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SUBMOTION ORCHESTRA.jpg  音楽的な歴史に照応しても、自然的な選択への防衛網を張るべく、自己の複製を続けて、ようやく複製の「プロセス」の最良点を見出せた、というのは科学者のダニエル・C・デネットに言われるまでもなく、認識レベルで把握できるところはあると思う。但し、そこでは、そのプロセスに向けて、多くの「回避」と「予防」によって成り立ったものであり、現実の速度内ではあまりに緩やかな流れなので、想像力の中で「速めていく」ことになる点も大事だろう。では、その「想像力内で速められた」複製物へ寄生していくことで、本質を喰い尽くす、そういうことも起こり得るのではないか、とさえ気付く。設計図は描かれていたとしても、複製物が産出されたとしても、「寄生」により、偶然にも発明に近い何かを巡るとしたら、今現在において、確実に、ダブステップ以降の潮流が来ているというのも強ち、眉唾の話ではない気がする。その多くは、パスティーシュと「本流のダブステップ」(アンビヴァレントな言葉だが)への寄生に拠っているとしても。

  スクリームやマグネティック・マンなどの台頭もあり、一気にポップ・フィールドへと地表化したレベル・ミュージックの形態が今度は「ポスト-」の名を纏い、アンダーグラウンド/ソフィスティケイティッドの分岐路にある、といえるだろうか。よりディープに籠ってゆく形での鳴りを目指す者も居れば、志としては、生演奏とDJのマッシュアップにより拓かれてゆくスティルを選ぶ者。

  そこで、後者では、今、UKのリーズの7人組バンド、サブモーション・オーケストラが注目に値するかもしれない。

  主軸を担うのは、ラックスピン名義でDJ活動とプロデュース業も活発に行なうドン・ハワード(Don Howard)。彼の紡ぎあげる音はディープなテック・ダブステップ的センスを含みながら、分かり易いフロア・コンシャスなものが多い。例えば、今年にリリースされたシングル「Shikra/Blessings(Featuring J.Sparrow)」のように。その彼と、リーズ大学でジャズを学び、ジェントルマンズ・ダブ・クラブ(Gentleman's Dub Club)のドラマーのトミー・エヴァンス(Tommy Evans)の二人が中心になり、09年に結成された。他のメンバーはパーカッションのダニー・テンプルマン(Danny Templeman)、ベースのクリス・ハーグリーブス(Chris Hargreaves)、紅一点で女声ボーカルを請け負うルビー・ウッド(Ruby Wood)、キーボードのタズ・モディ(Taz Modi)、トランペットのサイモン・ベドー(Simon Beddoe)である。そもそも、バンドが成り立った経緯が面白い。ドン・ハワードがUKのアート・カウンシルから「北ヨーロッパでも最大の教会であるヨーク・ミンスターで、生演奏でダブステップを演奏してくれないか?」という打診を受け、そこから始まっている、というものだ。元々、チャーチ・ソングの懐が深いUKらしい思い切った企画だが、そこで行なったパフォーマンスは、様々な層から喝采を受けた。

  このバンドの音は、ダブステップの通奏低音は保ちながらも、とても懐かしい音が聴こえてくる。それは、インコグニートやロンドン・エレクトリシティー等が持っていたようなアシッド・ジャズ的なエッセンス、作品のイメージでは、4ヒーロー『Creating Patterns』、ジャガ・ジャジスト『What We Must』のような麗しくも人肌のあるファットなサウンド・テクスチュアを彷彿とさせながら、ルビー・ウッドの女声ボーカルの伸びやかさもあり、ソウル・ミュージックとしての間口の広さも持つ。そして、硬質なビート・メイクが為され、そこに絡んでくる各楽器もどちらかというそのバンド名に入っている"オーケストラ"と比して、非常にストイックで「引き算の美学」で成り立っているものの、その引き算が良い形ではなく、ポピュラリティと引き換えのBGMとして聴き流されかねない薄さも目立つのは否めないところと言える。

 満を持してのファースト・アルバム『Finest Hour』に関しても、リード・シングルの「All Yours」の時点で、既にラウンジ・ミュージックのような大人の馨りを持っていたが、全体を見渡しても、非常にムーディーな色香が全面に出ている。但し、そのムーディーさは、ラウンジ・ミュージック、イージー・リスニングとして回収される手前で、もっと聴き手側をダウナーな場所へと導き、適度にソリッドなビートとファットなベース、ダヴィーな音響処理によって、安易な聴き流しを「拒む」。そこに、キーボードやパーカッション、トランペットが絶妙に絡み合い、ときにストリングスも持ち込まれ、音楽的語彙としての表層性やノスタルジーも孕みながらも、それでも、何らかの先の音を見越そうとしている模索も伺える。例えば、「Back Chat」には、スタンダードなダブステップの雰囲気もあり、「Always」にはシンプルなミニマル・ビートに乗るフラットなクラブ対応の響き、「Suffer Not」のビョークには及ばないにしても、それに近い凛とした翳りを見ることも出来るように、過去の音楽遺産を現在地点に再構築しながらも、まだ漠然とした手触りもあるところも少なくない。個人的には、これから、彼らが化けてくるか、化けないかではなく、このダブステップへの「寄生」は果たして複製の「プロセス」を越えてくる景色を描ける可能性もあるのではないか、という想いがある。その可能性に賭けてみるのも良い気がする。

(松浦達)

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RUSTIE.jpg  ラスティーのファースト・アルバム『Glass Swords』はマジで最高! 音を鳴らす喜びに満ち溢れた初期衝動、"ジャンル"を嘲笑うかのように様々な音楽を行き来するフットワークの軽さ。デトロイト・テクノ、グライム、16ビット、はたまたファンクにプログレッシヴ・ロックまで、ラスティーの豊かな音楽性が遺憾なく発揮された傑作と断言していいだろう。

 2007年に発表された「Jagz The Smack EP」も、現在のベース・ミュージックの雛型となる曲が詰まった予言的な作品だったが、そんな「Jagz The Smack EP」ですら"クラシック"に追いやってしまうほどの未来を、『Glass Swords』は描いてしまった。恍惚的なシンセとギター・サウンドが高らかに舞う「Glass Swords」。レーシングゲームのサウンドトラックに収録されていそうな「Flash Back」。地球を揺るがす破壊的なビートが刻まれる「Surph」。そして、オールド・スクール・レイヴなシンセがキラキラと輝く「Hover Traps」。ここまでは疾走感溢れるトラックが並んでいるが、ヒップホップ色が強い「City Star」以降は、「Death Mountain」のようなヘヴィ・トラック、どこまでもハイになれる「Ice Tunnels」など、あらゆる方向からリスナーの心と耳を楽しませてくれる。アルバム前半は統一感を保ち、一定のグルーヴを維持しているが、中盤以降の縦横無尽に駆け回る奔放な姿がラスティーの本質だろう。

 ラスティーは、ハドソン・モホークと同じグラスゴーのエレクトロニック・シーンから出てきた逸材で、文字通り時代を象徴する存在と言っていい。ほぼすべての音楽は手に届く範囲にあり、それゆえ過剰にならざるをえない現代に生きる同時代性の塊。それがラスティーだ。

(近藤真弥)

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ROMAN FLUGEL.jpg「Rocker」のヒットでも知られるオルター・イーゴでの活動や、リカルド・ヴィラロボスとのRiromなど様々な名義を使い分け、長年に渡りドイツのテクノ・シーンで活躍してきたローマン・フリューゲル。そして、これらのプロジェクトで実践してきたアイディアや手法の集大成として生まれたのが、本人名義では初のフルアルバムとなる『Fatty Folders』だ。

 先行シングルとしてリリースされた、優雅なハウス・トラック「How To Spread Lies」をはじめ、トロピカルな電子音が特徴的な「Bahia Blues Bootcamp」。多彩なシンセのレイヤーが、壮大なコズミックを創り上げる「Krautus」。さらには、ジャジーなリズムと絡み合うピアノが心地良い「Song With Blue」といった曲までもが存在する。これらが収録された本作を支配しているのは、人工的な構築美であり、その構築物に感情を宿し、肉感的なグルーヴを得ようとするローマン・フリューゲルの姿だ。この"肉感的なグルーヴ"を得るにあたって、シカゴ・ハウス的な構造を取り入れたりもしているが、この試みは成功したと言っていいだろう。終始ストイックかつマッドな欲情が見え隠れするし、何より、心の揺らぎなどによって変化する精神状態を音で描写するという難題も達成している。

 非常にシンプルで派手なアルバムとは言えない本作だが、精密なサウンド・プロダクションと精巧なトラック群によって、美術館に展示されていてもおかしくない荘厳かつ凛とした雰囲気を発している。そんな『Fatty Folders』は、聴くたびにリスナーの想像力を喚起する、音楽という名の絵画の域に達した素晴らしいアルバムだと言えよう。

(近藤真弥)

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A WINGED VICTORY FOR THE SULLEN.jpg  2011年の上半期はダスティン・オー・ハロラン(Dustin O'Halloran)の『Piano Solos Vol.1 And 2』というアルバムを愛聴していた。それは、過去リリースされた彼の作品の内、入手困難な2004年と2006年のピアノ作品集を二枚組にして再発したアルバムであったのだが、これが今年の(正確には今年ではないが、アルバム二枚の間における不思議な統一性は特筆すべき)私的なベスト・アルバムになるのだろうと、漫然とタカを括っていた。しかしながら九月に至り、思わず唸らざるを得ないアルバムが再びリリースされてしまった。それがア・ウィングド・ヴィクトリー・フォー・ザ・サレンというプロジェクトのファーストだ。ドローン・アンビエントの雄であるスターズ・オブ・ザ・リッド(Stars Of The Lid)のAdam Wiltzieが立ちあげたユニットであるのだが、蓋を開けると悔しいかな、彼の新たな活動を共にするのはダスティン・オー・ハロランなのである。記事の多くは、このプロジェクトを通過した先にあるスターズ・オブ・ザ・リッドの新作に想いを馳せているが、ダスティン・オー・ハロランだって何も劣ることはない。

 敬虔なアルバムである。チルアウトという一言で片付けることを拒む、宗教的な荘厳さと神秘的な美しさを秘めている。スターズ・オブ・ザ・リッド直系の、シネマティックなドローン音は過度に持続しすぎず、生々しく余韻を残す。ストリングスやホルンなどによるオーケストレーションは輪郭がぼかされ、不鮮明でくすんだレイヤーとして滲むように響く。それらが曖昧に溶けあうことで浮かび上がる重厚なアンビエントを背景に、ダスティン・オー・ハロランのノスタルジーで色彩感の無いピアノが響く。ユニット名の通り"高遠"なピアノは、ベルリンのグリューネヴァルトという教会でレコーディングされたものであるようだ。

 アルバム内には、スパークルホースのフロントマンであったマーク・リンカスの死を追悼する曲が収録されている。鎮魂のために捧げられた曲は一曲のみであるが、その曲がアルバムの流れや統一性を損ねたり、ぎこちなさを醸し出したりすることはない。そういった敬虔さがアルバム全体に浸透している点から、このアルバムの本質を垣間見ることができる。ゲストにはピーター・ブロデリック、ニルズ・フラーム、フランチェスコ・ドナテロ(ジャルディ二・ディ・ミロ)、Hildur Gudnadottirなどが参加しており、華々しい手向けとなっている。美しいアンビエント・ミュージックの一つの理想系であると、昂然と評す価値のある作品である。

(楓屋)

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神聖かまってちゃん.jpg『つまんね』『みんな死ね』までは、自分自身を曝け出すような音楽を鳴らしていた。しかし『8月32日へ』では、4人と神聖かまってちゃんという存在の間に微妙な距離感がある。もちろんすべての曲は4人が作り上げたものだし、の子の告白的な歌詞も健在だ。それでもこの"微妙な距離感"が拭えないのは、4人の音楽に対する接し方が変化してきているからだろう。それはまるで、設定したキャラクターを通して自らの表現をアウトプットしてきた、デヴィッド・ボウイのようだ。

 デヴィッド・ボウイは根っからのロックンローラーではなく、"発信媒体としての音楽"の可能性を独自の視点で切り開いてきた、"役者"に近い存在だったと思う。そんな役者人生に『Scary Monsters』で自ら終止符を打ち、その後ボウイは、「自分とは一体何なのか?」という新たな問題に悩まされる。この苦悩は、名声を手に入れた者が抱える典型的なものだが、それは神聖かまってちゃんも同様だった。

 とはいえ、神聖かまってちゃんの悩みは、ボウイのそれとは異なる。前述したように、ボウイは自分自身について悩んだが、神聖かまってちゃんの場合は音楽そのものについて悩んでいる。「夕暮れメモライザ」「コタツから眺める世界地図」「僕は頑張るよっ」「死にたい季節」のようなピッチシフトを極端に上げ、アニメの主題歌風になっている曲はもちろんのこと、アルバム全体を通して漂う雰囲気もどこか上の空というか、曲から遠いところで4人は演奏している。それは、イメージが先行し、ソングライティングなど純粋な音楽的力量が評価されないもどかしさからくるものではないか? 以前に比べて上手くなった演奏や洗練されたプロダクションも、このもどかしさの説得力を強固なものにしている。過渡期な音楽と共に、神聖かまってちゃんという"器"に向き合う4人の姿が、『8月32日へ』には記録されている。

(近藤真弥)

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grouplove.jpg  これはノスタルジアとファンタジーについての作品集なのだろうか。海辺で裸になって駆け回るときのことを夢見るためのものなのだろうか。いや、現実はそう甘くない、そのことが彼らには身にしみて分かっている。だから現代にはびこる上辺だけのハッピー・ソングなんて信じるべきではないのだ。夢は一生叶わず、愛を見つけることもできず、一人ぼっちの孤独な人生を過ごすのかもしれないし、"ファックオフみたいな世界のファックオフみたいな部分"だけを見続けて、自分もいつかその一部にならざるを得ないのかもしれない。たとえ幸せと呼べる場所があったとしても、そこにたどり着くまでには地面を這いずりまわり、あるいは血を流す必要だってあるのかもしれない。

 ロスの5人組、グループラブの待望のファーストアルバムが海外でリリースされた。2010年の最後にリリースされた「Colors」はイギリスの音楽ファンのあいだでたちまち話題になり、彼らのライヴでは最初の「I Am A Man, Man, Man, Man Up, Up In The Air」のラインは毎回大合唱を生んだ。この歌が何について歌われているのか、正確には掴めていないと思う。現実を直視できずクスリにはしり、最後は自殺してしまった男の顛末を歌ったものなのか。もしそうだとすればコーラスの「悲しむ必要なんてない、それもぜんぜん悪くない」というリリックはかなり意味深だ。こんな現実より悪くなりようがない、という意味なのか、それとも自堕落になった自分自身に対するブラック・ユーモアか。そして最後には「これも愛のため?」というフレーズがある。ますますよく分からない。ただここには絶望的なフィーリングこそあれ、未来を感じさせる箇所はほとんどない。この曲はアルバムでは4曲目に収録されている。

 一方、すでにリリースされていた「Naked Kids」の新バージョンがこのアルバムでは6曲目に収録されている。わたしはこの曲がとくに好きなんだけど、何が良いって、終始楽園に生きようとする僕たちを見て笑っている人たちの目線まで描かれていること。「おいおい、大丈夫かよ」なんて声が聞こえてきそうだ。でもそんなのお構いなしに楽園はあるだぜ、っていう、このポジティヴなフィーリングは聴いていて素直に爽やかな気分になる。「Colors」よりはぜんぜん明るい。

 彼らはおそらくハッピーな事象に対する枯渇感を抱えていて、それを獲得しようとする手段が現実離れしたものであっても、選択するかしないかの自由は完璧に自分たちの手にあることを思いっきり叫んで主張しているんじゃないかな。そしてかつてのヒッピーたちの生活にあったピュアな感動と、じつに現代らしい感性で共鳴しているような気がする。現代らしいというのは、例えばあまりに文脈が複雑に入り組んでいて、結局曲のタイトルが「愛は君の魂を救うよ」なんていう究極にシンプルなものに回帰するということ。仲里依紗に似ている女の子のキーボディストがヴォーカルをとるこの曲はアルバムの最後から3曲目に収録されている。ちなみにこの女の子はあと1曲メインでヴォーカルを務めている。力強く、なかなかにサイケデリックな歌声だ。

 さて、このアルバムは最後の2曲がどちらもじつに素晴らしい名曲なのだ。これだけ現実逃避をして、その自分を正当化して、「残酷で美しい世界」(11曲目)に希望を見出して、最後には「目をつぶって、10カウントしてみて」(ラスト曲)である。サウンドにまったく隙間のない(コーラスがひとつも入っていない箇所を探すほうが困難である)トゥーマッチな彼らの音楽を聴いていると物悲しくて、切なくてどうしようもない。

 現代にはびこる上辺だけのハッピーソングなんて信じるべきではない。彼らの魂の叫びを心に刻め。

(長畑宏明)

 

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FOUR TET 『Fabriclive 59』(.jpg   ロンドンを拠点とする人気クラブ《Fabric》のミックスCDシリーズである『Fabriclive』。今回登場したのは、今年のフジロックでも来日を果たしているフォー・テットだ。正式なミックスCDとしては『DJ Kicks』以来実に5年振りのリリースとなる『Fabriclive 59』だが、今年リリースされた様々なミックスCDの中でも屈指のクオリティを誇っている。

『DJ Kicks』ではアニマル・コレクティヴやカーティス・メイフィールドまで登場させる非常に雑食性が高いミックスを披露しているが、『Fabriclive 59』においては2ステップとガラージが全体の多くを占めている。その結果としてフォー・テットが持つ折衷主義という才能は影を潜めているが、本作の統一感はフォー・テットの純粋なDJスキルと選曲センスをより際立たせている。特にDJスキルに関しては、トラックとトラックをシンコペーションのように繋ぎムーディーでスリリングな興奮を演出したかと思えば、前の曲をルートにして、そこへ次の曲を混ぜることでコード的な音を生み出す瞬間さえある。謂わば流麗なコード進行のように、最初から最後までフォー・テットは曲を回し続ける。

 また、『Fabriclive 59』ではミックスCDの可能性を押し広げる試みもなされている。それは《Fabric》内やその周辺をフィールド・レコーディングした音をミックスに織り交ぜるというもので、フロアにいる人々の呼吸や狂騒など"クラブでの一夜"を描写するための挑戦だと思われる。しかし斬新な感覚や新たな発見はなく、正直このアイディアは成功したとは言い難い。少なくとも、『Fabriclive 59』にとって必要不可欠なものにまでは昇華しきれていない。

 しかし、それでも本作が優れたミックスCDであることに変わりはない。まるで愛撫のような心地良いセクシーなグルーヴに身を任せる優雅で贅沢な時間は、間違いなく『Fabriclive 59』でしか体験できないものだ。そしてなにより、リカルド・ヴィラロボス「Sieso」からフォー・テット自身の楽曲「Pyramid」へと流れる瞬間に存在するユーフォリック。つまり『Fabriclive 59』には、数多くの特別な場面が詰まっているということだ。

(近藤真弥)

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Girls.jpg  ガールズにとってのファースト・アルバム『Album』は間違いなく"ロック"と呼べるものであり、何かを突き抜けるような特別な力が存在していた。サイケデリアなシューゲイズにサーフ・ポップやハードコアも織り交ぜた音。そこへ切ないメロディーと感傷的な歌詞が優しく寄り添っている。しかし同時に、希望へと向かうフレッシュな輝きに満ちたポジティビティーや意志の固さもあった。それは"永遠のクラシック"と呼ぶに相応しいものだし、これから先もそれは変わらないだろう。文字通りガールズは"ロック"だった。しかし、そんなガールズの"ロック"な姿を『Father, Son, Holy Ghost』に求めることはできない。

 前作譲りの切ないメロディーと感傷的な歌詞は健在だし、曲自体も親しみやすい佳作が多く収録されているが、アルバムを通して覆うグルーヴはたとたどしく、冗長なものになっている。それはまるで、感傷に浸る自分自身を許し、そんな自らの姿に陶酔しているようにも見えてしまう。こうした怠惰的なナルシズムに対してはどうしても苦手意識が働いてしまうし、正直好きじゃない。

 "『Album』が評価され、そのことによる多忙や度重なるツアーを踏まえての『Father, Son, Holy Ghost』"みたいな物語の上でなら本作を持ち上げることもできるだろうし、こういったものが多くの人々に共有されるべき音楽であり、時代の要請によって求められているのであればそれも致し方ない気はするが、この慰め合いに進んで参加する気にはなれない。もちろんどんなバンドでも幸福な時期というのはずっと続くわけではないし、様々な困難や挫折によって曲にもダークな感情などが流れ込むこともある。それでも、その場に留まらず前進していくことは可能なはずだ。それは例えば、ドラムスの素晴らしいセカンド・アルバムが証明している。

 ここまで書いてきたことからすれば意外かもしれないが、リスナーに"ロックとは?"と問いかける意味において、『Father, Son, Holy Ghost』は分岐点であり重要作、または今後のポップ・ミュージックを占う試金石にもなりえるアルバムだ。前述した"物語"を考慮して接するべきなのか? その時々の瞬間風速のみを捉えて考えるのか? はたまた別の何かか? 本作を手に取った人々の数だけ答えはあるだろうし、考えさせられるものが多く詰まったアルバムではある。

 そして、僕なりの答えはこの原稿という場を借りて長々と書いてきたつもりだ。そこに付け加えるとしたら、たった一言だけ。

「こんな狭っ苦しい場所で窒息したくない」

 それだけだ。

(近藤真弥)

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HANGGAI.jpg「音楽ほど情報量の多いメディアはない。」と、音楽評論家の故・中村とうよう氏は語っていた。そして、「その土地の音楽を聴けば、その地域が分かる。」とも。彼が評論のフィールドとして、ロックから離れ、辺境や世界に溢れている音楽へ対峙し出したころ、確かに埋もれていた音楽があちこちから日本に入ってくるようにもなり、エルヴィス・プレスリー、ビートルズ的な正史に対向するような、それぞれの地域が視える音楽の豊潤さに気付いた方々も多かったと察する。それによって、世界は元来、バラバラでありながらも、届く言葉は確実に含むということをサジェストした。では、それから、トフラー的な第三の波、情報量に埋め尽くされて、今とは、どうなったのだろうか。

 個人的な話だが、03年に北京に居たとき、北京電影学院という芸術系の大学に通う学生と知り合い、様々な、俗に言うパンク・バンドを教えてもらった。僕自身は「中国という場所で、ロックをやるシビアさ」は分かっていたのだが、実際に連れて行かれた地下の狭いライヴハウスでは、中国語で熱狂的にマイクに被りつく若い子たち、そして、それに喝采をあげる人たちで溢れていた。どうも、五月天(MAYDAY)辺りの大きいロック・バンドの「認定」される感じが苦手だったのもあり、厳しい規制の網を掻き分けて、それでもフィードバック・ノイズ、今ある現実へ向けての咆哮を届けることが出来るのか、そういうことを継続的に考えながらも、それからの北京は、訪れるたびに綺麗に整備され、西洋の音楽も或る程度、「垂直」に並ぶようにもなってきた。同時に、今年に入ってからは、国内での放送禁止曲の縛りが産まれたのは皆が知っているとおりで、「不穏当な音楽」は排除される方向にもある。ボブ・ディランの初の北京公演は果たして成功だったのか、僕には分からない。なにせ、その03年の北京の路地のブック・スタンドで買った音楽雑誌では、まだ「Brit Pop」特集をしており、スウェードやブラ―などの名前がそこにあったのだった。

 ハンガイ(HANGGAI)のメンバーを見て、フロントマンがどこかで知っている、と思ったら、組んだのは、Yiliqi(伊立奇)なのだ。彼といえば、北京を中心に活動していたパンク・バンド(T-9楽隊)のリーダーであり、その作品を僕も持っていた。彼のインタビューを読んでいると、出てきた、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンといったバンドへの興味、反骨精神も含めて、注目はしていたのだが、「パンク、という様式美におさまってしまう」危惧も同時に出てきたのか、元々の出身地の内モンゴル自治区の音楽に帰郷することになり、北京から内モンゴル自治区に入り、モンゴル音楽に急速に意識を傾けていってからは、どうなったのか、あまり情報が入らなくなった。

 しかし、彼が「パンク」というアティチュードから逃げたのではなく、モンゴル音楽の魅力をモダナイズして、響かせることが出来ないか、という真摯な意志に沿っていたのだ、とこの作品を聴いて、痛感した。何故ならば、このセカンド・アルバムとなる『He Who Travels Far(走的人 ※筆者注:中国語で"走"は歩く、"的"は接続詞であり、「歩く人」と訳すことが出来る。)』には、モンゴル音楽のトラディショナルな要素と、現代的な求心性を兼ね揃え、融合しているからだ。例えば、独自唱法で倍音を出しながら、主旋律とは違う音を紡ぐホーミー(喉歌)、または、馬頭琴も混じりながら、ロック的なダイナミクスを帯び、ドラムが重くリズムを刻み、ギターがしっかりと空間を引き裂き、ベースがうねり、ときにバンジョーも入ってくる。

 振り返るに、08年のファースト・アルバムであるタイトル通りの『Introduction』はモンゴル音楽をシンプルに現代に再像化するために、淡白なアレンジメント、シンプルな楽器編成で行なっていたが、そこから、やはり、元・パンク・バンドをやっていた伊立奇の「意図」もあったのだろうか、ホーミー、馬頭琴、たおやかなモンゴル音楽のエッセンスに加えて、ロックの猛々しさとスケール感、性急性を持ち込み、幅を広げている。2曲目の「Uruumdush」における絶妙なダウン・トゥ・アースなブルージーな質感にホーミー、及び、重なるコーラスの雄大さ、4曲目のベーシックな弾き語りに音が増えていく「Hairan Hairan」は、例えば、ジョー・ヘンリーやエミルー・ハリスのような深い哀感とリリシズムが漂い、10曲目「Ayrhindu」ではモンゴルの移動式テント(ゲル)内で酒盛りをしているときに似合うだろう、パーティー・ソングになっている、など、様々な「意匠」に溢れた曲が詰まっている。なお、日本盤にボーナス・トラックに収められている3曲も非常に良い。ギターとパーカッションを軸に進む、リズムが主体になった軽やかな「Brothers」、モンゴルの大草原を馬が駆け抜けてゆくように高揚していく、ジプシー・ミュージックのノマド性にも繋がるような「Beautiful Mongolian Horse」、弦が美しく音景色に奥行きを与える「Daya」。

 補足しておくと、元来、この作品はオランダのレーベルから2010年にリリースされており、世界的にも高い評価を得ていた。しかしながら、「モンゴル音楽ラロック」のイメージへのバイアスもあったのか、決してその時点で日本では多くの人たちに受け容れられたとは言えなかった。プロデューサーが先ごろに残念ながら解散表明をしたR.E.M.、そして、ニール・ヤングのプロデュースもしていた、ケン・ストリングフェロウというのもあり、その名前沿いに彼らに辿り着いた人もいると思うが、こうして、日本盤がリリースされたのをまず喜びたい。

 『He Who Travels Far』では、モンゴル音楽の「イメージ」に対して、しっかりと西洋的な音楽要素を含ませ、「深化」の過程を歩んだ試みは成功していると個人的に思うだけに、表層をなぞるエキゾチズムではなく、ここには背筋の通った凛としたグローバル化で稀釈した商業音楽へのアンチ・テーゼ(カウンターではなく。)の意味を噛み締めるのも良いかもしれない。また、伊立奇がレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン以外にも、ピンク・フロイドをフェイバリットにしていたのが如実な分かるプログレッシヴな展開が伺える曲も興味深い。

 グローバリズムが進むほどに、逆説的に「帰巣」本能に鋭敏になる世界中の人たちはルーツ探しに躍起になっているという側面もある。また、こういったカオティックな時代にはチルウェイヴ然り、現実逃避の導線付けとして音楽を求めている層も多い。それと最近は、反動なのか、シンセ・ポップでユーフォリックな音を鳴らそうとするバンドがアメリカのインディーシーンでは出てきている。プロダクションも要は、80年代のそれでしかないのだが、「現状認知」の行き詰まりをその瞬間でも解放させるための"Hi-5"を目指す。

 中国の北京のアンダーグラウンドで、パンクをやっていた伊立奇は文化とルーツの歴史の階段を昇り、モンゴルの草原に立った。草原に立っても、流れてくる風で今日の天気は分かるだろうし、無邪気に、「自然は美しい」と言えない現状もあるだろう。そこで、こういった大胆な舵取りをしたこの作品に溢れる音楽愛は国境を越えるような、逞しさと毅然さに溢れている。

 もう、ワールド・ミュージックの「ワールド」は外してもいい時期なのだろう。

 音楽は「音楽」として響く。

(松浦達)

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SO MANY TEARS.jpg  茂木欣一、加藤隆志、柏原譲。それぞれ長年に渡ってミュージシャンとしてキャリアと実績を積み重ねてきた3人によるバンド、それがSo Many Tearsだ。謂わばベテランとも呼べる人達が終結したバンドだが、『So Many Tears』に宿るその瑞々しいフレッシュな音と輝きに驚かされた。

 アルバムを通して貫かれているのは、60~70年代のブリティッシュな雰囲気。そしてイノセンスだ。前述した瑞々しさとも繋がるけど、確かな演奏技術と閃きを持つ3人が純粋に音楽を楽しみ、その結果として生まれる純度の高い情熱と熱狂が、『So Many Tears』には刻まれている。まるで新人バンドのような勢い、だらだらと冗長になることがない適度な緊張感、そして何より素晴らしいのは、鳴っている音楽がリスナーの近くに存在することだ。

 So Many Tearsは、リスナーと音楽を共有したいという強い欲求を持っていると思う。それは現在の我々に取って音楽は近くなったようで、その実、音楽に対する好奇心が薄れていると彼らが感じているからかもしれない。情報は簡単に入手でき、音楽自体も様々な方法で聴くことができるようになったが、そのことで失われたものは確実に存在する。『So Many Tears』には、その失われたものを取り戻そうする意志を感じる。

(近藤真弥)