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Coldplay-Mylo-Xyloto.jpg  彼らのライヴを今年のフジロックで観たときから、来る最新作が彼らにとって余裕の最高傑作になるであろうことを確信した。そのライヴから約2ヶ月後にリリースされたこのアルバムは、「Don't Panic」よりも「Politik」よりも「Square One」よりも「Life In Technicolor」よりも壮大で予感的で宇宙的で、飛び立つようなフィーリングに満ちた素晴らしい「Hurts Like Heaven」という曲で幕を開ける。その次に聴こえてくるのが重厚なベースラインがイントロの中核をなす「Paradise」。ノア・アンド・ザ・ホエールも早速カヴァーしたこの曲だが、前作ではこういう作風(というのはアコギ主体ではないへヴィーなバラッド)の曲がことごとくイマイチだったのに比べると、格段の進歩を遂げている。ブライアン・イーノが前作のアルバム完成直後に「早く次のアルバムを作ろう。もっと良い作品が作れるはずだから」と言ったのは、まさにこういうことだったのだ。そして、4曲目の「Charlie Brown」が早速今作のハイライト。このギターフレーズは最早反則に近いが、ついに彼らが「Yellow」「In My Place」に並ぶ名曲を手にした瞬間だ。

 彼らの多くのファンが言うように「ファーストの頃の良さを失わなければ」、あるいは「Charlie Brown」は誕生しなかったかもしれない。彼らの曲にわたしがピュアな感動を禁じえないのはこういうところなのだ。結局、音楽的に最初の地点に戻るなんてことを彼らは1ミリも考えていない。ただ、たとえ途中で道に迷ったとしても彼らは音楽への真摯な姿勢だけは見失わないので、アヴァンギャルドが恋しくなろうが、自分たちの過去の作風に退屈さを覚えようが、ソングライティングはその輝きを保ち続ける。最初「Every Tear Is A Waterfall」を聴いたときは「おいおい、こんな安直なのはナシだぜ」と思ったが、それはまったくの間違いだった。これは彼らが何周もしてたどり着いた境地だったのだ。2011年にここまでのアンセムがほかに何曲誕生しただろうか。印象的なシンセサイザーから始まり、最後まで高みに上り続ける展開はライヴの最後にはぴったりだ(実際に最新のライヴでは最後に演奏されている)。リアーナとのデュエット曲、「Prince Of China」は正直蛇足だが、クオリティは高い。「Up In Flames」もまた、前作を経たからこそ生まれた名バラッド。一気にテンションを取り戻す「Don't Let It Break Your Heart」~ラストの「Up With The Birds」にかけては、「アルバムって、こうだったらもっと興奮するだろ?」と彼らが思って、そのまま信念通りに作ったのがよく分かる流れだ。

 彼らに突出した美的センスがあるとは思えない。それは今作のアートワークを見ても分かることだ。とくに革命的なフレーズを思いつくわけでもない。さまざまな音楽的要素を集約しているわけでも、もちろんない。かといって安易なアンセムを量産しているわけでもない。彼らはメロディがすべてで、そのメロディの澄んだ美しさを批判する言葉は、わたしにはどうも説得力が欠けているように思ってしまう。そして子供のような無邪気な好奇心がある。これは強い。だって大抵の批判なんかやり過ごしてしまえるからさ。あとはクリスがなかなか頭のおかしなフロントマンだから、普通のバンドだったら立ち止まって足元を確認するところをそのまま驀進してしまうようなところがある。もちろん褒め言葉だ。

(長畑宏明)

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REAL ESTATE.jpg「もし可能であるなら、私は私の音楽を自然の法則と同じであるようにしたいと思います。しかし自然には私の音楽よりもっと多くの変化があります。(中略)私の周りに音を集めて、それをほんの少し動かすだけでいいのです。音を自転車のように動かしまわる事は最も悪いことです。」(『ジ・オーストラリアン』紙 メルディス・オークスの質問に答えての武満徹氏の言葉。)

 自然の法則のように音楽はコントロール出来るのか。MGMTのセカンドやドラムスがサーフィンに向かった海とは何だったのか、今になって考える。そこからチルウェイヴ、ヒプナゴジック、果てはウィッチ・ハウスへと急激に音楽の潮流、言義的な意味で"シエスタ"的うねりへと向かう中での「波乗り」とはつまり、現実から離れた自然主義への回帰ではなく、情報の波を泳ぎながら、アノラック、ネオアコや旧き良きオールド・ポップを現代の形で再定義してみようとした試みともいえ、寧ろそこには本当の波は打ち寄せてきてはなかったのは、MGMTのライヴ・パフォーマンスでの穏やか且つチープなサイケデリアを感じた方なら分かるだろうし、ドラムスのセカンドの真摯なダークネスといった要素を含めても、見えてくるだろう。

 サーフィンをやったことがある方なら理解し得ると思うが、サーフィンをするには、自然における「波」という現象が起きないと「成立」しない。その波が起きる為には、海流、自然の地形、そして、何よりも風が吹かないと始めることさえも出来ない。それは勿論、人為的なレヴェルを越えてくる訳であり、天候次第でサーフィンは愚か、海に出ることも叶わなくなる。では、その「波」はアルビン・トフラーの第三の波「以降」のものなのか、というと、それも精緻には違う気がする。波を待つ―それでも、サーフィンに出ることが出来なかったから、ビーチで微睡もうという姿勢が音楽「効果」の一因子であるエスケーピズムやヘドニズムと抵触した。そこから、敷衍してみると、10年代におけるサーフィン・リヴァイバルとは、「波を待つこと」そのものと「ビーチ」での待機行為の暗喩だったのかもしれない。

 ビーチ・ポップ、インディー・アンビエントの括りで纏められたきらいもあるが、ブルックリンを拠点にするリアル・エステイトのファースト・アルバムは、象徴的な一枚だった。弛緩の中にふと浮かぶ甘美なサイケデリア、アメリカーナの景色を継いだ風景。その後、ギターのマシュー・モンダニルによるソロ・プロジェクトのダックテイルズも同様に高い評価を得たが、このたび、届けられたセカンド・アルバムの『Days』では、安眠希望者たちや儚い音楽の揺れを求める人たちが愛するレーベルの《ウッディスト》を離れ、《ドミノ》からのリリースになった。その遷移が端的に表わしているように、結論から言うと、少なくとも、もうビーチには彼らは居なくなり、音がより清澄になり、涼やかさが増した。そして、よりリアリステックに「日々(Days)」を見つめる視点が強くなった。同時に、「懐かしい新しさ」がここにはあり、例えば、ザ・ディセンバリスツが掘り下げたようなアメリカーナの井戸の下でハンド・イン・ハンドするようなそういった要素と、アズテック・カメラやオレンジ・ジュース、ペイル・ファウンティンズ、さらにはベル・アンド・セバスチャンのようなネオアコ系譜の種子が埋め込まれ、全体としては、前作よりも透き通ったフォルムを描く内容になっている。リード・シングル「It's Real」で伺えたように、メロディー・センスの向上も如実にあり、兎に角、叮嚀に編ま込まれた音楽という印象を受ける。

 彼らが居ただろうビーチから、広大な田園地帯へ向かったかのように、「風を待つ」という行為の位相が変わり、微睡むよりも目覚めておくことに主軸を置いた作品にシフトした。これをして、悪しきノスタルジーへの退行、もう喪われた良き(あったはずだろう)過去を巡っての若き懐古主義者たちの音楽と称するのも正しいとは思うが、逆説的に「もはやホームはない」ということに自覚的になっているユースが世界中に居るという証左でもある。ホームがなければ、その仮想化したホームを自分たちで夢想するしかないからでもあり、だからこそ、今作での「Younger Than Yesterday」、「Reservoir」辺りの曲に垣間伺えるビターなムードも分からなくはない。

 夢想内での田園に拡がる「自然」の中で柔らかく風を集めて、音楽として鳴らす。アレンジメントとリヴァーヴのかかった音の拡がり、加え、何よりも彼らの美しいハーモニーには相変わらず磨きがかかり、確実に聴き手の視野の刷新と感性のヒーリングを促すものになった。

(松浦達)

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MANIC STREET PREACHERS.jpg  マニック・ストリート・プリーチャーズについて語るときほど、あれこれ考えをめぐらせることもないだろう。マニックスについて語るということは、自分を暴露するに等しい行為だからだ。それは、彼らがリスナーの心に足跡を残しつづけてきた証でもあるし、常に音楽シーンの最前線でサヴァイヴしてきた歴史でもある。だからこそ、マニックス像というものがそれぞれあり、数多くの議論も行われてきた。


 『National Treasures: The Complete Singles』は、そんなマニックスの歴史を知るには最適なベスト・アルバムとなっている。「Motown Junk」から最新作『Postcards From A Young Man』までのシングルを網羅しているし、これからマニックスを聴きはじめるであろう人々の入門書としても最適だ。しかし本作は、長年マニックスを支え続けてきたファンに対するプレゼントでもある。本作にはザ・ザ「This Is The Day」のカヴァーが収録されているが、この曲のMVが思い出を振り返るような作りになっており、ファンとマニックスの間だけで共有できるメッセージも込められている。こうしたダブル・ミーニング的なコミュニケーションはリスクが伴うもので、多くの誤解や批判も受けるはずだ。実際マニックスは、そうした誤解や批判を浴びてきたし、『Everything Must Go』で国民的バンドになってからも、それは変わらなかったと思う。それでもマニックスは、挫折や困難を乗り越えてきた。


 マニックスとは、世界一ダサいバンドであり、不器用なバンドである。良くも悪くも引き際というものをわきまえず、だからこそ傷つくことも多かったろうが、それでも見捨てることができないバンドだった。これは多くの人にとってそうではないだろうか? でなければ、"国宝"と名付けたアルバムを平然リリースできるような存在になれるはずがない。前述したように、彼らは多くの誤解や批判を受けてきたが、同時に多くの人にも愛されてきた。マニックスのフェイヴァリット・アルバムをひとつだけ挙げるとすれば、躊躇なく『The Holy Bible』と答えるが、そのときにしか生まれえない最大瞬間風速を閉じ込めてきたという意味では、リリースしてきたどのアルバムも一緒だ。だから正確には、『マニックス』と言うべきなのだろう。彼らの生き様や精神そのものが、ひとつの作品として人々の心を捉えているのかもしれない。


 ブックレットの最後のページ、メンバー3人の写真と共にバンドメンバーのクレジットがある。そこにはジェイムス、ニッキー、ショーンの他に、この名が記されている。


 「Richard Edwards」


 彼らはこういうヤツらなんだよね。マニック・ストリート・プリーチャーズは、いつまでも4人なのだ。



(近藤真弥)

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StrangeBoys.jpg  テキサス出身のバンド、ザ・ストレンジ・ボーイズにとって3枚目となるアルバム『Live Music』。このアルバムが本当に素晴らしいのだ。ガレージ・ロックやカントリーを上手く融合した音楽は、挑戦的かつ牧歌的。へなへなで力が抜けたヴォーカル、親しみやすいグッド・メロディーを鳴らすギター、曲に寄り添うようなリズム隊、これらが織りなす安定感に満ちたグルーヴも、彼らの高い演奏能力を証明している。おそらくこの演奏能力と一体感は、ライブでより真価を発揮するはずだ。

 そしてなにより耳を惹かれるのは、ライアン・サンボルの歌声だろう。アレックス・ターナーとボブ・ディランが合わさったようなヴォーカルは、憂いを帯びながらも、明日は明日の風が吹く的な味わい深い魅力を放っている。独特で個性的な歌声なのは間違いないし人を選ぶかもしれないが、酒で酔っぱらったかのように歌うライアンの姿が目に浮かび、思わずニンマリとしてしまう。

 しかし、本作を聴いていると、秋から冬に変化する季節の変わり目の風景が見えてくる。落ち葉が空を舞い、カップルはお互いを温め合う。それを辛辣に見つめる僕...。おっと、少しばかり僻みが入ってしまったが、とにかく、『Live Music』はそんな想像を掻き立てるゆったりとした時間が流れている。寒さが続く、これからの季節にピッタリなアルバムだ。

(近藤真弥)

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A JOURNEY DOWN THE WELL.jpg  通常クラシック・ミュージックと言えば作曲家と演奏家に分かれるのが常だが、このアーティストは自ら曲を作り、自ら演奏している。一言で言えば"モダン・クラシック"と称されるジャンルに属する音楽のようだ。だが普段我々が聴いているロックなどの音楽にもストリングスは意外と多用されており、今やその境目は曖昧になっているように感じる。

 2006年に結成され、トルコ出身のメンバー1人とスウェーデン出身のメンバー2人によって構成されている彼ら。本格的なクラシックならタイトルにも意味があるものだが、この作品ではEPのタイトルの単語を4つに分けて4曲収録するという珍しい試みをしている。中世ドイツに要約されるクラシックという音楽は、練習曲から様々なテーマをタイトルに掲げて1つの曲やシリーズなどで作られてきたものが大きい。だがそれも今では様々な進化を遂げ、コンテンポラリーなどのジャンルなどでめざましい音楽を今尚世に送り出し続けているのが現状だ。そんな中、敢えてコンテンポラリーの実験性に頼らず"モダン・クラシック"を奏でている彼らは逆に新鮮であり、ある意味この方が斬新な音楽に聴こえてくるのが不思議だ。

 ストリングス(ヴァイオリンやチェロ)を主体とし、そこにピアノやサンプリング風の音やノイズ音を混ぜ、美しく協和しながらもSilver Mt. Zionのような憂いを感じさせてくれる。歌のない音楽に不可欠な情緒をその洗練された旋律によって聴かせてくれるほか、本格派クラシックとして演奏もかなり上手で、音の強弱で更なる自由な表現を見せており、大袈裟に言ってしまえば近代におけるクラシックの在り方を提示しているとも考えられる。

 大まかに見てロシアのピアニスト、セルゲイ・ラフマニノフ以降のシーンは中世の例えば古い町並みの景色や古い自然を思わせるそんな情景をテーマにはしていない。もちろん自分で作曲し自分で演奏するという人も増えてきている。彼らの音楽において思い起こさせるのは現代を生きる人々であったり、ここではタイトルの通り3人という小さな集団が如何にしてオーケストラに成り得るのかの挑戦でもあり、多少の実験性を伴いながら(まるでそれはビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』のように)アンチ・テキスト・フォー・スクールの姿勢で人々の感情に訴えかけるある種の暗さを持っている。それはGY!BE関連にとどまらず、1/4 StickのRachel'sにも通じるところがあるだろう。彼らが示しているのは「今」なのだ。そして言葉を持たないという意味では英語圏でないヨーロッパは苦労が少ないのかもしれないが、ポップ産業がある以上"モダン・クラシック"をプレイしていくのはかなりニッチなジャンルだと言わざるを得ない。

 しかし「教科書に絶対に載らないクラシック」が何なのか、少しでも興味を持ってもらえたならこれを入門編の一枚として挙げたいと思う。たった4曲の中に詰め込まれた多くの要素、21世紀に入って届けられた異端的作品、これらをもっと多くの人々に一聴していただきたいと願っている。個人的にはアート・アニメーション作家のユーリ・ノルシュテインの作品『四季』(これはチャイコフスキーの音楽を用いているが)及びその他の作品(ソビエト生まれでロシアへの国の変革と葛藤を表している)の、小さな幸せと殺伐とした日々を描いたフィルムにも似合うのではないかと想像をかき立てられる作品だ。未だ中世の趣があるとされるチェコでも、最近の作品は昔に比べてだいぶ近代化している。そんな"モダン・クラシック"をこれを機に聴いてみては如何だろうか。きっと新たな発見があるに違いない。

(吉川裕里子)

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『ミッション 8ミニッツ』.jpg  あなた、日々得た情報を自分の言葉として話せる自信はありますか? 自分の好きな事柄に関することを掘り下げどんなに語ったとしても、それが自らの価値観を通したものでなければ、なんら響くことのない退屈な"独り言"に過ぎない。知識という"筋力"でもってなにかを語るのは、実はそう難しいことじゃない。情報過多な現代においては尚更だ。しかし、こうしたデータベースを元にしたコミュニケーションや議論は、そろそろ限界にきている。もはやこれらの多くは、自分の感性や嗅覚に自信がない臆病者の遠吠えだ。

『ミッション:8ミニッツ』は、『月に囚われた男』で話題を集めたダンカン・ジョーンズが監督を務めている。彼がデヴィッド・ボウイの息子だというのも多くの人に知られているだろう。シカゴで全乗客が死亡する列車爆破事件が発生し、その犯人探しのための極秘ミッションに米軍エリートのスティーブンスが選ばれ、彼は犯人捜しをはじめる。この犯人探しの方法が変わっていて、事故で犠牲になった人の事件発生8分前の意識に入り込み、その人物として犯人を見つけだすというもの。しかし8分後には必ず爆破が起こり、そのたびに意識は元のスティーブンスの体に戻ってしまう。この繰り返しに身を置くなかで、スティーブンスは極秘ミッションに対し疑問を抱いていくというのが大まかなストーリーだ。『月に囚われた男』同様今回も70、80年代SF映画の要素が色濃く出ていて、人間性を中心に置いた作りもダンカン・ジョーンズならでは。J・G・バラード、ウィリアム・ギブスン、キューブリックなど、キャッチ・コピーにもある"映画通"ならば、あれもこれもと指摘できるような場面が多数存在する。

 だが面白いのは、"映画通"が喜びそうな伏線を張り巡らせておきながら、最後の最後でそのすべてをひっくり返し、見事に"映画通"を裏切るようなラストになっている点だ。そういう意味では、「映画通ほどダマされる」というキャッチ・コピーもあながちウソじゃない。公開中なのでネタバレは避けるが、とりあえず"世界が創造される"とだけ言っておこう。そして、この"世界が創造される"ラストによって、僕は本作のメッセージを受けることができたのだ。

 列車爆破事件というテロや、そのテロを仕掛けた犯人の動機は9・11を想起させるものだし、話が進むにつれて明らかになるスティーブンスが置かれている状況は、反戦に対する暗喩とも受けとれるが、攻撃的な皮肉などはなく、むしろ優しく励ますような穏やかさがある。それは、過去を受け入れ前向きに生きることでしか未来は訪れないし、過去を生かすこともできないという達観に近い強さだ。最後の転送を得て達成したことをメタファーとした"生かす"も、人によっては楽観的すぎるとの声もありそうだが、希望に満ちあふれていることだけは確か。

 スティーブンスが辿りついた結末は、理屈や理性では届かないものだ。自らが望む結果を得られる"かもしれない"という不安を抱きながら最後の転送をし、彼にとって最高の結末に挑戦する。あれは一種のギャンブルに近いものだったと思う。劇中には最高の結末を約束する伏線は見られなかったし(転送シーンで近いものは見受けられるが、"成功"を約束するものではない)、まあ、だから強引すぎるなんて言われたりもするんだろうけど。でも、ここまで知識や情報が役立たずになるような映画はそうそうない。あのラストやグッドウィルへのメールなんて、事前に予想したとしても、映画に詳しくない人ほどたどり着ける予想だろう。観客には、知識と情報を捨てることが求められる映画だ。

「空想は知識より重要である。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む」

 これはアインシュタインの言葉だが、『ミッション:8ミニッツ』もこれと似たようなメッセージを発している。いまや知識とそれを集める足だけでは、差別化を計るのが不可能になってきている。そこらの大卒なんかよりよっぽど知識を蓄えたガキなんてそこらじゅうにいるし、蓄えたものを人に伝える手段も豊富だ。こうした状況が"ネット"という一定の抑止力を持つ世論を生み出し、ポジティヴな働きをしたこともあった。マスなどによる特権性や囲い込みから解放された"知識"や"情報"の流動化はアンフェアな情報格差を少なくし、マスの存在価値を揺るがすまでになった。しかし、これらの過程を得るなかで、"知識"や"情報"はふたたび"権力"となってしまった。このことによって、多くの人が裏も取らずに"情報"を盲信するようになったし、場合によってはその"情報"によって殺される、つまり自ら命を絶ってしまうことだってある。そんなの馬鹿馬鹿しい。

 スティーブンスは何度も死ぬ。8分過ぎると元の体に意識が戻り苦痛を味わうが、無情にも転送は繰り返される。そのなかで彼なりに知識や情報を蓄え、徐々に"8分間"の状況も変わっていく。それによって成果も生まれるが、前述したようにスティーブンスは"かもしれない"という不安を抱えながら、最高の結末に挑戦する。それは、彼のなかにある"想像"が希望をもたらしたからできることだ。もしかしたら、現代において"想像力"は、強力なオルタナティヴになりつつあるのかもしれない。そんなことを、『ミッション:8ミニッツ』は思わせてくれる。

(近藤真弥)

 

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SIGUR ROS.jpg  今回EMI系列から離脱してリリースされる運びとなった、アイスランドの秘宝シガー・ロス。以前『()』でグラミー賞にノミネートされた点でも世界的に認められたバンドであることは証明されているが、実はその2nd(インディーを含めれば3rd)アルバムは賛否両論だったように思う。筆者はどちらかといえばあまり賛成できなかった部類ではあったのだが、タイトルを聴く者それぞれに自由に付けてもらいたいという意向は斬新であったと同時にその後の彼らの趣向にも納得できるものとなっていった。

『Agaetis Byrjun』(= Good Start)に比べて『()』以降は特別な意味をなさないアルバム・タイトルとなっている。そして今回の『Inni』(インニイ)。"Inside"という意味が大きいが単に"The"という意味もある。後者で受け取ってしまえば今までとさほど変わらず、前者で受け取ればかなり変貌を遂げたものだということがうかがえるのだ。

 今回はバンド史上初のライヴ・アルバムということで、2CD+DVDの豪華版となっている。オープニングを飾るのはシガー・ロスの世界を全世界に初めて見せつけた『Agaetis Byrjun』から一曲。当然のことながら10分を超える大作である。そしてFat Catから限定リリースしたレア・シングル「Ny Batteri」までも収録。さすがシングルにしただけあって、改めていっそう強く印象に残る名曲だ。こんなふうに初期の曲を網羅した編成になっているのはかなり衝撃的だった。

 中盤になるにつれて、近年の曲も混じってくる。『Takk...』あたりからメンバーが結婚したり母国で幸せな生活を手に入れ始め、音にもその幸福感が滲み出るように明るい曲調、強いて言えばメジャー・コードかつミドル~ハイ・トーンを多用した楽曲が目立つようになる。そこには初期の頃に感じた"冷たさ"、"静寂の中から生まれる恐怖と興奮"はなくなっていた。それでも母国の大地を無邪気に駆け回るような"開放感"という新たな魅力が生まれていたのだった。

 後半は、再びダークな曲群が連なっている。3部構成とまでは言えないかもしれないが、徐々に真骨頂を見せてきたのだろう、これが本気の本領発揮した彼らの生き様とでも言うように、筆舌に尽くしがたい"世界"を表現している。その場にいなくても身震いがしてくる程の恍惚感と何かに打ちのめされているような悲壮感と、様々なものが入り交じって聴き手に襲いかかってくる。要するに、怖いのだ。シガー・ロスのライヴは文字通り観客を魅了する。それがこのたった2本のショウだけで存分に感じ取れてしまうのは、いくらキャリアがあるとはいえ出来過ぎではないだろうか。

 シガー・ロスの魅力というのは多々あれど、こうしてライヴを聴くと一番に、静けさと激しさが極端に表現されていることにあると感じる。静かなところは本当に無音に近い程静まり返り、ある種の緊張すらおぼえるのだ。それに対し激しい部分はこれでもかというくらい楽器をかき鳴らし...否、掻きむしり、完成された中で最大限にめちゃくちゃにしてくれる。知っての通りフロントマンのヨンシーはギターをピックや指で弾かず(一部かもしれないが)弦楽器用の弓を用いてプレイする。そうして奏でられる演奏に、ヴォーカルの声はどこまでも透き通り、ときにメインとして歌を歌い、ときにノイズに紛れた唯一の美しさとして際立って聴こえてくる。

 一つ付け加えると、案外誤解されがちな面ではあるが彼らは紛れもなくロック・バンドである。ビョークのように北欧独特の大自然のイメージこそ含まれているが、それでもモグワイやゴッドスピード・ユー! ブラック・エンペラーらと比較されておかしくない轟音ロックを奏でる人たちだ。モグワイがキュレートした今や伝説と化した2000年開催のAll Tomorrow's Partiesにも違和感なく出演していた人たちなのだ。そして特徴的なヨンシーのヴォーカルに評価が高いが、これがインストゥルメンタルでなく「歌」が入っているということが独自のポピュラリティを生み出していると考えられる。

 シガー・ロスが示したかったのは、あくまでいろんな楽器と声を全て含めての音の重ね方だったのではないか。最近でこそ歌詞に力を入れたり英語で歌ってみたりという試みが見られたものの、たとえヨンシーがシンガーとして評価されたとして、その他の楽器はそれをサポートするためにあるわけではないと思うのだ。今はソロ活動も精力的に行なっているが、この音源はそういった活動をする前(2008年)のもので、そこにはバンドとしての一体感が強く感じられる。以前レディオヘッドにサポート・アクトを任されたように、アイスランド語とはいえ「ポップ界」に組み込まれることを本人たちはどう感じていたのだろうか。決して"ポピュラー・ミュージック"ではないこの『Inni』という作品を聴く限り自分たちのやりたいことをしっかり提示しているように思う。だから多くの人々に知ってもらえる利点だけがプラスになり、それ以外の部分ではあくまで我が道を行き、どんな形であれちゃんと聴いて受け入れてもらえないならそれでいいと言えるような自信を感じさせてくれた。

 活動休止宣言から一転、活動再開を発表したシガー・ロス。これからも独自の世界観で新たな音楽を生み出していってほしいと切に願う。

(吉川裕里子)

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Madegg「Atul」.jpg  冒頭からこんなことを書くのもイヤらしいけど、『Players』のレビューで僕はこう書いている。

フライング・ロータスが主宰する《Brainfeeder》周辺の音楽にも通じるビート」

 このおかげで? というわけではないだろうが、なんとマッドエッグは、先日鰻谷燦粋でおこなわれたイベント《Brainfeeder 2》に前座として出演したのだ。「Crawl EP」のレビューでも書いたように、マッドエッグは才能あふれるアーティストだし、《Brainfeeder 2》出演も必然だったといえる。これをキッカケに、世界へ羽ばたいてほしいと思わずにいられない。

 さて、そんなマッドエッグの新作が「Atul」だ。このタイトルは、インドの美術作家アトゥール・ドディヤ(Atul Dodiya)からとったのだろうか? マッドエッグの音楽性は、ドディヤ特有の現実と幻想が混在したような絵画作品を彷彿とさせるし、そう考えても不自然じゃない気が...。まあ、それはともかく、本作はよりアグレッシブになり、フロア志向の曲も収録されている。特に「67 Floor」「Turn Sad」は、ドイツにおけるディープ・ハウス・リヴァイバルとも共振するトラックだ。といっても、そこはマッドエッグ。「67 Floor」は、おもちゃ箱から飛び出したようなノイズに、中盤あたりから交わるトライバルビートがウォブリーなスリル感を演出しているし、キラキラとしたシークエンスが特徴的な「Turn Sad」には、彼のいたずら心が滲み出ている。ビートレスな「Color Tapes」以降は、近年のビート・ミュージックを意識した「Grass」、サイケデリックな香りを漂わせる「Betweens」、海の底に沈んでいくような錯覚に陥る「We Finaly Promiced In The Aquarium」、古のIDMを現代仕様にアップデイトした「Everyone Go To This Mountain」まで、本作におけるマッドエッグは、多面的に感情を表現している。

「Atul」を通して聴くと、自分のなかの古い記憶が呼び起こされる。それは、母親の優しい声で絵本を読み聞かせてもらっていた、幼い頃の記憶と風景。他にも、砂場で友達と遊んでいる時間や、行ったことがない場所へ行く際の不安と好奇心といったものが不意に湧いてくる。そういった意味で「Atul」には、誰もが持っている幼い頃の物語を、成長記録という形で"現在(いま)"から見つめるような感覚さえある。これはある種のコンセプトだと言えなくもないが、そのコンセプトが聴き手の人生経験や個々の感性によって、様々な形に変化するのが面白い。そして、人生経験や個々の感性というフィルターを通して多様性を生み出そうとする点で、ジェームズ・ブレイクザ・フィールドといった才人と同じ方法論を実行しているとも言える。

 日本には、純粋に音楽と向き合い、その絶妙な距離感によって多くの支持を得てきたアーティストがたくさんいる。石野卓球、レイ・ハラカミ、七尾旅人などがそうだ。マッドエッグも、彼らと同じ領域に足を踏み入れつつある。

(近藤真弥)

 

※「Atul」は《Vol.4》のホームページからダウンロードできる。

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DRCMusic.jpg  近年のコノノNo.1の活躍やドキュメンタリー映画「ベンダ・ビリリ!」の公開によって、日本でも大きな注目を集めているコンゴの音楽。あいにく僕は今年のフジ・ロックには行けなかったけれども、コンゴトロニクス(コノノNo.1+カサイ・オールスターズ)With フアナ・モリーナ&スケルトンズの単独ライヴはしっかり楽しんだ。そう、「楽しんだ」という言葉がぴったりな最高のライヴだった。電気で最大限に増幅されたリケンベ(親指ピアノ)を中心に据えて打ち鳴らされる強靭でセクシャルなグルーヴ、大人数のメンバーが汗まみれになって放つピース・サイン、そして輝くような笑顔。

 世界中の音楽ファンを踊らせ、気鋭のミュージシャンたちをも魅了するコンゴの音楽。けれども、その音楽を生み出したコンゴは"楽園"などではない。コンゴ民主共和国は1998年から続く紛争で今もなお戦闘状態にある。10年間で540万人もの生命が奪われ、武装勢力による非人道的被害もあとを断たないという。DRC(Democratic Republic Of The Congo)ミュージックと名付けられたこのプロジェクトは、コンゴに暮らす人々が貧困から抜け出すことを支援する民間団体「オックスファム(Oxfam)」への援助金を集めるために、デーモン・アルバーンの呼びかけによって実現された。『Kinshasa One Two』の制作にあたっては、デーモンに声をかけられた11名のプロデューサー/ミュージシャンが今年の7月に首都キンシャサへ飛び、現地の50人以上のパフォーマーと共に5日間でレコーディングを完了。行動の素早さとリリースまでのスパンの短さが、"緊急を要するもの"という事実を何よりも雄弁に物語っている。

 そのようなコンゴにおける深刻な政治的(軍事的)背景、目を背けたくなるような現実とは裏腹に、力強い音楽に満ちあふれた素晴らしいアルバムが完成した。フェラ・クティと共にアフロ・ビートを文字通り牽引してきたトニー・アレンを"ルードなポップ・バンド"であるザ・グッド・ザ・バッド&ザ・クイーンに引き込んでしまうデーモンのセンスは、今回の"プロデューサーをプロデュース"する手腕でも冴え渡っている。ヴァンパイア・ウィークエンドからレディオヘッドまでを擁するXL Recordingsの総帥リチャード・ラッセル、ゴリラズの1stでデーモンのイメージする音像を見事に具現化してみせたダン・ジ・オートメイター、アルバムでは3曲ものプロデュースを担当するT-E-E-Dことトータリー・エノーマス・エクスティンクト・ディノサウルスなど錚々たるメンツが名を連ねる。時間的な制約と限られたレコーディング環境が逆に功を奏したのかもしれない。決して豊富とは言えないサンプリング音源をどう活かすか? という一点で参加者たちの自由なアイデアが発揮され、個性豊かなトラックが揃うことになった。

 アルバム・ジャケットとブックレットのデザインも印象的だ。材木や空き缶、鉄クズなどを組み合わせた手作りの打楽器が漆黒の闇に浮かぶ。すり減り、手垢で変色するほどに使い込まれたマラカスやリケンベ、奇妙な形のパーカッション。国内での戦闘が長引くほど、その楽器を持つ手にも力が入ったのだろう。そして、決して手放すこともなかった。アルバムに収録されているトラックからアート・ワークまで、コンゴの音楽と現地のミュージシャンたちに対するリスペクトが伝わってくる。デーモンが女性シンガーとのデュエットを聞かせるダビーなオープニング・トラック「Hallo」は初期のゴリラズのようだ。ダン・ジ・オートメイターがプロデュースを務める2曲目「K-Town」はアッパーなリフとスクラッチが最高にカッコいいヒップホップ。3曲目の「Love」のように、アフリカンなヴォーカル・トラックだけで構成された曲もある。パーカッシヴなグルーヴと独特のメロディがテクノ~ハウス、ダブステップへと連なるダンス・ミュージックのアプローチと絶妙なバランスで融合している。パワフルなヴォーカルをフィーチャーした荒削りなダンス・トラック「Three Piece Sweet Part 1 & 2」を手掛けたアクトレス(Actress)、息を呑むほど美しいアンビエント・トラック「Departure」を仕上げたクウェス(Kwess)など、新鋭のアーティストと出会う絶好の機会にもなるだろう。

 02年にリリースされたデーモン・アルバーン&マリ・ミュージシャンズ名義の『マリ・ミュージック』、ブラー『シンク・タンク』でのモロッコ音楽への接近、商業的にも大きな成果を上げたゴリラズでの様々なコラボレーション、そして『西遊記』をテーマにしたオペラの作曲などデーモン・アルバーンの未知なる音楽に対する好奇心は尽きることがないようだ。最先端の機材に囲まれた安全なスタジオを抜け出し、デジタル配信で済ませることもできる世界中の音楽と「現地」でふれあうこと。同情ではなく、行動で意思を明確にすること。それは"与える/与えられる"という恩着せがましいチャリティの定義を粉砕し、「西洋のミュージシャンがアフリカの音楽を取り入れました」的なお行儀の良さをも蹴散らす。鋼のようなグルーヴと最大限のボリュームは、人々が生きている証だ。楽器を手作りしてまでも鳴らさなければならない音楽がある。コンゴのミュージシャンたちが放つピース・サインを心して受け止めよう。

(犬飼一郎)

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SpaceDimensionController.jpg  いまやあなたは、流れてくる情報に対して返事をするしか能がない脊髄反射の塊になってしまった。ツイッターのタイムラインに反応し、自らの意見を主張したつもりになっている多くの者達。それらはすべて、誰かの意図に乗せられているだけの虚しい叫びに過ぎないとしたら・・・と、ずいぶん脅迫的な書き出しになってしまったけど、「The Pathway To Tiraquon6」の物語に入り込んでしまったら、それも無理はないということだ。

 本作は、来年リリース予定のデビュー・アルバムの前編にあたるそうだが、これは間違いだ。というのも、スペース・ディメンション・コントローラーことジャック・ハミルは、ネットレーベル《Acroplane》から『Unidentified Flying Oscillator』をリリースしている。初期エイフェックス・ツインやLFOの影響を窺わせるスペーシー・サウンドが特徴的なこのエレクトロ・アルバムは、《Acroplane》のサイトでフリー・ダウンロード可能なので、ぜひ聴いてみてほしい。

 さて、話を「The Pathway To Tiraquon6」に戻すとしよう。本作は、壮大な物語を描いたSF作品と言っていいだろう。ごちゃごちゃ説明するよりも、プレス・リリースに書かれている長文のほうがジャックの物語を伝えられそうだし、そのまま引用させてもらう。以下はプレス・リリースからの引用である。

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《これは、the Pathway to Tiraquon6(Tiraquan6への道・経路)の物語である。

西暦2257年、地球という惑星は、Pulsoviansという名で知られるエイリアンに侵略される。敵意剥き出しのエイリアンと遭遇するなんてまったく予想していなかった人類は、ここまでのスケールの攻撃に対する準備など全くできていなかった。

独自のテクノロジーを使い、エイリアン達は太陽エネルギーを吸い取り、この徐々に廃墟となっていく星で生きるための選択肢として、彼らは人類に、彼らの住む惑星Cosmo30で人間が奴隷のように働くという条件を出してきた。

人々の殆どがそのオファーを承諾したにも関わらず、そこには、地球から逃げ出し、宇宙の奥深くのどこかに新しい居場所を見つけようとした人々による小さな連合が存在した。彼らが脱出しようとしていたその時、PulsovianのリーダーであるXymah the Usurperが逃げ出すための船を不意打ちで襲ってきたが、多くの船がその攻撃から逃れることに成功し、宇宙の果てへと危険な旅に出発。その他の船は破壊され、地球の大統領と彼の官僚たちの船も破壊されてしまった。

何年もの間、生き残り自由の身となった人々は、政府も階級も、希望も存在しない宇宙の奥深くへ引きこもった。しかし、保安官であるMax Tiraquonが、人間が住むのに相応しい惑星を見つけるため、近隣の銀河系を独りで旅する任務を授かる。が、彼が探索を初めて1年後、彼のエレクトロポッドとの通信が途絶えてしまい、彼は宇宙のどこかに流されてしまったのだと誰もが思っていた。

それから数年後、正体不明の宇宙船がメインの大型船のレーダーで発見された。それはMaxだった。彼は、彼のエレクトロポッドの後ろに残された、蛍光を放つ小道を手がかりに船へと戻ってきたのである。帰還した彼は、空間格子Mikrosector-50に、地球と似た環境を持つ惑星が存在することを人々に伝えた。人間たちは直ちにその惑星へと向うコースを設定し、着陸すると同時に新しい住居を建てる計画を練り始める。Maxは、Tiraquon安全保障理事会を設立。家々の建設がTiraquonセキュリティ・バリア上で開始され、Mr. 8040と名づけられた兵士がそのバリアのパトロールに任命される。Mr. 8040は、スペース・ディメンション・コントローラー代理となり、その後、Mikrosector-50の建設中、何年にも渡り、うまく治安を維持し続けていた。ところがある日、バリアのQuandrasectorの中のライト・ビームを修理していたとき、Mr. 8040のエレクトロポッドの大部分がビームの中に叩きつけられてしまった。死を避けるため、Mr. 8040は、彼のエレクトロポッドのミクロン粒子加速器を全開にする。しかし、なんとそれが彼を2009年にタイムスリップさせてしまい... 》

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 といった具合だ。フィリップ・K・ディック顔負けなSF的設定は、物語や神話に対するアレルギーが色濃く残る現代において、時代錯誤に見える大仰なものかもしれない。しかし、それでも本作をスルーできなかったのは、クラフトワークを哲学として捉えた音を鳴らし、それを"テクノ"と呼んだホワン・アトキンスから続くテクノの歴史に連なる音楽だからだ。ホワン・アトキンスはもちろんのこと、前述したエイフェックス・ツインやLFO、デリック・メイ、ジェフ・ミルズ、808ステイトまで、数えだしたらキリがないほど多くの影がちらつく。だが、これら過去的要素はすべて現代仕様にアップデイトされ、モダンな音楽を生み出している。特に「Flight Of The Escape Vessels」「Max Tiraquon」は、ダブステップ以降の現代的なビート感覚と過去の歴史を接合した、究極のハイブリット・ミュージックとして高らかに鳴っている。

 そして、本作の物語についても言及しなければならないだろう。こうした壮大なコンセプトはジェフ・ミルズが得意とする手法で、哲学としてのテクノを標榜しているのも共通するが、ジャック・ハミルのそれは、現実を意識した非現実的世界だ。ジェフ・ミルズは圧倒的な状況と理論によって、聴き手を別の世界になかば隔離してから征服する。しかしジャックは、状況こそ作りあげるが、あくまで人類の視点から状況を描いている。"エイリアン"なんて言葉を対象物に選んでまで人類という存在を強調するのは、我々がもっとも多く接する生物であろう"人"を、聴き手の頭にすり込むためだと推察できる。このすり込みによって、聴き手は"日常"という現実を片隅に置かざるをえない。

 いままで述べてきたことを踏まえて考えれば、ジャック・ハミルは音楽に想像力(であり創造力)を取り戻そうしていることがわかる。すでに"価値"が定められたものを自動的に受け止めがちな現代において、あくまで自分の内面を出発点とした能動的表現方法は、ジャックなりの現代社会に対する抵抗ではないだろうか? ジャックもまた、想像力によって厳しいこの世界を乗り越えようとするひとりなのだろう。全11曲47分、EPと呼ぶには濃密な「The Pathway To Tiraquon6」を聴くと、そんな気がしてならない。

(近藤真弥)