそも音楽って、言葉にできない"ナニカ"を表現するものだと思うから。そういう意味では、マッドエッグの鳴らす音楽は限りなく"原初的音楽"に近いのかもしれない。言葉ではなく、心と心がゼロ距離で交わるような音楽。そんなマッドエッグの音楽に、足を踏み入れてみてはいかがだろうか?

 

(近藤真弥)

 

※本作は《Flau》のバンドキャンプからダウンロードできる。

 

 

 

 

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PASCAL PINON.jpg アイスランドはレイキャビク出身である双子のアコースティック・デュオ、パスカル・ピノンによる5曲入りの記念盤が、3月末から始まる日本ツアーに先駆けて、日本限定でEPとしてリリースされた。今年リリース予定である新作の内、先行として2曲が収録されている。他の3曲は再録曲とセルフ・リメイクであり、真新しさはないものの、限られた10代の青写真を切り取っているようで、これはこれで素敵である。

 彼女らの意識していないところで少女性とティーンエイジャーが売りになった以上、リスナーの一人として、今は沢山のソングライティングを重ねて欲しい。マイク一本で制作された素朴でいなたいファースト・アルバムは、《Morr Music》にて一躍に脚光を浴び、"北欧""十代""双子の姉妹"という看板こそ輝かしかったものの、そもそものメロディがとても良かった。このEPに収録された先行の2曲も、とても10代とは思えない早熟なセンスであり、小さな編成による"引き算の音楽"の妙が醸し出されている。

 10代の幼さは儚くも脆い。「彗星の如く」と彼女らを表していたサイトがあったが、確かに忽然とフェード・アウトしそうな、もしくはヴァシュティ・バニヤンのように30年以上沈黙を貫きそうな危うさがある。それもまた、少女性の放つ魅力である。ブリティッシュ・フォークよりも温かく、シンプルなアコギのフレーズと、左右から聴こえて来るユニゾンのヴォーカルが心地良い。リアル・タイムで彼女達の音楽を聴かないのは、きっと損だ。

 

(楓屋)

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夜夜.jpg 韓国音楽と言っても、最近でも、チャン・ギハと顔たちや4枚目となるアルバムをリリースした韓国版のベル・アンド・セバスチャンとも言われるネオアコ的な香りと繊細なサウンド・ワークが美しい男女二人組ユニットの小規模アカシアバンド(Sogyumo Acacia Band)といい、巷間のいわゆる、"K-POP"とは違う形で、独自のコリアン・ポップスに向き合うアーティストが増えてもきている。しかも、面白いのは決して舶来のロック/ポップスだけを参照にしている訳ではなく、自文化のトロット(韓国演歌)への配慮もあったりもするというのが頼もしい。そんな中、非常に面白いデュオが出てきた。まだ、2010年7月に初ステージを踏んだばかりというので、新進だが、既に早耳のリスナーや韓国での注目度も高まっていきている夜夜(Yaya)。日本でいうEgo-Wrappin'に近いバイタルなムードを持ちながら、エキゾチックなデュオ名そのものの夜の舞踏会的な情緒に合う音世界は、猥雑でありながらも、生命力に充溢している。メンバーは、感情豊かな多彩な声を使い分ける女性ボーカリストのAya、男性ドラマーのSiya。このファースト・アルバム『曲芸』は、さらにコ・サンジ、キム・インスなどのゲストを招いて作ったためか、コ・サンジの影響からはバンドネオン、タンゴのエッセンスが、キム・インスからはワールド・ミュージック、ロックへ目配せもあるのだろうか、幅広い音楽語彙に富んだ内容になっている。

 PVでも話題になった、韓国の歴史と密接に関わる白仮面を被り、風車を前に演奏し、カットの中でダンサーが鮮やかに演舞する8曲目の「嵐のように、花火のように、」では、アコーディオンの響きが官能的な残像を残しながらも、AYAのときにドスのきいた声が耳に残るタンゴをモティーフにしたポップな着地を見出し、4曲目の「Damper」ではジャジーな横顔を見せるなど、全体を通じて凝ったサウンド・ワークとロック、シャンソンやエレクトロニクスを混ぜ合わせ、アコーディオンのみならず、バイオリン、コントラバス、トランペット、サックス等の楽器が爆ぜた結果のサーカス的でキャバレー音楽のような逞しさの側面も持つ。

 だが、彼らをして称されることがある「キャバレー音楽的」とは、今の時代でどういった意味を持つのか、疑問も起こる人たちも多いかもしれない。もはや、バーなりもう少しソフィスティケイテッドされた場所で歌われる音楽、流れるBGMこそが是なのか、と言うと、個人的には違うと思う。日本に昨今、急速に増えたスペイン型式居酒屋のバルでもそうだが、フラットに日々の生活から(今は幻想に近付きつつあるのかもしれないが、)記号としてのミラーボールが煌めき、夜の馨りのする一歩だけ生活から離れた、地続きの憩いの場所として、アルコール、シガレッツなどとこうした夜夜のバンドの生演奏で陶然とするというのもいいのではないか、と願いもするからだ。文化の均質化と遊びが足りない方向へと進む世界の各地でもまだまだ隠れ家のように、仕事帰りの寄り道に、そういった憩いや場は残っている。となると、架空のキャバレー音楽やミュージカル的コンセプチュル性どうこうに目配せするよりも、この音源から滲み出てくる蠱惑性と気怠さと獰猛な勢いを感じるのがまずは正しい気がする。ライヴ映像を観ても、Ayaの巻き舌からときにシャンソン風に歌い、ドレスを纏い、華のある魅せる形のパフォーマンスといい、これからますます、活躍の場を拡げていくのではないだろうか。如何せん、若さゆえの荒削りな部分も多いが、それだけに現場(ライヴ)で鍛えられることにより、更に大きくなる可能性はある。"K-POP"と呼ばれるカテゴリーが決して"何もかも"を指さないように、夜夜は、生命力の溢れる音楽を韓国から世界に向けて、発信しようとしている。

 こういう音楽は懐古主義(ノスタルジア)でもなく、作為的でもなく、おそらく、若い世代の中で想うリアリティの一つの反映でもあるのだろう。紛いもののようで、本物とは何なのか、混沌たる時代に風穴を空ける存在として期待するとともに、アルバム・タイトルの『曲芸』に沿って、軽やかに世を渡っていって欲しい。

 

(松浦達)

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Broken Fingers『BF Juke 4』.jpg 現在のジュークを考えてみると、ルーツであるハウスと似た経緯を辿っていて面白い。もともとハウスも"踊るための音楽"として生まれた音楽だが、クラウドにマゾヒスティックな興奮を与えてくれるハウスは、アンダーグラウンドからポップ・フィールドにオーヴァーグラウンドする過程で細分化し、"踊る"だけでなく"聴く"ことも要求されるようになった。

 そしてジュークも、《Planet Mu》の精力的なリリースやサウンドクラウドを通じて多くの人に触れることで、"聴くトラック"が増えてきているように感じる。とはいえ、ジュークの場合は求められたからではなく、聴いた人たちがその音楽性を面白がり、自ら試行錯誤し曲を作った結果として"聴くトラック"が増えたのだと思う。その"聴くトラック"を興味深い形で表現しているのが、ブロークン・フィンガーズである。

 このブロークン・フィンガーズ、筆者なりにいろいろ調べてみたが、どんな人物なのかハッキリとしない。フェイスブックのプロフを見たかぎりでは、ショーンなる青年によるソロ・プロジェクトだと推察できるが、それ以外は詳細不明というミステリアスな感じ。もしかしたら、『The Deducer』のジャケに写っている白人男性がブロークン・フィンガーズなのかもしれない。

 そしてもっとも興味深いのは、ブロークン・フィンガーズはジューク一筋で曲を作ってきた人ではないということ。彼のバンドキャンプにアップされている音源を聴けばわかるが、サウンド・プロダクションはポスト・パンク的であり、ナイン・インチ・ネイルズに影響を受けたインダストリアル・ノイズな質感を残している。この不気味で殺伐とした質感は、ヒップホップやウィッチ・ハウスなど様々な音楽を作ってきた彼の全作品に共通するもので、それは本作も例外ではない。本作を注意深く聴けば、音に対する偏狂的こだわりに驚くはずだ。ベースが過剰に強調され、徹底的に削ぎおとされたミニマル・サウンドで、聴き手を深淵に引きずりこむような音楽。それはシカゴ産のジュークとは明らかに異なるものであり、そんなトラックを生みだすブロークン・フィンガーズは、ジューク界からすると門外漢かもしれない。

 しかし、だからこそ本作には、ジュークに収まらない多様な音楽性が詰まっている。ジュークはもちろんのこと、ミニマル・テクノにドローン、そして先述のポスト・パンクやインダストリアル・ノイズといった要素が混沌と渦巻いている本作は、ブロークン・フィンガーズという音フェチとジュークが出会った、素晴らしいハプニングのようなものだ。

 

(近藤真弥)

 

※本作は、ブロークン・フィンガーズのバンドキャンプでダウンロードできる。

 

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ME AND CASSITY『Appearances』.jpg ドイツのアンダーグラウンド・ポップ界におけるヒーローと言わしめるSSW、ミー・アンド・キャシティことダーク・ダルムシュテッターによる久々のバンド編成での作品である。ほぼ1年に1枚のペースで、コンスタントに作品をドロップし続けている彼も、ミー・アンド・キャシティ名義でのアルバムは実に8年振りにもなり、ソロ名義などを合わせれば、これで通算16枚目のフル・アルバムとなる。ちなみに本盤は2012年3月現在、今年リリースされたアルバムの中で、筆者が一番ハマったアルバムである。

 トッド・ラングレン、ニック・ドレイク、ボブ・ディランなどへのリスペクトを掲げており、彼自身もギブソンES-335から12弦のアコースティック・ギターまで弾き倒すギター少年であるのだが、本盤ではギターの役割はかなり抑制されており、手癖によるオブリなんかはいちいちかっこいいものの、あくまでも曲の屋台骨としての役割を担うだけに終わっている。フォーキーなアルバムが続いただけあって、ミー・アンド・キャシティ名義での前作『Between Wake And Sleep』のような、派手なリード・トラックを期待していたのだが、その期待を良い意味で裏切るような、上質のバンド・サウンドを鳴らしている。

 上記のようなルーツ音楽に根差したフォークよりも、「AORっぽくなったなぁ」という印象を筆者は抱いた。少し懐かしい名前を挙げるなら、ティアゴ・イオルクにも通じる、素直なポップ・ソングであるし、ギターの自己主張が薄まったことで、よりAORらしさが浮かび上がった。跳ねたリズムと混声によるコーラスが爽やかな「Fred Astaire」では、アコギは地味なバッキングのみに徹しているし、本盤の全般で鳴っているストリングスとホーン・セクションが、よりバンド・アンサンブルのカタルシスを生む。これらのアレンジは、アイアン・アンド・ワインとの共盤を作成したキャレキシコのサポート・メンバーであるAnne De WolffとMartin Wenkによるものであるのだが、無国籍的なバンドであるキャレキシコのメンバーがサポートし、ダルムシュテッター本人もルーツ音楽を意識していたにも関わらず、結果AORらしいアルバムに辿り着いたことは、とても面白い。

 活動開始から24年が経っているものの、純粋に素敵だなと思わせるメロディが、次から次へとぽんぽん飛び出してくる。変わらない彼の声と瑞々しい歌詞は、音楽性は異なるものの、日本人アーティストで言えば小沢健二を想起させる(もう少しロックだけど)。多くの方に聴いて欲しい。

 

(楓屋)