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SEIHO.jpg 音楽を聴くにあたって、孤独感はつきものだ。スピーカー、またはヘッドフォン、形はどうあれ、音楽と向きあうときは自分しか存在しない。ライブのように、目の前に演奏者が居てもそう。たいして変わらない。演奏者はともかく、そこでも聴き手は、音楽と向きあうことになるからだ。

 それでも想像力を駆使し、その音楽に少しでも近づこうとする者もいる。なにを隠そう筆者がそのひとりだ。こうして言葉を紡いでいるのも、対象となる音楽に少しでも近づきたいからだ。しかし悲しいかな、頑張ってその音楽の実態を掴んでも、手からするりと抜けおちてしまう。こうした"断絶"は、ある種の呪縛みたいなもので、送り手がどんなにオープンな音楽を鳴らしても解消されないものである・・・はずだった。

 去年スタートした、関西を拠点に活動するレーベル《Day Tripper Records》の第一弾アルバム『Mercury』。"水星"を意味するタイトルがつけられた本作には、"音楽を聴く"にあたって遭遇するはずの"断絶"がない。LA音楽シーンに通じるビートやグルーヴは"ポスト・ダブステップ"なんて言われるかもしれないけど、そんな便宜的フレーズでは捉えられない"ナニカ"が、確実に存在する。初期LFOに温もりを与えたような音、トリップホップと呼ばれた音楽を想起させるプロダクション、そして、もっとも重要な要素のひとつと言えるジャズ。様々なジャンルを横断し接合する音楽性は、まさに"今"ならではだろう・・・といった文は腐るほど見てきたし、そういう音楽はもはや当たりまえになりつつある。だが、こうした状況でも"その他大勢"に収まらない強烈な存在感を、『Mercury』は放っている。

 この存在感の正体が知りたくて、筆者は本作を何度もリピートしたが、ある事実に気づき、ひとつの結論に達した。それは、いろんな音楽を取りいれる過程で生じる"編集的意識"が皆無であり、このことが、本作の強烈な存在感に繋がっているのかもしれないと。何かを捨て、何かを得るといった摂理が本作にはない。この"編集的意識"は"暗黙知"と言いかえることも可能だが、その"暗黙知"がない本作は、文字通りすべての音を歓迎している。

 冒頭の話に戻るが、"音楽を聴く"という行為は変わりつつあると思う。例えば、ユーストリームでライブを観ているとき。基本的に画面と向きあう聴き手はひとりだし、その状況自体は孤独だ。しかし、表示される視聴者数やコメントによって、心は孤独ではなくなっている。もちろんそこで感じる繋がりは幻想で、目に見えないものではある。だが、その幻想に親近感を抱く聴き手が現れはじめていると思う。強いて言うなら、"ソフトな繋がり"と呼べるものだ。

 そして本作は、"ソフトな繋がり"が音楽として表現されている。そういう意味で本作は、"今"でもあり"未来"でもある。

 

(近藤真弥)

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SACHAL STUDIOS ORCHESTRA.jpg 故・武満徹氏が「難波田史男を、「画家」という、もう既に充分手垢にまみれた呼称で言うことに、少なからず(私は)抵抗を覚える」と記し、「彼によって描かれたものたちは、自然の優雅な起居、すなわち生命の運動の微細な要素にまで、還元された、星の瞬きとか、陽炎が揺れ動く不可視のつぶやき、水面の燦きのように、歓びと哀しみに打ち震えている」という言葉まで敷衍したときに、私的に想い出すのは葬送歌としての一役割を担っていたニューオリンズ・ジャズ、反抗としてのボサ・ノーヴァの二つの音楽「体系」と「側道」だったりもする。

 「体系の側道」としてのアルバム。

 1曲目のデーヴ・ブルーバック(Dave Brubeck)とポール・デスモンド(Paul Desmond)の言わずもがなのジャズ・クラシックである4分の5拍子の「Take Five」からタブラーの軽快な響きとシタールの絡みが蠱惑的に囲い込む、怪しげなダンス・ホールに迷い込んだようなアレンジメントに驚かされる。間には、スパニッシュ・ギターが午睡ではなく、「舞踏」へのムードを高め、豪奢なストリングスの5拍子が静かに枠の外へと音符をはみ出させる。インプロヴィゼーションのような"ブレーキの遊び"を含みながらも、間延びしない展開で歪な音空間に"5つのテイク(Take Five)"があっという間に消える。

 さて、気になるのは、このサッチャル・スチューディオズ・オーケストラ(Sachal Studios Orchestra)とは何なのか、ということだろう。また、この作品『Sachal Jazz』とは「オーケストラ」と「ジャズ」というタームが並列するとおり、一筋縄ではいかないものであるのは察することが出来るだろう。サッチャル・ジャズ―それ自体はパキスタン北東部とインドの国境に近いバンジャーヴ州の都ラホールにスタジオを持つ音楽制作会社〈サッチャル・ミュージック〉の(2011年になるが)ブランニュー・リリース作品である。〈サッチャル・ミュージック〉の名前自体は何処かで見た人も多いだろう、イヴェントからライヴ、アーティストのディグから幅広く行ない、その界隈の音楽を盛り上げてきており、その生々しい音に拘ったプロデュース・ワーク、ライヴ映像を見ても、そこに電子音の介在があまり感じないように、今回のサッチャル・スチューディオズ・オーケストラも総勢40数名で成り立っているが、20人を越えるヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、そして、シタール、ピアノ、ギター、タブラー、エレキ・ベース、パーカッションなど、イザッド・マジード(Izzat Majeed)、ムシュタク・スーフィー(Muthtaq Soofi)という二人の総合プロデューサーを軸に成り立っているオーケストラである。そのオーケストラが過去の古典を今の温度で奏で直してみようというオルタナティヴな試みがこの作品になり、如何にもなシタール、タブラーの音の連鎖からはチルアウト、アンビエント、もしくはイージー・リスニングとして消費され、尚且つ、そういった民族雑貨店のエキゾチズムBGMに似合うようなスタイリッシュな異国情緒を弁えている品の良さが目立つところもないではない。

 2曲目のジョビンの「Desafinado」の変奏もいいが、個人的には3曲目のデイヴ・クルーシン(Dave Grusin)の「Moutain Dance(Raga)」の即興性とトランシーさの内側に人力でグルーヴを高めてゆくような曲にこそ真髄が見える。エレクトリック・マイルス時期のサウンド、ROVO、DCPRGかというような、絶妙に原曲を脱構築して、5分にも満たないにも関わらず延々と続く連続/非連続の断裂を繋ぐうねりが心地好い。4曲目と8曲目に入っている「Garota De Ipanema(イパネマの娘)」は前者がオーセンティックにギター、アコーディオン、通奏にオーケストラを置き、後者は聴く人が聴けば、ポスト・パンク、〈DFA〉界隈の音が持っていたようなダンサブルな要素に即興的にラーガに準拠したリズムはインド音楽の持つ優雅にバイタルな音の狂気性を感じるだろう。

 8曲ともにクラシック、古典といえる曲が並ぶが、アレンジメントの幅と嗅覚、そして、その原曲を考えての調理の仕方は昨今のアラビック・ラウンジなどのタームを後景化し、更に、英国でのアビー・ロード・スタジオでのミックスとマスタリングを行なうという、まるでグローバリゼーションの是の面が見えるようにこの作品の真価を倍加させる。

 ラヴィ・シャンカールもいいだろう、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンも偉大な音楽家だ。ただ、この『Sachal Jazz』には(インド?)パキスタンの音楽の歴史のみならず「文化の後景」を現代のセンスで再生させる。再生された原曲たちはまるで、こういった引き継がれ方を喜んでいるかのように、自由に曲の持つフレームラインだけを彼らに預けている。ジャズ・リスナー、ワールド・ミュージック・リスナー、エクスペリメンタル・ミュージック・リスナーなどのカテゴリーがあるのかは個人的に分からないが、そういった余計な耳を「無化」する美麗さがある。

 そうして、一旦、「無化」された耳で、化学調味料で出来あがった音楽にまた向き合ってみる契機にもなる作品になっていると思う。

 

(松浦達)

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埋火.jpg 本作収録の「タイムレスメロディ」で歌われる《たしかなことが/ふたしかになって/うたいおえたひとがまた/うたいだしたりもして》という歌詞が頭に残る。

 山本精一や二階堂和美など、数々のミュージシャンと共演した経験を持つ埋火(うずみび)。見汐麻衣と志賀加奈子を中心とする彼女らは、2001年に福岡で結成された。2004年に自主制作盤『朝も昼も夜も』を発表し、2008年には元羅針盤の須原敬三が参加し『わたしのふね』を発表。結成当初はバーズやラモーンズのカヴァーを中心に演奏していたことから窺えるように、シンプルで牧歌的とも言える楽曲の中にざらついた質感のある音を忍ばせていた。それゆえリラクゼーション・ミュージックという言葉に回収されず音楽シーンの中でスウィングしていた。しかし、3作目(正式にはセカンド・アルバム)となる本作『ジオラマ』は音楽シーンという括りを超えてスウィングする作品になっている。

 インストやアップ・テンポの曲を交えたことでタイトルどおりジオラマとして働いているのも面白いが、特筆すべきは作詞作曲を手掛ける見汐麻衣の歌声。前作より際立っている彼女の歌は、「私の歌」としてでも「私たちの歌」としてでもなく、主語は抜け落ちて聴こえ、私欲のない歌として純度が高く、聴き手の想像力を縛らない。それはもともと歌というものが子守唄やわらべうただったように、生活に密着したカタチで僕らの中に存在していることを気付かせる。さらにはソニック・ユースや時としてモグワイを思わせるノイジーなギター・サウンドが醸し出す刺が楽曲に毒を与えており、素通りできない音楽としてわずかな爪跡を聴き手に残す。その爪跡の違和感には、音楽とは与えられるものだけではなく、聴き手の内から聴こえてくるのだと気付かされるところがある。

 本作が発表されたからといって、特別何かが、例えば時代や社会が変わることはない。しかし、なぜ今、リアルに鳴っているのか。それは「文字がない文化はあっても、音楽がない文化はない」と言われるように、僕らの音楽的嗜好の問題を超え、音楽が人の中で死ぬことはないからだ。埋火の音楽はたとえ音楽産業が崩壊してもなくなることはないだろうし、アーティストという存在が失われても音を鳴らす人々がいなくならないことを示している。前述したわらべうたのように音楽が本来持っていた、音楽はアーティストだけのものでもディープなリスナーだけのものでもないということを、今、埋火はポップかつオルタナティヴなカタチで「再生」している。

 

(田中喬史)

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DARKSIDE.jpg 昨年『Space Is Only Noise』という傑作アルバムをリリースしたニコラス・ジャーと、ニューヨークのバンド、エル・トポのメンバーであるデイヴ・ハリントンによるユニット、ダークサイド。そのダークサイドが、ジャーのレーベル《Clown And Sunset》からEPをリリースした。

 そんな「Darkside EP」は、『Space Is Only Noise』の実験的な部分のみ抽出している。ブルース、ドローン、ディスコといった要素をサイケに展開し、異世界を創造しているが、ベースが効いたシンプルなリズムは、ダンス・ミュージックが流入する昨今のインディー・シーンを意識してか、ディスコ色が強い。デイヴのギターもディスコ色の強調に一役買っており、そこにジャーのウォブリーな歌声が被さることで、深淵に潜っていくようなチルを演出している。

 また、プロダクションの部分でテクノロジーを駆使しながら、グルーヴからは土臭さを感じる。それは、先述のブルースの影響が大きいが、現実と幻想の狭間を行き来するようなジャーのヴォーカルも見逃せない。本作でジャーは、ファルセットからバリトン・ヴォイスまで、上手いとは言えないが多彩な表現を披露している。その歌声でジャーは、「Darkside EP」と聴き手を結びつける役割を全うし、「Darkside EP」という異世界のなかで、唯一聴き手側に近い位置に存在する。

 つまり「Darkside EP」とは、聴き手の現実(ニコラス・ジャー)が、様々な誘惑に侵食される様をドライに描いた絵画のようなものだ。不安定な揺らぎといった人間性をあえて残しておきながら、一方では徹底的に作りこまれた無機質な音がその人間性を食い殺す。

 はっきりとした政治的主張があるわけではない。しかし、本作の冷やかなグロさは、荒涼としたシビアな現代に染み渡る。どうやらニコラス・ジャーの純粋な好奇心は、とんでもない怪物を生みだしてしまったようだ。

 

(近藤真弥)

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きゃりーぱみゅぱみゅ.jpg いやあ、ここまでアクの強いアーティストって久々かも? 正式芸名"きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ"という彼女は、もともとモデルとして知名度があり、去年中田ヤスタカのプロデュースで歌手デビュー。なんてのは、もはや周知の事実でしょう。

 結論から言いますと、良いんじゃないでしょうか? むしろ大好きですよ! 歌が特別上手いわけでもなく、ダンスにキレがあるわけでもない。それでも彼女が注目され脚光を浴びるのは、日常をエンターテイメントする表現力と、それを可能にするタレント性が大きな要因だと思う。

 メルヘンチックな世界観を反映させたファッションや佇まいが特徴の彼女。しかし、そんな彼女が歌う歌詞は、恋愛やバイトといった日常に根ざしたものだ。そして彼女も、淡々と呟くように言葉を吐きだし、その言葉は"現実の匂い"を漂わせている。この事実は、彼女の音楽がストリート・ミュージックであることを示唆している。きゃりーぱみゅぱみゅの場合そのストリートは"原宿"だが、例えば、でんぱ組.incが"秋葉原"であるように、一般的とは言えないポップ・カルチャーを普遍的大衆の場でエンターテイメントする存在という立ち位置が、きゃりーぱみゅぱみゅの個性である。

 つまりきゃりーぱみゅぱみゅとは、シビアな批評眼と創造性を持った芸術家であり、自ら"作品"となって世にアウトプットする能力に長けた媒体でもある。そして、この二面性を内面に抱えこんでいるからこそ、拭えない"リアル"がグロさとなって表出している。

 彼女がこの先どこへ行くのか、楽しみでしょうがない。

 

(近藤真弥)

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SPEECH DEBELLE.jpg 前作『Speech Therapy』でスピーチ・デベルは、内省的な言葉を多用した。それは、彼女自身を忠実に反映してはいたが、同時に、パーソナル過ぎて近寄りがたいアルバムでもあった。

 だがそれは、仕方がなかったとも言える。というのも前作は、当時の彼女がそれまで経験してきた苦難や挫折が描かれた、"ヒストリー"と呼べる作品だからだ。10代半ばからマリファナを吸いつづけ、度重なる非行に業を煮やした母親から勘当されホームレス生活に陥るといった過去が、アルバムに重苦しい緊張感をもたらしていた。この重苦しい緊張感が、どうしても好きになれなかった人もいるだろう。

 「I feel so good. It feels better than I imagined. My family's here. My friends are here. I'm from south London. I don't get emotional I'm emotional.」
《最高の気分よ。思っていた以上に素晴らしい。家族も友達も来てくれた。私はロンドン南部の出身で感情的にはならないほうだけど、その私がなっている》(筆者訳)

 上記の引用は、『Speech Therapy』が英マーキュリー賞を受賞した際の、スピーチ・デベルによるコメントだ。しかし『Freedom Of Speech』は、先述のコメントとは違い感情豊かな表現があり、"魂の叫び"と呼ぶべき余裕と貫禄を感じさせる。「Daddy's Little Girl」に顕著だった前作の怒りは革命への情熱となって、言葉に絶大な説得力をあたえている。独り言すれすれだった歌声にはソウルが宿り、その歌声は、言語の壁をものともせず、まっすぐ聴き手の心へ突きすすむ。そしてなにより本作は、愛にあふれている。

 また、DRCミュージックに参加したクウェズ(Kwes)の貢献も特筆に値する。《Warp》と契約したことでも知られる新進気鋭だが、そんなクウェズとのコラボレイションは、大成功と断言できる。キレ味鋭いヴォーカルに、それを支える精密なサウンド・プロダクションなど、2人が鳴らす音楽は、素晴らしい化学反応を生みだしている。

 本作には、ルーツ・マヌーヴァとリアリズムをフィーチャーし、去年のロンドン暴動に反応する形で彼女自らリークした「Blaze Up A Fire」や、「Eagle Eye」「Collaps」といった政治的メッセージが込められた曲もある。だが、難しく考える必要はない。聴き手は、彼女の真摯な姿勢、哲学、魂に耳を傾ければいい。その歌声は国境、文化、思想、あらゆるものを飛び越え、人々に届く。この事実に、ただただ感動する。『Freedom Of Speech』とは、そういうアルバムだ。

 

(近藤真弥)

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THE BLACK KEYS.jpg クッキーシーンの「Private Top10s Of 2011」を選んでいる真っ最中に、おんぼろのミニバンが最高のロックンロールを鳴らしながらやって来た! ヒゲ面のダンとメガネのパトリック。相変わらず冴えない風貌の2人組、ブラック・キーズはいつもの相棒も連れている。この7thアルバム『El Camino』は、その相棒であるデンジャー・マウスがプロデュース。5th『Attack & Release』、6th『Brothers』のリード・トラック「Tighten Up」に続くコラボレーションだ。

 デンジャー・マウスは昨年、ダニエル・ルッピとの連名で『Rome』をリリースしたことも記憶に新しい。架空のマカロニ・ウエスタンのサントラというユニークな設定で、揺らめく太陽と乾いた砂ぼこりが目に浮かぶ映像的なサウンド・メイクを展開。ジャック・ホワイト、ノラ・ジョーンズという希代のヴォーカリストの魅力を最大限に引き出す手腕は、"ヒップホップ/エレクトロニカのトラック・メイカー"という出自から大きく飛躍していることを改めて印象づけた。これまでにもスパークルホースのプロデュースやシンズのジェームズ・マーサーとのユニット、ブロークン・ベルズなどで見せた(聞かせた)インディー・ロックとの相性の良さは、もっと注目されて良いと思う。

 ブラック・キーズとデンジャー・マウスは、"もう、とっくに"出会っている。ブラック・キーズは、ブラックロック(Blakroc)名義でQティップ、Rza、レイクウォンなどを迎えたヒップホップ・プロジェクトも成功させている。その事実だけでも、彼らがホワイト・ストライプスとはまったく違った道を進んでいることは明白だろう。ブラック・カルチャーの中で、ターンテーブルやミキサーをいじっているうちに生まれたアイデアと身に付いたテクニック。白人のキッズがかきむしるギターと打ち鳴らされるドラムのビート。ストリートの知恵とガレージの熱気が今、ごちゃ混ぜのグルーヴを生み出すという幸福。

 前作『Brothers』で聞きどころのひとつでもあったジェリー・バトラー(60~70年代に活躍した男性ソウル・シンガー。カーティス・メイフィールドと共にインプレッションズを結成したが、脱退しソロへ転身)のカヴァー「Never Gonna Give You Up」で見せたソウル・ミュージックへの深い造詣と愛着。続く「These Days」でメロウに、ソウルフルに歌い上げて幕を閉じる流れは、ブラック・キーズの新境地を感じさせるのに充分なインパクトがあった。「These Days」には、こんな一節が歌い込まれている。《エリス通りに建つ小さな家は/俺がどこよりも生きていると実感できた場所/あの古いフォードをオークの木が見下ろしていた/神よ すごく恋しいんだ/すごく懐かしいんだ》。

 輸入盤『El Camino』のジャケットに貼られた"PLAY LOUD"のステッカーに笑いながら、Playボタンを押す。めくってもめくっても古ぼけたミニバンだらけ(...エル・カミーノってシボレーのクーペなんだけど、まぁ、いいか!)のふざけたブックレットを手にしながら、最後のページにこんなクレジットを見つけた。"All Songs Written By D.Auerbach, P.Carney, B.Burton"―そう、デンジャー・マウスことブライアン・バートンは、アルバムすべての曲作りにもしっかり参加! おんぼろのミニバンに囲まれて「Lonely Boy」が帰ってきた。愛を待ちこがれながら、よりソウルフルに。より自由に。

 作曲段階からデンジャー・マウスを受け入れるということでも、2人組という制約は取り払われているようだ。キャッチーなギター・リフとタイトなドラミングはそのままに、ベース・ラインと電子オルガン/キーボードを強調したサウンドが耳を奪う。そして、前作から引き継がれたソウルフルなヴォーカルはさらに力強く、時にメロウだ。幾層にも重ねられた音のレイヤーが重苦しくならず、グルーヴィーに聞こえるあたりはデンジャー・マウスの真骨頂だろう。アプローチは異なるけれども、ベック『Modern Guilt』でのプロデュース・ワークを彷彿とさせる冷静な目線と丁寧な手さばきが光る。何度聞いても飽きない3分半の魔法。それがロックンロールだ。

 「前作『Brothers』がグラミー賞3部門を受賞!」だとか「セールス100万枚!」だとか「今度はアークティック・モンキーズを前座に北米アリーナ・ツアーへ!」だとか、海外での評判はもう充分。日本ではどうなのかな? 今こそ、ブラック・キーズを聞かなくちゃ。2004年のフジロック以来の来日を願いながら。2012年、日本中でこの素晴らしいロックンロールが鳴り響きますように!

 

(犬飼一郎)

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The Weeknd『Echoes Of Silence』.jpgのサムネール画像 ザ・ウィーケンドによる3部作の最後を飾る『Echoes Of Silence』だが、1枚のアルバムとしては、独立性の低さは否めない。マイケル・ジャクソン「Dirty Diana」のカヴァー「D.D.」という飛び道具はあるものの、暗喩が含まれたラブ・ソングが大半を占める曲群や、メランコリックなメロディなどの特徴は、前2作からほとんど変わっていない。

 サウンド・プロダクションについても同様のことが言える。ポスト・パンク的アプローチを見せる「Initiation」は面白いが、リバーブの多用、ダブステップ以降のビート感覚にも大きな変化は見られない。ゲスト参加したラッパーのジューシー・J、プロデューサー陣のイランジェロ、クラムス・カシーノ、ドロップバイライフといった面々の仕事も的確ではあるが、それでも本作が特別な作品とは言い難い。

 しかしそれはあくまで、"1枚のアルバムとして"見た場合だ。『House Of Balloons』『Thursday』から続く"3部作の最終章"としての本作は、素晴らしい出来となっている。

 先述した「D.D.」から始まる本作は、ラストの「Echoes Of Silence」まで、一貫したヘヴィネスが支配している。このヘヴィネスは、『House Of Balloons』『Thursday』にもあったが、本作ではよりシリアスになっている。特に「Initiation」以降の流れは、そのシリアスさが顕著になる。

 ちなみに「Initiation」は、声を終始変調させる変則的な曲だが、日本語で"通過儀礼"を意味するこの曲は、本作のハイライトだろう。歌詞の内容、ピッチシフトによる声の変化、そして、歴史的に身体的苦痛が伴うものが多い"通過儀礼"をタイトルにしたことから察するに、「Initiation」はセックスの歌だ。それはザ・ウィーケンドにとって珍しい題材ではないが、男性と女性同士の、世間では"常識"とされる関係だけでなく、同性同士の情事、さらにはノンケ、レズ、ゲイが入り乱れた乱交を示唆しており、グロさすら感じる。この曲は、藁にもすがる思いで救いや快楽を求める者の哀しみを描写すると同時に、ザ・ウィーケンドの本質がもっとも露わになった曲ではないだろうか?

 ジョージ・オーウェルやウェルズが描いたディストピアが現実となり、"他"より"個"が尊重されるようになった現在において、一連の3部作は、ザ・ウィーケンドからの警告、または予言のように思える。繰り返される自己破壊、躊躇なくタブーを破り、軽々と一線を越えてしまう欲望と危うさ。その先に待つのは、『沈黙の反響(Echoes Of Silence)』という名の終末であると...。

 『House Of Balloons』『Thursday』『Echoes Of Silence』、この3作を通してザ・ウィーケンドは、厭世的ディストピアを描いている。

 

(近藤真弥)

 

追記:『Echoes Of Silence』他2作もTHE WEEKNDの公式ホームページでフリー・ダウンロード可能。

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FLOATING POINTS.jpgのサムネール画像のサムネール画像  「ファンクの多大な要素と少なからず耳にできるほどのジャズ。808の音楽に最初に影響を及ぼしたのはエレクトロニクスやデトロイトだったかもしれないが、その先にはハービー・ハンコックやマイルス・デイヴィスの影すら見える」

 上記の一文は、メロディーメイカーが808ステイト『90』を評した際のものだが、本稿の主人公であるフローティング・ポインツことサム・シェパードに出会ったとき、この一文が頭に浮かんだ。「なぜ浮かんだのか?」と訊かれたら返答に四苦八苦しそうだが、おそらく、サムがマンチェスター出身であることが関係しているかもしれない(育ちはロンドンだそうだ)。

 筆者は「Vacuum EP」でフローティング・ポインツに出会った。そこで鳴らされていたのは、エレクトロニック・ミュージックでありながら、ジャズと邂逅し未知なる地平に視線が向けられている音楽だった。だが、《Ninja Tune》からザ・フローティング・ポインツ・アンサンブル名義でリリースされた音源には、過剰な実験精神という壁があり、この壁が、サムの音楽を少しばかり退屈なものにしていた。正直、サムに対し疑いの眼差しを向けたりもした。

 しかし、「Shadows」を聴いた後では、疑いを持ってしまった自分が恥ずかしい。そんな思いに駆られるほど、「Shadows」は最高傑作であり、甘美な温もりに満ちた狂気を展開している。

 「Shadows」は、アンビエントなプロダクションを採用しつつ、2ステップ/ガラージを基本としたビート、もちろん先述したジャズの要素もある。こうした横断性がもっとも顕著なのは、「Realise」だ。最初は2ステップでスタートしながら、中盤でいきなりビートがピタッと止む。この中盤以降は、ビート・ミュージックとアンビエントを行き来する目まぐるしい展開を見せるが、これは"抜き差し"といったレベルではなく、異なるパーツを入れかえ繋ぎあわせるというキチガイじみた"離れ業"と言えるものだ。この試みは、ヘタするとグルーヴの喪失を伴う実験だが、サムは見事にやってのけている。こうした実験は本作の随所で見られるが、「Realise」がその実験精神を象徴する曲なのは間違いない。

 また、サムはクラシック音楽にも精通しており、UCL(University College London)で神経科学の博士号取得に励んでいる身でもある。こうした背景が、サムの実験精神を育んでいるのは言うまでもないが、しかし、サムの音楽は、内省的世界観に陥ることはない。むしろ、聴き手を優しく包むようなアトモスフィアを形成している。聴き手を知性で"支配"できる音楽的教養がありながら、あえて感覚や温もりといった"心"を選ぶところに、サムの音楽を特別たらしめる秘密、そして、人間性が表れていると思う。このセンスと才能は、文字通り衝撃だ。

(近藤真弥)

 

 

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昆虫キッズ.jpg 最近、中古レコ屋まで足を運んで、「アルバム3枚で500円」みたいなもの漁り、なんとなく買い、特に期待していなかったのに、家に帰って聴いてみたらとんでもなく良かった。みたいな感覚がなくなってきた。今ならネットで見たバンド名をユーチューブやマイスペースで検索し、聴いてみて気に入ったら買う。という感じ。だが本作はふらっとレコ屋に入り、「安いヨ! 買おうネ!」「税込525円ポッキリ!!」というコピーにつられ買った盤(ちなみにポッキリって何だ?)。なんとなしに家で再生したらとても良かった。ネットで音楽を選ぶ行為とレコ屋に足を運んで選ぶ行為とでは、同じ行為でも意味は全く異なる。それは音楽との距離が近くなったのか、それとも遠くなったのか。

 閑話休題。まさに本作、最高過ぎて参っちゃったよ。ベックの『Mellow Gold』を1曲に凝縮し、怒濤のロック・ビートを取り入れたとでも言うか、チャールズ・ミンガスの『直立猿人』をロック・サウンドに落とし込み、なおかつジャンク・アート的にし、スティーヴ・アルビニが関わっているかのよう、とでも言うか。そんな1曲目「Astra」にグッときた。アッセンブリー・ライン・ピープル・プログラム(Assembly Line People Program)を思わせるところもある。知人と一緒に聴いていたら、胸がざわついてしかたがないと言っていたが、それってこの曲に対して最上級の讃辞なんじゃないか?

 とにかく、4ピース・バンド、昆虫キッズの2曲入りのセカンド・シングル「Astra / クレイマー、クレイマー」が素晴らしい。衝動を感じるが、その実、理知的でいてユーモアのあるサウンド構築という倒錯が巧い具合に光っている。ゲストのMC.Sirafuのトランペットが絶妙なタイミングで入り、澤部渡のボンゴも良い。それらはエンジニアの岩田純也やマスタリングを行なった中村宗一郎によるところも大きいのだろう。2曲目「クレイマー、クレイマー」は映画からとられたタイトル。優美なメロディとサウンド、歌声は哀感もあり、昆虫キッズは映画から受けた情緒を音に変換する術にも長けている。つまり、表現のふり幅が広い。

 彼らのホームページには「なにがなんだか誰もわからなかった2011年にヘッドスライディング!」と書かれている。昆虫キッズは摩訶不思議な雰囲気を身にまといながら、サッカーだろうと何だろうとヘッドスライディングするだろうし、2012年も日常へ頭から突っ込むだろう。兎にも角にも頭からだ。それがインディー・ロックの呼吸音であり、音楽と僕らの距離を近くする。

 

(田中喬史)