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チャットモンチー.jpg 冒頭からチャットモンチーと関係ない話で申し訳ないが、最近刊行されたピーター・フック著『ハシエンダ マンチェスター・ムーヴメントの裏側』に出てくるとある一文が好きだ。それは、バーナード・サムナーに「おまえはさ、過去に生きることが好きだよな」とからかわれたことに対する、フッキーなりの返答みたいな一文だ。

 「たぶん、それは正しいと思う。俺は、ついそれにこだわってしまうところがある。まあ、それを忘れて先に進むことなんかできない、ってことなんだけど。」(『ハシエンダ マンチェスター・ムーヴメントの裏側』447頁)

 この一文は、当時のマンチェスター・ムーヴメントを生きた者達だけでなく、シビアな日常を曲がりなりにも必死に生きる人々に届く最高の言葉だと筆者は思っている。いまこうして書かせてもらっていることも、"過去"がなければありえなかったわけだが、当然"過去"は、楽しいことだけじゃない。それでも"過去"を受けいれ前に進むということが、"生きる"ということではないか? 最近そう思うようになってきた。

 高橋久美子の脱退。長年チャットモンチーを追いかけてきた者ならば、このニュースに驚きを隠すことはできなかったはずだ。筆者もそのひとりであるが、このニュースを聞いたとき、「解散してもおかしくない」と思った。どんなバンドも脱退やメンバー・チェンジは経験するものだし、重要なフロント・マンだけが不動で、あとは流動的なバンドも数多く存在する。しかし、チャットモンチーはあの3人でなければ駄目なのだ。それは、ビートルズやレッド・ツェッペリン、スミスにストーン・ローゼズといったバンドといっしょで、言葉で説明できない特別な"ナニカ"を抱えたバンドに対して抱いてしまう感情だ。

 この感情を言葉にするのは、正直難しい。もちろん技術的には新メンバーを入れたりすることも可能だが、チャットモンチーは、そうした音楽性云々を超えたバンドであり、多くの人の"人生の一部"として入りこんでしまっている。だからこそ、解散の道を選んでもおかしくなかったが、ご存じのように、チャットモンチーはチャットモンチーであることを選んだ。

 『チャットモンチー BEST ~2005-2011~』は3週連続リリースの最後を飾る作品だが、本作はチャットモンチーの"過去"を象徴している。普通は"過去→現在"といきそうなものだが、チャットモンチーは「満月に吠えろ」という渾身の"今"から、新たなスタートを切った。そしてアニメ主題歌である「テルマエ・ロマン」が続き、そして最後に本作と、"現在→過去"という見せ方をしている。それはやはり、"3人のチャットモンチー"があったからこそ、今再び前に進めるのだという2人の決意表明のように思う。その決意からは、悲しみに酔ったノスタルジーではなく、その悲しみを受けいれチャットモンチーであることを選んだ力強さがある。だから本作だけでなく、試しに"「満月に吠えろ」→「テルマエ・ロマン」→本作"の順で聴いてみてほしい。『YOU MORE』収録の「バースデーケーキの上を歩いて帰った」で終わる本作だが、《繰り返し 希望と絶望》と歌われる曲が一層心に響くはずだ。そして、それでも歩みを止めない覚悟に、眩しい未来が待っていることもわかるはずだ。

 

(近藤真弥)

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sleepy.ab.jpg 日本最北の地方、北海道は札幌からのスリーピーは、その身体を芯まで突き刺すような極寒の冬の透き通る夜のような、ダイナミックでありながら幾重にも重なった緻密な音世界で、現代の邦楽ロックシーンにおいて、他のどのバンドが立つことも許されていない独自の立場を確立している稀有なバンドの一つと言えるだろう。北欧やスコットランドといった同じく厳しい冬をむかえる国々のアーティストやシーンのエッセンスを咀嚼するだけなのでなく、むしろ自らの土地、北海道の憂愁な甘美の恍惚や切り刻まれていくような情景の数々を素朴ながらも強かに見つめ、それをあくまでポップ・ソングとして打ち鳴らす彼らは、美食の地としても知られる北海道の食品がそうであるように、自然と共に、時にはさやさやとそよぐ風のように、時にはけたたましく窓に打ち付ける豪雪のように呼吸する、その自然な感性が彼らをその独特の地位に居続けられる大きな理由であるとも言えるだろう。

 特にアルバム『Paratroop』で、彼がそれまでの作品から常に保ってきた、壮大な自然からくる幻想的な世界を清冽なまでに何倍も増幅して力強く打ち鳴らすことに成功した彼らは、続くアルバム『Mother Goose』で自らを寓話としてさらに展開していくポップ・センスと地の強かなポスト・ロック的な感性を折衷していたことは記憶に新しい。

 その『Mother Goose』から(DVD作品を除くと)、ほぼぴったり1年を経てリリースされる「アンドロメダ / Lost」は、彼らのキャリアでは初めての両A面のEPである。2曲を見る前に、結論的に言うと、どちらの曲も、彼らの壮大な自然を見据える強かな感性をもってさらに、強固なまでに打ち鳴らされるオルタナティヴ・ソングでありながら、極寒の季節の中で誰かと隠れてうずくまっていた時の温かい体温を思い出しながら、また一人ゆっくりと歩き出していくような、切なさと優しさ、そして、どこに辿り着くかも分からないまま歩いているような乖離に満ちており、彼らの止まることを知らないバンドの表現としての成熟していく経過を見ることができる。

 「アンドロメダ」は、CDをプレイヤーに入れてプレイボタンを押すとすぐに聴こえてくる、「アクアリウム」を思わせるような津波秀樹の重厚なドラムと冬の夜空を切り裂くようなディレイのかかった幻想的な山内憲介のギターが重なったイントロだけで最早、別世界に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚える。しかもその上におもむろに歌い出される成山の言葉は、《さっきまでの世界と違って見えたの》である。こう書くと、逃避的な曲のように思えるかも知れないが、もちろん、そんなことはなく、秋から冬にかけて見られる星座、アンドロメダの中に取り残されてしまったような純粋な目をしたまま立ち尽くして見えた光景を焼き付けるかのような自分自身を歌う曲である。ここで歌われているアンドロメダは、夢想するような理想の世界ではなく君が消えた後に、まがまがと見えてきた現実である。その忍び寄る優しげな不安を体現するかのようなサビでの深淵のサウンドスケープは、『Paratroop』のそれよりさらに幽玄で揺らめくように光っている。

 「Lost」は、初期の頃から見られた、彼ら特有の静謐な世界を柔らかくなぞるようなサウンドで、「アンドロメダ」の覆い込むようなそれとは対照的である。しかし、歌われているのは、「アンドロメダ」よりも、別離の色が強く、「アンドロメダ」は離別が突き刺さっているのに対して、「Lost」はその柔らかな音作りに合わさって、傷口にゆっくりとしみ込んでいきながらも、それを実感した上でも今も遠い春から歩き出そうとしているようで、アウトロのレトロな音構成から万華鏡のようにきらめくコーラスが入ってくるまで優しく感傷を讃えているようだ。

 サウンドは、今までの彼らのエッセンスを更に効果的に研ぎすませた上で、詞に関しても今までの曲に比べると、アブストラクトなものでなく、間接的ではあれども、さらに心の奥に染み渡っていくのも、彼らの成熟具合が感じられる。今作は限定生産のEP作品であるから、きたるアルバムに対して《不安の中眠る》のでなく、期待を抱えつつ冬を越えていたいと思わせられる快作だ。

 

(青野圭祐)

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PERFUME GENIUS.jpg シアトル在住のSSW、パフューム・ジーニアスの前作『Learning』は、なにかとネガティヴな印象で語られることが多かった。無理もない。彼はドラッグ漬けという、苦しみ続けた半生を持ち、立ち上がるため、母親のベッド・ルームでざらついたオーケストレイションと、か細くも芯のある歌声によって苦悩を前作で鳴らしたのだから。それはとてもパーソナルかつ、特別めずらしいわけでもない表現欲求・手段でありながらも、癒しと同時に哀しみが強烈なリアリティを持って鳴り渡り、聴き手の弱い気持ちを見付けだすものだった。それは僕らに甘美な心地を与え、苦痛を耐えやすいものにする。いわば、僕らは現実を捨て去りパフューム・ジーニアスの世界に浸ることのみならず逃げ込むことさえできた。

 しかし彼は、自分自身も、そして聴き手も逃げ込める音楽を作ることを目的化していなかったし、これからもしないだろう。「堕落している自分」をキャラクター化する気もさらさらないことが、このセカンド・アルバム『Put Your Back N 2 It』ではっきりした。本人いわく、「絶望、背徳、中毒症状がもたらす虚無といったものが飛び交う世界」とのことだが、重くはなく、そんなに大げさな音楽ではない。本作では、「過去の堕落した自分自身にはもう戻らない」という意思のもとで、音がぐっと歩を進めるように鳴っている。打ち込みが静かに鳴り、クリアになった音響が磨り合い、時に小気味よくステップし、ギターもピアノも歌声も、圧倒的でも絶望的でもなく、素朴な美しさを持っている。要は、親しみやすくポップなのだ。それは彼にとって今の等身大の姿としての音なのだろう。パフューム・ジーニアスは常に自分を飾らない。彼が鳴らす音は彼自身の心情とリンクしていて、パーソナルな姿として響き渡る。

 スフィアン・スティーヴンスアントニー・アンド・ザ・ジョンソンズの影が見えればマーキュリー・レヴの『Deserter's Songs』を思わせるところもあり、なおかつ本作ではシガー・ロスのような、聖域へと徐々に導かれていくようなサウンドが全曲貫かれている(過日行なわれたHostess Club Weekenderでのライヴでは音の探究者としての姿も見えた)。しかし前作より、純粋に曲の骨格はポップ・ソングとして聴ける側面があり、アルバムをポジティヴな空気で包んでいる。まるで裸足で森の中を散歩しているような邪気の無さ。ここにあるのはそういう些細だけれども閉じこもらない音の数々と歌なのだ。

 もはやパフューム・ジーニアスに堕落的・絶望的というイメージはいらない。単純にイメージに囚われない、音楽としての美しさがある。それは例えば、もはや神聖かまってちゃんを非リア充というイメージの縛りで聴く必要なんてほとんどないことと同じだ。本作を期にアーティストをキャラクター化することで聴こえてくるものとこないものを考えてみるのも面白い。これはジャンルにも言えることだ。

 

(田中喬史)

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NEW AGE STEPPERS.jpg ニュー・エイジ・ステッパーズの4thアルバム『Love Forever』がリリースされた! 3rdアルバム『ファウンデーション・ステッパーズ』から約30年。まさかの復活だ。レゲエ / ダブにパンクを融合させたこのプロジェクトの中心であり、プロデュースを担うのは、もちろんON-Uサウンドの総帥エイドリアン・シャーウッドとスリッツのアリ・アップ。嬉しい驚きに胸がいっぱいになる反面、悲しくて大きな事実がひとつ。みんなが知っているとおり、アリはこのアルバムのリリースを待たずに一昨年、乳がんで亡くなってしまった。ニュー・エイジ・ステッパーズとしては、これがラスト・アルバムになるのだろう。そして、ライヴでのアリのパフォーマンスを見る機会も永遠に失われてしまった。けれども、このアルバムを聞いていると、そんなことが嘘みたい。しなやかで優しく、時に挑みかかるようなアリの歌声は、"生命力"そのものだから。

 僕が最初にレゲエに出会ったのは、ローリング・ストーンズの『ダーティ・ワーク』に収録されている「Too Rude」だった。ポップ・ミュージック / ロックの楽しさに目覚めて間もない頃、ストーンズが『ダーティ・ワーク』をリリースした。当時のストーンズはミックとキースの不仲が囁かれていて、バンドも空中分解寸前だったらしい。なるほど、いま聞き返してみてもアルバムは散漫な印象で、ストーンズのディスコグラフィーの中でも注目される作品じゃないかもしれない。それでも当時は、ストーンズの"新作"という意義がとてつもなく大きかった。14歳だった僕は、何度も何度も夢中で繰り返し聞いた。『ダーティ・ワーク』の中で、いちばんのお気に入りになったのが「Too Rude」。ゆったりとしたリズムで意地悪な女の子のことを歌うキース。脱力したヴォーカルとリヴァーヴが強めにかかったアレンジが不思議で、僕にはとてもポップに聞こえた。その曲がカヴァーだってことには気付いたけれども、"レゲエ"だなんてわかってなかった。ただ単純に「良い曲だな。キース、最高!」って思っていただけ。それはある意味、今も変わらない。

 やがて僕はパンクの洗礼を受けて、クラッシュの1stアルバムに辿り着く。"ポリスとコソ泥"っていうナイスな邦題の「Police And Thieves」は最高にカッコいいレゲエ・ナンバーだ。リー・ペリーとジュニア・マーヴィンのカヴァーであるこの曲をリー・ペリーがボブ・マーリィに聞かせたのは有名な話。セックス・ピストルズの「勝手にしやがれ!(Never Mind The Bollocks)」にすぐに飽きてしまった僕は、P.I.L.の『Public Image』を手に入れた。ジャー・ウォブルの極太ベースとキース・レヴィンの鋭利なカッティングが飛び交う隙き間だらけのサウンドが新鮮で、ピストルズの100倍は好きになった。ピストルズの解散後、ジョン・ライドンがジャマイカへ旅していたことや初期のP.I.L.のサウンドにはレゲエ / ダブの影響が強いことを知った。ようやくレゲエが何だかわかってきたみたい。ボブ・マーリィを聞く準備ができたみたい。そして、聞いてみた。もちろん最高だった!

《New Wave, New Craze / New Wave, New Wave, New Phrase / I'm sayin' / The Wailers Will Be There / The Damned, The Jam, The Clash, Maytals Will Be There / Dr. Feelgood Too》

 ボブ・マーリィのライヴ盤『Babylon By Bus』に収録されている「Punky Reggae Party」にはこんな一節が歌い込まれている。クラッシュの「Police And Thieves」を聞いたボブからのアンサー・ソングだ。ストーンズに惚れ込まれて、パンクスと一緒にパーティを始めるレゲエという音楽。少しだけ時間を巻き戻せば、スカが軽快なビートを刻み、UKではスペシャルズやマッドネスが受け継いでいた。パーティをのぞいてみるとダブ・サウンドが壁を揺らし、ダンスホールやラヴァーズ・ロックが鳴り響いていた。ちょっと遠回りしたけれど、僕はそこでスリッツとポップ・グループを見つけた。そして、その後すぐにニュー・エイジ・ステッパーズと出会い、夢中になった。

 この新作にはマーク・スチュアートはいない。ドラムはブルース・スミスじゃないし、アスワドやクリエイション・レベルのメンバーも参加していない。けれども、彼らが名を連ねた1stアルバムを思い起こさせる。それは『Love Forever』というタイトルが、1stアルバムに収録されていたビム・シャーマン(ON-Uからアルバムをリリースしているジャマイカのレゲエ・シンガー。ニュー・エイジ・ステッパーズの2ndと3rdにも参加)のカヴァーと同じだから、というだけではないだろう。レゲエ / ダブをベースにファンク、テクノ、ヒップホップまで実に多彩なサウンドが鳴っている。エイドリアン・シャーウッドのミックスも、アリのヴォーカルも自由で楽しい。ニュー・エイジ・ステッパーズが体現しているのは、レゲエという音楽の"寛容性"だ。多くのバンドやミュージシャンが音楽性の幅を広げるためにレゲエを"取り入れる"のに対して、アリ・アップとエイドリアン・シャーウッドは、レゲエに"受け入れられた"のだと思う。まず、誰かを受け入れること。受け入れ続けること。それが『Love Forever』の意味だと気付いた。アリが伝えようとしていたメッセージは、最初から変わっていない。「レゲエって聞いたことないな」という人にこそ聞いてもらいたいアルバム。特に女の子におすすめ。ひとりでも多くの人が、この素敵な音楽と出会えますように!

 

(犬飼一郎)

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ITAL.jpg 去年はダンス・ミュージックの勢力図を塗りかえるほどの活動を見せてくれた《Planet Mu》だが、トロピクスキープ・シェリー・イン・アテネの作品をリリースするなど、インディー・シーンにおいても存在感を発揮している。そんな《Planet Mu》が、今年も注目されるであろうことを確信させるアルバムをリリースした。アイタルの『Hive Mind』である。

 アイタルは少し変わった経歴の持ち主で、ワシントンDCにてブラック・アイズなるバンドに在籍していたそうだ。ワシントンDCといえばハードコアの聖地とされているが、この原稿を書いている途中で、とあるバンドが頭をよぎった。それは、LL・クール・J「I Can't Live Without My Radio」をカヴァーした、ワールド・ドミネーション・エンタープライゼスである。ワールド・ドミネーション・エンタープライゼスによる「I Can't Live Without My Radio」は、セカンド・サマー・オブ・ラブの影響力のデカさを物語る曲とされ、ハードコア・バンドによるヒップ・ハウスとしてオールド・スクール・パーティーでよく流れる曲でもある。

 当時のバレアリック精神は音楽性にも表れていて、レディ・ガガをネタにした「Doesn't Matter(If You Love Him)」でのヴォイス・サンプル使いはジューク / フットワークを想起させるし、他にもハウスやディスコといった要素がチョップド・アンド・スクリュード(ヒップホップにおけるアメリカ南部発祥のリミックス手法)に影響を受けたようなプロダクションのもと、サイケに鳴らされている。こうした己の好奇心に忠実な雑食性は、本作ではダンス・ミュージックとして表現されてるが、そんな本作が"USインディー"として語られているのも面白い。

 そして、アイタルが本作で披露している方向性が、ジョン・タラボット『Fin』ブリアル「Kindred」にも表れているのが興味深い。これらのアーティストは出自こそ違えど、己の欲望と好奇心のまま音楽を取りこむ姿勢では共通しており、この姿勢が結果として、同一のベクトルを披露することに繋がっている。このことがジャンルの溶解を示唆するものなのか、それとももっと大きな変化、例えば音楽の捉え方そのものの変化を宣言するものなのか、それはもう少し様子を見る必要がありそうだが、本作にはその変化が行きつく先のヒントが隠されているように思う。

 

(近藤真弥)

 

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LAURA VEIRS.jpg 現代において例えば、童歌(わらべうた)、民謡というものは有形文化財のようなものになってしまっているのか、といえば、勿論、これだけ日本が高度文明化しても周囲の子供たちは「ずいずいずっころばし」や「アルプス一万尺」を唄い、その音符の上で遊んでいるのは分かり得ることだろう。電子音になった無機的な童歌や伝承歌もあるが、両親がその両親から口伝えされた歴史は途切れることなく、連綿と受け継がれてゆく。そして、いずれはその子たちも大きくなり、また自分の未来の子供たちに歌を教える。

  どれだけ景色や速度は変わっても、幼稚園、保育所、小学校、公園、ストリート、どんな場所にも童歌、伝承歌は馴染んでいる色味は変わらない。フレーズのリフレインに、ふとした慕情が挟まれ、伝承された文化の内奥を覗き込むことが出来る。そこには、歴史とは「個」が集まり寄って成り立ってきた大きな事情としての文化と他者が信ずるものの文化へ投企との駆け引きがあったと推察されるが、「駄目なものは残らない」という市場原理では働かないのが世の中であり、経済合理性で人間という在り方を突き詰めることができない証左を示す。

 この作品、ローラ・ヴェイアーズの『Tumble Bee』には13曲入っているが、ジャケットの下に「SINGS FOLK SONGS FOR CHILDREN」と書かれているとおり、12曲がいわゆるアメリカをメインにした伝承歌であり、子供に関係するものや子供が口ずさめるカバーが収められている。今作のプロデューサーであり、夫のタッカー・マーティンとの間に子供が生まれたことも起因しているかもしれないが、99年からポートランドを拠点にマイペースに活動してきた女性SSWとしてのキャリアやそれまでの作品を鑑みると、滋味深く暖かさはじんわりと響く。エイミー・マンやジョアンナ・ニューサムが持つ温度に近い何かを巡りながら。

 選ばれた曲群は、どれも馴染み深いものばかりになっている。2曲目の「Prairie Lullaby」は、カントリー音楽の始祖ともいわれるジミー・ロジャースの例の歌唱を彼女なりにパスティーシュするように、裏声の巧みさが活き、コーラスの導入と緩やかでダウン・トゥー・アースなリズムと透明感溢れる音の中で落ち着いたムードで魅せるという、さながら、アーバン・カントリーのような澄み方がある。今作はどの曲にしても、ローラ自身の歌声も素晴らしいが、R.E.M.やマイ・モーニング・ジャケットなど数多くのワークを手掛けてきたタッカー・マーティンのプロデュースの手腕も冴えており、伝承歌を今に蘇らせるという試みよりも、今の歌に伝承歌が融け込み、老若男女を選ばずに聴くことができる門戸の広さを備えているのは流石だといえる。

 アメリカではとみに馴染み深く、世界中でも愛されているスタンダード、リズムと語呂が撥ねる5曲目「King Kong Kitchie Kitchie Ki Me O」の朗らかでファニーなカバーも爽快で、特に巷間では「バナナ・ボート」で名前は知られているだろうが、ハリー・ベラフォンテの「Jump Down Spin Around」では犬の鳴き声や合いの手のようなコーラスも小気味良く、同じく彼の「Jamaica Farewell」ではカール・ブラウ(Karl Blau)の艶やかな声とのデュエットが原曲自体の持つ内容と比して、穏やかに舞う。

 この作品を民謡集、伝承歌集としてそのまま額縁におさめるべきではないのは、取り上げる曲には奴隷制度があった時代のものや言葉遊びのようなものばかりではない、という要素も大きく、フォーク、カントリー・ミュージックの元々持っていた悲しみ(ブルーズ)や労働者たちの仄かな日常の痛みを今の子供たちへ、そして、それを忘れていたかもしれない昔の子供たち(現在の大人たち)へ届けようとする彼女の試みが涼やかな意志とともに見えるからでもある。耳触りもよく、スタンダード曲ばかりなので思わず全部、口ずさめてしまう、ただ、歌詞やその時代の歴史背景、原曲を知ると、よりまた深みを増す。そういう意味では、この歌集はまた新しい世代に引き継がれ、歴史は続くのだろう。歴史の中では唄は、いつも「生まれたて」だからだ。

《Why Does A Cow Drink Water? / Tell Me Why N Why? / Because The Cow Gets Thirsty Just Like You Or Me Or Anybody Else(By WOODY GUTHRIE「Why Oh Why」)》?(なぜ、牛は水を飲むの? なぜかって。なぜなら、牛はあなたやわたし、ほかのみんなと同じように喉が渇くからなんだよ:筆者訳)

 

(松浦達)

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山田鰆.jpg 遅ればせながら、磯部涼著『音楽が終わって、人生が始まる』を読んだ。ここで書評を展開すると長くなるし、"山田鰆『ぶらりとながり』のレビュー"ではなくなってしまうので詳細は省くが、本書を読んで感じたのは"疎外感"である。本書に書かれていることの多くは経験済みだが、そこにどっぷり浸かった生活を送っていると言ったら、それは嘘になる。第2章の「新しいゲーム、新しいルール」に代表されるように、ストリートや"その瞬間という場"に居なければ完全に理解することができない題材が本書では多く取りあげられている。本書で書かれていることに憧れを抱き身を投じるのもアリだが、それができずに知ったかぶりでシーンを語ってしまうのはサムすぎるし、かといって身を投じるには、あまりにハードな世界だ。

 社会 / 裏社会には受けいれてもらえなかったが、日本語ラップ・シーンを受け皿とすることができたD.Oのような人間ならまだしも、筆者のように常に足元がぐらついた場所で生きている人間にとって本書は、あまりに冷酷で無慈悲なものである。

 前フリが長くなってしまったが、山田鰆『ぶらりとながり』は、そんなぐらついた場所から歌われている歌だ。いや、歌と言ってしまっていいのだろうか? 歌というよりはグダグダ愚痴を吐いてるだけとも言えるが、本作に強い興味を惹かれたのだけは確かだ。

 正直、山田鰆の歌はお世辞にも上手いとは言えないし、声量もあるほうではない。周りの音に声が負けているときもある。しかし、それでも彼女は歌いつづける。グダグダと。なぜなのか? 本作を繰りかえし聴いて感じたのは、彼女自身決して音楽的才能に恵まれていないことを自覚しているのではないか? ということ、そして、そんな自分を認めたくなくて、必死に音楽を鳴らしているのではないか? ということだ。つまり、"自分は何もない人間ではない"ということを信じたくて歌っている節がある。そして、この焦燥感が"魅力"に転じ、"何もない人間ではない人間"になっていく様子が本作には記録されている。その魅力がもっとも発揮されているのが「びっこのマーチ」で、不安定な心の揺らぎや失敗がピックアップされているが、《スカート 風吹いて 全部めくれちゃえ / そうやって 恥をかけばいい / 歌うとき 全部が全部音外れちゃえ / そうやって 恥をかけばいいのです、いいのです》という一節が、すべてを肯定し前に進むためのポップ・ソングに押しあげている。

 こうした言葉のダイナミズムはいたるところで発揮されていて、《1.2.3.4.3.2.1.3 忘れました、せーの! 》(「せいなの」)というフレーズには景色を一変させるパワーが宿っているし、なにより語感のリズムが心地良い(そして、「せーの!」の言い方が良いですね。音フェチの筆者に響きました)。

 "音楽家としての山田鰆"は並かもしれない。しかし、自分をユーモアたっぷりに表現し、人を惹きつける"表現者としての山田鰆"は、他の誰にも真似できないものを持っている。そして、この"表現者"としての資質が親しみやすいメロディーなどに反映され、"音楽的才能"となっている不思議。こんな奇跡的なことが、『ぶらりとながり』では起こっている。

 

(近藤真弥)

 

※本作は《同窓会》のページからダウンロードできる。

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SHEEP.jpg 夢の中に移住することが希望的なことならば、それはひどく漠然とした希望であり逃避でもある。僕らは眠りに落ちた後の世界の中でいくつかの希望を見付けることはできるのかもしれない。だがそれは、具現化されないまま忘れ去られ、決して現実への入口には成り得ない。現実とは、夢の中以上に足場はぐらついている。だからこそ、立たなければならない。都内を拠点に活動する、女性3人組によるシープのデビュー・シングル「Nausicaa / Blue」は、静かにそう語り出しているようだ。

 ろうそくの灯火のように揺れ動くメロディ・ライン。そのライン上に丁寧に言葉を置いていくポエトリー・リーディングと小声で話しかけてくるような歌声。すらすらと線を引いていく管楽器やストリングス、コーラスによって作られる音響が聴き手を包み込み、ウィントン・ケリーを思わせるピアノのタッチと相まって、サンプリングされた小鳥の鳴き声が温もりを楽曲に与えている。室内楽的な響きはグーテフォルクの『Suomi』を思わせるが、音数を少なくし、空間を大切にした楽曲にはポストロックという標識は見当たらず、逃避性も自己心酔的なところも無く、雪が溶けるように耳にすんなり入ってくる。

 そもそも、ほとんどのポスト・ロックは"ポスト・ロック"には成り得なかった。それは音楽の為の模索ではなく"模索を目的化した音楽"が大衆化されることはなかったからだろう。その危険性をシープのメンバーと本作のミックスを手掛けたウール・ストリングス(Wool Strings)は知っている。それゆえ、透明な美しさを持つ本作は文字通りの意味でポップな佇まいで鳴り、気持ちに残響として染み込んでくる。その残響はいつまでも鳴り続き、時計の針の音のように、日常という現実に溶け込んでいく。

 意識をどこかへ連れ去られそうになる音楽だが、この作品に「ここではないどこか」はあるのだろうか? ないと思う。シープは現実からの出口を用意しない。いずれ覚める《小さな夢の世界》の中から、今いる場所が現実への入口だと詠う。本作を聴いて、今、自分が希望的なものを求めてどこにいるのか見詰めてみるのも悪くない。思えばジャケットが暗示的だ。風によって流されそうでいて決して流されない木の写真とイラスト。飛び立つ小さな鳥。それらから、木のように根をはり、現実の中で立ち、たとえモノクロの現実だろうと鳥のように羽ばたこうとするシープの意思が見える。それは音と同様、美としてある。

 

(田中喬史)

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BURIAL.jpg 最近仲良くさせてもらっている友人から「ブロステップ浴びようよ!」と誘われて、この友人がオーガナイズするパーティーに行った。そのパーティーは、グラミー賞を獲得し話題となったスクリレックスのようなブロステップをかけるレイヴィーな前半パートと、ドープなダブステップをかける後半パートという構成。ブロステップ自体はフロアで聴いたことはあるが、ブロステップをフィーチャーしたパーティーは、これが初めてだった。


 ダブステップの快楽的要素を抽出し過剰にしたブロステップの軽薄な音楽性はベース・ミュージックへの入り口としては最適だと思うし、好きなトラックはいくつかあるものの、筆者はブロステップに対し距離をおいて接してきた。まあ、筆者も歳を取ったということなのかもしれないが、ブロステップの過剰さが、どうしても好きになれなかったからだ。いずれ飽きられるのは目に見えているし、興味深いものとして聴くことはあっても、"のめり込む"とまではいかなかった。だが、"浴びるように"聴くと、「ブロステップも悪くないな」と思ってしまうから不思議なものだ。先述の友人が「ラスコよりもこっちが元祖よ!」と叫びながらヴェクスド「Angels」をスピンしたのには驚いたが、「まあ、わからなくもないな」と思いながら、ゲコゲコとけたたましく鳴るブロステップに身を委ねていた。


 そして後半のダブステップ・パートである。こっちを楽しみにしていた筆者は、ドープなベースに嬉々としていた。そんな具合にフリーク・アウトしていたら、ブリアルの「Street Halo」が聞こえてきた。"ダブステップとしては"浮いていた「Street Halo」を聴いたとき、筆者はふと我に帰り、こう思ったのである。「ブリアルは、アンダーグラウンドというある種の大衆性を伴ったポップ・ミュージックそのものではないか?」と。


 「Street Halo / Kindred」は、昨年リリースされた「Street Halo」と、今年リリースされ早くも話題になっている「Kindred」をひとつにコンパイルした日本独自企画盤である。「Street Halo」「Kindred」共に全3曲のEPだが、「Street Halo」は2ステップ / ガラージはもちろんのこと、深淵を潜行するようなダーク・アンビエントもあれば、ピッチシフトを駆使した美しいヴォーカル。そしてなにより、卓越したサウンド・プロダクションによるメランコリーな音像。謂わば「Street Halo」は、ブリアルがこれまで培ってきてた芸と技が遺憾なく発揮された集大成とも言える内容だ。


 一方の「Kindred」は、いまブリアルが見ている景色の一部が垣間見れる興味深い作品だ。特に「Loner」はブリアルがこのさき向かうであろう場所が描かれているように思う。ダークな音像は相変わらずだが、執拗に繰り返されるシンセ・アルペジオと時折姿を現す呻き声に近いヴォーカルなどが織りなす不思議な高揚感は、ポスト・チルウェイヴとして注目を集めているトリルウェイヴとの類似性を感じる。こうした方向性は、ブリアルがダブステップと呼ばれるもの(彼からしたら、"ダブステップをやっている"という意識すらないのかもしれないが)に興味を失いつつあることを示唆している。なぜこういった音楽性を披露したのか考えると、それはやはり、常にブリアルは"アンダーグラウンドというある種の大衆性を伴ったポップ・ミュージック"を鳴らそうとしているからではないだろうか? つまり彼にとって"ダブステップ"の名は執着すべきものではなく、究極的に言えば、自分が鳴らしたい音を鳴らせるのであれば何でもいいのである。


 しかし、日本においてこのことが理解されるかは、正直難しい。日本はいまだに音楽を"表裏一体としてのメインストリーム / アンダーグラウンド"ではなく、"上下関係としてのメインストリーム / アンダーグラウンド"という視点で捉えがちだからだ(そもそも"メインストリーム / アンダーグラウンド"ってのがどうかと思うけどね)。なんせ多くの人が、アジカンやサカナクションなどが"巨大なひとつの真実"として語られ、その周りを"小さな動き"が漂う謂わば演繹的風景を前提とし平然としている。そんな状況では、おそらく本作も"ダブステップのひとつ"として受け入れられ、レコード・ショップでもダンス・ミュージック・コーナーを彩るだけで終わってしまうだろう。それはあまりにもったいないことだと思うが、本作を聴いていると、そんな温度差と距離を痛感させられる。

 


(近藤真弥)

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山本精一.jpg 先端芸術的な音楽だから素晴らしいなんて思ったことはないし、前衛的だから素晴らしい音楽だと思ったこともない。そもそも先端性や前衛性を価値基準にしてしまうと音楽そのものの魅力を見失う。その意味において、埋火の『ジオラマ』は決して斬新な作品ではないが、音楽として素晴らしかった。ROVOや想い出波止場などでも活動する山本精一の『ラプソディア』も音楽として素晴らしいのだが、プログレッシヴという文脈で語られることが多い。しかし、あくまでもポップなのだ。それは例えば音楽性は違えどMGMTの『Congratulations』が奇妙でありながらもポップだったこと同様、前衛性を大衆的ポップ・サウンドに変換することはオルタナティヴな形のひとつとしてある。それがポピュラー・ミュージックのひとつの特性であり、音楽の未来を照らす。

 「音楽を別けることは嫌い」という山本精一が『ラプソディア』で描く世界には羅針盤の延長という側面もあることはあるが、想い出波止場の『Vuoi』のようなグルーヴがあり、レゲエを思わせるリズムがあり、インプロヴィゼーションの快楽も怖さも知り尽くしている彼の「間」も、『Loveless』を好む彼のノイジーなサウンドもある。歌声に、気付くか気付かないか程度のエコーを効かせ、それは時としてダブのように聴こえてくる。また、サイケデリックなサウンドと同じくして山本精一の歌詞には過剰な意味や感情的なところはあまりなく、異形に聴こえる。『プレイグラウンド』のアップデートだけではなく、山本精一がこれまで培ってきた音楽的バック・グラウンドが遺憾なく、そこかしこに出ては現れ、また出ては現れ、というのを繰り返しながら聴き手に近づいていき、そこには聴き手にとって鑑賞を超えた体験が待っている。単に前衛的なだけの音楽だったらそうはならないだろう。これは素晴らしいポップ・ソング・アルバムだ。

 ほんとうに良い歌には「分からせてやる」という自我はないし「分からなくてもいい」というニヒリズムもない。分かる分からないといったものを超えて聴き入ってしまうような、聴き手を沈黙させるものが宿っていて、それはある意味、音楽に惚れることに似ている。『Crown Of Fuzzy Groove』はインストだがそういう感覚があるアルバムだったし、歌ものである本作もまたそうだ。ここにある音の数々と朴訥とした歌声とともに音楽と同化するように溶けてしまいたいと思うのは僕だけではないはず。本作は、異形でありながらも気持ちを浄化されるようなサウンドに満ちている。

 『なぞなぞ』は孤独感を漂わせている作品だった。しかし本作は、トッド・ラングレンのように摩訶不思議で前衛性をポップに鳴らし、豊かな心地が沸いてくる作品だ。ポジティヴな様が見えるこの音楽が2012年も鳴り響いてほしいと思う。

 

(田中喬史)