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root13.jpg "Quiet Rock=静かに沸騰する音楽"が、この作品には詰まっています。なんて大袈裟なことも言いたくなるぐらい気に入ってしまった、関西在住の3人組の1st ミニ・アルバム。一言で言うなら、最近流行のギター・ロックなバックに線の細いヴォーカルが乗った音楽、なんですけど(本当にそういう、同じようなバンドが最近多くて少し残念)、その線の細いヴォーカルが一歩間違えると不快に感じるぐらい癖があって、そこが逆に良いんです。ユニークかつ絶妙な技を駆使して楽曲それぞれで違った顔を作りあげてたりもしますしね。

 そして、心のひだに寄り添うような優しいロックに耳を惹き付けられるのは、彼らの秀でたメロディーセンスがあってこそ。ちょっと生意気な、でも丹念に選ばれた素敵な言葉が並ぶ歌詞もグッときます。華麗なバタフライ泳法で音楽の海を掻き分けていく彼らの勇ましい姿が、このアルバム聴いてると浮かんでくるんですよ。興奮度がじわじわ高まっていく佳曲揃い。聴けばきっと、トリコでしょう。

 

(粂田直子)

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西島大介.jpg 「しょーこー、しょーこー、あさはらしょーこー!」そんな歌がテレビから聞こえていた1995年。その年、日本では阪神淡路大地震があり、オウムによる地下鉄サリン事件が起きた。「おめでとう、おめでとう、おめでとう!」と『新世紀エヴァンゲリオン』のアニメの最終回で、主人公の碇シンジがみんなにそう言われたあの最終回。漫画原作者であり、編集者である大塚英志はこれを「人格改造セミナーだ」と言った。

 西島大介氏の最新刊である『I Care Because You Do』という漫画は、その時代を描いている。この物語は、作者自身にとっての三人の神様を巡る物語だ。庵野秀明を崇拝する少年、リチャード・D・ジェームスに酔いしれる少年、そして、YOSHIKIを知った少年―西島氏の分身でもあるだろう三人の高校生たちが、「終わると思っていた世界」が終わらずに、でもある意味で終わった90年代を通りすぎていく漫画である。

 西島大介は早川書房より漫画家として『凹村戦争』でデビューする。同じく早川書房より出した『アトモスフィア』では増殖していくドッペルゲンガー化する世界を描き、スター・ウォーズ・サーガ的な科学と魔法が対立している世界である『世界の終わりの魔法使い』シリーズ、同作の四巻目『世界の終わりの魔法使いⅣ 小さな王子さま』は今作と同時発売である。ベトナム戦争を舞台に描くボーイ・ミーツ・ガールな『ディエンビエンフー』などがある。

 今作の中で庵野秀明と『エヴァ』にハマっている少年は、付き合っている彼女とオザケンの事を話したりする。そういう時代だったのだ。渋谷系の王子が旅に出る前の95年。そして、庵野秀明にハマった事を思い出しながら『トップをねらえ!』について考えたことのナレーション的な台詞がこれである。

「とにかく引用の果ての真剣さに僕はしびれた。明らさまなパクリの中にも魂は宿る。...って アレ? それってオザケンと同じか。元ネタありきのサンプリング感覚」

 タランティーノ以降、ヒップホップ以降の世界での表現としてのサンプリング感覚。オリジナルとコピーとは何かを巡る問題や捉え方についての考え。

 西島大介は大塚英志の弟子筋にあたる。大塚英志を長年読んできた僕が西島大介を知ったのも、『新現実』という大塚英志の作った雑誌に載った漫画だった。それが後の『凹村戦争』に繋がる。大塚英志が語るオリジナルとコピー問題は昔からあった。近年では代表作でもある『多重人格探偵サイコ』においてもスペアという問題で現れているし、『多重人格探偵サイコ』は目玉にバー・コードを持つ殺人者たちの物語だが、バー・コードとは所詮大量生産という証でしかないというオリジナルを巡るテーマが根本に流れる。

 西島大介は『アトモスフィア』において主人公の前に現れるドッペルゲンガーがどんどん増殖し、その世界すらも並行世界のように世界すらもドッペルゲンガー化し増殖していく世界を描く。増え続けると、もはやオリジナルとコピーの区別はほぼなくなってしまう。「オリジナルとコピー」。僕とは一体何者なのか? 何かを創る時に影響を受けたものから逃れられない複製としての表現。もはや"n次創作"が溢れる世界において。

 『I Care Because You Do』は90年代に思春期を過ごした者にとっては懐かしい空気感を持つ漫画だ。そしてノストラダムスの予言はあたらずに、大地震が来ても宗教団体のテロが起きても世界は終わりはしなかった。だけど主人公である三人の世界はある意味で終焉し、彼らはその先を生きて現在までが描かれている。かつての少年たちは、もう三十代に入っている。もはや95年は近過去だ。カッコわるくみっともなくてダサイ、でも何かを信じてたあの頃。だからこの物語は彼らにとっての神様たちと彼らが別れていく物語だ。これは90年代に青春を過ごした彼らの通過儀礼の物語。とても哀しく、愛おしい物語。

「パターン青、使徒です。使徒ってテクノっぽくね?」
「心の傷、エンドレス・レイン」

 西島大介の漫画は、コマに台詞しかないものが続いたりする。文学的な部分がありながらも、絵がなくてもそれはやはり漫画だ。西島氏とさやわか氏が主催している『ひらめき☆マンガ学校』という参加者全員を漫画家にするという企画があるのだが、その一学期をまとめたものが講談社BOXより出ているので読んでみてほしい。表現をどう考えているかがよくわかるし、マンガ以外の表現にも有効的なものがたくさんある。

 昨年2クール放映されたアニメ『輪るピングドラム』も物語のバック・グラウンドにあったのは地下鉄サリン事件だった。そこで描かれた95年から現在に至る間に、かつての少年少女たちは、それまでの倍の時間を生きて三十代になっている。当時よりも酷いかもしれない日本の現状の中、あの頃の僕らと同じ思春期の子供に、そして現在の僕らにむけた作品が現れてくるのは当然の流れなのだろう。僕らが居た時間の肌触り。僕と趣向は違うけど、知っている温度の時代がそこにはある。今の若い世代は、どう感じるんだろうか。

 『I Care Because You Do』を読むと90年代に思春期を過ごした者のノスタルジアが見事に昇華されていて、最後は泣きそうになる。西島作品の中でこの先一番好きになっていくかもしれない、あの頃と95年から、どんどん時間が過ぎれば過ぎるほどに。

 僕のゼロ年代の神様も三人いるけどここでは教えない。

《神様はいない。けど、いた。'90年代の終わり頃に。
もちろん麻原彰晃じゃなくて。
リチャード・D・ジェームス、庵野秀明、そしてYOSHIKI。
これが僕の神さま。なんてことだ、三人もいる。
'90年代の話を書こうと思う。本当のお話、本当の物語を。
神さまに、置いてきぼりにされた瞬間を。
'90年代のどんな事件より、どんな災害より、
もっと決定的に世界を終わらせてしまった出来事を。
彼がステージに姿を現してくれなかったあの日のことを。
あのテレ東のアニメの最終話を。解散と突然の悲劇を。
ほんのちょっと遅れてやってきた、本当の結末。
三人の神さまに、この物語を捧げる。
アイ・ケア・ビコーズ・ユー・ドゥー。》

  そろそろ夕方のテレビが始まる。急いで帰らなくちゃ。

 

チャンネルをテレ東に
リモコン持ったら速やかに
フルカラーのまたたきが
ブラウン管からあふれだす
伝えたい言葉は I LOVE YOU
口をついて出る I WANT YOU
愛の言葉は I LOVE YOU
君に届けたい I NEED YOU》
(相対性理論「テレ東」)

※西島大介「ゼロ年代最後の年に。まえがきにかえて」より。

 

(碇本学)

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中村一義2.jpg 大江健三郎の比較的、初期の作品に『敬老週間』という短編がある。そこでは、90歳代の老人がもう寝たきりで最期のときを迎えるにあたって、大学生3人がバイトとして雇われ「明るい未来や希望について話す」という簡単に思われるものなのだが、老人の現状分析の視点、冷静なシニシズム、相対化の中で彼等はどんどん閉塞的で希望的な余白のない未来を各々が察知しだし、脳内にせよ、ユートピアの作成は出来ないということで、バイトの最終日前に逃げ出す。オチはブラック・ユーモア溢れるものなので、ここではあえて割愛するが、今、この2012年における「本当」とは「嘘」であり、「嘘めいたこと」は「本当」に裂かれる。裂かれるのは「本当の嘘」ではなく、「嘘の本当」としたら、その状況論とは、大文字の"それ"ではないと思う。"希望"と唱えれば、決して希望が近付かないように、掛け声としての「どう?」こそ、が響く気がする。97年の「状況」に裂かれた部屋から、もたるドラムとハイトーン・ヴォイス、ビートルズ直系の柔和なメロディーと、宅録感溢れるサウンドを背景に、今、10年振りのソロ始動として中村一義は「戻ってきた」。何故に戻ってきた、と表象するのかは、追々筆致するが、100s時における彼のユニティ内での互換承認と直系の言葉、サウンドには明らかな橋本治氏言うところの「結界」があったのを感じたからなのもある。"同情で群れなして、否で通す"はずの彼の「否」が見えなくなる錯誤性。

 静かに、タイトル名ほど過激ではない形で「ウソを暴け!」は紡ぎ上げる。ジョン・レノンの「イマジン」、彼自身の佳曲「笑顔」のときのような柔らかい始まりからじわじわと音が重ねられていきながらも、サイケデリック且つユーフォリックに昂揚してゆくドラマティックで壮大な展開。そこに、《昨日まで 日の光さえ当たらずにいた人が 今を変える》、《君を消さないで》という優しいフレーズ群が挟まってゆく。懇願めいた、「君」へ向けた唄。

 振り返るに、97年の『金字塔』では、自意識内で完全に拗れた部屋の中で少しずつ不特定多数の誰かに向けて声を出しながらも、ソトに出ることに躊躇いを持ち、様子を伺う宇宙人(と、一部メディアでは形容されてもいた)としての視点を内包していた。そこから、皮膚感覚として陽の粒を集めるべく、シングルにもなった「そこへゆけ」であるように、《僕は見ている。夜を塗り替えた花火が蒔いた星を見ている。ツラさのエサになんのはゴメンだから...。》と状況に裂かれてしまった部屋での、また、聴取者や評論家たちの注視の混在された中でのエサになることを拒否すべく、僅かに土手まで出て、「生きている」ことの祝福をただ愛でる98年の『太陽』へと繋げた。

 「太陽」が照る世界には社会が待つ。社会には、ベルクソン言うところの「生の躍動elan vital」が絡んでいる。そこで、万能的なパースペクティヴでアンガジュマンを試みた00年の『Era』における重厚さへシンクし、その対象とは観念で設定された仮想敵だったのか、のちの「キャノンボール」における「死ぬように生きている」人たちに向けての願いと刃だったのか、個人的には当時は見えなかった。その反動からなのか、仲間たち―つまり、100sとのセッションの中で、ライヴ活動もより活発に、世界観も大きさを保ってゆくことになり、清算として自分のパーソナルな過去へと降りる『世界のフラワーロード』で巡り、昨年の『最高宝』で、一つのナラティヴは閉じる。『最高宝』に収められた新曲でこう唄ったように。

《会えない夢を背に、君を天使と呼ぼう。過去も未来も込めて、捧げよう。》
(「愛すべき天使たちへ」)

 過去も未来も込めて。90年代後半から00年代を駆け抜けた彼が繋いだミッシング・リンクとしての「会えない夢」―。それは、俯瞰して鑑みるには相当程度の痛点が感じ取れた。つまり、捧げようとした外部とは、内部だったというイロニカルな閉塞を明象し、また、凪と時化、攻撃と内省、緊張と弛緩の間を行き来している間に、彼の持っていたファニーなセンスや表現のエッジの輪郭がぼやけてしまったのも否めない。どうしても、<出来事>の潜勢力を返還するための活動履歴だったのか、という疑念が擡げるが、個人的には違うと思う。それは、この「ウソを暴け!」を聴けば、分かる。

 現在、世界("セカイ"ではなく)からフレーム・アウトした名もない辺境からの多くの名もなきユースはできる限り、「人間に似る」ような、表現を目指すような胎動があり、その通底するムードから何故か、神経症的な不安、ヒポコンデリア・ベースのものか極端にエスケーピズム的な表現に収斂してもきているサウンドが目立つ。シンセ・ポップ、ベッドルーム・クワイワ、チルウェイヴの亡骸、トロピカリズモへの考慮もいいだろう。しかし、冒頭に触れた、『敬老週間』での大学生たちのように、当初は明るいヴィジョンを語っていても、どうにもリアリティに追い詰められてゆくというディレンマを踏まえた上での失語への近似(虚無)が仄かに浮かぶ。その失語への近似のナイーヴネスという傲岸さに含まれる他者は、そこにいる他者なのか、先取りする「他者の欲望を、欲望すること」ではないのか、も気にもなる。

 中村一義は、「ウソを暴け!」で《今日のウソを暴け/もし 君がちょっとくらい嫌われても 君のウソを暴け/そしたらさ 必ず僕はそこにいるよ》と「君」の「ウソ」さえも暴け、と世界への嘘には向かわない。もしも、『Era』のときであれば、間違いなく、「世界のウソを暴け」、と言っていただろう導線が「今日」に、「君」に変わったのは示唆的であると思う。そして、賛美歌風のコーラスが重なり、《今日の本当を探せ 君の本当を探せ》と反転する箇所で、重力が変わる。重力が変わるということは、嘘を暴くこと≒本当を探すこと、ではなく、嘘に気付くこと≒本当が逸れるという図式内でのメタファーとして「王様」は裸で居るという事実への接近をほどく。

 その王様に名前はない。名前を付けるのは、この曲を聴いた、これからを担う世代の役割かもしれない。「ウソを暴け!」とともにリリースされる「運命」、そして、リミックス・アルバム、ライヴと彼は彼の書替・再定義作業ともいえる活撥な活動に入ってゆく。メトニミー(換喩)として「ウソ」は「暴かれない」。ゆえに、「本当」が「隠匿される」。隠匿された本当に、彼の声の心からの望みは包み込まれる。

《ごらん 一瞬で崩れかけてた世界に また花を咲かせたのは/王様ではなく 君たちだと知ってる》
(「ウソを暴け!」)

 

(松浦達)

 

編集部注:中村一義「ウソを暴け!」は、iTunes Store で先行配信中。

2012年2月15日にCDS「運命/ウソを暴け!」(Avex Trax)としてリリース予定。

コンセプトHP KIKA:GAKU

 

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SHORES.jpg ノスタルジーなアルペジオは、ロウの『I Could Live In Hope』を、陰鬱なヴォーカルはレッド・ハウス・ペインターズのマーク・コゼレックを連想させ、そして何よりアルバム全体に漂う緩やかなグルーヴ感は、まるでコデインから直々に継承されたかのようである。スリー・マイル・パイロットやピンバックも内包しており(フロント・マンのブライアンはロブ・クロウに似ている)、彼らが90年代に活動していたバンドだと言われれば、大勢のリスナーの方が疑わないだろう。それほどに当時特有の気風を継承している。ミシガンの2人組であるショアーズ(ライブでは4人編成)による本盤は、前作の1stフル・アルバム『Coup De Grace』から1年足らずという早いペースで制作されており、今回も90年代スロウコアの血脈を忠実に受け継いだ、シンプルなバンド・サウンドで構成されている。

 直球のスロウコアらしく、なだらかなライドで静かにビートが刻まれる。テレキャスターによる堅いトーンでもって、淡々としたアルペジオが左右で響く。楽曲にダイナミズムが生まれ始めると、シンプルなドラムに力強さが帯び、歪んだギターが深い水の底から沸き上がるように掻き鳴らされる。楽器隊が高揚感を募らせていようとも、ヴォーカルのブライアンは黄昏れ続けている。抜群にドラマチックなメロディは、エモやインディー・ロックからの影響も窺わせる叙情さである。絞られた照明の下で、眩くないフロアへじわっと浸透していくような、波の起伏が繰り返される。

 当時のスロウコアからいなたさやローファイさが抜け落ち、音源そのものはハイファイかつ洗練されている。しかしながら、バンド・サウンドのみで構成されているという点は変わらず、ライブ感を伴う生々しさが本盤からは伝わる。アルバムの流れや全体像などという観念は無く、似た曲調・音色・テンポの楽曲が粛々と連なり続けるが、翻せば、本盤の曲がいずれも素晴らしいということに他ならない。コデインとレッド・ハウス・ペインターズとロウの良いところを盗んで、00年代のエモとインディー・ロックを触媒に昇華させているのだから、これだけ素晴らしいアルバムが現代に生まれて来るのも納得だ。

 

(楓屋)

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LANA DEL RAY.jpg 「死は芸術だわ。私達はポップ・ミュージックを使い果たしてしまった。そういった健全な夢は死んでしまったのよ」

 これはまぎれもなく、ラナ・デル・レイことリジー・グラントの言葉である。

 もはや周知の事実かも知れないが、彼女が注目を集めたキッカケは、「Video Games」だ。ピッチフォークは"Best New Track"としてピック・アップし(とはいえ、レビューを読むかぎり、『Born To Die』のことはお気に召さなかったようだ)、ユーチューブにアップされたMVは、驚異的な再生回数を記録した。また、iTunesでリリースされた「Video Games」が19ヶ国でトップ10入りし、NMEは昨年のベスト・トラック/ベスト・ビデオの栄冠を与えている。こうした具合に、デビュー当初から話題が尽きなかったラナだが、そんな彼女に対して、多くの人がこんな疑問を抱いたはずだ。

 "ラナ・デル・レイは本物なのか?"

 かのイギリス首相がファンであることを公言し、「Video Games」で注目を集めるまでの過程や、"サタデー・ナイト・ライブ"でのパフォーマンス。そして、モデル事務所とモデル契約したりと、ラナの"音楽以外"のニュースが飛びだすたびに、批判の声が大きくなっていった。

 そうしたなか、実に様々なメディアがこぞってラナを分析しコメントしている。そんな数多くの主張でもっとも興味深かったのは、以下のコメントである。

「魅力的な創造物。ハッとするほど美しく、繊細ではかなく、青い瞳の裏には神秘的な何かが潜んでいる」《i-D》

 特に引っかかったのは「魅力的な創造物」という箇所。この言葉は、ラナ・デル・レイを表すうえで非常に的確なコメントだと思う。

 『Born To Die』は、どこまでも作りこまれている。完璧に近いサウンド・プロダクションだ。特にストリングス・アレンジが秀逸で、ケミストリー「It Takes Two」でも辣腕を振るったラリー・ゴールドが担当している。ラリーはヒップホップ作品などで目にすることが多いレジェンドだが、本作にはヒップホップの影響が窺える(それが顕著なのは「National Anthem」だろう)。ラナ自身「ギャングスタ界のナンシー・シナトラ」を自称しているが、「Video Games」でもスモーキーなハスキー・ヴォイスを披露しているし、多弁的な歌詞もラッパー顔負け。「ギャングスタ界のナンシー・シナトラ」も、あながちウソではない。

 そしてなにより、ラナが「アルバムのトーンを決めている」と言う曲「Born To Die」だ。この曲こそ、ラナ・デル・レイという"創造物"の本質であり、リジー・グラントの本音である。「死ぬために生まれた」と名付けられたこの歌は、こんな一節から始まる。

 「足元を見つめながら/どうかこのままそこに辿り着けるようにと願ってる/一歩踏み出すたび/胸が痛んでどうしようもないけど/そのまま歩きつづける/天国の門前に立ったそのとき/あなたが私のものになるなら 《Feet, don't fail me now Take me to the finish line Oh, my heart it breaks Every step that I take But I'm hoping at the gates, They'll tell me that you're mine》」(筆者訳)

 これは、「私は自分の音楽で、色んな人生をぶち壊して、危険なことや危険な人の魅力を理解したいの」と語る彼女の旅の始まりを意味する。その旅の目的は、「色んな人生をぶち壊して、危険なことや危険な人の魅力を理解」するためだ。

 本作で歌われていることのほとんどは、ラブ・ストーリーである。とことん打ちのめされ、静かに狂っていく人々が描かれるラブ・ソング。こうした曲群を、"厭世的"と表現する者もいるだろう。一理ある。"アメリカン・ドリームの危うさを映しだした亡霊"と捉える者もいるかもしれない。これまた一理ある。"閉塞感が漂う世界を代弁したポップ・ミュージック"と祭りあげる者もいそうだ。まあ、わからなくもない。そしてこれらを総して、"シニカルに現実を見つめ告発するポップ・スター"と結論づけることも可能だ。

 もちろんいま述べたことがすべてではないが、"悲観と皮肉が支配する斜に構えたアルバム"というのが、本作を一聴したときに感じる大方の感想ではないだろうか?

 だが、こうした複雑な陰鬱の奥に潜んでいるのは、間違いなく"希望"である。再び引用で申し訳ないが、「Born To Die」にはこんな箇所もある。

 「悲しむのはイヤ/泣くのもイヤ/愛されるだけではダメな時もある/何もかも思うようにいかないこともある/なぜかわからないけど/それが人生なのよ/でもそんなときこそ楽しく笑って/幸せな気持ちでいたい/人生という長い道を生きていくんだし/辛いことがあったら/楽しいことだけを考えるの 《Don't make me sad,Don't make me cry Sometimes love is not enough And the road gets tough I don't know why Keep making me laugh Let's go get high The road is long,We carry on Try to have fun in the meantime》」(筆者訳)

 そして「Born To Die」は、以下の一節で幕を閉じる。

 「死ぬ前に言い残したいことは?/あったら考えておくのね/これが最後かもしれない/なぜなら2人とも/生まれたからにはいずれ死ぬの/それが人間よ 《So choose your last words, This is the last time Cause you and I We were born to die》」

 ラナにまとわりつくイメージに惑わされがちだが、この一節は、"人間はいずれ死ぬからこそ、強く生きるべき"というポジティブなものとして読みとることもできる。例えば「Born To Die」のMVにはキリスト教を連想させる要素がいくつも出てくるが、このMVは、血まみれで遺体となった女を男が抱えて立ちつくすという衝撃的な結末を迎える。だが、カップルが悲観的になり自ら命を絶つことはない。キリスト教は、教義として自殺に否定的だからだ。そしてこの引用は、先述の"人間はいずれ死ぬからこそ、強く生きるべき"というメッセージを示唆する。"それでも生きるのだ"と。

 アルバムを通して聴くと、ひとつの壮大な物語が重厚に描かれている。そして、あえて空間を作り、聴き手の想像力に依拠した音楽が多い現在のポップ・ミュージックに逆行する、濃密な音楽が鳴っている作品であることがわかる。パンを最大限に使い、聴き手を圧倒するように様々な仕掛けが施された音。それはあまりにも過剰で、異端である。この異端的な側面は、どこかレトロチックなラナのルックスと佇まいによって、さらに強調されている。だからこそ"本物ではない"と批判され、《i-D》の「魅力的な創造物」というコメントが、ひときわ目を引くのだ。つまり、"本物ではない"という批判は、ある意味あたっている。確かに、本作は文字通り「魅力的な創造物」なのだから。でも、そこに隠されたラナのメッセージこそが重要であり、"創造物"という表層だけで本作を判断するのは、あまりにも早計だろう。「映画と音楽と人生が、1つに融合しつつあるのよ」と語るラナのことだ。音楽だけでなく、メディアでの振るまいなどにも注視すべき(この点に関しては、かつて資本主義の暴力と残酷さ体現した50セントを想起させる。やはりラナにとって、ヒップホップは重要なのだろう)。

 最後も引用になってしまうが、以下にラナの言葉を記しておく。

 「誰もがみんな有名になりたがっている。他の人々に自分の人生の証人になってもらいたいという欲求は、本質的に人間らしいものよね。誰かに見られているということが、人間には大事なのよ。独りぼっちにはなりたくないってこと。私も独りではいたくないわ」

 『Born To Die』は、歪で過剰な承認欲求が生みだした、美しくも儚い光に満ちた傑作である。

 

(近藤真弥)

 

※本作の国内盤は2月8日リリース予定。そして、本文中のラナの発言は、ユニバーサル・ミュージックのラナ・デル・レイ公式ページのバイオグラフィーから引用したものです。

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Beat Culture『Tokyo Dreamer』.jpg 何かの始まりを予感させる音楽は、いつの時代も美しいものだ。808ステイト「Pacifc State」、エイフェックス・ツイン「Xtal」、アーケイド・ファイア「Wake Up」などなど...。これらの音楽は、とてつもないパワーと最大瞬間風速でもって閉塞感を打ち消し、聴き手を導いてくれる。それはまるで、新たな創造のドキュメンタリーですらあるが、こうした音楽に出会った聴き手が"目撃者"となり、潮流の担い手となるのだ。


 そういう意味では、ビート・カルチャーを名乗るキムもまた、表現者として潮流を担っているひとりだ。様々な音楽が時を越え邂逅し交わる時代のなかで、キムは間違いなく驚きと興奮に満ちた音楽を鳴らしている。


 前作『Goldenbacked Weaver』のレビューでも述べたように、キムの音楽には過去の偉大な音楽の幻影が窺える。特に顕著な影響として表れているのはレイヴ、そして、90年代前半のテクノだろう。だがなによりも重要なのは、そうした過去の音楽と現在の音楽を接合し表現することで、見事なまでに新鮮な音楽を作りあげている点だ。ビートやプロダクションといった部分はもちろんのこと、テクノロジーのなかにソウルを落としこむあたりは間違いなくジェームズ・ブレイク以降の音である。謂わばキムは、ビート・カルチャーという"ハブ"となって様々な音を集め、それらをモダンにアップデイトし、独自の価値観を通して聴き手に届ける。


 また本作は、『From Here We Go Sublime』期のザ・フィールドに匹敵する高揚感も獲得している。それはおそらく、先日《Ninja Tune》からアルバムをリリースしたイパなどに顕著な、シューゲイズ・エレクトロニカの要素を前作以上に取りいれたからだろう。まあ、過去にもThe MFA「The Difference It Makes」が"シューゲイズ・ハウス"と形容されていたり、エレクトロニック・ミュージックにおけるシューゲイズが"斬新"と呼べるものではないのは確かだが、近年再び多くなっているし、このあたりの目配せもさすがといったところだ。さらに、昨今のインディーR&Bに接近した「Midori」といったチャレンジングなポップ・ソングもある。


 そしてもっとも注目すべきは、チルウェイヴの発展型として注目されているトリルウェイヴ/クラウド・ラップの要素がある点だ。このふたつは、ヒップホップのチョップド&スクリュードという手法に影響を受けたダウナーなチルウェイヴやウィッチ・ハウスを再びヒップホップが取りいれたことによって生まれた言葉だが、グルーヴやビートのタメに、トリルウェイヴ/クラウド・ラップの影響が窺える。筆者も最近になってトリルウェイヴ/クラウド・ラップを聴きあさっているから、深いことを言えないのは大変申し訳なく思うが、例えばオッド・フューチャーと比較されるアトランタのノーバディー・リアリー・ノウズ(Nobody Really Knows)周辺のビート感覚が、ビート・カルチャーの音楽にも及んでいるように聞こえるのだ。ついでに言及すれば、先日リリースされたSeiho『Mercury』のスペーシーなアトモスフィアも、トリルウェイヴ/クラウド・ラップと共振するように思えたし、もっと範囲を広げると、最近活発になってきている関西ビート・ミュージック・シーンにおいて、LAビート・ミュージックと並んでトリルウェイヴ/クラウド・ラップの影響もデカいのではないかと踏んでいる。


 話を戻そう。先述したように、本作は開放的なシューゲイズ・エレクトロニカが前面に出ており、ダウナーな雰囲気は微塵もない。だが、チルウェイヴに端を発したネットにおける音楽シーンの形成、拡大、そして瞬く間に全世界で共有されるスピード。こうした現代の音楽の在り方を象徴する様々な潮流が、『Tokyo Dreamer』の元に集っているような気がする。そう考えると、"ビート・カルチャー"の名も、あながち的外れではないのかもしれない。



(近藤真弥)

 

※本作はビート・カルチャーのバントキャンプからダウンロードできます。

 

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FUMOTO.jpg デビュー当時の七尾旅人を思わせる内面に流れ込んでくるメロディと、等身大で生々しい歌声はシンガーソングライター麓健一の強さと弱さの両方の側面の摩擦音に聴こえ、とても人間臭い。その人間臭さが音と聴き手との会話を自然に生み出す。裸になって聴くべきというより、裸にさせられてしまう。『コロニー』とはそういう作品だ。

 前作『美化』はフォークトロニカやカマーフリマー・コレクティーフを思わせるサウンドが散りばめられていた。それはそれで素晴らしく、麓健一とはどのようなサウンドも自分の音として鳴らせる多様性を持っていた。しかしスッパマイクロパンチョップやホソマリ、T.T.端子らを迎え、3年振りに発表した初のスタジオ・レコーディングを含む本作では音響派的な要素はあるものの、前作と比べて生のサウンドで、聴き手に瞬時に寄り添ってくる。ひっそりと綴られた日記を覗いてしまった気持ちになる作品なのだ。手書きで書かれたその日記には独白があり、記憶の断片があり、美しさがある。それらは聴き手に向けられた日記のような親密さに溢れている。

 そもそも麓健一とはこれまでも「願望」を歌ってきたアーティストだ。その願望は聴き手との会話であり、繋がりでもある。複雑なリズムを刻むドラム。アコースティック・ギターの穏やかな響き。指が鍵盤の上を軽やかに舞う。だが優美ではない。情動が移り変わる麓健一の歌声に宿っているいびつさが充満していて、本作では包み隠しのない麓健一が立っている。感情を変換せずに歌う彼の潔い姿を聴いていると反省させられ、僕は神妙に頭を垂れた。ローラ・ニーロやエリオット・スミスの作品にも劣らない素晴らしい作品だ。ほとんど作為性を感じない点は七尾旅人にも通じるし、本作にゲスト参加しているmmm(ミーマイモー)など、多くのアーティストから絶賛されたのも頷ける。この何の免罪符も用意していない音楽を斜に構えて聴くことは誰にもできないだろう。僕は泣いてしまったのだ。『コロニー』という重いタイトルと相まって麓健一の裸の姿が表れている本作を前にして。

 音楽とはフィクションではない。ある人は音楽によって突き動かされ、あるいは慰められ、行動を起こす。だからこそ音楽は人を構成するひとつの要素に成り得ている。ポピュラー・ミュージックとはそういうものだし、麓健一は音楽という現実を身にまといながら人とコミットしようとしている。そう、《解けてしまう前に》。

 

(田中喬史)

 

 

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工藤鴎芽.jpg 「声の聴こえない音楽」として、ポスト・クラシカルやエレクトロニック・ミュージックの宿命と時おり、聴こえるはずのない声が聴こえること、とは何なのだろうか。作家の作品に込めた想いなのか、その作品を透けた雑踏とすれば、今回では「バス停」なのか、考えが巡る。

 「奈良のレコード・ショップ・ジャンゴ×工藤鴎芽~奈良にて」という内容で、ここクッキーシーンでも書かせて貰った企画的な工藤鴎芽のミニ・アルバムの第二作目『At The Bus Stop』。第一作目のタイトルが示す通りの『Mondo』の時よりは、ポスト・クラシカル色が稀薄になり、ミニマル・ミュージック、トイ・エレクトロニカとでも言おうか、ストイックなものにシェイプされており、ヘッド・ミュージックとしての愉しみ方を誘起する内容に収斂している。

 7曲、26分の緻密な設計図の中での音楽が持つ白昼夢的な"逸れ道(オルタナティヴ)"。聴き手の聴き流しを拒むかのように、様々なアイデアが詰められた上で、インストゥルメンタルに軸を置きながら、作者の意志、声が聴こえるところには、「音楽=ミュージック」から「音響=サウンド」へのベクトルの途程で、「音風景=サウンドスケープ」の中に見事に署名を残したといえる。

 「署名が見える、電子音」というイロニカルな事実を越えて、この作品で用いられている音楽的語彙、風呂敷は広い。1曲目の「Move On The Technique」のテクニカルなビートの刻まれ方にはガーション・キングスレイ「Popcorn」のようなテクノ・クラシックへの畏敬にも繋がる繊細且つチープな電子音の手触りと滑らかなサウンド・レイヤーが感じ取ることが出来る。仄かにはねるリズムが心地好くもあるが、既に『At The Bus Stop』の制作の矢印が「未知は既知の一様態として受け容れること」にあるとも推察できるのとともに、既知を未知へと揺らがせる不安定さが魅力だ。1曲目のストイシズムを対象化させるごとく、ストリングスとピアノ音がフィーチャーされた2曲目の雅やかな「Step For Jazzy」に繋がるときに、明らかに未知の閾での「バス停にて、待つこと」そのものの意味が再定義される。

 バスは来るかどうか分からない。バス亭にも居るかどうか分からない、ただ、バス停らしき何か、途中過程には居るということ。その予感だけを持って、夢想の中での音風景に馴染むのはこのアルバムか、Aoki Takamasaかハウシュカの一連の作品群か、というのはあながちズレてもいない想像だとも思う。仄かに漂うサロン性。そのサロン性とは、時間経過とパラレルにモードを置くことでの現実の仮縫いの糸を解く事前段階といえ、その事前段階の時点で現実はこちらを見ていないし、自分が現実の中にあるかどうかも分からない。そんな、感覚(センス)を繋げる、まるで純喫茶やオペラ・ホールの待合室で流れてもいいようなディーセントな耳ざわりを持つこの曲(「Step For Jazzy」)の背景には往年のロマンティックながらも悲喜を含んだ映画のサウンド・トラックを想い起こさせる。『ローマの休日』、『女と男のいる舗道』、『カビリアの夜』―。これらの映画での倦怠と華やかさはフィルムの終わりとともに、日常に戻る、そういう線が見えたものだが、『At The Bus Stop』では線が見えない。だから、日常と非日常の境目が混線する。ゆえに、3、4曲目といささかスキゾな曲が混ざることになるのも、現代の日本の何処かにあるはずのバス停という場所の世知辛さが当然に浸食してくるのも、道理なのだろう。前者のタイトルが象徴的な「Drop For Hip Hopper」は、ビートが硬く刻まれる無愛想さがある曲であり、後者の「Walk For Bossa Nova」は彼女の気怠いスキャットも入りながらも、ローファイな「テープ音楽」のようなアナログ感がある。昨今のUSインディー・シーンでの敢えて聴けない「テープ音楽」ではなく、ノア・クレシェフスキーが行なっていたそれに近いものである。そこへの電子音楽を巡っての聴取方法への彼女の何らかの抗いが見える。簡単に音楽は聴けるが、どんな形でも聴ければいい時世に向けての、音質のラフさ。

 そして、何より驚くのは、エキゾチズム溢れる5曲目の「Park For Ethnique」にはシタールや、バグパイプ、旋律はラヴィ・シャンカールの曲をクラブ・ミックスした風合があり、くるりの『The World Is Mine』に入っていた「Mind The Gap」を彷彿させる。あのアルバムも風呂敷の広い内容だったが、インスパイアされた部分があるということだろう。

 『At The Bus Stop』に通底する音への神経症的な意識とは、聴き手の聴覚の鋭度を求める。感覚が緊張を高めるにつれて軋むサブリミナルな刺激が7曲を繋ぐ。そもそも、1曲目のビートが刻まれた時点での微細なまでの意識の鋭敏さが、5曲目の何処にもない夢想内での異国感と、6曲目のベルや雑踏での音など多様な効果音が混じる「Kiss And Bite For You」で漸く露わになるという証明をする時点で、電子/音響の関係性を繋ぐ鎖を千切る。ゆえに、ラストの7曲目は1~6曲目までの夢の中の現実でのテンション(緊張)がその夢の中の更に、夢だったことを露顕させるがごとく、一旦、打ち切る。バイオリンなどストリングスが麗しく響き、ロンドのステップを刻む、「Stop For Cinematic」。この曲にふと挟まれる完全なる「静寂」、その中で、とあるバス停での白昼夢は終わる。

 白昼夢を見ていたのはバス亭にいる誰かだったのか、聴き手だったのか。

 

(松浦達)

 

※筆者注:フィジカルCDは奈良のセレクト・レコード・ショップ「ジャンゴ」店頭で購入および取り寄せ等が出来ます。のちに、ワールドワイド配信もするとのこと。

 

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岩井俊二.jpg 映像作家である岩井俊二氏の10年振りの新作小説が今作『番犬は庭を守る』だ。前作『ウォーレスの人魚』は石井竜也監督『ACRI』の映画の原作として書かれていたが、撮影にまでに終わらずに、その後映画とは違うエンターテイメントなSF要素のある小説として刊行された。『ウォーレスの人魚』はホモ・サピエンスとして進化した人類とは別に海で生活するように進化したホモ・アクエリアスとしての人魚を巡る物語だった。この作品においては進化というものが主軸に置かれている。だからタイトルにも「ウォーレス」の名がついている。

 岩井俊二といえばある世代にとっては『Love Letter』や『スワロウテイル』などの独自な映像美から「岩井美学」と呼ばれる映像作家であり、新しい編集やカメラを積極的に取り入れインターネットを使った創作をしていた映画監督でもある。のちにSalyuとなったリリイ・シュシュという架空の歌姫とネットのBBSを物語の主軸においた『リリイ・シュシュのすべて』ももう11年も前だ。この作品から市原隼人と蒼井優が世に出て行った。

 2000年代に入り、監督作は少なくプロデュース業の方で名を聞く事が多くなった。その間も岩井俊二は『あずみ』『宇宙戦艦ヤマト』『日本沈没』『火の鳥 完結編』などの映画化に向けて動いていたが、原作が薄れるほどのオリジナルな内容にしたりで、降板などをしていたと先日のトーク・イベントで語っていた。

 『番犬は庭を守る』は、もともと映画化にむかてミレニアムの前に書き始められた作品だった。チェルノブイリの事故から着想を得た、危険を感じた岩井俊二が書き始めたこの作品は映画化にならず、発表もされないままだった。そして去年の3月11日に東北大地震が起きて原発事故問題が起きた。岩井俊二は「書いていた」のに「危険性を知っていた」のに、原発事故問題が起きる前になぜ、この作品を世に出していなかったのだろうと思われたそうだ。今回の地震と原発以後に岩井氏は目に見える形でネットやドキュメンタリーを作り精力的に動き出した。自分たちにできることは何かと。

 そして、世に出されてなかった今作が小説として書き上げられた。作品自体はチェルノブイリの後に書き始められたものだったので、作中の登場人物や土地の名前などはどことなく旧ソ連やロシア的なものを感じる。

 第一章は主人公のウマソーの祖母の曾祖父であるイジュサムという鯨捕りの名人から始まる。クジラがかつて世界の燃料だった頃。イジュサムから始まり、やがてその血を継ぐウマソーが誕生する。プロローグでは、まだ世界は複雑化していない。そこから物語は始まる。これは「ペニス」を巡る物語で、これは男子としては笑えないものだ。しかもウマソーの「ペニス」は次第に失われていく、放射能汚染で大きくならない劣等感に加えて、彼に起きる出来事で存在そのものすらも...。ウマソーが辿り着いた職場の先は廃炉だった。彼はその追いやられた場所でそこに居場所を見出しながら物語はそこまでに出会った人やアクシデントと結びつきながら展開していく。

 「ペニス」を失っていく彼やいろんなものを失っていく人達がそれでも生きていくその世界で、生命は紡がれていくのか。どんな世界でもそれでも人は生きていく。たとえ過去から見れば救いようのない最悪な未来に見えても、そこで生きていく人達は喜び哀しみ与え奪いながら、人は人とかかわり合いながら生きていく。

 寓話のようにも思われる物語の中に潜んでいるのはチェルノブイリや福島原発という現実に起きた、起きている放射能問題とそれらにまつわる生殖や遺伝子に与える要因について。それらをエンターテイメントの中に昇華している。読みながらこのままではこのフィクションが本当に僕らのノンフィクションになってしまうのではないかと危惧が出てくる。僕らがこの先どう動いていくのか考えていかないといけないのか。

 どんな世界であっても、生まれてくる生命は逞しくその世界をダイブする。

 

(碇本学)

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AHK-toong BAY-bi Covered.jpg 1991年1月、夕方のニュース映像が今でも記憶に焼き付いている。いくつもの黄色や緑色の光が宙を舞っていた。仄かに浮かび上がる市街地の影と小さな光が交差した瞬間、白い閃光が夜空を照らす。多国籍軍のイラク空爆。湾岸戦争の開戦を伝える暗視カメラの映像だ。光の輪郭は滲み、音はなかった。「キレイだな」とは思わなかったけれども、「出来の悪いテレビゲームみたいだ」と思った。影絵のような建物の中には人々の暮らしがあって、この夜の向こう側には明日があるということが想像しづらい。エディットされたニュース映像、ハイテクが実践され始めた武力。そして、全世界を網羅するITはすでに用意されていた。90年代は、そんなふうに始まった。

 「90年代への準備はできているかい?」そんな問いかけに、いったい誰が答えることができただろう?

《笑気ガスへの準備は完了/僕は準備できている 次に起こることにも》

 ベルリンの「動物園駅(Zoo Station)」に降り立ったボノは、エフェクトで歪んだ声でそう答える。デビュー時のパンク/ポスト・パンクに影響を受けた鋭利なサウンドから、ブライアン・イーノとの邂逅を経て、アメリカのルーツ・ミュージックへと接近した80年代のU2。そして90年代の幕開けと共にリリースされたのが、この『AHK-toong BAY-bi Covered』のオリジナルとなった7thアルバム『アクトン・ベイビー』だ。その第一声は、たちの悪い冗談にしか聞こえなかった。

 アイルランド出身の彼らは、デビュー当初から武装組織 IRA(アイルランド共和軍)への反対姿勢を打ち出してきた。そして、アムネスティ・インターナショナルやグリーンピースへの支持を惜しむこともなかった。現在も一貫している生真面目な政治的メッセージ/活動は真摯だけれども時に暑苦しく、(特に日本では)「正義のバンド」というレッテルさえ貼られていた。なにしろ6thアルバムに付けられた邦題が『魂の叫び』だ。原題である『Rattle And Hum』は、騒がしさを表現する擬声語にすぎないのに。

 『アクトン・ベイビー』は、"そんなU2"が「大胆にもダンス・ミュージックに挑戦!」とか「ついにエレクトロニクスを導入!」とか、何かとサウンド面での大きな変化が話題になったアルバム。そのアプローチは『ズーロッパ』 『POP』へと引き継がれ、90年代のU2を象徴する『ダンス/テクノ3部作』として結実する?というのが一般的な評価。あるいは歴史的な事実。確かに『アクトン・ベイビー』でのサウンドの刷新は大胆だ。けれども、このアルバムの本質はテクノロジーやダンス・ビートを取り入れたという事実ではなく、そこに向けた視線にこそある。

 視線の先はダンス・フロアそのものではなく、その外側の世界。クラブを包み込む夜の闇であり、混沌とした未来へと向かう日常だ。踊るのには物足りない、ぎこちないビート。けれども、そのビートは人々の鼓動と共鳴する。もはや大声で叫ぶ理想はなく、宗教観さえも揺らいでいる。けれども、たくさんのラヴ・ソングがある。

 このカヴァー・アルバムはイギリスの音楽雑誌 Qマガジンが、オリジナル・アルバムのリリース20周年を記念して昨年の秋に企画/制作したもの。当初は雑誌の付録だったものが、チャリティ・アルバムとしてiTunes Music Storeで入手できるようになった(購入先アドレスは下記を参照)。1991年から2011年、そして2012年へ。一体何が変わり、何が変わらなかったのだろう? オープニングではナイン・インチ・ネイルズ名義のトレント・レズナーが、やはり《準備はできているさ》とうそぶく。まとわりつくようなノイズのヴェールで不安をかき立てながら。ようこそ、10年代の「Zoo Station」へ。

 U2と同じくアイルランドのダブリン出身であるシンガー・ソングライター、ダミアン・ライスは「One」をアコースティックでカヴァー。原曲のクオリティを考えると、引き算のアレンジに徹したのは正解だろう。ヴィム・ヴェンダースのフィルモグラフィーから忘れ去られている『夢の涯てまでも』の主題歌だった「Until The End Of The World」を歌うのはパティ・スミス。哀しげなピアノと少し不安定なヴォーカルは、場末のバーのシンガーみたいだ。U2と同世代のデペッシュ・モードは「So Cruel」をオリジナルのように鳴らす。名作『ヴァイオレーター』のリリースも90年だった。

 後半はスノウ・パトロール、ザ・フレイ、キラーズ、グラスヴェガスという"スタジアム級"を狙える若手/中堅バンドが並ぶ。中でもキラーズの「Ultra Violet (Light My Way)」とグラスヴェガスの「Acrobat」のカヴァーが素晴らしい。ピアノの弾き語りから一気に盛り上がるキラーズは、さながらクイーンとU2のハイブリッド。アルバムはラストへ向けて、さらに加速する。続くグラスヴェガスは原曲に忠実ながらも、よりラウドなアレンジで猛り狂う。そして、ラストはジャック・ホワイトがカヴァーする「Love Is Blindness」。オリジナルは、深く沈み込むようなモノトーンの曲調が印象的だった。それをジャックは燃え盛る情念で真っ赤に染め上げる。ホワイト・ストライプスの解散以降、ラカンターズにもデッド・ウェザーにもなかった凶暴なフィードバック・ノイズと喉が張り裂けるほどのスクリームが響き渡る。

 テクノロジーは日常に溶け込み、エモーションだけが残った。そして、今も同じ問いかけが聞こえる。「10年代への、未来への準備はできているかい?」僕たちは、いつだって準備不足だ。

 

(犬飼一郎)

 

iTunes Music Store 『(Ǎhk-to͝ong Bāy-Bi) Covered』

*アルバム1枚につき1055円が、世界各国で貧困に苦しむ人々を支援するチャリティー団体 Concernに寄付されます。(iTunesメモより抜粋)