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LAMA.jpg 演者と観客の間で共有される"嘘"によってエンターテイメントするポップ・ミュージックは、その効力を失ってしまった。確実にシビアな方向へ向かっている現実のなかで、"嘘"に付き合う余裕の喪失が従来の方法論に依拠するポップ・ミュージックを殺してしまったのは言うまでもないが、それでもポップ・ミュージックを求める者は後を絶たないし、自分の感性や価値観に従い、ポップ・ミュージックに飛びついたり、もしくは自分で鳴らしたりしている。

 ナカコー、フルカワミキ、田淵ひさ子、牛尾憲輔からなるLAMAは、そんな"これからのポップ・ミュージック"を模索する音楽シーンに新たな視点をもたらしうるアルバムを完成させた。不穏なノイズとヘヴィーなギター・リフが印象的な「Warning」で幕を開ける『New!』は、中毒性が高いイタロ・ディスコ「Night Telepathy」、《敵はいない》と歌われる「Rockin' Your Eyes」など、バラエティ豊かな楽曲群が収録されている。しかし本作は、バラバラで散漫なものではない。むしろ、不思議な統一感と纏まりすらある。それはおそらく、"バラバラであること"がメンバー全員の間で共有されているからではないだろうか? 決まり事がないことが決まり事であり、この自由な雰囲気が風通しの良さに繋がっている。そして風通しの良さはそのまま、『New!』という体験を一瞬で駆け抜けるスピード感となって、本作に宿っている。

 さらに、『New!』における"言葉"の在り方が面白い。適度に主張しながらも、曲を彩るパーツとして言葉が音に徹しているのだ。意味ありげになりすぎず、かといって雑に言葉を発しない繊細さもある。"言葉の語感"と"その言葉が持つ意味"がバランス良く存在し、リズムとしての歌詞とメッセージとしての歌詞、このふたつを見事に両立させたセンスはさすがという他ない。

 "非言語的空間"を志向し始めたベース・ミュージックやチルウェイヴといった音楽と、音楽というよりは"言葉そのもの"になりつつあるグライムや日本語ラップなどの音楽が注目を集め、これらが着実にポップ・フィールドを侵食している現在の音楽シーンは、ゆっくりと二極化しつつあると言っていい。そうした中で『New!』は、"非言語的空間"と"言葉"を軽やかに接合している。かつて灰野敬二は、クッキーシーンにて「だって真ん中が無いから戦争が起きるんじゃない」と語ったが、本作はその真ん中に位置する帰納的なポップ・アルバムであり、ポジティブな姿勢で、"今"という現在地からしっかりと未来を見つめている。その未来とは、初音ミク以降の、リスナーすらも"アーティスト"とする"全員参加型ポップ・ミュージック"だ。つまり"LAMA"とは、アノニマス的共有人格をポップ・フィールドで展開する、ある種のミームだと言える。本作は、共有サーバを介してアイデアや曲の断片を出し合い制作を進めていったそうだが、こうした手法も、LAMAはアノニマス的共有人格であることを示唆している。『New!』は、紛れもない未来のポップ・ミュージックなのだ。

 

(近藤真弥)

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MARISA MONTE.jpg 「グローカル(Glocal)」という言葉をよく見るようになったが、それは「グローバル」という世界の均質性と「ローカル」の地域的限定性を折衷させた文脈下で広義として、地球規模の不変性、普遍性へ地域規模での思考を研ぎ澄ませるという意味でありながらも、時折は"Think Global,Act Local"という旧態的なテーゼに収斂されることも多い。社会学者のジグムンド・バウマンの言に依拠すると、「造園」を管理しているのは今は世界側なのか、「猟場」の番人を負っているのは地域限定的なものなのかという断線も見えないことはない。

《髪を解いて 風に靡かせましょう 振り返らないで/あなたの胸の中に 刻んでいる小さな音を聞きましょう/あなたの苦痛を踊らせましょう》
(筆者訳:「O Que Voce Quer Saber De Verdade(あなたが本当に知りたいこと)」)

 弦楽器が優雅に響き、MPBを牽引してきた彼女の美声が柔和に乗り、ピアノやウクレレ、パーカッションが刻む細かいリズムがたおやかに音楽の持つ豊潤さを醸し出す1曲目から持っていかれる景色の先には、70億人に膨れ上がった地球へ、また、ブラジル音楽の地域性も反映した現在進行形の目映さがある。

 Marisa Monte(マリーザ・モンチ)の5年振り、8枚目となる新作『O Que Voce Quer Saber De Verdade』(国内盤の邦題:『あなたが本当に知りたいこと』)が見せる横顔には、伝統と現在の垣根を取り払う意欲に溢れている。06年の『Universo Ao Meu Redor(私のまわりの宇宙)』、『Infinito Particular(私の中の無限)』の二作同時リリースの内容におけるバリエーションの広さと15年振りだった07年の鮮やかな来日公演の記憶も新しく、また、08年のワールド・ツアーを巡ったドキュメンタリーのDVDなど活発な動きやフェイスブックやツイッター、公式ユーチューブの積極的な活用で随時の動向報告や楽曲の試聴を行なってきた速度の中での一つの結実がこの新譜でもあり、5年振りというタイム・スパンは感じない人も多いだろう。また、今作に収められた14曲の粒揃いの楽曲群が彼女の「成熟」を雄弁に物語っている。

 なお、今作では、過去にあったようなアート・リンゼイなどの外部プロデューサーは用いず、彼女との共同プロデュースとしてDadi(ダジ)を迎えている。ダジは、70年代初頭でのノヴァス・バイアーノスでのベーシストで、95年からは彼女のバンドに入り、ツアーにも参加している。また、世界で200万枚以上が売れ、日本でもヒットした02年の彼女とカルリーニョス・ブラウン、アルナルド・アントゥニスとのコラボレーション・グループ Tribalistas(トリバリスタス、アルバムもそのままのセルフ・タイトル)においても彼の名前があったように、彼女のブレインのような存在でもあり、同時に、ベテランとしての頼もしさがあったが、今回はプロデュース・サイドとしてクレジットされている。だからなのか、彼女と彼の長年の付き合いにおける阿吽の呼吸の中で練り込まれた親和的な部分も目立ち、伸びやかで開放感に満ちている。その「開放感」は、録音場所をブラジルのリオやサンパウロのみならず、ブエノスアイレス、ニューヨーク、ロサンゼルスと跨いだのもあるのかもしれない。

 アルバム・リリース前から、既に9曲目に入っている「Ainda Bem(アインダ・ベン)」が世界でパワー・スピンされていたが、メキシコのマリアッチのムードを想わせる興味深い曲であり、PVでのシックな空間をブラジルの屈強な総合格闘家のアンデウソン・シウバと彼女が舞うように踊りを見せるという美しいもので、視覚的な面でもこれまでの彼女のイメージをより刷新していくものだった。リリックもシンプルながらも、普遍的な「あなたに会えてよかった」というラブ・ソングで、その強度も多くの人たちの心を打った。なお、今作にも多くのメンバーが参加しているが、その中でも特筆すべきなのが、Gustavo Santaolalla(グスタボ・サンタオラージャ)だろうか。アルゼンチンの音楽シーンを牽引し、映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』、『バベル』、最近では『Biutiful』などの音楽を手掛け、プロデュース・ワークも活発に行なう重鎮。また、ジェシー・ハリスやマニー・マークといった顔も新しい。

 楽曲面でもアルゼンチン・タンゴの「El Panuelito(エル・パヌエリート)」のポルトガル語のヴァージョンであるクラシック「Lencinho Querido(お気に入りのハンカチ)」のカバーに挑み、優美なアレンジメントで今の温度を含めていたり、興味深い。アルバム全体を貫く音楽自体に贅沢な衣装(意匠)を凝らした意味でも、言語(ポルトガル語)の問題を越えて、これは世界中に届けられるべき内容になっているといえる。どの曲も上質だが、個人的には7曲目に入っているトリバリスタスとしての作品で、以前にクッキーシーンでも書いたカルリーニョス・ブラウンの『Diminuto』にも入っていた「Verdade, Uma Ilusao(真実、それは幻想)」のミッシェル・ルグランやミレニアムやアソシエーションなどのソフト・ロックを想わせるような日曜日の晴れた公園での散歩に似合う牧歌的なムードと13曲目の「Seja Feliz(幸福になって)」の3分にも満たない軽快なハミングするように唄い、サンバのリズムも入ってくる曲に魅かれた。何故ならば、今は普段の生活の中で音楽を聴く「行為」そのものの優先順位が下がっている中で、ふと何分かの間だけ視界が切り替わるようなそんな美しさがあるからなのもある。

 「造園」を管理したマリーザ・モンチのローカルな視線はグローバルへと繋ぎ、その「断線」を軽やかに越える。音楽性は違えども、シャーデー辺りの汎世界レベルの愛され方をしているフィメール・アーティストに近似しながらも、成熟と挑戦の間を往来する彼女のこれから、また、今作を踏まえたツアー、ライヴ・パフォーマンスも期待したい。

《幸せになってね あなたの国と/幸せになってね 根を張ることもなく》
(筆者訳:「Seja Feliz(幸福になって)」)

 普段の気忙しい暮らしの中で色んなものに疲れたり、何かを忘れかけた頃に、こういった音楽に触れてみて、ちょっとした憩いを想い出して欲しい作品だと思う。

 

(松浦達)

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JAMES BLAKE「Love What Happened Here」.jpg  本作は久々に《R&S》からリリースされた、全3曲入りのEP。基本的にEPでは前衛性が剥き出しな音を鳴らすことが多いジェームズ・ブレイクだが、「Love What Happened Here」はその前衛性を保ちつつも、マッド面は影を潜めている。その代わり"暖かい"とも形容できる音楽が、「Love What Happened Here」では展開されている。もちろん従来のクールな硬質感も健在だが、音が鋭く鳴りながらも、グルーヴはゆったりと心地良いタイトル・ソング「Love What Happened Here」や、ジェームズ・ブレイク流オールド・スクール・ヒップホップと言っていい、まるで最高に笑えるジョークみたいな「Curbside」など、本作におけるジェームズは、躁鬱なら"躁"、陰陽なら"陽"の面が多く見られる。

 だが「At Birth」は、本作のなかでも少しばかり浮いた曲となっている。これまた彼にしては珍しくストレートな4つ打ちで、ドイツにおけるディープ・ハウス・リヴァイヴァルを牽引するレーベル《Smallville》周辺の音に近いトラックなのだ。「Love What Happened Here」「Curbside」が、音を鳴らすタイミングや間で表情を作りあげるトラックならば、「At Birth」はEQやエフェクトで音を変化させていくトラックだと言える。

 過去のリリース群は、自分を表現すると同時に、リスナーの想像力を介入させるための"余白"を残すプロダクションに比重を傾けていたジェームズだが、本作では自分の内面を色濃く表現することで、いつも以上にジェームズ・ブレイクという存在が音に忍び込み、存在している。自分の内面とは、ある種の"エゴ"と言ってもいいが、従来の引き算の美学よりも足し算の美学を試みた結果として、必然的に"エゴ"が強調されたのだろう。

 内に秘めたる"エゴ"を言葉ではなく音で表出するため、本作でも実に様々な実験が行われているが、そんな数々の実験をあくまでポップ・ミュージックとしてスマートに遂行するジェームズ・ブレイクは、やはり最高だ。本作の出来? 素晴らしいのは言うまでもないから、訊くのは野暮ってもんです。

 

(近藤真弥)

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Underworld『A Collection』.jpg  『A Collection』だけど、これからアンダーワールドを知る人に向けた入門書的アルバムだろうと高を括っていた。過去にリリースされたアルバムやシングルをコンプリートしているファンにとっては、購買意欲をそそられるまでのものではないと・・・。ところがふたを開けてビックリ! むしろ、細かいところにまでこだわるファン向けの作品で驚いた。

 今年は日本においてアンダーワールドを観る機会が多かったように思う。3月11日の大震災を受けて、《Sonar Sound Tokyo 2011》にアンダーワールド DJsとしてカール・ハイドとダレン・プライスがノーギャラで出演し、8月には《Sonicmania》でヘッドライナーの役割を圧巻なパフォーマンスで務め上げるなど、相変わらずの姿を見せてくれた。そして2011年も終わりに差しかかる12月に彼らは、我々に『A Collection』と『1992-2012 The Anthology』というプレゼントを用意してくれた。そのうちのひとつが、今回紹介する『A Collection』だ。

 収録曲の半数が別ヴァージョンで、「Dark And Long (Dark Train)」「Mmm Skyscraper I Love You」「Rez」は"2011 Edit"となって収録されている。そして本作は、現在まで数多くのアーティストとコラボレーションしてきたアンダーワールドの成果と言えるトラックも数曲入っている。「The First Note is Silent」、「Beebop Hurry」、「Downpipe」がそれで、それぞれハイ・コントラストとティエスト、ブライアン・イーノ、マーク・ナイトとD・ラミレスといった面々とコラボした楽曲となっている。そのなかでも「The First Note Is Silent」はとても興味深い曲。トランス畑のティエストとUKドラムンベースのハイ・コントラストが参加というのもあってか、どこまでもハイになれる恍惚感と出音が強烈なビートがリスナーの耳を楽しませてくれる。正直あまりにベタな曲でどうかな? と思ったけど、ここまでベタに振りきれていたらもはや笑うしかない。2.5DやMOGRA、ニコファーレなんかで流れると映えそうなアンセム。この曲のためだけに、本作を手に取る価値はあると思います。

(近藤真弥)

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D.J.Fulltono『Planet Mu Juke Footwork Showcase Mix』.jpg  ジューク/フットワークを語るうえで、その語る人のバイアスというのは避けられないのだろうか? ジェームズ・ブレイクスクリームに混じって、DJラシャドの「Freaking Me On The Floor」がピックアップされた、クラッシュのポッドキャストにおけるナイトウェイヴのDJミックスが示唆するように、イギリスではベース・ミュージックのひとつとして、または一部の評論家が指摘する、初期のダブステップやグライムが持っていた衝動性や暴力性への回帰と捉えることも可能だろう。しかしそれは、あくまで「イギリスでは」と強調すべきだ。

 ベース・ミュージックを熱心に追いかけてきた者なら感づいているかもしれないが、ここ1~2年でダブステップは停滞期に突入している。だからこそ、この魅惑の順応性を携えた音楽を生み出したイギリスでは、前述の回帰的な位置づけでジューク/フットワークを取り入れているのだ。つまり、初期のダブステップが持っていた可能性を失ってしまった、"ポスト・ダブステップと呼ばれるもの"に興味を持てなくなった人たちが、ジューク/フットワークに初期のダブステップの残り香を見出しているのではないか?

 ついでに言及すれば、最近その名を聞くことが多くなった"フューチャー・ガラージ"も、ポスト・ダブステップという泥船と心中するのはゴメンだとばかりに作られた新しい船だろう。だがこちらは幾分精神的な意味、ジャンルや音よりも姿勢を表す言葉として使われていると推察する。"ダブステップ(もしくはポスト・ダブステップ)"で括るには無理が生じる音楽が出てきたが故に生まれた言葉、それが"フューチャー・ガラージ"だろう。そういった意味では、現代的なアプローチで斬新な音を鳴らそうとする"フューチャー・ガラージ"こそが、真のポスト・ダブステップ、未来へと続く新世代の音楽なのかもしれない。

 少し話が逸れてしまったが、"イギリスにおけるジューク/フットワーク"と"フューチャー・ガラージ"は、共にダブステップの現在地から前進しようとする動きであるのは間違いないが、前者は音を取り入れることで、後者はガラージの良質な部分を再発見するというアティチュード的な意味合いでもって、現在地から抜け出そうとしている。これがいまのイギリスにおけるベース・ミュージックの現状であり、この先これらの動きがどうなるかは、もう少し様子を見る必要がありそうだ。

 いままで述べてきたことからすれば、この混沌から距離を置いて分析できる日本の人たちのほうが、ジューク/フットワークを理解し愛することができるのかもしれない。ジューク・キャンペーンの特典として入手できる、D.J.フルトノの素晴らしいジュークミックスCD『Planet Mu Juke Footwork Showcase Mix』を聴いていると、そう思わずにはいられない。本作を前にすれば、マイク・パラディナスがFACTのDJミックスシリーズで披露したジュークミックスも霞んでしまう。それほど、関西を拠点に活動するこのDJは、ジューク/フットワークをわかっているし乗りこなしている。冒頭で話題に挙げたDJミックスで、ナイトウェイヴがジューク/フットワークをスパイス程度でしか使用できなかったことからもわかるように、今までにない独特なリズムと間を内包するジューク/フットワークを最初から最後まで繋ぎ、ひとつのストーリーとして表現するのは本当に難しい。しかしD.J.フルトノは、それをいとも簡単にやってのけている。もちろん実際は難しいのは十分承知しているが、違和感なく次々と速射砲のように曲がプレイされる本作を聴いていると、簡単に思えてしまうということだ。そしてこの事実は、ポリリズム的グルーヴの可能性を広げるジューク/フットワークを、D.J.フルトノは体で理解し感じ取るだけのセンスがあることを証明している。

 最近大型CDショップなどで"フットワーク"と呼ばれる高速ダンスの映像が流れているのを見かけるが、ジューク/フットワークのBPMの速さも手伝って、「果たしてこのダンス・ミュージックはクラブで機能し踊れるのだろうか?」と疑問を抱く人もいるだろう。この疑問に対し、本作は雄弁に答えている。そしてその答えは・・・。ぜひ本作を手に取って確認してみてほしい。自ずと答えがわかるはずだ。

 

(近藤真弥)

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安藤裕子.jpg  「我々の文明は、少なくとも一見したところでは、性の術を所有してはいない。そのかわりに、性の科学を実践している恐らく唯一の文明であろう。」
(ミシェル・フーコー)

 まず、トレードオフという言葉について考えてみよう。どんな変化にも表裏があり、それを比較して考える「べき」という当然の論理がある。隣人を愛しましょう、信号は青信号で渡りましょう、標語だらけの視界に湧きあがってくる欲望、それをネーミングするときに「トレードオフ」という言葉の意味を咀嚼しない限り、費用便益性/衝動性に則った情動を越えてくる「好き」、「愛されたい」とフィメール・アーティストの一部が金切り声であげるときにかかる重力とはミシェル・フーコーの『性の歴史』に沿うならば、「性とは寧ろ禁忌ではなく、本質的なことは、権力の行使の場における、性についての言説の増大であり、性について語ることを、そして愈よ多く語ることを、制度が煽り立てる」となる。制度論としての性の中で、例えば、Coccoが"飛魚のマーチをくぐって 宝島に着いた頃 あなたのお姫様は誰かと腰を振っている"、そんなどうしようもない真実の世界観と比して、初期に"隣人に光が差すとき"のような残酷ながらも、女性内ハイアラーキーの中で下位に自分を置きながらも、牡の精子(制止)をふりほどくように、柔らかな80年代的なエレクトニクスで覆われたオーガニックなサウンド・メイキングで如何にも「女性の、歌詞」を綴った安藤裕子というアーティストは、シンプルな言葉で言えば、女性価値の無意味性/女性意味の価値性を最初から弁えた上で、ファンタジックな色を描いていたといえる。

 女性の直観的な「可愛い」で解決する感性の深奥には、「可愛い」は"総てを越える"のではなく、"総てを包括する"というディレンマがあり、女性の美/醜の精査は男性の出世競争と比しても、よりシビアなものだろう。「美」を巡ってのコンテクストは難しい。誰にも、「美はある」が、「美学や美意識がない」場合もあり、そうなると、透けて見える美の先の人間のルックスが幾ら美しくても、モラルハザード的にどうなのだろう?という問いの前では砂上の楼閣に成り得る。安藤裕子が括られる枠はそういった意味で、ナチュラルで少し不思議な雰囲気を持った女性―つまり、簡単に言えば、少しの一般層からは退かれてしまう要素も少し持ったアーティストだった。ライヴでの衣装はざっくりとしたオーガニック生地のワンピースであったり、ハイライトの曲ではまるでシャーマニックに唄い上げる。それを女性サイドからは「可愛い」ではなく、「分かる」、「引き込まれる」という層と、男性サイドでは女性サイドにときに求める「性の重さ」という、トレードオフの間を掻い潜っていた印象がある。CMソングに抜擢された「のうぜんかつら(リプライズ)」でのたおやかな母性も彼女の特徴の一つだが、シングルで見えるキッチュなラブソングもシングルの2、3曲目に入ってくる80年代の通好みなスクエアなセルフ・カバー(例えば、「セシルはセシル」や「君は1000%」など。)も含めて、キャラクター創りとして身近なお姉さんとホーリーな存在、そこを止揚してアーティスト・イメージが照射されようとしていたがゆえに、どうにも取っ付きにくさがあったのは否めない。それを打破、ブレイクスルーしたのは、荘厳な初期の元ちとせのような雰囲気の「The Still Steel Down」ではなく、08年の8枚目のシングル「パラレル」だろう。それまでの彼女にはない疾走感、PVでは一つの画面の中にバックにドラマーだけ置き、色んな表情や動き、飛び回り、軽やかに「ハミングするように唄う」。

 《悲しみが隙を見て 顔をのぞく日もある 喜びも気がつけば いつも隣にいたよ 君が好き》
(「パラレル」)

 「君が好き」―かつてのビョークみたく、不思議・荘厳・重めの女性像を越え、ダイレクトなI Love Youへのストレートな50m走。ポップ・ソングにしては時折は、耳に障る過度な彼女のヒステリックでしゃくりあげるような声も含めて、「君が好き」まで駆け抜ける速度によって、ようやく元・女優としての枠やそれまでの「女性としての性(さが)」を噛み締めながら、詩情と私情の真ん中にファンタジーの痛さ(イタさ)を置いていたアーティストの彼女は「抜けた」。それが含まれたアルバム『Chronicle.』、ベスト盤の流れで、遂に『Japanese Pop』という正々堂々としたタイトルの「真ん中」のアルバムを2010年にリリースする。これは総体として捉えるべきアルバムであり、柔らかいソファーに身を預けるような穏やかさとウェルメイドなJ-POP的なサウンド・プロダクションに、軽やかなポップ、神秘的で繊細なバラッド、ピアノが響く小曲、シティーポップ、ハンドクラップを求めるような楽しい曲まで、彼女の癖のあるロリータ的で、ときに金切るようなヴォイスによって混ぜ合わされた良作だった。特に美しいのは、3曲目の「マミーオーケストラ」だろうか、ラウンジ・ミュージックのような柔和なエレクトロニクスとで上品なアレンジメントの浮遊感の中で、「女の子の可愛さ」と「大人の女の子の切なさ」をキュートに纏めながらも、シビアな視点を備えたほんの5分のラブソング。

 《わかるでしょ? 変われないのよ どうしても こんな風に強がりなの 優しくないの 笑ってほしい
10年前ならきっと 私でも可愛くなれた 頑ななくちびるを 今解いてほしい》
(「マミーオーケストラ」)

 「10年前」という言葉は女性にとっては、とても「重い」。しかし、「頑ななくちびるを 今解いてほしい」というのは「軽い」。その絶妙な重力と軽快な求愛の構図が年齢を越えて、女性を「女の子」へ引き戻す。いつだって女性は可愛く居たいのかもしれないし、可愛く見られたい(見られる)という訓練をされてきたがゆえの刹那さもあるからこそのコンプレックスとダイレクトな衝動の周期を巡る。

 その後、カバー集がリリースされ、そこにはくるりの「ワールズエンド・スーパーノヴァ」のカバーが入っていたりもしたが、どうにも彼女の声質と合っているとは言い難かった。さて、妊娠、第一子出産といった大きい出来事を経て、届けられたシングルがこの「輝かしき日々」だが、ここでの彼女はまるで、「これまでの安藤裕子像」をグランジ的にペイントで塗り潰すような、これまでにないノイジーで粗暴なギターロック。そこに彼女が咆哮するように、《なんと言われてもいいの 夢など覚まさない すさんだ愛情でいいの あなたを愛したい》、そして、《壊れた愛情でいいの あなたを離さない》という「パラレル」の領域よりも蛮性が増して、尚且つ、もう「あなたしかいない」という切実さが前のめりに発される。2曲目は、新曲ながらも原曲ではなく、砂原良徳氏のリミックスの「エルロイ」。ソリッドでビートが効いた雰囲気も新機軸だ。何かが吹っ切れた二曲とも言えるし、これまで安藤裕子が端整に保っていた「Japanese Pop」の枠をはみ出していく契機になるものになっている気がする。彼女はどんどん、「女の子に戻っていく」。それは「可愛い」、または「艶美」といった言葉では足りない。おそらく、このままで行けば、CharaでもYUKIでもない場所に辿りつくことだろう。そこは、「女の子の切なさと、母性」の間の細道を抜けてゆく。だから、「輝かしき日々」なのだ。既存のファンの期待を裏切っても、昨今のロボ声、大勢の女性たちのユニゾンを対象化しても、彼女が孤然とアグレッシヴなロック・チューンに舵を切ったその姿勢を僕は支持したいと思う。壊れた愛情でもいいから、もっと進めば、何か掴み取れる。性の科学が実践されている曲になった。

 

(松浦達)

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DJ Food『The Search Engine』.jpg 「現代人の生活は、多種多様な"Search Engine(検索エンジン)"に支えられている。人の仕事や遊びに影響を与え、支配していると思っている連中もいる。でもこのアルバムは『The Search Engine』で描かれた世界は、未だ発見されていない未知なるものなんだ」

 上記の発言は、オリジナル・アルバムとしては『Kaleidoscope』以来約11年振りとなる『The Search Engine』に対するDJフードのコメントである。なるほど、確かに本作は様々な要素を繋げることで、今までにない音楽の創造へ挑戦する実験精神と風通しの良さがある。とはいえこうした"接合"は元々DJフードが得意とする手法だし、このこと自体に驚きを覚えることはない。驚くべきは、過去のテクノ/ジャズなどをカットアップし、リスナーに衝撃を与えた音楽性からかけ離れた音を鳴らしている点だ。一言で言えば、本作においてDJフードはロックを鳴らしている。重厚なエレクトロを土台にサイケデリアやインダストリアル、そこに不穏なトライバル・パーカッションなどを混ぜることによって呪術的ともいえるグルーヴを生み出している。この試みのもっとも優れた成功例は、フィータスとしての活動でも知られるJ・G・サールウェルが参加した「Prey」だろう。いびつでギスギスとしたエッジがこれでもかと強調される「Prey」は、メタリカも顔を真っ青にして逃げ出すヘヴィーな雰囲気を発している。

 そして本作の見所のひとつとして、豪華な参加アーティスト達を忘れてはいけない。ケミカル・ブラザーズ「Let Forever Be」を彷彿とさせる「All Covered In Darkness (Pt.1)」にはドクター・ラバーファンク、「Giant」ではザ・ザのマット・ジョンソンが衰え知らずの歌声を聴かせてくれるし、他にも《Tru Thoughts》のナチュラル・セルフ、ミックスCDシリーズ"Solid Steel"の『Now, Listen!』『Now, Listen Again』などで交流のあるDKやセカンド・クラス・シチズンが参加している。

 ヴォーカル曲に関しては、ヴォーカリストの歌声を自身のビートとうまく調和させた秀逸な出来となっているが、声を尊重するあまり、DJフードの持つダイナミズムが削がれてしまっているのは残念だ。それでも聴き手を興奮させるだけのダイナミックな展開は維持できているし、削がれたといってもほんのわずかでしかない。まあ、もう少し声をドライに使用すれば、よりダイナミックになりそうではあるが・・・。「Colours Beyond Colours」「Magpie Music」といった曲で素晴らしいヴォイス・サンプル使いを見せているだけに、いい意味での乱暴さをもっと強調しても面白かったかもしれない。

 しかし、リスナーを約11年待たせてリリースされた作品としてのインパクトは十分に宿っている。リズムの組み立てや押し引きの妙はさすがとしか言いようがないし、冒頭の「未だ発見されていない未知なるもの」という言葉通りの世界観がアルバム全体で表現されている。素直に帰還を喜べるアルバムといっていいだろう。

 

(近藤真弥)

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Woomin『Tender Tender Trigger』.jpg  この『Tender Tender Trigger』というアルバム、すごく面白い。ドリーミーで上品なポップ・ソング集なんだけど、ほんの少しビッチでおませな感じの歌声、そして70~80年代のヨーロピアン・サウンドを基調としながらも、数多くの音楽的要素が散りばめられた曲群は、まるで牧歌的なロード・ムービーを女の子と観ているような風景が頭に浮かぶ、非常にイマジネイティヴなものだ。

 本作を作りあげたのは、ウミンという女性アーティスト。なんと彼女、作詞作曲はもちろんプロデュースやヴォーカルまで務めあげるマルチな才能の持ち主。本作ではプログラミングまでこなすなど、まさに獅子奮迅な働きぶりといったところ。しかし音のほうは荒々しいものではなく、クラシカルな匂いがする流麗なモダン・ポップだ。ビートはディスコ色が強い4つ打ちがほとんどで、派手さはないシンプルなものだが、パーカッションの部分で豊富なアイディアを駆使するなど、聴き手を飽きさせない努力が見えるのも好感度アップ。

 それでもやはり、一番興味を惹かれるのはウィスパーな歌声でしょう。彼女の囁くように歌うヴォーカルは、前述したほんの少しビッチでおませな感じも相まって、色気を感じさせる。特にジェーン・バーキンのカヴァー「Yesterday Yes A Day」で聴かせてくれるヴォーカルは、反則レベルのキュートさ。正直、惚れそうになっちゃいました。

 アルバム全体の流れや、曲そのものがもつポップネスなど数多くの魅力がある本作だが、才能が先走ってしまったのか、押し引きの妙に欠けている感は否めない。やりたいことがたくさんあるのは理解できるし、彼女自身そのやりたいことを表現できる技術もあるけど、統一感という点ではまとまりのない印象を与えてしまっている。的確なチョイスをする嗅覚は、作品を重ねることでしか鍛えられないものだと思うから、今後に期待といったところ。

 それでも本作は手に取って聴くべきレベルではあるし、この世に存在しないどこが別世界のディスコを形成する独特な雰囲気を持っているのは間違いない。これからクリスマスもくることだし、優雅で心地良いひとときを2人で過ごすときのサウンドトラックとして、『Tender Tender Trigger』を聴くのも粋だろう。

 

(近藤真弥)

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Perfume『JPN』.jpg  『GAME』におけるパフュームが衝撃的だったのは、普通にカッコいい曲を普通に可愛いアイドルが歌う構図だ。もっと言えば3人はアイドルですらなく(本人たちがいくらアイドルを自認していようが)、パフュームという巨大な音楽の一部に過ぎなかった。当時隆盛を極めていたニュー・エレクトロをポップスとしてうまく落とし込んだ中田ヤスタカの手腕もあって、当時のパフュームは"音楽そのもの"として評価されていたと思うし、だからこそ、アイドル歌謡でもなく純粋なクラブ・バンガーでもない楽曲群が斬新な響きとエッジを携えて世に広まっていった。

 結論から言ってしまえば、『JPN』にエッジは存在しない。『GAME』から3年以上経って、中田ヤスタカのサウンドに対しリスナーが慣れてしまったと考えることもできるが、パフュームの魅力が"音楽"から3人の成長記録という"物語"に比重が傾いたことが大きな要因に思える。もちろん中田ヤスタカの音作りに関する技やポップ・センスは健在だが、音を際立たせるよりも、3人の優れたアウトプット能力を助ける謂わば補佐的な役割に徹している。ニュー・エレクトロの強烈な出音ではなく、ちょっと音圧が高いエレ・ポップが大半を占めているのもそのためだろう。ヴォーカルにほぼエフェクトを使用していない「時の針」のように、『Complete Best』期を想起させる曲が収録されているのも示唆的だ。3人を前面に出したのは、彼女たちの成長した姿を認め、前述のアウトプット能力を信頼した証と捉えることも可能だが、おそらく中田ヤスタカ自身3人の成長に追いついていないのではないか?

 その3人の成長に関していえば、アイドルとしてのアウトプット能力と引き出しの多さ、そしてひとりひとりのキャラクターがより強固な形となっているのが頼もしい。先日のオールナイト・ニッポンでも証明されたように、トーク力や場に対する適応能力の高さも申し分ない。このまま順調にいけば、ガンとの闘病の末「Cosmic」という美しくも力強い名曲を生み出したカイリー・ミノーグのように、日々を生きるうえで得たものをエンターテイメントとして表現できる領域に到達するのもそう遠くないだろう。それだけに、本作におけるエッジの喪失が残念でならない。まあ、「青いイナズマ」~「ダイナマイト」のダンス・ポップ路線の流れからミドルテンポな「セロリ」をリリースしたスマップのように、プロのエンターテイナーとして真っ当なことをしているだけかもしれないが、歌謡曲の要素を色濃くし、そんなアルバムを「これが日本」と宣言するかのように『JPN』と名付けてしまうところに、拭いきれないもどかしさを感じてしまう。

 

(近藤真弥)

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セステートイレアル.jpg  金融、環境、人口の問題上で「世界」に関して区分けする必要性が無くなったこの2011年には、音楽もK-POPなどの御蔭で(決して、揶揄ではなく。)、ポップなものは言語を越えて、そのままにダイレクトに受け容れられる磁場も世界中の一部で形成されていた。それは、ブログ群から連なったチルウェイヴやウィッチ・ハウスのうねりもあるかもしれないが、あのブラジルのMPBの歌姫マリーザ・モンチがが『Red Hot + Rio 2』でディヴェンドラ・バンハート、ホドリゴ・アマランチとともにカエターノ・ヴェローゾの曲を歌うというリンクのみならず、トロピカリズモの動きがワールドワイドに繋がりながら、大きい音楽と「結節」していっている動きも見えた。

 そうなると、来年は微睡んでいるだけじゃない、重く沈むように踊るための音を作るだけじゃない、逃避に進むだけじゃない、軽やかな音自体の弾みにフォーカスを当ててくるアーティストたちも増えてくるだろう、反抗のメッセージも内側に潜ませながら。

 また、ポスト・クラシカル勢のアーティストたちは今年は面白い試みをしたが、如何せん、IDMや現代音楽の枠の中で自家中毒的になってしまうサウンドスケープの狭さも露顕した部分もあった中、今回、紹介するアルゼンチンのSexteto Irreal(以下、セステート・イレアル)は自由奔放にポスト・クラシカルから一時期のアルゼンチン音響派、ラウンジ・ミュージックまでの壁を軽やかに跨ぐ。

 セステート・イレアルとは、非現実的な六重奏団のこと。ただ、メンバーは五人である。キーマンとなるのは、クリスティアン・バッソ。彼の音はどこかで聴いたこともあるだろう、ジャズ、ロック畑の方々とのセッションに積極的に参加しながらも、彼の手掛けたヒットした韓国映画の『シークレット・サンシャイン』のクラシカルなサウンドトラックは特に多くの人の耳に入った。ツートップといっていいアクセル・クリヒエールはここ、クッキーシーンでも『Pesebre』について書かせてもらったが、日本でも人気が出てきている奇才だ。今回も、フェンダー・ローズ、シンセ、フルート、バリトン・サックス、フリューゲルホーンを担当し、要所を締めながらも、明らかに彼の音と分かる"クセ"を残している。ヴィオラ、バイオリン、クラリネット、ボンゴ、テナー・サックス、シンセC-30を負うアレハンドロ・テランは、ヒプノフォンというグループのリーダーとして07年にアルバム『El Futuro』を出している気鋭だ。また、テルミン、シンセから細かい電子音を担うマヌエル・シャジェールによって、今作は絶妙な浮遊感と不思議な色を加えている。特に、彼のテルミンは効果的だ。リズムを支えるドラム、そして、マリンバ、パーカッション、ヴィヴラフォン、バンドネオンを受け持つベテランのフェルナンド・サマレア。80年代からドラマーやバンドネオン奏者として活躍してきた重鎮であり、チャーリー・ガルシアなどのサポートとしてアルゼンチン・ロックの肝を支えてきた。この五人が組んだ結果のセッションから編み出される音は、化学反応を起こすというよりも、至って自由であり、尚且つフュージョンのような心地良さを想わせるものもありながら、エクスペリメンタルで人懐っこく、B級感―それは悪い意味ではなく、子供が玩具箱を引っくり返したときの様を大人が再構築しようとしているような―生真面目さが、良い具合に多様な楽曲を共存させている。

 1曲目の「Hembra Psicoactiva」では、シネマティック・オーケストラとステレオラブを混ぜ合わせながらも、その間をスクラッチ音とサックスで融かし、どうにも不思議な音世界に運び込んでゆく。クラブ・ジャズの要素もあれば、架空映画のサウンドトラック、そんな感触も受けるが、3分ほどであっさりと終わるムード含め、弛緩のインプロビゼーションに行かないところに彼らの明確な意図を感じる。3曲目の「Castro」は何より、面白い。タイトル通り、フィデル・カストロがアルゼンチンで演説をした際の音声をサンプリング加工して、ダヴィーな意匠で纏めている。まるで、あのギル・スコット・ヘロンとジェイミーXXの作品を彷彿させるように。カストロの声がポエトリーリーディングのように絶妙に音の中に落とし込まれる。5曲目の「Go Go Dancer」は、サックスから始まる静かなオープニングながら、じわじわと音が重ねられていき、中華風のメロディーラインが浮かんできたり、展開が興味深い。通底にはジャジーなグルーヴはあるのだが、そこにスクラッチ音やバンドネオンが遮断するため、違和を刻む。8曲目の「Morocco Hypster」に関しては完全にダブのサウンド・メイクが為されており、レゲエのリズムでじんわりと聴き手の心に染み込ませる手腕に唸らされる。個人的な白眉は、11曲目の「Chicken Dance」になる。この曲では、クンビアの馨りがしながらも、ジプシー・サウンドにも通じる何処の国籍の人でも踊れる華やかなムードがある。行き交う電子音のチープさも良い。2分強しかない曲なのだが、ライヴで是非とも聴いてみたい曲だ。全12曲ながら、40分にもいかないコンパクトな内容なものの、そこに詰め込まれた楽器の数、アイデア、展開の面白さ、音楽の語彙の多さ、アレンジメントの巧みさには驚かされる。

 アルバム名もまだ、『jogging』。そこから、"Run"へ行ったときにどういったことになるのか、注意深く追っていきたいグループだ。ライヴ・パフォーマンスを観られる日、新しい音が届くのが待ち遠しい。助走が終わっての「本走」に向けて、この作品が力付けた音楽そのものの軽快さと楽しさは頼もしい。

 こういった音はもうオルタナティヴでもエクスペリメンタルでもない。

 

(松浦達)