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SEAHAWKS.jpg  緩慢な時の流れが支配する桃源郷へようこそ。ここは人工美のキラメキと恍惚が得られる心地良い空間。ふとしたことで心が傷つき、ちょっと気休めが必要な人には最適な場所。こんな書き方をすれば"現実逃避の音楽"と思われるかもしれないが、それでけっこうじゃないか。"現実逃避"は現実を意識しているからこそできることで、閉塞感が覆うこの世界で生きるための手段、または戦いが"現実逃避"だと僕は思うよ。クラブで快楽的に踊っている人々の多くは、戦っているんです。肉体を精いっぱい動かしたり、逆に直立不動だが心と感覚をトリップさせるチル・アウトなど、多くの意味を持つ"踊る"は、現実に対する立派な戦闘行為なのだ。しかし、設立当初はエイフェックス・ツインやソニック・ユースのサーストン・ムーア、近年はハッチバックなどのニュー・バレアリック / ディスコのリリースで知られる《Lo Recordings》を主宰し、自らもMLO名義で《R&S》や《Rising High》からのリリース経験もある、謂わばオリジナル・レイヴの生き字引きジョン・タイ(Jon Tey)と、ソニーのデザイナーとして活躍したのち、トイ・デザイン会社プレイビースト(Playbeast)を設立し、水木しげるとコラボレーションもしたピート・ファウラー(Pete Fowler)によるシーホークス(Seahawks)が鳴らすダンス・ミュージックは、聴き手の心を飛ばしてくれる"チル"だ。激しく肉体を動かすよりも、聴き手をゆっくりトランス状態へと誘うアンビエントな音楽、例えばKLF『Chill Out』を思い出してもらえれば、彼らが鳴らす音楽をある程度想像できると思う。

 といっても『Invisible Sunrise』は、KLF『Chill Out』をまんま引き継いだ音ではない。クワイエット・ヴィレッジ(レディオ・スレイヴ名義で知られるマッド・エドワーズと映像作家ジョエル・マーティンのユニット)のデビューを口火に盛り上がった、ゼロ年代半ば以降のニュー・バレアリックの文脈に位置する音だ。このニュー・バレアリックは、ダウンテンポなディスコ・ミュージックを中心としながらも、新たなチル・アウトを開拓しようとするメロウな音楽も登場するなど、非常に面白い現象だった。リンドストロームやプリンス・トーマスといった北欧のアーティストが活躍したシーンだったから、レコード・ショップや音楽雑誌は"大注目の北欧系ダンス・ミュージック特集! "みたいに紹介して、やたら北欧が神格化されていた記憶がある。まあ、僕はそんなアホらしいメディアの悪習を鼻で笑っていたが・・・。このシーンは北欧だけではなく、エロール・アルカンが元サイキックTVのリチャード・ノリスと組んで結成したビヨンド・ザ・ウィザーズ・スリーヴ(Beyond The Wizards Sleeve)もいたし、ハッチバックはアメリカ西海岸のアーティストだ。これらの例からもわかるように、ニュー・バレアリックは意外と世界的なムーヴメントであり、注目されていた音楽であるのは間違いない。一時の盛り上がりと比べたら現在はだいぶ落ち着いたが、去年はホット・トディー(Hot Toddy)『Late Night Boogie』といった良盤がリリースされるなど、着実に発展と進化を遂げている。『Invisible Sunrise』は、そんなニュー・バレアリックの最新型と断言できるアルバムだ。

 ウルグアイの《International Feel》からリリースされたマインド・フェアー(Mind Fair)「Kerry's Scene」のように、サイケデリック・フォークを取り入れたアシッディーなディスコという異端が出現したりもしているが、本作は正統派と言えるだろう。彼らはファースト・アルバム『Ocean Trippin'』でジャーマン・エレクトロの影響やニュー・エイジなシンセ・ワークを披露し、続く『Vision Quest One : Spaceships Over Topanga Canyon』ではジ・オーブ『The Orb's Adventures Beyond The Ultraworld』を彷彿とさせるチル・アウトを、そして今年の夏にリリースされたミニ・アルバム(ホット・チップのメンバーも参加している)「Another Summer With Seahawks」では、アコースティックかつトロピカルな音を展開してみせたが、『Invisible Sunrise』はこの3作の要素を残しつつ、インディー・ダンスのアプローチを強調したチャレンジングな音に仕上がっている。サンプリングを使用せず、ライブ・ミュージシャンを起用しレコーディンクするなど、鮮度にこだわる姿勢も素晴らしい。そこにサックスやエレピが交わることで、80年代AORのアトモスフィアが形成され、ほんの一瞬TOTOの姿が頭に浮かぶこともある。「Love On A Mountain Top」から「New Future Blue」まで、聴き手の耳を飽きさせない万華鏡のようなプリズム的音世界が本作には存在する。

 『Invisible Sunrise』を聴きながら街を歩いていると、現実の風景が倦怠感漂う灰色に見えるときがある。それは"山" "星" "火" "空" "海"といった、自然世界を象徴する記号が紛れている曲群のせいだろう。これらの記号で彩られた本作は、現実を塗り替えるための"世界"の創造を試みているのかもしれない。それは、"チル"が単なる"逃避"から現実を意識した"現実逃避"へと変貌し、生き辛い現実に対する"対抗手段"として一定の求心力を得るまでになった証左のように思えてくる。現にこうして目の前に、形を変えながらも"チル"は存在する。このことに僕は、希望を抱かずにはいられない。まあ、多くのリアリストにとって"チル"は机上の空論だし、人によっては疎ましい音楽かもしれないが、"想像の結果として現実が形成される"と考える僕にとって"チル"は、日常の行く先を指し示す立派な羅針盤だ。

 リーマン・ショックなどによって現実がディストピアと化した今、快楽主義は価値を失い敗北への道を辿っているし、特に3・11以降の日本では、その傾向が顕著だと思う。しかし、それでも"チル"という名の快楽を纏う『Invisible Sunrise』を無視できないのは、ディストピアとなった現実に対する"抵抗の音楽"を鳴らしているから。そしてこの"抵抗の音楽"は敗北を予感する諦念に満ちたものではなく、現実を変えるために知恵と想像力を振り絞ったポジティブなものであり、その試みは成功するという確信に満ちていることを、『目に見えない日の出』と名付けられた本作は、文字通り"日の出"という形で告げている。それは、人の形をした"ナニカ"が日の出の太陽へ飛び込む瞬間を描いたジャケからも読み取れる。実はこのジャケ、真正面から見ると太陽は背後に位置し、"ナニカ"が崖から飛び降りる様子に見えるが、ある角度からジャケを見ると、人の形をした"ナニカ"が太陽へ飛び込むように見えるのだ。この仕掛けは、リスナーに対し多角的な想像力を求めるメッセージだと、僕は捉えている。"ナニカ"が太陽へ飛び込む絵は、本作がトロピクス『Parodia Flare』と同様「現実と融和し和解しようとする新たな"戦う逃避行"」であることを、そしてその戦いはすでに始まっていることを明確に示している。

 いままで述べてきたことから察するに、2人はまったく絶望していないのだろう。まあ、こんな2人をシニカルな目つきで一笑に伏す輩も居そうだね。だが、そんな輩のペシミズムに付き合うほど、僕は暗くもないし陰険ではないからねえ。悪いけど、僕もまだまだ絶望しちゃいない。というわけで僕は、ディストピアに音楽(そして"チル")という可能性で対抗する本作に賭けてみようと思う。

 

(近藤真弥)

 

※2011年12月8日リリース予定

 

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LANTERN PARADE.  考えてみると、ショーペンハウアーは、デカルトやカントが「物質界」や「物自体」とみなしたところのものを、「意志」とみなした"転回"は今でも大きかった。視角の"転換"の問題としても。ただ、この「意志」には世界内での感知出来ないものを含み、その一部を「適当」に切り取っているということであり、当たり前ではないだろうか、というところと、「勝手で、適当な意志」で、世界とはどう縁取られるのか、という難渋な議題にぶつかる。世界そのものが「見えない意志」ならば、人間側が辿る形而上的な線の上には、モデル化、存在、感情の総体的カテゴリーの縄を解く自由な何かが見える。その何かを降りていくと、「意志」がやはり見える。

 「意志」の音楽家としてのランタン・パレード。

 先ごろ、《ローズ・レコーズ》のHPにてランタン・パレードこと清水民尋氏のフリーでダウンロードすることができたMIXの「秋よ来い」の1時間ほどの選曲と繋ぎはそれこそ、一時期の橋本徹氏界隈のサバ―ビア、フリーソウル系が好きな方が聴いたらたまらないメロウネスとともにディスコ、オールド・ジャズ、サンバ、ボサノヴァ、ニューソウルなどがシームレスに結ばれていた。

 基本的に、ランタン・パレードは04年デビュー以来、音自体は過去の膨大な音楽遺産からサンプリングの引っ張り方はいつも絶妙な洒脱さでバック・トラックだけ抽出して聴くと、滑らかなインナー・シティー・ライフの綻びと機微が見えるようなものが多かった。ただ、そこにハードコア・パンクをルーツに持つ彼のラップでもポエトリー・リーディングでもないトーキング・ワーズのような、ぼそぼそとした声が乗った途端に、メロウで透き通った甘美な視界に厳然たるリアリティと彼自身のいささか過激なステイトメントが融け込み、聴き手の感性を攪乱せしめてもいた。06年の『ランタンパレードの激情』、『太陽が胸をえぐる』辺りはまだネタのセンスと絶妙な言葉のシビアさが均衡点を保っていたように思えるが、同年のミニ・アルバム『清水君からの手紙』ではもどかしそうなまでに言葉を見極め、瀬戸際のフレーズ片を投げつける。

 《音楽 どうでもいい大人 暗躍 してる業界 膨大な広告費 大層な謳い文句 大衆は真に受け でも 使い捨て 結局 ブックオフで叩き売られ》(「不浄の音楽」、『清水君からの手紙』より)

 《身だしなみに気を付ける 余裕のある絶望 とってつけたように自己卑下する傾向 若者は退廃的なものにひかれる 若者は反抗的なものにひかれる どんなにやられても報復しない覚悟はある? 》(「臆病者が突き詰めるブルース」、『清水君からの手紙』より)

 といったように、"韻を踏んでいる"ような部分もあるが、完全なるラップではなく、完全に形式をそれた演説、もしくはスラム、独り言の切っ先の尖り方が目立ち、その流れの臨界点は07年に1,000枚限定でリリースされたミニ・アルバム『絶賛舌戦中』に帰着することになる。そのタイトル通り、言葉数はより増えて、音楽というフォルムを越えて、彼の内面に秘めた過激な想いと切なさが露呈するものになった。その反動なのか、同年の『とぎすまそう』は20曲のトラック名は総て無題(「とぎすまそう」)に統一され、言葉も少なめにフロア・ライクなハウス・アルバムとして80年代的なミラーボールを用意するようなムードに行く。08年の『Tokyo Eye And Ear Control』も、『とぎすまそう』と同系列の内容になっている。"架空のMIX CD"を夢想いたというその世界観は、Lantern Paradeの懐の深さを見せたがしかし、その多作振りと質の高さになかなか評価が定まらないのを個人的に歯痒く思ってもいた。

 ジャジー、メロウで、ディスコティックにスムースに躍ることができる『とぎすまそう』、『Tokyo Eye And Ear Control』を経て、原点回帰且つ総括的な彼の持ち札とセンスを見せた09年のミニ・アルバム『Melodies&Memories』、7枚目のフル・アルバム『ファンクがファンクであったときから』、ベスト・アルバム『a selection of songs 2004-2009』で、ほぼ休憩を取らず、駆け抜けてきた軌跡が一旦、小休止されることになる。13もの作品の中からレーベル・オーナーの曽我部恵一氏の手によって、19曲が選ばれたベスト・アルバムでも十二分に彼のリリカルさと硬質さ、ハウスなどダンス・ミュージックへの傾倒の要所は伺えるが、ここから個々の作品を振り返ってみるのもいいとも思う。

 そして、今年、2年振りに『Disco Chaotic Dischord』というアルバムでシーンに帰ってきたのとともに、徹底されたダンス・ミュージックの機能性と煌めきを持ったその内容、過去のネタのカット・アップの妙は流石だったが、遂にサンプリングを捨て、自らがギターを持ち、ドラムの光永捗氏、ベース、コーラスの曽我部恵一氏、ピアノの横山裕章氏、パーカッションの高田陽平氏とのバンド形式で、8月11日にレコーディングされたのが今作『夏の一部始終』である。バンド形式ということもあるのか、これまでの彼の四畳半的な風情とDJセンスから、はっぴぃえんどや初期のくるり、または、空気公団、星野源のソロ・アルバムのような柔和な雰囲気と素朴さへ引き継がれながら、短篇小説集的な10曲が美しくも悲しくソフトに奏でられる。

 ピアノの響きが感傷を引き寄せる1曲目の「この葉散る」では、《切ない運命の人でも 本当は惨めじゃないのか 前向きな言葉を紡いだけど それはただ ついてただけなのか》のような彼特有の諦念が混じったような歌詞が耳に残る。サニーデイ・サービス的な日常を優美に筆致する3曲目の「人生は旅だそうだ」も美しい。

 《朝 冷たい水で顔を洗う まだ目は覚めないままでいる いつものことを いつものように 繰り返していくことを》(「人生は旅だそうだ」)

 現在のフォーク・リヴァイバルの流れで今、青山陽一氏、徳永憲氏や前野健太氏などの動きとも共振する部分がありながら、貫かれている諦念とちょっとした前向き、それを程良い緩さで纏め上げたこのアルバムは、やはり異質でもある。元々、ランタン・パレードにはアーティスト内にもファンが少なくなくおり、昆虫キッズやイルリメ、ceroなどから称賛の声も受けているが、この作品は、よりもっと幅広いリスナーに届いて欲しい音楽だと思う。和の情緒とブリティッシュ・フォークの折衷点にフワッと薫る倦怠が混ざったといえる白眉は、6曲目の「優しい思い出」だろう。リリカルな情景描写と清水氏の声と控えめなバンド・アレンジにより抑え目な、夏の,水溜りを反射する光のような儚い曲。

 《倒れるときも前のめりなら それは素敵というか それは粋というか》(「優しい思い出」)

 前のめりに倒れるのも、素敵なことだと思う。

 ここで、ランタン・パレードに出会うのも粋なことだと思う。

 

(松浦達)

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HENNING SCHMIEDT.jpg  ドイツから《Flau》へ届けられた、ポスト・クラシカルなピアニスト、ヘニング・シュミートによる3枚目のフル・アルバム。「暑い夏を部屋の中で快適に過ごすための音楽」である第1作、「朝食前の雲を描いた音楽」である第2作と、コンセプトに従ったアルバムが続き、本盤もまた「雨が止んだ後の散歩」というテーマが設けられている。短いメロディをそのまま丁寧に閉じ込めたような、短編的で叙情的な作品となっており、収録時間54分に対し曲数は29曲に及ぶ。ポスト・クラシカルという言葉が放つ暗然とした物淋しさとは無縁であり、暖かい春の陽気の下で木立の中を歩くような、静閑でありながらも浮足立つような、心地よい平穏さが滲み出ており、晴れやかな心模様で散歩をしている情景が目に浮かぶ。

 まず曲名がとても素敵だ。「雨が止んで」という1曲目から始まり、「散歩向けの靴」を履いて「森の中」へ足を運んでいく。「昔訪れた湖」と「広大な牧草地」を経て、「古い庭園と古木」や「朽ちた門」を通り抜けたら「小休憩」が待っている。最後は「我が家」の家路へつく、という王道ながらも清々しい道筋を辿る。アルバムの後半から、徐々に余韻を残すメロディへと移り変わっていくピアノの音色が、ただただ美しい。

 前作までと比べ、プレイ・スタイルが大きく変化している。淡々としていて起伏に乏しく、メロディよりはリズムの配置に近い、いわゆるポスト・クラシカルを象徴するような前作までとは鮮明に異なる。本盤のピアノは演奏に仄かな変化が設けられ、美しいメロディが小気味よく跳ねるようになった。それは、これまでのテーマがナイーブでノスタルジックであったのに対し、本盤がポジティブで陽気なテーマに従ったためであろう。曲名やアート・ワーク、PVなどで世界観を統一したり、物語を付与したりすることは多いが、そのためにプレイ・スタイルまでも明確に変容させることは珍しいと思う。自分のスタイルを貫く、という姿勢ではなく、アルバムのテーマに自分が殉じているようにも感じ取れ、これこそ正にロックやポップでは楽しめない特別な渋みであろう。それでも尚、エレクトロニカ出身のアーティストがピアノソロを演奏したアルバムなどとは似て非なる、上質な響きを実らせている。

 しかしながらこのアルバムは、一歩踏み外せばイージー・リスニングにもなりかねないほどに、ちょっと心地良過ぎる。ここまで快適で眠気を誘う柔らかさを保つポスト・クラシカルは、心無い人達に無責任な批判をされかねない。素直で上質な作品でありながらも、意欲的で際どい作品。朴訥な音楽が好きな私としては、文句無しに高評価。

 

(楓屋)

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Keep Shelly in Athens.jpg  インディー・ロック界隈だけでなく、各方面で話題を振りまいているキープ・シェリー・イン・アテネ。EPをリリースすれば即完売することでも知られるギリシャ出身のデュオだ。日本では音そのものよりも即完売することが話題になってしまっていて、「ちょっとそれはどうなん?」と思わなくもないが...。

 それはともかく、キープ・シェリー・イン・アテネの音楽性はほんと面白い。一言で言えばエレ・ポップだが、そこにニュー・ディスコ / バレアリックやヒップホップを取り入れるなど、非常にミュータントな音を鳴らしている。そんな2人の音から連想するバンド名を挙げていけば、エールや初期ティアーズ・フォー・フィアーズ、ほんのスパイスとして『Songs Of Faith And Devotion』以降のデペッシュ・モードが加えられているといったところだ。これらの要素を細かく噛み砕き、チルウェイヴ以降のモダンなポップ・ミュージックとして昇華するセンスがキープ・シェリー・イン・アテネの強力な武器となっている。

 しかしなにより耳を惹かれるのは、独特なシンセ・ワークだろう。クールでひんやりとしたシンセ・ワークはダーク・アンビエントな雰囲気を漂わせているが、奥底にたおやかな温もりを潜ませるなど、複層的にレイヤーが織り込まれている。ひとつひとつの音が丁寧に重ねられていて、注意深く聴けば虹のように多彩な色を感じさせるシンセ・ワークは、カラフルなミルフィーユといったところか。このシンセ・ワークに陶酔的なグルーヴとダウンテンポ・ビートが交わることによって、光と闇の間を彷徨うゴシックな雰囲気を生み出しているのもユニークだ。

 まあ、ちょっと難癖つけるとすれば、アクセントとしてビートの出音を強くする瞬間を作ってもいいんじゃないかな? 例えばアタックを強調したキックを交ぜるとかさ。マッドチェスターを彷彿とさせるリズムの組み方は悪くないけど、ビートのパターンはヴァリエーションに欠ける。音色作りは申し分ないだけに、ビートの引き出しを増やしたら、もっと化けるかもしれない。と、最後は愛の鞭で締めさせてもらう。

 

(近藤真弥)

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FaltyDL.jpg  WOMBにおけるプレイも記憶に新しいファルティーDLの新作EP。最近ファルティーDLのような音楽のことを"フューチャー・ガラージ"と呼ぶそうだが、本作は未来だけでなく、過去の偉大な音楽の影もちらつく面白い作品だ。

 まず「Atlantis」は、初期《Warp》のリリース群を想起させる。ほんの少しレトロチックだが、彼にしては珍しく複雑ではないとっつきやすい曲。奇をてらったインパクトより、音によって空間を演出することに重点が置かれているように思う。ビートが比較的シンプルなのもそのためだろう。ハウス・セットに組み込まれても違和感がないトラックだ。一方「Can't Stop The Prophet」では、ストリングスや鳥の鳴き声など、実に様々な音がカットアップされ、四方八方に散らばっている。いきなりドラムンベースが始まる展開は、ニュー・エレクトロから突如トランスへと変貌するディジー・ラスカル「Holiday」を彷彿させなくもないが、「Can't Stop The Prophet」のほうが幾分抑制的でエレガントだ。この「Can't Stop The Prophet」の目まぐるしさを引き継いだ「My Light, My Love」は、本作中もっとも忙しいトラックかつ実験精神が発揮されたトラック。正直「落ち着けよ!」と思わなくもないが、これがまた楽しいんだよね。ラスティーハドソン・モホークもそうだけど、肩の力を抜いて自由にやれば、アイディアが詰まった風通しの良い曲が生まれる。聴き込めばいろんな仕掛けが施されていることに気づくが、謂わゆる"ながら"で聴いてもすごく耳に残るし、リスナーに1対1で聴くことを過度に求めていない。

 ここまでは彼が過去に見せてきたものとは違う一面が鳴っていて、いつものファルティーDLを期待していたリスナーは不安に思うかもしれないが、彼の名を聴いて思い浮かべるであろう音に忠実なガラージ・サウンド「The Sale Ends」で本作は幕を閉じるのでご安心を。とはいえ、そこはファルティーDL。セクシーといってもいいムーディーなグルーヴが聴き手を包み込む、文字通り彼にしか生み出せない極上ガラージ・トラックとなっている。

 全体を通して聴くと、すべての音が柔らかく洗練されているのがわかる。この手の音楽に多いハードで硬質な音を求めているリスナーは肩透かしを喰らうかもしれないが、"剛"よりも"柔"を選ぶことによって、ファルティーDLは色彩豊かな音楽を鳴らすことに成功している。メランコリーでどこか影を感じさせる場面もあれば、「Can't Stop The Prophet」のようにレイヴィーで刹那的な瞬間も演出するなど、展開の早さも秀逸だ。全4曲のEPとは思えない濃密な時間は、少しばかり息苦しさを感じることもなくはないが、それでもやはり、ファルティーDLの才能は特別だ。そう思わせてくれる良盤。

 

(近藤真弥)

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AOKI LASKA.jpg  懐かしさや安心感を覚える、優しくおおらかなヴォーカルから、よくいるシンガー・ソングライターと勘違いしてしまいそうですが...。ピアノをメインに据えたアオキ・ラスカの音作りは、清涼飲料水のように爽やかで好感度高し。彼女にとって初めての(全国流通の)ミニ・アルバムだけど、全く気負いがなく、あるのはシンプルで穏やか、そしてドリーミーで時にフォーキーなポップ。ふわふわなのに、意外にも腰の入った酔拳のような(笑)、グルーヴが奥底に息づいているのも彼女の魅力の1つでしょう。

 ルーズで甘い歌い口も調子良さげで実に快く、彼女のヴォーカリストとしての素晴らしさを認識させられます。その歌が持つ表情は、たおやかながらも渇いたクールネスを湛えた彼女独自のもの。そして、静けさの中に響く、両手からこぼれ落ちる繊細で美しい音の粒たち。酔いしれること必至なサウンド・ストーリーがここにあります。黄昏色に輝く(と私は思う)ラストも本当に素敵。

 

(粂田直子)

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Moscow Club.jpg  このモスクワ・クラブなるバンド、ユーチューブにアップされている彼らのライブ映像を観る限りでは、日本の4人組バンドらしい。このバンドを知ったキッカケはバンドキャンプなのだが、まず興味を惹かれたのは「909 State EP」のジャケ。ある程度音楽を聴き込んでいる方ならすぐにピンと来るだろうこのジャケは、808ステイト の大名曲「Pacific」を彷彿とさせるものだ。そりゃあ初めて見たときは、「なめとんのかコラァ!」と思ったさ。僕にとって808ステイトはとてつもなく重要な存在であり、その808ステイトをモチーフにしたとなれば、生半可な曲じゃ満足するわけがない。モスクワ・クラブというバンド名もなんか寒そうだし、音もサムいのかな? と思って聴いてみたら、意外や意外しっかり琴線に触れたもんだからビックリ。見た目で判断してはいけないとは、このことですね。

 「909 State EP」は「Pacific 724」「Ghost Dance」の全2曲が収録されたEP。「Pacific 724」はエレクトロニック・ミュージックを基調としたインディー・ダンス。前のめりなリズムが勢いを感じさせる曲で、秀逸なポップ・ソング。そして「Ghost Dance」は、ちょっとノイジーなインディー・ロック。透明感あふれるヴォーカルと親しみやすいメロディが爽やかな雰囲気を演出している。ティーンエイジ・ファンクラブや初期のスーパーカーが好きなら気に入るはず。

 まだまだ荒削りな面は否めないが、昨今のビーチ・ポップと共振する部分もあるなど、時代を捉えるアンテナも備えている。今後の活動が楽しみなバンドであるのは間違いない。

 

(近藤真弥)

 

※本作はモスクワ・クラブのバンドキャンプからダウンロードできる。

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Walkabouts.jpg  フォーク・ロックの中でも、暑苦しい砂漠や乾燥した大地など、どことなくアフリカの自然を感じさせるスケールの大きさを放つ、より土着的な路線へと寄り添っている。蜃気楼が浮かび上がる日照りの下で、キャラバンが砂塵の大地を黙々と行進しているかのように、腰を据えたリズム隊とざらついたアコースティック・ギターが印象的に光る。6年振りのフル・アルバムは、前作で見られたアフリカ音楽への傾倒がより深まっており、本盤ではアメリカンな荒野の情景があまり喚起されることはないものの、フォーク・ロックとして着実に進化を遂げ、結果として素晴らしい出来のアルバムに仕上がっている。

 ファンタジックなゲームなどで、突然舞台が砂漠のエリアに転じた時に、がらっと空気感や質感が変わる感覚や、「一体どんな敵が現れるのだろう」とドキドキを募らせてくれる感覚など、本盤を聴けばあの高揚感に酷似したものが溢れて来る。それには、ざらついたアコースティック・ギターや、遠く響く電子音と歪んだギターのフレーズ、更にはブラシで軽やかに叩かれたドラムや、深くエフェクトをかけたヴォーカルなど、細かい配慮がなされた小道具らの全てが欠かせない。彼らが過不足無く役割を果たし、舞台を華麗なものへ際立たせているからこそ、この空気感が成立できる。

 フロントマンのChris Eckmanが、他のプロジェクトにおける活動中にサハラ砂漠へ訪れた際、本盤を制作する足がかりを得たようである。実際に砂漠へ足を運んでいなければ、アルバムのタイトルは"Dustland"ではなく、ありがちな"Desert"になっていたのかもしれない。サハラ砂漠の砂粒が、実際は塵のようにきめ細かいものであったということを、現地を訪れて知ることができたのなら、きっと充実した収穫であったに違いない。地味ながら、渋みの増した名盤である。

(楓屋)

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VA Bangs&Works Vol2.jpg  正直、僕はジューク / フットワークに関して勉強中の身である。誰もが知識人になれる情報化社会の現代において「そりゃねえだろ?」という声も聞こえてきそうだが、嘘を貫き通すのは苦手なほうだし白状しておく。ただ、ジューク / フットワークの名が知られてけっこうな時が経つ現在も、ジューク / フットワークは未知なる部分が多いのは事実だろう。多くのアンダーグラウンド・ミュージックはポップ・フィールドへ進出する過程でモダナイズされ、良く言えば洗練、悪く言えばエッジの喪失を伴うわけだが、ジューク / フットワークは独自性を保ったまま世界に広まろうとしている。それはやはり、ジューク / フットワークがゲットー・ミュージックだからだと思う。そしてそこが、ジューク / フットワークの魅力のひとつであることは間違いない。

 『Bangs & Works Vol.1: A Chicago Footwork Compilation』に続くシリーズ2作目となる本作だが、マイク・パラディナスのジューク / フットワークに対する愛があふれる素晴らしいコンピとなっている。まず、ディスクロージャーやナイトウェイヴなどのUK流に洗練されたジューク / フットワークは一切収録されていない。あるのはゲットー・マナーに忠実なジューク / フットワーク、そしてそんなシカゴのゲットー・ミュージックへの愛情と敬意だ。基本的にBPMは160以上、既存のダンスとはかけ離れた"フットワーク"と呼ばれるダンス、そのすべてが今までにないものであり、だからこそ僕もジューク / フットワークに強い興味を惹かれるのだと思う。いろんな要素が小奇麗にまとまった幕の内弁当的な昨今のダンス・ミュージックも、"芸術的観点"からすればそれはそれで面白いものだし、僕も愛聴するアルバムはいくつも存在するが、ジューク / フットワークには「肉と飯だけあればいい!」というワイルドなシンプルさがあって、そこがまた良いのだ。エッジを丸めてオブラートに包むのではなく、むしろ自分達の鳴らす音に絶対の自信を持っているから、エッジを見せつける。

 また、ジューク / フットワークを聴いていると、オーティス・レディングの音楽を想起してしまう。もちろんオーティス・レディングとジューク / フットワークが似ているのではなく、現場の匂いやそこに根付く文化をビートやグルーヴといった音楽的要素で見事に表現している点に、オーティス・レディングの音楽を想起してしまうということだ。オーティス・レディングは、自らの声やメロディでもってアフロ・アメリカン文化の価値を見せつけたことは周知の事実だが、これと似たようなものをジュークにも感じる。ラップのように言葉でアピールするわけではないが、自分たちが会得したグルーヴとリズム感覚によって現地のゲットー文化を表現しているジューク / フットワークを聴いていると、感動に近い喜びを抱いてしまう。

 そしてジューク / フットワークは、ドラムンベース以来のビート革命に近い音楽だと思っているのだが、どうだろうか? ドラムンベースまでは、BPMやリズムといったビートの部分を中心に変化させてきたダンス・ミュージックだが、エレクトロ・クラッシュ以降はニュー・エレクトロ、ダブステップという音に特色を打ち出した音楽がダンス・ミュージックを彩ってきた。そうしたなかでビートの部分は、原点回帰的にシンプルな方向へ向かっていったが、そう考えるとジューク / フットワークは、本当に"新しい"と言える音楽だと思う。

 尚、現在日本にジューク / フットワークを広めるためのキャンペーンをやっているそうで、対象商品を買うと、ジューク / フットワークをわかりやすく解説した小冊子、さらに《Bootytune》を主宰するDJフルトノによるミックスCDがついてくる。そういうこともあって、このレビューでは僕がジューク / フットワークを聴いて感じたことを書いてみた。というのもジューク / フットワークは、とてもフィジカルで「踊ったもん勝ち!」なダンス・ミュージックだと思うので。要は能動的に、感じるがままに踊ったらいいのです! こんな締めでは「いままで書いてきたのはなに?」と怒られそうだが、本当にそうだからしょうがない。とにかく、本作をキッカケとしてジューク / フットワークの世界に触れてみてほしい。AKBで踊るのもいいが、たまにはジューク / フットワークでも、なんてね。では。

(近藤真弥)

 

※キャンペーンについては、下記のリンクを参照してください。

http://soundcloud.com/pdis_inpartmaint/sets/v-a-planet-mu-juke-footwork-jp

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RYAN ADAMS.jpg  ウィトゲンシュタインに拠ると、「価値に関わる問題」は論理の形式内に当て嵌めることが出来ないという。それは論理的言語によって記述出来ないものがあるということでもありながらも、「語り得る可能性のあるもの」/「語り得ない限界のあるもの」の間の沈静に触れる。その沈静を縫うのはやはり、人間というバグの多い生物たる感性の閃きだと思う。その閃きをモノにした、今回のライアン・アダムスのアルバムは麗しい。

《And nobody has to cry / To make it seem real / And nobody has to hide / That way that they feel》
(誰も泣くことはないんだよ 本物みたいにしよう、と / 誰も隠さなくていいんだよ 心の中で思っていることは 「Come Home」)

 90年代、アンクル・テュペロを筆頭に、分派しつつも現在進行形で邁進するウィルコという流れの中で浮上してきたタームに「オルタナティヴ・カントリー」という言葉があった。カントリー・ミュージックにパンク精神を背景にしたオルタナティヴという言葉が"付く"という歴史水脈と現代的代案の違和。その「違和」を堂々と繋げてきた存在として、10代で作ったウィスキータウンというバンドをすぐに解体したライアン・アダムスという一人のアーティストの動きは、常に大きかった。兎に角、気まぐれ、気分屋、ビッグマウスであり、多産される曲群、オアシスの「Wonderwall」などをカバーしたり、記憶に残った今のところの唯一の来日公演、05年のフジロック・フェスティバルでのステージ・パフォーマンス内での途中退場、やさぐれた部分であったり、掴みどころがないながらも、その詩情溢れる胸を打つ歌詞、彼の渋みを少し帯びた声質に魅了された人は多かった。ミュージシャンズ・ミュージシャン(エルトン・ジョン、U2のボノなどファンは沢山、居る)、日本でも局地では絶大に愛されながらも、その散文的な活動形態により、評価軸が決まらなかったともいえるアーティストの一人だと言えるだろうし、それは、いまだに「オルタナ・カントリーの鬼才」という枠内で括られてしまうように、なかなか難しい場所に彼は今も居る。

 09年にマンディ・ムーア(ポップ・シンガー、アクトレス)と結婚し、完全に「活動休止」に入った彼はもう戻ってこない、とも、ふと、顔を出すのではないか、憶測や期待が行き交いながら、メニエール病を患っていて、耳鳴り、眩暈症状があるから厳しいのでは、また、音楽の業界への幻滅を感じて、独自の活動(ボブ・ディランのローリング・サンダー・レビュー的な何か)を行なうのでは、というような声がRumorに混じっていた中、ふと今年になって、以前に組んでいたバンドのカーディナルズ名義でもなく、純然たるソロ名義として『Ashes & Fire』が届けられた。昨今のインターネット上でのヘヴィ・メタル系統のリリースを含みながらも、満を持して、正面を切ってリリースされたこのアルバムは、01年の『Gold』のようなストレートなロックの派手さはほぼ翳を潜め、無論、04年の『Love Is Hell』などとも違う「骨組み」が晒されたものになっており、斑が目立っていたこれまでの作品群より静かな火照りが一貫している。レコーディング、プロデュースはローリング・ストーンズやエリック・クラプトンなどと関わってきたベテラン中のベテランのグリン・ジョーンズ。そして、盟友といえるノラ・ジョーンズが数曲でピアノとして参加し、弦楽が入った曲もあるが、基本はライアン本人のギターを軸にアコースティックな質感を保ち、彼の内的感情の襞を覗き込む繊細さ、感傷とディーセントなヴァルネラビリティが青白い血管のように明確に浮き出ている。更に、インスパイアーの起源は、ローラ・マーリング(Laura Marling)の『I Speak Because I Can』というのも面白い。

 ジョー・ヘンリーの新譜もそうだったが、着実にキャリアを重ねてきたアーティストが10年代に入り、こういったシンプルな空気の揺れに感情を重ね合わせる方向に焦点を合わせてきているというのは個人的に考えるところがなくはない。今年のチルウェイブ、シンセ・ポップのうねりの中を掻き分け、いや、スルーして、70年代初めのジェームス・テイラー、キャロル・キング辺りのSSWムーヴメントの台頭を想わせる動きに近似した別路として、静かな波紋とリンクを広げていくだろうとも思うからだ。

 アメリカン・インディーの良心たるR.E.M.の解散など何らかのパラダイムの、終わりも感じることが多かった今年のシーンだったが、もはや全面的に視えない戦時混沌下での「唄い手(SSW)」としてのアティチュードが明らかにUSでも変わっていっていることを示す意味でも、このアルバムは「重厚な聴き応え」よりも聴き手を落ち込ませない、優しさと滑らかさがあるのは、佳い傾向だと思うとともに、ライアン本人も暫しの休息を経て、ゆっくりと自分の「内面」を見詰める時間が取れたのではないだろうか、と感じる。敷衍すると、これは、「大きい作品」でも、「シーンを攪乱させるような作品」でもなく、また、音楽メディアの趨勢からすると「地味」とも評されかねない、逆説的に或る種のオルタナティヴ性を孕んでいるという意味ではライアン・アダムスというアーティストの「誠実な、天邪鬼」が敢えて、真ん中を射抜いたともいえる内容に帰一している。そこに今こそ、気付く新しいリスナーたちが増え、更に彼の過去のカタログ群を追う契機になるような気もする。

 1曲目の「Dirty Rain」の爪弾かれるギターからして、清涼な70年代のSSWの残影がふと透き通った風のように吹き抜ける。4曲目の「Rocks」も曲名と比して、描かれる叙情は「明るくなり、一日を迎える」というささやかな慕情が織り込まれ、6曲目の「Chains Of Love」では2分半ほどながら、弦が絡み、ハンク・ウィリアムズ、ジョニ・ミッチェル、アコースティック・セット/レコード・クラブでのベックの持つような感情面への叮嚀な、肌理細やかさが発現する。サイケ・フォークでも、アシッド・フォークでも、オルタナ・カントリーでもない、フォーク時代のボブ・ディランのような、『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』、『ハーヴェスト』時期のニール・ヤングのような、シンプルながら深みのある小曲を重ねてゆく様にはじわじわと染み込む「小声」がある。ふと、入り込むストリングス、ピアノなどもライアンのボーカルとギターの主張を囲い込むまではいかず、柔和な彩りを添える。

 これをレイド・バックという見方で捉えることも出来るかもしれないが、00年代を"Like A Rolling Stone"のように転げた彼がこういった明鏡止水の作品を上梓したのは意義深くもあり、自分のこれまでの混乱を冷静に振り返り、今こそ描き出す優しさ、センチメンタリズムにリーチしたというのは感慨深い。

《Somebody save me / I just can't go on / If someone don't save me / By the morning I will be gone / Somebody save me〉
(誰か、僕を救ってくれ 僕はこれ以上、進めないよ / 誰かが僕を救ってくれなかったら 朝に僕はここから去るだろう 誰か救ってよ 「Save Me」)

 この「小さな声」が今、出来る限り多くの人たちに響いて欲しい、と思う。

(松浦達)