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VCMG.jpg 元デペッシュ・モード/ヤズー/イレイジャーのヴィンス・クラークと、現デペッシュ・モードのマーティン・ゴアによるユニット、VCMG。たぶんふたりのイニシャルがユニット名の由来だと思うけど、音のほうは、マーティン・ゴアがデペッシュ・モードで鳴らしている音に近い。

 本作はオリジナル・ミックスを含めて全5曲が収録されているが、まず、オリジナル・ミックスのほうは、『Sounds Of The Universe』のボーナス・トラック「Oh Well」を彷彿とさせる。この曲を聴く限り、VCMGはマーティン・ゴアがイニシアチブを握っているのかも。ハード・テクノに近い音を鳴らしているのもそうだし、ループを強調した曲の構成なんかも、マーティン・ゴアの好みが反映されている。どこかレトロチックな音は、近年のデペッシュ・モードに近い音だし、純粋なクラブ・バンガーとはいえないが、より多くの人に聴かれるものを目指したのであれば、これもありだと思う。

 収録されているリミックスでは、当代随一のパーティー狂DVS1のリミックスが秀逸。クラウドをぐいぐいと引っ張っていくグルーヴは、完全フロア使用のダンス・トラックとなっている。リミックス群は、オリジナルをよりフロア向けにしたものではあるが、アゲアゲというよりは、深く潜っていくディープなサウンド・メイキングが目立つ。ヴィンスとマーティンが選んだのかは不明だが、人選の妙といい、確かな審美眼を持つ人間が関わってるようだ。

 注文をつけるとしたら、もうちょいストイックになって、デペッシュ・モード色を排した音作りをしたほうが面白いと思いますよ。まあ、ふたりがこのレビューを見てるとは思えないけど、ヴィンスとマーティン、そこんとこよろしく。

 

(近藤真弥)

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LED.jpg 7人組のシネマティック(何て素敵な響き!!)・インストバンド、L.E.D.が2011年のラストに限定数量でEPをリリース。6月にアナログで出して即完売したリミックス2曲(内1曲は原田郁子の歌もの。それをあの、Calmがリミックス)を含む全4曲で、これがハンパなく、とんでもなく、かっこいいのです。新曲2曲は映画のサントラを意識したものらしいんですが、空気、水、光、風などの気配を丹念に音の粒子に置き換えたようなオリジナル・サウンドが独特の親しみを感じさせてくれます。単にクールな曲も勿論良いんですが、それだけではない、全般的なセンスの確かさが窺える曲たちです。スリリングで緊張感溢れる、美しくて気高いサウンドも堪能出来ますしね。そして全部聴いた後に残る思いは、みずみずしい息吹とまろやかな世界。その音の内側に込められたものは、表面上のとっつきにくさとは裏腹な、深くてストレートなもの。そこがまた、良い。

 

(粂田直子)

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THE HORRORS.jpg 本当は数ヶ月前に入稿したかった。だけど、どうしてもとりかかることができず、こんな時期になってしまった。なにより、これはぼく(ら)にとって、あまりに「重い」テーマを抱えているから、なかなか書きはじめられなかったというか...。

 まあ、そろそろ「年間ベスト」を選ぶ時期になり、このアルバムは明らかにぼくのそれに入ってくる(そして、来年2月には彼らの来日も控えているので)、結果オーライ? すみません...。

 ぼくは、ときおり仕事で日本盤の歌詞対訳をやらせてもらっている。自分としては、ライナーノーツを書かせてもらうより、そっちのほうが何倍も楽しい。ライナーノーツを書くのは、当該アルバムやその周辺の情報、そのアルバムをとおして自分が「発見」したことを読者に伝える作業。つまり、その執筆作業中に「自分にとっての発見」は、あまりない。しかし、歌詞対訳は違う。その作業をおこなうなかで、いろいろな「発見」がある。

 ザ・ホラーズのサード・アルバム『Skying』においては、そんな「発見」があまりにでかすぎた。

 歌詞のことにふれるまえに、まずは音楽面について。

 ネオ・ロカビリーもしくはサイコビリー(これって、80年代にもあった用語だし、決して「かっこいいもの」というイメージが残っているわけじゃないし、それを付したとき「UKプレスもいよいよ本格的にやきが回ってきたかな」と思った)の旗手として注目されたころから、ザ・ホラーズには「さまざまな音楽的スタイルを、客観的かつ批評的にとらえる」という姿勢があった。

 だからこそ、セカンド・アルバムで一気にマイ・ブラッディ・ヴァレンタインよりのノイジーなサウンドに傾いたときも決して不自然ではないどころか、すごくリアリティがあったし、過去に彼らがとってきたスタイルのいい面を全部導入しつつよりポップなメロディーが際立ってきた3作目『Skying』に関しても、同じことが言える。そのポップさにをとおして、ぼくなどは、たとえばELOやウィングスなど70年代のポップ・ロックに通じる部分さえあると思ってしまった。

 編集部の近藤くんはこれを聴いて「ますますプライマル・スクリームの後継者と言うにふさわしいと思えるようになってきた」みたいなことを(たしかツイッターで)言っていた(編注:どうも近藤です。確かに「後継者と言うにふさわしい」とは思ってますが、ツイッターでは、「実はセカンドを聴いたとき、「もしかしたら、自分の世代にとってのプライマルは The Horrorsなんじゃないか?」と思ったんだけど、『Skying』を聴いて、それがさらに確信へと近づいた。」と呟きました!)。プライマル・スクリームは最新アルバムで「非常にごつごつとしたポップ性」を獲得していたというシンクロニシティーの面でも、先述の「スタイルに対する客観的/批評的姿勢」という点でも、近藤くんの感想にぼくも同意する。

 ザ・ホラーズがサマーソニック出演のためこの夏来日した際、中心人物ファリスと軽く立ち話する機会を得た。70年代のポップなロックを思いだした部分があるという感想を伝えると、彼はこんなふうに応えた。

「ああ、なんとなくわかるよ。アルバム制作中、たしかに70年代のロックはよく聴いてた。とくにデヴィッド・ボウイとか」

 なるほど! 70年代のデヴィッド・ボウイといえば、まさに「スタイルに対する客観的/批評的姿勢」を極限まで前面に出していた。そんな意味でも納得!

 今回、ぼくがファリスと話してみたかった最大の理由は、もちろん歌詞について聞きたかったから。

 たとえば2曲目「You Said」のコーラス部分では、こんなことが歌われている。

《崩壊のあとに/壊れたあとに波がやってきた/そしてなにも残っていない/もしくは/ほとんどなにも》

《崩壊後の日々が訪れる/壊れたあとも波は押しよせる/それはなにも教えてくれない/もしくは、ほとんどなにも》

 なにを思いだしたか? もちろん言うまでもない。今年3月の原発事故とそれにつづく日々を...。

 先述のとおり、基本的に「挑戦的サウンド」と「ポップなメロディー」のとりあわせが素晴らしいこのアルバムだが、(日本盤ボーナス・トラックをのぞく)最後は「ゆるやかにたたみかける」ような8分の長尺曲「Oceans Burning」でしめくくられている。

 この曲の冒頭4節分の歌詞に、またもや胸をしめつけられるような気持ちになった。基本的に「歌詞の解釈」をひとつに決めつけることは嫌いなので、あくまでぼくのイメージであると断ったうえで述べると、ぼくはそこから「東北の果樹園にいた大切なひとが津波の犠牲者になった。ぼろぼろの写真だけが残った」という場面が頭に浮かんでしまった。なるべくそれに囚われないよう(邦盤歌詞対訳者として)ニュートラルな日本語にしようと試みつつ、どうしても涙が止まらなくなってしまった。

 そして「Oceans Burning」後半には、こんな一節もある。

《孤独な船の上にいる/それは燃えあがる海で満たされている》《いっしょに溶けよう》(もしくは《いっしょに溶融しよう》)

 この段階で、ぼくの頭は完全にメルトダウンした。

 今年の原発の事故によって、海も空も汚れてしまった。かつての海や空とは違うものになってしまった。それは、本当に、いちばん悲しいことのひとつだ。悔やんでも悔やみきれない。

 このアルバムの歌詞には、モチーフとして海がたくさん使われている。アルバム・タイトルは『Skying』。そして、カヴァー・アートに描かれた空や海は、とても、とても不思議な色をしている...。

 おそるおそる、フェリスに尋ねてみた。

『Skying』のいくつかの部分から、日本の震災や津波、原発事故を思いだすんだけど...。

「えーっ、それはないんじゃない(爆笑)?」

 最初、フェリスはぼくの深読みに対して、まったく理解できないというようすだった。しかし、いろいろ説明していくうちに彼の表情が変わってきた。

「なるほど...。ぼく自身にそんな意図はなかったんだけど、言ってることはわかるよ。そうなんだ...。集団的無意識、ってやつかな、これが...」

 2011年にぼくが体験した「ポップ・ミュージック的なできごと」のなかで、最も感動的なもののひとつだった。

 『Skying』は、彼らのアルバムとしては初めて全英トップ5入りし(ファーストは37位、セカンドは25位)、全米トップ100にも食いこんだ。

 彼らは、こうやって、ゆっくり前進していく。プライマル・スクリームもそうだったように。

 

(伊藤英嗣)

 

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 僕は「再生」という言葉が好きだ。例えば、レコードをターンテーブルに乗せ、「再生」ボタンを押すという行為。この行為には、リスナーが音楽に命を吹き込むドキュメントの始まりが記録されている。そこでは、「無料か有料か」といったことは一切問われない。3000円出しても「クソだ」という人はいるし、逆にフリーダウンロードの音源に愛着を持ち、満面の笑みを浮かべながら聴き込む人もいる。過去や未来は関係なく、金銭的価値からも遠い「再生」という行為。あくまで自分の主意によって、その音楽の持つ価値が定められる。この行為に快感を覚えてしまった者が、死ぬまで音楽を愛し続け、場合によってはアーティストとして自ら表現する道を選ぶのかも知れない。ザ・ホラーズも、そんな道を選んだ者達の集まりだと思う。

 ガレージ・ロックやサイコビリーにゴスの要素を振りかけた『Strange House』がデビュー・アルバムのホラーズだけど、『Primary Colours』ではマッド・サイエンティスト的エレクトロニック・サウンドを披露し、最新作『Skying』でも、メジャー・コードと透き通るようなシンセが増え、独特なサイケデリアを展開している。常に変化を求め、表現する音楽性を変える姿勢はどこかプライマル・スクリームに通じるものもあるが、両バントに共通するのは、自分たちにしか見えない独自のヴィジョンに忠実で、それを元に音楽を作っている点だろう。だからホラーズも、アルバム毎に刷新レベルの変化を続けている。傍目から見るとバラバラなディスコグラフイーに見えるが、当人達にしたらすべてが繋がっているのだ。

 そしてホラーズとは、心の底から音楽が好きでたまらない真性の音楽オタクなのだろう。表現したいものが多すぎるからこそ、ひとつの形に囚われず変化を続けるのであり、『Skying』にも、独自の音楽をクリエイトしたという自信が宿っている。『Primary Colours』のダークでブチ切れたサウンドにやられた身としては、ちょっと物足りない感じがするのも否めないけど、ユーフォリックな感覚さえ感じさせるサイケデリック・ロックが詰まった本作は、間違いなく素晴らしいアルバムだ。

 

(近藤真弥)

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BROTHERTIGER.jpg 「80年代月9的胸熱合成大衆音楽」とは、よく考えたものだ! 僕は88年生まれだし、ブラザータイガーことジョン・ヤゴスのデビュー・アルバム『Golden Years』が月9的なのかは判断しかねるけど、「80年代」というのは的を得ている。確かに本作は、ペット・ショップ・ボーイズやティアーズ・フォー・フィアーズ、そして、ほんのわずかにプロパガンダの影がちらつくなど、ウォッシュド・アウトやアクティブ・チャイルドといったチルウェイヴ勢と比べるよりか、80年代ポップ・ミュージックを現代版にアップデイトした音楽として聴いたほうがしっくりくる。

 そもそもチルウェイヴは、名前に"ウェイヴ"とあるように、80年代ニュー・ウェイヴの要素が多分に含まれている。そしてチルウェイヴとは、2000年代前半のニュー・ウェイヴ・リヴァイヴァルから地続きの音楽性を発展させた、モダン・ポップ・ミュージックでもある。過剰なリバーブによる内省的なムードを、現代社会の閉塞感と関連づけて語ることはあっても、チルウェイヴの音そのものを語る機会は少なかったように思う。まあ、僕もトロピクスのレビューで、同時代性の観点からチルウェイヴを語っているから、人のことは言えないが...。

 本作は、そんな"音としてのチルウェイヴ"を明確にした良盤だと言える。冒頭の「80年代月9的胸熱合成大衆音楽」の「合成」に注目すれば、アンビエンスなシンセ・ワーク、煌びやかなネオンと薄暗い地下を行き来するようなディスコとエレクトロが基調となっており、これらをジョンが上手く料理することで、キュートなポップ・ソング集に仕上げている。様々な文化的背景を持つ音楽を「合成」し、その"「合成」自体を"ポップ・ミュージックに押し上げたのは、チルウェイヴがもたらした功績のひとつだ。

 また、自主制作のEP「Vision Tunnels」に収録され話題になった「Lovers」はもちろんのこと、トランスチックなイントロで始まる「Reach It All」や、『Sexor』期のティガと組んだような「Out Of Line」など、歌が音のカーテンに隠れがちなチルウェイヴとは違い、歌が光るのも本作の魅力だ。こうした点からも、本作をチルウェイヴと括るのはちょっと違和感を感じてしまう。これは、『James Blake』のレビューで吐露した、ジェームズ・ブレイクを"ダブステップの人"と呼ぶことに対する違和感と似ている。

 ドライブ、ベッドルーム、ダンスフロア、様々なシチュエーションで映える本作は、全方位型ポップ・ミュージックとして、小難しく考えずに楽しんだほうが良さを実感できるのかもしれない。

 

(近藤真弥)

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yanokami.jpg 「過ちを犯したらそれを知らずにいるのは不可能だ。何かを壊してしまったことを知らずにいるのは不可能だ。(中略)世界をめぐる自分の意識、存在に対する自分の関心―それらははじめから言葉になっているものではない。そして詩とは、言葉から築かれるのでは断じてない。言葉を掘り下げれば詩ができるわけではない、詩が言葉を作るのであり詩が言葉の意味を内に抱え込むのだ。」(ジョージ・オッペン『詩作法に関するメモ』より)

 「詩」の断面から2011年を見渡した時に、疑うことは可能だったのか、不可能だったのか、目で見えるもの以外に取り返しのつかないものを「感じる」ことが多かったかもしれない。

 7月に脳出血で急逝したアーティスト、レイ・ハラカミの音に最初に触れたとき、その角のない丸みを帯びた電子音、滑らかに滑ってゆく人肌を感じさせるスムースな流れと素朴ながらもずっと浸っていると、不思議なことに日常がふわりと変わってしまうような、巷間に溢れているエレクトロニカ、IDMとは違う温度があった。音源に関してはローランドSC-88Proしか殆ど用いていないのというのもあり、「彼の音」はどんな場所、どんなリミックス・ワークでもすぐ分かる記名性の高いものでオリジナリティを保ちながらも、アクの強さはまるでない。01年の『Red Curb』がやはり世間的に彼の音を認知させたアルバムと言えるだろう。11曲が繋がりながらも、浮かぶ情景は郷愁とも異世界とも言えない「詩が言葉の意味を、内に抱え込む」トリッピーで粒立った電子音の柔らかさはテクノ・リスナー以外のアーティストにも響き、くるりの「ばらの花」やGreat3の「Oh Baby Plus」のリミックス・ワークなどでも鮮やかに原曲の美しさを保持しながらも、全く新しいロマンティシズムを導入せしめ、UAの「閃光」のプロデュース・ワークも美しかった。"声のないロバート・ワイアット"、ソフト・ロック、カンタベリー・シーンの持つような音のようなムードと独自のアトモスフィアを保持しながら、ブレイクという言葉は相応しくないが、05年の『lust』は多くの人たちに受け容れられることとなり、フェスやイヴェントでも彼の姿をよく観ることが増えた。

 個人的には、彼のライヴで鮮明に憶えているのは08年の京都で行なわれた京都音楽博覧会でのパフォーマンスだった。くるりを主催とし、小田和正氏やスウェーデンのThe Real Groupなどが並ぶ中での異端の選出でありながら、しかし、寡黙に優雅な電子音を広い梅小路公園に紡ぎあげているときには風と彼の流麗な音が混ざり合い、自然と「同化」するように微睡むような至福の時間を彩ってくれた。但し、そこには「牧歌性」という言葉は相応しくなく、ストイックな美学に貫かれていた。その美学の中でオーディエンスは酔うことが出来た。

 05年の『lust』では細野晴臣氏のカバー「Owari No Kisetsu」で朴訥な彼自身の声そのものも響かせてもいたが、矢野顕子と組んだYanokami名義になってからの自由度と声と電子音の混ざり合い方はより遠くへと、日常を運び、ともすれば、チルアウト、アンビエント的に扱われてしまうレイ・ハラカミというアーティストを飛躍もさせた。07年のファースト・アルバム『Yanokami』では矢野顕子自身の曲、声、ピアノを軸に彼のエレクトロニクスが毛布のように包みこみ、水彩画のような深い世界観を筆致していた。

《沈む雲に 手をのばし 少しちぎって 食べたなら/雨が来ぬように さよなら さよなら さよなら》
(「気球にのって」)

 原曲の持つ美しさに彼のシンボルたる電子音が入ってきた途端に、また違った景色が見える。《雨が来ぬように、さよなら》の響きもまるで時に矢野女史の持つボーカルの強度を越えて、時間を抜ける。それはまるで、ポール・オースターの『ムーン・パレス』でマーコ・フォッグが「芸術の目的とは、世界に入り込み、その中に自分の場を見出す道なのだ。」という言に沿えば、オースター自身が語るように、書く(芸術行為、表現行為を行なう)よりも書かないとき、沈黙のときの方が本当に苦痛で酷なのだろうということさえ夢想する。レイ・ハラカミの音には沈黙に近い何かがあったが、その音を作り出すまでの過程の「生活」を想い浮かべると、その辛苦は想像するに余りある。

 Yanokamiとしては、4年振りとなる新作の『遠くは近い』。

 レイ・ハラカミの遺したトラックやラフ・スケッチを元にしながらも、ユザーンが手を加えた「9曲のうた」が並んでいる。基本はカバー曲が主軸を占める。荒井由実の「曇り空」、「瞳を閉じて」、オフコースの「Yes-Yes-Yes」という日本の有名曲からローリング・ストーンズの「Ruby Tuesday」まで幅広い。そして、これまで以上に開放感と豊饒な音空間の中でそういった歌が紡がれる。ハラカミ本人の「不在」よりも、アルバムとして持つ拡がりに胸が打たれる。作曲がレイ・ハラカミとなっているインストゥルメンタル「Yanokamintro」の1分半にも満たない子守唄のような残響にも相変わらずの彼の息吹を感じる。個人的には、どうしても原曲の大きなイメージが強いオフコースの「Yes-Yes-Yes」のささやかな再構築のエレガンスと鼻歌のように弾んだ声で歌う矢野顕子の声に魅かれた。

《君の嫌いな東京も 秋はすてきな街/でも 大切なことは ふたりでいること》
(「Yes-Yes-Yes」)

 最後に、この9曲はYanokamiとしてのあくまで新しい音として聴くべきで、これまで通りのものとして十二分に愉しめる。必要過多な感傷や悼みを除いて、フラットな想いで対峙すればいい作品だと思う。

《Goodbye, Ruby Tuesday / Who could hang a name on you? / When you smile with every new day / Still I'm gonna miss you...》
(「Ruby Tuesday」)
《さようなら、ルビーの火曜日/誰が君に名前を掲げることが出来るのだろうね?/あなたがどんな新しい日々の中で笑うとき/まだ ぼくはあなたを恋しく思ってしまうんだ》
(筆者拙訳)

 ルビーの火曜日を越えたら、週も真ん中で少しは落ち着ける。

 来年はどんな新しい日々が待っているのか、「いつか来る、水曜日」を楽しみにしたい。

 

(松浦達)

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CHAD VALLEY.jpg 先日行われたフレンドリー・ファイアーズの来日公演のオープニング・アクトを務めたのが、2012年最大の才能として注目されているチャド・バレイだ。聴いてみたら抜群にクオリティの高い曲が次々に出てきて、チルウェイヴとかそういう文脈で語るのがアホらしくなりました。これはMGMT以来の大ヒットじゃないかしら。ウォッシュド・アウトが親の金で無気力に生きていることをテーマに曲を書かなければ、あるいはこんなサウンドに行き着いていたのかもしれない。彼の場合は売れ売れなプロダクションと歌メロが好き嫌いの分かれどころ。桃源郷でも比較的現実から近い距離の桃源郷だから、気が狂うほどディープなサイケデリックを求めると、彼のレコードを手に取ろうとは思わない。だが彼の歌はソウルフルだ。そこがフレンドリー・ファイアーズとの共通点で、世界と自分の存在を遮断したら、こんな歌は生まれない。美しくて醜い世界をコミットすることでしか生まれえない葛藤や悲しみが込められている。

 とくに今回のEPでは3曲目に収録されている「Shell Suite」はTOTOあたりのやたらにクオリティの高いAORをも彷彿とさせる名曲。大合唱が起きそう。とくに荒廃したバック・グラウンドを持っているわけでもなく、IQも高くて、トレンドやカルチャーの解釈がいちいち的を射ている。これらは勝手な彼に対してのイメージだが、あとはフォールズのストイックさをチャドにも同様に感じたり。って、チャドは「Spanish Sahara」のリミックスワークで注目を浴びたんだったね。とにかく、いま彼の極上の楽曲を聴かない手はありません。彼の曲で、確実に何日分かの夜は独占されてしまうから。

 ちなみに2月10日と11日にチャドは再来日を果たします。じつはチャドはJonquil(ジョンキル)というバンドのフロントマンで、そのJonquilの元メンバーで構成されたTrophy Wife(トロフィー・ワイフ)というバンドが同じ日に出演。2012年の幕開けには相応しい音だと思います。

 

(長畑宏明)

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YEYE.jpg "声"というのは不思議なもので、人それぞれ特徴があり、その人の性格や生い立ちなんかも見えたりする。そして"声"は、"言葉の持つ意味"を決定づける大事な要素でもある。例えば、「ありがとう」という言葉ひとつとっても、純粋に喜びを表すお礼にもなれば、トーンを変えることで皮肉にもなりえる。お礼であればもちろん嬉しいし、怒りを込めた「ありがとう」であれば、相手の心を傷つける暴力となる。"言葉そのものの意味"は学校で学べるが、"言葉の持つ意味"を込める"声"は、生まれ育った環境などが大きく左右する感覚的なものだと思う。「声にリアリティが宿っている」なんて表現もあるしね。

 中国語で「おじいちゃん」を意味するYeYe(ィエィエ)と名乗る彼女は、京都暮らしの89年生まれ。「彼女」とは書いたものの、その歌声は少年のようでもある。だが時折、女性的な色気を覗かせる瞬間もあり、アンドロジナス的要素が強い歌声と言えるかもしれない。晴天の空に浮かぶ雲のような浮遊感が特徴の、心地良い歌声だ。

 本作は、『朝を開けだして 夜をとじるまで』の名が示すように、日常のとある一日を描写した物語のようなアルバムとなっている。「ほら 朝がやってきた」と歌われる軽快な「Morning」から始まり、「映画『空気人形』を観て感じたこと」を歌にした「言う」まで紡がれる歌詞は、日常に潜むストレンジな場面を上手く切り取っている。その歌詞に関しては、具体と抽象の間をゆく言葉が丁寧にチョイスされている印象だ。基本的に素朴でわかりやすい言葉を選んでいるが、「Woo Lino Sunte On Lino」は、「口から出てきた言葉をそのまま歌に」したからか、反射神経がユーモアとなって表現されている。この曲は本作中もっともお気に入りなんだけど、彼女の素が露わになっていて面白い。

 また、本作にはウィーザーのカヴァー「Buddy Holly」が収録されていて、このカヴァーを聴けばわかるように、他人の曲を自分のものにできる世界観を、YeYeは既に確立している。しかもこの世界観は、まだまだ伸びしろ十分の成長過程にある。本作は、そんな瑞々しい将来性とクオリティが両立したアルバム。

 

(近藤真弥)

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PINCH & SHACKLETON.jpg  「ああああああああああああああああああああ」

 これ、文字数を埋めるためじゃないよ。ピンチとシャックルトンが作りあげたヤバいアルバム『Pinch & Shackleton』の感想だよ。正直、言葉にするのが嫌になる。だってさ、ミニマルで官能美すら感じさせるアルバムなんて、そうそうないよ? ここまで純度の高い音を言葉で表現するなんて、ほんと申し訳ない気持ちになる。ダブステップの異端児同士がタッグを組んだとか、ポンコツの安いスピーカーで聴いても凄さが伝わるとか、どんな言葉で本作を表現しても、ただただ自分が惨めになっていくだけ。それでも、より多くの人に聴いてもらいたいから、こうして長々と駄文を書いてる。というわけで、どうかお付き合いください。

 まず、冒頭の「ああああああああああああああああああああ」だけど、これはすぐ沈黙へと変わる。「Cracks In The Pleasuredome」で幕を開ける本作は、スタートして7秒くらいのところで、井戸の底から湧き出るような音が襲ってくるが、この音を耳にしてしまったら最後。霞みがかった秘境的世界観が、聴き手の五感を支配する。ベースよりも、音響やプロダクションにこだわった"チル"と呼べる曲が大半を占めているが、ガムランチックな音から始まり、多彩なリズムが次々と展開される「Jellybones」は、フロア映えするアグレッシブなトラックだ。実際フロアで聴く機会に恵まれたが、「Jellybones」の呪術的グルーヴが投下されると、クラウドは歓声をあげていた。

 しかし本作はなにより、丁寧なエフェクト使いに耳を奪われてしまう。このエフェクト使いを中心としたプロダクションは、本作においてもっとも優れた"売り"と言っていい部分であり、ディレイによる繊細なフレーズの変化など、エクスペリメンタルな音響処理が特徴的だ。こうしたこだわりは結果として、スピーカー、ヘッドフォン、ウォークマンなど、聴環境を問わないポリバレントな音に繋がっている。

 そして、音がリズムの役割を担っている点も見逃せない。これは先述のエフェクトによる効果はもちろんのこと、音自体が固有のリズムを刻んでおり、"どこでノルか?"はリスナーの感性に任されている。キックやハイハットも、ベロシティや丹念なイコライジングによって、リズムではなく旋律に変わる瞬間があったりと、すべての音が多面的に作られているが、本作においてリズムは、2人から提供されるものではなく、聴き手自ら見つけだすものとなっている。そういった意味で、本作は感覚的に捉えるべきであり、無意味の極地に漂うゴーストみたいなアルバムだ。

 まあ、だからこそ、本作を言葉で表現するのはイヤなんだよね。『Pinch & Shackleton』の前では、「それでも言語でやるしかない」という書き手の性なんて、無抵抗に跪くだけ。

(近藤真弥)

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ATLAS SOUND.jpg わたしにとってディアハンターよりもアトラス・サウンドのほうが自分の生活にしっくりくるというか、普段聴いているポップ・ミュージックと同じ感覚で聴くことができる。もちろんディアハンターだって、いまのアメリカでは相当好きなバンドであることは間違いないけれど、ときどき救いのなさに聴いているこっちがどうして良いか分からなくなってしまう。アトラス・サウンドはもうすこしカジュアルだし、メロディにフォーカスしているし、ヴォーカルの印象も柔らかくて随分違う。おそらく彼(ブラッドフォード・コックス君です)自身、才能の発露を別の場所にも求めた結果だろう。

 ところでブラック・リップスのライヴ中、「Bad Kids」のときにステージ上で楽しそうに遊んでいる彼の姿がわたしの脳裏に焼き付いていて、その印象がそのままアトラス・サウンドなのだ。「まあ、適当にやっているから聴きたい人はこっちも聴いてよ」という雰囲気である。ただ、このアトラス・サウンドのアルバムが毎回高評価を得て、各メディアの年間ベスト・アルバムでもけっこう上位にランクインしている。みんなほっと一息つきたいときがあるのだ。最近ではアート性に優れた作品も多いし、フォーマットに縛られない自由な表現にはたしかに耳を奪われるが、生活に寄り添うオーソドックスなポップ・ミュージックもやっぱり最高だ。ぜんぜん病的じゃないし。

 わたしはアトラス・サウンドについての原稿や発言を目にするたびに、これってそんな小難しい音楽にしてしまわないほうが良いんじゃないですか、と思う。あるいはディアハンターならそのリリックやサウンドの真意に迫る文が必要だろう。異形を経て独自の境地に立ってみせたディアハンターというバンドは、そのくらいの理解の深さを以て聴くべきバンドなのかもしれない(もちろんそうでなくても構わない)。だが、アトラス・サウンドはもっと広義のポップ・ミュージックとして捉えたい。個人的には1曲目の「The Shakes」が一番好きな曲なのだが、このギターは毎朝聴きたくなるくらい爽やかな代物だし、次に好きな「Mona Lisa」という曲でも《いくつのファンタジーが漂流する銀河によって台無しになっただろう モナリザは君を虜にした》という示唆的な歌詞がトラヴィスをも彷彿とさせるスウィートなサウンドにのせて歌われる。みんな聴いてね。これは現代の息抜きミュージックと言ってしまっても良いと思うよ。

 

(長畑宏明)

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BEAT CULTURE.jpg もし僕がちょっとズレたレコードショップの店員ならば、思わずこんなキャッチ・コピーをつけてしまうかもしれない。"アレックス・パターソンとザ・フィールドの邂逅。そこにジェームズ・ブレイクがスパイスとなり、ハドソン・モホークラスティー とも共振する新世代アーティスト、それがビート・カルチャーだ!"と。だが、台湾在住の韓国人でありながら、アメリカのボーディング・スクールに通う、現在17歳のキムが作り上げた『Goldenbacked Weaver』を聴けば、ある種の興奮と錯乱状態に陥ってしまうのは無理もない。それほどビート・カルチャーという名の才能は、衝撃的なのだから。

 「あなたにとって日曜日の朝のトラックは?」と訊かれたら「マイ・ブラッディ・ヴァレンタインのSometimes」と答え、「ビーチでリラックスするための曲は?」との問いには「ヌジャベスのLady Brown」と返すこの青年が鳴らす音楽は、昨今のビート・ミュージックを基調としながら、前述のザ・フィールドやジ・オーブ、そしてラスティーハドソン・モホークを彷彿とさせる驚きと瞬発力、さらには、デトロイト・テクノの近未来的世界観とオービタルの恍惚感といった、所謂90年代前半のテクノが持っていたロマンと輝きが宿っている。他にもソウル・ミュージックやヒップホップ、ほんのわずかにオリエンタルな要素もありつつ、それらがすべて極上の煌めく電子音となって表現されている。

 ちなみにキムは、自分の音楽のことを「レイヴトロニカ(Ravetronica)」と呼んでいるが、例えば同じくレイヴの要素を取り入れ、ダブステップ以降のビート感覚でもって音を鳴らすマンチェスターのステイ・ポジティブとは、ちょっと違う毛色だ。「Hesitate」の高揚感や、「Pacific Dive」におけるヴォイス・サンプル使いとシンセのシーケンスの組み方からもわかるように、ビート・カルチャーの音楽は、地下に潜っていく陶酔よりも、爽快でハイなエネルギーを形成している。そしてそのハイなエネルギーは、キラキラとした純粋な音となり、最終的には光のシャワーとなって聴き手に降り注ぐ。この光のシャワーが、心地良いものであるのは言うまでもない。

 ネットが音楽を変えたというのはよく聞く話だし、アーティストやリスナー共に様々な変化を強いられたのは間違いない。しかしビート・カルチャーは、そうした変化における最大の成果のひとつと言えるかもしれない。ビート・カルチャーという名の通り、本作は"今"はもちろんのこと、過去の偉大な音楽や、そして"未来"すらも射程に入れた、"文化そのもの"を音楽で表現している。時代や場所など関係なく、ベッドルームからネットを介することで世界と繋がり、その繋がりによって、この世に存在するすべてのものに親近感を抱く。もしかしたらこの親近感は、新しい"絆"の形なのかもしれない。だからこそビート・カルチャーの音楽は、果てしない希望を鳴らすのだ。

 

(近藤真弥)

 

※本作はビート・カルチャーのバントキャンプからダウンロードできる。