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MOUNT WASHINGTON.jpg ノルウェーの3ピース、ワシントンがバンド名をマウント・ワシントンへと変え、セルフ・タイトルが掲げられた4年振りのフル・アルバムをリリース。彼らがグリッターハウス・レコーズにて発した声明文には、常に変化を求め続けた結果、本盤はバンド名を変えてリリースすることになったと、自信を持って記されているが、確かにその自信も頷ける。過去にリリースされた4枚の中で、本盤はダントツで一番にかっこいい。変化というよりは、むしろバンドとして一皮剥けたような印象を抱く。

 前作までの、古めかしいカントリーやフォーク調の朴訥としたメロディに、キレのあるリズム隊とアコースティック・ギター、クロマチックなギター・リフを絡ませるスタイルはガラリと一変した。古き良き時代から脈打つエヴァー・グリーンなメロディは、シンセを多用したモダンなポップ・ソングへと化け、とにかくどの曲もアップ・ビートである。ドラムのキレは健在だが、16分をハイハットで刻んだり、ダンサブルなフィル・インを叩いたりと、その方向性は様変わりしている。リヴァーブをかけたスペイシーなギターは、終始ほとんど歪むことは無く、全体の音圧を支えているのは、本盤にて大々的に機能しているシンセの音色である。前作までの曲の中枢となっていたアコースティック・ギターは、本盤では一切顔を見せない。尖った高音の無い、丸みを帯びたトーンが支配するアルバムである。

 ノスタルジーなフォーク・ロックがシンセ・ポップへと化けたことと言い、周りで鳴っているサウンドがゴージャスになっていることと言い、"垢抜けた"という言葉がしっくり来るアルバムだが、こと音楽に関しては、垢抜けることが必ずしも良いとは限らない。過去のアルバムに異なる側面の魅力が潜んでいることは、忘れずに明記したい。アコースティック・ギターが一度も使われなかったことは少なからずショックだし、ライヴは一体どうなるのだろうとハラハラさせられる。とはいえ同じバンド・メンバー、同じレーベルの中で、更なる変化に飢える姿勢は素晴らしい。アート・ワークについて言及すると、ジャケットの写真(三頭というところが良い!)や、中身のブックレットに載せられた写真は、いずれも霞立つ朝焼けや夕焼けの瞬間であり、何かが移り変わっていく美しい黄昏の時間が織り込まれている。変化を求める彼らとリンクするジャケットだと言えるだろう。

 ライヴは再び4人編成になるのだろうかとか、シンセは誰か弾くのだろうかとか、グレッチのテネシー・ローズでコードは弾かないのだろうかとか、不安は払拭されないものの、これが彼らの新たな側面だ。バンドは次のフェイズへ突入している。先行シングルの「Lisboa」だけでも聴いて頂きたい。

 

(楓屋)

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LINDSTROM.jpg リンドストロームの傑作シングル「I Feel Space」から7年になる。振りかえると、"コズミック・ディスコ"と呼ばれた音楽は、いま盛り上がりをみせるニュー・ディスコ / バレアリックに先鞭をつけるムーブメントだった。今でこそ"コズミック・ディスコ"の名は頻繁に聞かなくなってしまったが、チルウェイヴ以降ダンス・ミュージックにベクトルを向けている昨今のインディー・ミュージックを聴いていると、ニュー・ディスコ / バレアリックの影響、というか、ニュー・ディスコ / バレアリックそのものになりつつある現状を見ると、その背後にどうしても"コズミック・ディスコ"の影を見いだしてしまう。そして、その"コズミック・ディスコ"を世に知らしめた功労者のひとりであるリンドストロームの仕事が、現在のインディー・ミュージックに影響を与えている気がしてならない。

 彼はリミックス・ワークも盛んな人で、フランツ・フェルディナンドやLCDサウンドシステムなどをリミックスしているが、こうした繋がりが、現在のインディー・ミュージックの土台としてあると、筆者は思う。こういった例は他にもたくさんあって、例えば現在のニュー・ディスコ / バレアリックを牽引するトッド・テリエは、《Resident Advisor》誌のポッドキャストで!!!(チック・チック・チック)にM.I.A.、さらにはブルース・スプリングスティーンやザ・テンプテーションズまで織りまぜた、現在のインディー・ミュージックの特徴であるバレアリック精神を披露しているし、イギリスではシミアン・モバイル・ディスコが「2007 End Of Year Rave-Up」というミックスCDで、ホット・チップなどと一緒に先述の「I Feel Space」をピック・アップしている。

 いま挙げてきた例は2005年~2008年のことで、アイタルのような存在が出てくる現在のインディー・シーンを受け入れるための土壌が、数年前に出来ていたとも言える。

 そんななかリリースされた新作『Six Cups Of Rebel』は、実にリンドストロームらしい我が道を行くアルバムとなった。トッド・ラングレンによる「Quiet Place To Live」のリミックスを含めた全8曲が収録された本作は、リンドストローム自身「アルバム・フォーマットにフィットする楽曲を作ろうと、意図して制作に取り組んだのは、実はこれが初めてなんだ」と語るように、ひとつの壮大な物語が描かれている。収録曲は"アルバム"にこだわった構成が目立つし、「No Release」から始まり、本編ラストの「Hina」までシームレスに展開していく。そのため、曲ごとのインパクトは薄れてしまったのは否めないが、本作のコンセプトに忠実な楽曲が揃っている。また、従来のチル・アウト的側面はほぼ皆無で、フリーク・アウトした躁状態がアルバムを終始支配する。この点に関しては、評価が分かれるかもしれない。

 だが、なんでもありのバレアリック精神は至るところで発揮されていて、ディスコやブギーはもちろんのこと、プログレッシブ・ロックな「Call Me Anytime」、アシッド・ハウスをフィーチャーした「Six Cups of Rebel」、他にもハンマー・ビートやフュージョンといった要素を戦わせ、興奮に満ちた化学反応を起こしている。こうしたプロダクションの妙も光る本作は、実験的力作だ。

 

(近藤真弥)

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BURNT FRIEDMAN.jpg バーント・フリードマンは、90年代からドイツ・エレクトロニック・ミュージック・シーンで活躍するベテラン。ドイツは数多くのエレクトロニック・ミュージック・アーティストを生みだしてきたことは周知の事実だと思うが、そのなかでもバーント・フリードマンは、エクスペリメンタル志向が強い人だ。

 アトム・ハートで知られるウーヴェ・シュミットと組んだフランジャーや、カンのヤキ・リーベツアイトとのコラボレーション。自身もノンプレイス・アーバン・フィールド名義で『Golden Star』というエクスペリメンタル・ダブの名盤を生みだすなど、様々な音楽性を披露している。

 ここ10年はジャズに強い興味を示すなど、オーガニック・サウンドに傾倒していた彼だが、ソロとしては2007年の『First Night Forever』以来5枚目となる『Bokoboko』も、オーガニック・サウンドが色濃く出ている。アルバム・タイトルの『Bokoboko』もそうだが、「Uzu(渦)」「Deku No Bo(木偶の坊)」「Mura(村)」といった具合に、収録曲も日本語が名づけられているものが多い(他にも「Sendou(仙道)」「Totan Yane(トタン屋根)」「Memai(眩暈)」といった曲もある)。

 確かに本作はオリエンタルな雰囲気を感じさせるが、もちろんそれだけでなく、アフリカン・ビートやクラウト・ロックなど、数多くのリズムによって、独特なポリリズム的グルーヴを創造している。先述のヤキとのコラボレーションでも複雑怪奇なリズムを刻んでいたが、本作ではそのリズムがよりダイナミックになり、ある種のサイケデリックな領域に達していて、とんでもないことになっている。

 さらにはスチール・ドラム、タケシ・ニシモト(I'm Not A Gun)の演奏によるインドの弦楽器サロード、そして、自家製のゴムバンド・ギターまで持ちだす多彩な音色も、本作の秘境的アトモスフィアを生みだすのに一役買っているし、それを可能にする丁寧なプロダクションも光るアルバムだ。

 

(近藤真弥)

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GRAPEVINE.jpg 前作、『真昼のストレンジランド』で異郷探索へと歩み出た、グレイプヴァインから1年振りに新しい中編の手紙が届いた。前作は、まさに異郷から生まれた長編小説であり、異郷文学と言える作品であると称させていただいたが、その前作と対比すると、今作は異郷からの小説と言うよりも、前作で活かされた異郷の風景を自らの目で鋭く見据える方法を更に応用させ、異郷だけでなく、日常そのものの内に潜む歪みを精査し、そこから得られたフィーリングを綴った書簡のようだ、と言えるだろう。と言うのも、書簡も後年、文学的価値が顧みられることもあるが、書簡というコミュニケーション・ツールですぐに文学性が出ることは少ない。だが、決して、前作に比べ今作は濃度の薄い作品であるということでもない。

 事実、今作は、一見して分かるように、収録曲の全てがアルファベットで統一感があるし、冒頭の「MISOGI」で身を清め、歩を進めた先の「RAKUEN」へと進みゆくまで、そのささくれ立った身体を一瞬も現状への充足感に委ねることなく進んでいく様が一聴しただけで捉えることができるだろう。全編、ローマ字表記のタイトルの曲が並んでいるのを一見した時に、もしかして前作までと違ったユーモラスで軽快な楽曲のオンパレードのように思えてしまうかも知れない。しかし、その実、ここに収められた6曲は、今までのグレイプヴァインが示してきたシニカルな感性を、ただシニシズムで終わらせるのでなく、傍観や諦念とも違った、まさに「SATORI」のような境地に達するまでの過程、テーゼが刻み込まれている。ただ、何も知らないまま、無邪気に遊ぶのでもなく、偽悪的になって憂鬱をまき散らすのでもなく、むしろ今まで歩んできた道のりで痛んできた傷を消そうともせず、その傷を見つめ続けた上での安静、涅槃をも思わせるユートピア的だとも言える。もちろん、そこは享楽の園でも失楽園でもない。ただ、移り変わる景色とそれに目を映す自分ただ一人がすっと立っているかのようだ。

 サウンド的には、ルーツ・ロックにとらわれることなく触れ幅が大きく伸びやかになった前作の延長線上とも言えるような、さらに伸びゆくような音世界でありながら、その線は太いままさらに強かに鳴り響く野獣の気高い唸り声のようなギターと、その吠える野獣を後ろから支えて地から離さないような重厚なリズム隊のグルーヴが前作より光っている。タイトル・トラックである「MISOGI」には、今までよりも大々的にホーン隊をフィーチャーしているが、それも彼らの吠える声を増幅するのに一躍買っており、ただの憂鬱な皮肉屋の漏らすものでない、言葉遊びを多用した挑発的ながら、楽観的なだけで終わらない蟠りを蟠りのまま歌ったよう(改めて、ヴォーカル/ギターの田中は、このさじ加減がいつどの作品でも常に秀逸で、それがシーンの似たアーティストから頭一つ抜けて君臨することを許されている理由とも言えそうだ)な歌詞も相まって頼もしい。「ONI」は、『イデアの水槽』の前編部分を思わせるような焦燥感に満ちて、疾走感もあるが、サビでの高野勲のキーボードがエキセントリックに鳴り響き、トリッキーな甘美をも味わえる。「SATORI」、「ANATA」では前作の「Dry November」のような重たくもどんどん心の内に浸食していくような乾いたサウンドスケープに魅了され、「YOROI」で乾いた感覚はそのまま彼らのお得意の一つでもある、サビにいたるまでのおどけたような曲展開がチャーミングとも不気味とも言える歌詞に合わさって奇天烈な世界へ踊り入れる。とは言え、やはり「MISOGI」の清冽な魂が行く先の「RAKUEN」が、群を抜いて秀逸なメロディライン、それにのった『Lifetime』や『Here』期の優しさと切迫を現代の彼らの痛烈な感性でなぞったような詞と田中の歌声が文字通り《エデン》に「迷い込んだ」(到達した、とはニュアンスが決定的に違うだろう)かのようで、前作同様、読後感ならぬ、聴後感とでも言えるようなものにさえ浸ることができる。

 なお、今作の作曲は、全てグレイプヴァイン屈指のメロディ・メイカーである、ドラマーの亀井亨によるものである。今までの作品を顧みると、基本的には、ファンキーかつ突き刺さるような曲の多かった田中とカントリーやブルースを吸収しつつ哀愁の渦を巻き起こすような曲の多かったギターの西川弘剛に挟まれ、豊満なメロディと軽やかながらツンと染みて解けないような綺麗な曲を提供することの多かった亀井であるが、今作ではエッジのキいた曲も幾分多く、本来、田中や西川が担当したような風合いに近いような曲も書いていることは興味深い。また、全曲自らが作曲したからか、今までのアルバムに比べると非常にタイトなドラムが光っている点も注目したい。ホーン隊を入れたからと言って全体的には耳に痛いようなハイファイでなく、あくまで彼らの作り込まれた中音の目立つ丁寧な音作りと相まって無駄の少なさが際立ち、切なさが倍増しているようだ。

 さて、そんなサウンドにのった歌詞は、前述のように、前作が小説的であるとすれば、旅路に出た友人から送り届けられた手紙のようだ。旅路の途中で見た風景を自ら咀嚼して、自分の言葉に置き換えて報告しているかのようでもあり、時にはそれを、たぶんにユーモアを交えて(「MISOGI」、「YOROI」などで顕著だろう)、時には、感傷を滲ませたような叙情を交えて(「SATORI」、「ANATA」など)綴っている。既に全編を通した時に、諦念とも違う静寂のような感情がしたためられていることは述べた。このアルバムは、1曲1曲の詞を精読するよりは、全体を通して聴いて特に耳に入ってきたフレーズを抽出する方がうまく輪郭を捉えることができるようでもある。そういった意味では、『真昼のストレンジランド』以上に、リスナーひとりひとりの感性の違いによって如何様にも解釈できるような懐の深さのようなものをも感じられる。文学性ももちろん健在で、「YOROI」の一節、《存在と無と時間》は、フランスの実存主義者でもあり小説家でもあるジャン・ポール=サルトルの哲学的主著『存在と無』(実存的主体とそれが固定された者でなく常に可変形であること、実存的な自由と責務を追究した書物である)や、そのサルトルに影響を与えたフッサールへの謝辞も含まれたハイデガーの哲学書『存在と時間』(こちらはタイトル通り、人間という現存在と時間、死との関係性を記している)を思わせる。

 あくまで僕個人の意見に過ぎないが、まずは、このアルバムは詞を精読せずに、「MISOGI」から「RAKUEN」までを一気に聴いてみて、彼らが書いた手紙に対してあなた自身も返信の文書を綴るような気分になってもらいたいと思う。なぜなら、恐らくこのアルバムを通して聴いたならば、あなたも「RAKUEN」にあるような《エデン》に迷い込んだような錯覚を起こすであるだろうからだ。ここで描かれる「エデン」とは、あなたが夢見てきた理想郷であると同時に、決して満たされることのない刹那と乖離の空間であるからだ。多くの人間が自らの「エデン」に向け、歩んできたはずが、幾つもの不条理に巻き込まれてエデンがエデンとしての元々の性質を失われてしまう。ペシミスティックな意味ではなく、実際に最初に持っていた理念のままに歩み続けることは非常に困難なことであるのだ。

 この曲は前作の最終曲、「風の歌」とは違った、間接的な寸止めの歌詞で終わる。《探していた光を見失うのはここがエデンだから》。あなたはこの境地に対してどう返答するだろう。その答えを自分自身で確かめるためには、改めて「MISOGI」で身を清める必要があるかも知れない。そんな時は、何度もアルバムをループするのも一興だ。そういった意味で、このアルバムは1曲ずつ個別に分析していくタイプの作品ではないように僕個人としては思えてしまう。しかし、いつかはあなた自身で彼らのテーゼに対して返答を用意しなければならない。あなた自身のテーゼは、既にあなたは知っている。「風の歌」だ。相も変わらず、あなた自身の《風に吹かれて/たった一つの》。それを返答すれば良いのだから。

 

(青野圭祐)

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グーグル化の見えざる代償.jpg 最初に書いておくと、この書物はタイトルから察することが出来るだろうが、旧年に世界で話題になった"Siva Vaidhyanathan, The Googlization Of Everything (And Why We Should Worry) University Of California Press Berkeley And Los Angels, 2011"の日本語訳書であり、著者はバージニア大学教授/ニューヨーク人文科学研究所のSiva Vaidhyanathan(シヴァ・ヴァイディアナサン)、重要になるのは"グーグルゼーション"というタームになっている。周知の通り、グーグルという企業は、「世界の情報を組織化した上でそれを"誰も"がアクセスできるようにすること」を社是としている。基本的なところだが、グーグルにおけるウェブ検索ページのランクを組むアルゴリズムとはそもそも、スタンフォード大学博士課程でコンピューター・サイエンスを研究していたグーグルの共同設立者セルゲイ・ブリン、ラリー・ペイジの共同執筆の1999年の学術論文から始まっている。

 今や当たり前になった物事でも、研究者の純然たる研究心から始まる「何か」は多い。研究者は「研究」を推し進めることで、アカデミズムを通して社会/貢献を目指す。しかし、その「貢献」部分が削除された形で「社会」はその作用価値を市場化する。市場化された研究コンテンツとは、果たして構造的に世の中を幸せにしていっているのか、そういった疑義は生まれてくる。この書は主に、グーグルの光と影があるとしたならば、影の部分に関しても多く筆致されている。例えば、検索システムでの規制枠での上位情報への信頼の相対性、Gmail含めて総てが情報連結されてゆくことで囲われるオープンした遮断地帯、開放と透明度がグーグルをどういった形で増長させているのか、など普段、無意識に使っている行為を再考してみる、そういった視角がある。なので、グーグル論として読むと、物足りない部分は正直なところ多く、この現代社会における人間と相向するグーグルとは、についての一考察と捉えるといいと思う。更に、グーグルを使う「自分たち、そのもの」を考えるトリガーにもなっている。

 「序章 概論」で印象深いところがある。21頁にあたる、もし、グーグルがなかったのならば、大事な情報を誰が管理、判断、格付け、濾過し、世の中へ配信するのだろうか、ということと、コンピューター・アルゴリズムと実体の人間との取引本質とは、という根源的な現代病の深部へ降りた投げかけだ。システムとしての「本質」は何処に見えるのか、個人的に昨今のSOPA(Stop Online Piracy Act)の問題でも感じることがあっただけに、今、情報は無料で拓かれ、尚且つ集合知としてバベルの塔が建てばいいのか、といえば、答えは明確に「NO」ではないか、と思う。手に入らない情報の方が実のところ、増えているのではないだろうか。

 説明を入れると、本書は章立てで、大きく六章構成からなる。

 第一章では、グーグルがいかにウェブ・メディアを支配していったのか、広告やフリー・ライド、マーケットの視点から平易に切り取る。第二章では、グーグルのテクノロジー面へのアプローチを行なう訳だが、印象的なのは日本語のサブ見出しで「傲慢」と記された109頁以降の箇所だろう。2008年10月、ニューヨーク市でオックスフォード方式の討論として「分析―グーグルは『悪を行うことなかれ』のモットーに背いている」が開催されたという事柄から入り、ダンテの『神曲』の7つの大罪における「傲慢」に関しては、本気で考えたと筆者は記す。その理由は、テクノロジー原理主義とその背景にあるグーグル的な磁場をいとも簡単に受容した社会サイドの適応の因果関係に準拠するのではないか、ということなのだが、テクノロジーというプラシーボ(偽薬)開発が進む中での本当の処方薬が投下されなかったのではないか、ということ。そのくだりで、神学者のラインホルド・ニーバーの言葉を孫引き、「人間的な美徳と権力」の二義間を不可視させると詰める。順応は現代社会では「美徳」に≒となる余地があるなら、その余地に砂上の楼閣として権力が自然と屹立する、そういった絵図は装置的な観点のみならず、皆を盲目にさせてもしまう。

 第三章で、グーグル化されてしまった世の中での「自分たち」について記す。自由が拡がったかのようで、選択条件とは本当に担保されているのか、プライバシー、ストリートビュー、更には監視社会の在り方も踏み込む。151頁にて、英国の大都会の殆どすべての街角には、ビデオカメラが設置されており、BBCは公私合わせても420万もの監視カメラが作動しているだろうと見積もり、14人に1台の割合である(「Britain Is 'Surveilliance Society'」、BBC News 06年11月2日)との記述がある訳だが、昨年の暴動のこともあり、その時点より現在ではさすがに監視カメラの数は増えているのかもしれない。日本でも、もはや何処で何をしていても、見張られているというのは極端な話かもしれないが、無数の監視カメラが何らかの形で公私の管理を行っている。ただ、その管理しているのは実際、何処にいるのか、00年代に増えたアート系のインスタレーションが盗撮、監視カメラ沿いの断片を積み重ねたものが少なからずあったことを想うと、もう今、10年代は主体は、「見られること」にも慣れてしまったのかもしれない。それどころか、自発的に不特定多数に発信してゆく動きも目立つ倒錯もある。

 152頁には、2009年5月にプリンストン大学で行なわれた、コンピューター・サイエンティストのエド・フェルテンとグーグルCEOのエリック・シュミットとの対談に触れ、エリックが「世界中のグーグル・ユーザーのあいだに重要な文化的な違いがあるとしても、それはごくわずかだと考えている。」と述べ、グーグルに関して最も多い質問で「他の地域ではどう違っているのか?」ということに対して、「そのようなものはなく、他の国々でも、人々はいまでもブリトニー・スピアーズに関心を持っています。どこに住んでいようと、人間は同じである。」との確信を伝える。確かに、グーグル化とグローバリゼーションによって多くの国の境目を越え、窃視癖は高まった。素性から動向、有り触れたゴシップ、有名人じゃない無名人に至るまでの行動までも収集、検索する「時間」と「行動力」、そこからもはや10年代におけるリバイバル・タームの一つである、パノプティコンへと繋がる。

 「パノプティコン・モデル」には現在進行形で多くの方々からの言及が増えたのもあるが、本書で興味深いのは、更に重要であるということは多くの地域で働いている力学とは、パノプティコンと真逆だという指摘だ。それをして、「クリプトティコン」(見えざる監視)という言葉を用い、単一権力への無自覚/自覚にしてもの服従の道筋があるということを示唆する部分だろう。ウィトゲンシュタインの言葉を借りずとも、「外的」対象と「内的」な個々の経験とレバレッジ(梃子)は個人経験の材料の質へと、質から現実に結び目が浸食する。浸食した結び目を、包括的なメタ認知の視点から曖昧の閾へと運搬することが出来るのかは正直、難しいと思う。もう、曖昧で耐えることの不安より、確定されることの安心が今を揺り動かすのは時代の「内観」を照応するまでもなく、「そこ」に実は「それは、ない」という帰結で答えを急がざるを得ない命題要請にリンクしてくる気がするからだ。リンクからシェアリングへ、シェアリングから、「何かを言った気になった、回答」へと橋が渡されてゆく内、渡った後にはシステム論からのデフォルト設定があるというのは穿ち過ぎなのだろうか。

 第四章では、世界のグーグル化について記される。その中にはグレイト・ファイアウォール、Baidu(中国)も勿論、含まれる。ジョージ・オーウェル『1984年』、オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』などの著書にも触れながら、アゴラを模索する。第五章で、書籍と知識に軸を置き、著作権と図書館スキャン・プロジェクトなどへの警鐘を鳴らす。書籍が大幅にスキャニングされて、電子化され、流される―それ自体に罪を問うのは難しい時代だと思うが、罪の裏の大量のそのコピーの、コピーの先に原書が持つ余韻は残るのか、電子書籍というツールには害悪はないと個人的に思うが、著作権管理と余りある雑な引用のオープン化と断片群には滅入ることは時折、ある。決して、その書籍を読んだからといって、その内容を全部分かるということはないのだが、今はより纏められた形での一方通行の誤配が生まれてもいる。誤配を受け取った人たちはそれも一応、ファイリングする。ファイリング内に個々の盤石たる知識は埋め込まれるのか、洗練されるのか、より課題に挙がることになってくるのは仕方ないとは思う。それは、第六章での「記憶」のグーグル化にも繋がってくることであり、モザイク型コミュニティが個を解き放つ―その断片の断片を集め「ある枠」におさめるのが是と言えないこともない。この章では、昨頃にここクッキーシーンで書いたジェフ・ジャービスの名前も出てくる。パブリックネスとグーグルゼーションの相関性は考えてみる価値のあるテーマだと思う。

 最後に、彼が本書の最初にて引用しているアレクシス・ド・トクヴィルの言葉を置きたいと思う。グーグルゼーションの果てを想うのも、その楽観/悲観シナリオを意識するのもおそらく「グーグル」やそれに似たそのものではなく、使い手側の集体意志だ。

"It Does Not Break Wills, But It Softens Them, Bends Them, And Directs Them; It Really Forces One To Act, But It Constantly Opposes Itself To One's Acting; It Dose Not Destroy, It Prevents Things From Coming Into Being; It Does Not Tyrannize, It Hinders."

 そして、進むしかないのだと思う。

 

(松浦達)

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JOHN TALABOT.jpgのサムネール画像

 本来"バレアリック"は、なんでもありの精神と雑食性を指すアティチュード的意味合いが強い言葉だったが、時が経つにつれ、夕日が似合うチル・アウト・ミュージックの総称となってしまい、多様性を失った。"ガラージ・サウンド" "ハウス" "ニュー・レイヴ"なども"バレアリック"と同じ運命を辿ったが、こうした事例は、いつの時代も尽きないものだ。

 なぜこうしたことが起きてしまうのかというと、ひとつは、ほとんどの聴き手やメディアが"歴史的文脈"に当てはめて音楽を捉えてしまうからだろう。新しい音楽が出てきたとき、人々にわかりやすく伝えるうえで"歴史的文脈"を参照とした分析は有効だが、時として分析は、物事の本質を見失わせることもある。このことを皮肉った曲として、筆者がまず頭に浮かべてしまうのは、LCDサウンドシステム「Losing My Edge」だ。それから、ザ・ヴァクシーンズ「We're Happening」。この2曲は、"今というその場"にいることの大切さを訴えると同時に、最先端とされる音楽を聴き、批評家気取りでクールに語る人たちをバカにしているが、特に「Losing My Edge」は、昨今の"歴史なき音楽"の隆盛を予言する内容となっていて、いま聴くと、いかにジェームズ・マーフィーが遠い未来を見つめていたかがわかる。

 チルウェイヴやクラウド・ラップ、そして近年のニュー・ディスコ/バレアリックは、「Losing My Edge」以降のポップ・ミュージックに顕著な"歴史の喪失"を見事に体現しているが、これらのなんでもありな音楽が"歴史からの解放"としてポジティブに捉えられた結果、冒頭で述べた本来のバレアリック精神が戻ってきたのだ。

 このたび、ドイツの《Permanent Vacation》から初のフル・アルバム『Fin』をリリースした、スペインはバルセロナのジョン・タラボット。彼のことは、同レーベルからリリースの「My Old School」で知った。このタイトルと、良い意味で歴史という権威を無視した軽やかなハウス・ミュージックに、筆者は強い興味を惹かれた。「My Old School」リリース後は、ニュー・ディスコ/バレアリック方面にベクトルを向けたミッド・テンポなグルーヴを武器に評価を得ているが、タヒチ80やザ・エックス・エックスのリミックスを手がけるなど、インディー・ロック界からも注目されている。

 そんな彼が満を持してリリースしたアルバム『Fin』だが、《Young Turks》から出した「Families」の路線を進化させた意欲的作品となっている。熱帯雨林のジャングルをイメージさせる「Depak Ine」から始まり、トロピカルなドリーミー・ディスコ、さらにはシカゴ・ハウスをモダンにアップデイトしたトラックなどが、心地良い緩やかな物語を描いている。パンダ・ベアがレイヴをやったようなポップ・ソング「Journeys」以降はサイケデリックな雰囲気に襲われるが、初期のティガみたいなイントロが印象的な「When The Past Was Present」からはアグレッシブな出音になり、聴き手を高揚へ導いてくれる。

 そして、ラストの「So Will Be Now」である。アート・デパートメント「Without You」を想起させるこの曲のために、他の10曲は存在していると言っていい。アンダーグラウンド臭漂うアシッディー・ベースが鳴る「So Will Be Now」は、ユーフォリックな開放感を携えた楽曲が揃う本作のなかでは浮いている。しかし、ドラッギーな快楽主義を鳴らすこの曲こそが、『Fin』という作品の本質であり、本作の正体を示唆している。

 『Fin』は、様々な音楽的要素で構成されたキマイラのような作品だ。それらの要素は、"歴史的文脈"から解放されている。そこに伝統や歴史の重みはないかもしれないが、本来音楽とは、そうした重みを更新しながら発展を遂げてきたはず。そういう意味で現在の音楽を取りまく状況は、日に日に良くなっていると筆者は思う。そして本作は、そんな"今"が生みだした決定打である。

(近藤真弥)

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SPITZ.jpgのサムネール画像《僕にも出来る/僕だから出来る/君を困らせてよろこばす》
(「まもるさん」)

 亡きミシェル・フーコーの晩年の問題設定とは、「自己との関係」だった、68年の政治性を抜き取った穴に新しい空気を吹き込むという行為と近似してもくる。個人的な内奥に持つモラリティ(道徳性)を「生」の内部に介入してきてしまうというシステムを望まないという姿勢を取る、それは本流といったものがあったときの基礎留保案件としての傍流ともいえた。では、傍流を「オルタナティヴ」と訳すとき、実際のところ、それは<反>中央なのか、というと、この現在では疑念も残る。

 今回、スピッツのアルバムのタイトル名は『おるたな』と名付けられている。平仮名で、尚且つ略された形での字面としても不思議な四文字、傍流としての呈示。そこには、ベテラン・バンドになっても日和らない彼らのパンク・スピリットや世の中に迎合しない、アイドル、ダンス・グループ、企画ものに牛耳られたリジッドな現今の日本のいわゆる、汎的な音楽チャート・シーンに対する明確な直訴状のようにも思える。

 『おるたな』は、1999年『花鳥風月』、2004年『色色衣』に並ぶ、新曲やカバー、また、レア曲、そして、シングルでのA面ではない曲(両A面のときもあるが。)を集めたコンセプトの下に成り立つスペシャル・アルバムであり、具体的に内容に触れると、2002年の『Happy End Parade~Tribute To はっぴぃえんど』における「12月の雨の日」のカバーを起点に、シングルでも、アルバムに入っていない曲、新録としてのカバー曲の14曲で構成されているが、『花鳥風月』や『色色衣』とは何処となく温度が違うのは、新録としてのドラマ主題歌としても話題になった原田真二氏の「タイム・トラベル」、惜しくもボーカル・ギターの西山氏が急逝しながらも、今も愛されている叙情性に溢れたバンド初恋の嵐の「初恋に捧ぐ」、そして、花*花のヒット曲「さよなら、大好きな人」のカバーが含まれつつ、それらのアレンジメントが絶妙に『とげまる』以降の空気を踏まえたのか、柔和な真っ直ぐなポップネスで貫かれているというのも大きい。

 最新スタジオ・アルバム『とげまる』、そして、そのツアーでより具現化した捻くれ者、外れ者のバンドが自ら平仮名で"おるたな"とネーミングすることで、浮かび上がる「何か」とはおそらく、まだまだロック・ミュージックがクラスタリングされず、フラットに様々な人たちに届き、感性を歪ませるものであって欲しいという制度内改革にも近いものだと思う。最近、ファン向けの会報誌でお気に入りに、0.8秒と衝撃の名前が挙がっていたように、スピッツというバンドは「今」をいつも大事に見詰め、同時に「ポップ/オルタナティヴ」の境界線を常にロールオーバーする嗅覚に長けてきたところがある。だからこそ、大きなイヴェントを主催しても、アリーナ公演を決行しても、コンシスタンス(共立性)が共約されなかったりもする独自の「プロセス」を描く。そういう意味では、今回の作品ほど「プロセス」の共時リズムに沿ったものは無い気もしてくる。

 冒頭の「リコリス」は、04年のストリングスが入り、高揚感に溢れたシングル「正夢」に収められていた一音形成でサビが成り立つ拡がりのある曲で、そこに彼ららしい《となりの町まで/裏道を歩け/夕暮れにはまだあるから》という歌詞を草野氏の伸びやかな声で歌い上げる。裏道を歩くことで着く、となり町を目指していたバンドのブレイクは思えば、「誰も触れない二人だけの国」の造成だったとしたならば、相変わらず、その国名を今、リライトする可能余地を持ったままで、駆け抜けてもいるということだろうか。3曲目の07年のシングル「ルキンフォー」収録のザラザラした質感のギターロック「ラクガキ王国」辺りは、このアルバム・タイトルを象徴しているともいえるが、肝は04年のヒット曲の「スターゲイザー」とともに既発済ながら、尖った歌詞とサウンドで、"惑星のかけら"を掻き集めて、"鳥になって"何処かへ行ってしまいそうな儚さがある「三日月ロック その3」かもしれない。『三日月ロック』というアルバムがあったが、その題目に、更に「その3」がつくという1曲。切なさに裏打ちされたメロディーと最近の彼らに目立つ「大文字」が錯乱した、どことなくスキゾなムード。

《すぐに暖めて/冷やされて/三日月 夜は続く/泣き止んだ邪悪な心で/ただ君を想う》
(「三日月ロック その3」)

 泣き止んだ邪悪な心―この言葉に孕む意味の二重性はどうなのだろう、泣き止む邪悪な心で君を想うときに、その君は本当に想われているのか、捨てられてしまっているのか、明瞭にはならない。主体性の生産装置としてここでの「君を想う」は破綻している。ゆえに、君の名指しにも繋がる。名指しされた君は、いずれ、形を変える。歳を取るのではなく。そこから、鍵盤が撥ね、軽快なアレンジメントな心地好い原田真二氏の「タイム・トラベル」のカバーの小気味良さ、優美で『空の飛び方』前後の雰囲気をも彷彿とさせる07年のシングル「群青」に入っていた「夕焼け」でのたおやかさと、『おるたな』というよりは、フレキシブルな形でバリエーションに溢れた曲が続く。その中でもやはり、興味深いのは、初恋の嵐の「初恋に捧ぐ」のカバーだろうか、性急かつ非常にポップな展開、コーラス・ワークに再構築することで原曲が持っていた淡さを今に通じる健やかさに変換した、そこは彼らの長年のキャリアとポテンシャルとアンテナの鋭さを感じる。

 「整合性」という意味では、『花鳥風月』、『色色衣』よりは纏まりがある。はみ出しはしないが、それでも、歪な構造は保ったままで、スピッツという反骨精神が明瞭に示された、09年の「君は太陽」収録の「オケラ」で終わるというのは彼ららしいところではあるのは流石だと感じる。

《もっと自由になって蛾になってオケラになって/君が出そうなカード/めくり続けてる/しょっぱいスープ飲んで/ぐっと飲んで涙を飲んで/開拓前の原野/ひとりで身構えている》
(「オケラ」)

 輝くほどに不細工なモグラのままでいたかった彼らのベースは変わらない。

 「変わった」のは止むを得なくも、世の中サイドなのかもしれない。参照点として、『おるたな』は各個体の孤独である可能性を想像する不可能性までの裏道を用意する。そこで、人が孤独になるということは個体として規定された上で、権利と所有における自律源泉と見なされるときのことを指すとしたら、そのときを形而上学的に「真ん中」から許す、「プロセス」が見える。真ん中から是認するプロセスこそが、オルタナティヴとしたら、『おるたな』とはあらゆる即時的な決定や性急な判断を遅らせる力を持った作品になっている気がする。

 スピッツは、まだ開拓前の原野で身構えて、泣き止んだ邪悪な心で「君」を想う。悲しい程に綺麗なまっさらな夕焼けを待つべく。終わりなんて決める必要はない。

《君のそばにいたい/このままずっと/願うのはそれだけ/むずかしいかな/終わりは決めてない/汚れてもいい/包みこまれていく/悲しい程にキレイな夕焼け》
「夕焼け」

 

(松浦達)

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X-PRESS 2.jpg 「アシッド・ハウスのスピリット、ここで一言でいうのは難しいが、あえて言うならウェイ・オブ・ライフ、生き方なのだ」

 上記の一文は、エクスプレス2にとって最初のアルバム『Muzikizum』のライナー・ノーツから引用させてもらった(執筆は久保憲司さんです)。

 ここでクボケンさんは「生き方」と表現しているが、僕はちょっとニュアンスを変えて"精神"と表したい。そして、エクスプレス2の"精神"とは、言うまでもなくセカンド・サマー・オブ・ラブだ。とはいえ、当時を懐かしみ説教するわけじゃないし、むしろ筆者は懐古主義、例えば、80年代末~90年代前半のダンス・クラシックを次々と繰りだし、当時の雰囲気を再現しただけのパーティーには怒りすら覚える。これらの多くは、"バレアリック(なんでもあり)で最先端の音楽を鳴らしつづける"というセカンド・サマー・オブ・ラブの精神を理解できていない(特に音楽的な部分に関して)。

 その点、オリジナルとしては『Makeshift Feelgood』以来約6年振りとなるアルバム『The House Of X-Press 2』をリリースしたエクスプレス2は、ちゃんと精神を理解し引き継いでいる。アート・ワークやアルバム・タイトルからもわかるように、バック・トゥー・ルーツを意識したハウス・ミュージックが本作を占めているが、スエノ・ラティーノ「Sueno Latino」を引用した「This Is War」や、トライバルな「Opulence」「Get On You」、セクシーなヴォーカルが印象的な「Let Love Decide」など、節々でハウス愛が迸る濃厚なダンス・ミュージック・アルバムとなっている。

 元ザ・ミュージックのロブ・ハーヴェイをフィーチャーした「The Blast」、ジェームズ・ユールが参加したアンセム「Time」といったトラックも秀逸なポップ・ソングとして楽しめるが、エクスプレス2の凄さが一番わかりやすく出ているのは、"ハマる"タイプのトラックが揃う「Frayed Of The Light」以降の流れ。特に「Frayed Of The Light」「Lost The Feelin'」「Million Miles Away」は、シカゴ・ハウスと90年代前半のUSハウス、そして最新ダンス・プロダクションを巧みに融合したトラックに仕上がっている。

 2009年にアシュレイ・ビードルが脱退し、ロッキー/ディーゼルのデュオとなったエクスプレス2だが、だからこそ、自分達のルーツに立ちかえり、バイタリティーあふれるトラックを生みだせる。こういったタフな一面も、セカンド・サマー・オブ・ラブの精神を正当に継承しているからこそだ。

 

(近藤真弥)

 

 

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MUSETTE.jpg この作品を聴いて、ふと思ったのは〈生の朦朧性〉、またはそこに埋没した耽落のことだった。「生の事実」の回路を通して、もう一度、曖昧なものを取り戻すための媒介としての音楽であり、あるタームではこれはエスケーピズムの音楽として捉えられるだろうが、個人的には自身の在り方の輪郭を確かめさせてくれる、逸脱という本質に感応した。

 逸脱という本質として、本当に音の触感(質感ではなく)が良い。懐かしくも、敢えてそういった懐古主義を狙いながらも作為性の見えない、作家主義経由のマジカルな機微。浮遊感を伴うアナログで夢幻のような音空間。音響自体には、竹村延和氏の諸作、初期のムーム(Mum)や一時期の〈Rune Grammofon〉界隈のアーティストたちに通じるレトロで牧歌的な誘眠作用もある。そういう意味では、ヒプナゴジック・ポップたるチルウェイブ、インディー・アンビエントの水脈を辿り、スウェーデンから紡がれた「小さい音で、ベッド・ルームで聴くための音楽」にも思えてしまうが、それらとはどうも違うと思う。

 少し説明を入れよう。ミュゼットとは、スウェーデンのヨエル・ダエル(Joel Danell)のプロジェクト。もはや、本国ではIKEAのCM音楽「Air On The G String」を手掛けるなど知名度も高いアーティストであり、09年のファースト・アルバム『Datum』の美しく叮嚀に編み込まれた音響の巧みさも日本でも局地的に愛されてもいたが、3年振りとなるこの『Drape Me In Velvet』では着実に深化したというよりも、リュック・フェラーリの言うところの「ミュジーク・アネクドティーク」、つまり、"逸話的音楽"としての物理学的アプローチが要所で伺えるところが興味深い。本作の制作にあたって、彼は、親戚から多くの数を譲り受けた50年代から60年代のカセット・テープやオープンリール・テープに音を詰め込んでいったという。配信、デジタル文化やCDというパッケージング・カルチャーと比して、今はテープ音楽として音源を敢えてリリースするアーティストも増えているのは周知かもしれない。それは、「テープ音楽」というのは摩耗と自然の割れが発生するものであり、フラジャイルな一回性、偶然性もときに帯びるからなのもあるだろうし、そういった形式を取ることにより、作家精神を表象させる意味も含むからだろうか。

 ちなみに、「テープ音楽」に関しては、音楽評論家のエリック・ソーズマンが「電気的なフィルターの使用、音響付加価値の使用、テープの環状連結、音の強さのコントロール、テープ・スピードの変化などがあり、テープはまた、短く切り刻んで、継ぎ接ぎすることができる。(中略)音の性格を変えるさいにも、たとえば、もとの音とまったく別の音に変えてしまうこともできれば、非常に微細な変化もつけることも可能である。さらに、こうして変化したものを極端なものと極端なもの同士、激しいコントラストをつけて並置することもできるし、逆に、全体が徐々に変化するよう、あらゆるタイプのグラデーションをかけることもできる。」(『20世紀の音楽』エリック・ソーズマン/松前紀男・秋岡陽訳、東海大学出版会より)、と記しているが、今作での大事な部分は「グラデーション」という部分かもしれない。この作品は、本当にぼんやりと聴いていると派手な意匠、起伏がないので、あっという間に12曲、36分ほどを聴き終えてしまう(注:ちなみに、日本盤には「Over And Out」というボーナス・トラックが収録されている)。

 ピアノが遠く霞むみたく鳴り、ザラッと質感に角のないビートが刻まれる1曲目の「CouCou Anne」から一気に彼の世界観に引っ張り込まれ、まるでいつの時代の音楽かと想わせるような艶めかしいメロディー・ラインが浮かぶ2曲目の「Wuzak」と、繋がりを切ることはなく、テープ同士が結びつき、そのざらつきさえも音楽にしてゆく。どこかで聴いたことがあるような音、いつかの佳き時代のモノクローム映画の後ろで流れていたような柔らかくもロマンティックな音が次々と「留保」されてゆく。しかし、あくまで現代のアーティストであるというのが分かる6曲目の「Little Elvis」辺りのフランスのエールにも通じる実験性と優美なサウンド・シークエンスの融和が見えるところだろうか。決して、彼は懐かしさを狙い、想うためにこの作品を編み上げたのではないのは、緻密に配置されているサウンドの響きやメロディーの柔らかさと絶妙な音の揺れからも伺い取れる。タイトルが如何にもな、8曲目の「Night Night Night」などはどんな国の人たちが聴いても、何らかの慕情をおぼえてしまうのではないか、という可愛らしくも綺麗なテープの歪みがある。アナログ・シンセも効果的に活かされ、ピアノの旋律が仄かに馨る。そこに、テープ音楽独自の音割れとグラデーションがじわじわと見え隠れし、決して壮大な展開もドラマティックな盛り上がりもなく、引き延ばされたままの時間が宙空に浮かぶ。

 引き延ばされたままの時間で「不在による現前」沿いに、生の朦朧性の認知を想い出すことが出来るかのような、そんな感覚を得ることが出来る作品になっていると思う。

 

(松浦達)

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YPPAH.jpg 振りかえると、ネットを発祥としたチルウェイヴは、ほんとに重要な現象だったと思う。トリルウェイヴ/クラウド・ラップといった発展型だけでなく、その影響はポップ・フィールドにまで及び、最近盛りあがりをみせている関西ビート・ミュージック周辺にも、チルウェイヴの影を感じる。

 そして現在、チルウェイヴの持つメランコリックなアトモスフィアは拡散し、その種子が発展を遂げていてる最中だ。こうした動きにジャストなタイミングでイパは、《Ninja Tune》からサード・アルバム『Eighty One』(このタイトルは、ジョーが生まれた年だそうです)をリリースした。

 幼い頃の記憶もインスピレーションのひとつとなっている本作に対し、イパことジョー・コラレスはこんなコメントを残している。

 「様々な時代の思い出だね。当時の気持ちをメロディに書き出そうとしたんだ。子供の頃って、明確に表現できないテーマのようなメロディがあったりするだろう? もう少しではっきりと聴き取れそうメロディというか。しかも過去に聴いたことのある実際のメロディとまったく異なるものというか」

 確かに本作は、ここではない"どこか"を描きだしたドリーミーな音楽であり、"非言語的空間"を作りあげている。キラキラとした透きとおるような音像はひたすら温もりにあふれ、シューゲイザーを彷彿とさせる音に昨今のビート・ミュージックを掛けあわせたサウンドは、聴き手の想像力を掻きたてる。

 また、先述のチルウェイヴ以降のメランコリックな世界観に基づいた、サイケデリックかつ流麗なグルーヴも素晴らしい。メロディアスなシンセや生楽器によるオーガニック・サウンド、そして、本作でヴォーカルを披露しているアノミー・ベルの歌声も、サイケデリックな雰囲気を醸しだすのに一役買っている。これらのサウンドが生みだすユーフォリックな恍惚感は、一聴の価値あり。

 

(近藤真弥)