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JOE HENRY.jpg  例えば、ニューオリンズの別名である(あまり良くない意味だが)"ビッグ・イージー"という言葉に沿えば、トクヴィルが想ったアメリカとは、何かしらの模範的な鎖と朴訥さ、残酷さに繋がれているともいえる可能性も含む。そこで、"ルーツ・ミュージック"を巡っていったときに仮想化されるのは、組織化された連帯としてのネーションなのか、それとも、慈恵の関係性の中で浮かび上がるフォークロア、トラディショナルとしての陽のあたる家なのか、考えるとき、複雑な気持ちが去来する。

 そこで、今、アメリカの"良心"と呼ぶことができるシンガーソングライターは、コナー・オバーストか、いや、ベイルートか、やはりノーベル文学賞に最も近いと言われる重鎮であるボブ・ディランか、多種多様な意見が出ると思うが、現時点で、ジョー・ヘンリーの存在を挙げる人は少なくないだろう。

 鑑みるに、オーネット・コールマンやミシェル・ンデゲオチェロ等が参加した暗鬱なフィルム・ノワールを彷彿させる詩情が詰め込まれた01年の『Scar』以降、00年代の躍進は目まぐるしかった。ジャズ的ではあるのだが、ブルージーな質感とダウン・トゥ・アースなボトムを重視した土臭い音風景の題材に選ばれた、黒人アーティストのリチャード・ブライアーというモティーフの断片―。その時点で、彼自身はデビューから15年を経ていたのだが、『Scar』は、確かなメルクマールになった。そして、R&Bのレジェンドといえるソロモン・パークの02年作『Don't Give Up On Me』のプロデュース、03年のレイモンド・チャンドラーの短篇集を想わせる高みまで到達した、03年の『Tiny Voices』においては、日本盤化されたのもあり、仄かなダークネス、エレガントな馨りには、世界のみならず、多くの日本のリスナーの心も掴むことになった。

 その後、ジャズ、R&Bに対しての意識をどんどん高め、ブルーズ、R&B、カントリー系のアーティストのプロデュース・ワークにも積極的に関わっていきながらも、"黒い音楽"に限りなく敬意を表し、自らの音楽性も"深化"させていった。例えば、アラン・トゥーサン、ランブリン・ジャック・エリオットでのワークスで魅せた手腕も記憶に新しいことだろう。自身の05年の『Civilians』では、ビル・フリゼール、ヴァン・ダイク・パークスの参加も功を奏し、ナイトクラブが似合うような、更に新しい世界観を手に入れた。09年のどっしりとしたブルーズ・アルバム『Blood From Stars』を踏まえ、約2年振りで届けられた彼の通算12作目となる『Reverie』の手応えは、これまでの彼の「重さ」を厭っていた人でも、気軽に暖簾を潜れるような健やかさもありながらも、長いキャリアの中で培われた土着性が滲み出ている奇妙な内容になっている。

『Reverie』では、これまでのようなジャジー、R&Bの要素は控え目であり、フォーキーであり、シンプルなサウンドに統一されながらも、歌詞は独自のリリシズムに溢れてはいるが、"抑制の美"と"弛緩の優雅さ"の狭間を往来している。全編を通じて、アコースティックな音の質感が通底しているのは、カリフォルニアの彼の家の地下室で、ベースのデイヴィッド・ピルチ、ピアノのキーファス・シアンシア、ドラムスのジェイ・ベルローズという基本、馴染みのメンバーで一気に3日間のセッションで録音したという事実に帰結してくるからかもしれない。"風通しの良さ"が、今までになくあるが、その風通しの良さは曲の中途で聞こえる鳥の鳴き声、外の音がフラットに「入っている」というラフさにも表れている。慮るに、彼は"凝る"アーティスト気質であるからして、今回はただ、そのままに"呼吸"をするように、当たり前に、"生活"するように音を密封して届けたかったのだろうと思う。しかし、その風通しの良さに彼の"声"が乗った途端、一気に叙情が倍加するのも面白い。

 いつの時代のサウンドなのか、とつい想ってしまうほど、現代的なサウンド・ワークではないが、逆に「時代を越える(タイムレス)」耐久性を得るのは、こういう作品ではないか、とも考えさせられる。マーク・リボーのギターやウクレレ、ダブリンのフィメール・シンガーソングライター、リサ・ハニガンのコーラスも効果的に入ってきながらも、際立つのは何よりもメロディーと彼の声、そして、歌詞世界の相変わらずの叙情性だったりもする。

 特筆すべきは、3曲目の「After The War」における流麗さ、9曲目の「Piano Furnace」でのスムースな雰囲気だろうか。これまで以上に、全曲をサラっと聴き通すことが出来るジョー・ヘンリーの作品という意味では示唆深いが、00年代を通して、ブルーズ、R&Bへの"重み"を追求してきた彼が10年代に入り、こういった一筆書きのように新作を上梓してきたというのは意味があると思う。過度に詰め込む情報量や歴史的背景よりも、自然の流れに沿うままに音楽を奏でる―それは、現代において、柔和に空気を揺らすのではないか、そんな気がする。

 揺れた空気越しに、音楽はまだ活き続ける。

(松浦達)

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RADICAL FACE.jpg  揶揄ではなくて、ベン・クーパーはこのファミリー・ツリー三部作を引っ提げ、もう映画監督にでも挑戦すればいいのではないかと思う。『Ghost』以来、エレクトリック・プレジデントのソングライターによる4年振りのソロ・プロジェクトは、ノースコート家という架空の家系を1800年代から1950年代まで追ったというモチーフで制作された、セピア色の長編映画をそのままアルバムに梱包したような三部作の第一作である。

 本盤は構想に4年、楽曲制作に1年余りが費やされているスケールの大きな作品となっているのだが、なんと楽曲制作の倍近くもソングライティングに時間を割いている。「ソングライティングに2年もかけるだなんて、小説家じゃあるまいし」と突っ込むのは実は自然なことで、ベン・クーパーには小説家志望だった時期もある。保存していた小説のデータが全て消滅したショックから、音楽活動を再開したという一説からも、彼の表現におけるスタイルがまず物語を描くことを前提とした気質であることが窺える。その熟考に熟考を重ねた物語のリリックはというと、見事としか言い様がないほどに聴き手の想像を膨らませる克明さを秘めている。徹底的にモチーフに忠実であり、ブックレットを読みながら楽曲を追っていくと、絵本に引きずり込まれていくような、不気味さを孕んでいる。セピア色にくすんだポートレートがブックレットの大半を占め、いずれも不穏な加工が施されている。最後の写真では、湖のほとりに建てられた小屋の前で親子が立ち並び、その頭上には家よりも巨大な蛾が止まっている。そして『君が死んだことが、ぼくには嬉しい』と殴り書きされていて、そのちぐはぐで不気味な違和感が、聴き手を物語の中へ落とし込む。

 前作の『Ghost』が短編小説なら、こちらは長編小説であり、それも一族の家系を辿り続けるのだから、スケールや風呂敷を如何様にでも広げられる大作にもなり得る。そのノースコート家がどのようにストーリー・テリングをされるのかというと、これが少しホラー的である。ノースコート家の幽霊、仰々しく換言すれば「死と再生と家族」がテーマとして取り上げられ、"ぼく"の視点から家族の凋落が不穏に記されている。何にしろ、母は"ぼく"を産んだ直後に亡くなり、やむなく姉が母の代わりに世話をするもののストレスで疲弊し始め、父は酒に溺れて自殺し、最後には死んだ兄が幽霊になって家を守る、という凄惨な物語である。これが悲劇として扱われているのではなく、「家族の間で巻き起こる不思議な出来事」として扱われている点が、シネマティックでありホラーチックである由来なのだと思う。血生臭い描写のすぐ傍らで、愛が語られるし、九曲目の幻想的なリリックなどはぞっとするほど美しく、"気味悪い一族の話"で完結していない。しかしながら、この背後からひたひたと這い寄って来るような不穏さ、一族の何世代もの話を取り上げる点、幽霊が家族を守るという、いわゆる"中学生が一度は妄想しそうなこと"――語弊を恐れずに言うならば、きちんとリリックを追って反芻した後、私はどことなく『ジョジョの奇妙な冒険』を連想した(心からの褒め言葉)。このアルバムを耳にしてブックレットを手にとれば、ほんの少しは共感が得られると思う。冗談じゃなくて。

 では、シンプルに制作された楽曲はソングライティングの副産物なのかというと、完璧主義者のベン・クーパーに限って当然そんなことはない。第一作は1800年代が舞台であるため、使用される楽器も当時から既に存在していたものに限定されており、その徹底の仕方には感服である。骨子となるのはアコースティック・ギターとピアノで、リズムにはドラム・キットではなく、主にフロア・タム、時折ハンド・クラップやシェーカーが用いられている。フロア・タムの録れ音などはかなりモダンに処理されていて、洗練されつつも古臭さはない。ドラマチックなメロディに幽玄なコーラスを重ねるスタイルはエレクトリック・プレジデント直系で、シンプルな構成の楽曲を彩る役割を担っている。第二部、第三部と時代が現代に近付くにつれて、使用される楽器も増え、楽曲の構成も複雑になっていくらしい。

 本盤は、誰の手も借りずに一人で制作した、という意味ではリビングルーム・ミュージックである。楽曲、リリック、アート・ワーク、PVまで、これらを統一された世界観に緻密に収斂させることは、バンドやユニットでは困難であろう。ミキシングやマスタリング、レコードの設立まで一人で精励したことは素晴らしいことであるが、かといって誰かの手助けがあれば世界観は薄まっていただろうし、そもそもベン・クーパー本人も、この長編小説のようなアルバムに他者の手を介入させることは望んでいなかったと思う。そう考えると、ラディカル・フェイスがソロ・プロジェクトというスタイルの理にとても適った存在であることが分かる。これでもう『エレクトリック・プレジデントの天才ソングライター』という看板は不要になった。

(楓屋)

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Nsyukugawaboys.jpg  山崎洋一郎が"最高のロックンロール・バンド"、と評したらしいが、そしてその通りだけど、何となくその言い方は一時期の狂騒を言い表したフレーズのようにも聞こえてしまうから、あんまり好かない。でも嬉しい。ここまで来た。「モテキ」効果かどうかは分からないが、アルバムも売れているらしいし、サブカルの枠を超えて話題になっている。サブカル村なんてクソくらえだから。サブカルはクソじゃないけれど、サブカル村の住人はクソだから。そして彼らが堂々と「ロック・イン・ジャパン・フェス」に出演したことは、今年のベスト・ニュースのひとつに違いない。観に行っていないから分からないけれど、そういうことにも変に意固地を張らず、ひるまず、飄々と出ていくのがじつに彼ららしいと思った。彼らには拒絶がない。後追いも何も関係ない。今回の新作『Planet Magic』は過去最高にポップで、個人的にも一番好きな作品である。こうやってメジャーになっていって、オリコン1位にくらいまで上り詰めてくれたら本気で嬉しい。でも消費されないで。誰かの音楽的アイデンティティーを向上させるためだけに使われないで。もっとみんなの人生の中心で鳴らされるポップ・ソングであって。日本のど真ん中のポップソングであって。

「プラネットマジック」も「Candy People」を凌ぐ名曲に違いないが、「ミッドナイトエンジェル」はいまだ成功を夢見るだけの日本中のバンドたちから嫉妬を買うであろう超名曲だ。彼らには才能がある。演奏力はない。でも頼むから「演奏が下手だけど、そこが良い」とか、そんな次元で収めるのは勘弁してくれ。

(長畑宏明)

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DeptfordGoth.jpg  デプトフォード・ゴスことダニエル・ウールハウス(Daniel Woolhouse)は、アクティブ・チャイルドのリリースなどで知られる《Merok》が送り出すニューカマーだ。サウスロンドン出身の彼は、ジェームズ・ブレイクを彷彿とさせるソウルフルな声の持ち主で、音楽的教養の高さも窺える。自らの歌声を躊躇なく加工しコーラス・パートに配置するなど、ジェームズ・ブレイクとの共通点を挙げていけばキリがないが、ダニエルはシリアスになりすぎず、ハッチバック的な人工美を強調したエレクトロニック・ミュージックを鳴らす。

 ちなみにアーティスト名にあるデプトフォードは、ロンドン中心部から少し離れた南東部に位置する小さな町の名前でもある。デプトフォード・マーケットには、古着や雑貨などを売る露店がずらりと並び、最近は現代アートに影響を受けた建築物が建ちはじめている。主にアフリカ系やアフロ・カリビアン系の移民が住んでおり、様々な感性が集まるハブのひとつとも言えるが、デプトフォード・ゴスの音楽も、いろんな音楽的要素で構成されている。

 世間ではポスト・ダブステップとして語られたりもするが、ダブステップをはじめとしたベース・ミュージックの要素は、ほんの僅かな割合でしかない。むしろ、80年代ニュー・ウェイヴを想起させる、ペット・ショップ・ボーイズ的なエレ・ポップが基調となっている。そこにアンビエント、R&B、ニュー・ディスコといったスパイスを加えることで、ダニエルは個性を発揮する。ある意味この雑食性が、アティチュードとしてのダブステップを表現していると言えなくもないが、「Youth II EP」を聴く限り、ベース・ミュージックに対するこだわりは感じられない。自由奔放で力みがないその音楽性は、特定のジャンルやカテゴライズを拒否するかのようだ。そんなデビューEPとなる本作は、ダニエルのインテリジェンスと将来性が詰まった、素晴らしい良盤だと言える。

(近藤真弥)

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Justice.jpg『†(クロス)』からもう4年近くになる。"衝撃的"という言葉が相応しいこのアルバムをリリースしたジャスティスは、文字通り"王者"となった。鼓膜を破壊するかのような爆音を撒き散らし、"ニュー・エレクトロ"と呼ばれたその強大なインパクトは、世界中を席巻するほどの大きな潮流となった(多くの人が"エレクトロ"と呼ぶのは承知しているが、僕にとって"エレクトロ"は、アフリカ・バンバータのような音を指す言葉だから、"ニュー・エレクトロ"と呼んでいる)。この強大なインパクトは、"東京エレクトロ"なるシーンが生まれたことからもわかるように、ここ日本にまで及んだ。80Kidzは縦横無尽に暴れまわり、さらには《XXX》のオーガナイズで話題を集めたDJキョウコ、デザイナーやモデルとしても活躍するマドモアゼル・ユリアなど、ファッション・アイコンとなるフィメールDJまで登場し、注目を集めた。そして、ニュー・エレクトロの波は、多感な10代の心も奪っていった。その代表的なパーティーである《Too Young DJ's》は、DJも10代の者がほとんどで、ニュー・エレクトロはもちろんのこと、ニュー・エキセントリックや当時のインディー・ロックに影響を受けた若者の支持も得た。このティーンエイジ・パーティーの流れは、2006年の夏、当時14歳のサム・キルコインの行動がキッカケだった。年齢を理由に観たいバンドを観ることができなかった彼は、未成年のみ入場可とするイベントを開催し、ティーンエイジャーの支持を得る。また、この勢いはドイツなどにも波及し、2007年には、リン・ラーラ・フーがハンブルクにあるクラブ《キール》で、《アイスクリーム(I-Scream)》というパーティーを始める。このパーティー自体は1年程で幕を閉じたが、インディー・ロック・ファンの間では知られるビート・ビート・ビートを無名時代からフィーチャーするなど、ドイツのインディー・シーンの発展に尽力した。

 これら一連の現象が面白かったのは、日本に居てもタイムラグを感じることなく、むしろ、世界と連動するリアルタイムなものとして発展を遂げていった点だろう。日本では風営法改正の影響もあったのだろうが、僕自身このスピードに宿る熱狂に取りつかれたひとりだし、エレクトロ・クラッシュのように、数年遅れで受け取るのではなく、自分たちで作り上げていくような感覚と参加意識が斬新に感じられた。そして、無名の若手バンドやアーティストを紹介するプラットフォームとしても機能していた。そのおかげで、知らなかった数多くのバンドを知ることができたし、音楽を聴く際の色眼鏡もなくなった。アメリカでは80年代から、当時のインディー・ミュージックに10代のファンが付きはじめたのをきっかけに、21歳以下限定のライブやイベントも散見されたけど、これと似たようなことが、ゼロ年代に起きたのだ。しかもそれは、遠く離れた海の向こうの話ではなく、ここ日本でも実感できる、目の前の出来事として。当時僕は、「ああ、セカンド・サマー・オブ・ラブ期のマンチェスターも、こんな感じだったのかな?」とか思いながら、ビートに身を任せ、誰ともわからぬ人達と笑って過ごしていた。そして、こうした数多くの場面にかならずと言っていいほど影をチラつかせていたのが、ジャスティスだったというわけだ。ジャスティス以降もニュー・エレクトロと呼ばれるアーティストは登場したが、その多くは、もはや忘れ去られた存在となっている。その点ジャスティスは、ニュースなどで名が出るたびに、多くの視線と注目が注がれた。それに値するだけの存在感を、ニュー・エレクトロのブームが去った現在も、ジャスティスは放ち続けているのだ。

 そのジャスティスが、満を持してリリースしたアルバム『Audio, Video, Disco』。「一時代を築いた王者が向かう次なる行き先は?」という期待と共に本作は聴かれるだろうけど、1曲目の「Horsepower」を聴いて、ぶったまげた。これ、プログレです。どこまでも大仰で、チープなデジタル臭を漂わせる不思議な音。アディダスのCMで使用された「Civilization」も同様だが、こちらは幾分『†(クロス)』の音楽性を引きずっている。本作はトリビュート曲も多く、「Ohio」はクロスビー、スティルス&ナッシュへ、「Brianvision」はブライアン・メイへのトリビュートだそうだ。正直、一聴しただけではわからないトリビュートではあるが、彼ら特有の解釈がユニークに鳴らされている。「On'n'on」は中期ビートルズのようだし、「Parade」ではクイーンの影響も窺わせるなど、2人にとっての音楽的文脈を披露しているようで面白い。

 本作は、80年代以前の音楽を独自の世界観で鳴らし、自由にやりたいことをやった、王者の風格と余裕を見せつけたアルバム...と、書けば聞こえはいいが、この余裕がどうしても虚栄に見えてしまう。細かいところまで仕掛けを施した前作に比べれば、意図的に軽さを演出し、リスナーの想像力に依拠する音作りは、完璧であることを放棄した白旗宣言に思える。人によっては、ザ・プロディジーが『The Fat Of The Land』のあとに「Baby's Got A Temper」をリリースしてしまったときのような、腑に落ちない気持ち悪さを抱いたとしても不思議じゃない。これらを踏まえれば、「クソだし二度と聴きたくない」と斬り捨てることも可能だが、それでも本作を繰り返し聴いてしまうのは、映画『トロン』を想起させるフューチャリスティックな音楽が先を予感させてくれるからだし、なにより、聴衆を圧倒し跪かせた前作から一転して、リスナーにサプライズを提供しようとするサービス精神と曲の構成は、前述した白旗宣言が、聴衆に手を差し伸べはじめたジャスティスの姿を映しだすように思えるからだ。本作を持ち上げることも、非情に突き落すこともできない僕にできることは、彼らが差し伸べてくれた手を取ることだけだ。

(近藤真弥)

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TheKooks.jpg  これはデビュー当時、「肝心なときにあれが勃たなくてよ」と歌っていた天然パーマのヴォーカリスト擁するイギリスのポップ・バンドが、見事に極上のAORを奏でるまでに至った証のアルバム。そのデビュー・アルバムはイギリス国内だけで200万枚近く売れた。今回の新作は全英初登場10位ですこし苦しんでいるけれど、バンド勢が軒並み商業的不調の中、よくトップ10入りしたと思う。ヴォーカルのルークは同じナルシストでもレイザーライトのジョニーほど神経質ではなく、もうちょっとテイク・イット・イージーであんまり先のことを考えていない風(それで実際は詩人)なのが良い。今回のアルバムは性急にギターをかきならす種類の楽曲は一歩後退していて、バンドの理想的な成熟を堪能することができる。そう、「クークスがいないと生きていけない」とか、「彼らも頑張ったんだね」とか、そういう感情移入の仕方はぜんぜんない。何だったらしたり顔で「クークスは良いバンドだね、ふむふむ」なんて言っている奴は音楽的スノビズムの象徴くらいに思っていて嫌っていた。でも音楽って、ポップ・ソングって、何が素晴らしいかというと、別になくても生きていけるし、でもそんなものに夢中になって、ときには涙まで流してしまうから。自分の生活に彩りが増したことに気付く瞬間に、音楽を聴く意味があると言っても個人的には過言ではない。もちろん切実な想いで聴く音楽も存在するけれど。

「Is It Me」の間奏パートのギターとそれを必死に追いかけるようにして刻まれるベースのフレーズ(この曲のチャート・アクションは散々だった。ほんとうにギター・バンドは厳しい...)。「Junk Of The Heart(Happy)」の気だるい風に歌われる「君を幸せにしたんだ」というコーラス。このアルバムにはそういう称賛されるべきパートが散りばめられているので、ちょっと落ち着いて孤独を思い知らされるような気分のときに、何となく耳を傾けたい。そしてもちろん名作である。

(長畑宏明)

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Zomby.jpg  本作を支配しているのは、大麻の煙でむせかえりそうなほどのスモーキーなサウンドだ。実際クラブでも、踊り狂うよりは大麻を吸って女の子と過ごすほうが好きらしい。まあ、こうしたキャラ設定だと言われればその通りかもしれないが、独特な雰囲気に満ちた『Dedication』を聴く限り、真性のワルなのは間違いなさそうだ。

 音のほうは、前作『Where Were U In '92?』のようなレイヴ・サウンドもあり、ゲーム好きのゾンビーらしいチップ・チューン「Black Orchid」なども存在するが、そんな比較的明るい曲でさえ(もちろん『Dedication』に収録された曲のなかではだが)とことん不気味に、まるで井戸の底から聞こえてくるかのような錯覚すら覚える。「Things Fall Apart」にいたっては、パンダ・ベアの呪術的なヴォーカルも相まって、終末感漂うレクイエムのように響く。

 アルバムを通して聴くと、なにか巨大な状況をつくりあげるかのように音が存在し、そのどれもが殺気を発していることがわかる。その状況はどこか孤独な空気を醸し出し、危険物と化した『Dedication』を封じ込めるための箱に思えてしまう。だが、この箱に封じ込められた『Dedication』は、我々を恍惚へといざなうトランシーなグルーヴを内包している。現実を幻想化し、それを想像力と狂気によって表現するような、シュールレアリスムと言ってもいいグルーヴだ。

 正直、本作を聴いて癒しや心地良さを得ることはできない。圧迫されるような息苦しさもあり、好んで近づこうとは思えない音楽を鳴らしているが、それでも、我々の心を奪ってしまう魔性的な魅力がどす黒く光っている。だからこそ、ゾンビーはどこまでも異端であり、ダブステップという器のなかで語るには無理が生じてくる。これは無視すべきでないアルバムではなく、無視できないアルバムなのだ。

(近藤真弥)

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WorldStandard.jpg  結成28年目にして10枚目となる本盤も、彼らが細野晴臣プロデュースでデビューした時から変わらない、無国籍なスロウ・ミュージックがプロフェッショナルな演奏家達によって奏でられている。全14曲の内、ほとんどの楽曲が中心人物の鈴木惣一朗によって手掛けられており、神田智子による唄が7曲の中に織り込まれている。近年、他のアーティストのサポート・メンバーやプロデュースなどにばかり活躍の目が向けられていた鈴木惣一朗であるが、今年は《Stella》という新たなレーベルを設立させ、今後、彼自身の活動が更に飛躍するであろうという期待を匂わせつつある。『おひるねおんがく』『おやすみおんがく』という二枚のコンピレーション・アルバムを《Stella》からリリースした後、本盤はレーベルでの3枚目の作品として着実に仕上げて来た。

 ギター、アコーディオン、バンジョー、スティール・ギター、ヴァイオリン、クラリネット、トイ・ピアノ等、ほぼアコースティックな楽器編成と、豪華なメンバーによる演奏が、リビング・ルームでこぢんまりと録音されており、その上質さは朴訥さで程好く包み込まれている。ほとんど職人芸であるが、本盤も、まるで自分一人のために唄ってくれているような居心地の良さ、肌触りの良さを味わえる。

 今年、もう何度も耳にした「東日本大震災を経て制作された」というフレーズは、当然本盤にも合致する。この一文があるだけで、何かそのアルバムに神秘的で良心的な価値と、時として陰鬱さや重厚さといった価値が付与されてしまっていた気がする。そして、あたかも深遠で特別な価値があるものと見なされ、「面と向かって聴かねばならない、大切なメッセージの込められた音楽である」という不透明で危うい責任を強要する文章を、何度か目の当たりにした。このアルバムのタイトルが『みんなおやすみ』なんてものだから、東日本大震災と関連付けられる文章がTwitterあたりで散見されることは容易に想像できる。

 本盤にはそういった余計な要素を持ち込まないでほしい。これは逃避のための「おやすみ」ではない。ワールドスタンダードの短い歌詞の中で伝えられていることは、窓の向こうで雪が降り、知らない街にも灯りが灯り始め、愛のあるこの世界は素晴らしく、眠り、目覚めればまた日の光―ということだけである。邪推も憶測も不要である。優しく爪弾かれる「きらきらぼし」にきな臭い世間体を持ち込むべきではないと思う。

 最後は「みんなおやすみ」と、余韻も残さず、静寂さを纏ったままにフェード・アウトしていく。はっと気付けばアルバムが終わっており、アルバムをもう一周する頃には、大人も子供もゆったりとした眠りへ誘ってくれる。『花音』にも匹敵する名盤。

(楓屋)

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YukoIkoma.jpg  なぜ芸術や科学がこんなに頼りになるのか。この世界においては、学者と技術者、それに芸術家さえ、科学と芸術家そのものさえ、きわめて強力に既成の主権に奉仕しているのだ。(中略)それは、芸術がそれ自身の偉大さ、それ自身の天才に到達すると、たちまち芸術は脱コード化や脱領土化の連鎖を想像する。
(『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』下巻 P. 284より。ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ著、宇野邦一訳 河出文庫)

 冒頭文を深く読み込めば、芸術が「既成の主権」に奉仕しているとはいえないのは分かるが、脱コード化を辿る中で、現在は、過去にセルジュ・ゲンスブールが言ったような、「何が"イン"で"アウト"か? (Qui Est In, Qui Est Out?)」という時代では無くなってきているのは確かだ。

 「イン」に組み込まれる音楽の体系は、例えば、マイケル・ギボンズのモード論下では、カリカチュアライズと類型化の模型ともいえ、「アウト」は無責任な創り手側の簡略化、短絡とすると、聴取者側は「イン」と「アウト」ではなく、「ダウン・アンド・イン」―つまりは、アヴァン・ポップの地平に自然と降り立つことになるといえるかもしれない。ダウン・アンド・イン―アヴァンギャルドではあるけれども、周縁を歩く訳でもない、Larry Mccafferyの著書を紐解くまでもなく、アヴァン・ポップの為すべき価値が求められることになる訳だ。何故に、レディオヘッドのギターリストのジョニー・グリーンウッドがクシシュトフ・ペンデレツキに興味を向けて行ったのか、コリーン、ハウシュカ、マックス・リヒター辺りの音楽が世界の現代音楽の好事家のみならず、幅広いリスナー層に受容されたのか、それは、例えば、ブライアン・イーノやマシュー・ハーバート、或るいは、トクマルシューゴの実験工房を覗き込みたいというミュージシャンのみならず、聴き手サイドの願望の投射ではなかったのか、そういうことさえも夢想することができる。もはや、「主流」が無くなったのなら、傍流には、「カラクリの自然」が求められる。「カラクリの自然」を模写するには、「オートマタ」という場所に行き着く。オートマタとは、カラクリ人形のことである。

 今回、Mama!milkの生駒祐子女史は、オートマタ作家の原田和明氏と組み、繊細にして柔らかなチェンバーポップに挑んでいる。原田和明氏の音に纏わるDesk Bell、Des Monte、Fragile Organ、Hand Xylophoneなどの連作が軽やかなノスタルジーとトイ・ポップと交接する。その箱庭内にて、生駒女史の足踏みオルガンの持つ耽美性が絡み合う。同時に、「ゲスト・ミュージシャン」には、Decoy、Matryoshka、Spoon In Space、Teddy Bear、The Shoes Of Fred Astaireといったレトロで可愛い小物、楽器が彩りを添える。玩具箱を引っ繰り返した後の、新しいカオスの地図を室内楽的に纏め、様々にして繊細な音色が響く、そのインプロの流れを追いかけるだけでも、眼福ならぬ「聴福」がある。

 具体的に、本作はPartⅠ~Ⅴまでの五部構成になっている。3曲目の「Waltz For Lily Of The Valley」には、清みきったベルの音と足踏みオルガンの優美な融和が純喫茶での一杯のコーヒーが醒めるまでの、対話、時間を護る柔らかさがあり、7曲目の「Serenade For Wind Bell」には煌めく音空間があくまで上品に紡がれる。12曲目の「Rendez‐Vouz」も美麗ながら、ファストなスリップストリーム(傍流文学)への敬虔さがあり、全体を通して、23曲で45分にも満たないが、麗しいサウンドが運んでゆく場所には、パスカル・コムラードの『Traffic D'Abstraction』のようなサウンドが密かに微笑んでいるような、つまり、ベル・カント・オルケストラの近似を揺蕩う。

 そもそも、タイトル名からして『Suite For Fragile Chamber Orchestra』(フラジャイル室内楽団のための組曲)であるからして、推察しても然もありなんだろう。これはポストコンテンポラリー・フィクションとしてのオートマタ楽団員たちと、生駒女史の白昼夢なのだろうか。僕は決してそうではない、と思う。昼下がりのナルコレプシー的な音空間の縁を巡りながら、静かに「アートの力」を再定義しながらも、「中心」のギミックを避け、トマス・ピンチョンが仕掛けたような過大な「重力」がかかった「虹」を渡るような街路を往く。

 その「街路」には、全面的な節電下の日本で、ほんの僅かだけ光を喪った、光をもう一度、捉え直すだろう。重度の情報エントロピーに疲れた人たちに向けて、この作品は何らかの福音になると思っている。「壊れものとしての人間」は、「壊れものとしての音楽」を扱う際の配慮はこれだけ肌理細やかになるということを示した力作だと思う。

(松浦達)

 

【筆者注】2011年11月11日発売

生駒祐子オフィシャルHP

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James Blake「Enough Thunder EP」.jpg  静かな高揚感を携えた「Once We All Agree」で幕を開ける「Enough Thunder EP」。本作はソウル・ミュージックの要素が目立ち、『James Blake』にあったベース・ミュージックの要素は後退している。そして、「Order / Pan」で見せたマッドな面が窺える。このマッドな面に関しては「We Might Feel Unsound」に顕著で、ジュークを匂わせるビート、そこへ不気味な音響処理とジェームズの歌が交わっていくこの曲は、『James Blake』以降の実験が実を結んだ名曲と断言していい。だが、この成果で満足しないジェームズは、「Not Long Now」でさらなる実験精神を見せつける。リバーブをかけるタイミングや長さ、注意深く耳を傾けないと分からないディレイなど、隅々まで神経が行き届いた、狂気に近い完璧主義が支配する。しかし、ソウル・ミュージックの要素がもっとも色濃く出た、ボン・イヴェールとのコラボ曲「Fall Creek Boys Choir」では、心に訴えかける素直な感情が露わになる。優しく抱擁するようなピアノが美しい「Enough Thunder」や、ジョニ・ミッチェル「A Case Of You」のカヴァーも同様で、今まで以上にパーソナルな面が表現されているのも、「Enough Thunder EP」の特徴だ。

 本作を聴いても分かるように、ジェームズ・ブレイクの音楽には、ソウル・ミュージックもあればミニマル・テクノもある。ブルース、ゴスペル、アンビエント、ベース・ミュージックなど、数えだしたらキリがないほど、様々な音楽が鳴っている。だからこそ、ジェフ・バックリィの系譜で捉えることもできるし(僕も最初はそうだった)、ダブステップの文脈で聴く者もいる。しかし、個々の経験や価値観といったフィルターを通せば、また違うものに見えてくる。この見えてくるもの、つまりイメージを増やすことに、ジェームズは力を注いでいるのではないだろうか?

『Looping State Of Mind』におけるアクセル・ウィルナー(ザ・フィールド)もそうだが、ジェームズ・ブレイクは、イメージの連鎖によって聴き手の興味を引き寄せる。それはビートではなく、音の連続によって生み出すグルーヴ、"音によるリズム"と言ってもいい。最初は、音の中にジェームズ・ブレイクという"主体"を感じ取ることができるが、音を聴いてイメージを浮かべる、そしたら次の音がやってきて、また新しいイメージを浮かべるといった具合に、前述したイメージの連鎖によって、どんどん"主体(ジェームズ・ブレイク)"から視線がずれていく。そして、浮かべたイメージが積み重なったとき、新たな主体が目の前に現れる。それは"聴き手という主体"だ。ジェームズ・ブレイクの音楽は、"聴き手という主体"と"聴き手"が向き合っているかのような心理状態を作り出す。このまったく新しい音楽的体験に、我々は衝撃を受けてしまったのだ。聴き手の想像力、人生経験、正直な心、そして、これらを聴き手から引き出すジェームズのアイディア。すべてが必要不可欠で、どれが欠けても成立しない。そういった意味で、ジェームズ・ブレイクは"不完全な音楽"を鳴らしてきたと言える。

 いま思えば、『James Blake』のジャケはかなり示唆的だ。あのぶれた顔は、「あなたがいなければ完成しない」というメッセージだったのかもしれない。「あそこに写っているのは、聴き手であるあなただ」と。

(近藤真弥)