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Jean Pierre Magnet Y Serenata De Los Andes.jpg  柳田国男のフォークロア(民俗学的観点)とは、文学や哲学のそれとは無縁の、ルポルタージュの路を進むところに意味があった訳であり、そこでフォーカスを当てるのはフラットに日々をおくる一生活者の体験から演繹された着想だった。そして、彼は「ハレとケ」という言葉を見出したが、「ハレ」とは簡単に言えば、祭祀、行事、非日常的な躍動に係ること、「ケ」はそのまま普段の生活を指す。「ハレ」の場でこそ、普段の生活者たちの日常にふと挟み込まれる儀式、祭祀によって、人は社会、共同体内で規律化している欲望を解放することが出来る。

  このたび、06年のファースト・アルバムにボーナス・トラックとして「Jinetes Del Ande(アンデスのカウボーイ)」の1曲を加え、再リリースされることになったジョアン・ピエール・マグネト・イ・セレナータ・デ・ロス・アンデスのセルフタイトル作『Jean Pierre Magnet Y Serenata De Los Andes』。この作品が何よりも興味深かったのは、トラディショナルなアンデスの各地での祭りやパーティー、宴会で演奏されてきた曲を基軸において、現代的に構成され直している点だろうか。アンデスの音楽文化は、やはり戦争の歴史と切っても離すことが出来ないが、スペインからの侵略を受ける前のアンデスの本来的な文化と西洋文化が入り込んでからの折衷により拡がりを増した、その折衷の最良点を探しあてたかのようなこの作品に溢れている華やかさは、いつかの日本で、ファンファーレ・チォカリーアやタラフ・ドゥ・ハイドゥークスといったジプシー・ブラスに魅了されていた人たちにも届くものがあるとも感じる。メンバーとしては、ペルーのジャズ・シーンの中でも、大御所となったジャン・ピエール・マグネト。ギタリストのラモン・スタグナーロ、パーカッションのアレックス・アクーニャ。いずれも腕の立つアーティストばかりであり、彼らのキャリア上に行き交う名前も凄い。マグネトならば、エバ・アイジョン、スタグナ-ロはサンタナ、ルイス・ミゲル、アクーニャはエルヴィス・プレスリー、ダイアナ・ロス、ポール・マッカートニーなど数知れないビッグ・ネームとの重要な共演を果たしている。巷間的には、ペルーのアンデス音楽といえば、どうしても、サイモン・アンド・ガーファンクルの『コンドルはとんでゆく』に代表されるようなイメージ、要は、ケーナ(笛)、チャランゴ(弦楽器)、ギターの哀感を誘う印象を持っている方も多いと思うが、この楽団では、ケーナも使っていない。もっと言えば、伝統楽器のチャランゴ、ボンボ(大太鼓)なども出てこない(出てきても、そこまで大きく扱われない)。その代わりに、サックス、アルパ(ハープ)、バイオリン、ギターというコンテンポラリーな楽器がメインに置かれる。

  一曲目の「Princesita Huanca(ワンカの王女)」から、パーカッションの響きにサックスが重なり、朗らかながら洗練されたハレとしての音が撥ねる。無論、アンデス音楽の大衆音楽の中心を占めるワイノという一拍子の舞曲の影も確かに見える。ワイノが汲みあげてきた生活者たちの「ハレ」のための音楽、舞踏のための音楽。そこには、普通の生活をおくる老若男女が関わらず、ときに日常の柵から放たれて、自由に、明日の生活へと繋げてゆくための 姿勢、つまり、世界中のどこでも変わらない絵が浮かぶ。四曲目の10分30秒を越える「Llamas En Libertad(自由なリャマ)」も素晴らしい。ギターが軽快に爪弾かれながら、バイオリンが優雅に交わり、独特の展開を見せる。五曲目の「Susurros Del Titicaca(ティティカカ湖の囁き)」もエクアドルで用いられるパンフルート、ロンダドール(パンパイプ)の響きから、サンポーニャ(アンデス地方に伝わる笛)による合奏曲シクリアーダへと流れ込んでゆく。サックスは勿論、チャランゴ、アルパも加わり、冒頭の印象が全く変わってしまう。

  ペルーの伝統音楽への敬意を最大限に示しながら、「変奏」を行なおうとしている実験精神がどの曲にも伺えることが出来る。といっても、ただ鳴っている音そのもの、楽器同士の連なりに耳を澄ませているだけでも、非常にアヴァンギャルドなアレンジメントがときに感じられる部分があり、それも面白い。また、ペルーのアンデス音楽に決して詳しくない人でも、スッと入り込める「人懐こさ」も特徴といえ、国境や民族性を越えて、どんな人間でも、内部に本来宿っている、規制化される前の原意識に近付く。

  ライヴ映像を見る分には20人にも及ぶ編成で祝祭的に且つアッパーに演奏しているのも含め、この音は「そのままの音像」として受けとめる以上に、身体で噛み締めるものともいえる。09年のライヴ盤『En Vivo』でもそれは感じることが出来るが、作品内でのふと見える室内楽的様相と派手なパフォーマンスの距離感、そこに滲み出るアンデスの伝統、それらが組み合わされながらも、ジャケットのアートワークが示すような寓話性の高い場所へと聴き手を運んでゆく。ただし、それは、ファンタジーとしての異境の音楽ではなく、現実と地続きの中で「ハレ」のために用意された音楽でもある。

(松浦達)

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V.A「Ghettoteknitianz E.P.」.jpg  もはや"ダブステップ"という言葉は、レコード・ショップがジャンル分けする際の便宜的な用途でしか使われなくなりつつある。ダークな2ステップがダブステップの元祖とするならば、ある意味"終わった"と言えるかも知れないが、ダブステップは自らの名を捨て、現在も"ベース・ミュージック"として進化を続けている。そんなベース・ミュージックのなかでも、ジュークは比較的純度が高いというか、ゲットー・マナーが残っている。ディスクロージャーやナイトウェイヴなど、イギリスらしい洗練を施したジュークを鳴らす者もいるが、《プラネット・ミュー》などの努力によって、ゲットー臭漂うジュークもしっかり世に出回っている印象だ。

 コンピレーション・シングル「Ghettoteknitianz E.P.」は、DJラシャド、トラックスマン、DJエアル、DJマニー、ガントマン、DJスピンという人選からも分かるように、シカゴ・ゲットー・スタイルに忠実なトラックが収録されている。リリースはもちろん《プラネット・ミュー》から。ほんと、最近の《プラネット・ミュー》は次々と面白い作品をリリースしている。ジュークは突然変異の音楽であると同時に、シカゴのアンダーグラウンド・ミュージックの流れを引き継いだ正統派の血も流れている。だから、DJラシャド&DJマニー「R House」のように、古のハウス・ミュージックと接続することで、過去に対する敬意を表明しても全然不思議じゃない。ちなみにこの曲は、シカゴの《キャッチ・ア・ビート》からリリースされた、リズム・コントロール「My House」の有名なスピーチをサンプリングしている。原曲は聴いたことないけど、このスピーチが使用されている曲は聴いたことあるという人も多いはず。

 そして本作であらためて感じたのは、ジュークの高い雑食性だ。DJダイアモンド『Flight Muzik』で証明したように、ジュークも他のベース・ミュージックと同様様々な音楽を取り込む懐の深さがある。マシーンドラムなど、主にシカゴの人間ではない門外漢によって新たな解釈や洗練が成されてきたが、チープで下品な(もちろん褒め言葉だ)ダンス・トラックでありながら、アシッドやソカ、ファンクやR&Bまで匂わせる「Ghettoteknitianz E.P.」は、ジュークの今後の発展を約束してくれると共に、新たな潮流を生み出す可能性も感じさせる。

 近年のベース・ミュージックは、ポップな感性に迎合することなく発展を遂げてきた。もちろんジェームズ・ブレイクのように、アウトプットする段階でポップ化を果たすアーティストはいるが、海を渡る段階で改ざんされるようなことは少なくなったと思う。それは、ネットによって世界との距離が縮まったことが主因なのは言うまでもないが、様々な手段で現場から発信される音楽をそのまま聴ける現状を踏まえれば、"細分化"の名の元に90年代を通して行われた、くだらない水増しや骨抜きによって虐げられた音楽の復讐が始まっているように思える。そして、このことを繰り返し主張する急先鋒はベース・ミュージックである、というのは考え過ぎだろうか?

(近藤真弥)

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Mama!milk『Nude』.jpg  鑑みるに、故・ピエール・シェフェールが考えあげた思考の"外部"に音楽があり、システム系を解体しようとする試みの歴史とは如何せん、傍流だったのかもしれない。RECから再生へ至る過程内に潜む音楽そのものの鳴りだけではない可能性を模索していた中で、彼は「12音の現代音楽に辟易していた。」と晩年のインタビューで語っていたように、前衛・革新性とは今は単純な、語られるべき言葉に過ぎないのか、近年、クラシカルな記号化をなぞる音楽の一つの流れが「決められた、偶発」に巻き戻されてしまうのは何故なのか、考えることがある。

  そこで、この10年代で再び、ポップに音楽として「語る」ためにはRECから再生の中にこそ含まれる体温や気配が大事になってくるような気もしてくる。だからこそ、自覚的になっているアーティストたちは、勇猛果敢にヴァン・ダイク・パークス『ソング・サイクル』のような循環構造の中で、出来る限り外とのジョイント、拓けようという実験を試み、ライヴ・パフォーマンスの場所もときにカテドラルやテンプルを選ぶというのも複合的な意味での正しさを含んでくる。つまり、新しさを求めるために、共通言語内で語られていた現代音楽を何らかの既存のジャーナリズムや歴史文脈を通じて、「翻訳」される時代は終わったとしたのならば、無限に検索すれば溢れ出る情報の波から音楽を逆説的に自己内感性でシステマティックに区切ってしまうことにもなる。しかし、そのジレンマが良い、と言えるだけの余裕があるほど、「"私"の音」に対して聴き手は自覚的になっていられるのか、疑問にも思えてもしまう。匿名署名であるほど、その音は自明になってくる余地があるからだ。

  キャリアも長くなり、個人活動も盛んな京都を拠点とするMama!milkの7枚目となる新しいアルバム『Nude』は、その意味ではRECから再生の間に含まれる、アルバムタイトル通りの"裸"の火照りを感じさせる内容になった。元・デタミネーションズのトロンボーン奏者の市原大資氏、リトル・クリーチャーズのドラマー栗原務氏を加えたクァルテット・スタイルでの東京のLIFTというギャラリーにおけるライヴ録音盤。選曲としても、旧作から、新曲、ふと挟まれるバッハの曲を含め、彼らの現在進行形の姿と総括的な意志を見せたものになっている。穏やかながらも、凛とした佇まいを保つ彼らの音楽は時折、ミシェル・ルグランやアストル・ピアソラ、エンニオ・モリコーネのサウンドトラックの一部に見受けられるようなジェントルな馨りを纏いながらも、昨今、隆盛するポスト・クラシカルと呼ばれる音楽との共振を感じさせる。

  但し、この作品では、どちらかというと、ポスト・クラシカルといったカテゴリー内でのアーティストの音がどうにも匿名的に、尚且つ、署名が見えない音になってしまう傾向が多いのと比して、Mama!milkの試行の歴史が重ねられた結実としての確かな「"私"の音」が聴こえる。全体を通じて、艶めかしく各楽器が絡み合ってゆくアンサンブルには例えば、優雅な野蛮と呼べるものを感じることもできるし、表題曲「Nude」を軸にした変奏曲群、「Nude Var.1」、「Nude Var.2」、「Nude Var.3」では特に性急でジャジーなグルーヴがあり、「an ode in march」にはホープフルな音の連なりが耀き、「the moon on the mist」での寄せては返すような音の漣も美しい。加え、ライヴ録音という性格からか、確かな息遣いとともに、現場でのインスピレーションに依拠した機転も伺え、彼らがインタビューで触れていた「生々しさ」、「刹那の瞬発力」という言葉も納得できる、ふと既存のレールを外れるときに帯びる危うさにこそ、魅力がある作品ともいえる。彼らの音楽はときに架空映画のサウンドトラック、環境音楽的でディーセントなものとしての捉えられている部分もあるが、清水恒輔氏のコントラバスのディープな響き、生駒祐子女史のアコーディオンの伸びやかな奏でには、最初から翻訳され得ない現代音楽の体系を抜け出るものがある。そこを抜け出た「会場」にはライヴ・ハウスだけではなく、過去に彼らが実演の場として巡ってきた客船、旧き劇場、寺院、美術館、喫茶店など、普通に生活を紡ぐあらゆる人たちの息吹が集う場所が浮かんで見える。ノマドにフレキシブルに自分たちの音楽スタイルを堅守してきた彼らがこういった形で続き、しっかり3.11以降の中での音楽の響きを再確認するように、このような音をパッケージングしたという姿勢には喝采をおくりたい。

(松浦達)

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The Field.jpg  前作『Yesterday And Today』は、賛否が分かれる作品だった。優しさが込められた硬質なリズム、魅惑的なヴォイス・サンプル、アンビエントやシューゲイザーが散りばめられた美しくも儚いテクノ、これらの要素が生み出す唯一無二なトランス感を携えたファースト・アルバム『From Here We Go Sublime』に比べると、多くの人にとって重要作と呼べるものではなかった。その原因として挙げられるのは、中途半端なクラウト・ロックを取り入れたことによる、トランス感や恍惚的なグルーヴの後退だろう。新たな創作に向かうチャレンジ精神が先走り、聴き手に対する配慮も欠けていた。駄作とは言わないが、自らの音楽に没頭するあまり、内省的でハッキリとしない宙ぶらりんな作品になってしまったのは否めない。しかし、本当の才人は過去も改変できるようだ。

 ザ・フィールドことアクセル・ウィルナーによるサード・アルバム『Looping State Of Mind』は、前作で果たせなかったことを見事に達成している。前作に引き続きクラウト・ロックを取り入れているが、きめ細やかなニュアンスとヒプノティックな要素を混ぜることで、独特な雰囲気を醸し出している。この雰囲気はチルウェイヴに通じるものだが、一番印象に残るのはやはり、以前同様ループだ。本作でループが担っている役割は、ウィルナーが音楽を通してリスナーに近づくための手助けだ。彼の頭の中にある考えと聴き手を取り持つ、謂わば仲介者として機能している。このループは面白いことに、リカルド・ヴィロラボス「Fizheuer Zieheuer」ほどではないにせよ、それぞれのループは起伏が乏しいノイズに近いものとなっている。しかし、複数のループが合わさり"曲"になった途端、散文的なそれらは、感情豊かな一体感を生み出している。『Looping State Of Mind』でウィルナーは、音と音の繋がりによってグルーヴを生み出し、それを感覚的にリスナーへ届けることに成功している。この成功は同時に、前作の意図を紐解く鍵として機能し、『Yesterday And Today』を"クールな失敗作"へと変貌させている。

 そしてなにより、本作でウィルナーが開花させた知性を称賛すべきだろう。『Yesterday And Today』でも、音楽的教養という"筋力"は窺えたが、その"筋力"にウィルナーの人格は宿っていなかったし、曲に対する理解も聴き手に依存しすぎていて、頭でっかちなものだった。だが本作でのウィルナーはインスピレーションに忠実で、説明しすぎていない。自らの創作に妥協せず、より多くの人に届けるためのアイディアがいくつも存在する。

 知識を駆使した『Yesterday And Today』も悪くないが、孤立したその知識は、共有されにくいものだった。しかし、『Looping State Of Mind』に孤立は存在しない。孤立した知識を分かりやすく伝えるという真っ当な知性が、本作を名盤の域に押し上げている。

(近藤真弥)


※国内盤は10月19日リリース予定。

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CYHSY.jpg  クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーが帰ってきた。まずは、お約束どおりに手を叩いて「ヤ~!」と言った人は手を挙げて! もちろん、僕もそのひとり。前作『Some Loud Thunder』から約4年。その間にメイン・ソングライターであるアレック・オンスワース(Vo/G)のソロ名義『Mo Beauty』や別プロジェクトであるフラッシー・パイソンのデビュー作もあったから、"シーンから姿を消した"という感じでもなかったけれど、ちょっと心配だった。ロビー・ガーティン(G/Key)とタイラー・サージェント(B)のアンインハビタブル・マンションズのアルバム・リリースもあったし。もうバンドとしてのモチベーションはなくなってしまったのかな? そんなふうに感じていたのは、僕だけではないはず。だから、こうやって無事に新作がリリースされたことが素直に嬉しい。

 彼らの登場でいっそう大きな注目を集めることになったブルックリン・シーンも、今ではあの頃と様子が違っている。ヴァンパイア・ウィークエンドは2nd『Contra』で、トーキング・ヘッズもなし得なかった全米ヒット・チャートのNo.1に輝いた。MGMTはポスト・パンク/ニュー・ウェーヴへの憧憬と造詣の深さを感じさせる2nd『Congratulations』をリリースして賛否両論を浴びた。アニマル・コレクティヴからはパンダ・ベアというアニマルがすくすく育っているし、TV・オン・ザ・レディオは(ベーシストのジェラード・スミスを癌で失うというとても悲しい出来事はあったけれど、)バンドとしても、デイヴ・シーテックのプロデュース・ワークも評価が高まるばかりだ。ブルックリンを拠点としていたバンドたちは、時間枠の制限を持つひとつの場面(シーン)から、ロック/ポップ・ミュージックを鮮やかに彩る大きな流れへと成長している。それは必然だ。

 クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーというバンド名が縮まったりしなくて、本当に良かった! ブランクがあったり、メンバーが変わったり、訴えられたりするとバンド名が変わることがたまにある。長いバンド名の場合は短縮されることが多い。ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンが単なるブルース・エクスプロージョンに変更して、結局もとに戻ったり。カルトの場合は、サザン・デス・カルト→デス・カルト→カルトだったはず。サザンにならなくて良かったな、とか。ブラザーがビバ・ブラザーになったのは勢いが増したから良いけれど、バンド名の変更は迷いを感じさせることがほとんど。クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーという長ったらしい名前のまま、お帰りなさい! 『Hysterical』のクオリティと変わらぬ彼らの本質に敬意を表して、(以下CYHSY)とか略すのもやめよう。迷いのないサウンドが高らかに鳴っている。

 『Hysterical』のプロデュースはモデスト・マウスやザ・ウォークメン、エクスプロージョンズ・イン・ザ・スカイ(!)を手掛けてきたジョン・コングルトン(John Congleton)。彼自身も《Kill Rock Stars》からアルバムをリリースしているペイパー・チェイスというバンドのメンバーだ。今後、さらに要チェックの才能だと思う。アルバムはクリアなトーンのギターとストリングス調のシンセがキラキラと輝きながら混ざり合う「Same Mistake」で幕を開ける。ドラムとベースはタイトさを増し、アレックのヴォーカルはいつになく力強い。《開かれた道で 僕たちは同じ失敗をする》というコーラスも開き直りではなく、覚悟と確信を感じさせる。

 《狂ったように 幸運を求める声 弱さを克服して 僕たちはとにかく成長しなくちゃ》(「Hystrical」)

 2曲目のタイトル・ソング「Hysterical」ではシニカルさは微塵もなく、そう宣言される。そして1曲目の「Same Mistake」と呼応するように《僕は同じ失敗を繰り返してみたい》とさえ歌われている。シンセを前面に配置しながらも、メロディー・ラインがよりくっきりと描かれたサウンド・デザイン。歪んだギターがうなり、フロア・タムが野太いビートを叩き出す。ダイレクトな言葉とサウンドが「狂騒的」に鳴り響く。

 ニュー・ウェーヴっぽい「Maniac」、壮大なアウトロが最高にカッコいい「Into Your Alien Arms」、ドラムレスで子供の頃の記憶を歌うアコースティック・ソング「In A Motel」など、前半だけも聞き所が満載だ。ちょっと一息、アルバム・ジャケットを見てみると・。レディオヘッドの『OK Computer』を思わせる白を基調にしたイメージと滲んだ色彩のコラージュ。白が「根源」を連想させるものであるとすれば、色のあるもの/形のあるものは、"そこへ向かうのか?"それとも"そこから生まれたのか?"という想像がふくらむ。『Hysterical』は後者かもしれない。そう思えるフレッシュな感覚が心地良い。

 後半もまったくテンションが下がることはない。ポップなギター・リフとシンセが宙を舞う「Yesterday, Never」、ミドル・テンポで雄大なメロディの「Siesta (For Snake)」、多重コーラスとドラム・ロールで盛り上がる「The Witness' Dull Surprise」など、ライヴ映えしそうな曲が並ぶ。かつてのロー・ファイっぽさやサイケデリック・サウンドからの意識的な脱却ではないだろう。クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーが持っていた本来の「ポップさ」が今、理想的な形でアルバムに凝縮されている。

 《手を叩こう! でも、なんだか悲しい気分 手を叩こう! だからって、どうにもなるもんじゃないけど 手を叩こう! だけど、僕にはお金がない》(「Clap Your Hands」)

 デビュー・アルバムの1曲目は、自分たちのバンド名を歌い上げながらもユーモラスでシニカルだった。アレックの声質とヴォーカル・スタイルから、同じくニュー・ヨーク出身のトーキング・ヘッズ(デヴィッド・バーン)と比べられたりもした。いま、時は流れた。いくつもの音楽シーンが移り変わり、R.E.M.も約30年に渡るバンド活動を終えた。僕たちの日常はどうだろう。世界を見渡しても、日本を見つめてもシニカルではいられない。2011年、クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーは、このアルバムでその名にふさわしい傑作を作り上げた。来年1月には来日公演が決まっている。僕たちは彼らの演奏に負けないくらい手を叩かなくちゃ。そして、大きな声で「ヤー!」と叫ぼう。2011年のことは忘れないけれど、2012年が良い1年になるように。皮肉でも冗談でもなく、「狂ったように」叫ぼう。

(犬飼一郎)

 

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KUEDO『Severant』.jpg  ブリアルの登場によって影に隠れてしまったのは否めないけど、Vex'd 『De Generate』の不安定なウォブリー・サウンドは、間違いなくインパクトがあった。その攻撃的なプロダクションは、ダブステップだけではなく、様々なベース・ミュージックに影響を与えている。

 そのVex'dの片割れ、ジェイミーVex'dによるKuedoのファースト・アルバム『Severant』が、《プラネット・ミュー》からリリースされる。これがほんと面白い良盤なのだ。アルバム全編を通して、TR-808というローランドのドラムマシンを使い倒しているが、ジェイミーVex'dの持つプログラミングの才と幅広い音楽性によって、実に多彩なビートが鳴っている。アフリカ・バンバータのエレクトロを進化させたかと思えば、ジュークを取り入れた曲もあり、そこへデヴィッド・ボウイ『Low』を想起させるクールなシンセが交わることによって、独特な世界観を創り上げている。このフェティシズムと言ってもいい領域に対抗できるのは、ハードフロアのTB-303に対する忠誠心くらいではないだろうか。

 年を重ねるごとに、ダブステップは高い順応性を発揮し、インディー精神を取り込んだステイ・ポジティブなども台頭してきている。この自由な音楽性が、ダブステップをはじめとするベース・ミュージックの魅力だけど、ジェイミーVex'dはあえて制限を設けることで、本作を完成させたように思う。それは統一感をもたらす代わりに、"単調"という産物も生み出しかねないが、前述したジェイミーVex'dの幅広い音楽性と、それを独自の解釈で表現することができるアイディアと技術によって、何回聴いても飽きないスルメ・アルバムに仕上げている。力みがない風通しの良さと同時に、最先端のビート・ミュージックまで詰まった『Severant』は、リスナーに斬新な感覚をもたらすはずだ。必聴。

(近藤真弥)

 

※本作は10月17日リリース予定。

 

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Jonas Bjerre.jpg チェコの映画祭にもノミネートされたデンマーク発話題のフィルム、スカイスクレイパー(現地ではSkyskraberと書くらしい)。このサントラを手がけたのは、2007年から拠点を英国ロンドンからデンマークのコペンハーゲンに移したミュー(Mew)のフロントマン、ヨーナス・ビエールだ。初のスコアとなる今回の作品は、インストゥルメンタルと、普段シンガーとして活躍している彼の魅力的な歌声とが存分に聴ける作品となっており、日本語に翻訳されているものはないようなのでフィルムの中身はわからないが、聞くところによるとコメディ・タッチの作品になっているとのことで、バンドでもメジャー・コードの曲をたくさん書いてきただけありサウンド的にはハッピーになれる音楽を鳴らしている。また、デンマーク人ということでアルファベットにも独特の筆跡を持つヨーナスは、それを活かしてアートワークにも直筆のかわいらしい文字を自ら書いている。

 ミューとの違いはドラムやギターに頼らずに作られていること。ミューは3ピースになってからより一層個々の魅力や個性が際立ってきたように思えるが、今回はコンポーザーとしての彼、シンガーとしての彼、プロデューサーとしての彼が詰まったスコアになっていると言える。もちろん曲らしい曲だけでないのがスコアという形でのリリースの特徴ではあるけれど、ヴォーカルが入った曲の中にはミューを超えると言っても過言ではない名曲も含まれており、一つのソロ・アルバムとしても聞く価値は充分にあるはずだ。

 今年前半に見たヨーナスの印象からすると、意外にも自然な笑顔が印象的だった。それは4ピース時代のミューでは考えられないことだ。それだけ時代が変わり、彼自身も年齢を重ね、今は若い頃に比べて幸せな生活を送っているのではないか、それがおのずと音に現れてきているのではないか、そんな風に感じられる。そして何よりヴォーカルに自信が感じられるのだ。これはまだイギリスに住んでいたときに作った『And The Glass Handed Kites』には無かった要素だし、そのアルバムでベスト・デニッシュ・メイル・シンガー賞を受賞するなどの功績を残してからは徐々にシンガーとしての彼が開花していったように感じる。それから母国での生活が始まり、デンマーク国内で積極的に音楽活動を行なってきて、その結果がデンマーク映画のサントラを手がけるまでに至ったのだろう。今やコペンハーゲンを代表するビッグ・ネーム・バンドへと成長したのだ。

 アメリカにミューを観に行ったときには客席から「ジョナス、ジョナス!」とファンの声が聞こえてきたりしてなかなか理解されるのが難しかったかもしれない。しかしサイド・プロジェクトのApparatjikも評判が良く、徐々にヨーナス個人での活動が目立つようになってきているようだ。これもある意味運命なのだろう。その運命を上手く自分のものにしてしまうところは彼の不思議な能力というかアーティスト気質の成せる業なのだろう。こうして今本当に波に乗っている彼、皆が待ちわびている本家ミューの新作については「2012年までには作りたい」と米インタヴューで語っていた。これまで自身の暗い一面を出してきたミューの作品だけに、果たしてそこから完全に解放されたのか、或いはまだハッピーな曲を作る(歌う)ことに葛藤があるのか、それはまだわからないが、少なくとも少し寂しげながら心温まるチューンをこのスコアで鳴らしてくれていることは間違いなく、それがバンドにどう影響するのか或いは全く影響はないのか、そこら辺の動向も非常に楽しみにさせてくれる。どう転んでも美しい彼の楽曲は果たしてこれから何処へ向かっていくのだろうか?

(吉川裕里子)


 

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菊地成孔DCPRG.jpg  まず、彼の7月27日の日記「impulse! との契約に際して」から引用させて頂く。

「(筆者注釈:6月6日の)リキッドのライブ盤が世界に出る事に成る。なのでオレはまず、久しぶりでリキッドのマルチを一通り全部聞き(今までのライブ配信は、ミックスにすら立ち会わず、無編集だった)、それから膨大な時間をかけて、トラック別に全部聴きなおした。その結果、リキッドのライブが、ライブ会場での盛り上がりとは裏腹に、結構ダメな演奏である事が解り、悲しむというより、青くなった。これはマズい。これはインターナショナルデビュー盤というより、マイルスのダメなときのブートというに相応しい。(中略)編集は困難を極め、何とか使える所だけを繋き...」
 
  以前、クッキーシーンにて、「デート・コース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデン、三年振りの活動再開に寄せて」 という記事を書かせてもらったので興味がある方は、それを読んで欲しいと思うが、新生DCPRG(※以下、デート・コース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデンはDCPRGと記す。)は、少しずつギアを上げてゆくようにライヴ活動やライヴ音源の配信をしながら、遂には(今でこそだが)ジャズの名門中の名門であるレーベルの《インパルス》と契約を結び、初マテリアルとしてこの2枚組のライヴ盤をリリースすることになった。

  菊地成孔という00年代を饒舌に且つ周到に本質と意味を避けながら、ドーナツの真ん中だけを食べるように、ドライヴしたイコンを語る為には長い文脈を要する(また、本人が一番、多く語っているのもある)。アメリカの小説家のトム・ウルフの言葉を借りるならば、「自己という概念-自分自身に規律を課しつつも、喜びを先送りし、性欲を抑え、攻撃や犯罪行為を思い留まるという自己-学習、練習、慎み、大きな障害に対峙しても諦めない拘り」に対して、ブートストラップでフックアップして、賢さと根性を通じた「成功」という古びた概念は次第に薄れつつある、という意味では、彼は成功者であり、敗者として在る。執筆家としての過剰なまでのテクスト量、ジャズメンとしてのスキゾな捩れ、そして、アカデミック分野への参入、映画、プロレス、ファッション、グルメなどの領域についても踏み込み、もはや、見護る周囲が彼を通じて視えたその先の景色とは、「自己という古びた概念」及び「ベタな成功の道筋への概念」を焼却したものだったとしたら、00年代という時代のサブ(カウンター)・カルチャー(死語に近いが)とはマクロな意味で、あったのか、なかったのか、という話に帰結するが、神話解体の意味で言えば、まだ幸せな時代だったのだとは思う。何故ならば、9.11以降の流れを汲みながら、一気にSNSや高度ネットワーク化が進み、仮想内としても繋がることは出来るようになり、日本では「失われた10年」が、更に10年積み上げられたのにも関わらず、まだ時間差で牧歌的に小文字の詐術性にもメタに乗ることが出来ていたという意味でも。「本質」を抉ることよりも、視角の新しさ、それがあれば、日常を愉しくやり過ごせるのではないか、そういう意味では、菊地氏のコンセプト立てと導線引きは巧妙であったし、そこへの過剰なまでのテクストと文脈の敷き方、招待状、レスポンスはもしかしたら、「もっと世界は広いのではないか?」という錯覚的な陶酔を各々の心理内に埋め込んだ。そして、10年代、言わずもがな、「見えない戦時下」に入り、DCPRGは再起動をし始めることになり、菊地氏は宇多田ヒカルのプロデュース、ホット・ハウス、K-POPのマッシュアップなどハイブロウとポップ・カルチャーへの域内の滞在時間が多くなり、ポピュラリティの母数が更に膨らんだのと同時に、厳しい周囲の審美眼の中で、00年代には少ない数は居ただろう「敢えて―」ではなく、「ベタ」にアディクトしてみてもいいかもしれない、という新規参入者も増えているとも感じる。彼には、「物語」は無いが、アラン・ギバードの言葉でいえば、「心理エンジニア」としての役割は巧みだ。そのエンジニアリングで、微調整された制御された行動や欲望が解放へ繋がる気分になる、という、その「気分」が大事なのだろうか。蒸発、気化するものだとしても。ポスト・フォーディズムの効率化が極まった中での、彼の非効率的なエネルギー機関としての意味は大きいとは思う。ただ、10年代は、00年代と違い、明らかにパラダイムは変わっていくことだろうし、既に変わっている兆候があるのも事実だ。

"The New Wave Of Jazz Is On Impulse!"というのが元来のスローガンの《インパルス》の60年代を想い返してみると、いずれはCTIのオーナーとして成功を為すクリード・テーラーが立ち上げたという奇妙な脈絡を汲まずとも、フリーキーでアシッドだった。テーラーはすぐに抜け、後を継いだボブ・シールとジョン・コルトレーンの蜜月の季節。その熱気を受けながら、民族音楽の要素が混じったり、スウィング・ジャズ、型式よりも実験性にシフトを置いた動きのカオスは、その後は、数多のレーベルそのものの困難の歴史(※現在は、ユニヴァーサル傘下の《ヴァ―ヴ》の一部)がありながらも、現代にはまた、過去のカタログの再販のみならず、ヨーロピアン・クラブ・ジャズの旗手のニコラ・コンテも属することになるなど、違ったうねりも生まれてきている。

  そこで、《インパルス》とDCPRGのタッグで、グローバル・リリースされるこの『Alter War In Tokyo』だが、冒頭の日記にて菊地氏自身が言及している通り、かなり後でのエディット、編集作業に気を揉んだであろう内容になっており、ライヴの演奏そのもののパッショネイトな部分よりも、その編集面での巧みさとコンパクトさがDCPRGの特異性に対しての再像化を結び合わせている。それぞれの違うリズム・パターンとBPM、拍数の同時進行といったエレクトリック・マイルス時期の音をビッグ・バンド形式として、現代に蘇生させるという試みよりは、テオ・マセロ的なハサミの入れ方に意識を向けるべきだろう。この日のライヴでは、アート・リンゼイがゲストとして参加していたが、そのリンゼイのギターが特に突出はしない形で、DCPRG全体が放つライヴの場所でこそ放つカオティックな音の熱を瞬間パッケージングとしたというよりは、「加工・精製」に苦労した印象がやはり強い。

  初期を通じて、DCPRGの名刺代わりの曲であった「Catch22」のあのポリリズミックに雪崩れるようにバラバラに各楽器が鳴りながらも、昂揚してゆくグルーヴもこのライヴ盤越しには伝わり辛い(それを感じたい人は、メンバー構成は違うものの、03年のライヴ盤の『Musical From Chaos』のディスク1を聴くと良いかもしれない。)。第二期DCPRGのユーフォリックな「Structure I La Structure De La Magie Moderne / 構造 I(現代呪術の構造)」も箱庭感がある。2枚目のラストの「Mirror Balls」の大団円に収斂する感じは美しいと思う。

 菊地成孔DCPRG(契約上だろうが、今はこういう名称になっている。)としての大きなスタートのフィジカル音源としては、正直、厳しいものはある。ただ、この後に控えるオリジナル・スタジオ録音盤には期待はしたい。昨年の京都のボロ・フェスタで「体感」した、彼らの音は十二分に強度を持っていただけに、ポテンシャルが確かな音源としてパッケージングされるのを望んでいるのもあり、イコンとしての菊地成孔はもう「過ぎた」かもしれないとしても、DCPRGという組織体の音は今、必要だと思う。

(松浦達)

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MADEGG「Crawl EP」.jpg  以前クッキーシーンでもレビューした、マッドエッグの最新EP。やっぱり彼は、本当に才能があると思います。「Crawl EP」も、エレクトロニック・ミュージックの可能性を広げるような、非常に面白い作品となっている。

 R&B風のプロダクションが印象的な「Crawl」。それぞれ孤立した音がひとつの輪になっていく「Fallen Color」。自分の懐かしい思い出が蘇るような温もりを感じさせる「Filmatra」。実験精神溢れるアンビエントを基本としながら、それぞれ違う視点から音作りをしていることがわかる。

 特に「Crawl」は、今後のマッドエッグの方向性のヒントになる曲だと思う。スモーキーな雰囲気漂う、セクシーなブラック・ミュージックに仕上がっているこの曲を聴いたとき、「ヴォーカルを招いて歌わせても素晴らしい曲になりそうだ」と思った。プロデューサーとしての客観性も窺えるから、全曲ヴォーカルをフィーチャーしたアルバムを作ってほしいのだけど...いかがでしょうか?

 (近藤真弥) 

 

※本作はマッドエッグのバンドキャンプからダウンロードできる。

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R-WAY JUNCTION.jpg  アンダーグラウンド・ミュージックの多くは、ブレイクという形で大勢の目に触れた後、リスナーに消費されていく過程でアンダーグラウンドに戻るというのがパターンとしてある。しかし、多くの人に名が知られた現在においても、ダブステップは高い匿名性を保っているように見える。その結果としてイメージや現象が先行しているように感じるが、本来日本の悪い面であるこの先行は、ダブステップ生誕の地であるイギリスでも同様ではないだろうか? 例えば、マグネティックマン『Magnetic Man』や、スクリーム『Outside The Box』をキッカケとしたブレイクスルーも、ダブステップと呼ばれる以前のダークな2ステップの頃から触れている者以外の人たちからすれば、突然現れたように映ったかもしれない。だとすれば、ブリアルなどのメランコリーなダブステップはさらなる解釈と再評価の余地を残していると言えるし、もっと言えば、ジェームズ・ブレイクが存在感を強めているのも、メランコリーなダブステップに対する新たな解釈や再評価の文脈上で成り立っているということだ。もちろんこの解釈や再評価の中心となっているのは、「ダークな2ステップの頃から触れている者以外の人たち」なのは言うまでもない。そして、この"捻じれ"と呼べるものがダブステップの順応性と相まって、我々の理解や消化を待つ前にダブステップは"ベース・ミュージック"となり、もしくは応急処置的に、"ポスト・ダブステップ"と呼ぶしかない領域に達してしまったのかもしれない。だからこそ、誕生から数年経った現在でもダブステップは変化し続けているし、良い意味で先が見えない曖昧模糊な状態となっている。

 とはいえ、日本オリジナル企画としてリリースされる『R-way Junction』によって、そんな曖昧模糊な現状も少しはハッキリしてくるかもしれない。なぜなら、イギリスのレーベル《ランプ》のコンピである本作は、近年のベース・ミュージックが辿ってきた潮流の一部が刻まれているからだ。《ランプ》はトム・ケリッジが主宰のレーベルで、フライング・ロータスジェームズ・ブレイクのリリースなどで知られている(前者はデクライム、後者はエアヘッドとのコラボレーションという形でのリリース)。カタログも多様なものになっていて、『R-way Junction』収録のアーティストだけでも、フライング・ロータスやサブトラクト、フェルティ・DLにトキモンスタなどのビート系やベース・ミュージックはもちろんのこと、マキシミリオン・ダンバーのようなハウスもある。クラッシュ誌のインタビューでトム・ケリッジは、ヴァイナルの購入に多額のお金を使うと語っているが、《プラネット・ミュー》のマイク・パラディナスなど、こういったオタク的な人たちが音楽シーンの中で影響力を持ちはじめている。それは音楽に対して寛容で、勇気があるからこそ持てるものだ。でなければ、マイク・パラディナスはジュークを積極的に紹介しなかっただろうし、トム・ケリッジは、今をときめくアーティストたちを次々とフックアップすることもなかった。この寛容さと勇気が、《ランプ》を注目すべきレーベルへと成長させ、ベース・ミュージックの中心に押し上げたのは間違いない。

 そして、『R-way Junction』に収録されている2曲の未発表作は、《ランプ》の未来を指し示すものになりそうだ。まずは、イギリスの《ザ・トリロジー・テープス》からのデビューEPも話題となった、ドロ・キャリー(Dro Carey)による「Velvet Mouth」。DJシャドウに影響を受けたという彼は、シドニー在住の18歳だ。ブリーピーなベースに、R&Bやヒップホップの影響を窺わせるプロダクションが特徴的な、疾走感溢れるサウンドを聴かせてくれる。FACTのMIXシリーズに登場するなど、今後のブレイクが期待される新鋭だ。もうひとつは、ステイ・ポジティブ(Stay+)「Fever」。ステイ・ポジティブはマンチェスター出身のデュオで、インディー精神に基づいたベース・ミュージックを鳴らすのが面白い。レイヴィーな熱狂を生み出すグルーヴに、キラキラとしたシンセのシークエンスが聴く者を高揚させるアンセムとなっている。サウンドクラウドで聴ける彼らの音源からは、幅広い音楽性を持ち合わせていることも確認できるし、来月ブリクストン・アカデミーで行われるフレンドリー・ファイアーズの公演で前座を務めるなど、注目度も右肩上がり。今のうちにチェックしておいて損はない逸材だ。

 本作を聴けば、近年のベース・ミュージックの流れを振り返ることもできるし、2011年以降の動きを予測した要素も散りばめられているのが分かる。『R-way Junction』をキッカケに、ベース・ミュージックの素晴らしき混沌に身を投じるのも有りだろう。

 (近藤真弥)

※『R-way Junction』は10月23日(日)発売予定。