reviews

retweet

Nina Kraviz『Nina Kraviz』.jpg ロシアの美人DJ / プロデューサーであるニーナ・クラヴィッツ。その彼女がマット・エドワーズ(レディオスレイヴ)主宰のレーベル《Rekids》から、待望のファースト・アルバム『Nina Kraviz』をリリースした。ニーナはDJとアーティスト活動はまったくの別と考えていて、確かに本作は、DJプレイとは違いタイトで統一感を重視したアルバムとなっている。

 ちなみにニーナのDJプレイはバラエティに富んだ選曲が特徴で、"クラシック"と呼ばれる過去のテクノやハウスにリスペクトを表しながらも、ピンク・フロイド「On The Run」といった楽曲までプレイするなど、音楽そのものに対する愛情を感じさせてくれる。ニーナ自身アシッド・ハウスを多くプレイすると公言しているが、そんなニーナのインスピレーション源はデヴィッド・ボウイにグレイス・ジョーンズ、さらにはロバート・プラントやケイト・ブッシュといった面々で、特にケイト・ブッシュからは多大な影響を受けたらしい。ニーナが名を挙げたアーティストからもわかるように、ニーナは音楽に対し寛容な姿勢で接していることが窺いしれる。

 それだけに、本作を聴けば聴くほど、もっと多彩な音楽性を披露できたのではないか? と思わざるをえない。本作はリード・トラック「Ghetto Kraviz」のような、妖しいミニマル・サウンドとシンプルなプロダクションを施した曲がほとんどだ。陶酔的な"ハマる"ダンス・トラックは心地良く、薄暗い地下室で狂喜乱舞する人々を想像させる雰囲気もあるが、豊富な引きだしと端正なルックス、そして囁くような魅力的歌声を持つニーナを"フロアのクイーン"にとどめるのは、あまりにもったいない。ニーナの持つ資質からすれば、ポップ・フィールドとアンダーグラウンドを繋ぐ外交官になりえると思う。例えば、ニーナが自身の作品で多様なポップ・センスを開花させ、それに釣られた聴き手をニーナがDJでリデザインするような光景。そんな光景を実現させるだけのポテンシャルを、ニーナは持っている。

 良くも悪くも、聴き手が"自分の求めるバンド / アーティスト"を見つけやすくなったいま、ハプニング的発見は少なくなった。こうした現状は、"深さ"を育むことはあっても、"視野の広さ"は育たない。この"視野の広さ"が欠けた現状として、"箱庭での交流"は至るところで発生しているが、その交流が箱庭を飛びだし、別の箱庭と交流して新たな摩擦を生むことは難しくなっている。そんな現状のオルタナティヴとして、ニーナは重要な存在になれる可能性を本作は示していると思うのだが、どうだろう?

 

(近藤真弥)

retweet

EGOISTIC 4 LEAVES.jpg ソフトなエキセントリック感と美しく軽やかに疾走するメロディー、そしてドラマチックな奇数拍子で、前情報なしの耳をグッと掴まえた罪なヤツら。

  名古屋発の6人組で結成から約10年、今作が待望の初音源だ。ジャズ的な質感を軸に、ラテンやハウス、エレクトロニカの旨味を溶かし込んだアレンジも良いし、曲も良いし、演奏も良い。つまりは完璧なのだ。

  音(鳴り)に対するこだわりはひしひしと感じるものの、革新性や奇をてらう様子はなく、ただひたすら気持ち良さとかっこ良さが鳴り響くばかり。サウンドの精緻な完成度やアレンジの幅も広い。その結果ポップ寄りになり、普段歌ものをメインに聴いている耳にも、かなり魅力的なのだ。ジャンルや概念を越えて、強烈な個性と存在感を放つ彼ら。特に気怠げなキーボードがその世界を神聖に響かせ、その器の大きさを思い知らされる結果に。

  メンバー6人がそれぞれスタイリッシュな才能であることも重要だろう。その才能がさらに発揮されることを期待して、長く付き合っていきたい。

 

(粂田直子)

retweet

BATHS.jpg ファースト・アルバム『Cerulean』で、昨今のチルウェイヴとも共振するドリーミーなビート・ミュージックを鳴らした22歳の青年はものすごい勢いで進化し、いまやビート・ミュージックの範疇で語るには無理が生じるほどの多様な音楽性を披露している。

 ビート・ミュージック自体順応性の高い音楽で、ジャンルとしても良い意味で曖昧な定義しかないためか、最近はハウスと邂逅を果たすなど、ビート・ミュージックの拡大は今なお続いている。ラス・Gやフライング・ロータスが"急進派"とされ、"ウェールズのドック・ダニーカはハウス寄りだ"みたいな単一的タグ付けは無効になり、いまや複数タグが当たりまえ。そんなビート・ミュージックはいま、そのラディカルな隆盛を謳歌している。

 こうした"溶解"がポップ・フィールドにまで侵食した現状を、リスナーはどう捉えているのだろうか? 筆者はふと考えてしまうが、LA在住のバスは、その"溶解"をポジティブに捉えた音楽を鳴らしている。ガーディアン紙は「J・ディラがぺイヴメントやプリンスの作品を使い創っているかのような音だ」とバスを評しているが、これはまったくそのとおりであり、的外れでもある。というのも、バスの音楽にはもっとたくさんの要素が入り乱れているからだ。様々な音楽はもちろんのこと、バスの見てきた風景や夢、そしてパーソナルな感情が彼独自の美学となって表現されている。そんなバスの音楽にふさわしい言葉は、彼自身が宣言しているのかもしれない。そう、本作のタイトルの一部となっている、"ポップ・ミュージック"である。

 本作は『Cerulean』以降に制作された楽曲で構成されているが、本作には文字通り「Pop Song」という名の曲がある。こうした部分にもバスの美学が隠されているように思う。もともと配信限定でリリースされていた本作だが、日本独自盤としてフィジカル・リリースされたのをきっかけに、本作を手に取るのもいいだろう。

 

(近藤真弥)

retweet

LILLIES AND REMAINS.jpg 「―ドラマとは、はじまりがあって中があって終わりがある一つの事件を模倣するのだという。主人公のアクションがはじまり、対話が発展して急転と発見が起こり、主人公は新しいう運命にゆだねられる。こういう構造になっています。これを、アクションが起こりかけたら起こらないことを選ぶ、または起こりかけたら起こらないほうを選ぶというふうにぜんぶひっくり返していくと、『ゴドー』の構造になる。」(木田元・竹内敏晴著『待つしかない、か』:春風社)

 「待っている」という無行動ではない、<反>行動の道程、ドラマの構造を内側から抜けてきての再帰。ゴシックな麗しい馨りを纏い、地下の暗がりを潜航するポスト・パンク、ニューウェーヴの音を寡黙且つスタイリッシュに鳴らしていた時期から、ニュー・ロマンティックスの色が含まれ、少しの華やかさとアブラハム・マズローのトランスパーソナル心理学から影響を受けたリリックを合わせて、現代の反マテリアリズムへと明確に舵を取ったセカンド・アルバムの『Transpersonal』からほぼ一年の歳月が経ち、その間には災害など世の趨勢が劇的に変わりながらも、ライヴ・ツアーは昨年の5月の最終日の代官山UNITでのLEO今井を招聘し、過去曲も併せて良い形での拡がりと帰着を巷間に示したが、その後の彼らは新曲といえば、STYLE BAND TOKYOのコンピレーションに提供した「Typical Me」、「Passing Me」の二曲のみで、双方ともラフ・デザインのような荒さがある曲で彼らの真骨頂とは言い辛かった。また、都度、連絡は交わしていたフロントマンのKENT自身もこれから書いていこうとする曲には悩んでいる様子が如実に伺えたのは分かった。そして、昨年9月にドラマーのKOSUKEの脱退と、京都から東京に拠点を移してから、模索しながらもメンバーが固定しつつあったバンドにまた「転機」がある出来事が起きつつあり、今年、2012年に入ってからは彼らの主催イヴェントの"MOTORAMA"を決行し、DE DE MOUSEを呼ぶなど、新たなフェイズに入った感もある中、届いたニュー・マテリアルは意外なことにカバー・アルバムである。

 タイトルは、『Re/composition』。

 クラフトワークのようなバンドのいささか無機的で奇妙な3人のヴィジュアル・イメージ写真、または選曲の面白さ。これらは、直接的な影響を受けたバンドやアーティストやオマージュではなく、リリーズ・アンド・リメインズとしてネクスト・フェイズに進んでゆくための禊ぎのような気もするが、「過程」でもあると思う。現時点での決定打ではない。振り返れば、LOVEの「Alone Again Or」を08年の『Moralist S.S.』EPではカバーしていたり、ライヴでもBAUHAUSのカバーなど積極的に行なってきていたが、この11曲のカバーはバラエティーに富んでいる。

 1曲目のキリング・ジョークの「The Wait」は、如何にも彼ららしい選曲と言えるだろう。キリング・ジョークといえば、決して晴れた表舞台には立つ訳ではなかったが、オルタナティヴ・ロックの歴史に名を刻んでいるUKのポスト・パンクのバンドである。その原曲の鋭利なギター・リフが活かされながらも、より現代風のアレンジで骨太に且つ、音響の幅を活かしたエッジのあるカバーになっており、頼もしい。アグレッシヴな疾走感が心地良い。3曲目の「Some Girls Are Bigger Than Others」は、言わずもがなだろう、スミスのカバーだが、他にも様々な曲がある中で、1986年の有名作『The Queen Is Dead』の最後に収められた、意味よりも戯れ、佳曲にも近い、「ある女の子たちは、他の女の子たちよりも大きい」ということを唄うシンプルな清涼なギター・ロック。政治的メッセージを強めつつあったスミスの絶頂期でも、少しピントをずらしたものを選び、尚且つ重みのあるリズムとKENTの籠ったボーカリゼーションによって全く別曲のようにリアレンジしているのは興味深い。深く沈んでゆく中で煌くように響くKAZUYAのギター、うねるNARA MINORUのベースといい、独特の解釈で捉え直している様は興味深い。

 目新しいのは、4曲目のヒカシューの「Pike」。彼らにしては初の日本語楽曲であるが、ポエトリー・リーディングみたく、敢えて抑揚をつけず呟くように歌うKENTの後ろで暴れるサウンドスケープがオリジナルなアトモスフィアをもたらしており、淡々とした微熱が響く。

 勿論、彼らのルーツにあるポスト・パンク / ニュー・ウェイヴからはニルヴァーナなど数知れずのバンドに影響を与えたギャング・オブ・フォーの1979年の『Entertainment!』から「Damaged Goods」の誠実なカバー、2曲目のエコー・アンド・ザ・バニーメン「The Cutter」における音響の幅を活かした解釈、ネオアコの文脈からは透いたイメージが浮く9曲目、ペイル・ファウンテンズの1985年のセカンド・アルバム『...From Across The Kitchen Table』から「Jean's Not Happening」、彼らの今までにないライトな空気感があるカバーの7曲目のモノクローム・セット「The Ruling Class」という順当ながらも、ツボをおさえた曲が現在進行形の温度で再写されている。なお、スーサイドの有名なファースト・アルバムに収められている「Ghost Rider」をボーカルで唄っているのは彼らの盟友ともいえるバンド、PURPLEのNOBというのも意趣深い。

 その中でも特に異端ともいえるのは、アメリカのメガ・ポップ・スターのブリトニー・スピアーズの5曲目の「Toxic」だろうか。ただ、彼女の曲というのは存外、ロック・バンドに愛されることが多い。かの「Baby One More Time」のトラヴィスのメロウなカバーを思い出さずとも、骨格として優れた曲構造と歌詞を持っているものがあるからだ。その「Toxic」が持っていたビート主体の骨格を脱化して、見事にパンキッシュなアレンジメントで沈み込むように、オリジナル曲を想い出せないような「飛距離」を見出している。まだまだ、メイン・ストリームに居るブリトニーをこういった代案(オルタナティヴ)としての攻めの姿勢で解体作業するというのは彼らの本懐だと思う。2分30秒ほどの間で毒が回るよりも先にビート、リズムを、ということなのだろうか。進度の中で原曲の「Toxic」は霞むのが麗しい。

 さらに、彼らが狙ったのか、面白い一曲にはベックのカバーの10曲目の「Lost Cause」である。この曲は、ベックがレディオヘッドのプロデュースでお馴染みのナイジェル・ゴドリッチと組み、オーケストレーションを取り入れ、セルジュ・ゲンスブールの『メロディ・ネルソンの物語』を目指したかのような、02年の優雅でありながも、悲痛で滋味深いアルバムでのシングルだった。この曲をスマートに再構築し、《Baby You're Lost Cause》、《I'm Tired Of Fighting》といった歌詞もさらっとなぞる。そこに倦みも諦観はなく、前に向かうリリーズ・アンド・リメインズというバンドの密やかな意思が感じとることが出来るとともに、水溜まりを反射するかのような煌めくギターとサウンド・ワークが美しいものになっており、ポップな耳触りも残る。

 11曲目のラストは彼ららしい、デペッシュ・モードの「Everything Counts」。シンセの絡みとリズムの撥ねが絶妙なダークなダンス・トラックで締められることになる。この新譜のカバー・アルバムをリリーズ・アンド・リメインズの確実な手応えと捉えるには難しいが、自分たちのルーツを確認し、同時に様々なアーティストやバンドのカバーを行なうことで、模索のための逸れ路を探しあてたというコンテクストとしては大きいと思う。まっさらな新曲、新しい舞台に挑むために、彼らは真ん中の心臓部ではなく、脈絡を伝い、「ゴドーを待っている」時期なのではないだろうか。全体を通じて、サウンド・ボキャブラリーは増えている感じもするが、原点回帰の意味も可視化出来る。それでも、この11曲で駆け抜ける速度はこれまでのリリーズ・アンド・リメインズ像を刷新するのみならず、不思議な聴後感をもたらすことだろう。

 フッサールの言を借りるならば、現在はつねに現在である「立ちどまり」と、現在が絶えず現在でなくなる「流れ去り」の双契機が、時間の流れの中で生起している、そんな熱を感じる内容になっている。それゆえに、まだまだ彼らは続いてゆく証左になった気がする。澁澤龍彦とサドの詩情の合間を縫うかのような、この速度感は、今の日本では稀有だと思う。

 

(松浦達)

 

※本作は4月4日リリース予定。

retweet

晴天の迷いクジラjpg.jpg R-18文学賞(性について描かれた小説全般を大賞にしているが応募者は女性に限られ選考委員の作家や下読みの編集者もすべて女性のみ。女性のためにエロティックな小説の発掘を目指した新潮社主催の公募新人文学賞)を2009年に『ミクマリ』で受賞し、2011年に受賞作を収録した『ふがいない僕は空を見た』(第24回山本周五郎賞受賞、第8回本屋大賞2位受賞)を発表し、注目されている窪美澄の二冊目になる最新小説が『晴天の迷いクジラ』だ。

 まだ間に合うと言っていいのだろうか。いや、今から追いかけて行くのがきっと読書の喜びと興奮をもたらしてくれる小説家の一人になるだろう。十年もすれば小説好きな人にあなたが「いま面白い小説って何?」と聞けばすぐに出てくる第一線の女性作家として、不動の人気になっていることはこの二作から想像できる。

 二作とも物語の主軸にあるのは、章ごとに主人公(目線)が変わるということだろう。個人の「私小説」的な一人称で見た世界を描くのではなく、章ごとの主人公がなんらかの関係を持ちながらも目線が変わる事で、同じ出来事も細部が変わってゆく。マンガだと浅野いにお著『素晴らしい世界』のような構造だ。個人同士でも考える事や思う事はもちろん違う。生きている人間の数だけ細部の異なる世界が存在しているのが、僕らの世界の成り立ちである。窪美澄という作家はそこを丁寧に描く。

 今作『晴天の迷いクジラ』は四つの章から成り立っている。

 第一章「ソラナックスルボックス」は仕事の忙しさから鬱になり、学生時代の恋人にも振られ(裏切られ)、勤めていたデザイン会社が潰れそうな青年の由人の物語。田舎から上京してきて、東京で付き合い始めた恋人と行った場所が記憶の地図になるとか、由人の家族や田舎に対しての感覚は自分に近いものがあるので「やられた~」って感じがした。たとえ上京していなくても、故郷から離れて暮らし始めた場所で過ごした人との想い出が、その場所を心に刻むことになるという体験をうまく描いているので共感できると思う。

 第二章「表現型の可塑性」はがむしゃらに働いてきたが、不景気のあおりで自らの会社が壊れて行くのをただ見守る女社長の野々花の物語。初恋と出産、そして育児。女を捨て、故郷を捨てた野々花の過去。この章を読んでいろんな感情が巡る人は、金原ひとみ著『マザーズ』(新潮社)を読めばいいと思う。きっと子供を育てているお母さんには、僕なんかよりも強烈なリアル(痛み)がある。『マザーズ』という小説は分厚いけれど、2011年発表の小説の中でも群を抜いてるのでこちらもオススメ。

 第三章「ソーダアイスの夏休み」は母親の偏った愛情に振り回され、やっとできた友だちも失って引き籠るリスカ少女の正子の物語。母と娘の間にある難しさと個人(親)の思う正しさが他人(子)に痛みを与えてしまう。その関係性において、どうしようもない痛みとそこから救い出してくれる友人との出会いをソーダアイスをうまくアイテムとして使いながら展開して行く。一作目『ふがいない僕は空を見た』から窪美澄は、個人の出発点である「家族」について丁寧に書いている。

 終章「迷いクジラのいる夕景」は湾に迷い込んだクジラを見に行く事になった由人と野々花、そして途中で彼らと出会い、一緒に同行することになった正子の物語。そこで出会う人々と喪失の先にあるものが、少し柔らかい日差しのような希望として描かれている。「家族」という個人の最初の場所が引き起こす個人の歴史における痛みと生きづらさ、ある種メタファーとして迷いクジラ。それらが出会う、集う場所は他人同士が同じ場所に居るある種いつわりの「家族」だけれど、そこでそれが癒され、心がほどかれて行く。

 「家族」は一番小さな社会でありコミュニティ。窪美澄の作品に性的な描写がある(一作目がR-18文学賞を受賞してるので、お得意であるし、それを書くべきだと思われていると思う)のが僕は当然だと思うのは、人の発端はそこからだし、その欲望がなければ人は生まれてこないから。「家族」を描く際に個人の欲望(性欲)を描かない方が僕は不自然だと思う。作家が家族を描くことは「性」を嫌でも引き受ける事だと思う。それが始まりであるから。

 一作目も性的な表現が注目されていたりしたけども、今作も前作も窪美澄は「家族」という関係について書き続けている。彼女がデビューする前に妊娠、出産、子育てなど、女性の体と健康を中心にした編集ライターとして活躍していた事が大きく小説にも現れているのは間違いなく、普遍的であり永久的に先鋭的なテーマを彼女は書き続けて行くのだろうと思う。窪美澄は「家族」から成り立つ個人をきちんと書いている。だからこそ読み手は、小説に出てくる登場人物たちと環境や生まれは違うけど、気持ちを重ねることができる。読んでいてしんどくなることもあるけれど、それでも前に進んで、時には逃げる彼らが愛おしくすら思える。それは僕らの一部分でもあるから。

 最近のテレビのニュースでも、湾に迷い込んだクジラが取り上げられていた。クジラというと、僕には「鯨の胎内」から「死と再生」の通過儀礼が浮かんでくる。村上春樹の『羊をめぐる冒険』に出てくる「いるかホテル」も本当は「鯨ホテル」にしたかったと村上氏が以前に語っていた。それはキャンベル『千の顔を持つ英雄』を参考に作っているからで、基本的に『羊をめぐる冒険』は神話構造なのだけれど、窪美澄は無意識ながらクジラをモチーフにしている。それは、作家としての本能が嗅ぎ付けたからなのかもしれない。

 喪失を抱えた由人、野々花、正子の三人が訪れる場所に迷い込んでいるクジラ。まるで先祖帰りして陸を目指すかのようなこの巨大な生物の行動は、自殺に似ている。三人は「鯨の胎内」に"入り、再び出てくる"という死の世界から戻って来るような通過儀礼の代わりに、その町で(彼らと同じように)大事なものを失った人とある種の偽装的な「家族」のような日々を過ごす。そして、死のベクトルから生のベクトルに向かって行く。それは癒しに似ている生への渇望であり、柔らかな日差しが差し込んで冷えきった体の緊張が解かれるような喜びだ。

 闇をきちんと見据えた上での光。それは共存し、どちらかがなくなることはない。彼らは死の側(絶望)から生の側(希望)に少しだけ向かいだす。

 僕たちは出会った人たちとすべて別れて行く。得たものはすべて失ってしまう。あなたも僕もやがて消えて行く存在だ。だけど、いつかやって来る喪失と向かい合いながらも諦めずに日々を生きて行くこと。それは、死を見据えながら毎日を生きて行くということ。そんなふうに、それでも誰かと生きて行きたいと思える小説が『晴天の迷いクジラ』だ。

 窪美澄という小説家の名前は覚えておいて損はない。そして彼女の小説を読めば次の作品がまた読みたくなる。この十年を代表する作家の一人になるよ。きっと、たぶん。いや、そうなってほしい。

 

(碇本学)

retweet

PETER BRODERICK.jpg ポスト・クラシカル、アンビエント色の強い1stアルバム『Float』や、才気高いSSWとしてヴォーカル曲にスポットを当てた『Home』をはじめ、寿命を削るようなハード・ワークによって生み出されたアルバム達を、一度振り返った、あるいは一つの節目として栞に挟んだアルバムである。ソロ・ワークとしても、他のアーティストとの共作やサポート・メンバーとしても、ここまで強い創作意欲をプロモーションへ振り分けたのは、彼の短くも濃いキャリアにおいて初めてである。

 本盤には、彼が培った幾多の音楽的側面と、奇抜なアイデアによる挑戦意欲が散りばめられている。URL先を踏めば、アルバム内の楽曲は全て試聴可能であり、歌詞やセルフ・ライナーノーツ、アート・ワーク、演奏したインストゥルメンタル(担当する楽器の多さは、正にマルチ・プレイヤーである)までもが詳細に記されている。フリー・ダウンロードによってデータ化された音楽に向けて、彼が投じた一つの意見のようなアルバムであるが、説教臭さは無く、非常に内省的な音楽性が終始貫かれている。彼の持つ素養の中でもエレクトロニカ、アンビエント、ポスト・クラシカルらが最も強調されており、ピアノやギターのアルペジオによる反復をベースに、透明感のあるヴォーカルや、美しい無数のレイヤーを重ねている。スピード感のある「With The Notes On Fire」のような曲もあれば、ミニマルな音数と構成にフォーキーなメロディを乗せた「Blue」や、徐々に膨らむレイヤーがシネマティックな「Asleep」など、今までの彼には無い非統一感があり、翻せば音楽性のバラエティに富んでいる。ここには、SSWとしての彼も、サウンド・トラック・メイカーとしての彼も、マルチ・プレイヤーとしての彼も内在している。

 アルバム名が放つ異物感は、本盤が類い稀なる問題作・挑戦作であることを想起させる。しかしながら蓋を開けてみれば、本盤は順調に活躍し続けた彼にとっての集大成的作品であり、変な高慢さとは無縁の、実はとても素直なアルバムである。以前から親交の深いニルズ・フラームがプロデュース、レコーディング、ミックス、マスタリングを手掛けており、姉のヘザー・ウッズ・ブロデリックなど、ゲスト・アーティストも多彩である。アルバムの周囲を飛び交う堅苦しい言葉を抜きに、ずっと聴き流していたくなる催眠性がある。

 

(楓屋)

retweet

Nzca.jpg 元メトロノミーのガブリエルも参加するユア・トゥエンティーズのメンバー、マイケル・ラベットのソロ・プロジェクトであるナスカラインズ。そのナスカラインズのファースト・アルバム『Nzca / Lines』なんだけど、すごく面白い。音源をいただいてから何度も聴いているが、ふと思いだして聴きたくなるスルメアルバムだ。

 全編浮遊感が心地良いエレ・ポップで、ディスコやエレクトロといった音楽をモダンに仕上げた所謂レトロ・フューチャリスティックな方法論で作られているが、そんな一言で括るにはもったいない魅力が本作には存在する。プロモ資料には"インディーR&B"なんて言葉も出てくるし、イントロが鳴った瞬間クラフトワークの「Tour De France」を想起してしまう「Compass Points」みたいな曲もある。他にも古き良きIDMやファンク、アンビエント、そしてもっとも面白かった頃のチルウェイヴ、つまり、リバーブの奥に潜む多様な音楽性が魑魅魍魎と美しく渦巻いていた頃のチルウェイヴ。そういう意味では、"チルウェイヴ以降のエレ・ポップ"として語ることもできるだろう。

 だがアルバムを通して聴くと、そんな単一的ジャンル分けはどんどん無効になっていくことがわかるはず。様々な要素が複雑に絡み合いながらも、あくまで音数が少ないシンプルかつ精巧なポップ・ソング集として聴き手の心を刺激してくれる。だから特定のバンドやアーティストを挙げて例えるのは難しいが、実験精神とインテリジェンスを感じさせるサウンド、そしてファルセットが特徴的な美声という点ではホット・チップと共通するかもしれない。

 "どこか聴いたことあるようで今までなかった音楽"にはそうそう巡りあえるものではないが、本作は間違いなく"ありそうでなかった音楽"だ。あらゆるものから切りはなされた空間で鳴るミステリアスな音楽。それが『Nzca / Lines』である。

 

(近藤真弥)

retweet

LEONARD COHEN.jpg 「ほとんどの人たちは死に対する用意ができていない。自分たち自身の死だろうが、誰か他人の死だろうが。死に誰もがショックを受け、恐怖を覚える。まるで不意討ちだ。何だって、そんなこと絶対にありえないよ。私は死を左のポケットに入れて持ち歩いている。そいつを取り出して、話しかけてみる。「やあ、ベイビー、どうしてる? いつわたしのもとにやってきてくれるのかな? ちゃんと心構えしておくからね」(チャールズ・ブコウスキー著『死をポケットに入れて』中川五郎訳:河出書房新社)

 「クッキーシーンに載るミュージシャンでは最高齢かも。」と、前作のライヴ・アルバム『Songs From The Road』を取り上げた時に書いたけれども、レナード・コーエン自身がその記録を塗り替えようとしている。御年77歳! スタジオ・レコーディングとしては『Dear Heather』以来、8年ぶりとなる新作『Old Ideas』が素晴らしい。40年以上にも渡る長いキャリアの中でリリースされたオリジナル・アルバムはこれで12枚目。むしろ寡作と言ってもいいだろう。でも、時間をかけてじっくり制作されたアルバムは、どれも傑作だ。今作のプロデューサーには、マドンナやブライアン・フェリー、ロッド・スチュワートなどを手掛けてきたパトリック・レナード(一部のリリース情報では、彼が"実の息子"と紹介されているけれど、それは間違い。レナード・コーエンの息子はアダム・コーエンであり、アダムの3rdアルバムをプロデュースしたのがパトリック。それが縁で今作のプロデュースに至る。確かにややこしいな!)をはじめ、コーエンの公私に渡るパートナーでもあるアンジャニ・トーマスなど4人の名前があがっている。バリエーションを持たせるのではなく、シンプルでアコースティックなアレンジに統一されたサウンドは、さらに深みを増したコーエンの歌声に寄り添うように響く。

 冒頭に引用したのは、ブコウスキーが71歳の時に書いた日記からの言葉。力強く、ユーモアいっぱいの彼らしい言い回しだけれども、日常につきまとう"老い"と忍び寄る"死"に対する思いは真摯だ。この日記が書かれてから3年後に、彼がこの世を去ってしまったことを知っている僕たちにとってはなおさらだろう。"聖と性"―そんなふうに例えられることが多いレナード・コーエンの歌。『Old Ideas』と名付けられたこのアルバムでも、彼がデビュー以来ずっと歌い続けてきた神への問いかけや人間の欲望に加え、やはり"老い"や"死"を意識した言葉が多く綴られている。

《私には未来はない / 残された日々はわずか / 現在の生活は楽しくない / しなければいけないことばかり / 過去を懐かしんでずっと生きられると思っていた / でも暗闇に取り付かれた》(ダークネス)

《時にはハイウェイを目指したもの / 鏡は正直に老いを写す / しかし狂気は、いくら別れようとしても / 深く身を隠し、去ろうとはしない》(クレイジー・トゥ・ラヴ・ユー)

 老齢に差し掛かり禅を学んだというレナード・コーエンにとっても、"老い"と"死"は逃れようもなく、恐れ(畏れ)や混乱が色濃く滲み出ている。それでもこのアルバムは、暗く陰鬱なものではない。むしろ"死"すらも見据えた言葉と歌が、リアルに生き生きと迫ってくる。トータルで約40分という決して長くはない10曲を聴き終えた時に気付くことは、"死"を身近に意識してこそ浮き彫りになる"どう生きるか?"という思いだ。それは年齢も人種もジェンダーも関係ない。"聖と性"、それを同じ響きを持つ日本語に言い換えるなら、"生"そのものだろう。思い出して欲しい。ジェフ・バックリィ、ルーファス・ウェインライトからスネオヘアーまでがカヴァーした代表曲「ハレルヤ」の一節を。

《多分、天には神がおられるのだろう / だけど、僕が愛から学んだことは、先に銃を抜いた相手をどうすれば撃ち倒せるかということだけ / それは夜に聞こえてくる叫び声じゃない / それは光を見たという誰かのことでもない / それは冷たく、傷ついたハレルヤ》

 "主をほめ讃えよ"という意味を持ち、賛美歌でもある「ハレルヤ」を、たとえ冷たくても、傷ついていても僕たちの手もとにたぐり寄せたレナード・コーエンの歌。彼が歌い続けてきたことの本質はこの新作でも変わらず、よりいっそう研ぎ澄まされている。『Old Ideas』のリリースに合わせて、いま活躍しているミュージシャンやバンドが彼の曲をカヴァーする"Old Ideas With New Friends"という企画をチェックして欲しい。ニュー・ポルノ・グラファーズのA.C.ニューマン、今年のI'll Be Your Mirror USAでついに復活を果たすアフガン・ウィッグスのグレッグ・ダリをはじめ、カルツやブラッドフォード・コックス、コールド・ウォー・キッズ、マウンテン・ゴーツなど、クッキーシーンが激オシしたいメンツばかりが勢揃い! 10年代のキッズにはレナード・コーエンを発見する絶好の機会。年季の入った音楽ファンは、10年代のインディー / オルタナティブ・ミュージックの豊かさに気付くはず。レナード・コーエンの歌は、こんなふうに歌い継がれていくのだろう。

 『Old Ideas』というタイトル、それは「ジジイのひらめき」でも「古ぼけた考え」でもなく、「私がずっと歌い続けてきたことだよ」とレナード・コーエンはほくそ笑んでいるかもしれない。

 

(犬飼一郎)

retweet

LOOPS OF YOUR HEART『And Never Ending Lights』.jpg ザ・フィールドことアクセル・ウィルナーの新名義ループ・オブ・ユア・ハート。そのループ・オブ・ユア・ハートのファースト・アルバムが『And Never Ending Lights』である。ウィルナーは様々な音を重ねる偏狂的こだわりでもって、メロディーやフックを丁寧に配置し音楽を作りあげていくが、その基本的姿勢は本作でも変わらない。しかし、音に対するアプローチの仕方は、ザ・フィールドでのそれとは異なるものであることが本作を聴けばわかるはずだ。

 ウィルナーといえばやはりループだが、本作ではミニマル・テクノ的インパクト、例えば、聴き手をたじろがせる唐突な展開や飛び道具は皆無である。その代わり、流麗な川の流れを想起させる甘美なグルーヴが聴き手を楽しませてくれる。クラウト・ロックの反復性にドローン、そこへふと現れては消えるささやかなメロディーが主な構成要素として見受けられるが、なにより素晴らしいのは、それらの音がダイナミックかつエモーショナルに鳴らされているということだ。

 本作に収録されている曲群は、音を幾重にもオブラートで包み、そのオブラートを一枚一枚剥がしていくことでカタルシスを演出しているが、謂わばそれは、"消失→構築→開放"の繰りかえしである。そしてこの"消失→構築→開放"というサイクル(ウィルナー的に言えば、それこそループ)は、そのままウィルナーの心に直結する。つまり、このサイクルこそアクセル・ウィルナーという人間そのものを代弁している。ウィルナーは己を"消失"させることで初めて、自らを音楽として表現できる。だからこそ、彼の生みだす音楽は聴き手を欲するし、"消失"によって主を失った音楽に聴き手は、自分自身を見いだすことができるのである。

 このことは、1月28日に代官山ユニットで行われたザ・フィールドの来日公演で感じたことでもある。序盤のヒプノティックなループとジャムのように展開していくサウンドは、ザ・フィールドという存在をステージ上から消す役割を担っているように思えた。そんな音に観客は歩み寄ることを求められ、気がつくと、自分を中心として音が周回しているような錯覚に襲われる。このトリックは『Looping State Of Mind』まで一貫して導入されていたが、『And Never Ending Lights』もほぼ同様のトリックを用いている。ただ先述したように、アプローチの仕方が違うというだけだ。ほんとに素晴らしい本作の欠点を強いて挙げるとすれば、この類似性にあるだろう。つまり、アクセル・ウィルナーという才能の偉大さからすれば、本作の出来は当たり前の範疇であるということだ。まあ、そんな問題は些細なことでしかないのだが。

 

(近藤真弥)

retweet

CHRISTIAN NAUJOKSjpg.jpg レディオヘッドの昨年の『The King Of Limbs』では、ディープ・ミニマルの影響を少なからず受けていた要素はあったが、ライヴではツイン・ドラム構成のダイナミクスも揃い、オーガニック・ミニマルの持つ有機的で小刻みに徐々にズレる拍の分だけ、フィリップ・グラスやスティーヴ・ライヒ、ラ・モンテ・ヤングの音を聴いているときに起こる拍の頭に関して、ふと脳内でそれが飛んでしまう感覚を孕んでいたとしたら、今回、ドイツのエレクトロニカ、ミニマルなどで有名なローレンスが主宰するレーベル《Dial》から満を持してリリースされるクリスチャン・ナウヨクス(Christian Naujoks)の2010年の話題になったファースト・アルバム『Untitled』を経てのセカンド『True Life / In Frames』は、そのレーベルから出ているとはいえ、"オーガニック・ミニマル"と称するには難しいだろう、クロスオーバーとしてポスト・クラシカルの次を見通した意欲的な静かな現代音楽の桎梏への距離感で為されている作品である。

 ちなみに、電子音もプリセット音も全く入ってこない。タイド・アンド・ティックルド・トリオなどのワークでも注目を集めるトビアス・レヴィンをプロデューサーとして招き、ハンブルグ・フィルハーモニーの全面協力の下、2011年の8月にハンブルグのクラシック・コンサート会場のライスハレ(Laiszhalle)でライヴ録音されたのもあるのか、生々しさと緊張感に息を飲む内容になっている。楽器もアコースティックのものでピアノ、マリンバと絞られ、曲によって入る彼の中性的な歌声が衣擦れのように響く。だからといって、アンビエント、ジャズ的なムードではなく、やはりオーガニック・ミニマルからポスト・クラシカルの幅を揺れ、名前が付けることが出来ない隙間を鳴らす。隙間を鳴らす、彼のピアノの低温の旋律と、マリンバの細かいリズムの軽快さが、ストイックで酸欠してしまいそうな音空間に空気が吸える場所をしっかり確保もしている。

 今、ロック・ミュージシャンの一部が現代音楽に目を見据えている動きもジャズ・ミュージシャンがロック・ミュージックへの目配せをしているのも含めて、"クロスオーバー"という簡単なタームでおさまるものではなく、音楽的な絵図を描き、新しいヴィジョンを突き進んでゆくアーティストにとっては、ジャンルは最初からあってないようなもので、その「ある概念」を具像化してしまうとなると、どうしてもこういった"カテゴリーが後から付いてくる"いささか前衛的ながらも、「美しい音」を作ってしまうということなのだろう。「美しい音楽」というよりも、「美しい音」。

 ここまで書いてきたが、決して、敷居が高く、小難しい作品ではないのは強調したい。9曲の内、5分を越えるのは3曲だけ、あとは全部、4分以下で、冗長さもなく、自然の流れでも聴き通せるし、カフェやラウンジで流れていてもBGMとしての機能性もある。2曲目の「On To The Next」には、竹村延和氏や高木正勝氏の一時期のストイックな音に対しての彫像美が特に出ていると思う。リズムが細かく優しく重ねられながら、ときには、いつかのシカゴ音響派におけるトータスの初期、イン・ザ・カントリー、そういった音を想い出す人も多いかもしれない。彼のボーカルがフィーチャーされた3曲目「Moments Ⅰ」、9曲目「Moments Ⅱ」にはセンシティヴな現代の「うたもの」としての平熱感がある。その「うたもの」は日本でいえば、空気公団やさかなの在り方にも近い、そのままの空気の揺れと共振するものだ。そして、ライヴ録音での響きの良さ、余韻がそれにまたワンネスという魅惑を忍び込ませる。チルアウト、アフターアワーズ・ミュージック、もしくはヒプナゴジック・ミュージックとして枕の傍らに置いておくのもいいかもしれないが、ただ、個人的に思うに、このライヴ録音でのストイックな静かさで必要なのは「雑踏」の音だろう。何故ならば、無菌室のようなところで紡がれた麗しさに物足りなさをおぼえる人も、透き通った音像の向こう側に自分の日常とは違う逃避を視る人も居るとは思うからだ。しかし、この作品を聴きながら、騒々しい通り(ストリート)に出てみたときに、風景とこの静寂は馴染み、仄かに視界を変えてくれるような気がする。いつも通りの日常だとしても。

 8曲目のタイトルは「Dancer」であり、こういった音で日常を舞うのもいいと思う。凛とした姿勢の正しい音が詰まっている。

 

(松浦達)