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Kylie Minogue『Kiss Me Once- Live at the SSE Hydro』.jpeg.jpg

 カイリー・ミノーグって、日本ではどのように見られてるのだろう? 長年カイリーを追ってきたファンからすれば、今でもポップ・シーンの第一線で活躍するトップ・アーティストという認識なのは、言うまでもないだろう。ところが筆者の周りには、「I Should Be So Lucky」をヒットさせた、いわゆる一発屋的にカイリーを見ている人もいて、さすがにビックリ。確かに、マニック・ストリート・プリチャーズなどをプロデューサーに迎えた『Impossible Princess』(1997)期は、商業面で大きな成果を残せなかったがゆえに、お世辞にも常に目立っていたとは言えない。


 しかし、カイリーの創作に対する貪欲な姿勢、もっと言えば理想主義的な探求心は評価されてもいいはず。アルバムごとに旬のアーティストやプロデューサーを迎え、自らも積極的に曲作りをするなど、着実に深化と進化を果たしてきた。こうして自身の順応性と懐の深さを育んできたからこそ、ニック・ケイヴやロビー・ウィリアムスともデュエットでタイマン張れるほどの歌唱力を獲得できたのだ。それに、紆余曲折がありながらも、競争が激しいポップ・シーンで生きぬいてきた精神力も見逃せない。その精神力をカイリーは、神々しさという形でステージ上に現出させる。


 そんなカイリーの姿を観れるのが、本作『Kiss Me Once : Live at the SSE Hydro』だ。この作品は、2014年のグラスゴー公演をCD2枚+DVD1枚に収めたもの。「Can't Get You Out Of My Head」や「Slow」など、カイリーの代表曲がこれでもかと披露されるベスト・ヒットな選曲に、観客も大声援で応えているのが何とも微笑ましい。こうした光景を観ていると、カイリーは観客を蹂躙的に圧倒するよりも、観客に御輿を担いでもらって盛りあがるタイプのエンターテイナーであることがわかる。この点が、終始ストイックで緊張感を滲ませるマドンナのステージとは違うところで、どこか牧歌的な雰囲気も漂わせるカイリーのステージは、肩の力を抜いて楽しめるのだ。


 また、カイリーのステージはゲイ・カルチャーを多分に取りいれていることも特徴だが、それは今回のツアーでも健在。これは、カイリーの音楽を支持するファンのなかにゲイが多いことも関係しているのだろう。いわば、ゲイの人たちに向けたカイリーなりのリスペクトである。もちろん、年々増していくカイリーの妖艶さも楽しめる。同時に、どこか少女性を醸しているのも興味深いのだが、これは身長150センチ弱の小柄な体つきがそうさせるのか? それとも、これまで生きてきたなかで未だ汚れていない部分があるとでもいうのか...。まあ、そんなことはどうでもいい。まずは皆さんも、華々しいダンサブルなエレ・ポップ・ワールドを描くカイリーのステージに浸りましょう。イッツ・ショータイム!



(近藤真弥)

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MARK RONSON『Uptown Special』.jpg

 まず、普段使ってるオーディオ・システムで、さらっと聞いたら「うわあ、最高!」と思った。つづいて、寝室で使ってるボーズのスピーカーにiPodつないで深夜に聴いたら「ん? 旧作に比べて、ちょっと地味?」と感じた。そしてまたふりだしに戻って聴いてみると、うん...素晴らしく、いい感じ!


 上記の〝流れ〟は、一昨年にリリースされたダフト・パンクの最新アルバムを最初に聴いたときと、そっくり。でも、それより、もうちょっと若々しい気はするな。まあ、彼ら全員の実年齢がどうなのかは知らない(興味ない)けど。そして、今回「生演奏中心で、いわゆるエレクトロニック・ミュージック的な手法は重視されていない」という部分も両者に共通している。


 ぼくにとってマーク・ロンソンとは(00年代初頭に2メニーDS'sが先鞭をつけた)「カット/コピー文化」の、最もおいしい部分を獲得しつづけた男。まず名前がぼくの頭に残ったのは、DJとしてよりも、リリー・アレンおよびエイミー・ワインハウスのサウンド・プロデューサーとして、だった。それで聴いてみた彼のソロ・アルバムも、カヴァーと生演奏、歌とサンプリング・サウンドの混ざり具合が、とにかく痛いところをつきまくりだった。そして、ボブ・ディランの「初めての公式リミキサー」にまで起用されてしまったという事実は、どう考えても、やばいでしょう...。


 なぜ? エイミー・ワインハウス存命中の〝最新サウンド〟、そしてここ2、30年のディランの志向性は、パンクもロックンロール(という言葉たち)も飛びこえて、20世紀から21世紀初頭全体のポップ・ミュージックを(できる限り〝境界線〟をまたいで)ちょうどいい塩梅のスープ料理に変えるというマジカルなものだったから。


〝時代を超えようとしている〟やつら、ぼくは常に大好きだ!


 このニュー・アルバム、全体の感触としては、まだラップ・ミュージックと呼ばれていたころのオールドスクール・ヒップホップが、少しだけスムーズなノリを手に入れたころのそれに近い。ただし、80年代の普通のヒット・ポップス(プリンスあたりを除く)に比べれば、ずっと、はるかに骨太かつソウルフルだ。


 こんな流れゆえ、たとえば、1曲目とかに(ヴォーカルじゃなくて、ブルース・ハープのみで:笑)スティーヴィー・ワンダーが参加している(!)という情報も、あらゆる意味でネガティヴなものではなく、極めて気持ちよく作用する。


 話を冒頭に戻せば、ダフト・パンクのあれに比べて、小音量で聴いたときお洒落な感じがするってのは、やはりフランスのバンドとUK(やらNYやら?)をベースに活動する者の地域性もあるのだろうか? すでに英米では、なにやら大ヒットを記録しているらしい。早耳さんからしぶいもの好きまで、エヴリバディにお薦めです!



(伊藤英嗣)

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Jam City『Dream A Garden』.jpg

 マニック・ストリート・プリーチャーズもアルバム・タイトルに引用した、〈This Is My Truth Tell Me Yours〉というフレーズ。このフレーズを残したのは、イギリスの政治家アニューリン・ベヴァンという男。国営医療制度NHS(National Health Service)の設立に尽力したことで知られている。ウェールズ出身のベヴァンは炭鉱労働者家庭に生まれ、経済的に貧しい環境で育った。労働組合の奨学金で勉学に勤しむなど、いわゆる叩きあげというやつだ。こうした出自だからこそ、貧しい人たちへの同情からではなく、同じ苦しみや辛さを知る者として、無料で医療が受けられるNHSを強く支持したのだと思う。


 イギリスには、〝格差〟と戦ってきた長い歴史がある。たとえば、1842年に発行された、エドウィン・チャドウィックの『大英帝国における労働人口の衛生状態に関する報告書』。この本は、当時の社会的貧者たちにもたらされる疾病の一因に劣悪な生活環境を挙げているが、そうした長年の問題を解消するために、ベヴァンはNHS設立を目指し、実現させたのだ。そんなNHSは、歴史に残る輝かしい改革のひとつとして、多くの人に知られている。


 だが、いつの時代もその輝きに泥を塗る政治家が現れるものだ。それが、地方経済を破壊し失業者を増やしたマーガレット・サッチャーであり、NHSの民営化を進めたトニー・ブレアであり、生活保護などのさまざまな公的手当の削減/打ち切りを断行するデーヴィッド・キャメロンである。とはいえ、これらの者たちに対する反発で満ちたポップ・ミュージックを生みだしてきたのも、イギリスという国だ。サッチャー時代には、スタイル・カウンシルが〈君の力で状況を変えてやれ〉(「Walls Come Tumbling Down」)と歌ったし、トニー・ブレアの欺瞞が明らかになってきたときは、ザ・ストリーツが〈この先はつらい日々が始まる でもこうなるはずじゃなかった季節は終わった だからこれが本当の始まりなんだ〉(「Empty Cans」)と言葉を紡いだ。イギリスは常に、何かしらの問題が政治によってもたらされたとき、政治とは違う道程で問題と向きあう表現を生みだしてきた。それらの表現は希望への橋渡しとなり、たくさんの人に降りかかる灰色の景色に華を添えてくれた。


 さて、あまりにも多くの問題を抱えてしまったことで、ブロークン・ブリテンと呼ばれて久しい現在のイギリスにおいて、希望への橋渡しとなる表現はあるのか? もちろん答えはイエスだ。アメリカから入国拒否を受けた経験もあるイギリスの作家、グレアム・グリーンの小説と同名のパーク『The Power And The Glory』、さらには、ヘルス勤めの彼女とディーラーの彼氏を中心にした群像劇で、イギリスのハードな現況を浮かびあがらせたケイト・テンペスト『Everybody Down』もある。ここに、〈レヴォリューション!〉(「Donkey」)と叫ぶスリーフォード・モッズを加えてもいいだろう。ケイト・テンペスト『Everybody Down』のレヴューで筆者は、「『Everybody Down』は、果たして「本当の始まり」から生まれたのか? それとも10年前よりハードになっただけというシビアな現実を突きつけるのか?」と書いた。しかし、ハッキリ言ってしまおう。10年前よりハードになっただけだった。哀しいかな、それは避けられない現実として、私たちの前にそびえ立っている。


 イギリスのジャム・シティーことジャック・レイサムも、その現実の前に立ちすくむひとりだ。ジャックは、2012年のファースト・アルバム『Classical Curves』で、ダンス・ミュージック・シーンに無視できない衝撃をあたえた。UKガラージを下地に、ひとつひとつの音粒をインダストリアルな質感に変換し、マシーナリーなビートを刻んだ。もはや新しい音は生まれないという諦念まじりの前提が蔓延る現在にあって、『Classical Curves』は新鮮に鳴り響いた。以前本誌でカインドネスインタヴューした際、彼は「ジェイ・ポールとジャム・シティー。彼らは完全にオリジナルなものを作っている」と語ってくれたが、それは嘘じゃない。歪な音のパーツをランダムに組みあわせたかのような作風は、前例なきサウンドスケープであった。


 その『Classical Curves』を経て、ジャックは2枚目となるアルバム『Dream A Garden』を完成させた。まず、本作を聴いて耳に入ってくるのは、言葉だ。本作でジャックは、言葉で私たちに語りかける。この変化はヴィジュアル面にもおよび、たとえば本作から先行で公開された「Unhappy」のMVに自ら出演したジャックは、〈LOVE IS RESISTANCE〉〈CLASS WAR〉というフレーズが書かれたジャケットを身にまとっていた。つまり本作でジャックは、明確な反抗心をあらわにしているのだ。


 しかし、本作が闘争心剥きだしかといえば、そうとは言えない。確かに歌詞は、現在のイギリスと過度な消費主義に対する疑問が顕在化した言葉であふれている。しかし、甘美でほのかにサイケデリックなサウンドスケープは、力強い握りこぶしではなく、現在に生きることの憂鬱を表現している。幽玄な音像とファンクの要素が印象的な「Today」、コクトー・ツインズに通じるギター・サウンドとゴシックな雰囲気を漂わせる「Unhappy」など、曲によって際立つ要素が違う本作だが、憂鬱さという点は全曲に共通している。こうした作風は、どこか生きることに疲れてしまったような印象を聴き手にあたえるかもしれない。


 その疲労感は、さまざまな要因によってもたらされたと思う。たとえば、現在ジャム・シティーのHPは、アクセスすると大量のバナーが飛びだしてくるという若干シニカルな仕様になっているが、これはもしかすると、嘘も事実もごっちゃになった膨大な量の情報を浴びせてくる現在へ向けた暗喩かもしれない。他にも興味深いヒントはいくつもあるが、聴き手の探す楽しみを奪いたくはないので、ここでは口をつぐんでおく。だが、ひとつ言えるのは、本作でのジャックは内省的だということ。無闇やたらと〝消費主義反対!〟みたいに叫ぶのではなく、自分がその消費主義に加担した生き方をしているのでは? という聡明な自省。こうした地点から本作の言葉はスタートしている。


 本作でジャックが、明確にダンスフロアからインディー寄りの方向性を打ちだしたことで、ジャム・シティーの音楽はより幅広い層に聴かれることになると思う。いわゆる本作は〝歌ものアルバム〟で、ダンスフロアよりもライヴハウスが似合う内容だからだ。とはいっても、言葉がないダンス・ミュージックを作っていたアーティストが、歌を取り入れるということは全然珍しくない。それでも、これまで自身の作品ではほとんど言葉を用いなかったジャックが、その言葉を多分に用いて本作を完成させたということは、決して見逃してはならない重要な点だと思う。多分に言葉を引きださせるほど、ブロークン・ブリテンなイギリスは切羽詰まった状況とも言えるのだから。このことに私たちは注意を向け、本作のメッセージを読みとる必要があるのではないか? ここまで「私たち」と書いてきたのは、本作に込められたメッセージが、イギリスに住む人にだけあてはまるものではないからだ。



(近藤真弥)

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Helena Hauff『A Tape』.jpeg.jpg

 ドイツのダンス・ミュージックといえば、ベルリンのテクノ・レーベルOstgut-Ton(オストグットトン)、あるいはザ・フィールドギー・ボラットなどの作品をリリースし、インディー・ロック・ファンにも知られているKompakt (コンパクト)が有名かもしれない。


 だが、ドイツのダンス・ミュージックを語るうえでは、ハンブルクも見逃してはいけない。ハンブルクは、ディープ・ハウスを中心に取り扱うSmallville(スモールヴィル)といった良質なレーベルがあり、さらにはそのレーベルを主宰するローレンスや、ニュー・エレクトロ・ブームを代表するユニット、デジタリズムの出身地でもある。要はハンブルクにも、追いかけて損はない音楽シーンがあるということ。


 こうしたハンブルクの豊穣な音楽シーンは、ヘレナ・ハウフという新たな才女を私たちにもたらしてくれた。ヘレナは、ハンブルクにあるThe Golden Pudel(ザ・ゴールデン・プードル)というクラブでDJのキャリアを重ねることで、頭角を表したアーティスト。トラック制作でも、「Actio Reactio」「Shatter Cone」など、興味深いシングルを残している。これらの作品は、レコード・ショップではテクノ・コーナーに置かれていることが多い。しかし、ヘレナの音楽はテクノだけでなく、EBM、インダストリアル、ドローン、エレクトロ(一応言っておくと、ジャスティスじゃないほうのエレクトロ)、そしてアシッドの要素も混在しており、ひとつのタグで括るのは大変難しい。また、EBMの要素は他の要素と比べても色濃く表れており、そう考えるとヘレナの音楽は、テクノというよりポスト・パンクと呼んだほうがしっくりくるかもしれない。ヘレナ自身も、ファクトリー・フロア「How You Say」のリミックスを手掛けたりと、DFA以降のポスト・パンク勢と交流している。


 そんなヘレナが作りあげた初のフルレングス作品、それが本作『A Tape』だ。内容は先に書いたEBM、インダストリアル、ドローン、エレクトロの要素が見られるものだが、これまでの作品群とは違い、ドライな音像がより際立っている。そこにアシッディーなサウンドと、お得意のEBMに通じるマシーナリーなビートが交わることで、妖艶かつドロッとした雰囲気が創出されている。まったく踊れないわけではないが、無闇にアゲていくわけでもないグルーヴは、終始〝冷〟と〝熱〟の間を突きすすんでいく。その様はおどろおどろしくもあるが、聴き手を興奮させる緊張感もまとっている。


 そうした本作は、何かしらの潮流なりジャンルに当てはまるものではない。そういった意味では孤高とも言える作品だ。それでも強いて言えば、Modern Love(モダン・ラヴ)などが旗頭となったインダストリアル再評価、過去のニュー・ウェイヴ/ポスト・パンク作品を積極的にリイシューしつづけるMinimal Wave(ミニマル・ウェイヴ)が発端となったカルト・ニュー・ウェイヴの流れ、そして、L.I.E.S.(ライズ)以降のロウ・ハウスといった、近年の面白い潮流がいくつも集った鵺のような音、ということになるだろうか。



(近藤真弥)



【編集部注】『A Tape』はカセット・リリースのみです。

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 80年代末から90年代初頭、イギリスで勃発したマッドチェスターのバカ騒ぎは日本に住む10代の僕にもしっかり届いていた。ただし、アシッド成分ゼロでね。インターネットが普及するのはまだ先の話。それでも、音楽雑誌をくまなくチェックしたり、レコード店に並ぶ最新のアルバムや12インチを買い漁っていたから、それほど時差を感じることもなく「僕らの時代がやってきた!」と鼻息を荒らげていた。


 ワイワイと先頭で踊っていたのは、ハッピー・マンデーズとストーン・ローゼズ。そしてインスパイラル・カーペッツがそれに続いた。その後ろにいるのはノースサイド? スープ・ドラゴンズ? それともモック・タートルズ? いや、〝インスパイラル・ローゼズ〟ことシャーラタンズかな?


 インスパイラル・カーペッツのハモンドとローゼズのメロウネス、そのふたつのいいとこ取りだなんて揶揄されていたシャーラタンズ。そんな彼らだけがこうして25年後もしっかり活動を続けてるって、あのとき誰が想像できただろう? 


 前作『Who We Touch』から約4年、12作目となるシャーラタンズの新譜『Modern Nature』を聴きながらそんなことを思っている。96年にはサウンドのキーマンだったロブ・コリンズを交通事故で失い、今作の本格的なレコーディング直前の13年8月にはドラマーのジョン・ブルックスが脳腫瘍で亡くなってしまった。それも〝あの頃〟には誰も想像できなかったことだとしても...。


 シャーラタンズは元々、音楽のために集まったメンバーで結成されたバンドだ。ローゼズやマンデーズのように地元の幼なじみがつるんでいるうちに結成されたわけじゃない。どっちが良いとか悪いとかではなく、単に始まり方が違ったのだ。ベーシストのマーティン・ブラントはネオ・モッズ・バンド、メイキン・タイムですでにキャリアをスタートさせていたし、ティム・バージェスはローカル・バンドのシンガーだった。彼らには、まず音楽があった。


 友情やお互いの信頼は、その少し後に確かなものになったのだろう。停滞だの解散だのを逃れることができたのも、彼らの中心には常に音楽があったから。それも、〝シャーラタンズでなければならない音楽〟があったから。そんな憶測もあながち的外れではないはず。だからこそ、彼らは幾度もの危機を乗り越えることができたのだと思う。


 いま、浜辺を歩く男たちは4人になってしまったけれど、穏やかな波にきらめく陽射しはやさしく、あたたかい。『Modern Nature』には、そんな音楽が目一杯つまっている。「The Only One I Know」と「One To Another」の骨太なグルーヴ、「North Country Boy」の素直さ、そして「Weirdo」の妖しさ。様々なフェイズのサウンドが次々に現れる。


 ジョン・ブルックスの後任はまだ決まっていない。今作には、ニュー・オーダーのスティーヴン・モリス(2曲)、ファクトリー・フロアのガブリエル・ガーンジー(3曲)、そしてジョンの容態が悪化してから度々サポートを務めたザ・ヴァーヴのピーター・ソールズベリー(5曲)がドラマーとして参加。マッドチェスターから90年代のブリット・ポップ、そしてデジタルにより音楽の在り方が大きく変化した00年代以降も、シャーラタンズがファンに愛され続けてきたことはもちろん、常に同時代のミュージシャンたちからも慕われていたことがうかがわれる人選だ。


 クールなカッティング・ギターとソウルフルなバック・コーラスが印象的な「Let The Good Times Be Never Ending」が今作のハイライトだと思う。長めのアウトロで鳴り響くグルーヴィーなハモンドに寄り添うホーンの響きが最高にカッコいい。そのトロンボーンを奏でるのは、デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズのジム・パターソン。70年代末、ポスト・パンクの時代にパンクとノーザン・ソウルの融合を標榜していたデキシーズのメンバーが参加することは、スウィートでソウルフルな今作には必然であり、シャーラタンズのルーツを深く知るきっかけにもなるだろう。


 「この素晴らしい時間がずっと続くように」。シャーラタンズはそう歌い、僕たちを踊らせることによって、メンバーを失ったばかりの悲しみも長いキャリアからの重圧も軽やかに反転させてみせる。


 気がつけば、マッドチェスターのバンドどころかハモンド(電子オルガン)・サウンドとしてみんながすぐにピンとくるドアーズよりも数多くのアルバムをリリースし、ストラングラーズみたいにメンバー間のゴタゴタもなくここまで来た。決して万全の態勢ではないとはいえ、この『Modern Nature』はシャーラタンズの最高傑作だと思う。初期から彼らを追い続けてきた人にも、ここしばらくはちょっと離れていた人にも、「シャーラタンズって誰?」って言う世代にもきっと響くはずだ。



(犬飼一郎)


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 たとえば椎名林檎と東京事変が好きで、その音楽を真に聴きこんだらシックやマーヴィン・ゲイのステージが目の前に現れるかもしれない。Number Girl(ナンバー・ガール)やZAZEN BOYS(ザゼン・ボーイズ)なら、80年代から90年代にかけてのグランジやソウル、ヒップホップのエネルギーを体感できるかもしれない。近年のミュージシャンは洋楽を聴かない、ルーツ・ミュージックを参照しない、J-POPのガラパゴス化、とよく言われるが、たとえピクシーズやニルヴァーナを愛聴していても、その音楽が持つエモーションを真に理解できなければ意味がない。何が言いたいかって、椎名林檎やNumber Girlをフェイヴァリットに挙げるギター・バンドtricot(トリコ)の音楽が、今やNMEを始め世界中のメディアで話題になっている。おまけに彼女らはピクシーズのサポート・アクトさえ務めてしまったのだから驚きだ。


 直球エモーショナルなようで、その奥に深い孤独を感じさせるヴォーカルは、椎名林檎や彼女と交流が深い宇多田ヒカルを連想させる。ジャジーかつ変拍子を多用した演奏には、轟音でごまかした部分は一切無い。手数を少なく、必要最小限のコードで押す、効果的な場所で必要なフレーズを弾く。3人で工夫して糸を紡いだ手編み物(tricot)のようだ。本作『A N D』には5人のサポート・ドラマーが参加、彼らの個性に影響されてメンバー3人の演奏の幅も広がったという。FacebookやUSTREAMなどを有効活用してプロモーションする彼女らの本作、その先行MV曲「E」の歌詞がSNSハッキングについて、というのも洒落が効いている。言葉のリズムを重視した歌詞は、個人的な状況を歌っているようで、年齢性別を問わずに引き込んでしまう魅力がある。「色の無い水槽」はmudy on the昨晩を思わせる爆裂イントロから始まり、それぞれのペースで絡みあう3つの楽器をヴォーカルが強引に牽引する。相対性理論のようなウィスパー・ヴォーカルの「神戸ナンバー」は、一定のリズムの繰り返しをコード・チェンジで引っ張っていく。サンバのリズムから発想を広げたという「庭」は、Qomolangma Tomato(チョモランマ・トマト)のようなラップ調のヴォーカル、ユーモラスな語り口で、日常の些細なトラブルへの言及からしだいにシリアスな核心へ向かい、唐突に演奏は途切れる。


 さまざまな要素を貪欲に取りこみ、自らのものとして昇華する彼女たちの音楽が他と一線を画すのは、雑多なようでメロディーや演奏のバックボーンがしっかりしていて、最終的に普遍的なエモーションに着地するからだ。言語を越えて伝わるそのイメージが、世界を席巻していく。



(森豊和)

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Noel_Chasing Yesterday.jpg

 2、3年前から、とくにエレクトロニック・ポップ系の音楽で(いや、そうでもないか? ザ・1975とかからも、そんな印象を受けたから)「明るいとも暗いともいえない、ムーディーな...英語では『ちょっと憂鬱』というイメージがある音楽を好きになる」傾向が、自分にはあった。その理由は未だに理論化できていないものの、このアルバムを聴いて(脊椎反射的にではなくて、とても深いレベルで)なるほど! と納得してしまった。そうか、これだったのか、おれの求めていたものは! と......。


 一応バンド名義とはいえ、ソロ第一作目にあたる前作では、まだちょっと暗さが勝っていたような気がする。ここでは、それらのバランスが、もう最高の状態でミックスされている。暗さと明るさを止揚したとか、そんな実存主義(用語)上の問題ではなく、どっちかといえばどろっとした(人間誰でもそうだけど、とりあえずノエル兄貴の)内面が「とにかくさあ、もう、やっちゃうしかねえんじゃね(笑)?」的勢いに押され、決してヘヴィーすぎない形で「パッケージ化」されている。つまり、よりポップになった。


 決してレイドバックしていない渋さと、本当にダサいひとからみればお洒落とかいわれてしまいそうなスマートさが、類い稀なるパワーを秘めたギター・ロックに同居しているさまは...そうだな、なにか例を挙げるなら、シャックに通じるといえるかもしれない。


 オアシス......というかノエルが、かつて自分(ら)が主宰するレーベルから彼らのアルバムを出してたこと、比較的年期の入った音楽ファンなら、憶えてる......かな?


 かつてリヴァプールでペイル・ファウンテインズというポスト・パンク・グループをやっていた、マイケル・ヘッド率いるバンド。日本では(彼らが解散してから)流行ったネオ・アコースティックという用語からの関連で、ファースト・アルバムのほうを名盤に挙げるひとが多かったけれど、モダン・ガレージ・ロックの権化たるセカンドも素晴らしかった。シャックになってからは(いわゆる「二度目の愛の夏」の末期に)突然もろデジタルなリズムを導入したダンス・ミュージック・シングルを出したりで、音楽性の幅をさらに拡げていた。マイケル・ヘッドとノエル・ギャラガーでは知名度が違いすぎるのかもしれないけれど、どこか...すごく直接的な例を挙げてしまえば、アルバムの途中で聞こえるホーン・セクションっぽい音とか、近いものを感じる。


 実は、このアルバム・タイトルを見て、少し心配になってしまった。ちょっと聞き...ではなく「聴き」はじめるのが、はばかられるくらいに......。なんで? とうとう兄貴まで、こんなスタンスになってしまったの? まじで悲しい、と......。


 しかし、ロッキング・オン誌最新号(5月号)掲載のインタヴュー記事を読んで、かなり安心...というより、さすが! と思ってしまった。その取材を担当した西洋のジャーナリストも、やはり、そこが最も気になったんだろう。結構しょっぱなに訊いている(ちなみに、自分がもうひとつ気になったことは最後のほうで尋ねている。こいつ...インタヴューうまいな...というより、ほぼ同世代? なのかもね。エイジアというバンドの80年代初頭に流行った曲のタイトルとのシンクロに関することも訊いてたから:笑)。


 どうやら、このフレーズは、収録曲「While The Song Remain The Same」の一節からピックアップされているらしい。そこで歌われているのは〈We let love lost in anger chasing yesterday(昨日を追いかけることで、怒りのなか、愛を見失ってしまう(=前に進むんだ)〉。


 だから、その曲名が、ぼくがどうも苦手なバンド(とはいっても、90年代に買った、全オリジナル・アルバムのCDボックス・セットはまだ持ってる。いつか好きになるかも......。また聴いてみます:笑)のアルバムの名前だっけ? に似てるという事実は完全無視して、記憶のなかでは決して消えないであろう、このアルバムに入っている素晴らしい曲たちがまだ流れているうち、10回近く何度もプレイしつづけているうちに、これを書いた。


 ぼくは言う。今年最初の「必聴盤」!



(伊藤英嗣)


【編集部補足】

 カヴァー・アートは「15曲(5曲のボーナス・トラック入り。iTunesでも、まだ現時点では買えます)入りヴァージョン」のほうにしておきました。よくある「無駄なボートラ」なんかじゃ全然なく、そっちのほうが、よりポップに聞こえるから。ラス前が「In The Heat Of The Moment」のダンス寄りミックスってのが、クラブでかけるかも? という自分にはありがたいし、ラスト曲のタイトルが、また最高。「Leave My Guitar Alone(おれのギター? ほっといてくれ!)」。まあ、ノエルのプレイが下手とは全然思わない。そりゃ、ジミー・ペイジには負けるのかも、だけど? これ以上の言及は......伊藤はツェッペリンの熱心な聴き手じゃないし、無理(笑)。

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シャムキャッツ「TAKE CARE」.jpg

 3月10日にNHKで放送された、ドラマ『LIVE! LOVE! SING!』を観た。このドラマは、2011年に起きた東日本大震災の〝その後〟を描いている。4人の若者とひとりの教師が福島を目指すというストーリーで、話が進むにつれて、それぞれが持つ東日本大震災に対する距離感をあぶり出していく興味深い内容だ。また、このドラマには、〝みんなひとつになろう!〟みたいなわかりやすいスローガンが一切出てこない。そのかわり、東日本大震災以降の日本にまとわりつく複雑さをそのまま表現している。さらに「GIGつもり(脚本を務めた一色伸幸によると、本来は〝ギグつもり〟だったそうだが)」や、阪神・淡路大震災をキッカケに生まれた「しあわせ運べるように」など、音楽が重要な役割を担っているのも特徴だ。この特徴は言ってしまえば、東日本大震災以降の日本において、表現ができることのひとつを示していた。そのひとつとはおそらく、先に書いた〝それぞれが持つ距離感〟の間に橋を架け、〝それぞれ〟を繋げることなのではないだろうか? そんな可能性を表現に見いだすドラマだと、筆者は感じた。


 このドラマを観たあと、筆者の頭に思い浮かんだのがシャムキャッツだった。彼らも、〝いま、表現にできること〟と向きあうバンドだからだ。こうした姿勢が明確になったのは、2014年リリースのシングル「MODELS」だろう。このシングルに収められた「象さん」では、〈あの地震後浦安は 人が寄り付かぬ土地になり〉〈放射能浴びまくり 代々巨大化を繰り返し〉と歌い、「どッちでもE」では、〈右でも左でも 嘘でも本当でも 僕はどッちでもE〉と歌った。それはいわば、東日本大震災以降の現在に対する想像を試みることだったと思う。その試みを聴き手に披露したのちにリリースされたアルバム『AFTER HOURS』も、タイトルが示すように、彼らなりの"その後"を鳴らした作品だった。さまざまな登場人物が送る生活を鮮やかに描いていく言葉と音は、さながら映画的であった。「象さん」や「どっちでもE」のように直接的な言葉はなかったが、日常とされる風景を切りとったその作風は、殺伐とした現実を否応にも意識させるものであった。時としてフィクションは、事実よりも鋭く真実を指さしてくれるのだ。


 そんな『AFTER HOURS』を経て、彼らは新たな作品を発表した。それが、本作「TAKE CARE」である。本作は全5曲入りのミニ・アルバム。『AFTER HOURS』で顕著だった、ネオ・アコースティックを想起させる繊細で軽やかなサウンドが深化した形で鳴っている。ひとつひとつの音が柔らかく、優しい。そうしたサウンドに呼応するかのように、夏目知幸(ヴォーカル/ギター)の歌声も慈しみを醸している。


 歌詞のほうも、『AFTER HOURS』の路線を受け継いだ、日常の風景を切りとった言葉が多い。〈です〉〈ます〉のような敬体の文末表現が見られる「CHOKE」はどうしても松本隆を想起してしまうが、「GIRL AT THE BUS STOP」や「KISS」などは、シャムキャッツらしい青春的な詩情を漂わせる。甘酸っぱくて、ほんの少しドラマチックな、いわゆるモラトリアム。


 しかし本作には、そのモラトリアムに溺れることを許さないシビアな視点も紛れこんでいる。たとえば、本作のラストを飾る「PM 5:00」で登場する一節。


〈どうしてここにいたいのか たまにわからなくなるのさ 川沿い遮るものもなく西陽が照りつける あの電車に乗らなくちゃ〉(「PM 5:00」


 ここにいたい気持ちが心の片隅にありながらも、自分を〝ここ〟から連れだすであろう〝電車〟に乗らなければいけないこともわかっている。こうした複雑な心情を抱える者たちが、本作の主人公だということを「PM 5:00」は示唆している。そう考えると本作は、現実から目を背けた柔な作品ではなく、むしろハードな現実と向きあうための力強さを持った作品だと言える。


 どうして彼らは、「象さん」や「どっちでもE」から、「TAKE CARE」の境地にたどり着くことができたのか? それはおそらく、彼らが他者の想像力を信じているからだ。ゆえに、わざわざ〝現実と向きあえ!〟と直接的に叫ぶような真似はしない。現実がクソだということは、多くの人がすでに知っているのだから。おそらく彼らも、〝それぞれが持つ距離感〟に想像を巡らせる道を選んだのだ。それは、「TAKE CARE」の特設サイトが、アクセスする時間帯によって背景が変わることにも表れていると思う。つまり、それぞれの生活があり、それぞれの時間と場所があるということ。


 そんな彼らの姿勢が見える本作は、他者に対する絶望からではなく、他者に対する信頼から始まった表現である。



(近藤真弥)

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Mumdance & Logos『Proto』.jpg

 去年ミュージック・マガジンにて、アルバム『Friendly Bacteria』リリースのタイミングでミスター・スクラフにインタヴューする機会に恵まれた。ミスター・スクラフといえば、Ninja Tune(ニンジャ・チューン)などから良質な作品を発表しつづけているイギリスのベテラン・アーティスト。80年代からDJ活動をしており、長年ダンス・ミュージック・シーンを見つめてきた人物。そんな彼にインタヴューできるということで、筆者はダブステップ以降のベース・ミュージックについて訊いてみたのだが、返答のなかに〝なるほどな〟と思える話があった。それは次のようなもの。


「最近のベース・ミュージックは、シカゴ・ハウスやアシッド・ハウスの影響を強く受けている」


 このことを筆者が強く感じたのは、アレックス・ディーモンズという男が、2013年に発表した「Through」を聴いたときだった。この曲は、アレックスのシングル「East London Club Trax Volume 3」(2013)に収められたもので、シカゴ・ハウスに通じるリムショットの連打とざらついたハイハットの音が印象的。Night Slugs(ナイト・スラッグス)を主宰するボク・ボクがResident Advisorに提供したミックスでも使用していたから、このミックスを介して初めて聴いたという人もいるだろう。他には、マーティンが去年発表したアルバム『The Air Between Words』も、昨今のベース・ミュージックとシカゴ・ハウスの蜜月関係を象徴する作品だといえる。


 そうした流れは、マムダンス&ロゴスのファースト・アルバム『Proto』にも反映されていると思う。それは、「Legion」や「Move Your Body」といった曲で顕著に表れている。とはいえ、このアルバムにはシカゴ・ハウスやベース・ミュージックだけではない、たくさんのスタイルが詰めこまれている。「Dance Energy (89 Mix)」は90年代初頭のレイヴ・ミュージックを連想させ(一瞬ジョイ・ベルトラム「Energy Flash」も連想したが)、さらに「Border Drone」ではフリープ・テクノが見え隠れするなど、いわゆるテクノ色も強い。マムダンスとロゴスは、イギリスのベース・ミュージック・シーンで名をあげたトラック・メイカーだが、ロゴスは2013年発表のアルバム『Cold Mission』でもテクノを多分に取りいれたサウンドを鳴らしていた。このことをふまえると、『Proto』はロゴスの嗜好が多く反映された作品と言えるかもしれない。ひんやりとしたマシーナリーなサウンドスケープという『Proto』の特徴も、『Cold Mission』を想起させる。


 また、ひとつひとつの音が攻撃的でハードに鳴り響くのも、『Proto』面白いところだ。たとえば、ハビッツ・オブ・ヘイトはシングル「Habits Of Hate」で、インダストリアル・テクノとベース・ミュージックを接合してみせたが、この試みに近いことが『Proto』でもおこなわれている。ただ、マムダンスとロゴスの場合、それがインダストリアル・テクノではなくハードコア・テクノのように聞こえるのが面白い。




(近藤真弥)



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 まずは、いくつかアルバムを挙げていく。セックス・ピストルズ『Never Mind The Bollocks』、ザ・クラッシュ『The Clash』、ジーザス・アンド・メリーチェイン『Psychocandy』、マニック・ストリート・プリチャーズ 『Generation Terrorists』、スリーター・キニー『Sleater-Kinney』、スーパーカー『スリーアウトチェンジ』、アークティック・モンキーズ『Whatever People Say I Am, That's What I'm Not』、ケイジャン・ダンス・パーティー『The Colourful Life』...といったところで、やめておこう。他にも挙げたい作品はたくさんあるが、きりがない。


 さて、いま挙げた作品群に共通するのは、〝初期衝動が詰まったアルバム〟ということだ。粗もなくはないが、世代を越えて響くであろう瑞々しさをこれでもかと放つアルバム。そのような作品は、いつでも作れるわけではない。タイミングと少しばかりの運が交差しなければ、聴き手の前に現れることはない。しかし、だからこそ、いつの時代も〝初期衝動が詰まったアルバム〟は人の心を揺さぶり、〝その時〟にしか残せない音が克明に記録されているという意味でも重要でありつづけている。


 バルセロナのモーンによる本作『Mourn』は、そんな〝初期衝動が詰まったアルバム〟である。本作がデビュー・アルバムとなるモーンは、ジャズ(ヴォーカル/ギター)、カーラ(ヴォーカル/ギター)、レイア(ベース)、アントニオ(ドラム)の4人組バンド。全員が10代で、最年少のレイアは現在15歳。これだけでも十分興味深かったが、その興味は「Otitis」のMVを観てさらに増してしまった。ラモーンズのTシャツに目が行きつつも、ピュアでまっすぐな音をかき鳴らす少年少女たちの姿に、文字通りノックアウトされてしまったのだ。


 正直、演奏が上手いと言えば嘘になってしまう。「You Don't Know Me」に出てくる、《私のことをベイビーって呼ぶから 私はファック・ユーと答えた》という一節が示すように、歌詞も青臭さを漂わせる。とはいえ、ラモーンズ、PJハーヴェイ、パティ・スミス、セバドー、スリター・キニーなどから影響を受けたという音楽性はセンスに満ちており、そのセンスがすべてをOKにしてしまっている。それに、一聴すれば耳に残るメロディーも秀逸だ。


 もしかすると、本稿を読んでいる人のなかには、モーンをハイプだと見ている者もいるだろう。だが、「Misery Factory」に登場する、《私たちは立ちあがらなければならない 目を眩まされた人たちのためにも》という一節は、〝若造〟の一言で一笑に付すことはできない鋭さを持っている。しかもなにより、アルバム自体が焦燥と怒りを醸しながらも、確かな煌めきを放っている。そして、その煌めきは、あなたの一生を変える20分でもある。



(近藤真弥)